元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

懲りずに選んだ2013年映画ベストテン。

2013-12-31 06:35:55 | 映画周辺のネタ
 2013年の個人的映画ベストテンを発表したい。下半期に鑑賞ペースが落ちたことを勘案しても、食指の動く作品があまり多くなかったのは事実だ。それでも何とか10本を選んでみた。



日本映画の部

第一位 東京家族
第二位 舟を編む
第三位 そして父になる
第四位 旅立ちの島唄 十五の春
第五位 少年H
第六位 はじまりのみち
第七位 映画「立候補」
第八位 地獄でなぜ悪い
第九位 百年の時計
第十位 影たちの祭り



外国映画の部

第一位 塀の中のジュリアス・シーザー
第二位 愛、アムール
第三位 きっと、うまくいく
第四位 もうひとりの息子
第五位 ザ・マスター
第六位 ベルリンファイル
第七位 偽りなき者
第八位 パシフィック・リム
第九位 マン・オブ・スティール
第十位 バックコーラスの歌姫(ディーバ)たち

 邦画は家族をテーマにした作品が上位に並んだが、映画のネタとしては“定番”ながら、悪く言えば“無難”でもある。もっと野心的な作りを期待したいものだ。

 洋画の一位はタヴィアーニ兄弟の久々の傑作。舞台はミニマムだが、映像世界は三次元的・四次元的にも広がるスリリングなメタ映画だ。第二位のハネケ監督作も、老老介護の実態をこの作家らしいシビアなタッチと詩的な美しさで綴った注目作。三位のインド映画の快作は、異例のロングランがそのクォリティの高さを実証していた。

 なお、以下の通り各賞も選んでみた。まずは邦画の部。

監督:山田洋次(東京家族)
脚本:是枝裕和(そして父になる)
主演男優:北村一輝(日本の悲劇)
主演女優:尾野真千子(そして父になる)
助演男優:オダギリジョー(舟を編む)
助演女優:中村ゆり(百年の時計)
音楽:佐藤直紀(永遠の0)
撮影:藤澤順一(舟を編む)
新人:菅田将暉(共喰い)、黒木華(舟を編む)

次に洋画の部。

監督:パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ(塀の中のジュリアス・シーザー)
脚本:ミヒャエル・ハネケ(愛、アムール)
主演男優:マッツ・ミケルセン(偽りなき者)
主演女優:エマニュエル・リヴァ(愛、アムール)
助演男優:ロバート・デ・ニーロ(世界にひとつのプレイブック)
助演女優:エイミー・アダムス(ザ・マスター)
音楽:トム・ティクヴァ、ジョニー・クリメック、ラインホルト・ハイル(クラウド アトラス)
撮影:ダリウス・コンジ(愛、アムール)
新人:ゾーイ・カザン(ルビー・スパークス)

 ついでにワースト作品も選んでみる。

ワースト邦画編

1.利休にたずねよ
2.風立ちぬ
3.リアル 完全なる首長竜の日
4.かぐや姫の物語
5.藁の楯

ワースト洋画編

1.リンカーン
2.ハッシュパピー バスタブ島の少女
3.ダイ・ハード ラスト・デイ
4.ジャンゴ 繋がれざる者
5.ゼロ・ダーク・サーティ

 何でも、人口100万人(換算)当たりの常設映画館の数が日本一多い都道府県は、ここ福岡県であるらしい(出典元:厚労省大臣官房統計情報部)。また、四大公営ギャンブルがフルラインで揃っているのも、福岡県以外では埼玉県しかない。博多祇園山笠や博多どんたく港祭り等の異様なほどの盛り上がりも勘案すると、要するに福岡県民というのはストレスを発散する方法論を持ち合わせている手合いが多いのだろう(笑)。

 かく言う私も、仕事面で結構シビアな状況に追い込まれることが少なくないが、休みの日に映画館に足を運べば、(たとえ観た映画が駄作であっても)不思議と気分が楽になってくる。映画鑑賞がストレスを軽減してくれるのは、実に有り難いと改めて思う。

 “お前は映画観すぎだろう!”と周りの者に言われることもあるが(爆)、他の趣味より比較的安上がりだろう。2014年はどんな映画が観られるのかと思うと、年甲斐も無くワクワクしてくる。これからも楽しみたい。
コメント (2)
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「バックコーラスの歌姫(ディーバ)たち」

2013-12-30 07:37:50 | 映画の感想(は行)
 (原題:20 Feet from Stardom)とても興味深いドキュメンタリー映画だった。大物ミュージシャンを支えるバックコーラス隊に所属する女性歌手達の生き方を通じ、人間の才能に対しての厳然たる視線と諦観とが表現される。確固たる普遍性に裏打ちされた訴求力の大きい作品だ。

 ここで紹介されるのはダーレン・ラヴやメリー・クレイトン、ジュディス・ヒル、リサ・フィッシャーといった“バックコーラスとしての”実績を持ったシンガーである。とはいえ、実力自体はメインの歌手と変わらないか、あるいは凌駕している。



 特にフィッシャーのパフォーマンスには圧倒された。聴いていて鳥肌が立つほどの声量と絶妙な表現力。柔らかさと力強さを兼ね備えた、素晴らしい逸材であることが如実に示される。しかし、彼女は一時はソロ・デビューしてある程度の成功を収めるものの、あとが続かなかった。今でもステージのセンターには立てないままだ。

 それは他の“実力派バックシンガー”も同じで、劇中でブルース・スプリングスティーンが言う通り“たった数歩の距離なのに、ステージの真ん中に行くことは途轍もなく難しい”のである。事実、彼女達を見ていると、バックコーラスに甘んじているのも仕方が無いと思ってしまうのだ。

 もちろんチャンスが巡ってこないとか、周囲に良き理解者がいないとか、そういう“運”に関わるものも少なくないのだが、それだけではない。本人達の資質というか、あえて言えば“何が何でもセンターの座を射止めたい!”という意志が不足しているのだ。じゃあ、意志が無いなら意志を持てば良いのではないか・・・・と外野が勝手に決め付けることは出来ない。メジャー指向を持つこと自体が、一種の“才能”なのだ。



 “やれば出来るよ!”というのは、まあ誰に対しても激励の言葉にはなるが、実際には“出来るか出来ないか”よりも“やろうと思うか思わないか”の方が数段重要なのだ。そして“やろうと思うこと”は本当にハードルが高い。特に対象が困難な道である場合は、ほとんどの凡人は“やろう”などという気持ちも起こらない。本気で“やりたい”と強く思った時点で、目標の半分以上は達成出来ている。反面、バックコーラスに甘んじてしまえば“成功したい”というモチベーションも失うだろう。自分なりの新しい音楽を追求する機会も、手放してしまう。監督モーガン・ネヴィルの切り口は、なかなかシビアだ。

 しかしながら、バックコーラスにこれほどの実力者が揃っているとは、アメリカのショービジネス界は何と奥が深いのだろうか。こういう“実力派バックシンガー”を集めてグループを結成し、何か新しい方法論を展開するプロデューサーが現れると、けっこう面白いのではと思ってしまった(笑)。
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「長崎ぶらぶら節」

2013-12-29 07:34:26 | 映画の感想(な行)
 2000年東映作品。作詞家のなかにし礼による同名小説(直木賞受賞作)の映画化。ストーリーや語り口には大きな欠点はないが、残念ながら映像面がまるでダメである。

 明治の終わり、長崎の丸山の遊郭で名芸者と呼ばれる愛八は、芸達者であるのはもちろん、その気っぷの良さから幅広い人気を得ていた。ある日、彼女は大店の当主で良く知られた風俗学者でもある古賀と出会う。研究熱心な彼に請われて、愛八は長崎に伝わる歌を探し出すフィールドワークに同行する。



 二人は“長崎ぶらぶら節”という歌を知り、それが愛八にとって想い出の歌であったことが明らかになる。やがて時が経ち、古賀と会わなくなっていた愛八が、また思わぬ形で彼と関わるようになるまでを描く。

 最初は単なる“友達付き合い”であった二人が、やがて互いを恋愛対象として意識し始めるものの、立場や年齢を考慮して身を引いてしまう。そのあたりの描き方はけっこう上手い。演じるのが吉永小百合と渡哲也なので、前に共演した「時雨の記」(98年)のような気勢の上がらない出来に終わるかと危惧したが、オーバーアクトにもならず、うまく演出が手綱を引き締めていたと思う。

 ただし、子供の頃に長崎で暮らした身にとっては、この街の魅力がまるで出ていないことに終始イライラした。低レベルなCG処理にガッカリ。そして何よりカメラが腰高で落ち着きがなく、構図の取り方が素人っぽい。つまりは画面に奥行きがまるでない。悪い意味でテレビ的だ。

 監督の深町幸男は映像人としてベテランであるといっても、永年のテレビ業界暮らしで付いたアカは容易に落とせなかったようである。
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「ハンナ・アーレント」

2013-12-28 06:59:40 | 映画の感想(は行)

 (原題:Hannah Arendt )素材に対する考察は限りなく浅く、単にエピソードを漫然と並べているに過ぎない。伝記映画としては落第点だ。監督のマルガレーテ・フォン・トロッタが過去に撮った「ローザ・ルクセンブルク」(87年)と同じく、凡庸な展開である。やはりこの作家は歴史上の有名人物を扱うよりも、「鉛の時代」(81年)のように名もなき者をミクロ的に描く方がサマになると思う。

 戦前のドイツに生まれたユダヤ人の女性哲学者ハンナ・アーレントは、ナチス政権による迫害を逃れてアメリカへ亡命、大学教授として文筆活動に勤しんでいた。60年代初頭、彼女は元ナチス高官アドルフ・アイヒマンの裁判の傍聴記事を執筆・発表するが、読者からはアイヒマンを擁護するような内容だと受け取られ、大論争を巻き起こす。特にユダヤ人コミュニティからのバッシングは熾烈を極め、アーレントは窮地に追いやられる。

 彼女はその論評の中で、アイヒマンは冷酷非情な怪物ではなく、単に上官の命令を遂行しただけの凡庸な官吏でしかないと喝破している。しかし、劇中では彼女がどうしてそのような結論に至ったのか、具体的な理由は一切示されていない。斯様に最も重要なポイントがネグレクトされた時点で、この映画は“終わった”と言って良いだろう。

 ハンナ・アーレントが説いた“悪の陳腐さ”というフレーズは、思考する能力の欠如こそが不幸な結果に繋がることを指しているが、残念ながらこの言葉が当てはまるのは監督のフォン・トロッタ自身であったようだ。

 なぜヒロインがああいう行動に出たのか、どのようなプロセスでユダヤ人団体やマスコミが頭ごなしに決めつけてきたのか、そういうことに対して理に叶った“思考”をまったくせずに、ただ現象面の事物を追っているような態度は、当のアーレントからすれば途轍もなく愚かに見えることだろう。

 主人公がイスラエルに足を運ぶくだりや、師匠のハイデッガーとの関係性、そして旦那のハインリヒが病に倒れてからの展開などはいくらでもドラマティックに描けるはずだが、どれも及び腰。こんな調子でラストのヒロインの“大演説”に感心しろと言われても、そうはいかない。

 アーレント役のバルバラ・スコバは外見や所作をいかにも“それらしく”こなしていて好演だが、映画自体に筋が通っていないので、無駄骨を折るばかり。他のキャスティングも特筆すべきところはない。

 わずかに印象的だったのが、ハーレントの講義スタイルだ。とにかく、ひっきりなしにタバコを吸っている。この頃は“誰でも成人すれば、タバコを吸うのは当たり前”みたいな風潮があったとは思うし、ヒロインが“職場”で喫煙するのも当然なのだが、現在同じような行動を取れば山のようなクレームが付くだろう(笑)。まさに“時代は変わる”である。
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「アムス→シベリア」

2013-12-27 06:32:00 | 映画の感想(あ行)
 (原題:Sibelia )98年オランダ作品。話の内容自体はマアマアだったように思う。アムステルダムを舞台に、無軌道な日々を送る野郎二人組と、素性の分からない女の子との青春群像を描いた一編。

 ヒューホとゴーフは、アムステルダムにやってくる若い女性観光客をナンパして金をくすね取ることを“生業”にしているロクでもない奴らだ。そんなある日、彼らのターゲットになったララにゴーフは惚れてしまう。勢いで共同生活を始めてしまった3人だが、ゴーフがララの出身地だというシベリアに彼女を連れていってやりたいと言ったのをきっかけに、ヒューホは“国籍の異なる女と15人先に寝たほうが貯えの全額を取る”というゲームを持ちかけ、状況はややこしくなる。



 要するに、奔放な女に振り回される男どもを描くという、昔から良くあるパターンだ。今回はヒロインの独特なプロフィールやアムステルダムの街の雰囲気といったものが効いていて、まあ退屈しない程度のドラマには仕上げられている。

 ロバート・ヤン・ウェストダイクの演出は、ストーリー運びに関しては無理はないが、チラチラとうるさい“画面処理”には閉口。公開当時に各誌の批評を読んでみると、カラーとモノクロを反転させたり、高速度撮影とコマ落としを繰り返したり、ちょっと変わったアングルで撮ったりすることだけが“若々しい新感覚の映像”だと勘違いする評論家が世の中にはけっこういるのだなあと実感したものだ。

 ゴーフ役のルーラント・フェルンハウトをはじめ出ている連中には全く馴染みはないが、そこそこ達者な演技は見せている。ラストの処理は作者のケレンか感じられるものの、けっこう面白く観た。
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「利休にたずねよ」

2013-12-23 07:39:22 | 映画の感想(ら行)

 くだらん。今年観た日本映画の中では、最低のシャシンだ。とにかく、何も描けていない。中身がまるで無い。見事なほどカラッポな映画である。こんな愚作を平気で垂れ流した製作側は、いったい何を考えているのだろうか。恥ずかしくないのだろうか。

 劇中で利休は“私がぬかずくのは、美しいものだけでございます”と言う。ではその“美しいもの”は映画の中でどこにあったのかというと、これが全然見当たらない。利休を支えた妻・宗恩の愛情がそうなのかというと、これがまるで平板で深みが無い。娘・おさんへの慈しみがそうかと思ったら、これも手抜きでスカスカの描写しか提示出来ていない。師匠の武野紹鴎や、弟子の山上宗二との濃密な関係性が“美しい”のかというと、まったくそうではない。

 そして肝心の茶道の所作および茶道具、花器等の調度品などの映し方がとても“美しい”とは言えない。撮影に当たっては高価で貴重な小道具を大量動員しているというが、どれもこれも全く美しくない。精緻な茶器はプラスティックのお椀みたいだし、贅を尽くしたはずの屏風絵はお手軽テレビドラマに使われる書き割りのようだ。

 監督は田中光敏とかいうテレビ屋あがりだが、映像も話の中身もいかにもそれらしい薄っぺらで密度の低いものだ。利休と秀吉との確執は何も示されていない。石田三成をはじめとする他の武将達の人間模様は、全然描けていない。利休が切腹に追いやられるプロセスや背景も、完全にスッ飛ばされている。

 その代わりに何があるのかというと、後半に唐突に挿入される、若い頃の利休と朝鮮から連れられてきた女との恋愛沙汰だったりする(呆)。これがまあ、安手の韓流ドラマのように気勢の上がらない三流芝居で、しかも不必要に長い。どうやら作者は、このエピソードが後の利休が会得する美意識に影響を与えたと言いたいらしいが、映画ではそんな筋道は全然提示出来ていない。そもそも、ありふれた朝鮮製の小瓶を手渡されたぐらいで芸術的インスピレーションが湧くわけがないだろう(爆)。

 主演の市川海老蔵は熱演だが、作劇がガタガタなので空回りしている感が強い。宗恩に扮する中谷美紀はわざとらしいメロドラマ演技に終始し、信長の伊勢谷友介や秀吉の大森南朋はコスプレ御座敷芸のレベル。三成の福士誠治や細川忠興の袴田吉彦に至っては、まるで学芸会だ。海老蔵と紹鴎役の市川團十郎との最初で最後の親子共演も何やら虚しい。興行的には大コケらしいが、それも十分納得出来る有様だ。

 こんな惨状を見ていると、かつての熊井啓監督「千利休 本覺坊遺文」や勅使河原宏監督「利休」は、なんと良い映画だったのだろうかとしみじみ思ったりする(口直しに再見したくなった ^^;)。
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フェリクス・J・パルマ「時の地図」

2013-12-22 06:50:02 | 読書感想文
 SF小説の巨匠H・G・ウェルズが主人公になり、19世紀末のロンドンで“活躍”するという伝奇ロマン。これは本当に面白かった。ハッタリめいた設定と大仰な語り口を前面に出しているが、文体と展開に“愛嬌”があり、各キャラクターも立っていて実に楽しい。スペインの俊英パルマによる痛快編だ。

 1896年のロンドンには、西暦2000年にタイムトラベル出来るという時間旅行社が営業しており、大変な人気を集めていた。恋人を切り裂きジャックに惨殺された失意の若者アンドリューは、時間旅行社を訪ねて惨劇を回避しようと過去に行けるように掛け合うが、残念ながら未来にしか行けないという。次に彼は「タイムマシン」を発表したウェルズの助力を得ようとするのだった。一方、上流階級の娘クレアは、未来への時間旅行に参加するが、そこで出会った未来世界の英雄に恋心を抱いてしまう。



 三部構成から成っているが、第一部でこの時間旅行社なるものはインチキであると早々に明かされる。ならばこれはSFではないのかというと、終盤になって急に空想科学的な仕掛けが出てくる。しかもそれに全く違和感を覚えないような伏線が、一部と二部に巧妙に張り巡らされている。

 ストーリーが“読める”部分と“読めない”パートが巧みに配置され、そのテクニックには唸らされるばかりだ。また、平凡な市井の人々が時間旅行に対して抱く、切ない期待と興味とが上手く掬い取られているのも良い。

 ウェルズの他にもヘンリー・ジェイムズやブラム・ストーカーといった当時の人気作家が登場。作者はイギリス人ではないが、ヴィクトリア朝末期の時代の雰囲気をいかにも“それらしく”出しているのにも感心した。幕切れは鮮やかで読後感も最良。読まないと損をする。

 なお、パルマは本作の続編として同じウェルズの著作である「宇宙戦争」をモチーフにした「宙(そら)の地図」を上梓しているが、こちらはあまり面白くない。「透明人間」をネタにしているという第三弾に期待したいところだ。
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「キャプテン・フィリップス」

2013-12-21 07:18:20 | 映画の感想(か行)

 (原題:Captain Phillips)観ている間は退屈しないが、大きなインパクトは感じない。それは、センセーショナルな事件を元にした“実録物”であることが映画の足枷になっているからだと思う。

 もっとも、同じポール・グリーングラス監督作の「ユナイテッド93」も実際の事故をテーマにしているが、あれは真相がいまだに闇の中であり、いくらでも映画的に脚色することは可能だった。しかし、全貌がほぼ明らかになっている(らしい)このネタでは、盛り上げるだけのケレンを挿入する余地が少ない。そのあたりが、どうにも居心地が悪いのだ。

 2009年4月、援助物資として大量の食糧を積んでケニアに向かってソマリア沖を航行していたコンテナ船マースク・アラバマ号は、突如海賊の襲撃を受ける。武装した海賊に対して為す術もなく船は占拠されてしまうが、ベテラン船長のリチャード・フィリップスはクルーを解放することと引き換えに自ら人質になり、海賊共と駆け引きを演じる。

 まず、舞台が船舶内から時間を置かずに狭い救命艇に移動してしまうのが不満である。広い貨物船の中でディテールを知り尽くした船長と、行き当たりばったりのようで実は頭が切れる海賊のボスとの頭脳戦&肉弾戦をスリリングに見せてくれれば満足度は高かったろう。しかし、船長が早々に救命艇に押し込められたのは事実で、これは動かしようがない。

 ならば密室劇として息苦しくなるようなハードな作劇を展開してくれるのかというと、それも不発。だいたい、米海軍特殊部隊が救出活動に乗り出した時点で“結末”はほぼ決まっているのだ。もちろん、現実には救命艇の中では船長と海賊達とのやり取りはあったはずだが、事態を大きく変えるという結果には繋がっていないため、映画的に大きなモチーフには成り得ない。

 しかも、グリーングラス監督はハジケるような“外向的な”演出は得意だが、動きの少ないインドアにおける“腹芸”の描出には実績がない。ならば救出する側の軍当局の動きはどうかというと、緊張感のない展開に終始しており、あまり興味の持てるものではない。もちろん、実際はテンションを上げて任務に専心しているのだろうが、困ったことに職務をスムーズに進行させるほど、見た目は“事務的”になってしまうものだ。

 それでも主役のトム・ハンクスは好演で、冒頭で必要以上の競争を強いられる若い世代の状況を憂いてみせるが、その後自分が理不尽にも“究極の生存競争”を強いられてしまうという中年男の狼狽ぶりを上手く表現していた。さらに興味深いのは海賊側の面々で、全員が演技未経験の素人だ。これがかなりのリアリティを醸し出している。さらに、生活に困ってやむなく海賊稼業に身を投じた“事情”も描かれ、一方的な勧善懲悪ドラマになっていないのは良い。

 結論としては、映画として“色付け”が可能な密室での出来事を、サスペンスフルに描ける演出家の起用が望ましかったということだろう。グリーングラス監督には純然たるアクション物での登板をお願いしたいものだ。
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「クール・ランニング」

2013-12-20 06:29:15 | 映画の感想(か行)
 (原題:Cool Runnings)93年作品。当初この映画は「三銃士」(スティーヴン・ヘレク監督版)の地方併映作品として輸入されたもので、首都圏では最初新宿や渋谷あたりでも上映している劇場がなく、場末の映画館でひっそりと公開されていたらしい。ところが、連日の大入り満員に興行側もあわてて大きな小屋を用意したという。

 ジャマイカ人がボブスレーをやるというミスマッチ感覚、リレハンメル五輪のすぐ後で公開タイミングもよかった。そしてなんとも楽しそうなレゲエ・サウンドに乗ったカラフルで明るい雰囲気が、一般のファンをひきつけたのだろう。

 ディズニー・プロの作品だからスカのはずがない(スカといっても音楽のそれではないよ)。健全で誰でも楽しめる映画が当然の興行成績を残したということは、実にノーマルで映画興行の王道である。これに気がつかなかったのは配給会社だけだったとはなんとも皮肉である。



 舞台は1987年のジャマイカで、ソウル五輪の陸上短距離の予選で転倒した選手たちが、何とかオリンピックに出たいと考えついたのは、ボブスレーでカルガリー冬季大会に出場することだった。しかし、ボブスレーがどういう競技かも知らず、雪なんか見たこともない。ただ、ジャマイカで盛んな手押し車競争とボブスレーが何となく似ているというのが理由だった。往年の名選手で今は落ちぶれてこの地に流れてきたアメリカ人(ジョン・キャンディ)をコーチに据え、猛特訓が始まる。

 物語はアメリカ映画得意のスポーツ物の定石どおりに進む。実話であり、実際にはシビアーな過程があったのだろうが、登場人物の屈託のない描き方や、ジャマイカという土地柄からか、悲壮感や押しつけがましさがまったくない。テンポのいい演出がレゲエのリズムと絶妙にシンクロしている。

 初めは他国からバカにされていたジャマイカ・チームは、めきめきと腕を上げ、本番では並みいるライバルたちと互角の戦いを展開する。クライマックスの盛り上がり、そしてホロ苦い感動にひたれるラスト。娯楽映画のツボを押さえた、見事な出来映えだと思う。ジョン・タートルトーブの演出も及第点。

 なお、ジョン・キャンディはこの作品のあと、心臓発作で死去した。43歳の若さ。実に残念だ。
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「かぐや姫の物語」

2013-12-16 07:55:23 | 映画の感想(か行)
 面白くないのは、原作には無いキャラクターを登場させているからだろう。それはかぐや姫の“幼馴染み”であり、彼女が想いを寄せる少年・捨丸である。

 かぐや姫がイノシシに襲われるところを危うく彼に救われたことから、二人の距離が縮まってくるという設定だ。捨丸は“野生児”であり、リーダーシップがあり、たくましい存在だ。いわば素朴で住民同士の人間関係も濃密な“田舎暮らし”の象徴でもある。ヒロインは彼および彼の仲間達と過ごした日々を、かけがえのないものだと思っている。



 対して、彼女がその後に直面する都での大邸宅暮らしと、周囲だけが勝手に盛り上がっているような“縁談”等は、生き馬の目を抜くような世知辛い“都会でのセレブな生活”(?)の典型的な表現パターンである。つまりここに“人情味溢れるカントリーライフ”と“殺伐としたアーバンライフ”という、判で押したような単純二項対立の図式が現出する。しかもそれは最後まで揺らぐことはない。そもそも、原作の竹取物語はそんな“語るに落ちる”ようなストーリーではないと思う。

 本作のようにかぐや姫の内面を描こうとすることは、映画化に当たって理に叶ったことだとは思わない。しょせんは異星人だ。メンタリティがどの程度地球人と似ているかという時点から話を始めなければならず、そんなことをしても労多くして成果は少ないかと感じる。

 それよりも突っ込んで描くべきは、彼女に振り回される周囲の状況ではないだろうか。無理難題を言い渡された5人の公達の苦悩や、帝(天皇)の屈託などに鋭く迫れば、それなりのポイントは上げられたと予想する。



 技術的な面を評価する向きもあるようだが、私は本作のテクノロジーは大したものだとは思えない。鉛筆線をそのまま活かし、にじみや塗り残しを活かした水彩画風画面で統一したことが目新しいと言われるものの、見ようによっては画面がスカスカになる。少なくとも大友克洋の「火要鎮」(オムニバス映画「SHORT PEACE」に収録)には及ぶべくもない。

 さらには(必然性のない)“静止した画像”が幾たびか挿入され、これは“手抜き”と思われても仕方がないだろう。高畑勲監督作品としては、原作マンガをそのまま取り込んだような前作「ホーホケキョ となりの山田くん」の方が方法論として革新的であった。また、キャラクターデザインがあまりにも不格好だ。別に“萌え”の要素を取り入れる必要もないが(笑)、もうちょっと魅力的な絵柄を採用して欲しかった。

 一方で良かったのが声の出演で、主演の朝倉あきをはじめ、高良健吾、地井武男、宮本信子といった面々が的確な仕事をこなしていた(宮崎駿の「風立ちぬ」とは大違い)。なお、地井は製作中に他界してしまったため、一部は三宅裕司が担当している。
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