元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「EUREKA(ユリイカ)」

2015-06-30 06:21:03 | 映画の感想(英数)
 2000年作品。第53回カンヌ国際映画祭にて国際批評家連盟賞とエキュメニック賞を受賞し、その長大な上映時間と独特の映像も相まって、封切り当時は話題になった映画だ。個人的には諸手を挙げての賞賛は出来ないが、作品の佇まいには惹かれるものを感じる。

 福岡県のある町で凄惨なバスジャック事件が起こり、運転手の沢井と中学生の直樹と小学生の梢の兄妹だけが生き残る。それから2年後、心に傷を負ったまま彷徨っていた沢井は久々にその町に帰り直樹と梢を訪ねるが、彼らの家庭は崩壊して家にいるのは2人だけだった。そのまま家に居着いた沢井は、兄妹の従兄の秋彦と共に奇妙な共同生活を始める。



 その頃、町では連続通り魔殺人事件が発生していた。暗い過去を持つ沢井を疑う者も少なくなく、それを振り切るように彼は小さなバスを手に入れると、直樹たちと旅に出る。しかし、彼らの行く先々で殺人事件が起こる。

 沢井と幼い兄妹の価値観にはまったく賛同できないし、理解しようとも思わない。誰が何と言おうと、私は一般的な社会常識をわきまえた秋彦の側の人間だ。そもそも女性連続殺人事件のエピソードが必要だったのか大いに疑問であり、全体的な作劇のバランスを崩しているとも言える。しかしそれでもこの映画は観る価値がある。

 青山真治監督の淡々とした演出タッチ。“クロマティックB&W”と呼ばれるセピア調の画面処理。美しいカメラワーク。3時間37分もの上映時間が醸し出す、ゆったりとした心象への旅の雰囲気が捨てがたい魅力を発している。悠然とした時の流れを映像化するには、この長さは不可欠だったのだろう。短縮版は作る必要はない。

 沢井を演じる役所広司のパフォーマンスは狂気と正気との移ろいを感じさせて見応えがある。彼と国生さゆり扮する妻の別れのシーン(ロケ地は西中洲のエスカイヤクラブ ^^;)も泣かされた。直樹を演じるのは宮崎将だが、梢役の宮崎あおいの存在感が目立っており、本作以降は彼女の“快進撃”が始まる(笑)。アルバート・アイラーとジム・オルークによる挿入曲が効果的。たぶん十数年後に出所する通り魔殺人事件の犯人は、青山真治監督のデビュー作「Helpless」(96年)の光石研のように破滅への道を辿るのだろう。
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「海街diary」

2015-06-29 06:27:31 | 映画の感想(あ行)

 肌触りは良いが、深みは無い。大事なことが何も描き込まれておらず、ただムード的に全てが過ぎ去っていく。是枝裕和監督は“この程度”のシャシンでカンヌ国際映画祭で賞を取れるとでも思っていたのだろうか。もしもそうだとすれば、随分と見通しが甘かったと言わざるを得ない。

 鎌倉の古い一軒家に暮らす長女・幸、次女・佳乃、三女・千佳の香田家3姉妹のもとに、15年前に家を出てヨソの女と一緒になった父が亡くなったとの知らせが届く。彼女達は葬儀に出席するため山形へ行くが、そこで異母妹となる14歳のすずと初めて出会う。すずはメソメソと泣くばかりで頼りにならない母親をよそにテキパキと立ち振る舞い、場を仕切る。そんな彼女の姿を見た幸は、別れ間際にすずに“鎌倉で一緒に暮らそう”と提案する。やがてすずは3姉妹のもとに身を寄せ、香田家の四女として暮らすようになる。

 幸が葬儀の席でのすずの孤軍奮闘を見ただけで、彼女に親や親戚もいる山形から離れるように提言するのは唐突に過ぎるのではないか。すずは鎌倉の学校に転入するのだが、転校生が味わう孤立感や戸惑いなどを微塵も見せず、またイジメっ子の影なども見当たらず、スムーズに新しい環境に溶け込んでいるのは鼻白む思いだ。

 看護婦である幸は妻子ある医師と付き合っているが、それに対する屈託や逡巡などはほとんどクローズアップされていない。佳乃とその交際相手との関係もあやふやなまま終わってしまうし、千佳が思いを寄せているらしいスポーツ店の店主の態度も曖昧だ。さらに言えば、彼女たちの行きつけの飲食店を仕切る女主人と、店に入り浸っている得体の知れない男との関係もよく分からない。

 極めつけは、3姉妹の母親が北海道からやってくるシーンがあること。てっきり父親が家を出た後に母親は世を去ったのかと思っていたら、ちゃっかりと別の男とヨソの土地で呑気に暮らしていたのだ。つまり3姉妹は両親から祖母と古い家を押し付けられたまま、今までずっと過ごしていたのである。随分と御無体な話だと思うが、それに関する3姉妹の屈折した気持ちの描写は拍子抜けするほど淡白だ。

 斯様にこの映画は、掘り下げられるべき各モチーフが放置されたまま無意味に並んでいるに過ぎず、これで“彼女達の成長を見守りましょう”みたいな素振りを見せられても、到底承服できるものではない。

 その代わり、鎌倉を舞台にしたイメージ・フィルムとしては良く出来ている。古き良き町並みをとらえた、柔らかく繊細な映像。特にすずと同級生の風太が“桜のトンネル”の下を自転車で疾走するシーンは美しい。だが、そんなのは映画の“外観”でしかなく、中身をフォローする手立てには成り得ていない。

 綾瀬はるか、長澤まさみ、夏帆という“巨乳3姉妹”の揃い踏みは圧巻だが(爆)、それよりも四女役の広瀬すずが光っていた。この安定感と存在感は今後に期待を持たせる。だが堤真一や加瀬亮、風吹ジュン、リリー・フランキー、キムラ緑子、樹木希林といった脇の面子はパッとせず、わずかに風太役の前田旺志郎がイイ味を出す程度で、キャスト面でも不発だ。小津安二郎監督作へのオマージュ(と称するパクリ)のショットも白けるばかり。原作は漫画らしいが、たぶん原作のファンからも顰蹙を買うものと思われる。
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2回目の“映画音楽鑑賞会”を催してみた。

2015-06-28 06:13:57 | 音楽ネタ

 昨年(2014年)末に映画好きの仲間を拙宅に何人か呼んで“映画音楽を聴く会”みたいなものをやったが、好評につき今回2度目の開催と相成った。前回よりも参加人数は多く、狭い我が家がますます窮屈になった感があったが(笑)、時間も再生曲数も多めに取ることが出来てけっこう盛り上がった。

 第1回の時はサントラ盤以外はジャズ系を中心に流したが、今回はジャンルを広げてクラシック系からロック系、ヒップホップまでカバーした。どんなタイプの楽曲でも映画音楽という枠組みに放り込めば、たとえそのジャンルが好きでは無い聴き手でも、映画ファンであれば受け入れてしまう。実に面白いものだ。

 今回初めて参加したメンバー何人かは、ピュア・オーディオシステムの音に触れるのは初めてということだった。別に私のシステムが高級だというわけでは無いが、それでもミニコンポやラジカセとは明らかに違うサウンドに驚いたようだ。なお、参加者は全員いわゆる“若者”ではなく中高年層である。居間に置かれるセパレート型のステレオを目撃したことのある世代でもピュア・オーディオシステムの音に縁の無い者がけっこういるということは、今の若年層に至ってはステレオセットの存在自体さえ知らないのは無理からぬことだと思う。

 今、メーカーはハイレゾ音源を売り込もうと必死になっているようだが、音源のスペック値がいくらか上がったところで肝心の再生装置がスマートホンやDAPでは効果は期待出来ない。再生装置のグレードがアップすればサウンドの質も上がるという、当たり前の基本線を押さえた上で幅広くPRに臨まないと、かつてのSACDの二の舞に終わるだろう。

 本当はこんな“オーディオ門外漢の一般ピープル向けの音楽鑑賞会”みたいなものは、メーカーやディーラーが率先して実行して然るべきである。

 今回も参加者の間では再生した楽曲が使われた映画に関しての感想や思い出話に花が咲き、和気藹々のうちに終えることが出来た。次回はいつ開催出来るかまったく分からないが、今度は参加希望者に“お子さんも同伴でどうぞ”と呼びかけようと思っている(^^)。
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「グローリー 明日への行進」

2015-06-27 06:56:33 | 映画の感想(か行)

 (原題:Selma )重い題材を扱っているはずだが、観た印象は薄くて軽い。話のまとめ方やキャラクター設定等が練り上げられておらず、散漫で盛り上がりに欠ける。聞けば初めてマーティン・ルーサー・キングJr.牧師自身を描いた映画とのことだが(今までは遺族の承諾を得られなかったらしい)、アカデミー賞候補になったのはそんな背景があるからであり、作品自体が評価されたからではないのではと思ってしまった。

 1964年にキング牧師がノーベル平和賞を受賞し、盛り上がっているかのように見えたアメリカ公民権運動だが、相変わらず人種差別主義者による卑劣な妨害が頻出していた。65年、アラバマ州セルマではキング牧師の主導のもと、黒人の有権者登録の妨害に抗議して約600人が立ち上がり、州都モンゴメリーに向けてデモ行進を開始。それに対して白人知事率いる警官隊は力によってデモを鎮圧し、多数のケガ人が発生する。

 このいわゆる“血の日曜日事件”の映像が全米に流れると大きな反響を呼び、その2週間後に再び行われたデモの参加者は2万5千人にまで膨れ上がった。やがて世論は動き、大統領も関与せざるを得ない事態になる。

 映画の敗因は、キング牧師の陣営が詳しく描き込まれていないことだ。確かに多くの者が彼を手助けしている。だが、具体的に誰がどういう役割を担っていて、どれほどの仕事を成し遂げたのか、よく分からない。彼の妻も登場するが、いかにして内助の功を発揮したのか示されていない。いくら実録物とはいえ、愚直に事実通り頭数を揃える必要はないと思う。キャラの立った人物を2,3人に絞って配備して思う存分動かした方が盛り上がったはずだ。また、何の伏線も無くマスコミが味方に付くあたりも御都合主義的に見える。

 さらに、主演のデイヴィッド・オイェロウォをはじめ、キング牧師の側の演じ手が皆どうも小粒に見える。これでは存在感において悪辣なアラバマ州知事を演じるティム・ロスや、海千山千ぶりを見せるジョンソン大統領役のトム・ウィルキンソンなどに敵うはずもない。ラストの主人公の演説は聴き応えがあるが、これはこの映画の手柄ではなくキング牧師本人が凄いからに他ならない。

 本作がメジャーでの初登板になる女流のエイヴァ・デュヴァーネイ監督の演出は冗長で、メリハリもリズム感も無い展開は、始まって20分もしないうちに眠気が襲ってくる。わずかに印象に残ったのはジョン・レジェンドとコモンによるエンディング・テーマ曲のみだ。それから、ブラッド・ピットが主宰するプランBエンターテインメントが一枚噛んでいるのも気になる。どうしても同じく彼がプロデュースし、同様に黒人差別を扱った凡作「それでも夜は明ける」(2013年)を思い出してしまうのだ(-_-;)。
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「ロマンシング・ストーン 秘宝の谷」

2015-06-26 06:25:08 | 映画の感想(ら行)
 (原題:Romancing the Stone )84年作品。実に面白い冒険活劇だ。奇しくもスピルバーグの「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」と同じ年に公開されているが、こちらの方が大人の鑑賞に耐えうる出来であり、観て得した気分になる。ロバート・ゼメキス監督作としても、このあとに撮った「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズの助走になるような勢いのあるシャシンだと言える。

 ニューヨークに住む恋愛小説作家のジョーンが出版社から帰宅すると、部屋中がめちゃくちゃに荒らされていた。どうやら、賊は何かを探していたらしい。やがて、南米コロンビアにいる姉イレインから電話がかかってくる。彼女はギャングに誘拐されていて、数日前に夫が出したジョーン宛の手紙に同封されていた宝の地図を持って来てくれないと、命が危ないという。



 コロンビアに赴いたジョーンだが、さっそく地図を狙う悪徳軍人たちが襲ってくる。危機一髪の場面で彼女を救ったのは、流れ者のトラックの運転手ジャックだった。2人は悪者より先に秘宝を手に入れるべく、ジャングルの中を探し回る。

 ジョーンはロマンス小説の作家ではあるが、実は恋愛には疎い。自分の書いた予定調和のストーリーを読みながら泣き出してしまう始末だ(笑)。そんな彼女が南米の奥地で、しかも自分の小説には絶対に出てこないであろうガサツで汗臭い野郎と行動を共にするハメになる。ジャックの方も、ヘンに気位の高い自意識過剰の都会の女には手を焼くばかり。

 そんな2人がケンカをしながら次第に互いを憎からず思うようになってくる様子は、典型的な(大人の)ボーイ・ミーツ・ガールもの、いわばスクリューボール・コメディだ。このあたりがRPGの拡大版みたいな「インディ・ジョーンズ」とは違う。

 ゼメキスの演出は達者で、展開に淀みがない。ギャグもツボに入り、飽きずに楽しませてくれる。主役のキャスリーン・ターナーとマイケル・ダグラスは絶好調。コメディ・リリーフを務めるダニー・デヴィートもイイ味を出している。アクションに次ぐアクションの末に、舞台がニューヨークに戻ってからの鮮やかな幕切れまで、鑑賞後の満腹感は実に高い。ただ惜しむらくは、続編の「ナイルの宝石」(85年)が凡作だったこと。ゼメキスが続投していれば息の長いシリーズになったのかもしれないが、製作サイドの事情は如何ともし難いようである。
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「サンドラの週末」

2015-06-22 06:22:55 | 映画の感想(さ行)

 (原題:DEUX JOURS, UNE NUIT)厳しくも見応えのある映画だ。ヒロインの行動に“まったく問題は無い”とは言えないが、絶望的な状況に追い込まれた者が形振り構わぬ“反撃”に打って出ることにより初めて自分自身と他者に正面から向き合い、新たな関係性を見出していく過程を力強いタッチで描き、全編目が離せない。また現代社会が内包する問題を鋭く指摘しているあたりも見逃せない点だ。

 ベルギーの地方都市に住むサンドラはメンタル障害を患い、長らく休職していた。やっと体調も回復して職場復帰しようとした矢先の金曜日、いきなり会社から解雇を言い渡される。これまで17人の従業員を抱えていたが、サンドラがいない間に16人でも仕事が回っていけることが分かった社長には、再び“余剰人員”を背負い込む気はない。

 それでもサンドラと親しい同僚の申し立てにより、週明けの月曜日にサンドラを除く16人が投票をして、全員が次のボーナスをあきらめて彼女を復帰させるか、サンドラの解雇に同意してボーナスを全員がもらうかを決めることになった。飲食店に勤める夫の稼ぎだけでは、家賃の支払いと幼い2人の子供の養育費もままならない。何とかリストラを回避させたい彼女は従業員一人一人を訪ね歩き、説得を試みようとする。こうしてサンドラのハードでヘヴィな週末が始まった。

 主人公の言い分が“身勝手なお願い”であることは、本人も他の従業員も承知している。だが、彼女の依頼は皆からけんもほろろに断られて当然・・・・とはならない。どんなに彼女が長期間仕事から離れていても、たとえ普段は親しく接していなかったとしても、周囲の者はちゃんと主人公を見ているのだ。もちろん彼女の言い分を頑として受け付けない者もいる。しかし、一対一で話をすることによって相手がサンドラに対して抱いていた感情が判明し、支持を得られるケースもある。またサンドラの訪問によって家族との関係性を見直す者もいる。

 病み上がりで万全な状態ではなく、精神安定剤を飲んでベッドに潜り込もうとする彼女に、夫は叱咤激励する。それが一方的な“命令”ではなく、いわば“共闘”の申し出である点が嬉しい。

 また、各従業員はサンドラの状況が“明日のわが身”であることを認識していることも大きい。17人でやっていた仕事が16人でやれるのならば、経営者は余った人員に新たな仕事を振るのが筋だろう。それを目先の人件費削減に拘泥するあまり、簡単に首を切ってヨシとする。そんなコストカット至上主義的なトレンドを皆が感じ取っている。サンドラが追い出されたならば、リストラに歯止めが掛からなくなり、次のターゲットは自分になるだろう。そういう風潮に対する抗議が、作品の求心力を高めている。

 ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌの演出は対象に肉迫し、観る者を引き付けてやまない。この監督の作品にしては珍しくマリオン・コティヤールというメジャーな俳優を主役として据えているが、彼女の迫真の演技は一見地味な題材を持つこの映画を、先の読めない良質のサスペンス劇にも仕立てている。

 それにしても、本作を観て“主人公は甘えている。無駄なことはやめて、別の職を探すべきだ”と片付けてしまうような評をどこかで見かけたのにはゲンナリしてしまう。自分がサンドラの立場になったらどうなるのかという想像力が働かないようだ(誰でもそうなる可能性はゼロでは無いと思う)。しかしながら、ラストのヒロインの“男前ぶり”には感服した。世知辛い渡世も、こういう心意気を持って乗り切りたいものだ。
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「アリス」

2015-06-21 06:43:30 | 映画の感想(あ行)
 (原題:ALICE )90年作品。ウディ・アレンの第20作目だが、前作「重罪と軽罪」(89年)や前々作「私の中のもうひとりの私」(88年)と比べると、完全に物足りない出来である。まず、一番の敗因は、まさかと思われたオカルトまがいのネタをやってしまったことだ。

 上流階級の主婦であるアリス(ミア・ファーロー)は、エリートでおだやかな夫ダグ(ウィリアム・ハート)と可愛い娘に囲まれ、暇な時間は女友達との買い物やおしゃべりで過ごしながら、なに不自由なく暮らしている。ある日、原因不明の背中の痛みを覚えたアリスは、女友達に勧められて“知る人ぞ知る”といわれるドクター・ヤン(キー・ルーク)をチャイナタウンに訪ねる。ヤンにもらった不思議な薬は次々に効き目をあらわし、アリスを異次元の世界へと誘うのだが・・・・。



 アリスは不思議な薬で昔のボーイフレンドの幽霊に会ったり、突然大胆になって、前から気になっていた中年男性をデートに誘ったり、ついには透明人間になる薬を使って夫の浮気場面を目撃してしまう。だが、何か違うのだ。ファンタジー・コメディにしようという魂胆らしいが、ギャグがすべて空回り。こういう設定では絶対アレン本人が出演して、お笑いを盛り上げるべきだが、なぜか今回は出ていない。

 それでは場違いのオカルトっぽいネタで何を見せてくれるかというと、ブルジョワ階級の有閑婦人の周囲の偽りに満ちた日常、というごくありふれたものであり、結局最後はそれに疑問を持ったヒロインが、夫を捨ててアフリカで奉仕活動をやるという、取って付けたような結末が待っている。この程度の題材をアレンがわざわざやる必要があったのだろうか。

 ウィリアム・ハートをはじめとする豪華キャストも、大方は何しに出てきたのかわからないくらい、大した演技はしていない。これは期待外れだった。

 コメディとして煮えきらず、かといって主題にそれほどの普遍性があるわけでもない。アレンとしては軽く流した作品かもしれないが、ハッキリ言って、観た後3日もたてば、全部忘れてしまうような出来である。 カルロ・デ・パルマのカメラによる暖色系の手触りのいい映像、センスのい選曲、舞台劇を思わせるステディなカメラワークなどは、いつもながら優れているとは思うものの・・・・。
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「ザ・トライブ」

2015-06-20 06:45:23 | 映画の感想(さ行)

 (英題:The Tribe )アイデア倒れの映画であり、観ていて馬鹿らしくなる。褒めている評論家もいるようだが、小手先のギミックに目がくらんで作品自体の論評を放棄したような粗忽者と言うべきだろう。聞けば第67回カンヌ国際映画祭の批評家週間で賞を獲得したらしい。だが、主要アワードの受賞作が良い映画とは限らないことを、今回またしても認識することになった。

 ウクライナの地方都市にある全寮制の聾学校に入学したセルゲイ。そこは暴力が日常化した無法地帯であった。学校を支配する組織=族(トライブ)に関わることになったセルゲイだが、次第に頭角を現して重要な“仕事”を任せられるようになる。ところが彼はリーダーの愛人と思しき女生徒アナに恋してしまい、他の連中から痛めつけられる。復讐を誓ったセルゲイは、反撃に出る。

 聾唖者ばかり出てくる本作においては、登場人物のいずれもセリフを声に出すことは無い。しかも、字幕さえ省かれている。観客は映像だけでストーリーを追えということなのだろうが、これは明らかにおかしい。なぜなら、出て来る者は全員手話で頻繁に会話しているからだ。

 つまりは、本来セリフによってフォローされるはずのストーリーラインが、観る側にとって不用意にマスクされているということであり、これは送り手の独善でしかない。しかも手話に堪能な者が観たならば、作者の“セリフや字幕が存在しない(だから観客は想像力を働かせなければならない)”という企ても一瞬にして雲散霧消してしまう。それだけ底の浅い小細工でしかないのだ。同じく聴覚障害者を扱った北野武監督の「あの夏、いちばん静かな海。」(91年)の志の高さと比べると、児戯にも等しいレベルでしかない。

 そして、セリフや字幕がネグレクトされていることを差し引いても、作劇は随分といい加減である。学園ドラマには不可欠の、教師が介在するシーンは極小。授業の場面なんか、ほんの一部しかない。ただ漫然と描かれるのは、若造どもが勝手気ままに悪事を働くシーンのみ。大っぴらに売春が行われていることも提示されるが、どうしてこんなことが可能なのか説明は一切なし。そもそも、寮で男子部屋と女子部屋が同じフロアに存在しているという設定からして噴飯ものだ。

 演出にはメリハリが全くなく、各シークエンスが無駄に長い。始まって30分もしないうちに、眠気が襲ってきた。監督はミロスラブ・スラボシュピツキーなる人物だが、腕前は三流以下である。唯一感心したのが、小奇麗なポスターの上に踊っている惹句の数々(笑)。一つ一つ見てみると大きな間違いは無いようだが、内容を巧みに糊塗するような言葉の選び方に、配給会社の苦労が想像できる。
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「ヴィタール」

2015-06-19 06:34:50 | 映画の感想(あ行)
 2004年作品。塚本晋也監督作品の中では一番面白くない。“事故で記憶をなくした医学生が、解剖実習により記憶の断片がよみがえることを知り、それにのめりこんで行く”といった、この監督らしい異常なネタを扱いながら、やけに印象は淡白だ。

 医学生の博史は交通事故に遭ったが、かろうじて一命を取り留めた。ところが記憶を無くしていて、両親の顔さえ覚えていない。それでも医学への興味は失っておらず、大学で勉学に励む。解剖実習が始まり、博史が所属するグループには若い女の遺体が割りあてられた。だが、博史は実習を続けているうちに“もう一つの世界”に迷い込んでしまう。そこでは左腕に刺青のある涼子という女とのアバンチュールが展開しているのだった。一方、現実世界では心に傷を負った同級生の郁美が、暗い影を持つ博史に惹かれていく。



 解剖する相手が同じ事故で死んだかつての恋人だったという超御都合主義には目をつぶるとしても、その“失った記憶(らしきもの)”というのがトレンディ・ドラマ並みに脳天気で気恥ずかしいシーンばかりなのには脱力する。つまりは“事故の後遺症で悶々としている今の自分は偽りで、前の恋人と過ごした甘い日々こそが本物”という陳腐で単純な二層構造にドラマを丸投げしているのだ。

 もちろん、筋書きが単純でもそれをカバーするだけの演出上の仕掛けがあれば言うことないが、別に驚くようなシーンもなく、そもそも肝心の解剖場面が(専門家筋では実物に近いという評価らしいが)映像的に全く映えないのだから、あとは推して知るべしである。熊井啓監督の「海と毒薬」などの足元にも及ばない。塚本自身が担当したというカメラワークも何やら薄っぺらで小綺麗なだけ。

 主演の浅野忠信は、まあいつも通りの演技だが、柄本奈美、KIKIといった新人女優陣が弱体の極みだ。10年にもわたって解剖学についてリサーチしたという監督の熱意は認めたいが、ドラマの組み立てがこれでは何もならないだろう。
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「私の少女」

2015-06-15 06:29:38 | 映画の感想(わ行)

 (英題:A Girl at My Door )見応えのある映画だ。孤独な魂を持つ主人公二人の“道行き”を切々と描くと共に、社会的マイノリティが舐める辛酸をヴィヴィッドに浮き彫りにする。プロットは堅固で、ドラマが弛緩することも無い。本年度のアジア映画を代表する佳編である。

 ソウル地方警察庁に勤めていたキャリア女性警察官のヨンナムは“ある理由”により田舎の港町の派出所へ左遷されてしまう。そこで彼女は、母親が蒸発して継父と義理の祖母に虐待されている少女ドヒと出会う。何とか彼女を救いたいと思ったヨンナムは一時的にドヒを引き取るのだが、自身のある秘密が明らかにされ、窮地に陥ってしまう。ドヒはヨンナムを助けるべく、大胆な行動に打って出るのであった。

 ドヒの造形が出色だ。無邪気さと狡猾さとが交互に表出し、愛らしさと残虐性とが巧みに混ざり合う。この得体の知れない存在感が醸し出されるようになったのは、もちろん彼女自身の責任ではない。理不尽な虐待と“母親のいない子”に対する世間の白い眼が悪いのだ。

 演じるキム・セロンのパフォーマンスは素晴らしく、世の中を達観したような眼差しは、観ていて居たたまれない気持ちになる。「アジョシ」や「冬の小鳥」で演技派子役として注目された彼女だが、十代になって独特のオーラを放つ(長い手足も印象的な)若手女優に成長。今後の活躍が期待される。

 一方のヨンナムも、世の中の大多数とは異なる嗜好を持っていたために、容赦なくエリートの座から引きずり降ろされる。ガランとした家の中で一人酒に溺れる様子は心象をよく表現しているが、制服を着ているシーンが必要以上に多いことがキャラクター設定の面でポイントが高い。なぜなら、不遇な私生活の中で唯一拠り所としたものが警察官という立場であったという、頼りにならないものにも縋り付かずにはいられない人間の悲しい性を描出しているからだ。

 ヨンナムにはペ・ドゥナが扮しているが、この韓国屈指の実力派女優の真価は今回は遺憾なく発揮されている(若干イロモノ扱いされたハリウッドでの仕事とは段違いだ)。プレッシャーで押し潰されそうになる様子をスリムな身体を目一杯使って表現する、この渾身の演技には目を見張ってしまう。ソン・セビョクやキム・ジンウ等、脇のキャストも良い。

 監督はこれがデビューとなる若手女流のチョン・ジュリだが、製作担当のイ・チャンドンの薫陶を受けただけあって、正攻法の力強い演出を見せている。ラスト以降で主人公達を待ち受けるものは、果たして希望かそれとも破局か。切ない感慨がずっと後を引く。
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