元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「コーダ あいのうた」

2022-05-30 06:25:50 | 映画の感想(か行)

 (原題:CODA)まったく期待していなかったが、実際観てみると面白い。ハリウッドがアメリカ以外の映画をリメイクすると、元ネタよりも劣化するというのが常だったが、本作に限っては違う。もっとも、原作である2014年製作のフランス映画「エール!」がさほど出来が良くなかったせいもあるが(苦笑)、それでもウェルメイドに徹したこの映画の評価が下がることはない。

 マサチューセッツ州グロスターに住む高校生ルビー・ロッシの家庭は、両親と兄の4人暮らし。家業は漁業で、ルビーは毎日欠かさず手伝っていた。しかし、彼女以外の家族は耳が聞こえない。ルビーは一家の“耳代わり”を務めてきたが、新学期に転機が訪れる。ふとしたきっかけで合唱部に入ったルビーの歌声を聴いた担当教師のヴィラロボスは、その素質を認めてボストンのバークリー音大への進学を奨める。当然のことながら、家族は猛反対。ルビーは決断を迫られる。

 「エール!」との違いが、すなわち本作の評価ポイントになる。まず、元ネタの舞台が農村だったのに対し、この映画は漁港だ。海に面し、人の行き来も多い土地柄は、進取の気性を醸成させる。ヒロインの境遇にもマッチしていると言えよう。そして主演のエミリア・ジョーンズは「エール!」のルアンヌ・エメラより、歌が上手い。もちろん完成された熟達ぶりではないが、才能は感じさせ訴求力は高いと思う。

 また、本作はボーイフレンドとのラブコメ場面が「エール!」よりも抑えられており、作劇をスムーズに進める上で有利である(笑)。脚色も担当したシアン・ヘダーの演出は申し分なく、これ見よがしのケレンは無く的確にドラマを進めていく。

 脇のキャラクターでは父親のフランクが最高。下ネタ連発の傍若無人で食えないオヤジながら、誰よりも家族のことを思っている。演じるトロイ・コッツァーは第94回米アカデミー賞で聴覚障害を持つ俳優として初めて助演男優賞を獲得したが、彼の受賞は決してハンデを背負ったものに対する“依怙贔屓”ではないことを強調しておきたい。

 母親役のマーリー・マトリンは久しぶりにスクリーン上で目にしたが、まず彼女以外のキャスティングは考えられないだろう。演技も確かなものである。ダニエル・デュラントにエウヘニオ・デルベス、フェルディア・ウォルシュ=ピーロといった脇の面子も良い。正直言ってこの映画がオスカーを受賞したのは意外であったが、混沌とした時代だからこそ、このような地に足がついた家庭劇の存在感が増すのかもしれない。
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「TITANE チタン」

2022-05-29 06:56:51 | 映画の感想(英数)
 (原題:TITANE)まさに超弩級の“変態映画”で、このようなシャシンに大賞をくれてやった第74回カンヌ国際映画祭の審査委員たちには、精一杯の罵声と拍手を送りたい(笑)。とにかく、絶対に人に奨められない内容ながら、醸し出される何とも言えない恍惚感と吸引力には呆れるばかり。本年度屈指の問題作だ。

 主人公のアレクシアは幼い頃から自動車に強い興味を持っていたが、ある日交通事故に遭って治療のため頭蓋骨にチタンプレートを埋め込まれてしまう。それを機に彼女の車への偏愛はますます昂進していき、成長してからは自動車ショーのコンパニオンを務める傍ら、言い寄ってくる者たちを容赦なく惨殺する犯罪者になる。指名手配されて行き場を失ったアレクシアは、10年前に子供が行方不明となり、現在はひとり孤独に暮らしている消防士のヴァンサンの息子に成りすまし、2人で共同生活を始めるのだった。



 ヒロインがどうして車に執着するようになったのか、それについての説明は一切なし。彼女がどうしてヴァンサンに対して殺意を抱かないのか、それも分からない。そもそも、彼女が“あり得ない妊娠”をしていること自体、奇想の極みだ。しかし、このように屋上屋を架すがごとくデタラメを連発する本作には、通常の因果律を吹き飛ばしてしまうほどのパワーがある。

 アレクシアは狂気に陥っているが、ヴァンサンも立派な変態オヤジだ。この尋常ならざる2人のコラボレーションを見ていると、変態を突き詰めれば何か別の次元に到達するのではないかという、作者の何かに取り付かれたような偏執ぶりが窺われ、映画的興趣は増すばかり。加えて、主演のアガト・ルセルの、まるでイッちゃったような目つきと振る舞いは、凶暴なエロティシズムを画面いっぱいに発散させ圧巻。対するヴァンサン・ランドンのむっつりスケベぶりも捨てがたい(笑)。

 脚本も担当したジュリア・デュクルノーの演出は程度を知らない暴力描写と、閉塞的な空間の創出に卓越したものを感じる。おそらくはデイヴィッド・クローネンバーグ監督の「クラッシュ」(96年)との共通性を見出す観客も多いだろうが、あっちは自動車事故により性的に興奮する変態どもを描いていたのに対し、こちらは車そのものを性行為の対象にするという、別の面からの変質者的アプローチが光っている。ルーベン・インペンスによる撮影は画面に陰影を与えているし、ジム・ウィリアムズの音楽がこれまた変態的で聴き応えたっぷりだ。
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石沢麻依「貝に続く場所にて」

2022-05-28 06:48:50 | 読書感想文
 読み始めたときにはその修飾語句の多さに辟易したが、しばらく我慢して読み進めていくと、この独特の世界観に何となく入り込むことが出来た。第165回(2021年上半期)芥川賞受賞作品で、いかにもこの賞に相応しい“純文学的な”佇まいを持つ書物。正直言って一般ウケは期待できないとは思うが、それなりの美意識は持ち合わせている。

 2020年、ドイツのニーダーザクセン州ゲッティンゲンに留学中の大学院生の“私”は、東日本大震災で行方不明になった後輩の野宮の幽霊と出会う。野宮は普段通り接してくるのだが、主人公は最終的な消息が分からなかった彼とどう付き合って良いのか分からない。しばらくすると野宮が崇拝していた寺田寅彦の幽霊まで現れ、それらしく振る舞い始める。



 今はもういない主人公の友人がどうして日本から遠く離れた土地に“出没”するのか分からないが、これは主人公の心象風景を追った作品なので深く突っ込む必要は無いだろう。姿を消した野宮も、歴史上の登場人物である寺田も、“私”にとっては既にいずれも等価な“記号”でしかない。去って行った者たちは、現在生きている人間の記憶や想像の中でしか存在し得ないのだ。

 もちろん、主人公にはあの事件に関する非当事者意識があり、それによる罪悪感も持ち合わせているのだろう。だが、月日と共にそれらは他の内面的モチーフと同化し、やがて記憶の一部になるしかない。その無常観と、未来に対するわずかな展望とが、読む者に切ない感慨をもたらす。

 ゲッティンゲンは第二次世界大戦の空爆を比較的軽度の損害で切り抜けた町で、芸術・文化的に重要な記念碑が数多く残っている。また、戦後すぐから60年代まで90本以上の映画のロケ地になっているという、とてもレトロかつアカデミックな土地柄だ。それだけ非日常的な現象が起こることに対して違和感は無い。

 作者の石沢(仙台市出身)はこれがデビュー作だという。文章はスノッブな面が感じられるが、ドイツ留学を活かした場面設定の巧みさはかなり読ませる。ただし、作者の今後の方向性についてはこの処女作を読む限りハッキリと見出せない。今後の仕事ぶりを注視したい。
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「ナイトメア・アリー」

2022-05-27 06:19:37 | 映画の感想(な行)
 (原題:NIGHTMARE ALLEY )前半はまあまあ面白い。しかし後半になると不自然な展開が目立ち始め、終わってみれば要領を得ないシャシンでしかない。この監督(ギレルモ・デル・トロ)に筋の通ったストーリーを期待する方がおかしいが、本作にはそれをカバーするだけの映像の喚起力も無い。一応アカデミー賞候補だったので観てみたが、本来スルーしても良いレベルだ。

 大恐慌下のアメリカ。オクラホマ州の片田舎から出てきた“訳ありの男”スタン・カーライルは、流れ着いた土地で人間か獣か正体不明な生き物を出し物にする怪しげなカーニバルの一座と遭遇する。そこで読心術の技を身に着けた彼は、一座のメンバーである若い女モリーと共に別の土地で“超能力者”としての興行を始める。持ち前の洞察力とカリスマ性で一躍売れっ子になるが、心理学者のリリス・リッターがデカい仕事を持ち掛けたことから、思いがけない事態に追い込まれていく。ウィリアム・リンゼイ・グレシャムのよる同名小説の映画化で、1947年製作の「悪魔の往く町」のリメイクである。

 超能力なんてものは絵空事で、スタンは綿密に仕込んだネタと卓越した観察力でそれらしく見せているだけだ。それでも彼に神性があると勘違いした者は後を絶たず、スタンの絶好のカモになる。そのカラクリを描く中盤までの展開はけっこう興味深く見せる。特に、リリスの持つバッグの中身を当てるシークエンスは鮮やかだ。

 しかしながら、大富豪をインチキな芝居でだまそうとする後半の成り行きは、無理筋の連続である。いくら昔の話でも、こんな安っぽい段取りで海千山千の成金を手玉に取ることなんか、出来るはずがない。前半の一座の“獣人”のモチーフを終盤にも持ち出すことにより、最初と終わりが円環構造になるという作者の自己満足が、イヤミに思えるほど作りがワザとらしい。

 リリスを簡単に信じてしまうスタンの浅はかさにも脱力するし、そもそも経済恐慌から第二次大戦へと移行する時代背景がドラマとほとんど絡んでいかないのは失策だろう。また、スタンの過去である父親との確執も十分に描かれることはない。デル・トロの演出はテンポが悪く、気が付いてみれば2時間半という不用意に長い尺になってしまった。

 それでもキャストは健闘していて、主役のブラッドリー・クーパーはなかなかの熱演。ケイト・ブランシェットも悪女ぶりを発揮するし、ルーニー・マーラは相変わらず可愛い。トニ・コレットにウィレム・デフォー、リチャード・ジェンキンス、ロン・パールマン、デイヴィッド・ストラザーンといった脇の面子も悪くないと思う。だが、話自体が低調なので高評価は差し控えたい。
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