不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ロシュフォールの恋人たち」

2009-03-25 07:18:01 | 映画の感想(ら行)

 (原題:Les Demoiselles de Rochefort)67年作品。贅沢な時間を過ごさせてもらった。「シェルブールの雨傘」の監督ジャック・ドゥミと音楽ミシェル・ルグランのコンビによるフレンチ・ミュージカルの傑作と言われている映画だが、私は本作に接したのは今回のリバイバル上映が初めてである。評判通り・・・・と言うより、それ以上の感銘を受けた。観客を楽しませるツボを熟知した、手練れのカツドウ屋としてのプライドが全編にみなぎっている。

 フランス西部にある小さな街ロシュフォールで展開される双子の姉妹とその周囲の人々が織りなす恋模様・・・・などというストーリーには深く言及する余地はない。もとよりこの手の作品に複雑なドラマツルギーを期待すべきではないのだ。すべてが明るくハッピーに、収まるところに収まればそれでヨシ。あとはお決まりの歌と踊り、本作はその娯楽性の喚起力が極限レベルである。

 往年のMGM製ミュージカルのような、名人級の力量を持った出演陣による精緻な振り付けやダンスの技巧の披露はほとんどない。ハッキリ言って“ゆるい”と思う。だが、自然光を活かした撮影と、街全体を巨大なセットとして捉えた舞台設定の絶妙さにより、まったく気にならない。それどころか、この映画の雰囲気としてはこういうゆったりとしたノリが不可欠であることが分かる。

 カトリーヌ・ドヌーヴと、急逝した彼女の実姉フランソワーズ・ドルレアック、そしてジーン・ケリーとジョージ・チャキリス、さらにジャック・ペランやダニエル・ダリュー、ミシェル・ピコリなどの華のあるスターが顔を揃える。ルグランの音楽はもちろん最高だ。非凡な映像の色彩感覚、カラフルでいながらノーブルな衣装の数々、これ以上映画に何を望むのか。まさに夢のような2時間だった。

 さて、この上映には通常のフィルムは使われていない。デジタル・リマスターされた画像をDLPで映写している。フィルム版をスクリーン上で観たことがないので比較は出来ないが、普通に鑑賞する限り何の違和感もない。もちろん、厳密に言えばフィルム映写の方が画質面で勝っているのだろう。だが、大きな劇場ではともかく本作を鑑賞したシネテリエ天神のようなミニシアターでは、その差は少ないと予想する。おそらくは予算的にもDLP映写は有利と思われ、今後は普及していくのかもしれない。

 しかし、一般家庭でもDLPプロジェクターと120インチ以上のスクリーン及びそれなりの音響装置を揃えることは(数百万円は掛かるが)可能だ。そしてブルーレイディスクならば画質はかなりの水準まで追い込める。この状況で如何にして映画館ならではのアドバンテージを獲得してゆくか、それは今後の課題だろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ジョイ・ラック・クラブ」

2009-03-24 06:34:06 | 映画の感想(さ行)
 (原題:The Joy Luck Club )93年作品。ニューヨークのチャイナ・タウンを舞台にした中国系移民の物語。を展開する。エィミー・タンのベストセラー小説を香港出身のウェイン・ワン監督が映画化したもので、ハリウッド製ムービーでは珍しいキャストはもちろんスタッフも含めたアジア人主導の作品だ。

 亡き母の友人3人と親戚たちが集まるパーティで、母の代わりに雀卓を囲む主人公ジューンの回想シーンから映画は始まる。この集まりは“ジョイ・ラック・クラブ”と勝手に呼んでいたが、その名とは裏腹な彼女たちの親娘2代にわたる激動の人生。ジューンの母親は若い頃、戦火から逃れる途中、生まれたばかりの双子の姉妹を捨ててしまう。ところがこの姉妹は生きていて、ジューンは彼女たちに会いに中国へと旅立つ、今夜はその壮行パーティなのだ。

 映画はオムニバス形式のように、彼女たちの半生(回想シーン)を綴っていく。母たちの世代は時代の波をもろに受け翻弄される。不幸な結婚をして生まれた子を手にかける母親。金持ちの家に金で買われて嫁に行き、子供同然の幼い夫と鬼のような姑に苦しめられる母親。特に強烈に印象に残ったのは、母親の一人が子供だった頃のエピソードだ。若くして未亡人になった彼女の母親は、好色な金持ちに強引に誘われて妾になる。小さな子供を抱えた彼女は亡き夫の両親からは人扱いされ、金持ちの第四夫人として他の夫人からもひどい扱いを受ける。この張藝謀監督「紅夢」を思わせるエピソードはしかし、正攻法の張りつめた演出で観る者の心を打たずにはいられない。

 一方、娘たちのエピソードはぐっと現代的だ。世代間のギャップ、そして苦労してアメリカに渡った移民一世と英語しかしゃべれない二世との微妙な確執が興味深いが、ここで描かれるのは普遍的な親子のドラマである。中でも、小さい頃“天才”と言われていた娘は歳を重ねるたびに“普通の子”になってしまったという主人公の独白には、子供なりのエゴと子に過度の期待をかける親のエゴが絶妙にあらわされている。他にも気の弱い娘が異常に計算高い夫に悩まされる話とか、白人と結婚した娘が味わうちょっとした気まずい雰囲気、などなど、人種性別を超えて広くアピールする面白さを感じさせることは確かだ。

 大河ドラマ的内容と家庭劇をうまくレイアウトした監督の力量には感心するが、何よりも登場人物を信じきっている作者のポジティヴな視点が快い感動を呼ぶ。茶系をベースにした温かい色彩(本当に透き通るように美しい映像である)と効果的な音楽。キュウ・チンやツァイ・チンをはじめとする女優たちも実に素敵。少しメロドラマが強調されることもあるが、丁寧に作られた佳篇であることは間違いない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「シェルブールの雨傘」

2009-03-23 06:23:59 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Les Parapluies de Cherbourg )64年作品。往年のミュージカル映画のデジタルリマスター版によるリヴァイヴァル上映である。実を言うと私は本作にスクリーン上で接するのは初めてだ。テレビ画面と劇場との感銘度の違いを含めて興味を持って鑑賞に臨んだ次第。

 結論から言えば、満足度はビデオの比ではない。何よりこの色彩感覚だ。ジャック・ドゥミ監督らしいカラフルな画面。単に色遣いが多様であるという次元を超えて、場面設定により精緻な配色が成されており、映画が進むごとにその巧妙さに舌を巻く。この再現性はTVディスプレイ画面では荷が重いだろう。

 そしてミシェル・ルグランの音楽。スクリーンミュージック史上に燦然と輝くキラーチューンを、ここぞというシーンで集中豪雨的に投入する見事なサウンド・デザイン。60年代の音源ながら音の粒立ちは色褪せていない。ピュア・オーディオシステムと同等のクォリティの装置を揃えれば一般家庭でも堪能できるかもしれないが、大多数のビデオ環境では無理だ。

 さて映画の内容だが、ストーリーは実にシンプル。舞台はフランス北西部の港町シェルブール。恋仲である小さな傘屋の娘と自動車修理工場で働く青年とが、アルジェリア戦争による召集令状によって数年間引き離される。容易にコンタクトが取れない境遇のため、いつの間にか疎遠になり、彼女は別の男と結婚。苦労の末に帰還した彼はそれを知って落ち込むが、やがて以前から知り合っていた若い女と所帯を持つ。要するに“万全ではない遠距離恋愛の顛末”である。

 これはアルジェリア戦争という特定のモチーフはあるものの、古今東西不変の題材だ。しかも、どちらか一方(あるいは両方)が不幸な結婚をしたというわけではないことが泣かせる。それどころか双方が理解のある相手に恵まれ、順調な生活を送っているのだ。でも、心の奥底では消しようもない未練がある。それを抱えつつも、しかし人生は続いていく。そのほろ苦き恋愛模様が観る者に切ない感動をもたらす。

 主演のカトリーヌ・ドヌーヴは最高に美しい。相手役のニーノ・カステルヌオーヴォもナイーヴな好演。オペラ形式で展開する、冴え冴えと美しい音楽とメロドラマのコラボレーション。最高に酔わせるミュージカルの逸品である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ「南方郵便機」

2009-03-22 17:19:25 | 読書感想文
 代表作「夜間飛行」と同じ文庫本に収められているサン=テグジュペリの処女作だ。職務遂行に命を賭ける航空会社の支配人や風雨と格闘する飛行士らの生き様をハードボイルドタッチで描いた「夜間飛行」よりも、操縦士個人の苦悩を繊細な筆致で綴ったこの作品の方が数段好きである。

 物語の視点が主要登場人物たちの間で交錯し、しかも時制をバラバラにしているために、かなり読むのに難儀する小説だ。しかし、比喩的な表現の中に語られる主人公の高潔な精神と友情の深さを読み取る時、切ない感動が湧き上がってくる。飛行シーンの描写も見事。

 堀口大學による格調高い翻訳は、たぶん原文の流麗なタッチを、ニュアンスを損なうことなく日本語に置き換えることに成功しているのだろう。その文体は溜め息が出るほど美しく、まるで宝石のようだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「オリーブの林をぬけて」

2009-03-14 06:39:37 | 映画の感想(あ行)
 (英題:Through the Olive Trees)94年作品。前回紹介したアッバス・キアロスタミ監督の「そして人生はつづく」にはイランの大地震の翌日に結婚した若夫婦のエピソードがある。もちろん、演じる彼らはプロの俳優ではなく地元の若者だ。ただし、実は二人は夫婦ではなく、しかも彼氏は彼女にプロポーズして断られていたという。男には財産も学歴もないからというのが理由。この事実を知ったキアロスタミ監督は、二人を主人公にラブ・ストーリーを撮り上げる。それがこの映画だ。

 「そして人生はつづく」の撮影風景が何度も挿入される。若い夫を演じる彼氏は、何度も彼女にセリフを言うのだが、彼女は頑として受け付けない。自分が振った男をいくら映画とはいえ夫とは呼ばないのだ。NGの連続。監督は妥協して撮り終えるが、出演者を村まで送る車には二人は乗りきれない。歩いて戻る途中、彼氏は彼女に最後の説得を試みるのだが・・・・。

 撮影所を舞台にして、映画の中では恋人を演ずる二人が、実際はお互い微妙な確執を抱えていて、それが実生活に反映するという、トリュフォーの「アメリカの夜」の例を出すまでもなく、これは、昔のハリウッドでも数多く作られた“バックステージもの”の構図を持つ映画だ。ただ決定的に違うところ---それはこの映画を近来まれに見る傑作に押し上げている要因なのだが---映画の“虚構性”の壁を見事に乗り越えていることだ。



 “誰だって自分の役は上手に演じることができる”。キアロスタミはインタビューでこう答えている。演じる側がカメラの前でも本人自身でいられるような環境をつくる、一見簡単なようでいて実は至難の業であることをあえてやってしまうキアロスタミの非凡さは「友だちのうちはどこ?」の感想にも書いているが、その“作風”はこの映画でひとつのピークに達している。冒頭、監督役の俳優が女性キャストを村人たちから選ぶ場面はぶっつけ本番で、彼氏役の男がキャンプで老人と延々と話すシーンも“事実”である。

 ただ“こういうアドリブに近い場面があるからフィクションの虚構性を乗り越えている”と言いたいのではない。アドリブは虚構の上でこそ有効であるに過ぎない。重要なのはアドリブ云々を論じるようなドラマの恣意性から映画自体が解放されている点である。「そして人生はつづく」に登場する老人が“この家は私のではないが、映画のスタッフがそう言うので、そういうことになってる”と種明かしをしたのと同様、この映画でも「そして人生はつづく」のいくつかのシーンが別のアングルから描かれているように、映画のからくりはとっくの昔に披露されている。虚構を明かした上に、なおかつ自然な“現実”を“構築”していく作者の確信犯ぶりは、映画作家としてのひとつの理想像ではないかと思ってしまう。

 例によって映像技巧的には十分に練られている。“自然なエピソード”をプロットとして積み上げていく作者の力量を、美しいカメラワークが盛り上げる。そして映画はクライマックスを迎える。

 一瞥もせずに歩く彼女に、彼は後ろからどこまでも付いて行く。“僕は地震で住む家もないが、最初から家を持っている奴なんていない。二人で力を合わせて家を建てよう。学のない僕だって勉強すれば字ぐらい読めるようになる。反対していた君の両親も地震で亡くなったし、みんなゼロからの出発だ。二人でやり直そう。これきり会えないかもしれないんだ。お願いだから返事をしてくれ”。二人はそのままオリーブの林を抜け、地の果てまで延びたジグザグ道をどこまでも歩く。すでに彼らは画面の奥に遠ざかり、彼氏の必死の訴えも観客には聞こえない。俯瞰でとらえた彼らは二つの点に過ぎなくなるが、それでも雄大な大地に負けないほどの登場人物の真摯さが伝わってくる。

 そしてラストは書けないが、私はこんな素晴らしい結末を、こんな見事な演出を、見たことがない。映画を観てきて本当によかった、と心から思えるような、至福の瞬間。この頃のアッバス・キアロスタミの作品群は映画の希望そのものだ。ハリウッドから遠く離れ、イランというアジアの片隅で映画は今も時代の“前衛”を走っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「そして人生はつづく」

2009-03-13 06:32:32 | 映画の感想(さ行)
 (英題And Life Goes on... )92年作品。傑作「友だちのうちはどこ?」(87年)から3年。イラン北部を大地震が襲った。監督アッバス・キアロスタミは「友だち・・・」に主演した二人の少年たちの消息を訪ねて、息子と一緒に少年たちの故郷である被災地コケール村へ向かう。この作品はその時の旅を“再現”したものである。

 監督を演じるファルハッド・ケラドマンドは被災地とは関係のない俳優(とはいっても素人に近い)。息子も監督の子供ではない(ま、他の登場人物は地元の素人を起用しているが)。“これは完全に劇映画であり、ドキュメンタリー・タッチの中に強烈なフィクション性を現出させた「友だち・・・」の前衛性から一歩後退している”という評も出て当然だ。確かに、前作に比べ登場人物の動かし方に芝居臭さが漂うこともある。特に監督の子供役についてはいささか顕著だ。彼が被災した女性に自分の生死観(?)を長々と述べるシーンはかなりヤバかった(器用な小芝居の一歩手前)。しかし、大地震という圧倒的な事実(映画的背景)の前には、少々のキズも吹き飛んでしまうのも確か。

 95年の阪神・淡路大震災の惨状を見た目には、映画の中の被災地は人ごとではない。これはセットでも何でもなく事実なのだ。途中の道筋には破壊された家々の瓦礫の山が続き、人々は復旧作業に余念がない。だが、犠牲者の埋葬跡が数限りなく見える場面のショックはあるものの、ここに描かれるものはおびただしい“死”ではなく、たくましい“生”の姿である。死者に対する悲しみを強調して、ドラマ的に盛り上げようなどという下心は微塵もない。



 阪神・淡路の地震の映像に対して、映画ファンの私が真っ先に思ったのは、フィクションの無力性である。「大地震」「世界崩壊の序曲」etc.“災害に対する現代社会の盲点”といった一見社会的なテーマを装い、その実ワイドショー的なお涙頂戴劇で観客のカタルシスを呼ぼうとするハリウッド的なアプローチは、この現実を前にして完全に潰れてしまう。この映画はその点、そういう手法とは最も遠い、“現実”を如実に示している。映画の中に“現実”を現出させるキアロスタミの力量は健在で、我々はこのイラン大地震の現場にいるような生々しさを体験できるのだ。

 もちろん、技巧の限りを尽くす演出にも注目だ。「友だち・・・」でも出てきた村と村を結ぶジグザグ道の圧倒的な存在感。クローズアップとロングショットの目を見張る対比。長回しの場面ではローアングルを多用して臨場感を強調。対象を画面のごく一部にとらえ、茫洋とした空間の広がりを描き出したりと、いつもながら脱帽だ。

 驚くべきことに、主人公は目的の少年に再会せずに映画は終わる。いや、実際は遠くを歩く少年の姿が小さく映し出され、無事であることはわかっているが、再会を大仰に描いて感動させることなど必要ないと言わんばかりだ。重要なのは、被災地の中でも確実に明日に向かって生きる人々の生活がそこにあること。ジグザグ道を通って画面の彼方に消えていく彼らに“それでも人生は続くのだ!”と心からのエールを送る作者の心情が痛いほど伝わってくる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「友だちのうちはどこ?」

2009-03-12 06:28:52 | 映画の感想(た行)
 (英題:Where Is the Friend's Home? )87年作品。イラン北部の小さな村。主人公の小学校2年生アハマッドは、ある日間違えて友人モハメドのノートを持って帰って来たことに気付く。モハメドはその日ノートに宿題を書いてこなかったことで先生にこっぴどく叱られている。しかも、もう一度ノートを忘れると学校を追い出されるかもしれないのだ。何とかして今日中にノートをモハメドに返さなければならない。アハマッドは山の向こうにあるモハメドの住む村にたった一人で出かけていくのであったが・・・・。監督はイランの巨匠アッバス・キアロスタミで、彼の作品で初めて我が国に本格的に紹介された映画だ。

 ハッキリ言って、これは製作当時としては驚くべき映画である。我々が映画の登場人物について考えるとき、役者の演技うんぬんに触れないわけにはいかない。“自然な演技だった”とか“熱演だった”“いまいち体現化されていない”などなど。それは俳優が演技をするという前提にもとづいて言っているわけで、演技を必要とせず、俳優も必要がない映画とはドキュメンタリーであって劇映画ではないはずである。でも、登場人物が演技せず(あるいは演技をまったく感じさせず)、しかも作品として劇映画以外の何物でもなかったら? そんなバカな、と誰でも思う。しかしこの映画はまさにそれなのだ。



 主人公の少年の生活の場にカメラを持ち込み、やがてカメラをまったく意識しない状況に仕立て上げる。そこで作者は“本当に”アハマッドのカバンの中に友人モハメドのノートを入れる。困惑した彼は“本当に”山を越えてモハメドにノートを返しに行くのだ。つまりここで起こっていること、登場人物の行動はすべて“本当”であり、演技ではない。外出を許可しない頑固な母親や、気むずかしい祖父や、純朴なクラスメートたちは“本物の”リアクションを示し“本音の”セリフを吐く。劇映画の中に“本物”を構築するという手法は今まで多くの映画作家たちが試みてきたことと思うが、成功した例をあまり聞かない。まさに映画にとっての“夢”を実現した作品といえるのではないだろうか。

 しかし、対象をなんとか苦労して自然に撮れば映画の中に“本物”が実現すると思ったら大間違いだ。そのためキアロスタミ監督は演技をほとんどさせなかった代わりに、演出には映画技法の限りを尽くしている。まずカメラワーク。ワンシーン・ワンカット手法の長回しと、効果的な横と縦の移動が主人公の揺れ動く心情をなんとよく表現していたことだろう。山の上に生えている象徴的な一本の木や、見知らぬ村の迷路のごとき描写、夜、世界の終わりのような漆黒の闇と、激しい風にあおられてはためく洗濯物の強烈な存在感。構図の素晴らしさに圧倒されてしまった。さらに物語を歯切れよく1時間半にまとめ上げた編集の見事さも特筆したい。

 さらに感心したのが作者の主人公にそそぐ愛情である。友だちを大事にし、家族思いの好ましいキャラクター(当然、演技ではなく本物である)を生かす設定。そしてこの映画のラストシーンは、歴代のイラン映画の中でも出色の出来だ。世界各地の映画祭で賞を獲得したのも頷ける、必見の秀作である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「愛のむきだし」

2009-03-11 06:27:50 | 映画の感想(あ行)

 まずは新進女優・満島ひかりの存在感に圧倒される。彼女は言うなれば“憑依型”の役者である。常々俳優には役柄をこちらに引き寄せるタイプと、役柄の方から勝手に寄ってくるタイプの二通りあると勝手に思っているのだが(笑)、満島の場合は明らかに後者。しかも“寄ってくる”といった生やさしいものではなく、役柄自体が生き霊みたいになって彼女を乗っ取ってしまうほどの凶暴な展開を見せる。華奢でアイドル然とした肢体が禍々しい“役柄の生き霊”(謎)に浸食されていく嗜虐的な感覚が、観る者を陶然とさせるのだ。

 演技のスタイルとしてはどこか70年代の若い女優たちと似たようなテイストを感じるが、彼女の場合は何をやっても決して下品にならない凛としたノーブルさをも兼ね備えているところが、昔の女優とは違う点だ。おそらくは質・量ともに世界有数のレベルである現在の日本の若手女優陣の中にあってもその個性は屹立しており、今後もヴァラエティ豊かな役柄を呼び込んでゆくことだろう。本当に楽しみな人材である。

 この映画は第59回のベルリン国際映画祭において国際批評家連盟賞とカリガリ賞をダブル受賞した、園子温監督による上映時間4時間の大作だ。通常こういう長い映画は“じっくり撮った”とは聞こえは良いが観る者によっては“冗長極まりない画面”が延々続くケースが多いのだが、本作は違う。怒濤の勢いで見せきってしまうジェットコースタームービーである。

 母を早くに亡くし、神父である父(渡部篤郎)と平穏に暮らしていた男子高校生ユウ(西島隆弘)が、自堕落な女(渡辺真起子)に入れあげた挙げ句に破局を迎えた父の豹変により鬱屈した生活を強いられる。毎日のごとく教会での懺悔を強要されるようになった彼は、父親に告白するための罪をデッチあげようとして、女性の股間の盗撮を繰り返すようになる。やがてくだんの女が父とヨリを戻そうと再接近。彼女が連れてきた“かつての交際相手の娘”であるヨーコ(満島)に電撃的一目惚れをしたユウ。混迷の度を増した一家にナゾのカルト教団の魔手が伸びる・・・・。

 設定としては無茶苦茶で、そもそもどうしてこの教団が主人公一家を狙うのか判然としない。いくら地域で人気のある神父でも“彼を取り込めば信者もろともカルト教団がいただき”などというのは脳天気に過ぎる。この教団の教義自体が不明だし、カルトらしい描写もどこかで見たようなものばかり。変装してヨーコを助けたばかりに“一人二役”を演じざるをえなくなったユウのディレンマも間抜けだし、なぜかAV製作会社が出しゃばってくるのも唐突と言うしかない。

 しかし、観ている間は違和感はほとんど覚えないのだ。これはひとえに純愛物語とホームドラマという映画の“核”を作者が強烈なまでに維持・構築しているためである。作劇に一本芯が通ってしまえば、あとは何をやろうと構わない。キツいユーモアや意表を突いたアクション場面、血みどろの残虐シーンやエロ描写、そして全編に溢れる“パンツ丸見え映像”(爆)。露出されるパンツのカット数は、ギネスブック級かもしれない・・・・。それらのモチーフが滅茶苦茶に配列されているようでいて、映画のテーマに奉仕するよう巧みにセッティングされていることに舌を巻く。さらに満島扮するヨーコがマリア像さながらに純愛のメタファーとしてドラマの真ん中に鎮座しているのだから、本作の堅牢度は並大抵のものではない。

 キャスト面では渡部、西島、渡辺といった満島以外のメンバーも的確な仕事をしている。「罪とか罰とか」に続いて登板の安藤サクラもマイナスオーラを発散していて見逃せない。音楽はロックバンド“ゆらゆら帝国”が担当しているが、それよりもラヴェルのボレロとか、ベートーヴェンの第七交響曲とか、サン=サーンスの交響曲「オルガン付」といった既成のクラシック音楽の使い方が絶品だ。それらはかなり長く引用されているが、各シークエンスをじっくり盛り上げるための、かなり贅沢な小道具になっている。もちろん、この上映時間があってこそ可能になったのだろう。

 常軌を逸したエクステリアと突っ走る演出、インモラルな素材の数々、ケレン味たっぷりの高カロリーな展開でありながら、観賞後の印象は実に清々しい。アッという間の4時間、愉悦に満ちた4時間、間違いなく今年度の日本映画の収穫である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「バカヤロー!3 『へんな奴ら』」

2009-03-10 06:29:56 | 映画の感想(は行)
 90年松竹作品。普段おとなしい人間が切羽詰まって「バカヤロー!」と叫び出すまでのシチュエーションを描く、森田芳光が監修したオムニバス映画「バカヤロー!」シリーズは88年に始まり、全部で4本ぐらい作られているのだろうか。そのうち私が観たのは3本だが、この三作目が一番面白くない。

 第一話「こんなに混んでどうなるの?」は平田満扮する気弱な主人公が高速道路の大渋滞に巻き込まれ、同乗している妻子からはさんざん文句を言われるし、おまけにトイレがガマンできなくなって・・・・・、という一編。ふんだりけったりの展開だが、こういう優柔不断のくせにいっちょまえに理屈ばっかりこねる男はどうも共感できないなあ。週末に渋滞になることがわかっているなら、最初からクルマで出かけなければいいのに、と思ってしまった。

 次、「過ぎた甘えは許さない」は清水美砂演じるショーガールの家に子連れで出戻りの姉が転がり込んでくる。いいかげんで甘ったれの姉に扮する松本伊代の演技が面白い(ひょっとしてこれが地?)が、何やら周りのキャラクターが必要以上にマンガチックで愉快になれない。ラストの処理も弱いなあ。

 第三話は飛ばして第四話「クリスマスなんて大嫌い」は昔ながらの下町の商店街の若い息子・娘たちが“クリスマスに家の手伝いなんてまっぴらだ”とばかり、めいっぱいおしゃれしてイブの晩に盛り場に繰り出すが、やっぱり育ちが災いして無残な結果を招く・・・・・、という展開だが、今どきこういう古くさいストーリーを臆面もなくやってしまう作者の神経にあきれた。ラストもなんかオチをつけたつもりだろうが、一抹のわびしさを覚えたのは私一人だろうか。

 で、第三話「会社をナメるな」は4話の中では一番マシだ。監督は黒田秀樹。そう、昔あの「三共リゲイン」のコマーシャルを撮ったディレクターだ。次々と会社を辞めていく部下にてこずる課長(中村雅俊)の悲哀を描いていくが、映像がモロ「リゲイン」のCMそのものだ。冒頭“私、他社からヘッドハンティングされましたので辞めます”(このセリフ、いつかは私も言ってみたい。えっ、やっぱりムリだって? ^^;)と言い放つ部下にはちゃんと時任三郎が扮している。課長のオゴリで熱海の温泉に課全員で繰り出し、和気合い合いの宴会の翌日には“課長に無理矢理酒を飲まされて二日酔いで仕事にならん”とダダをこねる若い社員の勝手さは私にもよーっくわかる(爆)。しかし、この話にしたって“ま、目先が変わってちょっとは面白いかな”という程度でこの調子で2時間の本編を撮っても、保たないだろう。

 全体として3作目ともなるとネタ切れの感が強いと思ったものだ。しかし、今から考えると「Jam Films」とか「TOKYO!」といった昨今のオムニバス映画よりはコンセプトはシッカリしていたとも感じる。現時点でシナリオを練り直して作ってみたら、けっこう面白いものができるかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ダウト あるカトリック学校で」

2009-03-09 06:07:28 | 映画の感想(た行)

 (原題:DOUBT )いまいち要領を得ない作品だ。国際的に高い評価を得たジョン・パトリック・シャンリィによる舞台劇をシャンリィ自身がメガホンを取って映画化。1964年、ニューヨークのブロンクスにあるカトリック学校を舞台に、教義や生き方をめぐって対立するシスターと神父との対立劇を描いているが、困ったことにその背景が明確ではない。

 一見、シスターは厳格なスタンスを愚直なまでに守っていて、対する神父はリベラルな考え方を持っているように見えるが、当然“保守VS革新”のような単純極まりない図式で片付けられるようなシチュエーションではない。かねてより嫉妬と憎悪とが入り混じった、屈折度の高い葛藤が二人の間に渦巻いていて、それが神父の黒人の生徒に対する扱いにシスターが異を唱えたことをきっかけとして爆発したという案配なのだろう。

 だが、その二人の屈託がどうにもよく分からない。黒人生徒にはゲイの兆候があるらしく、たまたま神父が一対一でその生徒に個別に指導したことで、シスターは“神父は怪しからぬ行為をしている”と早合点をしたのだが、神父の側も相手の言い分に反駁する決め手はない。そもそも“事件”としては状況証拠みたいなものが散見されるだけで、目撃証言もなければ明確な物的証拠も存在しない。あるのはシスターの頭ごなしの決めつけと、神父のどこか後ろ暗い態度のみだ。正直言って、雲を掴むような話なのである。

 一方は“やったに違いない”と責め立て、もう一方は“証拠がない”と言い返すだけ。もちろん観客にも真相はどうなのか、明示もなければ暗示もない。こういう藪の中の話を映画のモチーフにする手もあることは承知しているが、本作はその段取りが上手くいっていない。物語の大きなプロットとしてまるで機能していないのだ。

 あえて考えると、この60年代前半というのがひとつのネタであるのかもしれない。ケネディ暗殺や公民権運動など、価値観が大いに揺らいだ時代。その影響がコンサバティヴなカトリック教会にも微妙な影を落としていると・・・・そういう話の組み立て方も有り得るだろう。でも、それにしてはもっと別にやり方があったのではないだろうか。前振りだけでオチがない講談を聞いているような居心地の悪さが終始付きまとう。

 シスターを演じるメリル・ストリープはさすがの貫禄。頑迷な役も軽くこなしているような余裕だ。対するフィリップ・シーモア・ホフマンも海千山千ぶりを見せつける怪演だと思う。ただ、キャストの“腹芸”にすべて任せて成り立つほどの軽い素材ではないはずだ。狂言回し役のエイミー・アダムスにしても、観終わって考えるとドラマ内での立ち位置がしっかりしていない。ロジャー・ディーキンスのカメラは万全で、ハワード・ショアの音楽も言うことがないのだが、作品の求心力がかように不足している状態では、それだけでは評価は出来ない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする