元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

宮部みゆき「楽園」

2010-06-26 07:32:51 | 読書感想文
 好評を博した「模倣犯」の主要登場人物の一人であるフリーライター・前畑滋子が新たな事件に挑むという筋書きだが、まったく面白くない。本作に限らず、宮部みゆきの最近の小説はどれもヴォルテージが低い(まあ、全部読んでいるわけではないが ^^;)。あたかも「模倣犯」で“終わって”しまったような印象を受ける。昔の、才気に溢れていた頃を知る読者にとっては寂しい限りだろう。

 前畑滋子のもとに、荻谷敏子という女性が現れる。12歳で死んだ息子の等が超能力を持っていたのかどうか調べて欲しいという突飛な依頼だ。等は16年前に殺された少女の遺体が焼け跡で発見される前に、それを絵に描いていたらしい。もちろん前畑はこれを引き受けるのだが、考えてみれば受諾した理由がハッキリしない。いろいろと理屈らしいものはくっつけているようだが、単なる興味本位の域を出ない。



 しかも、彼女が動くたびに新しい事実が次から次へと出てきて、取材対象者は(最初は躊躇するが)結局すべてを打ち明けてしまうという都合の良さ。前畑が抱いた疑念はすべて現実化し、怪しいと思った奴はやっぱり怪しくて、意外性のあまりないラストが巻末で退屈そうに待っている。

 文章のテンポは悪く、説明的パートがイヤになるほど多い。それでいて大切なモチーフが途中で抜け落ちていたりする。上下2巻にもわたる長い作品だが、特に上巻の冗長さは如何ともしがたい。

 最も違和感を覚えたのは、殺された少女は手の付けられない不良で、悪事に荷担した野郎は札付きのワルだという、つまり“悪だから悪”といった決めつけでキャラクターを設定していることだ。お手軽活劇やロールプレイングゲームならともかく、ちゃんとしたミステリー体裁を取っていながら、この安易さは不快だ。私が知りたいのは“誰が悪なのか”ではなく“どうして悪なのか”である。そこを突っ込まないと、全てが絵空事である。久々起用した“超能力ネタ”も宙に浮いた形だ。

 通常、作家は年齢を重ねるごとに人物描写に円熟味を増すものだと思うが、宮部みゆきの場合はまったく逆だ。よほど無味乾燥な私生活を送っているのではないか・・・・という、いらぬ想像もしたくなる。とにかく、読む価値があるとは言い難い。
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「ダブル・ミッション」

2010-06-25 06:44:26 | 映画の感想(た行)

 (原題:THE SPY NEXT DOOR )非常にユルい作品だが(笑)、個人的にはけっこう楽しめた。ジャッキー・チェンのハリウッド進出30周年記念作という触れ込みのスパイ活劇コメディ。彼がアメリカでも仕事を始めてもうそんなに経つのかと、まずそのことに驚いてしまう。

 考えてみれば数々の快作をモノにした香港での活動に比べて、肉体アクションの扱い方を知らないハリウッドの方法論とは相性が良好とは言い難く、煮え切らない作品ばかり連発して、結果アメリカでの仕事ぶりが印象付けられないまま現在に至っているのが実状だろう。だから“30周年オメデトウ”と言われてもまるで合点が行かないのだ。

 で、本作はその逆境を克服しているようなヴォルテージの高い映画かというと、決してそうではない(爆)。むしろジャッキーのアメリカ作品の中では、最もお手軽な作りだと言える。ところがこれが他愛が無くて面白い。これはひとえに“身の程を知った”ということではないだろうか。

 どうせハリウッドでは、活劇映画で肉体の限界を示すよりも適当なところで特殊効果に頼る方が“合理的だ”と思われているので、身を削って頑張るよりも自らの陽性なキャラクターを活かしたライトな役柄をこなす方が得策だ・・・・と悟ったのではないか。今回は一応アクション映画の体裁を取っているが、今後は活劇を抑えた“気の良い中国系のオッサン”という役回りでアメリカ映画に出ることが多くなるのかもしれない。

 さて、本作はCIAに出向している中国情報部のエージェントが、ロシアン・マフィアと究極的な生物兵器の争奪戦を演じるという設定のシャシンだ。しかし、舞台がニューメキシコ州の田舎町で、主人公が立ち回りを演じる場所も自宅とその近所という、実にミニマムな作りである。それがあまり安っぽくならないのは、彼がスパイであると同時に平凡なセールスマンとしての“表の顔”を持っており、隣家のシングルマザーと恋愛中という小市民的な面を補完する役割を果たすからだ。これがたとえば“表の顔”がマンハッタンのビジネスマンで複数のキャリアウーマンとよろしくやっているとしたら、嘘っぽくて観ていられないだろう。

 ジャッキーと3人の子供達との触れ合い、とりわけ前夫の子で母親と血が繋がっていない長女の屈託を解してやるくだりは、彼の柔らかい個性が出ていて納得出来る。アクションシーンはさすがに若い頃のような切れ味には欠けるが、段取りが上手くて飽きさせない。ヒロイン役のアンバー・ヴァレッタと長女に扮するマデリン・キャロルもイイ味を出している。

 それにしても、アメリカと中国が情報部員の人材交流をするほど仲が良くなり、敵対するのがロシアだというのは(いくらフィクションだとはいえ)愉快ならざる気分になる。ロシアの代わりにEUとか日本とかを想定してもいいのだが、とにかく昨今のG2体制で世界を牛耳ろうとする風潮には、何やらキナ臭いものを感じてしまう私である(^^;)。
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「王は踊る」

2010-06-24 06:41:14 | 映画の感想(あ行)
 (原題:Le Roi Danse)2000年ベルギー=フランス=ドイツ合作。17世紀フランス王宮を舞台にした史劇。有能なダンサーでもあったルイ14世(ブノワ・マジメル)と、禁断の愛に苦悩する宮廷音楽家リュリ(ボリス・テラル)の姿を描く。

 監督が「カストラート」(94年)のジェラール・コルビオなので“中身のない外見だけの映画”なんだろうと思っていたら、見事にその通り(笑)。だからその点を割り切って観れば楽しめる作品だ。ルイ14世と宮廷音楽家リュリのホモチックな関係やリュリと天才喜劇作家モリエールとの確執なんてどうでもよろしい。そんなの、この監督に深く描けるわけがない。

 見るべきものは絢爛豪華な舞台セットと衣装、そしてラインハルト・ゲーベル&ムジカ・アンティクァ・ケルンによる絶妙な古楽器演奏だ。ヴェルサイユ宮殿が建てられる経緯が紹介されるのも興味深いし、ラストにはちゃんと“鏡の間”も出てくるので観光映画としても申し分なし。リッチな気分に浸りたい向きにはもってこいのシャシンだ。
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「トロッコ」

2010-06-23 06:41:25 | 映画の感想(た行)

 まるでピンと来ない映画である。監督の川口浩史は芥川龍之介による有名な原作を映画化するにあたり、日本にトロッコが稼働している場所を探したが果たせず、台湾にロケーション場所を求めた結果、日本と台湾との歴史的確執というモチーフを前面に出すに至ったという。ハッキリ言って、これは違うのではないか。川口はいったい何を求めてこの小説を取り上げたのか。

 当然の事ながら、原作には歴史ネタなんか存在せず、映画化の意図は“大人の世界を垣間見た子供(およびその成長)”という普遍的な主題の映像化にあったはずだ。ところがロケ地が台湾になった途端、近代史の何やらかんやらを平気でクローズアップさせている。そんな一貫性のないスタンスで良い映画が作れるはずもないのだが、出来映えもそれに呼応するかのような冴えないものである。

 夫を失ったヒロインは、納骨のために彼の生まれた台湾の山間部の村へ幼い二人の息子と共に向かう。老いた義父は優しく接し、子供達も地元の人々とも打ち解けていくのだが、よく考えるとこの設定自体に無理がある。

 国際結婚など珍しくもないが、それでもヨソの国の人間と所帯を持つには強い動機付けと相当な覚悟が必要なはずだ。しかし、ここではあまり語られない。わずかに日本統治下で育った老人の影響で夫が日本に興味を持ったということが申し訳程度に示されるのみ。ならばヒロインの側からはどうなのかといえば、まったく背景が掘り下げられていない。単に中国語が堪能だったということでは、説明にもなっていない。

 で、そこに唐突に現れるのがトロッコである。老父が若い頃それに乗っていた写真がその前振りとなるが、子供達がそれに関心を持つという設定は、いかにも取って付けたようなものだ。しかも、そのトロッコが家の近くにあり、森林保護に精を出す親子が使っているといった筋書きはあまりの御都合主義にタメ息が出る。原作でのハイライトである、トロッコに乗せてもらった子供が最初は喜ぶが次第に不安になり逃げ出すくだりも、ここでは単に“ストーリーを追った”という程度でインパクトも何もない。

 そして終盤近くになるとヒロインが子供達を台湾に置いていくのどうのという話をはじめ、複数のエピソードがごちゃごちゃと積み重なって慌ただしい展開になる。これで台湾人の日本の対する複雑な想いに感銘を受けろと言われても、そうはいかない。

 主演の尾野真千子は可もなく不可も無しの演技。他のキャストもどうということはない。子役は達者だが、別に特筆するほどではない。リー・ピンビンのカメラによる官能的なまでに美しい森の風景や、川井郁子の流麗極まりない音楽は評価は出来るが、映画自体としては“軽量級”と言わざるを得ない。
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「ふたつの時、ふたりの時間」

2010-06-22 06:22:51 | 映画の感想(は行)
 (原題:那邊幾點)「愛情萬歳」や「青春神話」で知られる台湾の俊英ツァイ・ミンリャン監督による2001年作品。台北とパリを舞台に、因縁で結ばれた若い男女の孤独な日常を描く。「河」(97年)でダメ人間の極北を描き、そのあとの「Hole」(98年)ではダメ状態からの脱却を匂わせたツァイ監督だが、本作では再びダメな連中の生態を冷徹に追っている。

 しかし、主人公シャオカン(同監督作品の常連のリー・カンション)のダメ度は前作までと比べてかなり低い。闇屋みたいな仕事をし、自分の部屋ではアホなことをしたりするものの、だいぶん真人間に近づいてはいる(笑)。

 対して真にダメなのは女どもだ。母親は夫の死を受け入れられず、精神錯乱でズブズブに沈んでゆくし、シャオカンから時計を買った若い女は心機一転のために単身パリに渡るが、誰ともコミュニケーションを上手く取れず落ち込むばかり。ただし、彼女らのダメ描写は前作までのリー・カンション扮する主人公の扱い方とさほど変わらないので幾分退屈だ。そして時計を必要以上に何らかのメタファーとして扱おうとしているところや、思わせぶりなサブキャラの登場は図式的で愉快になれない。

 ラストの扱いは誰でも驚くだろうが、テオ・アンゲロプロスの模倣が感じられてこれもイマイチ。まあ、トリュフォーの「大人は判ってくれない」の引用やジャン=ピエール・レオーのゲスト出演などで作者の創作ルーツが明らかになっている部分は興味深いが・・・・。
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「アウトレイジ」

2010-06-21 06:34:31 | 映画の感想(あ行)

 ここ数年の北野武作品としてはマシな部類。ただし、諸手を挙げて評価は出来ない。まず印象付けられるのは、いつもの北野組の面々が出ていないこと。いわゆる“たけし軍団”の連中はもちろん、寺島進や大杉漣といった馴染みの面子も顔を出していない。そして“キタノ・ブルー”と呼ばれる青っぽい画面は相変わらずながら、音楽は叙情派の久石譲ではなく(「座頭市」に続いて)ストイックなロック系の鈴木慶一を起用した。内容も、作家性を抑えたプログラム・ピクチュア路線に振られているようだ。

 もっとも、昨今は「TAKESHIS’」(2005年)だの「アキレスと亀」(2008年)だのといった内省的なネタを扱ったシャシン(しかも、ちっとも面白くない)が目立ったので、その反動と見るべきかもしれない。ただし、問題はこの映画が北野が過去に何度も手掛けてきたヤクザ物だということだ。これでは新味がないのではないか。もっと別の題材で勝負すべきである。

 ただし同じ任侠物でも「ソナチネ」(93年)や「BROTHER」(2001年)などの、登場人物の個別的な感情がドラマを牽引していた作品とは違い、“全員悪人”という惹句に有る通りすべてが欲得尽くで血も涙もない抗争を繰り広げるという点で、今までにはないテイストを提示しているのは確かだ。しかし、そんなのは深作欣二監督がとっくの昔に「仁義なき戦い」シリーズで“頂点”を極めている。

 ならば本作のアドバンテージは何かというと、北野得意のギャグの振り方ぐらいだろう。手の込んだ残虐描写が続くものの、不思議と陰惨さを感じさせないのは、この乾いた笑いの扱い方にある。その見せ方の手口は映画が進むにつれて巧妙さを増し、観ている側は“次はどんな感じで来るのか”という期待でワクワクしながら筋書きを追うことになる。こういう見せ方もアリだとは思う。

 ただし、この行き方では先が続かない。つまりは“今回限り”のネタ披露という印象しか受けず、観賞後にはどこか虚しい気分になるのも確かなのだ。前にも言ったが、北野武は“他から持ち込まれた企画”をこなした方が作風に奥行きが出ると思う。

 巨大暴力団の総長に扮する北村総一朗をはじめ、ワルが板に付いてきた三浦友和、ほかに國村隼、杉本哲太、石橋蓮司、椎名桔平らが楽しそうヤクザを演じている。たけし自身も配下の組長役で出演。加瀬亮が意外な一面を出し、悪徳刑事役の小日向文世も堂に入っている。しかし考えてみれば、日本の男優が誰しもサマになる役というのは兵隊かヤクザであるのも事実。この映画でキャラが立っていたからといって、それが各個人のキャリアにプラスになるのかどうかは疑わしいところである(^^;)。
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「フォロウィング」

2010-06-20 06:45:02 | 映画の感想(は行)
 (原題:Following )98年イギリス作品。今や「ダークナイト」のヒットでハリウッドでもビッグネームになったクリストファー・ノーラン監督が98年に撮ったデビュー作。1時間10分の小品だが、ストーリーテリングが冴えまくり、まるで良質の短編ミステリーを読むような気分を堪能させてくれる。

 創作のヒントを得るため見知らぬ人々への尾行を繰り返す作家志望の青年(ジェレミー・セオボルドが、尾行相手の怪しい男に感づかれたことで殺人事件に巻き込まれて行く・・・・という土台のストーリーを部分ごとに時系列をバラバラにして並べるという手法はノーラン監督の出世作「メメント」と共通するが、「メメント」のような“特殊な設定”に頼らず、まっとうな犯罪ドラマのモチーフを積み上げるだけでミステリアスな雰囲気を醸し出す作者の手腕には瞠目させられる。

 加えて16ミリのモノクロ画面がリアリティを倍加。「ユージュアル・サスペクツ」と比べる向きもあるようだが、あれよりずっとヴォルテージが高い。登場人物の面構えやロンドンの下町の描写も印象的で、見応えのある一編に仕上がっている。
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「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」

2010-06-19 06:54:12 | 映画の感想(か行)

 寂しい若者ばかり出てくる。主要登場人物の3人だけではなく、周囲を取り巻く連中も幸薄い境遇に置かれている。この映画が非凡である点は、彼らが惨めな状況にある原因を自己責任として片付けてしまうのではなく、その背後にある社会の有り様を巧みに糾弾していることだ。つまりは“恵まれないのは、自分のせいだろう!”という身も蓋もない突っ込みを完全に排除するほどの求心力を獲得しているのである。

 ビルの解体現場で働くケンタ(松田翔太)とジュン(高良健吾)は、子供の頃から同じ養護施設で育った仲だ。仕事はハードで、しかもケンタはチンピラヤクザでもある職場の先輩に弱みを握られ、給料を巻き上げられている。ある日彼らは夜の街でカヨ(安藤サクラ)という不細工な若い女を引っかける。行きずりの関係であったはずが、ジュンはそのまま彼女と一緒に住むようになる。だが、切羽詰まっていたケンタは職場の事務所をメチャメチャにし、先輩の車を破壊した上で、会社のトラックを奪って遁走。ジュンとカヨはそれに同行する。3人は誘拐事件で収監されているケンタの兄(宮崎将)に会うため、網走刑務所を目指すのだ。

 ドロップアウトした若者たちのロードムービーといえばアメリカン・ニューシネマの「イージー・ライダー」や「スケアクロウ」などを思い出す。しかし本作には、明るい話ではないそれらの映画にさえも存在していた“若者らしい楽天性”が少しも感じられない。

 ケンタもジュンも社会からの落伍者でありながら、外部への強い攻撃性は希薄だ。職場や車を荒らしはするが、あくまでも狼藉の相手は“物”に過ぎない。ラスト近くのチンピラヤクザとの“決闘”だって正当防衛に近いだろう。他人に喧嘩を売るどころか、傍目には人当たりの良い若者に見える。当然、これは二人が“好青年”だということではない。他人を信用しておらず、また信用してもどうにもならないことを知っていて、トラブルを避けるために適当に対応しているだけなのだ。

 無知と無教養を強いられたことによる、人間および社会に対する深い絶望。それでも、わずかに頼れるものは肉親だけだと思って兄と面会したケンタは、抱いていたその希望も木っ端微塵に崩れ去ってしまう。誰が彼らの生き様を“自己責任だ”と片付けられるのか。施設で育ち、親の顔は知らず、ロクな教育も受けられず、劣悪な環境の仕事しかない。こんな状態こそ“社会が悪い!”と言うべきではないのか。

 主人公達3人だけではなく、親からの虐待で片目を失ったかつての施設での仲間(柄本佑)も、絵空事の“将来の夢”を愚直なまでに信じ込んでいる若いキャバクラ嬢(多部未華子)も、身を切られるほどの寂寞感を漂わせている。こんな寂しい若者達を大量発生させているこの社会って、いったい何なのだ。

 エンドロールで流れる曲は岡林信康の「私たちの望むものは」だが(歌うのは若い女性歌手)、これは昔この歌を支持した世代が“望むものすら存在しない社会”を作り上げてしまったことへの痛烈な皮肉だろう。

 主演の3人はいずれも好演。特に安藤は他の有名女優(満島ひかりや成海璃子など)の“添え物”として扱われていた感があるが(笑)、ここでは冴えない容貌を逆手に取った不貞不貞しい存在感を発揮していて見応えがある。大森立嗣の演出は力強く、この貫禄はとても第2作目とは思えない。また、自らオリジナルの脚本も手掛けているのも心強い限りだ。ラストが冗長なのは残念だが(チンピラヤクザとのバトルで終わっていた方が数段良かった)、異色の青春映画としての価値は高い。
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「WXIII PATLABOR THE MOVIE 3」

2010-06-18 19:42:12 | 映画の感想(英数)

 2001年作品。人気シリーズ「機動警察パトレイバー」の映画版の第三作で、東京湾に現れた怪獣をめぐる闘いを描く。公開当時は押井守監督によるマニアックな短編「ミニパト」も同時上映された。

 パート2から9年ぶりに作られた本作では、パトレイバー隊の出番は前回よりさらに少ない。それだけに、この手の作品にありがちな“原作やテレビ版をチェックしていない観客はお呼びでない”というフザケた製作態度はなく、元ネタを知らない映画ファンでも抵抗なく一本の作品として楽しめるようになっていて、その点がまず評価できる。

 出来の方だが、かなりのハイレベル。間違いなく近年の国産アニメーション映画の収穫のひとつである。主人公を東京湾岸の怪事件を追うふたりの刑事に設定しているところがいい。そして彼等が初老のベテランと若手のコンビという、「砂の器」や「野良犬」以来の黄金パターンで、それぞれの内面や背景が丹念に描かれているのには感心した。

 キャラクターの土台(日常)をしっかり整えた上で、ドラマをそのまま非日常的な怪獣映画路線になだれ込ませるあたり、題材に対する作者の冷静なスタンスが感じられる。ことリアリズムへのこだわり方に限っては金子修介の「ガメラ」シリーズ以上であろう。

 脚本が実に緻密。キャラクターの配置や伏線の張り方、見せ場の振り分け方は、そこいらの実写映画よりは数段優れている。さらには大人のメロドラマやホームドラマ的要素も挿入され、それらが骨太の刑事ドラマと違和感なく並立しているあたりは舌を巻いた。作画が丁寧で音楽も音響も素晴らしい。今回は監督が押井守ではなく「ガンダム」シリーズにも参画した高山文彦が担当しているが、クォリティがまったく落ちないのが嬉しい。
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「ブラウン・バニー」

2010-06-17 06:30:19 | 映画の感想(は行)
 (原題:The Brown Bunny )2003年作品。「バッファロー’66」(98年)などで知られるヴィンセント・ギャロの作品で、今回も監督・主演はもちろん脚本や撮影などほとんど彼が担当したワンマン映画になっている。ただし幅広い観客へのアピール度は「バッファロー~」よりも大幅に低い。

 バイクレーサーの主人公がニューハンプシャーでのレースを終えた後、次の会場であるカリフォルニアに向かって一人車を走らせる様子を延々と追う展開は、ストーリーも説明的なセリフも一切ない。彼は何やら心に傷を負っており、それが別れたガールフレンドとの関係によるものだとの暗示はあるが、終盤を除いた映画の大部分では具体的に示されることはない。

 たぶん心象風景的なシーンの連続で観客を独特の“雰囲気”で包み込ませようとの作者の意図はしかし、あまりにも長すぎるために途中で映画の“底が割れる”結果になってしまった。特にガールフレンドが主人公のいるホテルの部屋に突然現れた時点でほとんどの観客にはオチが分かってしまう。

 要するに“さんざん粘って、これだけか?”といった脱力感をもたらすだけなのだ。独りよがりの“私映画”の限界を如実にあらわしており、このあたりがその年のカンヌ映画祭で酷評された原因だと思う。

 ただし、ヒロイン役のクロエ・セヴィニーの“超絶体当たり演技(謎 ^^;)”だけは見ものである。まさか“あんなこと”までやってしまうとは・・・・。それまでさんざん眠気に襲われていたが、ラスト近くのこの場面でイッキに目が覚めてしまった(笑)。
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