元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ブレイブハート」

2006-11-30 06:56:21 | 映画の感想(は行)
 (原題:Braveheart)95年作品。「顔のない天使」に続くメル・ギブソンの監督第二作で、13世紀のスコットランドに実在し、イングランド王エドワード一世の圧政に立ち上がった農民出身の英雄ウィリアム・ウォレスの生涯を描く3時間の大作。

 結論から先に書く。長すぎる。これに尽きる。あと40分は削れる。たとえば前半のウォレス(ギブソン)と恋人(キャサリン・マッコーマック)とのラブストーリー的な展開は、デートの回数を一回減らし、婚礼の場面もサッと切り上げ、無駄なカメラ廻しを抑制すれば10分カットできる。

 ウォレスの最初の戦闘シーンは不要なカットが多く、そこへ行き着くまでの段取りもマズいし、演出をキビキビやれば5分は削れたはず。ヨーク攻防戦もカットしてよいし、何よりもラストの主人公が捕まってどーのこーの、という場面は5分もあればよろしい。やはりこのへんが素人監督の悲しさで、撮ったシーンはどれも思い入れが強いもんだから、容易に捨てられないんだろうね。

 さて、この主人公の人物像だが“ギブソン流の反ベトナム戦争映画”という深読みしすぎの評論はさておき、あまりにもヒーロー化されているのがちょっと不満。彼は歴史上の人物で、映画は史実を正直に追っているので、単純な正義の味方扱いは少し考えた方がいい。ケネス・ブラナーの「ヘンリー五世」みたいな着実なヒーロー像の造形は無理としても、少しは格調高さを狙ってほしい。

 アメリカ映画初出演のソフィー・マルソーは魅力的だけど、もっと出番が欲しいところ。エドワード皇太子のホモぶりはもっと突っ込んだ方が面白かった。

 対して、アクション・シーンはかなりのもの。広角で大群を見せて物量で圧倒させたあと、スローモーションでの騎馬の疾走と、そのあとの肉弾戦の場面をしっかりと繋ぐ演出の呼吸の巧みさは評価したい。矢が放たれて宙を飛んで相手に命中するシーンでの、身を切られるような臨場感もいいし、スプラッタ映画一歩手前の生々しい局地戦の様子も迫力満点(そのためアメリカではR指定になったらしいが)。ここだけで入場料のモトは取れると思う。

 ジョン・トールのカメラが捉えるスコットランドの風景は美しい。ジェームズ・ホーナーの音楽もきれいだ(少し饒舌すぎるけど)。時代考証も万全。作劇上は不満な点があるが、音響効果の素晴らしさも併せて、観てあまり損はしないだろう。
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「7月24日通りのクリスマス」

2006-11-29 07:08:29 | 映画の感想(英数)

 快作「電車男」のスタッフを再集結させた新作というので観てみたが、これはダメだ。そもそも“冴えない主人公がハードルの高そうな相手をゲットする”という設定の「電車男」の“柳の下の二匹目のドジョウ”を狙おうとする意図からして見苦しい。

 前回のヒロイン役の中谷美紀を主役に据えた時点で大失敗。「電車男」の主人公役の山田孝之は、いくら外見を取り繕おうとも中身は不器用なオタク野郎そのものであることを上手く表現していたが、本作の中谷は最初はブスっぽくても、ちょっとオシャレすればたちまち垢抜けてしまう。これのどこが“冴えないキャラクター”なのか。そんな彼女がいくら“モテないわぁ”と悩もうとも、絵空事にしか思えない。

 さらに「電車男」の勝因がああいうネタ元であるにもかかわらず映像ギミックを最小限に抑えて、なるべく話をウソ臭くしないように腐心した点にあったにもかかわらず、この映画は何でもない場面でも煩わしいCG使用のオンパレードで、それだけウソっぽさが増幅されている。

 ストーリー展開については何もコメントしたくないほど低レベルだ。テレビドラマでもこれよりマシなものが出来るだろう。一番“頭が悪そう”だと思ったところは、大沢たかお扮するお相手が照明デザイナーなのに、それを活かすべきシーンが悲しいほど寒々しいこと。それだけではなく本作の映像は、ド下手なライティングのせいもあり、奥行きがゼロで平板極まりない。所詮これがテレビ屋中心のスタッフの限界か。

 なお、舞台は長崎になっているが、同じく大沢が過去に主演した「解夏(げげ)」と同じく、あの街の魅力がほとんど出ていない。さらにこの映画では、長崎をヒロインが憧れるリスボンの“代用品”にしている。これは幼少時代を長崎で過ごし、思い入れの深い私からすれば、許されない暴挙だ。その点でも観る価値はないと言ってよい。
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「ダスト」

2006-11-28 06:49:16 | 映画の感想(た行)
 (原題:DUST TO DUST, ASH TO ASH)2001年作品。ヴェネツィア映画祭で大賞を受賞したミルチョン・マンチェフスキー監督のデビュー作「ビフォア・ザ・レイン」はその清涼な映像美と幻惑的なストーリー構成に圧倒されたが、7年ぶりの監督第2作目であるこの映画は、比較的メジャーなキャスト(ジョセフ・ファインズ、アンヌ・ブロシェ等)と時空を越えたドラマという点でスケールアップはしているものの、どこか釈然としない出来だ。

 理由はたぶん、主にマケドニアに舞台が限定され、それだけ“民族の悲劇”というテーマにアプローチしやすかった前作に対し、物語の起点と帰着点をヨソの土地(アメリカ)に置いたためだろう。おかげでドラマの焦点が拡散してしまった。西部劇仕立てであることにも違和感を覚え、単に活劇のネタとしてマケドニアを取り上げただけと言われても仕方がない。小手先の映像ギミックに頼っている点も前作からの“後退”を感じさせる。

 しかし、アクション場面は迫力がある。リアルで激しい銃撃戦はサム・ペキンパーというよりマカロニ・ウエスタンに近く、あざといまでに陰惨な描写に久々に血が騒ぐ思い(笑)。この監督がもしハリウッドに進出するとしたら、“詩的な映像作家”ではなく“アクション派の旗手”みたいな取り上げ方をされるのではないだろうか。
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「手紙」

2006-11-27 06:48:12 | 映画の感想(た行)

 強盗殺人で服役中の兄と、犯罪者の身内として辛酸を嘗める生活を強いられる弟の物語。

 まず、殺人事件とはいえ最初から殺意はなく、たぶん十分反省しているはずの兄が無期懲役という重い刑罰を食らっているのは疑問だ。おそらくは逮捕される前に一悶着あったか、法廷で予想外の事態が起こったのだろうが、そのへんを最後まで省いているのは納得できない。なぜなら、兄が本当に弟が思っているような優しい男であるのかどうか、それを明かさないと二人のやりとりに必然性が感じられなくなる(東野圭吾による原作は未読なので、小説ではどのように処理されているかは不明)。

 とはいえ、この設定を除けばドラマとしての出来は悪くない。主題としては杉浦直樹扮する家電量販店の会長が弟に向かって言うセリフがすべてだ。誰だって犯罪者およびそれに関係する人物に対して距離を置きたい。それは自衛本能なのだ。いくら“差別はいけない!”と言っても無駄。犯罪者の家族が差別されるのは当たり前のことなのだ。だからその状況を受け入れて懸命に生きるしかないのだ。この作者のスタンスには100%同意する。

 我々は社会秩序がないと生きていけない以上、それを乱す者は差別されても仕方がない。その冷徹な真実を前にして“人権”の御旗を振り回しても、偽善にしかならない。

 監督の生野慈朗がテレビ界出身であるせいか、やたら作品のテーマや登場人物の心情をセリフで表現したり、説明過多なフラッシュバックを多用したりと、鼻白む演出が散見されるが、正攻法でソツのないドラマ運びは好感が持てる。兄役の玉山鉄二と弟を演じる山田孝之は実に良い仕事をしており、泣かせのシーンも不自然さがない。脇を固める吹越満や風間杜夫も手堅い。

 だが、ヒロイン役の沢尻エリカは出番が多いわりには実に印象が薄い(もう一人のヒロイン役の吹石一恵の方がよっぽどスクリーン映えする)。存在感も“華”もなく、単にルックスだけで映画に出させてもらっていると思われても仕方がない。一皮むけるような役柄に巡り会わない限り、逸材揃いのこの世代の女優の中にあっては置いて行かれるのではないかと、いらぬ心配をしてしまった(^^;)。
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「blue」

2006-11-26 07:26:42 | 映画の感想(英数)

 2001年作品。前回感想を書いた「ストロベリーショートケイクス」はああいう出来に終わったが、同じ魚喃キリ子の原作の映画化では、女子高生達の微妙な心理を描き出す同名コミックを元にした、この映画の方がはるかに上質だ。

 物語は新潟市郊外の女子校に通うカヤ子(市川実日子)と雅美(小西真奈美)の主人公二人の同性愛的な関係という、ともすれば下世話になりそうなネタを軸に展開されるが、映画の中ではその側面はあまり強く押し出されていない。むしろ人間の心の持つ弱さや生き方の問題といった普遍的なテーマに深く切り込んでおり、その意味でかなり見応えのある作品に仕上がっている。

 好奇心旺盛ながら進路をなかなか決められないカヤ子にとって、どことなく大人びた雅美は憧れの的。しかし、映画はそんな雅美の“素顔”を容赦なく暴き出す。ハイブロウな音楽の趣味も、美術への関心も、もっともらしい物言いも、すべて他人からの“受け売り”だ。現実は勉強もスポーツも出来ない凡庸な学生でしかない。そんなからっぽの自分を取り繕うために年上の男と付き合ったり「孤独を愛するポーズ」を取ったりはするものの、かえって自己嫌悪に陥るばかり。そのディレンマは、画集を貸しただけのカヤ子が何のためらいもなく絵画にチャレンジし、早々に進路を決めてしまうのを見るに及んで決定的なものとなる。

 突き詰めれば、人間というのはこの“傍観しているだけの者”と“行動が先に来る者”との二種類に分けられるのだ。そして我々の大部分が前者に属している。既成の情報や他人の影響で自分を装い、行動する前から分かったような気持ちになっている。オリジナリティなんて数パーセントもない。

 ただし、それだけでは人間の優劣なんて決められないのも確か。大事なのは、自分の属性を知った上で、いかに他者や社会と折り合いを付けていくかという“思慮深さ”にある。カヤ子が“何もない”ことが判明した雅美と絶交しなかったのは、雅美が“何もないこと”を自覚しているという、最低限の思慮を持ち合わせていたからだと思う(実際、世の中には自分に“何もない”くせに“何かある”と思い込んでいる者が幅を利かせていたりする)。二人が夜通し歩きつめた末に互いを肯定し、夜明けと共に学校に戻ってゆくシーンは素晴らしい。

 安藤尋の演出は実に丁寧で、傷つきやすい青春期の内面描写に卓越したものを見せる。“大人”がほとんど出てこない画面、主役の二人をはじめほっそりとした体付きの登場人物たち等、生々しさを巧妙に排除した作劇は、外見的なリアリズムからテーマを相対的に浮かび上がらせようとする作者の工夫であろう。

 市川は最高の演技(本作でモスクワ国際映画祭の最優秀女優賞を受賞)。小西の存在感も相当なものだ。題名通りブルーを基調とした清澄な画面は印象的で、特に日本海の茫洋とした美しさは特筆される。大友良英の音楽も万全で、間違いなく近年の日本映画の収穫である。
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「ストロベリーショートケイクス」

2006-11-25 07:08:04 | 映画の感想(さ行)

 こりゃヒドい。今年観た邦画の中では最低の出来だ。

 とにかく主人公の女性4人(池脇千鶴、中越典子、中村優子、岩瀬塔子)が、どれも気色悪い。宣伝文句には“愛を渇望する4人の女性の日常をリアルに描き出す”とあるが、いったいどこが“リアル”なんだか。

 石ころを神棚(?)に飾って“恋がしたいでーす”なんてセリフを真顔で(声に出して)言う女なんか聞いたことがないし、棺桶で寝起きするデリヘル嬢なんてノーサンキューだし(だいたい、棺桶どこから調達してきたんだよ)、上京してから流した涙をビン詰めにしているOLなんてヘドが出そうだし、実際ヘドを吐いている過食症のイラストレーターは、そのキモいOLと同居していて、その存在にストレスを感じているらしい(だったら最初からルームメートなんかになるなよ)。

 徹頭徹尾ムカつく登場人物とムカつく描写のオンパレードで、ならばその不快さの果てに何かあるのかと言えば、取って付けたような“和解”らしきものだけ。不快さを映画的カタルシスにまで突き詰める覚悟も何もなく、ただ漫然とカメラを回しているに過ぎない。

 監督は矢崎仁司である。彼の長篇デビュー作「風たちの午後」は日本映画史上に残る傑作だと信じて疑わないが、それからの長いブランクを経て撮られた「三月のライオン」は箸にも棒にもかからない駄作だった。そして初めてメジャーな俳優陣を得て作られたこの映画の体たらくを見るにつけ、彼は結局「風たちの午後」を撮るためだけの作家だったということが分かる。ここには「風たちの午後」での切迫したパッションや美しい詩情はどこにもない。まるで“抜け殻”だ。

 さらに劇中でのイラストレーターが手掛けた本の題名に「風たちの午後」というタイトルが付けているのは、昔の自分にしがみついているような醜態と思われても仕方あるまい。映像は小綺麗だが、まるで何かのイメージフィルムみたいで、実に薄っぺらである。
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映画が盗まれている・・・・

2006-11-24 06:43:51 | 映画周辺のネタ
 ここ数年、映画館で本編に入る前に、よく流れる「CM」がある。そう、黒い涙を流す谷村美月の顔がアップになり「映画が盗まれている・・・感動も盗まれている・・・私は観ない。私は買わない」とナレーションが流れるアレである。

 確かに、著作権無視の海賊版の横行は許されない。しかし・・・・その「海賊版はイケマセン」という御題目を、わざわざ映画館に金払って観に来ている客に向かって主張して、いったい何になるんだろうか。コソコソと違法コピーを集めているような輩は、映画館なんかにまず行かないだろう。

 通常、問題解決の手段としては、最も大きい原因から潰してゆくのが筋である。ところが、どう考えても、あの「CM」を映画館で流すこと自体に、一番大きい「原因」に迫るという意味などありゃしない。「興行界もちゃんと考えていますよ」という自己PRにしかならない。問題解決という観点から見れば屁の突っ張りにもならないことを、得々としてやっている。・・・・なんてことを書くと「出来ることから始めているだけだ。それのどこが悪い」という反論が返ってくるだろうが、問題はその微少な効果しかあげられないことを「出来ることから始める」というスローガンで誤魔化していることだ。

 海賊版を大量に流通させているのはどういう連中か。そして、その元締めになっている「国」はどこなのか。あの「CM」はそんな奴らに向けて発信すべきだ。それが無理なら、テレビのゴールデンタイムで流すべきだろう。カネを払っている「優良顧客」の我々には関係ない話だ。

 この「微細なことをやって自己満足している」という構図は、このことに限らない。最近叫ばれている「地球環境を考えて、出来ることから初めてどうのこうの」というキャンペーンなど、その最たるものだ。地球環境を汚している一番の原因は我々か? そうじゃないだろ。ゴミの削減とか無駄遣いの低減とか、そういう「マナー」に収斂されるような事物にわざわざ「地球環境保護」というレッテルを貼っているだけだ。だいたい酸性雨の元凶も水質汚濁の大御所も、「あの国」ではないか。「あの国」に対して「地球環境を守れ!」と迫る方が先ではないのか。

 ・・・・話がそれた(爆 ^^;)。とにかく、自己満足の御為ごかしのCMなど、いい加減やめて欲しいってのが本音だ。そうでなくても上映前のCMの多さに辟易している昨今である。
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「DEATH NOTE the Last name」

2006-11-23 06:42:20 | 映画の感想(英数)

 相手の顔を見ただけで本名を知ることが出来る“第二のキラ”の攻撃から身を守るため、甘党の名探偵L(松山ケンイチ)がひょっとこのお面をかぶって大学のキャンパスを歩くシーンで吹き出してしてしまった。同時に“これはお笑い映画なのだ”と合点した。

 テンポが良く飽きさせないドラマ運びは前回と一緒だが、気になった御都合主義の展開と突っ込みどころ満載のプロットの積み重ねは、今回“おちゃらけだっ!”と割り切ることによって随分と気にならなくなった。作者のこの方向修正は成功だ(爆)。

 それに加え、金子修介監督の趣味が前面に押し出されている点も嬉しい。その“趣味”とは言うまでもなく、彼がデビュー当時から得意にしていた“女の子を可愛く撮ること”である。ヒロイン役の戸田恵梨香にミニスカートをはかせて、なめるようなショットで迫るのをはじめ、ニュースキャスター役の片瀬那奈のスラリとした足を(ちなみに、ここは意味なく下着姿 ^^;)しつこいカメラワークで捉えているあたりを見ると“おー、やっとるわい”とニヤリとしてしまった。しかも、こういう“萌え萌えシーン”を多数挿入することにより、青少年層の鑑賞満足度(笑)を高め、観客動員に一役買おうとしているあたりも天晴れだ。

 キャスト陣では藤原竜也の悪役ぶりが楽しく、当面はこの路線を突き詰めて欲しい。新たな死神の声を担当する池畑慎之介も中性的で、以前からの中村獅童と好対照だ。

 それにしても、本作に社会的な素材があるとすれば、それは悪人を片っ端から始末してゆくキラに対する、一般市民の無節操な賛同であろう。この“駆逐される良識派と、のさばる愚民”という構図は、現在我々が直面する問題を端的にあらわしているモチーフだが、そういうネタがこの作品のような“若者向けのお手軽映画”でしか出せないというあたりが、最近の日本映画の物足りなさを如実に示している。
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「わかれ路」

2006-11-22 06:40:02 | 映画の感想(わ行)
 (原題:Intersection)94年作品。近作「氷の微笑2」でも怪演を見せる(観てないけど ^^;)シャロン・ストーンが珍しく貞淑な人妻を演じる。このミスマッチ感覚が興味深いが、監督が「黄昏」(81年)「フォー・ザ・ボーイズ」(91年)などのマーク・ライデルだから決してキワ物ではない。リチャード・ギア扮する建築家とその妻、そしてギアがのめり込む愛人(ロリータ・ダヴィドヴィッチ)をめぐる三角関係を描くドラマ。クロード・ソーテ監督によるフランス映画「すぎ去りし日の・・・」(70年、私は観ていない)の再映画化である。

 映画はいきなり主人公ギアの交通事故の場面から始まる。その後、そこに到るまでの彼の行動やドラマ背景を示す短いシークェンスを、断片的につなげていく手法を取っている。説明過多で大仰な展開が観る者をシラけさせる昨今のアメリカ映画において、これがけっこう効果的なのだ。おかげで一時とも目を離せない。

 貞淑だが、感情を押し殺してすべてに抜かりがなく家庭を仕切りまくる妻と、ちょっとヌケてはいるが、感情を素直に出してくる可愛い愛人。男だったらどちらを取りたがるかは一目瞭然だが、ぼーっとした善人面の優柔不断男ギアはなかなか踏ん切りがつかない(まー、娘もいるし、実際問題としては踏ん切りがつかない方が普通だろう)。考えてみればS・ストーンの人妻役というのもぴったりで、あまり表情を出さず、セリフも抑揚がなく、でも時にはキレてしまうこのキャラクターは、肉体派だけど大根のストーンに向いている。対して感情の揺れが大きい愛人には演技派のダヴィドヴィッチが適役だ。

 面白いのは、主人公が最後の決断を下すきっかけとなったのが、悩んで憔悴しきった彼にパンを与えた赤毛の少女だということだ。合理的判断もどこへやら。単なる偶然で決心してしまう、でも人生ってのはそういうものかもしれない。無理に必然性を絞り出す多くのアメリカ映画とは違うアプローチで、さすが元ネタがフランス映画だけのことはある。

 そして、ウィットの効いた皮肉な結末は絶対アメリカ映画では無理。脚本の見事さと優しさと残酷が入り交じった2人のヒロインの心理描写がモノを言う。

 主人公の心象風景である幻想的なショットも嫌味がなく、そして何より舞台をカナダという非アメリカ的風土に持ってきた功績が大きい。透明で清涼な映像は、ヨーロッパ映画のスピリットを感じさせる。観て損はない。
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スピーカーケーブルを元に戻してみる。

2006-11-21 06:50:08 | プア・オーディオへの招待
 前回、スピーカーケーブルを英国Chord社のCARNIVAL Classicに付け替えたことを書いたが、あれから数週間、相変わらずこの甘口の音は個性が強すぎると思う。単に“品が良くてスイート”ではなく、いわば一杯の英国ブランド高級紅茶の中に角砂糖を3個ばかりぶっ込んだようなサウンドだ。気分を変えるため、以前使っていたケーブルにひとまず戻してみた。



 しかし、ただ戻すだけでは芸がない。ちょっと小細工を試みてみる。使用しているスピーカー(KEFiQ3)はバイワイヤリング端子を装備していることは以前書いたが、購入時には高音部と低音部を繋ぐジャンパーケーブルがデフォルトで付属している。この付属品ジャンパーケーブルは多くのスピーカーの場合“オマケ”みたいなチャチなもので、取り外した方が良い結果が得られるらしい。ただしiQシリーズに着いているジャンパーケーブルはOFC線(Oxygen-Free Copper 無酸素銅)に錫メッキを施した、少なくとも見た目は立派なものだ(上のカタログ写真参照)。果たしてその“実力”はどうだろう。

 今回は付属品ジャンパーケーブルを取り外し、その代わりにスピーカーケーブルを端から十数センチ切り取って作成した“間に合わせのジャンパーケーブル”を付けてみた。こっちの方が音が良ければ、付属品ジャンパーケーブルは使う必要はないと言える(注:ジャンパーケーブルは市販品もあるが、どれも高価だ。たかが針金ごときに大枚は払えない ^^;)。



 さてその結果だが、大きな変化はないものの、スピーカーケーブルの切れ端をジャンパーケーブル代わりにした方が中高音の繋がりがスムーズになった。やはりジャンパーケーブルとスピーカーケーブルの線材を同一にした方がベターなのだ。

 言い忘れたが、以前からのケーブルは日本のメーカーであるSAEC製である。8年以上前に買ったもので、型番は表面の印刷が剥げ落ちているため不明。定価がメーター当たり千円程度だったと記憶している。CARNIVAL Classicと比べれば情報量は落ちるが、音場の見通しは上。高音と低音に若干の強調感があるものの、クールにスッキリとまとめてくる。好みで言えばこちらに軍配が上がる。

 ではこれを継続使用すればいいのかというと、それも無理なのだ。なぜならコードの表面と絶縁体がかなり老化しており、ボロボロになりつつあるから。当初このケーブルは音楽好きの同僚あたりにタダでくれてやろうと思っていたが、こんなにくたびれたものは譲れない。よって折を見て廃棄処分ということになろう。

 いずれにしろCARNIVAL Classicとは別にリファレンスのスピーカーケーブルを調達する必要がある。次は米国製を試してみよう。それがダメなら“安全策”としてSAEC製の上位機種を購入するまでだ。いやまて、他にもケーブルのメーカーは山ほどある。さて、どうしようか・・・・このように、オーディオファンの悩みは尽きないのであった(まあ、それが楽しいんだけどね ^^;)。
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