元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「世界の果ての通学路」

2014-06-30 06:16:23 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Sur le chemin de l'ecole)興味深い題材で、出来も良い。登校すること自体が“一大アドベンチャー”になっている子供達を取り上げたフランス製のドキュメンタリーだが、子供にとっての教育の重要さを再確認すると同時に、本作が優れたロードムービーである点も強調しておきたい。

 ケニアに住むジャクソンは、毎日15キロ先にある小学校を目指し、妹と二人で猛獣もいるサバンナを横断する。カルロスとその幼い妹は、地平線の彼方にある学校まで広大なパタゴニア平原を馬に乗って通学する。友だち三人と寄宿舎を目指し、モロッコの険しいアトラス山脈を4時間かけて歩くザヒラ。幼い弟たちに車椅子を押されながら、学校に向かって道なき道を進むインドのサミュエル。映画はこの四組のエピソードを平行して描く。

 純然たる実録物ではなく、各パートには若干の“演出”が挿入される。しかし、それが作品の瑕疵になっていないのは、テーマの重要性を補完しているのはもちろん、その“演出”が映画の面白さに貢献しているからだ。

 特にザヒラ達が遅刻しそうになってヒッチハイクを利用する場面や、サミュエル達をフォローする街の人々の善意などは、イランの児童映画の秀作群を思い起こさせる段取りの巧みさで感心させられる。監督パスカル・プリッソンの腕前は大したものだ。子供達を支える家族の愛情の描出も申し分ない。

 そして、やっぱり痛感するのは子供を学校に通わせることがいかに大事であるかだ。・・・・などと書くと“学校がイジメの温床だったりする!”とか“学校に行く以外の選択肢もある!”とかいったネガティヴな意見が返ってくるのかもしれないが、そんなのは“各論”に過ぎない。子供に教育を受けさせること、集団行動の何たるかを体感すること、それには学校というシステムが“総論”として不可欠であることは論を待たない。

 世界的に見れば、学校に行って辛い思いをする子供がいることよりも、学校に行けずに難儀な人生を歩まざるを得ない子供が大勢いることの方が、はるかに大きな問題なのだ。出演する子供達は、それぞれ将来の夢を語る。もちろん実現するためには多大な努力が必要になるが、彼らの頑張りを見ていると、それは決して不可能では無いと思えてくる。各地域の風土を活写した美しい映像も印象に残り、これはドキュメンタリーの佳作として評価したい。
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「フィールド・オブ・ドリームス」

2014-06-29 06:38:02 | 映画の感想(は行)
 (原題:Field of Dreams )89年作品。素晴らしい出来映えで、この時期のアメリカ映画を代表する傑作だ。アイオワの片田舎、主人公レイ・キンセラ(ケヴィン・コスナー)はトウモロコシを育てる農夫だ。妻と10歳ぐらいの娘と3人で暮らしている。一見幸せな日々を送っている彼だが、17歳のとき衝突して家を飛び出し、とうとう死に目にも会えなかった父のことが今だに忘れられない。

 父は野球好きで大リーガーを目指したがかなえられず、その夢を息子のレイに託したのだが、レイはその重圧に耐えられず、家出したのだ。ある日、彼はトウモロコシ畑で“それを作れば彼がやってくる”という“神のお告げ”を聞く。

 “それ”とは野球場であると気が付いたとき、彼は1919年に八百長事件で球界を追放されたシカゴ・ホワイトソックスの名選手シューレス・ジョーらをよみがえらせるために途方もないことを次々に実行に移すのであった。



 トウモロコシ畑をつぶして作られた野球場に夜中、シューレス・ジョー(の幽霊)がユニフォーム姿で立っているシーンを見るだけでも胸が熱くなってくる。次々と現れる往年の名選手(の幽霊)たち。レイはこころざし半ばにして無念の涙をのんだ故人(あるいは生存している人もいる)の夢をかなえるため、アメリカ中を走り回って当事者をこのアイオワの野球場に連れてくる。

 その中には60年代に先鋭的な活動をしていて、今は挫折して世捨て人になっている黒人作家(ジェームズ・アール・ジョーンズ)や、若いときに1イニングだけ大リーグでプレイし、医者として余生を送った元野球選手(バート・ランカスター)もいる。

 とんでもない夢物語。でも感動してしまう。あることを望んで苦しんでいる人、あきらめている人、言いたいことも言えずに必死で我慢している人、そんな人(故人も)たちに彼らの夢をかなえてやるためエネルギーを出し切った勇気ある男の話だ。そんな彼を理解する妻(エイミー・マディガン)が素敵だ。そして“やればできるよ”という天からの声を聞く力を持つ娘の笑顔が嬉しい。

 ある朝、登校前に娘が見ているテレビの中ではジェームス・ステュアート主演の「ハーベイ」(1950年作品)が放映されていた。誰の目にも見えない幸福のウサギと仲良くなる男の物語だ。野球選手の幽霊たちも夢に生きるレイたちには見えるが、土地を売れと強引に迫る妻の兄ような俗物には決して見ることができないのだ。



 選手たちはトウモロコシ畑の中からあらわれる。そしてレイに尋ねる。“ここは天国かい?”。どこまでも青い空、風に搖れるトウモロコシの葉、アメリカ人が描くアメリカ人の原点ともいえる光景が映し出される。まさに天国的な美しさだ。

 そして終盤には、レイと父親との関係性がキャッチポールを通してクローズアップされる。このシークエンスは、もう手が付けられないほど感銘度が高い。

 誰だって子どものころ、キャッチボールをして遊んだはずだ。そして初めてのキャッチボールの相手は父親だ。“アメリカでは野球は受け継がれていくものなのだ。父が子に教え、その子が父となってまた子に教えていく。野球はアメリカの男たちの共通の遺産だ。そこには少年時代の思い出がたくさん詰まっている”(監督のフィル・アルデン・ロビンソンのインタビューより。キネマ旬報から引用)。

 映画の最後の最後に「For Our Parents」(この映画をわれわれの両親に捧げる)というメッセージが出るが、それも泣かせる。K・コスナーをはじめキャストは皆好調。ジェームズ・ホーナーの音楽も美しさの限りだ。
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「ボス その男シヴァージ」

2014-06-28 07:33:32 | 映画の感想(は行)

 (原題:SIVAJI-THE BOSS )2007年作品。主演が“スーパースター”ラジニカーントで監督がシャンカールという、快作「ロボット」(2010年)のコンビがその前に撮った映画。福岡市総合図書館映像ホールで上映されたインド映画特集の一本として観ることができた。結論から先に言えば昔ながらのインド製娯楽映画で、「ロボット」のような新奇なエクステリアは無い。その点は不満とも言えるのだが、割り切って観れば楽しめるかもしれない。

 アメリカでソフトウェアの会社を興して成功を収めたシヴァージが、久々に故郷インドに帰ってきた。彼の目的は民衆のために学校や病院を建設し、この土地から貧困を一掃することだ。さっそく事業に乗り出そうてするシヴァージの前に“規制”の壁が立ちはだかる。

 仕方なく役人に多額の賄賂を贈り、何とか建設許可を得たと思ったら今度は既得権益を持つ悪徳業者の親玉が政治家を使ってあらゆる妨害をする。ついには一文無しになってしまったシヴァージは、そこから逆襲に転じる。実在の俳優シヴァージ・ガネーシャンの人生をモデルとしたエンタテインメント大作だ。

 題材だけを見ると社会派の映画かと誰でも思うし、事実そのようなモチーフは劇中かなりのパートを占めるのだが、前半は主人公と彼が一目惚れした女の子とのアバンチュールが延々と展開されるのだから笑ってしまった。しかも、好きな相手に一直線であるのはシヴァージだけではなく、家族揃って先方の家に押しかけて傍若無人に振る舞うあたりがギャグとしてうまく処理されている。この部分だけ見たら、とても社会派映画には見えないのが御愛敬か。

 後半はシヴァージの巻き返しが始まると同時に“アクション大作”になってしまう(笑)。ヘタウマなSFXやワイヤー・アクションが性懲りも無く繰り返され、果たして主人公はどこでこんな体術を身に付けたのだろうかという疑問も脇に追いやり(爆)、ラジニ御大の“クール!”という決めゼリフと共に賑々しい活劇場面が続く。

 とはいえ、社会派としてのアピール度は決して低くはない。役人と一部の資本家による搾取の構図は、現代インド社会の状況をヴィヴィッドに描いているのだろう。そして、何兆ルピーもの“裏金”のやり取りが横行していること、それらは表に出てこないマネーであるから経済マクロにはまったく貢献しないことも示される。このあたりを解決しないとインドは先進国として脱皮出来ないというのは、主人公と同感だ。

 ヒロイン役のシャリヤー・サランはとても可愛い。映画の設定と同じく古風な魅力を持った女優かと思う。音楽はお馴染みのA・R・ラフマーンだが、残念ながら今回は不発。もう少しスコアを練り上げて欲しかった。
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「柳川堀割物語」

2014-06-27 06:33:56 | 映画の感想(や行)
 87年作品。題名のとおり福岡市柳川市の堀割の歴史と現状、それにまつわる人々の姿を描いたドキュメンタリー映画であるが、並の記録映画ではないことはスタッフの名前を調べればすぐわかる。製作が宮崎駿、監督が高畑勲。この二人については誰もがよく知っているだろうから、改めて紹介しない。彼らが作り上げた初めての実写映画である。

 映画はまず水路を行く小舟に備え付けられたカメラによって柳川の堀割とそこに住むいろいろな生物、水辺に住む人々の暮らしを紹介する。流れるようなカメラワークが印象的だ。現在、心地よい水辺環境として親しまれているこの水路は、かつて人々の生活をささえる重要な役割を担っていた。

 そして映画は堀割の生い立ちについての丁寧な説明をおこなう。筑後川の水を取り入れるために久留米・柳川両藩の争いがあったことなど、実に興味深い。柳川の水路がいかに市民生活に結び付いた合理的システムであるかも紹介される。しかもこの部分は得意のアニメーションを駆使して解説され、飽きさせない。



 70年代の列島改造の時代、柳川の水路は瀕死の状態だった。ゴミとヘドロで埋まり、ハエや蚊の発生源になっていた(“ブン蚊都市”という、有り難くないあだ名も付けられたらしい ^^;)。市当局は水路埋め立てを計画する。しかし、一人の市職員が立ち上がり、水路の浄化を呼びかけ、やがてそれは市民運動にまで発展する。ここがこの映画の本題だ。

 浄化運動と一言でいってもドブ川と化していた昔の水路の写真と現在の状態を比べるとそれが困難極まりないものであったことがわかる。この事実が、およそヒロイックにではなく、地道な調査と行動の結果、実現したということは、映画を観ても信じられないような、ひとつの小さな奇跡のようだ。奇跡は劇的なものの中ばかりではなく、こうした市井の人々にでも起こすことが可能なのだ。

 決して自然保護を声高に主張するだけのメッセージ映画ではない。視点はあくまでも水路と共に生きる柳川市民側にあり、自然をうまく取り入れた生活の素晴らしさがさりげなく強調される。そしてこの生活を保つために市民が不断の努力をおこなっていることも重要である。エコロジカルな生活はタダでは手に入らないのだ。

 もちろん、現在の柳川市は一見どこにでもある地方都市だし、水路の恩恵に浴しているのは水辺に住む一部の人々には違いない。それでもこの映画には感動する。宮崎駿と高畑勲の手による「風の谷のナウシカ」で、長老が“多すぎる火は何も生まない。水は100年かけて森を育てるのだ”と言うとおり、この作品は自然を破壊することで発展してきた日本に対し、実現したかもしれない“もうひとつの日本”を提示しているとは言えないだろうか。その意味で、この作品には「ナウシカ」の続編という側面もあるのかもしれない。

 映像が非常に美しい(カメラマンは「GO」などの高橋慎二)。水路とつき合う人々、“白秋祭”に集う人たちの表情の豊かさにも心を打たれてしまう。実に透明な美しさに満ちた映画だ。
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「闇の帝王DON ベルリン強奪作戦」

2014-06-23 06:18:30 | 映画の感想(や行)

 (原題:DON 2 )2011年作品。2006年に公開されたインド製アクション巨編「ドン」の続編で、福岡市総合図書館映像ホールで上映されたインド映画特集の一本として鑑賞した。そこそこ面白く観ることが出来たが、残念ながら前作には及ばない。

 アジアで確固たる地位を築いた犯罪王ドンは、今度はヨーロッパの裏社会を手中に収めるべく動き出す。まずはドンがインターポールに出頭。逮捕・収監される。しかしこれは計略の一環で、目的は獄中の(前作の悪役である)ワルダンとの接触であった。彼を仲間に引き入れると、揃って脱獄。舞台はベルリンに移り、ドン達はドイツ中央銀行の地下にあるユーロ札の原版を強奪しようと企む。

 インターポールの女性捜査官ロマはドンを追ってベルリン入りし、さらには裏社会と繋がっているドイツ中央銀行の幹部らもドンを抹殺しようと画策。元より腹黒いワルダンも、いつ裏切るか分からない。かくして三つ巴・四つ巴の攻防戦が賑々しく展開される。

 まず不満なのが、インド映画得意の歌と踊りのシーンがほとんど無いこと。劇中にはそれらしいものが一回、あとはラスト・クレジットのバックに挿入されるのみだ。これではインド製娯楽映画のフィルターを通して“それらしく”楽しむことが出来ない。だから通常のアクション映画と同次元で評価するしかないのだが、結果として“中の上”ぐらいの採点しか付けられない。

 筋書きは悪くない。最後のドンデン返しも鮮やかだ。しかし、どうにもドラマ運びが緩い。前回に引き続いて登板したファルハーン・アクタルの演出は、歌と踊りをフィーチャーしたお馴染みのスタンスで仕事に臨んでいるため、ガチンコの活劇演出としてはどうしてもスキが多くなる。アクションシーンもハデだが、キレがイマイチだ。

 主演のシャー・ルク・カーンは相変わらずの“俺様主義”を貫き、唯我独尊的にスクリーンの真ん中に陣取っている。今回は男臭いヒゲ面にも挑戦し、イモい容貌をカバーしようとしているところ(?)は御愛敬か。パート1に続いてロマに扮するプリヤンカー・チョープラー(元ミス・ワールド)は変わらぬ美貌を見せる。ドンの情婦を演じるララ・ダッタ(元ミス・ユニバース)もかなりの美人だ。スター性のある面々が顔を揃えているので、リッチな気分は味わえよう。
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「フィアレス」

2014-06-22 08:24:57 | 映画の感想(は行)
 (原題:FEARLESS)93年作品。設定としては面白く、展開も非凡なのだが、今一歩詰めの甘さが感じられる。とはいえピーター・ウェアー監督作としては面白い部類に属し、観る価値はあるかと思う。

 建築家のマックスは大勢の犠牲者を出した飛行機事故から“生還”した。それからというもの、彼を悩ませていた苺アレルギーも重度の飛行機恐怖症も雲散霧消し、毎日が充実しているように感じるようになる。さらには死に直面した瞬間に見た不思議な光を追い求めて、車が行き交う大通りに飛び出したり、高いビルに登ったりと奇行を繰り返す。彼は怖いものが何一つ無い“フィアレス”という精神状態に置かれてしまったのだ。



 そんなマックスをマスコミは“救世主”扱いして大騒ぎし、事故の賠償訴訟を担当している弁護士は彼を利用してより多くのカネを航空会社から引き出そうとする。一方、同じ事故で赤ん坊を亡くしたカーラは絶望の真っ直中にいた。彼女は子供が死んだのは事故の際に自分が手を離したからだと思い込んでいる。航空会社から派遣されたセラピストのビルは、この対照的な二人を接触させる。

 ウェアー監督が取り上げ続けてきた“異世界との遭遇”という題材は、今回は“彼岸の世界との交感”という構図によって展開されており、またそれが怖い物知らずの“フィアレス”なる状況を伴っているあたり、現実世界の俗っぽさを強調する意味でもなかなか野心的な作りだと思う。

 ただし、マックスと“フィアレス”とは正反対の症状を患っているカーラとの出会いにより、また一歩進んだワンダーワールドが現出するのかと思ったら、通常人への復帰の契機にしかなっていないのは不満だ。しかも、それを後押しするのがカーラとの仲を怪しんだ妻の“説得”だったりするのだから、腰砕けな感じもする。とはいえ、死ぬ一歩手前まで行った人間の、解脱の境地といった状況を描出しているだけでも、この作品の“手柄”になっていると思う。

 主役のジェフ・ブリッジスは好演。イザベラ・ロッセリーニや ロージー・ペレズ、トム・ハルス、ジョン・タトゥーロらが演じるといったサブキャラも存在感がある。そしてモーリス・ジャールによる音楽は、作品の厚みに貢献していると思う。
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「インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌」

2014-06-21 06:30:58 | 映画の感想(あ行)

 (原題:INSIDE LLEWYN DAVIS )一般世間的に認知されるような“良い映画”ではないが、コーエン兄弟の演出タッチを解している観客、そして音楽好きな者ならば楽しめる作品かと思う。ちなみに私は面白く観ることが出来た。

 1961年のニューヨーク。グリニッジ・ヴィレッジのライヴハウスに時折出演しているフォークシンガーのルーウィン・デイヴィスは、実力はあるのだが全然売れない。レコード会社とは契約しているのだが、ギャラの支払いを渋られる始末。付き合っていたガールフレンドからは妊娠を告げられ中絶の資金も必要になってきた。姉に金の無心をしても、父親の介護で手一杯なので回す分は無いと言われる。音楽活動を断念して船乗りになろうとするが、船員免許が失効しているの何だのという事情があり、上手くいかない。一念発起してシカゴにいる有名プロデューサーの元に出掛けるものの、ホロ苦い結果が待っているだけだった。

 主人公と共に旅をする猫の名前が“ユリシーズ”であるのは、当然のことながらコーエン兄弟が2000年に撮った「オー!ブラザー」と同様、本作もホメロスの「オデュッセイア」にインスパイアされていることを示す。しかも、冒頭場面とラストが円環のように繋がっているのは、苦難に満ちた旅を経て家族の元に戻る古代ギリシアのオデュッセウスとは違い、ルーウィンは終わらない旅を続けていることを暗示している。

 主人公像はボブ・ディランに影響を与えたというデイヴ・ヴァン・ロンクをモデルにしているらしいが、当時は彼のように貧乏くじを引き続けて世に出ることは無かったミュージシャンが山のようにいたのだろう。不運と不甲斐なさがデフレ・スパイラルのごとく連なりブレイクアウトすることが出来ない者が大勢いる中、ボブ・ディランのように“円環”の外に出られた人間の偉大さを再認識する。

 またルーウィンのような者がたくさん活動していたこと自体、60年代の音楽シーンが盛り上がった背景であったことは論を待たない。それだけアメリカの音楽文化は奥深いのだ。

 主役を演じるオスカー・アイザックの歌声は素晴らしい(さすがジュリアード学院卒だ)。ジャスティン・ティンバーレイクが珍しく映画の中で歌う“プリーズ・ミスター・ケネディ”も痛快だ。この映画における演奏場面がどれもヴォルテージが高い。そこは音楽に造詣が深いコーエン兄弟の腕の見せ所だろう。ジョン・グッドマンやF・マーリー・エイブラハムら脇の面子も良い。

 特筆すべきはブリュノ・デルボネルのカメラによる、モノクロに近いような、沈んだ色調の画面である。ノスタルジックで、どこかドキュメンタリー・タッチも感じられる独特の映像世界が展開していた。
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フリーマン・ウィルス・クロフツ「樽」

2014-06-20 06:23:01 | 読書感想文
 戦前から推理小説史上屈指の名編と呼ばれ、評論家や読者が選ぶ歴代ベストテンにも幾度となく顔を出している作品だが、これまで私は読んだことがなかった。理由は、かなりの長編であることとアリバイ崩しが特徴的なF・W・クロフツの著作であることから“地味で退屈なのではないか”という先入観を持っていたからである。ロクにこの作家の小説を読みもしないのに勝手に決めつけるとは我ながら呆れてしまうが、今回新訳での改装版が出たので思い切って手に取ってみた。結論から言えば、かなり面白い作品である。今まで敬遠していたのがバカバカしく思えてしまった。

 1920年ごろのロンドン。港でパリから届いた荷物の陸揚げ作業中、海運会社の社員が破損した怪しい樽を見つける。しかも、警察に通報している間に樽は忽然と消えていた。すったもんだの挙句にようやく回収された樽の中から出てきたのは、金貨と若い女の死体だった。



 警察が荷受人や送付元を調べるが、なかなか真相はつかめない。しかも、重要参考人と思われる者たちには鉄壁のアリバイがある。いったい樽は誰から誰に送られたのか。そもそもこの事件でドーヴァー海峡を往き来した樽は一個だけなのか。舞台はパリそしてベルギーへと広がり、スリリングな展開を見せていく。

 地味だと思われそうなアリバイ崩しのくだりは、実はこのミステリーの一部にすぎない。物証や証言を集めるプロセスは、通常のミステリー同様の手順を踏んでいる。しかも、ドラマ運びはテンポが良く、いささかの淀みもない。意外にも後世のハードボイルド小説にも通じるような活劇場面だってある。退屈さを感じる暇など無かった。

 捜査側は最初はスコットランド・ヤードの警部、次にパリ警視庁の刑事、そして中盤を過ぎてからは担当弁護士と私立探偵に主軸が移っていくが、それによって筋書きが散漫になるどころか、それぞれのキャラクターが掘り下げられていて飽きさせない。特に、ロンドンとパリの捜査官は昔からの友人同士で、難事件を追っている間にも旧交を温めたり食事を楽しんだりするあたりは面白い。

 警察内部の事情も丹念に描かれており、これはいわゆる“警察小説”の先駆けとしての側面も持っている。残忍で狡猾な犯人像の創出にも抜かりはない。いずれにしても、デビュー作でこれだけのものを書き上げたクロフツの筆力には感服するしかないだろう。
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「青天の霹靂」

2014-06-19 06:16:28 | 映画の感想(さ行)

 丁寧に撮られているが、作劇やキャラクター設定に釈然としないものが残るのは、やはり作り手が“素人”のせいだろうか。ウェルメイドを狙うよりも、異業種監督らしい八方破れな仕事ぶりを見たかったというのが本音だ。

 場末のマジックバーで働くマジシャンの轟晴夫は、もうすぐ40歳になろうというのに全く風采が上がらない。ある日、10年以上音信不通だった父親の正太郎が、ホームレスに身を落とした挙げ句に死んだとの知らせを警察から受け取る。父が暮らしていた河原の青テントの中で昔の写真を見つけた春夫は、二代続いた不甲斐ない人生を嘆く。その時、突如として雷に打たれて気を失ってしまった彼が気が付くと、そこは40年前の浅草だった。

 偶然にも若き日の父と母に出会った晴夫は、どういうわけか父とコンビを組んで寄席のマジックショーに出演するうちに、思わぬ人気を博してしまう。やがて彼は、父から聞かせてもらえなかった自らの生い立ちを知ることになる。

 冒頭、春夫が客の前で“昔は、普通の人生しか歩めない周りの奴らをバカにしていたが、今は普通の人生を手に入れること自体、すごく難しいことが分かる”なんてことをウダウダとしゃべる場面があるが、はっきり言って“引いて”しまった。

 そのミジメな話をネタとして披露しているのなら良いが、どうやらこの主人公は本気で独白しているようなのだ。20代の若造ならばそんな泣き言も許せるかもしれないが、どう考えても中年に差し掛かった男が吐くセリフではない(大人ならば、たとえ心の中で思っていても口には出さないものだ)。

 今の生活がみじめなのは恵まれない幼少時代を送ったからだと信じているような、そんな超モラトリアム人間の文字通りの“自分探し”なんかには興味はない。もちろん、ダメなヤツを描いてはいけないという決まりは無いわけで、ダメっぷりを思い切りよく描いてくれれば評価出来よう。しかし、本作にはそんな覚悟は見当たらない。頭の中だけで考えたような“ダメ人間”を、これまた頭の中だけでデッチ上げたようなファンタジー仕立てで“最後には少しはマシになっただろう”と勝手に合点しているような、そんな思い上がりばかりが鼻に付いてしまう。

 正太郎役として出演もしている劇団ひとりの演出は手堅く、いたずらにお涙頂戴路線に走ることもなく約90分間の上映時間にまとめているあたりは好感が持てる。主役の大泉洋、そして久々に魅力的に撮られている柴咲コウ、さらには大林宣彦の「異人たちとの夏」にオマージュを捧げたかのような役柄の風間杜夫など、キャスト陣も好調だ。しかし、淡々としたタッチそれ自体を大向こう受けをねらったものと見透かされるような製作スタンスでは、彼らの仕事を手放しで褒めることも出来ない。

 今から思えば、「異人たちとの夏」は何と良い映画だったのだろうか。欠点だらけであることを承知しつつも、見せ場には感動を覚えてしまう。今回の新人監督にはそれを上回るほどの闊達さを期待したかったのだが、どうやら無理な注文だったようだ。
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「フィラデルフィア」

2014-06-18 06:22:38 | 映画の感想(は行)
 (原題:PHILADELPHIA)93年作品。この映画は、おそらくハリウッドのメジャー会社が初めてエイズ問題を取り上げ、封切り当時は各賞を獲得した話題作である。しかし・・・・実際観てみると、どんな社会問題でも娯楽映画に料理してしまうハリウッドのしたたかさとウサン臭さを目の当たりにした思いだ。

 主人公の弁護士(トム・ハンクス)はエイズに感染したことでクビになる。彼はかつて法廷で争った黒人弁護士(デンゼル・ワシントン)に助けを求め、所属していた法律事務所を相手取り訴訟を起こす。社内からエイズを排除しようと暗躍する企業幹部の差別意識を糾弾し、それに立ち向かう主人公たちの正義の味方ぶりを強調する。

 まさに勧善懲悪のわかりやすい図式で観客のウケもいい。ブルース・スプリングスティーンやニール・ヤングによる挿入歌のヒットも相まって、けっこう興行的にも成功した。しかし私は以下のいくつかの理由により、あまり評価はしたくない。



 第一に、エイズ問題をうんぬんするだけでなく、ゲイ差別や人種差別など多くの問題を盛り込もうとして視点が定まらなくなっていること。まあ、アメリカではエイズ差別すなわちゲイ差別と見る向きも多いらしく、作者の視点も同様だが、当時すでに異性間交渉による感染が多くなっている状態で、その判断は正しくないように思う。

 第二に、法廷劇としてのプロットの甘さ。というより、法廷でのやり取りを重視していない展開であるにもかかわらず、不必要にこの部分が長いのである。鳴り物入りで登場するメアリー・スティンバージェン扮する相手側の弁護士が後半影が薄くなる不思議。最後は当然主人公たちの勝訴になるのだが、決め手になった証拠がいったい何なのか今だにわからない。

 第三に、トム・ハンクスの演技。この頃はコメディ役者として人気があった彼だが、本作でのシリアスな役には違和感を持った。オペラを聴きながら切々と訴えるシーンは見せ場の一つらしいが、はっきり言ってクサイ。でも、こういう難病患者や身障者の役にはアカデミー協会は弱いらしく、見事にオスカー獲得である。

 第四に、差別意識への糾弾の甘さ。“私はエイズだ”と言われてあわてて握手の手を引っ込めるD・ワシントンや、血液製剤によるエイズ患者は解雇しないがホモ行為で感染した主人公はすぐにクビにする法律事務所の態度はもっと突っ込んで描かれると期待したのだが、尻すぼみになってしまう。白けたのは主人公の家族の異様なまでの理解の良さ。取り乱したり悩んだりしたはずなのだが、そんな時期は過ぎましたとばかり悟りきったような笑顔の洪水は、あっけに取られるばかり。

 ハリウッド的予定調和はこの題材には合わない。少しは破綻してもいいから観る者の心に迫る映画に仕上げてほしかった(まあ、シリル・コラールの「野生の夜に」みたいな一人よがりの映画も困るけど)。監督ジョナサン・デミは「羊たちの沈黙」のときも思ったが、少し過大評価されているように思う
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