元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「アデル、ブルーは熱い色」

2014-04-28 06:20:27 | 映画の感想(あ行)

 (原題:La vie d'Adele - Chapitres 1 et 2 )薄味で、なおかつ上映時間が無駄に長い。第66回カンヌ国際映画祭において大賞を獲得した作品だが、主要アワードの受賞作が必ずしも良い映画ではないことを改めて実感した次第だ。

 高校生のアデルは、マジメだがいまいち面白味の無いボーイフレンドや俗っぽい話しかしないクラスメート達との距離を感じ、満たされない日々を送っていた。そんな中、彼女は町で青く髪を染めた女を見かける。相手もアデルを見つめるが、その鋭い眼差しに魅了された彼女は、その女のことしか考えられなくなる。やがて美大生である青い髪の女エマはアデルにアプローチし、二人は深い関係になる。

 数年後、アデルは画家になったエマのモデルをしながら彼女と一緒に暮らしていたが、平凡な教師であるアデルと、名が売れ始めた芸術家のエマとの間に溝が出来はじめる。

 同性愛を興味本位の次元から大きく逸脱させ、広範囲な共感を会得させるには、切迫した内面描写と密度の濃いドラマ運びが不可欠だ。矢崎仁司監督の「風たちの午後」やアン・リー監督の「ブロークバック・マウンテン」といった秀作にはそれらが備わっていた。ところが本作には何も無い。ゲイが単なる新奇な“ネタ”としか扱われていない。もちろん、送り手としては素材を丁寧に描いたつもりなのだろう。しかし、このあまりにも平板な作劇は、対象を深く考察しないまま製作に入ってしまったことを示すものである。

 主人公二人の間には、観る者をゾクッとさせる激しいパッションは感じられない。道ならぬ恋に走ってしまうのも道理であると思わせるような、妖しい空間が現出することもない。

 アデルは日常が退屈だから、何となく同性愛を体験してみたというレベルだし、エマにしてもあえてアデルを選んだ理由がハッキリとしない。せいぜいが試しに一緒に寝てみたら思いのほか相性が良かったので、そのままズルズルと交際したという事情が見える程度だろうか。エマが別の女と“浮気”してどうのこうのという展開も、ありがちな話で面白くもない。

 そもそも、主演の二人が魅力に乏しいのが致命的だ。アデル役のアデル・エグザルコプロスとエマに扮するレア・セドゥーは初めて見る女優だが、ルックス面でのアピールが弱い上に演技力にも見るべきものはない。アブデラティフ・ケシシュの演出はピリッとしたところがなく、アダルトビデオの真似事みたいな退屈な絡みのシーンで上映時間を水増しして3時間にも達してしまった。

 劇中では数年の歳月が流れているはずなのだが、それがほとんど感じられずにいつの間にかアデルが教師になっているというドラマ運びにも、この監督の力不足が見て取れる。なお、カンヌ映画祭の審査員長はスピルバーグだった。心理描写が苦手なこの監督らしいセレクションではないかと、妙に納得してしまう(笑)。
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野球観戦を楽しんだ。

2014-04-27 07:08:08 | その他
 去る4月26日(土)に、久々に福岡ドームに足を運んで野球観戦を楽しんだ。対戦カードはホークス対ライオンズの5回戦。今のところ上位にいるホークスと最下位に沈むライオンズとの試合であり、しかもソフトバンクの先発は今期は現時点で負けが無い中田なので、ホークスにとって楽なゲームだと思っていたら、大間違いだった(笑)。



 とにかく中田の立ち上がりが悪すぎた。トップバッターの大崎に痛打されると、あとはボロボロだ。不用意に変化球主体で投げたところを、相手に見切られて形勢を不利にするばかり。西武の先発ピッチャーは菊池だったが、当日の中田よりも仕上がりは良かった。ライオンズ打線も決定力に欠けていたので大した失点にはならなかったが、上位争いをしているチームとの対戦だったらワンサイドゲームになっていたかもしれない。

 この状態を救ったのがショートの今宮で、ライオンズの中村の痛烈なゴロを好捕し併殺で仕留め、5回には2点タイムリーの二塁打を放ち、何とか試合を組み立てることが出来た。



 中田から五十嵐、サファテと繋いで何とか一点差で勝ちを拾ったものの、ホークスにとっては不本意な内容のゲームだったはずだ。今後の奮起を期待したい。それでも試合後に“勝利の花火”が炸裂し、ドームの屋根が開くと得した気分になる。負け試合を見て帰りの足取りが重くなるよりも、ずっとマシだ(爆)。

 なお、ゲストとしてU-KISS(ユーキス)とかいう男性5人から成るK-POPのグループが来ていて、曲と始球式を披露した。客席にはそれを目当てにした若い女の子が目立ち、いつもと違った雰囲気だったのは面白かった。すっかり斜陽化したと言われるK-POPだが、根強いファンもいるようだ。
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SOULNOTEのアンプを更改した(その2)。

2014-04-26 07:05:36 | プア・オーディオへの招待
 新たに手に入れたアンプ、SOULNOTEのsa3.0にはヴォリュームと入力切替の機能しかない。sa1.0には装備されていたヘッドフォン端子はもちろん、トーンコントロールやバランスコントロールも省かれている。だから、多機能を望むユーザーにとっては完全に“お呼びでない”製品だ。

 しかし、sa3.0にはsa1.0に装備されていなかった機能がある。それはリモコンだ。“何を今さら”と言われそうだが(笑)、やっぱり便利である。そして入力切替がLED付きのプッシュ式になったのも見逃せない。sa1.0ではセレクターが回転式で入力ポジションが判別しにくかったことを考えると、操作性は向上している。



 ただ、それでもsa3.0は機能を絞り込んだスパルタンな仕様のモデルだけに、無条件で幅広い層に奨めるというわけにはいかないと思う。

 外観に関しては、sa1.0と同様にsa3.0もコンパクトサイズである点は評価したい。奥行きが25cm弱というのは、住宅事情を考えると有り難い。無意味にデカいアンプばかりが店頭に並んでいるという状態は、そろそろ是正した方が良いと思う。そしてsa3.0はデジタルアンプとしての定格も備えているせいか、発熱が比較的少ないのも長所だろう。

 デザインについては、特段優れているとは言えない。まあ、私はその点に関しては気にしないタイプなので、個人的にはマイナス材料にはならなかった。もちろん、多少の外連味があった方が良いと思うリスナーには不向きであり、この意味でもユーザーを選ぶかもしれない。



 ディーラーではサービスとして付属電源ケーブルのプラグをサードパーティーのものに替えてくれたが、手持ちのケーブルと聴き比べると、やっぱり市販品には一日の長がある。とはいえ、SOULNOTE製品に付属している電源ケーブルは、他メーカーのアンプ類の付属品と比べれば、とりあえず“使える”というレベルに達しており、良心的であると言えるだろう。

 関係ない話だが、sa3.0は私が初めて手に入れたプラック仕上げのアンプである。これまでCDプレーヤーやチューナーなどはブラック・フェイスのモデルを使ったことはあるが、黒いアンプはこれが最初だ。猫も杓子もアンプは真っ黒だったバブル時代にさえ黒パネルの製品は使わなかったのだが、現時点でブラック仕上げのアンプが自室に鎮座するようになったのを見ると、まあ黒も悪くはないと思わせる。

 とにかく、私の判断基準ではサウンド・使い勝手とも十分及第点に達しているモデルであり、末永く使いたいと思う。今後は各種ケーブルの選択やスパイクを使ってのセッティングなど、いろいろと使いこなしたい。

(この項おわり)
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SOULNOTEのアンプを更改した(その1)。

2014-04-25 06:25:00 | プア・オーディオへの招待
 足掛け7年間使い続けたアンプ、SOULNOTEのsa1.0を買い替えた。sa1.0の音色に特別不満があったわけではない。しかし、10W×2(8Ω)という低出力では2013年に新たに導入したスピーカーであるKEFのLS50を十分には鳴らせなかったのも確かだ。

 LS50は決して能率(アンプの出力に対して得られるスピーカー音圧の割合)が高いモデルではない。この前に使っていたB&Wの685よりも出力音圧レベルが低く、鳴らし始めた際には音圧の低下に面食らったものだ。それでもポピュラー系の音源ならば何とか我慢出来たのだが、ダイナミックレンジが大きいクラシック系のソースだと、途端に苦しくなる。ディスクによっては弱音部でヴォリュームをかなり上げないと聴き取れないこともあり、精神衛生上良くない(笑)。



 だから、標準的な出力を持つアンプへの更改を考えるようになったのだが、今回消費税率アップという絶好の(?)買い替えのタイミングを迎え、2014年3月末ギリギリに注文し、入手した次第である。

 新しいアンプは、同じSOULNOTE製品のsa3.0である。定格出力は75W×2(8Ω)と申し分ない。さっそく音を出してみると、やはり同一メーカーのモデルだけあってsa1.0と音色傾向はほとんど変わらない。ただし質感は異なる。当然のことながら値段が高いだけあってsa3.0の方が上だ。

 sa1.0は前に出る中域の鮮明さで音像の生々しさをアピールしていたが、sa3.0は聴感上の特定帯域の充実感を印象付けるのではなく、鮮明度の高さは全域に渡る。一音たりとも無駄にしないような、入力信号をありのまま出していこうという姿勢で、結果として音場はsa1.0よりも明らかに広くなっている。高出力の恩恵を最も受けているのが低域で、制動が効いて立ち上がりが速くなった。全体的にほぼ予想通りのグレードアップ効果がみられ、満足できる買い物だったと言えるだろう。



 もちろん購入にあたっては、他社同クラスの製品群と聴き比べている。ただしSOULNOTE製品は取り扱っているディーラーが限られているので、複数台を並べて一斉に聴くことは無理である。だから同じスピーカーを別々の店において各アンプで鳴らしての比較ということになったが、それでも各製品のキャラクターとクォリティは掴むことが出来た。

 結論から先に言えば、sa3.0は10万円台のアンプの中では解像度・情報量においては(今のところ)トップである。この価格帯ではDENONのPMA-2000REPIONEERのA-70YAMAHAのA-S2000など評判の良い製品が各社からリリースされているが、音質重視という方向性だけで選べばsa3.0以外には考えられない。

 しかし、sa3.0はすべてのユーザーにとっての(この価格帯での)ベストバイかというと、そうではない。アンプで“音を作っていこう”とするリスナー、つまりアンプの音調に濃い“味付け”を求めるユーザーには、この製品は合わない。たとえばMARANTZのアンプが好きな聴き手は、SOULNOTEのモデルは受け付けない可能性が高いだろう。音のクォリティだけではすべてを割り切れないのが、趣味のオーディオの面白いところだ。

 さらに言えば、機能を絞ったsa3.0は使い勝手の面に関してもユーザーを選ぶかもしれない。それについては次のアーティクルで述べる。

(この項つづく)
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「アナと雪の女王」

2014-04-21 06:18:46 | 映画の感想(あ行)

 (原題:Frozen)正直言って、同時上映の短編「ミッキーのミニー救出大作戦」が凄すぎて“本編”が霞んでしまった。ミッキーマウスが登場するディズニー作品は95年の「ミッキーのアルバイトは危機一髪」以来18年ぶりということだが、過去の音声アーカイブから取り出されたウォルト・ディズニー自身の声でミッキーを吹き替えているのをはじめ、細部まで凝りに凝った技巧が駆使されている。

 圧巻はミッキー達が劇中のスクリーンを抜け出してビートとの追いかけっこを“文字通り”三次元的に展開するくだりで、あらゆるアイデアが詰まった映像のアドベンチャーには驚嘆せざるを得ない。ここだけで入場料のモトは取れるだろう。

 さて、ディズニー映画では珍しいダブル・ヒロインの起用や、女流監督(ジェニファー・リー)の参画などで新味を出した“本編”の出来はどうかというと、個人的には“中のやや上”といったあたりの評価だ。なお、その採点の大半は見事な映像処理と素晴らしい音楽で稼いでおり、ストーリー面では乱雑な点が目立つ。

 そもそもこの話が成り立つためには、アレンデール王国の国民が王室を慕っていなければならない。もしそうでなかったら、国王夫妻が死去してから3年もの月日が大過なく送れるはずがないし、新女王のエルサが国中を凍らせた時点で暴動の一つも起こっていただろう。ところが本作には国民の側をフォローしたような描写は皆無だ。とにかく“国民は黙って王室を敬うものだ”という御題目が何の問題意識も提示せずに横たわっている。

 斯様に物語の根幹がしっかりとしていないので、アレンデール王国とウェーゼルトン国の貿易品目は何なのかとか、雪と氷しかない宮殿でエルサはどうやって生きていくつもりだったのかとか、そんな些細なことまで気になってしまう。さらに終盤では主要登場人物の一人が思いも寄らぬ“悪の面”を見せるに及んでは、まるで昔の香港映画みたいな乱暴な作劇だ。

 ならばアクション場面は盛り上がるのかというと、そうでもない。単発的な場面はハデだが、それが“線”となって大きなうねりになる様子は最後まで見られなかった。各シークエンスを入れ替えたり、それぞれの長さを調節するだけで随分と違ってくるようにも思えるのだが、どうにも段取りが悪いようだ。

 さらに言えば、主人公二人の性格付けに今ひとつ踏み込みが足りない。基本的に子供向けのアニメーションにそこまで要求するのは酷であるのは承知しているが、かくも表面的な捉え方しか出来ないとなると、クライマックスの“真実の愛”の何たるかが観る側に迫ってこないのだ。

 しかしまあ、深いテーマ性なんかを織り込んでしまうと“引いて”しまう観客も少なくないだろうし、大ヒットを狙うには、この程度の“さじ加減”でちょうど良いのかもしれない。
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「avec mon mari」

2014-04-20 06:38:50 | 映画の感想(英数)
 99年作品。若者向けの軽量級ドラマをいくつか手掛けて、今やそれなりに有名になった大谷健太郎監督の、デビュー作にして最良の映画。全編に漂う、計算され尽くした脱力系のタッチ(?)が心地良い。

 出版社で気鋭の編集者として日々業務をテキパキとこなしているが家事はまったくやらない美都子と、人当たりが良く家事は得意だが仕事があまり来ないフリーカメラマンのタモツは、結婚3年目の夫婦だ。ある日、タモツがモデルのマユとよろしくやっていると勘違いした美都子は、タモツを家から叩き出す。彼は仕方なくマユの部屋に転がり込むが、実はマユは美都子の仕事仲間である中崎と不倫中だった。かくして複雑な四角関係が形成され、タモツはその中で一人オロオロするばかり。



 何てこともない夫婦の痴話ゲンカを一歩も二歩も引いて淡々とじっくり撮っているのには好感を持った。長回し主体のドキュメンタリータッチの演出にも、まるで無理や気負いがない。会話の面白さとか、映像の構図の的確さなど、特筆すべき点は多々あるが、何より良いのは作者が登場人物たちを見るポジティヴな視線だ。ありふれた日常、でもその中にこそドラマがある。

 キャラクター面では、優柔不断でプニプニしている(?)夫の役柄がサイコー。頼りないけど、しっかりカミさんから頼られているってところが面白い。演じる小林宏史の飄々とした持ち味が良く出ている。中崎役の大杉漣も胡散臭いオヤジをうまく表現していた。美都子に扮する板谷由夏はこれが映画初出演だったが、なかなか堂に入った演技である。辻香織里や寺島まゆみといった脇の顔ぶれも悪くないし、大谷監督自身も出演している。

 それにしても、プロレス好きの嫁御から関節技かけられて無理矢理に離婚届に判を押すというのは本当にコワい。私も気をつけよう(爆笑)。
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「白ゆき姫殺人事件」

2014-04-19 06:48:50 | 映画の感想(さ行)

 薄っぺらい映画だ。湊かなえによる原作は読んでいないが、彼女の作品は何冊か目を通している。印象としては“オバサンのグチ”と変わらないレベルで、とても評価出来るものではない。2010年に中島哲也監督が「告白」を映画化した際は、その安っぽさを逆手に取ったようなやりたい放題の外連味の連続で多くの観客を納得させたものだが、今回は(おそらく)原作を単純にトレースしているだけだと思われ、軽量級素材のチープさが前面に出ているような印象を受ける。

 化粧品メーカーの社員である三木典子が山中で殺される事件が起こる。その手口は残虐極まりなく、典子が評判の美人だったせいもあり、ワイドショーの絶好のネタになる。一方、テレビ局の臨時雇いのADである赤星雄治は交際相手の里沙子から典子が彼女の同僚であったことを告げられる。

 里沙子によると、事件当日から行方をくらましている城野美姫という社員がいるらしく、本人の性格や状況から考えても事件への関与を疑うに足る人物であるらしい。さっそく赤星はこの企画を局に売り込み、高視聴率をあげる。はたして美姫は真犯人なのか・・・・という話だ。

 要するにマスコミの暴走を基本モチーフとした作劇である。しかし、同様のテーマを扱った過去の作品群、たとえば滝田洋二郎監督の「コミック雑誌なんかいらない!」や片岡修二監督「地下鉄連続レイプ 愛人狩り」、井坂聡監督「破線のマリス」などと比べても大幅に落ちる出来だ。

 それは、本作におけるマスコミの捉え方が表面的に過ぎるからである。もとよりマスコミに“責任感”などというものは存在せず、ましてや“心からの謝罪”や“反省”なんかとは無縁であることは誰もが知っている。そのマスコミを扱うにあたって通り一遍の描写しかせず、結果として“やっぱりマスコミはロクなもんじゃありません”という陳腐なお題目しか提示していないのだから呆れる。前述の過去の作品群のように、もう一歩踏み込んで目を見張る成果をあげて欲しかったのだが、凡庸な監督(中村義洋)には無理な注文であったようだ。

 本作はマスコミに関するネタの他に、歪に肥大化するネット情報をも取り上げて“時代性”を出そうとしたようだが、これもまた中身が空っぽで話にならない。ネット情報の多くが空疎であることなど、これまた誰もが承知している。それを何の工夫もなく披露しているだけで、この映画の送り手こそが“情報弱者”の最たるものではないかと疑いたくなる。

 ドラマの焦点となるべき殺人事件の真相たるや、御都合主義が屋上屋を架している状態で話にならない。サブ・プロットみたいな“ミュージシャン転落事件”の扱い方も手抜きだし、そもそも美姫が事件が起こってから失踪している理由も分からない。

 ヒロイン役の井上真央をはじめ、綾野剛や谷村美月、染谷将太、貫地谷しほり、金子ノブアキなど期待できそうな面子(菜々緒と小野恵令奈は除く ^^;)を揃えていながら、どれも大したパフォーマンスをさせてもらっていないのも噴飯ものだ。テレビの2時間ドラマにも劣る内容で、観る価値は無い。
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「どっちにするの。」

2014-04-18 06:28:48 | 映画の感想(た行)
 89年作品。金子修介監督のこの頃の代表作で、彼自身によれば“転機になった”映画でもあるという。赤川次郎の小説「女社長に乾杯!」の映画化。当時は東宝の秋興行の目玉として公開された。

 おもちゃ会社パンプキン・カンパニーに勤める平凡なOLの桑田伸子は、コンピューターの動作ミスにより副社長に抜擢されてしまう。しかも社長は後輩の純子で、専務が窓際係長の北林という想定外の人事が現実化。慌てる彼らだが、やがて伸子は何とか傾きかけた会社の業績を立て直そうと経営改革に乗り出していく。

 一方伸子はヤング・エグゼクティブの山本にも御執心なのだが、彼女に思いを寄せる若手社員の丈彦は気をもむばかりだ。そんな中、それまで左前になりつつあった会社経営の裏にはある陰謀が仕組まれていたことが明らかになり、伸子たちは否応なくそれに巻き込まれていく。



 どうしてコンピューターが誤作動したのか、その理由が明かされる冒頭部分から金子監督得意の“おちゃらけモード”が全開で、観る者を一気にマンガチックな世界に引きずり込むことに成功。こうなればしめたもので、話が少々ウソ臭くても笑って済ませられる。

 時代はバブルの全盛期で、いくら会社の業績が傾いても従業員はどこか楽天的。結果として往年の“サラリーマン物”のルーティンをトレースしたような明るさが全編にみなぎっている。この頃は数年後に待ち受けるバブル崩壊と長期不況などは頭の中には無く、その場のノリで日々を楽しむことだけを考えていた連中が幅を利かせていた。今から考えるといかにも能天気で軽く見られそうな風潮だったが、これはこれで良い時代だったのだと思わせる。

 主演は当時のトップアイドルだった中山美穂で、彼女をいかに可愛く撮るか、それが演出の一番のポイントだ。冒頭に書いた“同監督にとって転機になった”というのは、脇目も振らずに対象をとらえて盛り上げるという、良い意味でのプロ意識を会得したということらしい。さらに本作には、この頃売り出し中だった宮沢りえや風間トオルといったトレンディな(?)顔ぶれも揃い、手堅い“客集め”をメインとしたプログラム・ピクチュアの方法論が全面展開している。

 御都合主義のラストにも腹が立たず、中山が歌うエンディング・テーマも心地よく聴けた。それにしても、バブル期から経済的に低迷した昨今に至るまで、うまく時代の波に合わせて乗り切ってしまう金子監督のノンシャランかつしたたかなスタンスには、いつもながら感心する。これからも我々を楽しませてくれるのだろう。
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「それでも夜は明ける」

2014-04-14 06:06:50 | 映画の感想(さ行)

 (原題:12 Years a Slave)現時点で今年(2014年)の米アカデミー作品賞候補作を全部観たわけではないが、おそらくノミネート作の中では一番質の低い映画だろう。結果的にその“低クォリティの映画”が大賞を獲得してしまったのだから、何とも釈然としない気分だ。

 1841年、ニューヨーク州で自由黒人として暮らすソロモン・ノーサップは、ヴァイオリン奏者として妻子と共に平穏な暮らしを営んでいた。ある日、二人の白人が彼に仕事を頼みにやって来る。彼らの依頼に応じて現場に出向いてみると、仕事の前の酒席が設けられていた。しこたま酔って目を覚ましたときには、個室に閉じ込められ、しかも彼の手足には鎖が付けられている。ソロモンは拉致されて奴隷として南部に売られてしまったのだ。それから12年の長きに渡る、南部の農園での苦しい生活が始まる。ノーサップ自身による手記の映画化だ。

 まず腑に落ちないのが、原題にもあるような12年という年月の流れがまったく感じられないことだ。パッとみれば2,3年、長くてもせいぜい4,5年の時間経過しか見て取れない。それどころか主人公の肉体的・精神的疲弊もほとんど描かれておらず、これでは“12年”というのは単なる御題目にしかならないのだ。この監督(スティーヴ・マックイーン)の力量が不足しているとしか言いようがない。

 この手記が現存しているということは、当然のことながら主人公が無事に生還したことを示し、それは観る前から分かっている。ならばそのプロセスをいかに映画として盛り上げていくかが作劇の主眼になるはずだが、そのあたりがスッポリと抜け落ちている。いくら実話とはいえ、特定個人の偶発的な善意の発露によって“何となく”事態が好転してしまうのは、何とも安易な展開だ。

 たとえば、何度も逃げようとしてそのたびに失敗した経緯を織り込めば、終盤にいくらかのカタルシスが得られたはずだが、呆れたことにそれも無し。また、プロデューサーも兼ねたブラッド・ピット演じるカナダ人が、終盤近くでもっともらしい講釈を垂れるのもワザとらしい。

 主演のキウェテル・イジョフォーは熱演だが、冴えない演出のせいもあり、頑張りが表面的にしか見えてこない。アカデミー助演女優賞を取ったルピタ・ニョンゴの演技も全然大したことは無く、わずかに印象に残ったのはプランテーションの残酷な支配人に扮するマイケル・ファスベンダーの怪演ぐらいだ。

 奴隷制度の残酷さを描いた映画ならばリチャード・フライシャー監督の「マンディンゴ」に大きく差を付けられ、感動系ならばTVシリーズの「ルーツ」には完全に負ける。それどころスピルバーグの「カラー・パープル」や「アミスタッド」の方がまだ見応えがあった。何とも中途半端で煮え切らない映画だが、オスカーを得られた理由は外野には窺い知れないものがあるのだろう(まあ、いつものことだが)。
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「天と地」

2014-04-13 06:23:36 | 映画の感想(た行)
 (原題:Heaven and Earth)93年作品。天才とナントカは紙一重だというが、この頃のオリヴァー・ストーンは天才かどうかはともかく、アメリカ映画界では一番“ナントカ”の側に近い作家だったと思う。デイヴィッド・リンチよりもサム・ライミよりもコーエン兄弟よりも、“キ○ガイ度”においては上回る。

 彼は当時はベトナムでの地獄の体験を忘れるために、あるいは悪夢のような日々が自己のアイデンティティを崩壊させるのを阻止するためだけに映画を作っていた。ベトナム戦争を引き起こしたアメリカ政府へのヒステリックな攻撃、社会の不正への糾弾、そして戦場の地獄を生みだした“人間の欺瞞”に対する抗議。果てしなき絶叫と怒りの声が全編を覆い、緊張感あふれるシーンを、これでもかこれでもかとたたみかけてくる。

 「プラトーン」「JFK」のような秀作はもちろん、「7月4日に生まれて」「トーク・レディオ」といった失敗作にいたるまでそれは共通している。そうしなければ彼は一時たりとも生きていられないのだろう。そこには“観客”という下世話な(?)存在は無視される。彼にとって映画だけが外の世界との出入口なのである。



 ところが、本作「天と地」では少し様子が違う。ヒロインのレ・リー(ヘップ・ティー・リー)が住む村の天国的な美しさ、喜多郎(初めてアメリカ映画を手掛けた)の流麗な音楽、いくらベトナム戦争をベトナム人の側から描くという、従来と違った題材を扱っているからといって、この静けさは何? そして村はベトコンとアメリカ軍に蹂躙されていくのだが、以前のケレン味はどこにも見えない。もっとドギツい描写があってしかるべきなのに、ここに描かれるのは意外とオーソドックスに綴ったベトナム人女性の半生である(メロドラマ的でさえある)。

 しかし、この違和感はトミー・リー・ジョーンズ扮するアメリカ軍将校に映画の焦点が移っていくと合点がいくようになる。

 はっきり言って、いくらベトナム人側から描くといってもしょせん作者はアメリカ人、ヘップ・ティー・リーは大熱演だが、“白人が理想とする東洋女性”の域を出ない。それに対し、彼女と結婚するアメリカ軍人の悲惨な人生は目を被うばかりだ。作者の感情移入はこちらの方にウェイトがかかっていることは明白。

 罪悪感でボロボロになった彼が救いを求める対象は、けなげに生きてきたベトナム女性のイノセントさであった。さらに言えば、ベトナム帰還兵を疎外したアメリカ社会、つまり“アメリカ的、西洋的合理世界”に対する不信感が“東洋的神秘世界”への傾倒につながった、という風にも理解できる。そして映画はキリスト教ですら信用せず、仏教に最終的な解決を求めたりもする。

 西洋人の身勝手であるのは明白。このへんが各マスコミから公開当時は批判的な評が出てきた要因にもなっている。でも、それがかえってオリヴァー・ストーンのバカ正直なまでの心情の吐露が伝わってきて、ナルホドと思ったりもするのだ。

 トミー・リー・ジョーンズは彼の長いキャリアの中でも屈指のパフォーマンスを見せている。アン・チェン、ハイン・S・ニョールといったアジア系俳優の力演も光る。失敗作すれすれの映画だが、決して観て損はない力作だと思う。
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