元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「エレファント」

2007-06-30 08:36:00 | 映画の感想(あ行)
 (原題:Elephant)ガス・ヴァン・サント監督がコロンバイン高校銃乱射事件にヒントを得て作り上げた2003年のカンヌ大賞受賞作だが、同じ少年犯罪を扱った岩井俊二の「リリイ・シュシュのすべて」と比べるとまるで物足りない出来だ。なぜなら、この作品はテーマに全然迫っていないからである。

 オレゴン州ポートランドの普通高校を舞台にカメラはここで過ごす学生達の姿を追う。35ミリスタンダードサイズの中に切り取られた画面は実にストイック。清澄な映像をバックに生徒一人一人のプロフィールを先入観なしに捉えようとしているが、逆に言えばドキュメンタリー手法に徹することにより、素材を“遠くから眺めた”ような作者の不遜な態度が鼻についてくるのだ。

 「エレファント」という題名は“群盲、象を撫でる”の格言のように物事の枝葉末節にとらわれて全体像をつかんでいない状況を指しているらしい。だが、その全体像を把握することに及び腰なのは作者自身なのだと思う。

 そのことを典型的に示しているのが、犯人達が凶行に至る前にパソコンでシューティング・ゲームに興じ、なおかつ通販で手に入れた銃器類を自慢気に扱う場面である。これは“少年犯罪は過激なテレビゲームと銃社会が原因だ”という表面的なスローガンの発露にしかなっていない。犯人の少年に対するイジメ場面も申し訳程度に挿入されるのみだ。そんな語るに落ちるような“状況論”を並べてみても、かえって作為性が目立つだけである。

 作者の切迫した主張をもっとあざとくスクリーン上に活写しなければ、観ている側の心は動かない。それをドキュメンタリー・タッチの採用という“形から入った”撮り方をした時点で、この作品の限界が見えてしまった。とはいえ、近年のアメリカ映画の中にあっては個性的な作品であるのは確か。そのへんの物珍しさも受賞に繋がったのかもしれない。
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「きみにしか聞こえない」

2007-06-29 06:41:18 | 映画の感想(か行)

 何やら安手の韓流ドラマみたいな話である。まず過剰なほどのモノローグが鬱陶しい。微妙な内面の動きまで、滔々と主人公は声に出して伝えてくれる。少しは映像やら暗示やらで物語を綴ろうとするまっとうな努力ぐらいしてみろと言いたい。

 次に、孤独な女子学生が公園で拾ったおもちゃの携帯電話に着信が入り、それで彼女は通話相手の青年と交流することになるのだが、この重要な小道具として登場したはずのおもちゃの携帯電話がそれ以降まったく役に立っていないのには呆れた。何と二人はテレパシーじみた“脳内通信”で話を交わすようになる。二人の間には一時間のタイムラグがあるという多少捻った設定にはなっているが、普通の電話よろしく通話したいときに(よほど相手の都合が悪い場合は別にして)簡単に通話できてしまうのは、かなり緊張感が削がれる。

 それよりおもちゃの携帯電話がなければ“通話”が出来ないような設定にして、途中でそれが紛失したり盗難にあったり、果ては“本物の持ち主”が現れて返還を要求したりといった、いろんなトラブルに遭遇するように展開した方が盛り上がるのではないだろうか。

 さらにまずい点は、劇中の“脳内通話”にもう一人別の女性が割って入ってくるところ。彼女の“正体”は早々に割れてしまうが、これがまあ“語るに落ちる”ようなことばかり言うのは鼻白む思いである。そして映画の結末は、こんなことになるのなら最初から“脳内通話”など存在しない方が良かったとも思える脱力ぶりだ。違う結びに持って行く筋道はけっこうあったと思うのだが・・・・。

 では観る価値がないのかと言えば、そうでもない。それはキャストの存在感である。今年3本目の主役を張る成海璃子は、すでにこの年齢で新人らしからぬ“貫禄”さえも身につけており、舌を巻くしかない(今回も実年齢より上の役だ)。彼女のようなルックス抜群の女生徒が学校で阻害されているとは考えにくいが(用もないのに周囲に男子が群がりそうだ・・・・笑)、成海だったら“まあ、いいじゃないか”と許してしまいそうだ(爆)。

 相手役の小出恵介もナイーヴな好演。耳が不自由ながら精一杯に生きる健気な若者像を、クサくなる一歩手前で踏みとどまる冷静さを見せている。彼の伯母を演じる八千草薫は「しゃべれども しゃべれども」に続く名脇役ぶり。こういうベテランが控えているとドラマが締まる。荻島達也の演出は現時点では凡庸だが、少なくとも不愉快な描写は見せていない。“俳優を見る映画”だと割り切れば、そこそこ楽しめる映画だろう。
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「酔っぱらった馬の時間」

2007-06-28 22:14:31 | 映画の感想(や行)
 (原題:Zamani Baraye Masti Asbha )2000年作品。イラクとの国境に近いクルド人の村を舞台に、親に先立たれた兄弟たちの苦難の日々を描く、世界初の「クルド人を主人公にしたクルド語の映画」で、監督はイランの新鋭バフマン・ゴバディ。本作によりカンヌ国際映画祭のカメラドール賞を受賞している。

 日本で公開された多くのイラン映画がそうであるように、この作品も素人を中心としたキャスティングでドキュメンタリー・タッチの作劇を狙っているが、切迫度においては目を見張るものがある。ひとえにこれは現実のクルド人が置かれている境遇の厳しさが画面の隅々にまで緊張感を横溢させているからだろう。生活のために国境を越えて危険な密輸に荷担する一家の次男や、意に添わない結婚を強いられる長女の哀しい運命が、作り事の範疇を超えて観る者の胸に迫ってくる。

 もちろん「映画の題材」と「映画の内容(出来不出来)」は別物であり、どんなにホットな素材を選んでも作り手の工夫がなければ評価には結びつかないのだが、この映画では一家の長兄を身障者にして超然としたキャラクターを付与させているところや、終盤の国境越えの映像的サスペンス等、映画的な興趣もちゃんと織り込んでいるのが素晴らしい。

 タイトルの「酔っぱらった馬」とは、密輸業者たちが荷役用のラバに酒を飲ませて寒さをしのぐところから取られている。警備兵に追われて逃げようとしても、主人公の連れていたラバは酔い潰れて歩けない。この雪の舞い散る荒涼とした大地をバックにしたクライマックスの愁嘆場は圧巻だ。
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「300 スリーハンドレッド」

2007-06-27 06:53:35 | 映画の感想(英数)

 (原題:300 )「シン・シティ」のフランク・ミラーによる劇画の映画化ということだが、ルドルフ・マテ監督による61年作品「スパルタ総攻撃」のリメイクのような印象である。同じ史実を題材にしているということだけではなく、似たようなシーンもあるし、何よりあの映画の原題は“300 Spartans”であった(ミラー自身もあの映画にインスピレーションを受けたそうだ)。

 ともあれ、わずかな手勢で強大な敵をキリキリ舞いさせたというテルモピュライの戦い自体が史劇としてアピール度の高い題材であるし、事実この映画も観ていてかなり“燃える”。もう、手に汗握るほどだ。

 出てくる奴らの面構えが良い。そして必然的にマッチョである点もよろしい。弓矢や槍が飛んでくる戦場ではいささか軽装に過ぎる装備とも思えるが(笑)、見た目には実に効果的だ。この肉体美はCGではなく、特訓によって作り上げられたものらしく、なるほど身のこなしに不自然なところはない。

 本作の活劇演出のリズムは非凡なもので、大軍が画面を移動するだけの大味な描写を極力抑え、一対一あるいは小集団同士の戦いをメインに置いている。カメラとアクションの主体との距離も適切。さらに随所に“決め”のポーズを多用し、残酷さを払拭すると共に、日本の往年の時代劇にも通じる様式美をも獲得している。観る前は映像ギミック過多の薄っぺらい映画かと思っていたら、どうしてどうして絵作りは達者だ。VFXを完全に題材を扱う際の小道具として使いこなしている。

 もちろん、劇中で3百人のスパルタ軍全員のプロフィールを紹介するのは無理だが(爆)、ジェラルド・バトラー扮するレオニダス王をはじめ主要登場人物のキャラクターはきっちりと描き分けられ、ストーリーラインも無理なく流れていく。ザック・スナイダー監督の力量は侮れないと言って良い。

 徹底した戦闘エリートを育成するため少数精鋭主義を取り、身障者などはゴミのように見捨てられるスパルタの体制は、リベラル派からクレームが付きそうなほど極端なものだ。しかし、観ている間はそんなことを忘れさせてしまうほどの“戦いの美学”にシビれてしまう。言い訳無用の“男の映画”だ。幅広く奨めたい。
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「深い河」

2007-06-26 06:57:23 | 映画の感想(は行)

 95年作品。この映画が公開された当時、一連のオウム関連の事件について、既存の宗教関係者が新聞・雑誌などでコメントを寄せているのをよく目にしたが、内容としては“オウムは宗教の風上にも置けない過激集団だ”として切り捨てるものがけっこうあったように記憶している。でも私はその意見には異議を唱えたい。だいたい宗教はそれ自体“過激”で“狂気じみた”ものではないのか。

 仏教の出家にしても、俗世間のしがらみを放り出して悟りを得るのはいいが、周りの者はどう思うか。理不尽な荒行を強いる密教や、仕事中だろうと時間になるとメッカに向かって拝礼してしまうイスラム教、あまり健康にいいとは思えない断食など、通常の社会生活を送る身からすれば実にヘンで狂気じみている行為だ。神の名において大殺戮をやった十字軍の例を出すまでもなく、宗教が過激な行動に走る可能性は今も昔もある。もちろん宗教の目的は“信じる者は救われる”というスローガンを信者にたたき込むことなので、信者が救われた気になって幸福な気分を味わえればそれでOK。社会性や世間体など二の次だ。

 「深い河」は遠藤周作の原作を「海と毒薬」に続いて熊井啓が演出したもの。苦悩を抱えガンジスを旅する日本人たち。“生まれ変わるから私を探して”との妻の遺言にこだわる中年男、戦時中に死者の肉を食べて生き延びたことを苦にし続けた戦友の霊を弔いたいという初老の男、誰も心から愛した事がないという女(秋吉久美子)etc.果たして彼らは救われるか。常識的に言えばそんなことは有り得ない。輪廻転生なんて迷信だし、死んだ戦友がわざわざインドまで行って弔ってほしいと言ったわけでもない。愛した事がないなどとふざけた悩みを持った女なんて問題外。でも彼らはこのインドへの旅で何かを“悟った”のだという。それはまったく個人的な思い込みに過ぎず、事態がどうこうするものでもない。“信じる者は救われる”の世界である。“宗教にハマる”プロセスを多少意地悪く描いたのがこの映画の取り柄といえばそうだろうか。

 彼らよりカトリックの神父である大津(奥田瑛二)のキャラクターが興味深い。善悪二元論のキリスト教の発想について行けず、インドにたどり着き仏教やヒンズー教の納得できる部分だけを取り入れて、自己流の“オールラウンドな宗教心”(?)を想定し、日夜ボランティア活動に励む。キリスト教から見れば異端もいいところ。でも彼自身はそれで満足しているし、社会的に役だっている。“宗教ってのは世のため人のためになければならない”という日本人独特の宗教観(こう書くと反論が来そうだな ^^;)に到達する過程をわかりやすく描いている。

 観ていてあまり面白い映画でもないが、ちょっと興味を引くような内容だ。ただ、栃沢正夫のカメラが捉えたインドの風景と松村禎三の音楽は素晴らしい。それにしても秋吉久美子は相変わらず魅力的で、40歳にもなって女子大生の役演じて(回想シーンだけど)違和感がないのは、当時は世界広しといえど彼女とイザベル・アジャーニぐらいしかいなかっただろう(爆)。
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「あるスキャンダルの覚え書き」

2007-06-25 06:36:23 | 映画の感想(あ行)

 (原題:Notes on a Scandal)実に不快だが、観る者をとらえて離さない、悪意に満ちた快作である。

 舞台はロンドン郊外の中学校。気難しい皮肉屋で定年近くになっても伴侶に恵まれないオールドミスのベテラン教師の、奔放な新任の女教師に向ける暗い“欲望”を描く。とはいっても同性愛絡みではない。いわば“友情”の押し売り相手を追い回すという、タチの悪い欲求だ。

 このオールドミスにとって、友情とは“双方向”ではなく、一方的な主張のはけ口や自分の都合の良いように動いてくれる人間をゲットすることである。基本的な人間関係構築のメソッドも知らずに年齢ばかりを重ねた初老の女の荒涼とした内面、そしてたぶん一度も他人から愛されたことがないであろう彼女のそれまでの人生を考えると、まるで映画館の空調温度が5度ばかり下がったような寒々とした雰囲気が漂う。

 演じるジュディ・デンチが圧巻で、常軌を逸したキャラクターをまるで身の回りにいてもおかしくないような存在感を持ってスクリーン上に実体化させている。

 トラブルに巻き込まれる相手の若い女教師もなかなか香ばしい人物で、年の離れた夫と“若気の至り”で結婚したものの、ちょいと気になる男子生徒と性的関係を持ってしまうウルトラ級の軽率度を披露している。しかも本人の反省はゼロ。悪いことに現場をくだんのオールドミスに目撃されてしまい、早々に“友情”の押し売り先になるように脅迫される。演じるケイト・ブランシェットがまた素晴らしく、どうしようもない愚かな女を嫌悪感たっぷりに表現。

 映画はこの二人の“バカ比べ”を、皮肉っぽさ100%の斜に構えた視点で展開させるが、リチャード・エアーの演出には腰の強さがあり、途中にいささかの弛緩部分やリズムの乱れがない。さらに、観る者の中に二人の女のキャラクターが多少なりとも通じる部分があるように思わせる、大仰にならずタイトだが強靱なリアリズムを内包させているあたりが天晴れだ。楽曲の使い方も適切で、観る価値十分の佳篇だ。
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「セブン」

2007-06-24 19:58:33 | 映画の感想(さ行)
 (原題:Se7en)新作「ゾディアック」が公開中の、デイヴィッド・フィンチャー監督が95年に撮った映画で、同監督の出世作でもある。作品でキリスト教における七つの大罪(大食、憤怒、嫉妬、高慢、肉欲、怠惰、強欲)に基づく連続殺人事件を追う二人の刑事(モーガン・フリーマン、ブラッド・ピット)を中心に映画は続く。

 この映画の前半はめちゃくちゃ面白い。のっけから醜いデブがスパゲッテイの皿に顔突っ込んで死んでいる殺人現場が映し出され、その不気味さと陰惨さに“うわっこれは”と思っていると、無理矢理切腹させられた悪徳弁護士や、鼻をそぎ落とされた女の死体やら、ベッドに一年間縛り付けられてゾンビ同然になった男など、エグいシーンのオンパレード。しかも殺す場面は出さないで、結果だけを追う展開はいっそう観客に残虐な想像を強いることになる。犯人は用意周到で、打つ手がすぐに読まれてしまう。果たして事件は解決するのか。

 どことも特定できないような都市。灰色の憂いの表情を見せる人々。絶えず雨が振りモノクロに近い町並みの風景。ブルージーなハワード・ショアの音楽。「ブレードランナー」の世界を連想させるが、暗鬱さではこっちが上である。自主映画風の冒頭タイトルのカッコ良さ。手持ちカメラを駆使した臨場感あふれる映像。犯人とB・ピットの追いかけシーンはその白眉で、そのスピード感に圧倒されてしまう。小道具やネタの振り方も申し分なく、この異常なスリラー劇には果たしてどんな結末がやってくるのかと、観客は固唾をのんで画面を見守るのだが・・・・。

 意外にも犯人は中盤に姿をあらわす。もちろんそれで終わりではなく、これが終盤の新たな惨劇の引き金となるのだが、ここからイッキに映画は失速する。原因は犯人に過度な自己主張をさせているからである。

 このジャンルの代表作「ありふれた事件」がなぜ衝撃的だったかというと、同じく犯人は饒舌ながら事件の確信に迫るセリフはひとつも吐いていないからだ。軽口を叩きながら娯楽みたいに殺しまくる、その現象面だけを捉え、もっともらしい言い訳はしないしする必要もない。厳然たる殺人の残酷さがあるだけだった。対して「セブン」の犯人はキリスト教の狂信者。いかにもキ○ガイの棲み家みたいな部屋のインテリアがそれを如実に語っているが、逆に言うとそれを見せるだけで観客を納得するのに十分であり、それ以上の説明も言い訳も不要のはずだ。

 ところがこの犯人は“デブは見苦しいから死ね”とか“悪い弁護士を殺すのは当然。反対に感謝状でも貰いたいぐらいだ”などと自説を主演二人に対して延々とまくしたてる。かつてのオウム真理教幹部の主張とほとんど変わらないし、フィクションである分、インパクトは弱い。さらに悪いことに、それによって途中でラストのオチも読めてしまうのである。

 もちろん、頭の悪いアメリカ人観客(あ、暴言だ ゴメン ^^;)に対するフォローとしてそういう説明もないとヒットしないのも当然で、意図はわかるのだ。でも、私としては不満。キレ具合が不足してファウルになった大飛球ってところか。

 それより印象的だったのは“こんな世の中に生まれてこない方がいい”と、恋人に堕胎を迫ったM・フリーマンの刑事の態度だ。はっきり言って理解の外にあり、考えようによっては犯人よりもコワい“思想”かもしれない。
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「プレステージ」

2007-06-16 06:47:37 | 映画の感想(は行)

 (原題:The Prestige)面白くない。一番の理由は、こういうネタにまるで不似合いな“SF的トンデモ理論”が大きなプロットとして組み込まれているからだ。

 クリストファー・プリーストの小説「奇術師」の映画化で、19世紀末のロンドンを舞台に、因縁深いライバル関係にある2人の天才マジシャンの戦いを描く本作、しかも監督は「メメント」などのクリストファー・ノーランだから、徹底的な理詰めの展開をお馴染みのトリッキィな演出で披露してくれるのかと思うと、完全に裏切られる。

 マジックってのは超現実的な事物ではない。論理的な“段取り”の世界であり、ドラスティックなショービジネス以外の何物でもない。だからこそ面白いのだ。かような“トンデモ理論”を導入したいのなら、マジックを題材にする必要はない。百歩譲って、こういう“トンデモ理論”を取り入れなければならないほど、主人公達の立場が切羽詰まったものだったとしても、映画としてはその切迫した背景を内面描写でもシチュエーションでも、もっとテンション上げて追い込むべきであった。

 しかし、ノーラン監督得意の“時制のランダム配置”がそれを妨害する。これでは登場人物の“意識の流れ”が断ち切られてしまう。実は“トンデモ理論”以外にもうひとつ重大な御都合主義があるのだが、それをごまかすために時制をバラバラにしていると思われても仕方がないだろう。

 また肝心のマジックの場面にしても、デイヴィッド・カッパーフィールドが監修している割には、テレビのマジックショーと変わらないショボさだ。別に大仰なイリュージョンをやる必要はなく、単にカメラワークやカッティングなどを工夫した映画ならではの映像的仕掛けが欲しいのだが、それがまるで不発である。

 主演のヒュー・ジャックマンとクリスチャン・ベールは熱演しているものの、マジシャンの狂気とも言える常軌を逸した情熱が感じられない。当然カリスマ性のかけらもなく、単なる青二才のように見える。ヒロイン役のスカーレット・ヨハンソンもあまりに小粒で印象に残らない。面白かったのは貫禄で見せるマイケル・ケインと、久々のデイヴィッド・ボウイぐらいか。豪華な時代劇セットだけは見事だが、それ以外には見所はないといえる。
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「リーピング」

2007-06-14 06:39:04 | 映画の感想(ら行)

 (原題:The Reaping )テレビCMやポスターでは“イナゴ少女、現る”なんていう胡散臭い惹句が踊っていたが、残念ながら本作にはアンナソフィア・ロブ扮する“少女”がイナゴの大群を操って暴れまくるシーンなどない(笑)。物語の骨子は欧米製ホラーでよくあるパターンの“聖書ネタ”。今回は“10の災い”が大々的に映像化される。

 まずびっくりしたのは前半の南部の湿原地帯が真っ赤に染まる場面だ。特殊処理による映像だとは頭では分かっていても、水質汚濁の最悪の例を見せられているようで、実に嫌な気分になってくる。さらに、家畜の牛が原因不明の病気で大量に死んでゆく中盤のエピソードもインパクトのある映像だ。なぜなら、これは狂牛病の症例と変わらないからである。単なるオカルト映画のモチーフが、現実の問題をなぞってゆく良い意味での気色悪さ(?)が画面の求心力を高めている。

 しかし、ここで一歩進めて“聖書の内容と環境破壊との関連性”をトンデモ理論を駆使して大風呂敷を広げ、ケレン味たっぷりに大見得を切っていれば楽しめる映画になったところだが、製作者のマジメぶりが災いしてか“聖書ネタ”から一歩も出ていないのは不満だ。

 ヒラリー・スワンク扮する主人公の学者が以前は敬虔なキリスト教徒で、後進国での布教中に夫と娘を殺され、それ以来無神論に鞍替えし、世界中の超常現象のインチキぶりを暴くことに命を賭けているといった設定からして、キリスト教とは無縁の観客からすれば“どうでもいいこと”なのである。そもそも低開発国にとって大事なのは信心の押しつけではなく具体的な支援の方だと思うのだが、そのへんが分かっていない欧米人が未だにいることは実に噴飯ものだ。

 さて、筋書きはといえば、悪い奴は誰なのか早々にバレてしまうし、中盤の展開は「オーメン」のパクリ臭いし、終盤なんて「デアポリカ」(←知ってる人いるかな ^^;)を思い出してしまうし、要するに上等のものではない。スティーヴン・ホプキンスの演出はただ脚本を地道に追っているだけで、特筆すべきものはなし。製作はジョエル・シルヴァーとロバート・ゼメキスのダークキャッスル・エンターテインメントだが、ホラー専門プロダクションならばもっと思い切った企画を披露して欲しい。
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「ミセス・ダウト」

2007-06-13 06:16:44 | 映画の感想(ま行)

 (原題:Mrs. Doubtfire)93年作品。ロビン・ウィリアムズの“個人芸”を見る映画だ。それ以外の見所は皆無である。妻から三下り半を突き付けられた売れない俳優の主人公が、子供に会いたい一心で、女装してお手伝いさんとして元の家にもぐり込む、という設定は面白い。が、プラスアルファの工夫もなく、プロットは大甘で、“家族は仲良くしましょう”という今さらながらのテーマを不器用に差し出すのみだ。脇にサリー・フィールドとかハーヴェイ・ファイアステインなどという芸達者を配しているにもかかわらず、ほとんど見せ場がないのも不満。

 監督は「ホーム・アローン」シリーズのクリス・コロンバスだが、映画自体の質とパワーは明らかにダウンしている。もっと破天荒で観る者を唖然とさせるような結末にしてほしかった。正直言って、観て一週間もたつとストーリーさえ忘れてしまうような映画である。

 でも、観る価値はないとは言えない。ウィリアムズのパフォーマンスはこの作品でひとつのピークに達している。「トッツィー」のダスティン・ホフマンもマッ青の巧妙極まる女装、そしてその特殊メイクのプロセスを丁寧に見せているところは好感が持てた。“地”の声とスコットランド訛の“ミセス・ダウト”の声、さらにいろんな人物の声帯模写で周囲の者を煙に巻くシーン。掃除機片手に軽やかにステップを踏むかと思えば、職業安定所で“特技は?”と聞かれたときには、モノまねギャグの速射砲をお見舞いする(特に“ホットドッグのまね”には涙が出るほど笑った)。ラスト近くの、レストランの中で一人二役を演ずるシーンはけっこう盛り上げてくれる。

 しかしまあ、ウィリアムズの一人舞台だけが目につくってことは、それ以外のドラマ部分がお粗末である証拠だ。どうでもいいけど、彼とエディ・マーフィ、ビリー・クリスタル、そしてウーピー・ゴールドバーグは“四大スタンダッパー”と呼ばれていたそうである。
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