元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ヴィクトリア」

2016-05-30 06:29:05 | 映画の感想(あ行)
 (原題:Victoria)アイデア倒れの映画だ。聞けば2015年のベルリン国際映画祭で最優秀芸術貢献賞を受賞し、ドイツ映画祭でも作品賞をはじめ6冠を獲得したらしいが、とてもそれに値するような質の高さを持ち合わせているとは思えない。特定の技巧だけに着目する一部のマニアックな観客を除けば、まるで“お呼びではない”シャシンである。

 カフェの従業員である若い娘ヴィクトリアは、3か月前にマドリードからベルリンにやって来たばかり。ある晩クラブで踊り疲れて帰宅する途中、地元の若者4人組に声をかけられる。まだドイツ語がうまく喋れずに寂しい思いをしていた彼女は、たちまち彼らと意気投合。ビルの屋上に忍び込んで酒盛りを始める等、ハメを外して楽しい時間を過ごす。



 ところが、その4人は世話になったヤクザ者への借りを返すため、危ない仕事を命じられていた。その中の1人が酔い潰れてしまったため、リーダー格のゾンネはヴィクトリアに仲間に入るように頼み込む。こうして彼女のハードな一夜が始まった。

 この映画の最大の特徴は、上映時間140分をワンカットで撮っている点だ。いくら撮影機器の小型化が実現しているとはいえ、ここまで段取りを整えるのは相当な苦労があったはずで、その努力は認めて良い。しかし、本作にはそのこと以外、評価できる箇所が何一つ無いのだ。

 いくら異国で心細かったとはいえ、どう見てもカタギではない若造どもにホイホイとついていくヒロインの心境は理解不能だ。さらに、犯罪の片棒を担がされることに関して何の疑問も持っていないあたり、呆れるしかない。ならばヴィクトリアが元々道徳観念を持ち合わせていない女なのかというと、それらしい伏線も見当たらない。



 ヤクザのボスが彼らに強要する“仕事”の計画は杜撰極まりなく、案の定ゾンネ達は窮地に追いやられるが、自業自得なので観る側は冷ややかな気分になってくる。ヴィクトリアとゾンネの色恋沙汰も取って付けたようだ。

 つまりは、犯罪ドラマとしてストーリーが全然練られていない。ワンカットで撮って俳優たちに即興芝居をやらせれば、何か表現出来ると思っている。この作者(監督と製作はゼバスティアン・シッパーなる人物)の勘違いぶりは救いようがない。そもそも2時間を超える上映時間は、ワンカットで撮ろうが何をしようが、このネタにおいては長すぎることは論を待たない。1時間半程度でキッチリとまとめるべきだ。

 主演のライア・コスタをはじめ、フレデリック・ラウやフランツ・ロゴフスキといったキャストは馴染みが無いが、同時に魅力も無い。観なくてもいい映画である。
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「遠き落日」

2016-05-29 06:39:50 | 映画の感想(た行)
 92年作品。野口英世の一生を、その母シカとの関係を通し描いた伝記映画。野口英世は、戦前から修身の教科書や絵本に“火傷で変形した左手のハンディキャップを克服して世界の偉人になった”と取り上げられ有名だったが、戦後間もなくは日本人の“尊敬する人”のトップに君臨していた。

 しかし、この映画化にあたって、誰でも知っている偉人伝にしてしまっては面白くも何ともないのは分かりきっており、どういう切り口を見せるかが当然ポイントになる。ところが新藤兼人脚本、神山征二郎監督のコンビはやっぱり、というかまたしても前作「ハチ公物語」(87年)の轍を踏んでしまい、なんとも煮えきらない映画に終わっているのが情けない。

 野口英世は、優秀な学者としての顔のほかに、自分の目的のためなら他人を平気で踏みにじる傲慢なエゴイストの側面も持ち合わせていた。この映画でも、借金踏み倒すは、ずうずうしく他人の家に転がり込むは、渡米してもあつかましく友人知人にたかりまくるは、非常にイヤな奴として描かれている。

 もっとも、その裏には、百姓の子が学問するためには周囲の金持ちを利用するしかなかった明治時代の封建的風土を批判する、新藤兼人の歴史観がヒネくれた形であらわれているのは明白だ。そう、映画はこの路線で偉人のバケの皮をはがしていくピカレスク・ロマンに徹すればよかったのだ。

 ところが“良識派”の神山征二郎はそれを許さない。野口の母親に関するエピソードを多く取り入れ、一種の“母もの”として文部省特選のお墨付きをもらおうとする(結果としてもらったわけだが)。これを三田佳子なんかが演じているもんだから、極めてクサいお涙頂戴映画としての外見を持つに至ってしまった。この脚本と演出のスレ違いは「ハチ公物語」以上である。

 三上博史の野口英世は完全なミス・キャスト。もっとアクの強い俳優を起用して、偉人のウサン臭さを強調すべきだった。それと以前から指摘されていたことだが、神山監督は若い女優の使い方がヘタだった。本作も牧瀬里穂とジュリー・ドレフュスを引っ張り出しているものの、どうでもいい役で何のために出したのかまったく不明。和田アキ子の主題歌も仰々しくていただけない。

 ひょっとしてこの映画は、内容よりも、劇場に託児所を設置するという気の効いたマーケティングによって記憶されるのかもしれない。事実、若い主婦層の取り込みにより封切り時にはヒットしており、この方法は成功といえるだろう。
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「海よりもまだ深く」

2016-05-28 05:36:00 | 映画の感想(あ行)

 丁寧に撮られた秀作だと思う。少なくとも是枝裕和監督の前作「海街diary」(2015年)より、遙かに良い映画だ。やはり前回のように、よく知られた原作の映画化ではフリーハンドで仕事をすることが難しい面があったのだろう。オリジナル脚本による今回は演出に余裕が出てきて、安心してスクリーンに対峙できる。

 主人公の良多は15年前に文学賞を一度獲ったことがあるが、それからは何も書けず、今は“小説の取材だ”と自分に言い訳しつつ探偵事務所に勤めて糊口を凌ぐ毎日だ。妻の響子はそんな良多に愛想を尽かし、早々に離婚している。ギャンブル好きでもある良多は11歳になる息子の真悟の養育費にも事欠く有様だが、別れた妻に対して未練たらたらで、仕事のついでに彼女を張り込み、その挙句彼女に新しい彼氏が出来たことを知ってショックを受ける。ある日、団地で一人暮らしをしている母の淑子の家にやってきた良多と真悟、そして息子を迎えにきた響子は台風で帰れなくなり、久々にひと晩を共に過ごすことになる。

 とにかく、淑子が口にする格言めいたセリフの数々が最高だ。もちろん映画のセオリーとしては、主題を登場人物に語らせることは得策ではない。しかしながら、人生の酸いも甘いも噛み分けた淑子というキャラクターを、これまた長いキャリアで日本映画を支えてきた樹木希林が演じると、たとえ発するセリフに教訓めいたニュアンスが感じられようと、全て許したくなる。

 本作のタイトルは、テレサ・テンの代表作「別れの予感」の歌詞からの引用だ。別れた相手を忘れられない気持ちを歌い上げたものだが、この曲がラジオから流れる場面で淑子は“海より深く人を好きになったことなんてないから生きていける”という名言(笑)を吐く。さらに“幸せってのはね、何かを諦めないと手に出来ないもんなのよ”というセリフに至っては、深く感じ入った。

 主人公は自らの文才で一度は脚光を浴びるが、その勢いで“人生の密度は濃くあらねばならない”と勝手に合点していたのだろう。しかし、現状は家族をも失ってしまうダメな中年男でしかない。考えてみれば、我々のほとんどは娯楽小説の登場人物のようなジェットコースター的な人生を送れるはずもないのだ。

 皆そこそこの幸せと、そこそこの諦念と、そこそこの屈託を抱きながら毎日に折り合いを付けて暮らしている。台風一過の朝にそれに気づく良多はほんの少し成長するのだが、そんな“人生の極意”を巧妙な語り口で提示される観客の側も、大いに納得してしまう。

 主役の阿部寛をはじめ、真木よう子、小林聡美、リリー・フランキー、池松壮亮、橋爪功とキャスティングは万全。舞台になる団地は是枝監督が若い頃に住んでいた清瀬市の旭が丘団地が使われたが、同じく団地住まいが長かった私にとっては、この雰囲気には心惹かれるものがある。明色系を活かした山崎裕のカメラによる映像と、ハナレグミの音楽も要チェックだ。
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「新ポリス・ストーリー」

2016-05-27 06:17:08 | 映画の感想(さ行)
 (原題:重案組)93年香港作品。題名とは違い、この映画は「ポリス・ストーリー」シリーズとはまったく関係のない独立した作品である。ジャッキー・チェン扮する刑事は職務に忠実だが、興奮すると行き過ぎた行動を取るため、警察内では問題児扱いされている。そんな彼が香港経済界を牛耳る大物不動産業者のボディガードを命じられる。しかし、警護の目をまんまとかいくぐった犯罪グループにより、不動産王は誘拐される。犯人を追ってジャッキーは上司と台湾に飛ぶのだが・・・・。

 いつものジャッキー映画につきもののコミカルなアクションやギャグは一切なし。とことんマジメな刑事ものである。それは犯人たちの描き方にもあらわれていて、単純な身代金目当ての誘拐ではなく、えげつないやり方で現在の地位を得た不動産王への私怨でこり固まっている。従業員にロクに給料も払わず、地元住民から利益を吸い上げ、法律なんて知ったことじゃない。



 さらに彼が香港出身ではなく、大陸から流れてきたヨソ者であって、それが多くの敵を作っていることが強調される。そして香港警察と台湾の当局、中国警察との確執。中国への返還が近い香港の逼迫した状況を随所に織り込み、シリアスなタッチで観客に迫る。

 アクション・シーンは相変わらずスゴイ。とんでもないカー・チェイスや乱闘場面が見ものだが、身代金を持った不動産王の夫人を何百人という私服警官が尾行する群衆シーンのうまさや、携帯電話を使ったサスペンスの盛り上げ方に注目したい。警察内にも犯人グループがいて、そいつが捜査を巧妙な手段で潰していくプロセスも描かれる。なかなかシビアーな展開のドラマなのである。

 クライマックスは大爆発寸前の九龍城。犯人たちとの激闘、取り残された子供を助けるために獅子奮迅の活躍をする主人公。ハデな爆破シーンもさることながら、必死の脱出を試みるジャッキーを容赦ないタッチで描く演出に感心した(監督はアクション派のカーク・ウォン)。

 苦渋に満ちたも含めて、香港映画には珍しい“実録社会派アクション劇”である。普段のジャッキー映画とは少し趣を異にするが、警官を主人公に据えることが多いと、いつかはこういうテーマを扱わねばならないのだろうか(彼の映画ではお馴染みのエンド・クレジットでのNG集も無い)。また、この映画は女性がストーリーにあまり絡まない。男のドラマである。その意味でもユニークだ。
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「ひそひそ星」

2016-05-23 06:26:38 | 映画の感想(は行)

 園子温監督の作家性が全面展開していて、観る者を選ぶ映画だ。これを“独りよがりで退屈だ。つまらない”と切って捨てる向きも少なくないとは思うが、私は結構楽しめた。映像の喚起力が目覚ましく、いくぶん図式的なメッセージや秀逸とは言い難い設定を巧みに覆い隠してしまう。こんな映画もあっていいだろう。

 遠い未来。人類は何度も大きな災厄に見舞われ、地球を捨てて宇宙のあちこちの星でひっそりと暮らしている。数を減らした人間に代わって社会のインフラを担っているのは、人工知能を持ったロボットだ。女性型アンドロイドの“マシンナンバー722”こと鈴木洋子は、宇宙船レンタルナンバーZに乗り込み、相棒のコンピューター“きかい6・7・マーM”と共に人間の住む星を回って荷物を届ける宅配便のスタッフである。

 彼女が訪れる星は、かつては賑わっていたと思われるが今や廃墟同然になっているものばかりだ。それでも、荷物を受け取る人々は感慨深い面持ちで彼女を迎え入れる。やがて洋子は、30デシベル以上の音をたてると人間が死ぬ恐れがあるという“ひそひそ星”に降り立つ。そこは人類しか住んでいない珍しい惑星で、彼女は注意深く静かに職務を遂行する。

 ヒロインが荷物を届ける星の風景は、主に東日本大震災の爪痕が深い福島県の富岡町や南相馬市、浪江町でロケーションされている。言うまでもなく園監督が2012年に撮った「ヒミズ」や「希望の国」に通じる作品だが、今回それをSF仕立てにしているのは無理筋の感があろう。しかし、前述のように映像の玄妙さは観る者をねじ伏せてしまう。

 レンタルナンバーZは内装・外装共に昭和レトロであるが、その造形が決してワザとらしくはない。見事に宇宙SFの小道具たり得ている。滅びゆく星の景色が、地震から数年経っているにもかかわらず見捨てられたような東北の一部の有様に何とマッチしていることか。そこに生きる取り残されたような人々の表情を見ると、胸が締め付けられる思いがする。

 そして“ひそひそ星”のセットは秀逸と言うしかない。人間は障子に映る影絵のような存在で、それぞれが人生の一局面を表現しているような動きを示している。そして荷物を受け取った者が感極まる様子を、シルエットだけで表現しているあたりは唸らされた。

 すでにテレポーテーションが実用化されている時代に、わざわざ長い時間を掛けて物を配達する意味も明確に説明されている。届け物は古いフィルムだったり、紙コップだったり、空き缶だったりするのだが、言うまでもなくそれは“思い出”であり、瞬間移動でデリバリーされるような類のものではない。改めて時間と記憶との関係性について考えてしまった。

 洋子に扮するのは神楽坂恵で、ほぼ彼女の一人芝居なのだが、さすが作者の私生活上のパートナーだけあって作品の意図を上手く汲み取ったパフォーマンスを披露している。白黒画面の美しさ。そして一部だけ挿入されるカラー映像の鮮烈さ。観る価値はある映画だと思う。
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「スリー・キングス」

2016-05-22 06:28:01 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Three Kings )99年作品。作者の反戦的なスタンスと、肩の凝らない娯楽作としての要素が上手い具合に融合している佳作。またこの時期のアメリカ社会の“空気”と中東地域の情勢を手際良くまとめて見せた点も評価出来よう。

 91年3月のイラク沙漠地帯の米軍ベースキャンプ。湾岸戦争が前月に終結し、兵士たちは帰国の準備をしていた。そんな中、トロイ上級曹長とコンラッド上等兵は、降伏したイラク軍兵士が隠し持っていた地図を発見。ゲイツ少佐はこれがイラクがクウェートから奪った金塊の隠し場所を示しすものだと指摘し、二等軍曹チーフも仲間に引き入れて4人で宝探しに出掛ける。

 その隠し場所の村にたどり着いた一行は、イラク軍が反体制派の村民を迫害している場面に出くわす。行きがかり上、金塊を得たついでに捕虜になっていた村民のリーダーのアミールを救い出すが、イラク軍との戦闘に突入。何とか彼らは国境まで行き着くが、上官のホーン大佐に逮捕されてしまう。ゲイツ達は金塊を利用して事態を打開しようとする。

 観る前は「独立愚連隊」か、はたまた「荒鷲の要塞」みたいなのを少し期待していたが、本作にはそれらの作品ほどの破天荒ぶりは見受けられない。しかしながら、ザラザラの画質に代表されるようなケレン味たっぷりの画像は納得できたし、キャストも演出のテンポも悪くない。

 何より、一応はフセインの侵略行為に対抗する形での“正当性”を獲得していた湾岸戦争も、結果的にこの地域の混乱を呼んだことをヴィヴィッドに描出した点は評価できる。そして、戦争が終わった後の米軍および本国の虚脱感をすくい上げていることにも感心した。終盤付近の筋書きについては異論もあろうが、湾岸戦争をアメリカ側から描く以上、あのあたりが限界だったんじゃないかと思う。

 ゲイツ役のジョージ・クルーニーをはじめマーク・ウォールバーグ、アイス・キューブといった面子も良い。なお、監督のデイヴィッド・O・ラッセルは湾岸戦争に対して批判的な姿勢であったらしく、この作品の後にイラク戦争のドキュメンタリー映画も撮っていたらしいが、残念ながら“さる筋から”の横槍が入って今では観ることが出来ないという。まあ、アチラの映画界もいろいろと裏の力関係がうるさいのだろう。
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「山河ノスタルジア」

2016-05-21 06:33:08 | 映画の感想(さ行)

 (原題:山河故人)面白いとは思えない。この監督(ジャ・ジャンクー)がこれまでの作品とは異なる新たな展開を示そうとして、余計に気負い過ぎたのだろう。とにかく、筋書きや映像がサマになっておらず、作り手の思いだけが空回りしているように見える。

 99年。山西省の汾陽に住む小学校教師のタオは、幼なじみの炭鉱労働者リャンズーと若手経営者ジンシェンから同時に想いを寄せられていた。3人の微妙な恋のさや当てを経て、彼女が結婚相手として選んだのはジンシェンだった。ショックを受けたリャンズーは職を辞して去る。やがてタオとジンシェンの間に息子が産まれ、ドルにちなんで“ダオラー”と名付けられる。

 2014年、タオはジンシェンと離婚。ダオラーはジンシェンに引き取られて上海で暮らしている。ある日、長年の炭鉱労働で塵肺を患ったリャンズーが妻子と共に故郷に戻っていることを知った彼女は、彼の家族に治療費を手渡す。また、突然世を去ったタオの父親の葬式のため、彼女はダオラーを一時的に汾陽に呼び戻し、久々に親子の時間を持とうとする。

 2025年。父親と一緒にオーストラリアに移住したダオラーは19歳になっていた。すでに中国語を忘れ、父親との仲もしっくりせず、満たされない毎日を送る彼の前に、香港から移住してきた中国語教師ミアが現れる。ダオラーは同じような立場の彼女に対し、親子ほどの年の差も顧みず、恋愛感情を抱くようになってくる。

 3つのパートに分かれているが、一番の敗因は第三部の舞台を“近未来のオーストラリア”に置いたことである。過去の同監督の作品は国内に暮らす庶民の苦悩をすくい上げていたが、そこ(中国)から抜け出すことは見果てぬ夢ではあっても、取り得るべき選択肢では無かった。なぜなら、登場人物達のバックグラウンドは国内にあり、その国民性は一生付いて回るのは確実で、彼らはその地点で折り合いを付けるしか無いという状況が作劇の核として捉えられていたからだ。

 国外に出ることは手っ取り早い解決策にはなるかもしれないが、根無し草のようになった彼らにはアイデンティティの喪失という虚脱感しか提示できない。事実、第三部の締まりの無さは致命的で、中途半端な“近未来の描写”を含めて、画面にすきま風が吹きまくっている。

 ならば第一部と第二部の出来は万全なのかというと、それも違う。最後に密度の低い第三部が控えていることで、その前段としての意味しか持たなくなっている。そもそも、第二部で病床にあったリャンズーはどうなったのか。タオは結局どちらの男が好きだったのか。そんな大事なことが描かれていない。

 最初と最後に流れるペット・ショップ・ボーイズの「ゴー・ウエスト」の歌詞をあからさまなメタファーにしてしまう芸の無さと、ジャ・ジャンクー作品とも思えない雑な映像が、鑑賞意欲を盛り下げる。ヒロイン役のチャオ・タオをはじめキャストは熱演だが、映画の出来がこの程度ではそれも空しい。
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「フライド・グリーン・トマト」

2016-05-20 06:10:06 | 映画の感想(は行)
 (原題:FRIED GREEN TOMATOES)91年アメリカ作品。作品を構成するのは、時代も主人公も異なる二つのストーリーである。ひとつは現代、老人ホームにいる82歳の老婦人ニニー(ジェシカ・タンディ)と、偶然彼女と知り合った40代の主婦エブリン(キャシー・ベイツ)の物語。もうひとつは、ニニーによって語られる物語で主人公はイジー(メアリー・スチュアート・マスターソン)とその女友達ルース(メアリー・ルイーズ・パーカー)。交差して展開する二つの物語を、微妙に関連させていくのが、この脚本のねらいであろう。

 ニニーが語るのは、50年前の出来事。ルースの暴力的な夫が殺された事件をサスペンスフルに描く中から、男まさりのイジーとルースとの深い友情を浮き彫りにしていく。この物語に引き込まれ、イジーの自由で行動的な生き方やルースの優しさに、除々に影響されていくのがエブリン。



 彼女は、大きな不満があるわけではないが、すきま風のような寂しさと倦怠を感じている主婦である。生活を変えたいと思いつつ出来ないままでいたのが、50年前の女たちに勇気づけられ、いつの間にか元気になってしまう。

 さて、よくできたハートウォーミングなドラマだけど、性格の悪い(笑)私にとっては、このテの映画は苦手なのだ。すべてが予定調和。誰も彼も幸せになってああよかったねえ、としみじみ感慨にひたるほど、こちらはお目出たくない。

 最初ニニーが昔話をするところからラストのネタが割れてしまうし、だいたい一人くらいユニークな友人が出来たからといって、人間簡単に生活を変えられりゃ苦労しない。せいぜい、イジーに影響されて“ルワンダー!”と叫びながら家をぶっ壊すくらいが関の山(このシーンのK・ベイツはもろ「ミザリー」)。変えられるのは他人の進言や忠告ではなく、物と金だけだ。この映画は何もかもきれい事なのである。

 ジョン・アヴネットの演出はひたすらウェルメイドに徹する。きれいな映像、出演女優陣の好演、褒める要素には事欠かないものの、観る者を挑発する毒もなければ内面描写のイヤらしさもないこの作品。アメリカでも好評であったし、我が国でも公開当時はウケが良く、映画雑誌のベストテンにも入っている。でも、正直言って、観たあと30分もしたらすべて忘れてしまった私であった。
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「孤独のススメ」

2016-05-16 06:25:15 | 映画の感想(か行)

 (原題:Matterhorn)出来としては“中の中”といったところ。おおむね感触は良好だが、日本人には馴染みが薄い宗教ネタが作劇の大半を占めるので、理解できたとは言い難い。ある程度“こういうものだ”と割り切って観ないと、素直に対峙するのは無理があると思う。

 オランダの片田舎に住む初老の男フレッドは、妻に先立たれて息子は家を出ており、今は決して狭くはない一軒家に一人で暮らしている。ある日、言葉がロクにしゃべれず経歴も不詳のテオという中年男がフレッドの家に転がり込む。そのまま放ってはおけないと思ったフレッドは、テオを一緒に住まわせることにする。やがてテオには動物の形態模写という“特技”があることが分かり、週末はコンビを組んでパーティの余興に出掛け、けっこう評判を呼ぶ。だが、保守的な土地柄から2人はあらぬ噂を立てられ、フレッドはテオをこのまま置いておくわけにはいかない状況に追い込まれる。

 孤独な男が思いがけない出会いによって人生をやり直すという図式は有りがちだが、普遍性が高い。しかし、本作ではディテールがハッキリと示されていない。どう見ても正常な人間ではないテオを、フレッドが受け入れた理由が分からない。たぶんそれは鷹揚なオランダ人の国民性と博愛を説くキリスト教によるものと思われるが、当の教会と近所の連中は2人の関係を歓迎しない。隣に住む気難しそうなオッサンなんかその最たるもので、ヘンな男を連れ込んでいるフレッドを睨みつける。このアンビバレントな設定には最後まで馴染めなかった。

 テオは本心かあるいは単なる道化のポーズかは知らないが、フレッドに対して同性愛的なモーションを掛けるのだが、フレッドも邪険に撥ね付けたりはしない。実はこのことが息子が出て行ったことと少し関連しているのだが、これを受けてなぜフレッドが生き方を変えることに繋がるのか、釈然としない。

 テオがこのような状態になったのは“ある理由”が存在しているらしい。だが、それが何か重要な意味を持つのかというと、全然ないように思われる。原題の「マッターホルン」とはフレッドが妻にプロポーズした場所のことで、終盤にそれが再びクローズアップされるのだが、何やらこじつけとしか思えない。同性愛がテーマならばそれを深く描出すればいいものを、教会の威光がどうのこうのというネタが不用意に入り込んで、どうもスッキリとしないのだ。

 とはいえ、過度に禁欲的なフレッドの生活は見ていて面白いし、オランダの田舎町の雰囲気、そして主人公たちが移動で使うバスや電車の佇まいも捨てがたい。監督はオランダで俳優としても活躍し、本作が初長編映画デビューとなるディーデリク・エビンゲだが、処女作であまり破綻のない仕事をしていることは評価されよう。

 トン・カスフレッドやロネ・ファント・ホフテオといったキャストは馴染みがないが、イイ味は出している。それにしても、この邦題は不適当だ。劇中では誰も孤独を“推奨”してはいない(苦笑)。
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アビスパ、やっとホームで1勝。

2016-05-15 06:51:33 | その他
 去る5月14日(土)に、福岡市博多区の東平尾公園内にある博多の森球技場(レベルファイブスタジアム)にて、サッカーの試合を観戦した。対戦カードはホームのアビスパ福岡と湘南ベルマーレである。



 前回(4月)に観たアルビレックス新潟との試合は、1点差ではあったが相手との実力差は如何ともし難い状況だった。ただし、今回の相手ベルマーレはリーグではアビスパと“下位争い”を演じている。ここで勝たなければ今シーズンの結果は早々に見えてしまうだろう。いずれにしても、重要なゲームであることは確かだ。

 セットプレーで何度かピンチになった前半だが、サイド攻撃で押し返す場面もあり、ハーフタイムまでは互角の攻防が続いた。疲労が溜まってくる後半は、やはりアウェイであるベルマーレの方がダメージが大きかったらしく、動きが鈍くなってくる。その隙を突いて後半36分にMFの城後がゴールを決め、その後は相手を完封。待望のホームゲームでの白星を獲得した。



 とはいえ両チームとも技量面では芳しくなく、アビスパが今回勝ちを拾ったのはゲストのHKT48のメンバーの応援があったからという見方も出来る(違うだろ ^^;)。これからも厳しい戦いが予想されるが、何とか“リーグ終盤戦を待たずに降格決定”という事態に追い込まれないように頑張って欲しいものだ。

 なお、観客動員は相変わらず好調。もっとも1万人は超えてはいないので、試合での結果はもちろん営業スタッフのよりいっそうの踏ん張りを期待したいところだ。
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