元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「フレッシュ」

2008-06-30 06:27:59 | 映画の感想(は行)
 (原題:Fresh )94年作品。タランティーノ監督の「レザボアドッグス」のプロデューサー、ローレンス・ベンダーが手掛けた異色の犯罪ドラマ。監督は「ルーキー」「パニッシャー」の脚本家で、これが演出処女作となり、のちに「タイタンズを忘れない」や「ダンシング・ハバナ」などを手掛けることになるボアズ・イェーキン。

 何が異色かというと、主人公が12歳の黒人麻薬密売人だということ。ブルックリンに住む主人公フレッシュは麻薬の運び人をやって家計を支えている。母親はすでに人生投げているし、美しい姉は麻薬漬けにされてマフィアのボスの情婦に成り下がっている。とうの昔に家を出た父親は、実は町へ舞い戻り、近くの公園で賭けチェスをやって生計を立てている。ここまで犯罪が低年齢化していることを嘆く前に、犯罪でもやらない限り生きていけないアメリカの下層社会の絶望的状況がひしひしと伝わってくる。

 フレッシュには好きな女の子がいるが、なぜか素直に気持ちを伝えられない。ある日、3on3の賭けに負けて逆上した売人の一人が、銃を乱射してあたりに居合わせた人々を皆殺しにする。犠牲者の中にその女の子がいた。フレッシュは密かに復讐を誓う。

 この映画が単なる実録犯罪映画の枠を超えて、独自の面白さを見せるのはここからだ。母親に内緒で父親のチェスに付き合うフレッシュは、実はたいへん頭の切れる少年である。父親のチェス戦法を参考に、綿密な復讐プランを練るフレッシュ。

 一分のスキもなく、計画を実行に移すくだりは、なかなかの心理サスペンス。ギャングどもが少年の仕掛けた罠にはまって、次々と破滅していく展開は、「スパイ大作戦」みたいなカタルシスを生む(黒澤明の「用心棒」を参考にしたと監督が言っていたが)。だが、すでに12歳にして人生の修羅場を見てきたフレッシュにとって、悪者をやっつけても何の感慨もない。それに、冷然とした態度しかとれない自分が悲しくてしょうがない。鉄面皮に隠れたその思いが一気に吹き出すラストは切ない感動を呼ぶ。

 チェスを小道具に選んだのはなかなかのアイデアだ。イェーキンは実際にブルックリンの小学生たちと長時間話をし、彼らから聞いた実話を脚本に取り入れたという。フレッシュを演じるのは、主人公と同年齢の新人ショーン・ネルソン。父親役にサミュエル・L・ジャクソンが扮していて、さすがの存在感を見せる。
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「ぐるりのこと。」

2008-06-29 07:20:47 | 映画の感想(か行)

 橋口亮輔監督は“巨匠”の風格を漂わせ始めた。ゲイであることをカミングアウトしている同監督は、今まで同性愛を題材にしたストーリーラインとキャラクター設定でいくつかの秀作をモノにしているが、この映画にはゲイの雰囲気はない。わずかに主人公が男根の大きさに拘ったり興味本位でアナ○セックスを試そうとしてみるあたりに(それも、マジではなくコミカルなタッチで)そのテイストが少し感じられるぐらいである。

 ある平凡な夫婦の軌跡を約10年間追い続けた、堂々たる正攻法のドラマだ。子供が出来たのも束の間、赤ん坊は生まれてすぐに死亡してしまい、あげく精神を病んだ妻と夫との長い“戦い”を描く本作、アウトラインだけならばビレ・アウグスト監督「愛の風景」やチャン・ユアン監督「ウォ・アイ・ニー」といった過去の優れた作品群を思い出す。しかし、それらと比べても本作が屹立した個性を獲得しているのは、映画が扱う90年代の世相を傍流としてしっかりと視野に捉えているからだ。

 バブルが終わりを告げ、暗鬱な縮小均衡の時代に入ったこの頃は、後ろ向きの社会情勢に呼応したかのように異常な事件が多発する。幼女誘拐殺人をはじめ地下鉄毒ガス事件、小学校児童殺傷事件etc.夫の職業が法廷画家だという設定が出色で、彼は事件の当事者と間近で接触することになる。

 さらに巧妙なことに、単純にこれらの事件が夫婦生活に直接的に影響を与えているということではないのだ。嫌な事件が次々と起きて、夫は生臭い法廷の場で絵を描き、それでも夫婦にはパーソナルな生活の場がある。妻はメンタル面での障害を負い、夫は関係を修復しようと体当たりで彼女の心にぶつかる。容赦ない描写の連続で、はっきり言って二人には暗い世相のことなど“知ったことではない”のだ。

 しかし、そう感じるのは表面的なことであるのも確かである。非道な事件の連続が、彼らの心の奥底に、微妙な屈託を澱のように溜まらせてゆく。そしてそれは二人の関係性をほんのわずかだが左右する。世相と個人生活との“距離”をここまで突き詰めた作品は、今まで無かったように思う。作者の卓抜な着眼点には感服するしかない。

 主演の木村多江とリリー・フランキーの演技は最高だ。冒頭近くのユーモラスなエッチ談義を長回しで破綻無く完遂するのに舌を巻いていると、クライマックスの雨の日の“対決”シーンには、ひょっとして日本映画史上での屈指のパフォーマンスに立ち会っているのではと思わせるほど、ヴォルテージは高い。法廷画家のディテールは抜かりがなく、法曹人とマスコミ、そして犯罪被害者とのコントラストも明快に描かれる。この点、周防正行監督の「それでもボクはやってない」よりも数段上質の仕事ぶりだ。

 人間は、大きな障害を前にしてどう振る舞うのか。それをどうやって乗り越えるのか。それを可能にするものは一体何か。観る者にそういった深いテーマに想いを馳せることを喚起する、卓越したパワーを持った映画だ。本年度の日本映画の収穫である。
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「ザ・ブーツ」

2008-06-28 07:57:30 | 映画の感想(さ行)
 94年のアジア・フォーカス福岡映画祭出品作品で観たイラン映画。傑作「友だちのうちはどこ?」(88年)をはじめ「駆ける少年」(87年)「そして人生はつづく」(92年)など、イラン映画は本当に子役の扱い方が上手い。このわずか60分の小品にもそれが十分発揮されている。

 サマネはテヘランの下町に住む6歳の少しわがままな女の子。父親はおらず、母親はミシン作業で生計を立てている。ある日サマネは赤いブーツを母から買ってもらい大喜び。しかし、帰りのバスの中で居眠りした間に片方が脱げてどこかに行ってしまう。帰宅後、それに気付いた母親が探すが見つからない。サマネも翌朝友だちと一緒に探しに行くが、かえって迷子になってしまう。母は近所に住む片足のない少年に片方をプレゼントしようとするが、彼は女物の赤いブーツなんか欲しくない。少年はゴミ収集のおじさんにブーツを渡すが、おじさんがゴミ集積場にもう片方があるのを見たという。彼は長い道のりを一人で集積場まで歩いて行き、苦労の末、片方を発見する。

 中近東のイランの街なのに、全編雨模様なのに驚いた。たまに雪も降ったりする。娘を預けるところがなく職場に連れて行かなければならない母親の苦労、周囲の同僚たちの厳しい目、世話になっている隣家との微妙な確執など、ドラマ設定や登場人物の性格などを序盤の少ない描写で的確に表現する若手監督モハマッド=アリ・タレビの手腕には感心したが、見物はやはり子供だけの場面である。

 サマネと友だちが街中をブーツを探しまわる場面は、彼女らにとっては冒険の連続だ。初めて大通りを横断し、見知らぬ通りに迷い込み、コワいおばさんから追い回される。すべて視点が子供のそれになっていて、何気ない出来事が新鮮なセンス・オブ・ワンダーとなって観客に迫ってくる。足の悪い男の子が集積場まで行くシーンも同様で、特に行く手を阻む大きな犬との駆け引きは全編のハイライトと言える。

 そして不思議な感動を呼ぶラスト。ここでこの映画の主人公は足の悪い男の子だったことがわかる。サマネの父親も、この男の子の足も、戦争の犠牲であることは明らかだ。少年は悲しみに暮れたり世を嘆いたりせず、それほど親しいとも言えないサマネのために想像を絶する苦労をする。しかもストレートな賞賛など期待していない。この無私の奉仕精神こそが、戦争に疲れたイラン社会における理想像として作者は位置づけているのだろう。まさに“小さくてもキラリと光る”映画だ。この作品を発掘し映画祭に持ってきたスタッフに感謝したい。
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「JUNO ジュノ」

2008-06-27 06:35:03 | 映画の感想(英数)

 (原題:JUNO)観ている間はまあ退屈しないが、観賞後は釈然としないものが残る。ひとえにこれは、アメリカと日本との社会観の違いに起因するものであろう。16歳のジュノは同級生の子をうっかり身籠もってしまう。当然育てられるはずもなく、生まれてくる子供の里親を探すのだが、自分の腹を痛めてこの世に生を受けるはずの赤ん坊に対する思い入れが驚くほど希薄だ。

 少しは手放さなければならない子供を愛しく思ったらどうなんだと言いたいが、彼女だけではなく親も友人も感覚が実にドライだ。“ああ出来ちゃった。でも自分では手に余るので誰かに差し上げます”みたいな、不要品のバザーみたいなノリで子供を“流通”の場に出してしまう、その神経は理解できない。脳天気に新聞の里親希望の“広告”まで出す引き受け手の夫婦の態度も同様だ。この映画がアメリカで広範囲な支持を集めたという事実を見ると、米社会の荒廃ぶりが手に取るように分かる。

 病院でジュノを担当する超音波技師が“十代の出産と子育てはロクな結果に繋がらない”みたいなことを言ってジュノとその義母に罵倒されるシーンがあるが、私のスタンスはこの女性超音波技師と一緒だ。軽はずみなコギャルと身持ちの悪そうなオバサンに、カタギの人間を野次る資格なんてない。どう考えてもジュノとその義母には病院でちゃんと患者を扱えるだけのスキルを獲得できるようなオツムは持ち合わせていないのだから(暗然)。終盤の赤ん坊の父親である男子生徒との関係性も、説明不足の極みだ。

 かようにストーリー自体は感心しないが、ラストまで何とか観られたのはディアブロ・コディのシナリオによるセリフの面白さに尽きる。エレン・ペイジ扮するジュノの口から出る、悪態ともジョークともつかない言い回しの速射砲は、画面に玄妙なリズム感を与えて圧巻だ。里親候補夫婦のダンナ(ジェイソン・ベイトマン)との“ロック談義”にも大笑いさせられた。ジェイソン・ライトマンの演出は深みはないがフットワークが軽くて明るい。この点、父親のアイヴァン・ライトマンより上かもしれない。

 とはいえ、上記のような作劇上の不満点がある限り、とても評価するわけにはいかない。オスカー候補になったのは、他のノミネート作品がシリアス路線に過ぎるのでバランスを取ったのかもしれないと、穿った見方をしたくなる(^^;)。
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「RAMPO」二題

2008-06-26 20:26:39 | 映画の感想(英数)
 両方とも94年作品。江戸川乱歩生誕100年記念として作られた「RAMPO」は製作・奥山和由、監督にNHKドラマ「花の乱」などを手がけた黛りんたろうが当たり、娯楽映画としてにぎにぎしく公開されるはずだった。しかし、出来上がった作品を奥山は“こんなので客が呼べるかっ!”とばかりに一蹴。“こうなりゃオレが撮る”と、はからずも自身の初演出作品となる奥山版「RAMPO」は拡大公開されることになったが、黛側も黙ってはおらず、かくして同じ題名、同じキャストで内容の違う2本が同時期に封切られることになった。

 ストーリーはほぼ共通している。昭和初期、乱歩(竹中直人)の新作「お勢登場」が発禁となるところから始まる。若い人妻が亭主を長持の中に閉じこめて窒息死させてしまうこの小説は、奇しくもそのころ起こった、骨董屋の主人が長持の中で怪死した事件と酷似していた。その妻に興味を持った乱歩は、彼女に会ううち、魅かれるものを感じる。平行して乱歩が執筆中の小説には、彼女そっくりのキャラクターが出てくる。小説の中の彼女は前の亭主の死に関わった疑いを持たれながら、今では伊豆の変態侯爵(平幹二郎)の妾となっていた。“また死人が出る”という匿名の依頼により、明智小五郎(本木雅弘)が侯爵の館に潜入し、捜査を開始。いつしか乱歩は、小説と現実の境目が見えなくなってくる。

 まず黛バージョンの感想について述べよう。奥山の言うとおり、これでは客は呼べない。弛緩したドラマ運びと稚拙な演技指導は映画以前の出来で(セリフの聞き取りにくさといったらない)、私が製作者だったら永遠にオクラ入りにしておくところだ。ただ一点だけ納得したのは、女のミステリアスな過去をちゃんと説明しているところで、支離滅裂な話になんとか筋が通っているように感じた。

 よって、それを“改善”した奥山バージョンの大勝利! と手ばなしでホメられないのが辛いところだ。奥山の演出は一応は破綻を見せない撮り方で、黛版を観たあとではホッとするのは確か。

 しかし、奥山は勘違いをした。“改善”されるべきは、このワケのわからないストーリー展開、つまり脚本であり、客を呼ぶための“サブリミナル効果”や“f分の1ゆらぎ”“匂いの出る映画”といったキワ物的オマケを付けることではない。

 ミステリー的趣向は皆無に近く、大時代な設定や解決を放り投げたようなラストは閉口するばかり。平幹二郎や阿部寛の女装を見て喜ぶ観客がいると思うのか。「怪人二十面相」の映画化記念パーティに出席しているゲスト出演者たちを“有名人をこんなに集めたんだぞぉ”とばかりに念入りに撮す無神経さ。どうも外見さえハデにすれば観客を呼べると思っているフシがある。

 まあ、取り柄といえば冒頭の“長持ち窒息事件”の顛末を描いたアニメーションだろうか。けっこうオドロオドロしくて楽しめた。全篇アニメにすればよかったのかも。ヒロイン役の羽田美智子だけはまあ良かったけどね。

 それにしても、この頃の奥山和由は毀誉褒貶はあるにせよ、なかなかやる気を見せたプロデューサーであったことは間違いない。松竹のお家騒動により放逐されてしまったが、もう一度邦画メジャー会社に復帰させたら面白いものを作るのではないだろうか。
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「隠し砦の三悪人 THE LAST PRINCESS」

2008-06-25 06:38:55 | 映画の感想(か行)

 可もなく不可も無しの時代劇アクションである・・・・と言いたいが、かなり“不可”の部分が多い。最大の問題点は今回主人公に据えた山の民の武蔵に扮する松本潤である。

 ジャニーズ事務所の人気者であり観客動員に貢献できると踏んでの起用だろうが、これが全然サマになっていない。役柄上、直接殺陣を演じる場面は少ないものの、身体のキレがイマイチのように見える。まあそれは立ち回りの指導やカメラワークが練り上げられていなかったという見方もできるが、最悪なのは御面相だ。ひげ面がまったく似合わない。これじゃそのへんのチンピラである。しかも外見が低調なのにヘンに“二の線”を狙っているおかげで、セリフと演技が浮きまくりだ。

 相棒の新八を演じる宮川大輔の方がはるかに違和感が少ない。六郎太役の阿部寛は三船敏郎を意識してか目を剥いた力演で健闘しているし、雪姫に扮する長澤まさみは初の“汚れ役(のようなもの)”に挑戦して、そこそこの成果は上げていると思うのだが、主役がこれでは気勢が上がらない。

 樋口真嗣の演出はいつも通り大味で特筆されるべき点はない。CGの使い方だけは上手いが、活劇の段取りはどうにも素人臭い。カメラは腰高で、時代劇らしい奥行きや重量感とはまったく縁がない。六郎太と敵の首魁(椎名桔平)との斬り合いにしても、あり得ない展開が目立つし、クライマックスの脱出シーンなんかちゃんとした説明もないままに終わっている。要するに、観た後は大して印象にも残らない凡庸なシャシンだ。

 で、本作に言及する上でどうしても避けて通れないのが、どうして黒澤明監督の名作を今になってリメイクしなければならないか・・・・ということだ。日本映画の過去の実績におんぶに抱っこで、まずはオールドファンを取り込もうという意図しか感じられない。ついでにアイドル起用で若いファンも動員させようという魂胆だ。現代に通じる何かを表現しようなどという殊勝な製作動機など微塵も存在しない。人気キャストを揃えての時代劇製作は大いに結構だが、どうしてもっとオリジナルな企画で勝負できないのか。今の日本映画が置かれている閉塞的な状況を如実に表現しているような体たらくではないか。

 なお、一般観客にそのあたりを見透かされたのか、封切り当初は興収第3位とスタートダッシュに失敗し、その後は動員数もダラ下がり。いい加減、古いネタに不細工な化粧を施したインチキ商売に見切りを付けた方が良いと思う。
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「デッドフォール」

2008-06-24 06:37:30 | 映画の感想(た行)
 (原題:Tango & Cash)89年作品。近年は開き直って「ランボー」や「ロッキー」といったかつての当たり役を堂々と使い回しているシルヴェスター・スタローン御大が、イメージチェンジを図ろうとしたフシのある作品。けっこう彼なりに悩んで役柄を模索していた頃の映画だ。

 スタローン扮するロス市警の腕利き刑事とカート・ラッセルのハミダシ刑事の二人組がマフィア相手に大暴れという、よくある刑事アクションものであるが、このスタローン刑事がそれまでの汗くさい雰囲気とは大違いで、なんとアルマーニのスーツを着こなし、頭がよくて財テクが得意というエリートなのだ。しかもユーモアのセンスも抜群というふれこみ。

 これは彼のキャラクターに全然合っていないと思ったら、はたして、悲しいほどサマになっていない。もともとインテリの部分があまりない(失礼?)人なのに必死でエリートを演じているあたりが爆笑を誘う。特に、いかにも脚本どおりにやりましたという一見しゃれたジョークを得意そうにとばすあたりは涙が出そうなくらいおかしい。

 でも、この作品のスタローンはいつものゴリ押しがなくてとてもいいと思う。ひょっとしたらこれが彼の新境地だったのかもしれない。つまり過去の自分が演じたキャラクターをパロディにしてしまう“おちゃらけ路線”というような・・・・・。“ランボーなんてメじゃないぜ”などというセリフも彼自身この映画の中で言っていることだし、けっこう本気かもしれない。今見直すと感慨深い映画なのかも・・・・。

 アクション・シーンはとにかくハデで楽しませてくれる。どちらかというと本格的刑事アクションというより、いろんな活劇の要素をぶちこんで笑いで味付けした香港映画みたいなノリだ。監督はなぜかソ連のアンドレイ・コンチャロフスキー。そのへんもウサン臭い(^^;)。
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「イースタン・プロミス」

2008-06-23 06:36:19 | 映画の感想(あ行)

 (原題:EASTERN PROMISES)デイヴィッド・クローネンバーグ監督作品にしては“鬼畜度”が不足しているように思えるが(爆)、これはこれで良くまとまった暗黒街映画の佳作である。英国におけるトルコ移民の問題を描いた「堕天使のパスポート」の脚本担当スティーヴ・ナイトが今回はロンドンの闇社会に暗躍するロシアンマフィアの生態を浮き彫りにする。

 病院に運び込まれ、出産の後に死亡したロシア人少女の身元を調べるうちに、助産婦であるヒロインは裏の世界に踏み込んでしまう。少女の遺したメモにより彼女が最初に足を運ぶのは、表向きは単なるロシア料理店(しかも出てくる料理は美味そうだ ^^;)、だが実は暴力団のアジトだという、このギャップがまず凄い。日本のヤクザならば表に金融屋か何かの看板は掲げても、高級料亭や三つ星レストランの体裁はまず取らないだろう(爆)。

 イタリア系や中国系とは違うロシア人による闇組織の生態が紹介されているのも実に興味深く、特に“入会希望者”に対する面接風景や、シンジケートの一員であることを示す入れ墨などは、今まであまり映画で取り上げられたことがないせいか面白く見た。

 組織の性格を代表する二人、ボスの専属運転手(ヴィゴ・モーテンセン)と親分の息子(ヴァンサン・カッセル)のキャラクターが立っている。いつもニヒルで沈着冷静、理詰めの行動を取りながらどこか謎めいたところのある運転手は、ビッグな父の元でコンプレックスを抱えて自暴自棄のように振る舞うボスの倅と名コンビを形成する。両者の掛け合いは娯楽映画らしい軽妙さを装いつつも、内面の深淵を窺うような筆致の確かさを感じさせる。二人が地下室で語り合う場面やラストの処理は味わいがある。

 カッセルの演技も素晴らしいが(まあ、ロシア系には見えないけど ^^;)、モーテンセンの捨て身の演技には圧倒される。一部で評判になっているフ○チンでの大立ち回りは切れ味抜群で、この俳優が新時代のアクションスターであることを如実に示している。ストーリー面はテンポの良さよりも個々の描写をじっくり推し進めていこうという方向性だ。

 ロシアン・コネクションが人身売買の黒幕になっており、それが社会問題化していることも盛り込まれており、その点でも見応えはある。ヒロイン役のナオミ・ワッツは(ちょいと老けたものの)相変わらずイイ女だ。ロシア製の年代物のバイクに跨って走る姿と、最後に見せる母性的な表情とのコントラストも悪くない。
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「夢がほんとに」

2008-06-22 06:45:38 | 映画の感想(や行)
 96年のアジアフォーカス福岡映画祭で観たイラン映画。マスコミ関係の会社に勤めるサデグ(パービズ・パラスラツイ)の妻は、ここ数日間“夫が沙漠で戦死してしまう”夢を見てうなされていた。折しもサデグは自宅の建設費用を調達するため、気の進まないイラン=イラク戦争の取材に出かけるハメになる。同行するベテラン戦場カメラマンのキャマリ(アームド・アジ)の御機嫌を取るため、あたかも前線に出て取材したくてたまらないような素振りをするサデグだが、本心はもちろん戦場なんてまっぴらで、テヘランに帰りたくてたまらない。

 ところが、自動車の部品を隠したり仮病を使ったりして前線から遠ざかろうとすればするほど、なぜか戦場へどんどん近づいていく。気がつけば妻の見る夢とまったく同じ状況に置かれてしまったサデグ。果たして夢の通り悲惨な最期を遂げてしまうのか。監督はドキュメンタリー出身で若手のキャマル・タブリジ。

 製作当時はイ・イ戦争が終わってまだ日が浅いにもかかわらず、あの戦争をネタにしたコメディが作られたことは驚きだ。しかも、単に戦争を笑い飛ばそうとするだけではなく、シリアスな戦争ものとは違った視点で戦争の真実を明らかにしようとする、けっこう野心的な作品でもある。たとえは悪いが岡本喜八の「独立愚連隊」あたりと近いものがあるかもしれない。

 偶然が重なって、主人公の意に反する境遇にズルズルと追い込まれていくブラックなギャグの盛り上げ方はうまい。特に、戦争嫌いなのに周囲から“戦場の危険を顧みない突撃リポーター”と思われて本人もそれを否定できない状況や、爆風で道路の立て札がムチャクチャになり、それを知らない主人公が道を間違えてヤバい場所に行き着くあたりはかなり笑えた。

 とうとう最前線どころか敵の領地の中に孤立するサデグ。押し寄せるイラク軍戦車を対戦車砲ひとつで何とか撃退した時、彼は初めて戦争の悲惨さを知る。また“戦場に行った”という事実だけで手の平を返したように態度を変える周囲の人々の浅はかさをも実感する。ラスト、今度は本気で戦争の取材に行って真実を伝えようと決心する主人公にはある種の感慨さえ覚えてしまう。

 ウディ・アレンにも通じるパラスツイの小心者演技は絶品。それにしても“アラーの御加護によって難を逃れた”と言う主人公だが、対するイラクだってイスラム教国。同じ宗教を信じる者同士が争う不条理さを感じずにはいられない。
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「山桜」

2008-06-14 07:52:40 | 映画の感想(や行)

 藤沢周平の小説でお馴染みの庄内平野に広がる海坂藩の状況が、今の日本と酷似しているのにはびっくりした。豪農どもと結託した重臣が、財政危機を打破するために新田の開発を画策。その財源として年貢や税金の利率を大幅に上げようとしている。財政赤字額を“国民一人当たりウン百万円の借金!”とばかりに煽り立て、国民には負担増を押しつけ、その裏では政界と財界と官界がグルになって我が世の春を謳歌するという、現在の日本経済の実情とまったく一緒である。時代劇とはいえ、時事ネタにしっかりと向き合った姿勢は評価したい。

 さて、同じ藤沢文学の映画化でも山田洋次監督の「たそがれ清兵衛」や「武士の一分(いちぶん)」とは違い、柔らかい雰囲気が横溢しているのは、主人公を女性に設定しているからだろう。ヒロインは中堅武士の娘・野江。最初の結婚相手には早々に死なれ、再婚相手は金儲けにしか興味のない男。しかも義理の父母は低劣な俗物で、彼女は手ひどいイジメに遭っている。

 今は亡き叔母の墓参りに行った折、かつての縁談の話がありながら彼女の些細な拘りのために一緒になれなかった弥一郎(東山紀之)と出会う。いまだ独身だという彼に心をときめかす野江。正義感の強い弥一郎は義憤に駆られて藩の不正に立ち向かうが、普段の藤沢作品ではそっちの方をメインにするはずが、カメラは野江の方を向いたままだ。

 彼の一本気な生き方を再見するに及び、つまらない気の迷いで本命の男を逃し、意に添わない結婚に甘んじてしまった自らの不明をハッキリと自覚する野江。そしてやっと自分の意志で人生を歩み始めることを決意する。本作は社会派映画であると同時に女性映画でもあったのだ。

 彼女が辛い日々に埋没したままではなかったのは、親切な使用人達との交流や彼女の実家の温かさがあったからだが、それらが徐々に彼女の心理状態に影響を及ぼしてゆくプロセスをしっかりと描く。弥一郎の所業の正しさを信じきった上での、ラストの彼女の行動には無理が感じられず、しっとりとした感動を呼ぶ。

 野江に扮する田中麗奈は好演で、いつもの元気一杯の役柄ではないが、しっかりとした眼差しと凛とした姿勢がヒロイン像を上手く体現していた。野江の両親役の篠田三郎と檀ふみをはじめ富司純子、永島暎子など、脇を固めるキャストも言うことなし。

 篠原哲雄の演出は丁寧で、山田洋次ほどの底力はないことを自覚してか、ケレン味のない正攻法に徹している。パステルカラーを主体とした映像および衣装デザインの美しさ。特に冒頭の野江と弥一郎が再会するシーンのバックにそびえる満開の山桜は、見事と言うしかない。
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