元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ショート・カッツ」

2009-06-20 06:44:22 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Short Cuts)93年作品。アメリカ西海岸のとある地方都市を舞台に、22名の登場人物が交錯するグランドホテル形式のドラマが展開する。原作レイモンド・カーヴァー。監督はロバート・アルトマン。93年ベネツィア国際映画祭グランプリ作品で、22名全員に特別賞が与えられている。さて、率直に言って全然面白くない映画である。冒頭“メドフライ”と呼ばれる害虫の駆除薬を撒くため夜の住宅地を低空飛行するヘリの一群があらわれ、これは何か起きそうだと胸騒ぎを覚えたが、映画が進むにつれ段々と緊張感が切れてきた。

 ニュース・キャスターの夫(ブルース・デヴィッドソン)と妻(アンディ・マクダウェル)、抑圧されている感じのプール清掃人(クリス・ペン)、浮気症の警官(ティム・ロビンス)と倦怠気味の妻(マデリーン・ストウ)、酒好きのリムジン運転手(トム・ウェイツ)と元妻である中年のウェイトレス(リリー・トムリン)etc.いろいろなキャラクターが二人一組で細かいカット割りで次々と紹介されていく。映画はこれらカップルのエピソードをオムニバス形式に羅列するのではなく、それぞれが他のすべてのカップルに何かの影響を与え、運命を変えていくように仕向けるような、込み入った脚本を用意している。

 一つ一つのエピソードについて説明すると長くなるので省略するが、全体的に言えることは、キャラクター全員が嫌になるほどエゴイスティックで、自分勝手な行動が関係ない他人の不幸を呼び、それがまた自分たちにかえって行くという、人間の持つどうしようもなさを一歩引いた意地悪な視点で捉える作者のイヤらしさだ。それによって現代アメリカ社会の人間関係の不安定さをブラックな笑いと共に風刺しようという魂胆だ。

 この方法のどこがダメか具体的に言うと、映画の中での混乱した人物関係の危うさは、映画が始まる前から事象的に完結しているのであって、わざわざもう一度かき回して見せていただく必要などない点だ。アルトマンの最良の作品「ナッシュビル」(75年)と一見同じ手法ながら決定的に違うのは、「ナッシュビル」がバラバラの人間関係を断片的に繋ぐうちに、それが大きなうねりとなってラストに大きなテーマとして組み上げられていくスリリングな構成で観客を圧倒したのに対し、今回は最初からバラバラな人間関係をあれこれいじりまくって“結局、やっぱりバラバラでした”といういい加減な結論にしか達していないところである。

 これではヤバイと思ったのか、ラストは突然大地震が起き(爆笑)、無理矢理ドラマを終わらせている。現実をデフォルメすることによってもう一つの“映画的現実”を作り上げてきたアルトマンは、今度は現実の追認に終始し、結局現実に負けている。この気勢の上がらないドラマがなんと3時間9分の長さである。それにしてもせっかくトム・ウェイツとヒューイ・ルイスが出ているんだから、一曲でも歌わせて退屈を紛らせてほしかったと思うのは私だけだろうか(^_^;)。
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「レスラー」

2009-06-19 06:30:13 | 映画の感想(ら行)

 (原題:THE WRESTLER)随分と“甘い”映画であるとの印象を持った。年を取って落ちぶれたかつてのトップレスラーは、周囲と折り合いを付けることが出来ずに孤独な日々を送るのみ。しかし、その惨めさを印象付けるはずの各エピソードの扱いに、切れ味の悪さを感じてしまう。

 たとえばエヴァン・レイチェル・ウッド扮する彼の娘だ。当初、家庭をまったく顧みなかった父親に対して憎悪にも近い気持ちを抱いている様子が描かれる。だが、当の彼女は父親が居を構える町に今でも住み、地元の大学に通っているのである。本当に父を憎んでいるのならば、とっととヨソの町に引っ越して自分の生活を始めればいいものを、何か未練があるかのごとく生まれ育った場所にしがみついている。

 そんな彼女だからこそ、父親からちょっとしたプレゼントを貰った程度で気を許してしまうのだろう。かと思えば食事の約束をすっぽかされたことで、再び父親を嫌うようになるという脳天気さを隠しもしない。要するに、主人公にとっての“程よい反抗ぶり”しか示していないのだ。

 マリサ・トメイが演じるストリッパーにしても同様。彼女は主人公から想いを寄せられているのだが、すでに子持ちでもあり、なおかつ不安定な生活を送る彼と一緒になる気はないという立場を一度は明らかにする。しかし終盤、やっぱり心の奥底では彼を忘れられなくて・・・・というニュアンスを漂わせてくるあたり、まさに御都合主義的な展開だ。

 一緒に仕事をしているプロレス仲間も、昔は売れっ子であった彼に対して皆一目を置いていて、邪険な扱いをする奴なんかいない。傑作「レクイエム・フォー・ドリーム」で地獄に堕ちてゆく登場人物達を一点の救いもなく描ききったダーレン・アロノフスキー監督にしては、随分と手加減した作劇だと思う。

 だが、本作においてはそれが大した欠点にはなっていない。それは主演のミッキー・ロークの“復活”と微妙にリンクした一種の“ヒーロー物”としてのスタイルが、幾分及び腰な描写手法をマスクしているからだ。80年代には飛ぶ鳥を落とすような人気を誇ったロークだが、近年は見る影もない。それがアロノフスキー監督の御指名により久々の“高い演技力を要求される役柄”を振られるに至った。いわばどん底からの敗者復活戦だ。

 盛りをとうに過ぎたレスラーのボロボロになった肉体。しかし往時を忍ばせる技の切れ味は残っている。本作の主人公とローク自身とがシンクロする時、そこに甘やかな映画的興趣が生まれる。ディテールの瑕疵など、些細なことだと思われてくるのだ。ラストなんか少々のワザとらしさも感じられるが、それでも胸が熱くなってしまう。ブルース・スプリングスティーンの主題歌も効果的で、十分観る価値のある力作だと言える。
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「蜘蛛女」

2009-06-18 06:24:14 | 映画の感想(か行)
 (原題:Romeo is Bleedings)94年作品。この映画のヒロインは宣伝文句によると“映画史上最高の悪女”らしい。それにしても“悪女”という言葉はあっても“悪男”という言葉はないのは、逆差別ではないだろうか(^_^;)。それと、「氷の微笑」や「ゆりかごを揺らす手」のヒロインは“悪女”と形容されるが、「ミザリー」とか「ダニエルばあちゃん」の主人公みたいなのはあまり“悪女”とは呼ばれない。周囲が受ける迷惑は後者の方が大きいのではないかと思うのだが・・・・。やっぱ映画の世界では、いくら底意地が悪くても、美人じゃなきゃ“悪女”ではない。性格の悪い不美人(失礼)や意地悪な年寄りはホラー映画かコメディの主人公にしかなれないのだ(どうでもいいか)。

 ゲーリー・オールドマン扮する万年巡査部長が、小遣い銭ほしさにマフィアの情報屋をやってるうちに凶悪な女殺し屋に付きまとわれるハメになり、転落の道をまっしぐらに進んでいくというストーリー。

 “悪女”のコワイとこは、外見や雰囲気がどうあれ、フツーの身分のくせして裏で悪いことをするという点だ。当然、周囲をたぶらかす高い知性がモノを言う。沈着冷静、狙った獲物は逃がさない狡猾さ。獲物は当然金銭である。愛とか恋なんていう曖昧なものには悪女はとらわれない。この意味では「白いドレスの女」のキャスリーン・ターナーは映画史上屈指の悪女だったと思う。対して「危険な情事」のグレン・クロースは動機が婚期を逸した欲求不満であり、ラストで逆上するあたりは悪女の風上にも置けない。「いつかギラギラする日」の荻野目慶子とか「トゥルー・ロマンス」のパトリシア・アークェットなんぞは完全に問題外。“品”がなくては悪女ではない。

 それではこの映画のレナ・オリンはどうだろうか。最初から殺し屋として登場する設定から、“悪女”としてのポイントはかなり低くなる(意外性がないからだ)。しかも、どう見たってマトモな神経の持ち主とは思えない容貌。極めつけは、主人公に腕を撃ち抜かれ、車の後部座席に放り込まれるシーンだ。運転手の首を足で締め上げ、車を追突して大破させると、後部ガラスをハイヒールで叩き割り、全身血まみれで走り去っていく姿は、すでに人間ではない(おいおい)。確かに凄いけど、悪女というよりジェイソンやフレディに近いヒロインを描くこの作品は限りなくホラー映画に近づいていく。悪女ものとしてのキレの良さを期待していた私はがっかりである。

 G・オールドマンの好演が救いである。世の中金とセックスだ、と思い込んでいても、実際はしがないマフィアの垂れ込み屋。ヒロインには振り回され、最愛の妻(アナベラ・シオラ)には去られ、今では沙漠でひっそり暮らすしかないダメ男ぶりを、しみじみと演じていて印象的だ。脚本は女流のヒラリー・ヘンキン。監督はイギリス出身のピーター・メダック。音楽はマーク・アイシャムで、普段とはうって変わったホーン中心のジャズ的展開である。
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「おと な り」

2009-06-17 06:22:44 | 映画の感想(あ行)

 御都合主義の権化みたいなシャシンだ。プロの写真家とフラワー・デザイナー、緻密な仕事ぶりが要求される職業の二人が、生活音が筒抜けの浮世離れした古いアパートで隣同士の部屋にいるという設定からして噴飯ものである。しかも、彼らは実際に会ったことはないという。いくら近所付き合いがないとはいっても、顔ぐらいは見たことはあるはずだ。

 さらに、後半この二人は中学生の頃に同級生だったことが判明するに及び、あまりの太平楽な筋書きに二の句も告げない。この脚本家(まなべゆきこ)は、かような与太話を書いていて恥ずかしくなかったのだろうか。その神経はまったく理解出来ない。

 各キャラクターの掘り下げも極めて浅い。フォトグラファーは自分のやりたいことを実現させるために、あまり努力しているようには見えない。せいぜい契約先の社長に口利きを頼む程度だ。サラリーマンならともかく、自由業のスタンスならばもっと直截的に複数の出版社に売り込むぐらいのことやって良いではないか。フラワー・デザイナーの方も、夢をつかみ取ろうとするガッツが感じられない。何となくこの仕事をやって、何となく海外へ修行しに行くみたいな気合いの無さだ。

 二人を取り巻く連中にしても、気乗りしないまま“売れっ子モデル”になった奴とか、三文小説のネタにするためヒロインにモーションをかけてくる野郎とか、顔も見たこともない“メル友”に入れ上げる若造とかいった根性の入りきらない連中ばかり。別に“ダメ人間が出てくるのがいけない”とは思わないが、こいつらの“ダメっぷり”が中途半端かつ微温的で、全然絵にならないのだ。

 熊澤尚人の演出は凡庸と言うしかなく、作劇におけるメリハリは皆無である。カメラを回していればいつの間にか映像が撮れて、適当に繋ぎ合わせれば映画になるとでも思っているのだろう。主役の岡田准一と麻生久美子、そして岡田義徳や市川実日子、とよた真帆、平田満、森本レオといった贅沢なキャストを使い、音楽には安川午朗まで起用しているのに、実にもったいない。意味もなく雑な画質の映像にも大いに盛り下がる。

 唯一の見どころは、カメラマン宅に押しかけ女房みたいに乱入してくる若い娘に扮する谷村美月である。彼女のように“出てくるだけで楽しくなる女優”というのは貴重だ。しかも今回は役柄が関西人ということもあって、大阪出身の彼女にとってはネイティヴ・スピーカー全開の“お笑いモード”突入。まさに独擅場といった感がある。逆に言えば谷村のパフォーマンスが無かったら、途中退場していたような映画であることは確かだ。
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福井晴敏「Op.(オペレーション)ローズダスト」

2009-06-16 06:46:44 | 読書感想文
 賛否両論があるらしいが、個人的には福井の作品の中では一番楽しめた。都内で多発する爆弾テロ事件。この背景には秘密組織である自衛隊の特殊部隊(ダイス)と、それが担うオペレーションの一つが頓挫したことによる不満分子の造反があった。警視庁公安部のベテラン捜査官と、警察に出向してきた若い自衛隊員(実はダイスの構成員)は共同して調査に乗り出すが、事態は思わぬ方向に動き出す・・・・といった活劇編だ。

 「亡国のイージス」に続く“ダイス・シリーズ”であり、人生に疲れた中年男と心に傷を負った若者とのコンビという設定は正直“またか”と思ってしまうのだが、これがなかなかに読ませるのは、従来の作品とは違った前向きなテーマが内包されているからだ。以前の「亡国のイージス」や「Twelve Y.O.」が、文字通り現在の“亡国”の有り様のリポートに終始していたのと比べるれば、ひとつの“進化”だと言って良い。

 テロリストのバックに控える政財界人は、この争乱を契機に日本を“普通の国”にしようと企む。この“普通の国”というのは、外国の干渉を廃し独立独歩で国の主権を堅持する体制のことだ。当然ながら軍事力も自前で揃え、言うべき事を主張できるだけの国力を整えようとしている。政財界に日本の国益よりも他国の利益を優先するような輩が目立つ昨今の状況において、このような動きは一見魅力的に映るのは確か。

 しかし、主人公達が指摘するように、これらは“古い言葉”に過ぎないのだ。かつてこの“古い言葉”が暴走し、無謀な戦争に引きずり込まれて壊滅的な被害を受けたことがあった。今またこの“古い言葉”を引っ張り出してみても、同じ事の繰り返しになる公算が強い。ならば“新しい言葉”とは何か。それは作中では具体的に語られない。おそらくは作者も確定出来ていないのだろう。しかし、大事なのは“新しい言葉”を具体的に紡ぐことではなく、その“新しい言葉”の存在を信じることだ。キーワードは“希望”である。

 文庫本にして全三巻の大作で、文章の“情報量”も高い。特に活劇場面は福井の独擅場であり、まるで映像が前面に迫ってくるようだ。ただし、派手なドンパチが展開するのはお台場であり、いかにもフジテレビに映画化してもらいたいような下心があるのは愉快になれない。それが唯一の欠点だ。
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「スター・トレック」

2009-06-15 06:22:17 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Star Trek )どうも話をヒネり過ぎている。劇場版「スタトレ」の新作は、いわゆる“エピソード1”という位置づけで、カーク船長やミスター・スポックなどお馴染みの登場人物の青春時代を描いている。それはそれでオッケーなのだが、これが“本編”から派生したパラレル・ワールドであり、しかも話の途中で“本編”の時間軸が影響を及ぼしてくるというのが、どうにも鬱陶しい。

 シリーズ全体の双方向性(?)を網羅しているという点では、熱心な「スタトレ」ファンにとって嬉しいに違いないが、私のような単純明快な娯楽編を期待している向きには欲求不満が溜まる結果になった。後半に入って“本編”の延長線上に存在する年老いたスポックが含蓄のあるセリフを吐いて、若い連中を導く部分があるのだが、わざわざレナード・ニモイを再起用して登場させる意味があるのだろうかと思ってしまう。ファンサービスだとしても、ここだけドラマが停滞している感は否めない。

 若造どもを叱咤激励するのは“未来”から来た謎の人物でなくても、経験豊富な上官やバルカン人の長老でも良かったではないか。そして、そういう場面は必要最小限に留め、無鉄砲な若きカークやクソ生意気な青二才であるスポックの八面六臂の活躍を大々的に描けば、より幅広い観客にアピールしたと思う。出てくる奴らが若いだけにアクション場面にもいろいろと工夫を凝らすことが可能だったはずだ。

 J・J・エイブラムスの演出はテンポが良いが、無理矢理に“本編”と結びつけたパートを省略すればもっと小気味の良い活劇編が出来上がったと思われる。クリス・パインをはじめとする若手は悪くないが、エリック・バナやウィノナ・ライダーも予想外の役で出てくるのが興味深い。いずれにせよ今回は“プロローグ編”と位置付け、次回からはシンプルな宇宙冒険談を綴ってもらいたい。

 余談だが、このシリーズで真っ先に思い出すのがロバート・ワイズ監督による劇場版の第一作目だ(79年製作)。思わぬハードSF路線で観客を驚かせたものである。製作側もかなり気負っていたのだろう。今だったらまず企画は通らないと思う(笑)。
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「エンジェル・アット・マイ・テーブル」

2009-06-14 20:14:59 | 映画の感想(あ行)
 (原題:An Angel At My Table)90年作品。傑作「ピアノ・レッスン」で知られるニュージーランドの女流監督ジェーン・カンピオンが、自国の女流作家ジャネット・フレイムの半生を描いた伝記映画。90年のヴェネツィア国際映画祭では8つの賞を獲得している。

 映画は3部構成をとっているが、6歳から18歳までのジャネット・フレイムを描いた第一部が素晴らしい。まず主人公の容姿がいい。ぶっくりと太った身体つき、髪が鳥の巣のように爆発していることから、皆に“モジャ”とあだ名される女の子は、誰でも可愛がりたくなるような娘では決してないが、どこか憎めない暖かい人間性が感じられてほほえましい。

 親の財布から小銭を盗み、チューインガムを買ってクラスのみんなに分けてやり、皆の人気を得ようとして先生に叱られるジャネット。不幸な家庭に育ったため、みんなから相手にされないクラスメートの心を開き、親友になってしまうエピソード、グリム童話に夢中になり、宿題の詩が一等賞になる。人づきあいは不器用だが、内面は優しいものを持っているヒロイン像をうまく表現されている。

 貧しいけれども充実していた子供時代。大好きだった姉の水死、てんかん持ちの兄の発作、という不幸な出来事はあったが、誰にとっても一番幸福な時期であるこの時代の主人公を感動的なまでに映し出している。

 しかし、彼女が成人し、そのユニークな性格により周囲から理解されず、一人だけの世界に閉じ込もるようになってしまう第二部の後半から、映画はだんだん暗くなる。精神病院に無理矢理入れられ、誤診とわかって退院しても、失恋やら何やら不幸なことばかりで、ちっとも楽しくない。成人したヒロインを演じる女優の風貌がいかにも根が暗そうでうんざりし、女性監督特有のエキセントリックさ(これって差別だろうか)が鼻につき、そんなに不幸を見せびらかして何が面白いのかと言いたくなる。

 結局のところ、師範学校に通ったり、病院に入れられたり、ヨーロッパに渡航したりしていろいろあったけど、自分の生まれ育った土地に戻って一息ついたらそれでオシマイ、という結末では、作家として内面的に完成されていた主人公にとって、成人してからの外界を覗こうとした人生は時間の無駄で、自分の世界に閉じ込もることが一番よかった、と言っているようだ。ハッキリ言ってそういう人生は、私にとって関係ない。ヨソの世界の話だな、とシラけた気分になってしまった。

 ニュージーランドの自然をうまくとらえた映像に感心し、子役のうまさに感嘆はしたものの、観終わってしまえば、どこか釈然としない印象が残る。物足りない作品だった。
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「ブルベイカー」

2009-06-13 10:25:03 | 映画の感想(は行)

 (原題:BRUBAKER)80年作品。「さすらいの航海」などのスチュアート・ローゼンバーグ監督作である。主演はロバート・レッドフォード。製作当時、レッドフォードは本作をもって俳優業を辞めるという噂が流れた。折しも彼が監督第一作「普通の人々」を手掛けた頃で、しかもそれがアカデミー賞の下馬評に挙がっており、今後は監督業に専念するのではないかとの説は信憑性が高かったと思われる。ただし、彼はそれからも俳優として活躍しており、当時はそれだけトップスターが監督業に乗り出すことは“一大事”だったのだろう。演出もこなすハリウッド俳優が珍しくなくなった今日から考えると、隔世の感がある。

 さて、当時の映画雑誌の謳い文句を引用するならば、この作品は“アメリカの刑務所内の不正義と人間の心の闇を真正面から告発した力作”なのだそうだ。しかも、監督のローゼンバーグはかつて快作「暴力脱獄」で反権力のスタンスを真っ向から見せている。あの映画と同様に刑務所を舞台にした本作はかなりの映画になると思われた。

 しかし、実際観た印象は「暴力脱獄」の感銘度にはほど遠い。これはおそらく、主人公ブルベイカーの内面描写およびドラマに於ける立ち位置がハッキリしないことが原因だろう。自分が新たに赴任する予定の刑務所に新入りの囚人を装って“内偵”するという設定は悪くない。ただし、そのことを映画の“オチ”にしようとするような展開はいただけないと思う。何しろそのネタは前半で早々に明かされてしまうのだ。身分を隠して最後に「遠山の金さん」よろしくアッと言わせるような筋書きにした方がよっぽど興趣は盛り上がったはずである。

 あるいは“内偵”ならばそれらしくリアルな描写と主人公の葛藤をメインに捉えるべきだったはずだが、残念ながら彼の性格が最後まで分からない。そしてそれ以上に、この刑務所の運営状況が曖昧模糊としている。囚人を外部の企業に“出向”させる制度など、聞いたことがないのだが・・・・。意味不明のまま、これまた感動して良いのか分からないラストを漫然として迎える神経には、観ている方は頭を抱えるばかり。どうも釈然としない出来である。
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「重力ピエロ」

2009-06-12 06:29:44 | 映画の感想(さ行)

 ヘンな映画だ。もっとも、伊坂幸太郎による原作も妙な話だった。伊坂の小説で最初に手にしたのがこの「重力ピエロ」だったが、あまりにも腑に落ちない話でウンザリし、それからしばらくは彼の作品は敬遠していたほどだ。この映画化作品も当然の事ながら原作通りのストーリー展開であり、その“ヘンテコ度”は変わることはない。おかげで居心地の悪い2時間を過ごすことになった(だったら最初から観なければ良かったのだが ^^;)。

 そもそも仙台の街を騒がせる落書き犯および放火魔が、どうしてこういう行動を取ったのかまったく分からない。もちろん、終盤には理由らしきものが提示されるが、よく考えればこんな面倒臭い方法を採用しなくても、直接的にカタを付ければ済む話ではないのか。しかもそのオトシマエの付け方は明らかに凶悪犯罪だ。いくら相手がワルだろうと、こっちが阿漕な手を使ってしまっては、同じ穴のムジナではないのか。そんな体たらくで“オレたちは最強の家族だ!”なんて粋がってみても、阿呆臭くて見ていられない。

 母親がレイプされたことによって生まれた弟が話の中心になっているが、普通は悪者の子供を宿してしまったらまず“堕ろす”という選択肢が先に来るのではないか。にもかかわらずこの両親は産み育てることを選択するのだが、それならそうで背景をもっとテンション上げて描かないと説得力はゼロである。御為ごかしのような“神様に聞いてみた”というフレーズも白々しい。

 タイトルは重力に逆らってピエロのように飄々と世の中を渡っていく主人公一家を表現したかったのだろうが、ハッキリ言って地に足が付いておらずフワフワと漂っている、つまらないモラトリアム人間の暗喩としか思えない。

 森淳一の演出は「ランドリー」などの過去の諸作よりはマシだが、特筆されるべき箇所はない。加瀬亮と岡田将生の兄弟は悪くないし、小日向文世と鈴木京香の両親もそこそこイケるし、吉高由里子は笑える役で出てきて画面を盛り上げてくれるのだが、ストーリーそのものが宙に浮いたようなシロモノなので、あえて評価する義理もないだろう。

 余談だが、伊坂の小説で一番映画化がふさわしいのは「グラスホッパー」だと思う。すでに「ラッシュライフ」の製作が進められていると聞くが、重層的な構造を持つあの作品はヘタな演出家が担当すると散漫な出来になることは必至。その点「グラスホッパー」ならばキャラクターの造形も容易で、凡庸なスタッフが手掛けたとしても“そこそこの出来”にはなると予想する(^^;)。
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「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」

2009-06-11 06:28:28 | 映画の感想(あ行)
 (原題:Interview With The Vampire)94年作品。サンフランシスコの街を見おろす一室で、野心的なインタビュアー(クリスチャン・スレーター)に答えて話し始める一人の異様な雰囲気の青年(ブラッド・ピット)。彼は200年の時を超えて現代にあらわれたヴァンパイアだというのだが・・・・。アン・ライスの原作を「クライング・ゲーム」(92年)などのニール・ジョーダン監督が映画化。公開当時はアメリカで初めの3日間で史上最高の興行収入(ただしサマーシーズンを除く ^^;)をあげたと言われる話題作だ。

 さて、率直に感想を書こう。この作品“私にゃカンケーないねっ”といったところか。冒頭、ブラッド・ピットが青筋立てたヘンなメイクで現れるシーンからして思わず吹き出しそうになった。さらに、トム・クルーズが柄に似合わず美青年っぽいヴァンパイアをこれ見よがしに演じているのを目撃するに及び、真に脱力。そしてアントニオ・バンデラスやスティーブン・レアが“ヨーロッパの香り漂うヴァンパイア”を演じてるなんて・・・・。これってコメディ映画か?

 人を殺さないと生きていけないヴァンパイアの悲哀、愛を求めて永遠の時を旅する主人公のニヒリズムetc.ま、そういうことを言おうとしているワケだ。でも、同じようなネタで過去にも映画とか小説とかマンガであったような気がする。テーマとしちゃ新しくはないんだけど、ちゃんとやれば納得するような作品に仕上がったはず。でも、間違ってるのは、これをひと昔前の少女マンガ風コスチューム・プレイにしてること。あたしゃこういう雰囲気は大の苦手である。映画の“外見”だけで拒絶反応を起こしてしまった。

 封切り時には私の周囲の女性陣には、そりゃもう大ウケだった。だからこういう世界が好きな女性ファンには推奨する。それ以外の人は観てはいけない。ま、ダンテ・フィレッティの美術、エリオット・ゴールデンサルの音楽、フィリップ・ルースロの撮影、サンディ・パウエルの衣装などの仕事ぶりはそれはそれは素晴らしいし、一見の価値はあるのだけどね・・・・(^_^;)。
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