元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ウォッチメン」

2009-04-25 06:52:02 | 映画の感想(あ行)

 (原題:WATCHMEN)どうしようもない駄作だ。そもそも私は“ヒーローをダシに現実的な問題を語ろうとするシャシン”というのが大嫌いである。たかがヒーロー物のくせに、何を粋がっているのやら。ヒーロー物はヒーロー物らしく、単純明快な図式で脳天気に楽しませてくれればよろしい。ヘヴィな問題提起はシリアスな劇映画の縄張りだ。ヒーロー物が出しゃばってくるんじゃない。

 何がイヤかといって、たとえテーマの掘り下げが浅かろうが“ヒーロー物でここまでやれたのだから、良いじゃないか”というエクスキューズが付いて回ることだ。ヒーロー物という形式の“保険”をあらかじめ掛けておいて事を始めようとする、その根性が気にくわない。

 本作はその最たるもので、アメリカの歴史にヒーロー達が深く介在していたとか、現実社会におけるヒーローの立ち位置はいかにあるべきかとか、ヒーローであることの悲哀とは何かとか、そういう一見重そうなネタを振ってはいるものの、何ひとつ具体的に描かれていない。もう見事なほどスッカラカンだ。

 しかし、普通の社会派映画のレベルから見れば鼻で笑われるような低調な描写も、作っている側は“ヒーロー物でこんなハードな題材を扱っているのだぞ!”という自負とも思い上がりともつかない気負いから、3時間近い無駄な上映時間を浪費してしまっている。まるで何かの冗談のようだ。ラスト近くには、子供でも考えつきそうな底の浅い“世界平和に対しての提言”とやらを大真面目に吹聴していて、完全に脱力した。

 それでも映像面で見るべきところがあるのならば我慢も出来ようが、快作「300(スリーハンドレッド)」のザック・スナイダー監督作とも思えぬ薄っぺらい画面の連続で盛り下がるばかり。アクションシーンも低調の極みである。ならばエロとグロとで攻めようという作戦も垣間見えるが、これも中途半端で喚起力はゼロに近い。

 出てくる俳優は名前も覚える価値のないほど魅力のない面子が揃っている。特にヒーロー戦隊の紅一点に扮する女優なんて、色気も品もないのに露出したがるのには参った(爆)。唯一記憶に残ったのはジャッキー・アール・へイリー。それも印象的な演技をしているという意味ではなく、子役出身の彼もトシを取ったなという後ろ向きの感慨だけだ。

 なお上映中は途中退場者も目立った。実は私もそうしたかったのだが、出るタイミングを逸して結局最後まで観てしまった(笑)。そうなると徒労感ばかりが増大して、実に不快な気分になってくる。とにかく、観る価値なしの本年度屈指のワースト作品である。
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「第6回九州ハイエンドオーディオフェア」リポート(その4)

2009-04-24 06:29:53 | プア・オーディオへの招待

 このフェアにはホームシアターのデモも用意されている。前回までは120インチのスクリーンにDLPプロジェクターで映写するという方式がスタンダードだったが、今回のスクリーンは135インチに拡大している。それも多くのハリウッドの娯楽作品に採用されているシネマスコープ・サイズだ。これならばより映画館気分が味わえる。

 使用されていたソフトの中で一番印象に残ったのが、1961年製作のアメリカ映画「西部開拓史」である。本作はシネマスコープよりも広いシネラマ・サイズの画面で撮られている。当時は3台の映写機で上映されていたが、今回のデジタル・リマスター処理されたブルーレイディスクには画面を3等分するフィルムの切れ目も正確に再現されていたのには参った。いくらDLPだろうと画質面でフィルム映写に敵うはずもないのだが、このような往年の作品についてはリアルタイムでの上映よりも鮮明な画像再生が可能になっていると思われる。古くからの映画ファンもこれならば納得だろう。

 さて、このイベント全般に対する要望は去年と一緒だ。つまりは以下の通り。

(1)交通アクセスの良い場所でやって欲しい。
(2)ハイエンド機器ばかり並べないで普及品もプッシュして欲しい(フェアの性格上無理だが ^^;)。

 以上二点に加えて今回は・・・・

(3)デモンストレーションには、もっとポピュラーなソースを使って欲しい。

・・・・というのを挙げたい。どのブースに行っても、鳴っているのは多くがクラシックかジャズだ。それも演奏内容よりも録音の優秀さが先行している。前述の“電源ケーブルの聴き比べ大会”でも最初流れていたのはマリンバの前衛的な独奏だ。あんなのを聴く人間が沢山いるとは思えない。誰でも知っている曲ではダメなのだろうか。J-POPでも演歌でも良いではないか。ピュア・オーディオがクラシックやジャズをかしこまって聴く者だけの趣味であると思われては、業界全体にとってマイナスである。

 あと気付いたことだが、身だしなみに難のある入場客が多い(激爆)。もちろん、休みの日にどんな恰好をしようと自由なのだが、汚いジャージにサンダル履きで百万円単位の商談をしているであろう客を見ると“何だかな~”と思ってしまうのだ。服装に気を遣わないくせにバカ高い機械だけは平気で買う人間は、さぞや家庭では煙たがられているのだろう。

 ハイエンドユーザーを想定したこのようなイベントに関して言うのも何だが、オーディオ業界全体としては従来からの“わずかな音質向上のために、惜しげもなく資金を投入するマニア”はリセットしてしまわないと将来性はないと思う。出口の見えない不景気の中では高級オーディオ機器を購入できる層は薄くなり、退職金をもらって多少なりとも金回りの良い団塊世代は(まことに失礼ながら)これから耳が遠くなる一方である。若年層を中心とした新しい顧客を掘り起こさないとジリ貧になるのは必定。その意味でも“ハイエンドオーディオフェア”より“ローエンドオーディオフェア”の方が開催する価値は大いにある(笑)。

 なお、このフェアは北九州市でも11月初頭に行われる。わざわざこのイベントのためだけに遠出しようとは思わないが、北九州市には仕事などで時折出掛けるし、タイミングが合えば覗いてみるのも良いだろう。

(この項おわり)
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「第6回九州ハイエンドオーディオフェア」リポート(その3)

2009-04-23 06:34:58 | プア・オーディオへの招待

 各ブースでのスタッフでの説明に関しては、今回もやっぱり目立っていたのが広島のガレージメーカー、カイザーサウンドの主宰者だ。同社が展開するROSEN KRANZブランドの新型スピーカーを引っ提げての登場である。和紙を素材にしたフルレンジ・ユニットのシステムで、前回紹介していた漆塗りの高級仕上げとは打って変わった、レトロな家具調のフロアスタンディングモデルをデモンストレーションに使用していた。ユニットはやはり和紙製のフルレンジ一発だが、非常にレスポンスが良く能率は90dBを優に超える。

 感心したのは主宰者の説明が“ここにこういう処理を施しているから、こんな音になる”という具体的なものであったことだ。オールジャンルを鳴らすことを目的に作られているらしく、そのために音色の明朗度をとことん追求したような、確固としたポリシーが伝わってくる。事実、このスピーカーは国産品では珍しく明るい音を出し、聴いていて楽しい。嬉しかったのが“ロックが得意だ”ということだ。彼は“ロックファンは(クラシック愛好家やジャズファンよりも)数多くいるのに、オーディオメーカーはそれに全然応えない。怠慢だ!”という意味のことを言う。私も同感だ。幅広く聴かれている音楽に対応しないオーディオ装置なんて意味がないのである。

 これと正反対だったのがSONYである。一本60万円の新作スピーカーSS-AR2の紹介がメインだったが、スタッフが一所懸命説明するのは“いかにこの製品が精選された部材による凝った構造をしているか”ということだ。そして“外見の仕上げの素晴らしさ”はもちろん“内部の仕上げにも手を抜いていない”などといった、匠の技を強調するような謳い文句が次々と出てくる。なるほど、物量投入にかけては他の追随を許さないし、サイズの割には重量もある。しかし、肝心の音色についての言及はイマイチ具体的ではない。それを象徴するかのように出てくる音はといえば、物理特性面ではスゴイとは思わせつつも、どうしようもないほど暗い。サウンドマニアには受けるだろうが、音楽ファンは敬遠したくなる展開だ。少なくとも私にとっては、きつい仕事を終えて帰宅した後に聴きたい音ではない。

 同様のことは富士通のオーディオブランドであるECLIPSEのスピーカーにも言える。タイムドメインと呼ばれる特殊理論に則った斬新なスタイリングは入場客の興味を引き、その構造についてのスタッフの説明にも熱が入っていたが、出てきた音はやっぱり暗い。ユニークな形状による独特の音場展開は捨てがたいものの、音色面では楽しく聴けるための練り上げが成されていない。PIONEERの高級スピーカーブランドであるTADの製品についても同様だ。

 日本の大手メーカーのエンジニアたちは、音よりも計測データの方を大事にしているとしか思えない。ROSEN KRANZのようなマイナーなブランドを別にすれば、国産スピーカーの作り手は実は音楽が好きではないのだと断定したくなる。とにかく、暗鬱な音は御免被りたい。

 対して欧米メーカーのスピーカーはすべて音が明るい。今回初めて試聴したヨーロッパ系のブランドではイタリアのZINGALIが印象的だった。もう素晴らしく明るい。まさに目も眩むような明るさだ。これでイタリアン・ジャズなんかを鳴らすと楽しさ百倍である。英国ATC社のスピーカーは美音調とモニター調とが絶妙にブレンドされた深みのある音。伸びやかな元気の良さもあり、聴く者の購買意欲を掻き立てる。オーストリアのVIENNA ACOUSTICSの暖色系でしなやかな音も印象に残る(なお、ユニットのコーンが透明であることに初めて気付いた ^^;)。以前Nmodeのアンプで試聴した同じくオーストリアのCONSENSUS AUDIOの製品は、今回はLUXMANのハイエンド機でのドライヴだ。いくらコストパフォーマンスが高いと言っても10万円台であるNmodeのアンプで駆動したときと違い、さすが惜しみなく物量を注ぎ込んだLUXMANのセパレート・アンプだけあって、響きがゴージャス。このスピーカーの資質がよく出ていた。

 米国製スピーカーはお馴染みJBL社の新製品が注目を集めていたが、それよりもインパクトがあったのはWILSON AUDIOとかSNELL ACOUSTICS、あるいはMAGICOといった“(日本においては)JBLよりは知名度が落ちるブランド”の数々だった。これらの製品群は緻密でハイスピードな聴感上の特性を持っている。帯域バランスが良く、音場も広い。もちろん音色は明るく澄んでいる。鳴らすジャンルも選ばない。要するに非常に現代的なのだ。対してJBLは徹頭徹尾ジャズ向けである。逆に言えば、ジャズ以外はあまりサマになっていない。元気は良いが一本調子。好きな人は好きだが、不器用なところが目立つ。

 たぶんアメリカではSNELLやMAGICO、または以前試聴したTHIELといったスマートなサウンドデザインを見せるスピーカーの方が“主流”なのだろう。JBLは、古いタイプのスピーカーだ。

 外見面で驚かせたのが南アフリカのVIVID AUDIO社のG1 GIYA。現代美術の彫刻作品みたいな外見と、その大きさには誰でも驚く。出てくる音は、ズバリ管弦楽曲向けだ。朗々と鳴り響く恰幅の良さには圧倒される。購入層はかなり限られるとは思うが、こういう野心的な製品を作れる環境は羨ましいと思った。

(この項つづく)
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「第6回九州ハイエンドオーディオフェア」リポート(その2)

2009-04-22 06:34:24 | プア・オーディオへの招待

 このイベントのもうひとつの目玉企画は、北九州市在住のジャズ好きのオーディオマニアの同好会による“北九州ジャズオーディオサミット”である。雑誌「ジャズ批評」と連動して、その年の優秀録音ディスクのベスト3の紹介と試聴を行う。前々回のフェアでも実施され、CDを購入する際の大いに参考になった。今回は音楽評論家の寺島靖国も出席し、ジャズファンとしてのウンチクも披露。なかなかの盛り上がりを見せた。

 試聴用に使ったシステムはドイツのAVANTGARDE ACOUSTIC社のスピーカーを中心とする総額一千万円を超えるラインナップで行われたが、それを鳴らすのに先立ち、サブシステム用の“安価な製品”も紹介された。司会者側は“常時大きなシステムで聴くばかりではなく、寝室などにこういう小振りのシステムを置いてもいいんじゃないか”みたいな物言いをしていたが、その“安価なシステム”とやらの価格は二百万円近い(笑)。それ以前に、六畳や四畳半の部屋に置くには苦労しそうな図体だ。こういうシロモノをサブシステムとして導入できる層というのは、一般ピープルからはかけ離れた存在であろう。これには会場を埋めたオーディオファイル達からもタメ息が洩れたようだ。

 ディスクの紹介とは別に英国LINN社のDSシステムのデモが行われた。これがなかなか興味深い。DSとはデジタルストリーミングの意味で、家庭内ネットワークに接続されたLAN接続型ハードディスクドライブから音楽信号をアンプに送り込む仕組みだ。その元々の音楽信号は通常CDからのリッピングはもちろんだが、メインとなるソースはネット配信される高品質音楽ソフトである。これが通常CDよりもずっと上位の規格を持っており、比較試聴するとその差は歴然としている。音が良いと言われるSACDをも凌駕しそうなクォリティの高さだ。しかも聴きたい曲をワンタッチで呼び出せるPCオーディオならではの利便性も光り、メーカー側でも“近い将来、我々の提案しているプランが主流となり、CDの居場所はなくなる!”と、鼻息も荒い。

 しかし、私はこの方式が一般のリスナーにとってのメインストリームになるとは思わない。なぜなら“良い音で聴きたい”と思っている層の絶対数が少なくなっているからだ。いくら“こういう質の高いソフトがネット上にありますよ”と言ったところで、多くの(オーディオマニア以外の)一般リスナーはスカスカの圧縮音源で満足している状態だ。通常CDをまともな音質で聴いている者さえ昔と比べて随分と減ってきているのに、高品位ソースばかりをアピールしたところでそれはSACDと同様の“マニア御用達商品”にしかならない。だいたい、その高品質音楽ソフトの総数だって微々たるものだろう。まず現行CDど同程度の数量にまで持っていかなければ普及は望めない。

 LINNの製品自体が一般ピープルからすれば十分なハイエンドだ。多くの者にとって“お呼びじゃない商品”である。しかも、今回のレクチャーの中でも指摘されていたが、このシステムは部品によって大きく音が変わるらしい。高価なLANケーブルを装着させないと十分な音質は得られないという。ならば使用するネットワーク・アタッチメント・ストレージの種類によっても音が変化することは十分に予想できる。またパソコンのCDドライヴの精度や、リッピング用のソフトウェアでも音は違ってくるだろうし、LANケーブルの長さも当然関係してくるかもしれないし、各家庭のネット環境によっても音質は異なってくるだろう。要するに普通のオーディオファンにとっても分からない点が多く、音質向上についての一応の道筋が出来上がるにはまだまだ時間が掛かると思われる。

 私としてはこういうマニア向けになるであろう高品位システムより、良い音から遠ざかっている世の中の大多数をピュア・オーディオに引き戻すメソッドの提案を聞きたかった。もっとも、今回のような“ハイエンドフェア”では無理であることは重々承知しているのだが・・・・(^^;)。

(この項つづく)
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「第6回九州ハイエンドオーディオフェア」リポート(その1)

2009-04-21 19:01:17 | プア・オーディオへの招待

 去る4月17日(金)より19日(日)まで福岡市博多区石城町の福岡国際会議場で、昨年に引き続き開催された第6回の九州ハイエンドオーディオフェアに行ってきたのでリポートしたい。今回の売り物の一つは、オーディオ評論家の福田雅光による講演会である。

 その内容は、普段なかなかお目にかかれない“電源ケーブルの聴き比べ大会”である。アンプやCDプレーヤーの電源ケーブルを交換すると音が変わることは、オーディオファンにとってすでに“常識”である。一部に“科学的な裏付けがないので音は変わらない”と主張する向きがあるようだが、すでに数多くの市販電源ケーブルが出回っている状態でそんなことを今さら言っても無駄だ。ちなみに、かく言う私も電源ケーブル交換による音の変化を大いに実感した一人である。

 アンプとプレーヤーとスピーカーの機種を固定し、ヴォリューム位置も変えずに同じソフトで次々と電源ケーブルを付け替えて聴かせてくれた。当然の事ながら、それぞれ音は変わってくる。中にはまるでアンプを入れ替えたような大きな音の変化を見せたケーブルもあった。また、やはり価格が高くなると解像度や情報量は上昇する。10万円を優に超えるFURUTECHAETの製品はさすがに質が高い。しかし、たかが電線にそんな大枚を叩く必要があるのかどうかは意見が分かれるところだろう。

 近頃は安価な部類でも使い物になる製品も出てきたということで、OYAIDEREAL CABLEPS AUDIOなどの3万円台の電源ケーブルも紹介された。なるほど、けっこうサマにはなっている。ただ、私が持っている1万円未満のネット通販業者謹製のケーブルより特段優れているとは思わない(まあ、実際聴き比べたわけではないので断言はできないのだが ^^;)。市販電源ケーブルは最低5万円は出さないと店頭で買う価値はない(それ以下の価格だとネット通販業者が作っているケーブルの方がコストパフォーマンスは高い)・・・・という私の独断的な持論は大きくは揺らがなかった。

 そもそもこの企画でまず実行すべきことは、アンプ類に最初から付属している電源ケーブルと市販の電源ケーブルとの聴き比べである。電源ケーブルで音が変わることは認識していても、スピーカーケーブルや(プレーヤーとアンプとを繋ぐ)RCAケーブルほどの重要性はないと考えているユーザーもまだまだ多いと思う。そのあたりから攻めていった方がより説得力のあるレクチャーになったはずだ。

 福田の意見も諸手を挙げて賛成できるものではなかった。電源の大切さを力説すること自体にはまったく異論はないが、彼はどうやら“電源周りで音を作っていこう”という考えの持ち主のようだ。彼は“電源の段階で音に色が付くようでは困る”と口では言っていたが、実際にはオーディオ・グレードの製品を熱心に奨めているあたり、ちょっと矛盾している。オーディオ・グレードとはオーディオ用に“音が良くなる”ような仕様の電源部品(壁コンセント等)のことだ。具体的にはロジウムなどの高価な金属によるメッキや、クライオ処理と呼ばれる低温加工を施したものである。しかし、メッキ自体が音に色を付けてしまうのだ。一度知人宅でロジウムメッキで電源部品を固めた際の音を聴かせてもらったが、耳障りで硬くてどうしようもなかった(もちろん、その後電源関係は総入れ替え)。私自身もプラグをメッキ加工した電源ケーブルの色付けの濃さに閉口したことがある。

 だいたい、試聴用に“最も色付けが濃いアンプ”のひとつであるDENONの製品を使っていたのも愉快になれない。もっと透明度の高いアンプを起用すべきではなかったか。同じ会場にESOTERICとかPRIMAREのような色付け希薄なナチュラル路線の製品もあっただけに、福田の姿勢には納得できないところがある。

 しかしながら、講演会の主旨自体は評価する。ケーブルは“試聴”が出来ないだけに、こういう聴き比べは実に有意義だ。今後も(講師は替えても良いので)継続して欲しい。それにしても、会場には数多くのアンプ類が並べられていながら、付属品の電源ケーブルを使って駆動していたものなんか一台たりともなかったのには苦笑するばかりである。メーカー側も“付属品ケーブルなんてオマケに過ぎない”と分かっているのだ。にもかかわらず質の悪い電源ケーブルを漫然と付属させていることは、ユーザーに対する一種の背任行為ではないかとさえ思ってしまう。エントリークラスの製品ならばともかく、中級品以上ならば電源ケーブルは付属させずに“PSEマークの付いている電源ケーブルを別途調達して下さい”ぐらいの但し書きを付けてしかるべきだろう。

(この項つづく)
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「ザ・バンク 堕ちた巨像」

2009-04-20 06:37:38 | 映画の感想(さ行)

 (原題:The International )なかなか楽しめる映画である。何より硬派なネタを扱っていながら、分かりやすい活劇編に仕上げている点が評価できる。違法行為を繰り返すドイツの国際的なメガバンクIBBCと、捜査に当たるインターポールのエージェントとのバトルを描く本作、まず面白いのが劇中での“悪の組織”がマフィアでもテロリスト集団でもなく、銀行というカタギの稼業を執り行う社会的組織であることだ。

 IBBCのモデルは91年に経営破綻したBCCIである。同銀行は世界中の独裁者やテログループに資金を用立て、彼らを借金でがんじがらめにして裏から操ろうとしていたらしい。現在の世界的規模の不況は銀行をはじめとする金融機関の暴走に一因があったことは論を待たないが、本作ではその銀行が犯罪シンジケート顔負けの荒仕事をやってのけるあたりが実にタイムリーだ。

 この“銀行”はインターポールに情報を提供しようとした銀行関係者も、その窓口になった捜査員も、次々と容赦なく抹殺してゆく。銀行が雇った殺し屋が失敗したり寝返ったりしたケースを想定して、また別の殺し屋グループを用意するという周到さには呆れるばかり。しかも、この銀行には旧東ドイツの特高警察関係者も絡んでいるのだから始末が悪い。

 監督は「ラン・ローラ・ラン」などのトム・ティクヴァだが、現時点での彼の最良作だと思う。とにかく切れ味が鋭い。派手なカーチェイスや爆破場面こそないものの、サスペンス溢れる街中での追跡シーンや、先の読めない中盤以降でのテンポの良い展開には思わず身を乗り出してしまう。ハイライトはニューヨークのグッゲンハイム美術館での壮絶な銃撃戦だ。一人の殺し屋を追いつめたと思ったら、関係者を皆殺しにしようと別働隊がやってきて、館内は阿鼻叫喚の様相を呈してくる。ただ銃を撃ちまくるだけではなく、それぞれのアクション場面が必然性を帯びた配置になっているのには感心した。

 主人公役のクライヴ・オーウェンは幾分垢抜けない印象もあるが(笑)、かつてはスコットランド・ヤードで現場の刑事として苦渋をなめた過去を背負っている悲哀に満ちた表情が良い。相手役のニューヨーク検事局の女性検察官に扮するナオミ・ワッツについてはもう何も言うことがない。相変わらずイイ女である。悪役陣もそれらしい面構えの連中を揃えていて、このあたりも抜かりはない。

 それと特筆すべきはロケ地の選択が見事であること。ベルリンから始まって、リヨン、ミラノ、さらにイスタンブールまで、風光明媚な映像が満載だ。たっぷりと観光気分が味わえて、映画を観た後はすっかり海外旅行に出かけたような気分だ。その点でも見応えはある。
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「トータル・リコール」

2009-04-19 06:57:39 | 映画の感想(た行)

 (原題:Total Recall)90年作品。原作がフィリップ・K・ディック、監督がポール・ヴァーホーヴェン、主演がアーノルド・シュワルツェネッガー、アメリカでは90年最高のヒットになったSF大作である。

 毎夜、火星の夢を見る男=ダグ・クエイドは夢の世界を現実として味わえる“リコール・マシーン”を体験したのをきっかけに自らの真の姿に疑惑を持ち始める。その裏には火星統治の陰謀が隠されていたのであった・・・・。というストーリーの紹介は、おそらく観た人が多いと思うのでここでは詳しく書かない。

 とにかく、目まぐるしく展開されるアクション・シーンと猛スピードで進むストーリーに圧倒される。まったくあれよあれよという間に終わってしまい、退屈するヒマなんてまったくなし。特に凄いのが、程度を知らないというか、問答無用で見せつけられる暴力描写である。ヴァーホーヴェン監督のその前の作品「ロボコップ」もかなりヴァイオレンス場面が目立っていたが、今回はさらに手加減なし。主人公も悪役も目的のためなら人の命なんぞ知ったこっちゃねえっ、とばかり殺して殺して殺しまくる。無関係な市民を楯にしての銃撃戦なんてへっちゃら。これほど人命軽視の映画はめったにない。さらに、よくできたSFXとメーキャップ技術が毒々しさと残虐さを助長しており、映画自体のカロリーはまさにゲップが出るほど高くなっている。絶対観て損はない。

 しかし、本当に満足できる出来の作品かというと、私は大いに不満である。私が最も面白いと思った場面は、シュワ氏大活躍のアクション・シーンでもなければラストのスペクタクルでもない。主人公が火星で暴れていると、“トータル・リコール”のマネージャーがやってきて、“あなたはいま夢を見ているんですよ。これは現実じゃないんです”と平然と言うくだりだ。そう、これこそフィリップ・K・ディックの世界ではないかと(まあ、話自体は原作とは随分違うが)ゾクゾクした。しかし、これは単なるエピソードの一つとして処理され、活劇場面の洪水の中でどっかに行ってしまう。

 考えてみればこの映画はずいぶん脚本が乱暴である。主人公の本性はどれなのか、火星のエイリアンとはどういう連中だったのか、大事なところが抜けている。資料によると、この作品の映画化が決定したのは完成から10年以上前で、さまざまな紆余曲折の後、今回のスタッフ、キャストに落ち着いたとのことだが、当初の予定では監督が「ザ・フライ」「戦慄の絆」などのデイヴィッド・クローネンバーグ、主演がリチャード・ドライファスだったらしい。ストーリーは当然クローネンバーグ得意の偏執的心理サスペンスでぐいぐい押しまくるものになっていたということだ。私はハッキリ言ってそっちの方が観たかった。さらに噂によるとクローネンバーグが担当した脚本は、この後日談までも書かれていたらしいので尚更だ。

 それがクローネンバーグの降板、シュワルツェネッガーの主演が決定した時点で今回のような大アクション作品になってしまったらしい。それにしてもラストはもうひとひねりしてほしかったと思ったのは私だけだろうか。
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「トワイライト 初恋」

2009-04-18 06:50:09 | 映画の感想(た行)

 (原題:TWILIGHT)観ていて気分を害した。なぜなら、ヒロイン役のクリステン・スチュワートがまったく可愛くないからだ(激爆)。妙に顔が長く、おまけにアゴがしゃくれ気味。到底美少女とは呼べないルックスで、どうしてこんなのが画面の真ん中に鎮座しているのか、理解に苦しむ。相手役のロバート・パティンソンは(観る者によって好き嫌いはあろうが)噂通りの二枚目だ。こういう耽美系ファンタジーの登場人物として申し分ない。

 もちろん、フツーの女の子が常人離れした見栄えの良い男子と付き合うといった設定ならば、ヒロイン側が飛び抜けた容姿を持っている必要もないのかもしれないが、本作のケースはそれ以前の問題だ。観る者に愉快ならざる印象を持たせてしまうほどの外見では話にならないのである。少なくとも同様のネタをヨーロッパやアジアで映画化したならば、スチュワートよりも百倍は可愛い女優を持ってくることだろう。まったく、ハリウッド人種の女優に対する審美眼は世界でも異質と言うしかない。

 自分の殻に閉じこもりがちで転校先の高校にもなじめずにいた女生徒が、寡黙で近寄りがたいハンサム男子に交通事故に遭いそうなところを助けられる。常人離れしたパワーと冷たい肌を持つ彼は、実は永遠に年を取らないヴァンパイアだった。とはいっても、彼は人間を襲うような凶暴さは持ち合わせておらず、動物の血で命脈を保っている穏健派に属している。

 ハッキリ言ってこれは、この映画が想定している観客である年若い女子にとって理想のキャラクターだ。ルックスが良くて、運動神経抜群で、しかも礼儀正しい。ちゃんとした品格を持ち合わせ、安易に淫らな行為に走ることもないし(笑)、まさに付き合うにはもってこいの相手である。ただし“生物学的”には別個の“種”であるために決して結ばれることはない。障害が大きいほどラヴ・ストーリーは盛り上がるのだが、本作の設定はその定石を踏襲するものだ。

 ストーリー展開も観客層を意識してか、とりわけ凝ったところは見られない。淡々とスムーズに進むのみだ。敵役として従来通りのモンスター然とした性格の連中も登場し、そいつらとの確執も描かれるのだが、ことさら大仰に取り上げていない代わりにケレン味たっぷりの残虐シーンも見当たらない。観る側に緊張を強いるようなモチーフは皆無に近く、画面に向き合っていて実に楽なのだ。キャサリン・ハードウィックの薄味な演出は作品のカラーによく合っている。

 そして、舞台となるワシントン州の自然の風景が素晴らしく美しい。ヴァンパイアにとって住みやすい“晴天の日が少ない土地柄”で、ゴシック風味的な暗鬱さも感じさせて出色だ。ヒロインの見た目のマイナス要因をカバーできるほど・・・・だとは思わないが(笑)、この映像美だけでも観る価値はあるかもしれない。
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「栄光と狂気」

2009-04-17 06:46:02 | 映画の感想(あ行)
 (原題:Rowing Through)96年日本=アメリカ=カナダ合作。“洋の東西を問わず、楽しく撮ったダメ映画を作家の映画として誉めるケースが最近、破廉恥なまでに増えている”。これは雑誌に載った原田眞人監督の製作手記にある一節だ。しかし残念ながら、楽しく撮ろうが苦しんで撮ろうが、出来た作品が“作家の映画”として評価されるのは当たり前のことである(節操なく誉めるのは確かに破廉恥だが)。むしろ、この手記の一節には“苦労して作ったオレの映画を、お遊びで作られた有象無象のシャシンと一緒に評価してほしくない”という尊大な態度が見受けられて、どうも愉快になれない。

 デヴィッド・ハルバースタムのスポーツノンフィクションを元に、モスクワ五輪のボート競技のアメリカ代表であった主人公が、アメリカの大会ボイコットによる失意から立ち直り、4年後のロスアンジェルス五輪を目指して頑張る姿を描く、奥山和由プロデュースのオール海外ロケ作品。ほとんどが外国人のキャスト(セリフも当然英語)、過酷な撮影条件etc.確かに撮るのは大変だったろう。でも、苦労したからいい結果になるとは限らないのが映画だ。

 観ていてちっとも面白くないのは、出てくる連中が全然地に足がついていないこと。西洋人が日本を舞台にして撮った作品に共通する、あの何ともいえない違和感が、逆の立場のこの映画にもあてはまる。名のある俳優は一人として出ていないので、頼みは演出力のみなのだが、これが“脚本通りにやりました”というレベルで話にならない。登場人物の存在感は俳優の演技力だけによって出てくるものではない。演技にちょっとしたディテールや工夫を持たせる監督の演技指導力のウェイトは大きいはずなのに、見事なほど何もやっていない。

 たぶん原作はエキサイティングなのだろう。映像化が難しいボート競技のシーンは流麗なカメラワークでそれなりに見せるし、ロケ地のカナダの風景も美しい。でも、これを原田監督が撮らなきゃならない理由は皆無だ。演出も地元の気鋭の作家にやらせた方がはるかによかった(製作に加わったクロード・ガニヨンがメガホンを取ってもOKだったはずだ)。
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「フロスト×ニクソン」

2009-04-16 06:25:18 | 映画の感想(は行)

 (原題:FROST/NIXON )甘っちょろい映画だ。まず、本作の素材が77年にテレビで実際放送された歴史的インタビューだというのが大きな問題である。これがたとえば事実を元にしたノンフィクション小説ならばドラマとして映画化する意味があっただろう。ところが、題材がテレビ番組という、すでに完成された“映像化作品”である限り、同じ映像メディアである映画が入り込む余地はかなり小さくなる。

 このネタをあえて取り上げるとしたら、番組にまつわる舞台裏などをコメントした当時の関係者のインタビュー等を散りばめたドキュメンタリー映画にするぐらいしかないだろう。これをドラマ化してしまうと、どんなに頑張っても元ネタの番組映像に敵うわけがないのだ。グダグダ言うより、そのインタビュー映像を簡単な注釈を付けて流した方がよっぽどインパクトが強いに決まっている。

 ただし、この映画の元になっているのは番組そのものではなく、それを題材にした舞台劇である。演劇から映画になったものは数え切れないほどあるし、製作の筋道としては間違ってはいない。しかし、舞台を映画にしたことでこの内容の“映画向けでないところ”がクローズアップされたのは皮肉なものである。

 最初に、どうして演劇としてこのネタが通用したのかを考えてみる必要がある。それはズバリ演技者のパフォーマンスがモノを言っているのだと思う。ニクソン元大統領に扮するフランク・ランジェラとインタビュアー役のマイケル・シーンというキャスティングは舞台版と同じらしいが、おそらくステージ上では俳優の持ち味が発揮されて、実録ものを超えた高揚感が横溢してるのだろう。

 しかし、映画になると主役二人の存在感だけに寄りかかることは出来ない。横方向に広いスクリーンの上では他の出演者も多数行き来するし、各シーンの舞台になる場所も限られたステージとは違った“具象的な”エクステリアを伴い、主役の二人だけをクローズアップできる舞台劇の“抽象的な”背景とはほど遠いものになってしまう。結果として、事実を漫然と追っただけの平板なシャシンにならざるを得ない。

 極めつけは映画のテーマをナレーションで滔々と説明してくれること。これが舞台版だったら納得できる。なぜなら、最前列に座っている者を除けば観劇の客に役者の細かい表情なんて読み取れるはずもなく、セリフでちゃんとフォローしなければ言いたいことは伝わらないからだ。しかし、クローズアップが可能であるはずの映画版でそのようなことをやる必要はない。映像ですべてが語れるはずだ。それなのに舞台版の筋書きに拘泥してしまったのは、ロン・ハワードをはじめとする作者達の認識不足でしかない。

 そもそもフロストがどうしてこの番組を作ろうと思ったのか、その理由も明かではない。もちろんウォーターゲート事件の真相やニクソンの外交政策に関して、何ら語られない。要するに製作意図がまったく見えない映画で、失敗作として片付けられても仕方がないだろう。
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