元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「失くした体」

2020-04-27 06:55:11 | 映画の感想(な行)

 (原題:J'AI PERDU MON CORPS)2019年11月よりNetflixで配信されているフランス製アニメーション映画。第92回の米アカデミー賞でのノミネートをはじめ、各種有名アワードを獲得している話題作である。なるほど、かなり野心的な作劇で見応えはある。しかし、万全の出来かというと、そうではない。設定や展開にやや説得力を欠いており、独特の映像も含めて私としてはあまり好みではなかった。

 事故で切断された右手が、どこかの安置室から抜け出し、元の“持ち主”を探してパリの街をさまよう。一方、この右手の“持ち主”であったと思われる青年ナオフェルが、子供時代に両親を亡くして一人で生きていく様子が描かれる。この2つは平行して進められるが、右手が動き回る部分はナオフェル自身を主人公としたパートの“後日談”である。

 彼はピザの宅配中にマンションのインターホン越しにガブリエルという若い女の声を聞き、気になってしまう。苦労して彼女の居場所を突き止め、ガブリエルの叔父が経営する木工製作所に住み込みで働くことになるナオフェルだが、彼女には自分がかつてのピザの宅配員であったことは伏せていた。彼は何とかガブリエルとの距離を詰めようとするが、結果は芳しくない。やがて、ナオフェルは作業場で大きな事故に遭遇する。

 右手が意志を持って街を彷徨うというのは、アイデアとして悪くない。何度か絶体絶命の危機に陥るが、紙一重で切り抜ける。また、右手が物に触れるとナオフェルの幼い頃の思い出が蘇ってくるというのも、面白い着想だ。しかし、右手が“持ち主”を見つけて、その後にどうなるのかと考えると、何やら尻すぼみの印象を受ける。

 事実、2つのパートが融合する終盤は要領を得ないストーリー運びになる。そもそも、ナオフェルは共感を得にくい人物だ。幼少時はテープレコーダーばかりに執着する可愛げの無い子供で、長じてからはストーカーまがいにガブリエルを追い回す。愛想が無く、友人もほとんどいない。こんな野郎が不幸な目に遭い、それでも映画が進むうちに幾ばくかの希望を持ったとしても、こちらには関係の無い話としか捉えられない。

 ジェレミー・クラパンの演出は右手が“活躍”する部分では非凡さも見せるが、キャラクターデザインが好みではなかったこともあり、主人公像の訴求力の低さが映画全体の足を引っ張っているように感じた。とはいっても、この着想自体に評価が集まることも十分考えられる。要は好き嫌いが分かれる映画ということになるだろう。
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「響 HIBIKI」

2020-04-26 06:56:17 | 映画の感想(は行)
 2018年作品。封切時にはけっこう評判が良かったので、今回(テレビ画面での鑑賞ではあるが)チェックしてみた。結果、これは平凡なテレビドラマ並の訴求力しか持ち合わせていないことが判明。しょせんメインキャストがAKB一派・・・・じゃなかった、坂道一派によるアイドル映画である。ただし、ほんの少し興味を覚える箇所もあり、観る価値は全然無いわけでもない。

 文芸誌「木蓮」の若手スタッフである花井ふみは、データ入稿という条件を無視して手書きの原稿で送られてきた新人賞の応募作品を偶然開封したところ、あまりにも内容が高度であることに仰天する。その作者である鮎喰響(あくい・ひびき)を探し始める彼女だが、実は響は15歳の女子高生だった。



 響は高校入学と同時に文芸部に入るが、過激な言動で周囲を翻弄する。同じ文芸部に籍を置く祖父江凛夏は有名作家の娘で、近々作家デビューする段取りを「木蓮」社と打ち合わせていたところ、担当の花井が響の存在を知ることになる。花井の上層部への進言により、響の作品は雑誌に掲載されるが、これが一大センセーションを巻き起こし、早くも芥川賞と直木賞のノミネートされるまでになる。柳本光晴による同名コミックの映画化だ。

 響の造型はまるで話にならない。何しろ、全然天才らしさが無いのだ。他者への批評だけは一人前のようだが、言動には才気走った雰囲気は感じられない。ハッキリ言って、これはただの粗暴なガキだ。しかも、彼女から暴力を振るわれた側がいずれも泣き寝入り的に黙ってしまうのには苦笑するしかない。

 これは普通に考えれば逮捕されるか、少なくとも民事訴訟で多額の損害賠償を要求されるケースだ。また、相手が血の気が多い奴だったら逆襲されて殺されたり瀕死の重傷を負うことも考えられる。こんな絵空事のヒロインの周りを、いい大人たちが及び腰で立ち竦んでいるという構図は、まさに噴飯ものだ。

 斯様に主人公には実体感が無いので、ストーリーも要領を得ないまま進み、気勢の上がらないラストに行き着くのみである。月川翔の演出は平板。しかも、不自然なところでフェイドアウトが入るところを見ても、当初からテレビ放映のためのテレビ的な作りを意識したとしか思えない。

 主演の平手友梨奈は表情が乏しく、セリフ回しも単調。しかしこれは、経験の浅い彼女のための役柄なのだろう。とはいえ、明朗でフレキシブルな演技をする凛夏役のアヤカ・ウィルソンと並ぶと、辛いものがある。北川景子に高嶋政伸、柳楽優弥、北村有起哉、野間口徹、吉田栄作など、共演陣は豪華だが主役を引き立てるためか大した演技はしていない。小栗旬に至っては、何しに出てきたのか判然としない始末だ。

 とはいえ、見どころは少しはある。それは、作家連中の生態を活写していることだ。どの作家センセイも傲慢で協調性に欠け、しかも自意識過剰である。実際にそうなのかは知らないが、たぶんそんな感じなのだろうと思わせる。このモチーフを出してきただけでも、見た甲斐はあったかなと思う(それさえ無かったならば、途中で“退出”していた)。
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「つながれたヒバリ」

2020-04-25 06:57:12 | 映画の感想(た行)
 (英題:Larks on a String )1969年にチェコスロバキアで撮られた作品だが、一般公開は90年で、その年のベルリン国際映画祭において大賞を獲得している。シビアな題材を扱いながら、タッチはしなやかでユーモラス。この“重いテーマを軽妙に綴る”という芸当は実力派の作家にしか出来ないが、本作はそれを存分に見せつけている。

 1948年のチェコでは、社会主義とは相容れない(と思われる)者たちを再教育するためのプロジェクトが実施されていた。ある町のスクラップ工場では、7人の男たちが再教育と対象として働かされていたが、彼らは別に反体制というわけではなく、普通の市民である。その中でも一番若いユダヤ人の元コックであるパヴェルは、担当教官と衝突してばかりいた。



 ある日彼は、工場の隣にある思想犯の収容所にいる若い娘イトカと知り合い、恋に落ちる。そしてついに彼女と結婚することになるのだが、そんなめでたい出来事とは裏腹に、工場には不穏な空気が流れ始める。仲間の大学教授が共産党員と口論になった挙げ句にどこかに連行されたのを皮切りに、次々と男たちが姿を消す。そしてパヴェルの身にも災いは降りかかってくる。

 69年といえば、前年に“プラハの春”がソ連によって潰され、暗い時代に逆戻りした頃だ。体制批判を扱った本作は上映禁止になっている。しかしながら、イェジー・メンツェル監督は祖国から離れなかった。だからよっぽどこの映画は重々しい内容なのだろうと思ったら、これがけっこう明るくて屈託が無い。

 もちろん、その中には重大な歴史の真実がある。ただ映画としては観ていて胃が痛くなるようなことはなく、平易で誰しもスッと中身に入って行ける。この洗練が訴求力を高めている。庶民に過ぎないパヴェルたちがこの工場に入れられたのは、単なる“事故”のようなものだ。反政府の闘志など存在しない。

 ブルジョワ的楽器だという理由だけでブルジョワ扱いされるサキソフォン奏者がいるのもおかしいが、とにかく社会主義のナンセンスぶりを皮肉っているのが痛快だ。後半になるとストーリーは厳しくなるが、それでも登場人物たちは“いつかは真実が解る”と達観している。あくまで人間を信頼しているメンツェル監督の真摯なスタンスが伝わってくるようだ。主演のヴァーツラフ・ネッカーシュをはじめ、キャストは皆好演。反骨精神とカツドウ魂を忘れない映画作家の矜持が伝わってくる、見応えのある好編である。
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「マイルス・デイビス:クールの誕生」

2020-04-24 06:53:11 | 映画の感想(ま行)
 (原題:MILES DAVIS: BIRTH OF THE COOL)2019年作品。ジャズ界の最重要人物と言われるマイルス・デイヴィスの生涯を追ったドキュメンタリー。作家性を前面に押し出した作劇ではなく、淡々と事実だけを積み重ねた内容なのだが、けっこう惹き付けられた。もっとも、マイルス自身がカリスマ性の塊みたいな人物なので、画面の真ん中にいるだけで絵になるのだ。映画製作に当たっての余計なケレンは不要だろう。

 マイルス・デューイ・デイヴィス三世は、1926年にイリノイ州オールトン生まれる。家は裕福で、ニューヨークに出てジュリアード音楽院に進むが、その突出した個性と才能は伝統ある学校教育の枠に収まるものではなかった。ジュリアードを中退して当時の有名なジャズ・プレーヤーと次々に共演し、めきめき頭角を現してくる。



 よく“天才に人格者なし”と言われるが、マイルスの場合も同様だったらしい。気難しく、女性遍歴も派手で、幾度となく酒やクスリに溺れた。しかし音楽に対しては妥協を許さず、ひとたびトランペットを手にすれば、天翔るようなパフォーマンスを披露し聴く者の度肝を抜く。

 また天才というのは“一度やったことは二度やらない”とのポリシーを持っているようで、そのサウンドは時代が進むと共にフレキシブルに変化する。映画はそれらの過程を時系列に沿って描き、実に分かりやすい。彼自身の独白を中心に、ロン・カーターやジュリエット・グレコ、ハービー・ハンコック、クインシー・ジョーンズ、ウェイン・ショーターといった彼と同時代を生きた者たちの証言がマイルスの生き方や音楽的スタンスを肉付けしていく。このやり方は正攻法で、誰が観ても納得出来る。

 演奏シーンはダイジェスト版がいくつも挿入されるが、うまく配置されており物足りなさを感じない。特に興味深かったのがルイ・マル監督「死刑台のエレベーター」(1958年)のサウンドトラックを吹き込む場面だ。新進気鋭の映画作家と音楽界の異能が出会い、火花を散らす様子は圧巻である。

 監督のスタンリー・ネルソン・ジュニアは場をわきまえていて、勝手な講釈を決して差し挟まず、対象及びその周辺の事物を掘り下げることに腐心しており、好感が持てる。ただ正直なところ、個人的にはマイルスのディスクは傑作「カインド・オブ・ブルー」(1959年リリース)以外はあまり肌に合わない。それでも、多くの有望なミュージシャンを見出したことは、巨匠の名に値すると思う。
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「しとやかな獣」

2020-04-20 06:37:31 | 映画の感想(さ行)
 昭和37年大映作品。めちゃくちゃ面白い。まさに快作。森田芳光監督の「家族ゲーム」(83年)の原型とも言えるが、ポン・ジュノ監督の「パラサイト 半地下の家族」(2019年)にも通じる現代性、さらには我が国の戦後史をすくい取る奥深さをも併せ持つ、この頃の日本映画を代表するマスターピースである。

 都内の団地に住む前田家の主である時造は元海軍中佐ながら、戦後はドン底の生活を経験していた。マジメに生きても先が見えないと悟った彼は、子供たちに詐欺まがいの行為を奨励し、そうやって得た金でこのアパートに居を構えていたのだ。具体的には、芸能プロダクションに勤めている息子の実には会社の金を横領させ、娘の友子は小説家吉沢の妾として金を貢がせていた。



 実は同僚の三谷幸枝と懇ろな関係にあったが、その幸枝が、事業として旅館を開業することになったから別れたいと言い出す。幸枝は前田一家を凌ぐほどの食わせもので、夫に先立たれて子供を育てなければならない彼女は、男たちの誘惑に乗ったと見せかけて、しっかりと金を掠め取っていた。実に対しても“都合の良い金ヅル”としか思っていない。しかも税務署の神谷を抱き込んでいる社長の香取とも昵懇の間柄である幸枝は、絶対に罪に問われない立場にいた。そんな中、神谷は背任の疑いで懲戒免職になってしまう。

 とにかく、前田家の造型が最高だ。目的のためならば手段を選ばず、阿漕な真似も断じて恥じることは無い。なぜなら、彼らは終戦直後の惨状を知っているからだ。自分たちは意味も無く不憫な境遇に置かれたのだから、そこから這い上がるには非常識な方法を用いて当然だと思っている。

 それが如実に表面化するのは、のべつ幕無くセリフを並べて周囲を煙に巻いてばかりの彼らが、戦争が終わってすぐのことを思い出すと身体が硬直化して寡黙になるという場面だ。世間を欺き、社会に寄生する前田家の面々が、実は敗戦のトラウマに“逆寄生”されている倒錯した構図が焙り出されてくる。そんな理不尽さを忘れようとするかのように、夕陽をバックに実と友子が踊りまくるシーンは強烈だ。

 そして前田一家や幸枝はイレギュラーな遣り口で世の中を渡ってはいるが、立場は“下層”のままである。香取や吉沢のような“上級国民”には絶対になれない。その絶望的な格差のメタファーとして持ち出されるのが、この団地の意匠だ。基本的に、カメラはアパートから出ることはない。

 前田一家のエネルギッシュな生き様があらゆるアングルから活写されるが、それは団地の密室性および彼らの人生の閉塞感を示すのみで、開放感は皆無だ。しかも、前田家を尋ねた幸枝が部屋から外に出ると、不気味な異空間が広がっていたというシークエンスまである。言うまでも無く登場人物たちの孤立感を表現した描写で、強いインパクトをもたらす。

 新藤兼人の脚本を得た川島雄三の演出は天才的で、次々と繰り出されるブラックな笑いと、非凡な映像感覚の連続が観る者を圧倒する。伊藤雄之助と山岡久乃による前田夫妻は胡散臭さが全開で頼もしく、幸枝役の若尾文子は毒々しい美しさを見せつける。高松英郎に小沢昭一、船越英二、ミヤコ蝶々といった面々も実に“濃い”。カメラが初めて団地の外に出るラストも印象深く、これは必見の映画と言える。
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「映画 聲の形」

2020-04-19 06:51:22 | 映画の感想(あ行)
 2016年作品。公開当時は高く評価されたアニメーション映画だが、私は設定自体に納得出来ず観る気が起こらなかった。今回テレビ画面で接してみたのだが、やっぱり要領を得ない部分が多い。だが、主人公の造型には非凡なものを感じる。その意味では観て損は無い。また独特の色遣いも実に印象的だ。

 とある地方都市(“ロケ地”は岐阜県大垣市である)に住む小学6年生の石田将也は、仲間の一旗や啓祐と一緒に悪さばかりしていた。ある日、将也たちのクラスに西宮硝子という転校生がやってくる。硝子は耳が聞こえなかった。将也をはじめとする周りの連中は興味本位に彼女に近付くが、やがてイジメに繋がる。



 将也は先頭になって硝子をイジメているうち、そのあまりの非道さにクラスの者たちから煙たがられるようになってしまう。そして硝子が学校を去った後は、今度は将也がイジメのターゲットになり、彼は精神的なダメージを受ける。それから5年、心を閉ざしたまま高校生になった将也は自殺を考えるまでに追い詰められていた。だが、一方で硝子に謝罪しなければならないと考えていた彼は、独学で手話を学びながら硝子を捜し、ついに彼女と再会を果たす。

 ハンデを持つ子供が普通の小学校に転入し、他の者と同じ授業を受けるという設定からして無理がある。学校側も特段配慮はしていないようだし、これは一種の“虐待”ではないのか。そして、将也以外のキャラクターは(高校入学後に友人になる永束を除けば)中身が無い。原作の(大今良時による)コミックは全七巻と、そんなに短くはないので映画化する際に抜け落ちている点も多々あると思うのだが、それにしても出てくる連中には現実感が希薄だ。

 何しろ、ヒロインの硝子からして過去に自分をイジメていた将也に対して無条件に好意を示す始末。硝子の造型は人間味が感じられず、人形のようだ。ラスト近くの行動も意味不明である。ただし、将也に関しては共感するところが大きい。

 率直に言ってイジメっ子が自身の行いを悔いて苦悩するという殊勝なことは、あまり考えられないのだが、将也は違う。また、そのことが説得力を持つような工夫がある。彼には、他のクラスメートの顔が見えないのだ。将也の視野では、他の者の顔には大きなバッテンが貼り付けられ、表情さえ読み取れない。人間不信のメタファーとしての表現だが、これはかなり強烈だ。それでも、彼が気を許したわずかな者だけが、顔のバッテンが剥がれ落ちてゆく。その過程も丁寧に描かれている。将也が世の中とどう折り合いを付けていくか、それが暗示される幕切れはけっこう感銘を受ける。

 山田尚子の演出は冗長な箇所は無く、スムーズにドラマを進めているように見えるが、時折挿入される不安定なアングルからの画面と不自然な被写体の切り取り方は気に入らない。ここは正攻法に徹して欲しかった。キャラクターデザインは私の好みではないが、パステルカラーを基調とした色彩は美しい。それにしても、小学校からの仲間が高校時代になっても顔を揃えるという設定は、子供の頃から(親の仕事の都合で)何度も転校していた私から見ると、不思議なものだ。まるで別世界の話のように思える。
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「コフィー&カリーム」

2020-04-18 06:47:45 | 映画の感想(か行)
 (原題:COFFEE & KAREEM)2020年4月よりNetflixで配信。かなり荒っぽくて品の無いアクション・コメディなのだが、けっこう楽しんで見ることが出来た。作り手が“これで良いじゃないか”と開き直っている様子が明白で、つまりは“決して多くは望まない”という次元で大々的に展開している点が頼もしい。

 デトロイト市警のジェームズ・コフィー巡査長はシングルマザーのヴァネッサと交際中だ。しかし、彼女の12歳になる息子カリームはコフィーのことが気にくわない。いつか脅して母親と別れさせようと画策している。一方、人気ラッパーのオーランドは、つい出来心で麻薬取引に手を染めてしまうが、市警のワッツ刑事のガサ入れによりあえなく逮捕。だが、移送途中で脱走する。



 その頃カリームはコフィーを脅迫するためにゴロツキを雇おうと、裏町にあるジムに出掛けるが、そこでオーランドの仲間が警官を殺害している場面を目撃。そこから逃げ出したカリームだが、うっかりスマホを落としてしまう。そのスマホから身元がギャングにバレてしまい、カリームは居合わせたコフィーやヴァネッサともども命を狙われるハメになる。

 とにかく、セリフの汚さに圧倒されてしまう(笑)。下ネタに関する放送禁止用語が、おそらく10秒に一回は飛び出してくるのだから呆れる。カリームに扮する子役のような年少者が出演して良いのかと心配になるほどだ。ただし、これが意外と笑いのツボに入るのだから我ながら情けない。

 マイケル・ドースの演出は泥臭く、ギャグも使い古されたものばかりだが、繰り出されるタイミングが侮れないのでウケる。話は単純に見えて中盤からは二転三転、ラスト近くには真の敵の首魁が現れる。作りは垢抜けないが、脚本は健闘していると言えよう。とはいえ、喜劇にしては血糊が多い。人がバンバン死んでいくし、終盤にはスプラッタ場面もある。そのあたりを“冗談”として受け流せるかどうかで、見る者の評価が分かれてくると思う。

 コフィー役のエド・ヘルムズとカリームを演じるテレンス・リトル・ハーデンハイのコンビは絶妙で、親子ほど年が離れていながら立派な“相棒”である。ヴァネッサに扮するタラジ・P・ヘンソンも好調だ(特に、ギャング2人を一人でやっつけるシーンには拍手を送りたくなった)。ヒップホップ中心の楽曲の使い方も悪くない。
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原田マハ「キネマの神様」

2020-04-17 06:53:15 | 読書感想文

 山田洋次監督によって映画化されるということなので、興味を持って読んでみた(注:主要キャストの急逝により、現時点ではクランクインは未定)。しかしながら、これはとても評価できるような内容ではない。たぶん山田監督は設定だけ借りて中身を大胆に変えてくるのだとは思うが、この原作に限って言えば論外だ。巷の評判は良く、すでに舞台化もされているというのも、俄かには信じがたい。

 大手デベロッパーに勤めていた39歳独身の円山歩(あゆみ)は、シネコンを含む都心の再開発事業の責任者に抜擢されるが、周囲との軋轢によって会社を辞めてしまう。折しも趣味は映画とギャンブルという老父の郷直が倒れ、しかも多額の借金が発覚した。二進も三進もいかなくなった歩だったが、郷直が勝手に歩の文章を老舗の映画雑誌に投稿したのをきっかけに、歩は編集部に採用される。

 実はウケが良かったのは郷直の文章の方で、やがて父の映画ブログを雑誌と連動してスタートさせることになる。この企画により左前だった出版社は持ち直すが、あるとき郷直の書き込みに敢然と異を唱えるパワーライターが出現し、ネット上で論戦が展開される。

 あまり若くもないヒロインが突然無職になるものの、父親の“機転(おせっかい)”によりあっさりと再就職が決まり、スタッフは全員映画好きのいい人ばかり。父親が書いたブログが国内だけでなく海外でまで知られるようになり、編集長の引き籠りの息子は身なりを整えるとハンサムな好漢で、郷直の友人である名画座の主人は映画をこよなく愛し、謎のライターの正体は“(いい意味で)思いがけない人物”だったりする。つまりは設定は御都合主義で、人物配置も御都合主義で、筋書きもとことん御都合主義なのである。だいたい、ギャンブル好きの郷直が簡単に“更正”するはずがない。

 原田の小説を読んだのは初めてだが、直木賞候補にもなったほどの売れっ子ながら、文章の深みの無さには脱力する。ページを斜めに読んでも全然構わないほどで、有り体に言えばこれはライトノベルではないか。書物に対して何らかの“読み応え”を期待する向きには、まるで合わない本である。

 加えて致命的なのは、映画に対する見識の甘さ。俎上に載せられていたのは「ニュー・シネマ・パラダイス」だったり「フィールド・オブ・ドリームス」だったり「七人の侍」だったりと、何の捻りも無いポピュラー作品ばかり。いたずらにマニアックに走る必要はないが、少しは映画マニアらしい意外性のある選択は出来なかったのか。

 さらに、郷直の文章も謎のライターのアーティクルも、とても傾きかけていた映画雑誌を立て直すほどのインパクトは無い。果たして作者は本当に映画が好きなのかと、疑ってしまうようなレベルだ。映画を題材にするのならば、セオドア・ローザックの「フリッカー、あるいは映画の魔」ぐらいの想像力を発揮して欲しいものだ。
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「ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY」

2020-04-13 06:37:05 | 映画の感想(は行)
 (原題:BIRDS OF PREY (AND THE FANTABULOUS EMANCIPATION OF ONE HARLEY QUINN) )決して上等な作品だとは思わないが、件のコロナ禍で世の中が暗鬱な空気に包まれ、新規に封切られる映画の本数も目に見えて減ってきた昨今、本作のように何も考えずにスクリーンに向き合える単純明快な活劇編を観ていると、心の底からホッとした気分になる。本来、映画鑑賞とはそんな憂さ晴らしの効用も大きいのだ。

 悪の帝王ジョーカーと破局したハーレイ・クインことハーリーン・クインゼルは、今までジョーカーの後ろ盾があって手を出せなかった悪党どもから一斉に命を狙われるようになる。さらに、ゴッサム市警のレニー・モントーヤ刑事も執念深く彼女を追いかける。一方、ゴッサム・シティでは怪人ブラックマスクことローマン・シオニスが悪の限りを尽くしていた。彼の次のターゲットは、マフィアであるバーティネリ家の巨額の遺産である。



 その隠し資産の在処を記したダイヤの在処を突き止め、一度は手にしたローマンだが、スリの少女カサンドラ・ケインにダイヤを盗まれてしまう。ローマンに捕まって“今夜12時までにダイヤを取り返せば見逃してやる”と脅されたハーレイだが、もとより彼に従う気など無く、レニーや特殊な声を持つブラックキャナリー、凄腕の暗殺者ハントレスらと共闘してローマンに立ち向かう。

 キャシー・ヤンの演出は文字通りマンガチックで賑々しいが、メリハリは感じられずテンポも良くない。話自体は中盤がごちゃごちゃして分かりにくく、終盤の対決シーンに行き着くまでがまどろっこしい。しかし、キュートで極悪なヒロインのハーレイが仲間と共に暴れ始めると、画面が活き活きと弾んでくるのだ。

 「スーサイド・スクワッド」(2016年)では映画の出来が悪かった分、彼女の存在がスポイルされた感があったが、この映画は彼女が主役であり、目覚ましい無双ぶりを発揮する。格闘シーンは凄みは希薄で一種のスポーツみたいな印象を受けるが、脳天気な作風にはマッチしている。他のキャラクターも十分に“立って”おり、それぞれに見せ場が用意されている。



 主演のマーゴット・ロビーは絶好調で、あの御面相が役柄にピッタリ。まさに迷いの無い怪演だ。メアリー・エリザベス・ウィンステッドにロージー・ペレス、ジャーニー・スモレット=ベルといった他の面子も実に“濃い”。おかげでブラックマスク役のユアン・マクレガーの影が薄くなってしまったが、これはまあ致し方ないだろう。

 なお、「スーサイド・スクワッド」はジェームズ・ガン監督によってリブートされるとかで、M・ロビーは続投するらしい。まあ“前回”よりヒドくなることは考えられないので(笑)、楽しみに待ちたい。
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「ザ・コールデスト・ゲーム」

2020-04-12 06:10:51 | 映画の感想(さ行)
 (原題:THE COLDEST GAME)2019年作品。Netflixで配信されたスパイ・サスペンスで、設定や雰囲気はアメリカ映画のようだが、実はポーランド映画。言われてみれば、ストーリーラインにこの国の戦後史が散りばめられており、それが効果を上げている。展開は荒っぽさも感じるが、緊迫度が高く最後まで飽きずに見ていられる。

 キューバ危機が勃発した1962年、アメリカとソ連のチェスのチャンピオンによる親善試合がワルシャワで行われようとしていた。ところが米国代表が試合直前に謎の死を遂げ、アメリカ当局は代わりに天才数学者でチェスの達人であるマイスキーを拉致同然にポーランドに移送し、試合に臨ませようとする。



 実はこのイベントの裏には米ソの諜報戦が絡んでおり、マイスキーにはソビエト軍内部の通報者に接触して、キューバ情勢に関する機密を入手せよとの指令が無理矢理に押し付けられる。ポーランドのアメリカ大使館のスタッフやCIAのエージェントがマイスキーをフォローするが、彼はイマイチ信用していない。通報者の正体も分からない中、やがて予期せぬ出来事が次々と起こる。

 マイスキーのキャラクター設定が秀逸だ。重度のアル中だが、彼はシラフでいる時には頭の回転が速すぎて上手く行動出来ない。ところが酒を飲むといい案配に頭脳の明晰度が緩和され、結果としてチェスでは無敵になる。まるでジャッキー・チェン扮する「酔拳」の主人公みたいな造型だが、マイスキーは外見はショボくれたオッサンであるところが面白い。まさに意外性の塊だ。

 そんな彼が誰が敵か味方か分からない剣呑な世界に放り込まれることになるが、終始マイペースで難関を乗り越えていく。特に、地元の博物館の館長と飲み友達になるくだりは興味深い。館長は第二次大戦末期のワルシャワ蜂起を体験しており、街中に張り巡らされた抜け道(地下水道を含む)をマイスキーに紹介するのだが、そこに大戦中にポーランド国民が味わった苦難が刻み込まれている。かつてナチスに蹂躙されたこの地は、冷戦下ではソ連の支配するところになった。その鬱屈ぶりが焙り出されている。



 物語は、意外な裏切り者と、これまた意外な味方が交互に現れ、二転三転する。それに応じてチェスの対局も波乱含みになるあたり、なかなかよく考えられている。登場人物は皆十分に“立って”いるが、敵役のソ連の司令官が絵に描いたようなサイコパスぶりを披露する場面は個人的にウケた。

 ルカシュ・コスミッキの演出は中盤でのプロットの混濁はあるものの、重量感があってテンポも悪くない。主演のビル・プルマンのパフォーマンスは絶品で、おそらく彼の代表作の一つになるだろう。ロッテ・ファービークにロベルト・ヴィェンツキェヴィチ、ジェームズ・ブルーアといった他のキャストも万全だ。上映時間が103分とコンパクトなのも有り難い。
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