元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「デトロイト・メタル・シティ」

2008-09-30 06:43:40 | 映画の感想(た行)

 ネタとしては面白いのだが、監督の腕が三流であるため凡作に終わっている。大分県の片田舎から渋谷系ミュージシャンを目指し上京した軟弱青年が、うっかり入ってしまった事務所の方針によりデスメタルバンド“デトロイト・メタル・シティ”のリードヴォーカルをやらされる。素顔を隠した分厚いメイクで“ヨハネ・クラウザーII世”なるおどろおどろしいキャラクターを嫌々ながら演じると、これが大ウケで観客動員も楽曲の売り上げもうなぎ登り。ますます本人の意志に反する事態に追い込まれ大いに悩む・・・・というコメディ(原作は若杉公徳の同名コミック)。

 本作の笑いの焦点は、当然ながらオシャレなノリの歌手を望んでいる“表向きの顔”と、ステージ上で過激なパフォーマンスで暴れ回る“裏の顔”とのギャップ、およびそれら二つの顔が現れるタイミングであるはずだ。しかし、これがどうも上手くない。

 たとえば前半、主人公が想いを寄せている相手とのデートと“ヨハネ・クラウザーII世”として出演するイベントとを掛け持ちする場面がある。秒刻みでコスチュームを着たり脱いだりのドタバタを展開させて観客の哄笑を呼ぼうという作者の作戦だが、これが大ハズレ。段取りが悪くてちっとも笑えない。

 そして中盤、田舎に帰った主人公が、ヘビメタにハマってグレている弟を“ヨハネ・クラウザーII世”の格好で一喝するシークエンスも、冗長な描写と間延びした各キャラクターの動かし方で観ていて眠くなる。さらに終盤、フッ切れた“ヨハネ・クラウザーII世”が信者を引き連れて米国デスメタルの首魁が待つコンサート会場に走って行く場面も、何の工夫もなく漫然とカメラを回しているだけだ。

 ならば演奏シーンだけでも盛り上げて欲しいものだが、これまたどうしようもないほど凡庸。この監督(李闘士男)はロックの何たるかをまったく分かっていないのではないか。たとえば陣内孝則が監督した「ROCKERS」の観る者を瞠目させるようなエキサイティングなコンサート場面と比べたら、本作のそれは児戯に等しい。だいたいゲストに“キッス”のジーン・シモンズを連れてくるところも完全に的はずれだ。“キッス”はデスメタルではない。見かけはハデだが、やっている音楽は昔ながらのシンプルで明るいアメリカン・ハードロックである。もっと“本職”の面子を引っ張ってくるべきだ。

 主演の松山ケンイチは頑張ってはいるけど演出が三流なので何となく“上滑り”している。ヒロイン役の加藤ローサはハジケ方が足りない(可愛いけどね ^^;)。わずかに目立っていたのは極悪な事務所の社長を楽しそうに演じていた松雪泰子ぐらいだ。全体的に低調テレビドラマと同程度の出来で、改めて邦画における喜劇の難しさを痛感することになってしまった。
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「エドワード・ヤンの恋愛時代」

2008-09-29 06:43:57 | 映画の感想(あ行)

 (原題:獨立時代)94年作品。数年前、惜しくも世を去った台湾の俊英・楊徳昌(エドワード・ヤン)の代表作である。舞台は現代の台北。大手広告代理店に勤めるOL・チチとその親友で財閥主の娘であるモリー、それぞれの婚約者とモリーの姉夫婦、怪しげな舞台劇で一躍有名になった劇作家バーディなど、様々な人々が交錯するこのドラマは、よくある青春群像劇の体裁をとっている。しかし・・・・。

 映画の種類としては“しゃれた都会派コメディ”ということになるのだろう。ドタバタありシチュエーション・コメディありでかなり笑わせてくれる。だが、ハリウッドのそれと完全に違う点は、喜劇でありながら恐ろしく緊張感が高いことだ。かといってブラック・コメディではなく、この映画独自の喜劇の方法論を完成させている(強いてあげれば一時期のウディ・アレンと通じるものがあるが、同じではない)。

 一見、安定しているような人間関係だが、その実それぞれ人には言えない確執を抱えている。チチは皆に好かれる女の子。親友モリーが経営する会社に就職し彼女の片腕として活躍している。しかし、マジメな彼女の態度は人によって偽善者よばわりされている。モリーは金持ちの家に育ち、何不自由なく毎日を送っているようだが、若くして大会社の社長になった彼女から見れば、近づいてくるすべての人間が何か下心を持っているようで落ち着かない。またそんな風に思ってしまう自分にも嫌気がさしている。

 チチの婚約者で公務員のミンは実直な青年でチチとは似合いのカップルと言われているが、父親が公職に就いていたとき汚職の罪で実刑をくらい、汚名を晴らすために仕事に打ち込んでいるが、滅私奉公的に公務に励み、周囲に同調して個性を殺す保守的な体制に自分を追い込むことが汚職を生む土壌だということに気が付かない。

 モリーの婚約者アキンは大企業の御曹司だが、頭がそれほど良くない。モリーの補佐役で狡猾なラリーの口車に乗ってモリーの会社に投資しているが、若い彼女が事業に失敗したら大株主である自分に頼るようになり、それだけ彼女との婚姻が早まるのではないかと本気で期待している。

 モリーの姉は本来アキンと結婚する予定だったが、大学時代の同級生で当時すでに流行作家だったサエない男と熱烈な恋に陥り結婚。人生は自由に生きるべきだというのがモットーの彼女は、現在テレビの人気ニュースキャスターであり、人生相談のコーナーも持っている。しかし、その夫はかつてあれだけ売れた恋愛小説から手を引き、重苦しい社会派作品を連発。どこの出版者からも見放され、妻との仲も険悪になり別居状態だ。

 劇作家バーディは友人モリーの世話になっていたが、珍妙な台湾オペラ風作品が思いがけずヒットを飛ばし、一躍時の人となる。オーディションを受ける女性には次々と役柄をエサに関係を迫り上機嫌だが、彼には実力はまったくなく、降ってわいたようなこの人気をどう維持するか悩んでいる。

 その他の登場人物も、何か一筋縄ではいかない悩みを抱えている。そしてヒロイン二人のそれぞれの婚約者との仲がおかしくなったことをきっかけに、すべての人々の悩みと不安が一斉に吹き出し混乱が始まる。彼らが持つ人間的弱点の描き方にはまるで容赦がない。性格、行動、主義信条に至るまで、その矛盾点すべてが白日の下にさらけだされる。これはハラハラするような一種サスペンスであり、冒頭“緊張感が高い”と述べたのはそのせいである。しかも、終わってみればこれはわずか二日間の出来事なのである(けっこう野心的な作劇だ)。

 ウディ・アレンの作品のモチーフの一つにユダヤ教があるが、この映画で取り上げられているのは儒教だと思う(パンフにも書いてあったから、たぶんそうだろう ^^;)。あまりの高度成長に儒教の美徳を忘れ去り、右往左往する登場人物だち。しかし単に、“儒教のよさを見直そう”という能天気な主題は提示されていない。西欧的物質文明と東洋的伝統社会が出会うとき、新しい価値観が生まれ、それに対応しようと煩悶するアジア民族の姿を鮮明にとらえようとしている。そして、爽やかなラストシーンは、彼らが持つ真の(プラスの)人間性を信じきっている作者の温かい視点が感じられる。喜劇の体裁を取りながら、実に奥の深いドラマだ。

 楊監督の精密機械のような演出。ハイテックな台北の街の風景を濃密な色彩でとらえるカメラ。ヒロイン二人を演じるチェン・シャンチーとニィ・シューチュンの素晴らしさ。完全にハリウッドの上をいく、世界一洗練された映像がここにある。
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「イントゥ・ザ・ワイルド」

2008-09-28 07:50:25 | 映画の感想(あ行)

 (原題:Into the Wild)ショーン・ペン監督の最良作だ。92年夏。アラスカ州の山岳地帯で廃棄してあるバスの中から若い男の遺体が発見される。死因は餓死で、ヴァージニア州出身のクリス・マッカンドレスであるとの身元も判明した。彼は大学を卒業してから全国を放浪した後、春先からたった一人でアラスカの荒野に分け入ったのだった。実際あったこの事件を元にしたジョン・クラカワーのノンフィクションの映画化である。

 粗筋だけを読むと、いかにも“自分探し”にウツツを抜かした若造がヘタ打って野垂れ死に、自己責任だから過度の同情は不要・・・・みたいな感想を抱きがちだが、これがまったくそうではないのだ。

 映画は二つの時制を平行して描く。一つは主人公がアラスカの荒野で廃バスを見つけて、およそ4か月後に死ぬまで。もう一つは大学を出てから身の回り一切のものを投げ捨て、アラスカにたどり着くまで。そうすることによって経済的に何不自由ない家庭に育ったクリスがなぜ行方をくらますに至ったのかが、観る者に納得できるレベルで説明することが出来る。

 ブルジョワであった両親は結婚するためにエゲツないことをやり、その後ろめたさから夫婦で諍いが絶えなかった。それが主人公の内面に悪影響を与えており、周囲と上手く折り合えない性格に繋がっている。彼の一件“現実からの逃避”とも思える旅は、高圧的な親とは袂を分かち、自分一人でどこまで生きていけるかを見極める“現実への挑戦”であったのだ。

 彼は旅の途中にこれまでの人生で会ったことのないタイプの人間たちと関わり合い、刺激を受け、教えを乞い、自分自身の糧とする。旅立つ時には親への反発に凝り固まっていた彼が、やがて周りの者から信頼される度量の大きさを身につけていく過程は、観ていて本当に気持ちが良い。その最後の仕上げがアラスカでのサバイバル生活であったはずだが、不幸なことにちょっとした準備不足から命を落としてしまう。

 ただし、逆に言えばそこでいなくなってしまうことで、ひとつの普遍的な“挑戦する若者像”を残すことが出来たのだと思う。私はこの映画の主人公を見て“今、何かをしなくちゃならないけど、何をして良いのか分からない”といった焦りにも似た切迫感を覚えていた二十歳前後の頃を思い出した。たぶんそれは、若い時分に誰しも抱くアイデンティティの確立に伴う悩みなのだと思うし、ペン監督も彼の生き様の中に自分の青春時代を重ね合わせたのであろう。

 主演のエミール・ハーシュは体重を大胆にコントロールしているせいもあり、迫真性のある大熱演だ。ナイーヴな内面の表現も申し分ない。エリック・ゴーディエのカメラによる、素晴らしいアラスカの自然の風景。エディ・ヴェダー(パール・ジャムのリードヴォーカルでもある)のフォーキーな音楽。結果としては悲惨な話なのに、観る者に切ない感慨を呼び起こす、青春映画の佳篇である。
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純銀コートのスピーカーケーブルを装着してみる。

2008-09-27 06:42:37 | プア・オーディオへの招待

 スピーカーケーブルを新たに調達したのでリポートしたい。英国QED社のSILVER MICROという製品だ。QEDはCHORDIXOSと共にイギリスの“三大民生用ケーブルメーカー”に数えられる会社で、1973年の設立から積極的な商品展開を行ってきたという。すでに何本かスピーカーケーブルは所有しているのにどうして今回購入する気になったのかというと、私が使用しているKEFのスピーカーの内部配線にQEDの線材が使われているという噂があるからだ。それが事実ならばスピーカーケーブルも同社で揃えることによって、よりスムーズな音の出方が期待できる。本当のことを言えば上位機種のSILVER ANNIVERSARY-XTを検討していたのだが、芯線が太すぎるので断念。幾分普及価格帯で口径が小さいSILVER MICROをバイワイヤリング接続することにした。

 このSILVER MICROはその名の通り芯線に純銀のコーティングが施してある(導体ベースには99.999 %の5N無酸素銅を採用)。通常、銀素材のケーブルを使うと繊細な音が出るらしいが、反面力感に関しては非メッキあるいは錫メッキのケーブルに比べて控えめだ・・・・ということを聞いたことがある。今回の新規調達はそれを確かめる意味もあったのだが、実装するまでに大きなハードルが存在した。とにかく皮膜が剥きにくいのだ。

 たぶんポリエチレン系だと思われる皮膜は、おそろしく硬い。しかも芯線と密着している。他社のケーブルのように適当なところに切れ込みを入れて、引っ張ればスポッと抜ける・・・・というわけにはいかないのだ。ケーブル自体が細いこともあり、この作業は思わぬ難行苦行となった。やっとのことでやり終えると、指が痛くてしばらくは物が掴めなかったほどだ。

 さて、苦労の末に装着を完了させて音を出してみる。パッと聴いて感じるのは、音が“湿っている”ということだ。もちろん“湿っている”というのは“音がショボい”ということではない。ウェットな、潤いのある展開が認められる。それまで使用していたBeldenやウエスタン・エレクトリックやKimber Kableといった米国製ケーブルのドライなタッチとはまったく違う。銀素材らしい高域のしなやかさは確かに感じられるし、低い方の力感も不満はない。

 ただし、どうも中低域に奥行きが無く平板な印象も受けた。ならばということで、CDプレーヤーとアンプとを繋ぐRCAケーブルを取り替えてみる。我が家のシステムで常時使っているRCAケーブルはMOGAMIのNEGLEX2534だ。クセのないフラットな特性でリファレンスたるクォリティを持っているが、ここでは純銀コートのケーブルの欠点をそのまま出しているのかもしれない。MOGAMIを取り外してQEDと同じく英国製のCHORDのCRIMSONを装着してみた。すると、中低音がスッキリとなり音場の見通しが良くなってきたではないか。高域の艶が増し、それまでのMOGAMIとBeldenのスピーカーケーブルによってモニター調に振られていた音色が、美音調に早変わりした。おそらくはKEFの開発陣が聴いていたのもこういう音ではなかったのかと思う。次に「吉田苑」のLSSCも試してみたが、こっちも悪くはない。ヴォーカルのリアルさではCHORDに勝っている部分がある。ただし前後の音場の再現性ではCHORDが上。よって、SILVER MICROと相性の良いのは同じ英国ブランドの製品ということになった。

 QEDのスピーカーケーブルはMOGAMIのような業務用ケーブルと同居させると良くないのかもしれない。ついでに同じ業務用であるBeldenの88760を使ったRCAケーブルも繋げてみたが、極端に音場の狭い薄っぺらなサウンドしか出てこない。ひょっとしたら業務用でも英国製のVITALのRCAケーブルを同時使用してみたら少しは違ってくるのかもしれないが、VITALは実家に置いたままなので確認できなかった。いずれ試してみよう。

 ただし、本音を言えば私は美音調でケーブル等のアクセサリーを詰めるのは苦手だ。ケーブル類はモニター調で揃えてスピーカーの“素”の状態で鳴らすのが好きなので、いずれはMOGAMIのRCAケーブルとBeldenのスピーカーケーブルに戻すことになると思う。しかしながら、ケーブルにもエージング(鳴らし込み)期間というものがあるらしいので、少なくとも向こう1か月間はQEDのスピーカーケーブルを使用してみることにした。もしもエージングにより何か変化が認められれば、またこのブログでリポートする予定である。
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「オーム・シャンティ・オーム」

2008-09-26 06:41:25 | 映画の感想(あ行)

 (英題:Om Shanti Om)アジアフォーカス福岡国際映画祭2008出品作品。これは素晴らしい。本映画祭で一番の収穫だと思う。お馴染みインド製娯楽映画で3時間弱の長尺だが、一時たりとも退屈するヒマがない。本国での大ヒットも十分うなずける出来だ。

 映画は二部構成だ。前半は70年代のボリウッド(ムンバイ市にある映画製作のメッカ)。駆け出しの若手俳優オームが人気女優シャンティに恋をする。彼の猛アタックで立場を超えて仲良くなり始めた二人だが、悪辣なプロデューサーの奸計にハマり彼らは非業の最期を遂げる。第二部はそれから30年経った現代のボリウッド。やり手の映画製作者の息子として“転生”したオームは自らの“前世”を知らないまま育ち、今では大スターになっている。だが、ふとしたことから“前世”の記憶が蘇り、罪を問われないまま今ではボリウッドの顔役になっているくだんの悪徳プロデューサーに対して復讐を誓う。

 随分と乱暴なプロットで、主人公の計画に参加するのがシャンティそっくりの新人女優だというのだから、御都合主義もいいところだ(笑)。しかし、この荒っぽい筋書きがボリウッドのフィルターを通ると血湧き肉躍る娯楽巨編へと変貌するのだから映画というものは面白い。

 興味深いのが前半部分だ。たとえ生活はシビアでも、皆明日への希望を失っていない楽天的な雰囲気が横溢するボリウッドの煌びやかさは目も眩まんばかりである。古き良きスター・システムが機能しており、映画が夢の商品であることを誰もが疑わなかった時代だ。主人公が親友と将来の希望を語り合う場面、大部屋女優だった母親とのやりとり、ヒロインを振り向かせるためにあの手この手を繰り出すオームの奮闘ぶり、そのすべてが微笑ましい。

 第二部は因縁話に持って行った無理が感じられるが、それでもインド映画界のバックステージものとして十分な存在価値を獲得している。終盤の、まるで「オペラ座の怪人」みたいな大仰な展開も楽しい(笑)。そして全編を貫く青年の成長物語としてのコンセプトは確固としたもので、ドラマツルギーにブレがない。

 これが第二作になるという女流ファラー・カーンの演出はパワフルそのもの。振り付け師出身というだけあって、ミュージカル場面の盛り上がりは凄まじい。ナクール・カンテとサンディープ・チョータによる楽曲も極上であり、観客の目を奪うカラフルが色彩設計も相まって、スクリーン上に祭が出現したかのような圧倒的なヴォルテージを獲得している。

 主演はシャー・ルク・カーンで、改めて思うのだが彼は“顔はイモいのに、全体的には垢抜けている”という得なキャラクターの持ち主だ。お笑い場面もキッチリこなし、歌と踊りのシーンではスターのオーラが爆発。本当に絵になる男である。そしてシャンティ(及び、そのそっくりさん)に扮するディーピカー・パドゥコーネには参った。女優のレベルが高いインド映画界でも一際目立つ超絶的な可憐さだ。新人ということだが、今後の活躍が期待される逸材である。とにかく、この映画は一度観たらウキウキした余韻が最低3日は続く一大エンタテインメントだ。一般公開を切に希望するものである。
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「パボ」

2008-09-25 06:41:36 | 映画の感想(は行)
 (英題:Babo)アジアフォーカス福岡国際映画祭2008出品作品。期待していなかったが、かなり楽しめた。韓国の地方都市に住む知的障害者の男を題材にした本作、イ・チャンドン監督の「オアシス」などに見られるようなハンディを負った者に対する(無意識的な)差別が感じられないのがポイント高い。

 そもそも原作がカン・プルによるネット漫画なので、障害者の生き様に徹底してリアリズムで迫ったような重さは回避され、多分にファンタジー方面に振られた作劇になっているのは仕方がない。それを代表するのが彼の幼なじみである若い女。彼女は欧州にピアノ留学していたが、スランプに陥り逃げるようにして故郷に戻ってきたのだが、いくら小さい頃からの知り合いとはいえ、小汚い格好でオドオドした態度の主人公と何のわだかまりもなく付き合うというのはいかにも絵空事だ。特に彼が履いている靴にまつわるエピソードは、かなりワザとらしい。



 しかし、甘いだけのモチーフに終始しないところがこの映画の取り柄だ。主人公の妹は高校生だが、障害を持つ兄をいつも恥ずかしいと思っている。早く両親を亡くし、たった一人の肉親の兄と一緒に暮らすしかない状況が、その苛立ちを一層募らせる。主人公の子供時代からの友人である男は街中で怪しげな飲み屋を経営している。やさぐれた日々を送る彼は障害者である主人公と付き合うことで、自らのコンプレックスの捌け口に利用している。

 主人公の一途な行動が彼らの心を開かせるという構図でドラマは進むが、そのあたりはいたずらに露悪的な捉え方をせず、適度にセンチメンタルな味付けを施し、本当に無理のない描き方が成されている。それだからこそ終盤近くの愁嘆場も作為性があまり感じられず、気持ち良く観られるのだ。特に主人公のヤクザな友人が店で働く若い女と想いを通わせるシークエンスは、しみじみとした情感が漂い好感度が高い。



 若手のキム・ジョングォンの演出は実に丁寧で、韓流作品にありがちな雑な部分はない。主演のチャ・テヒョンは熱演で、持ち味である人の良さを前面に出し、メンタルな障害を背負った人物像を嫌味なく表現している。ヒロイン役のハ・ジウォンも、いつもながらの勝ち気なテイストをチャームポイントに昇華させた妙演。硬質な美貌も健在だ。同じネット経由のネタとしては我が国の「恋空」なんかより数段上質で、観る価値は十分にある佳編だと言える。ノスタルジックな佇まいの全州の街の風景も素晴らしい。
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「すずめの唄」

2008-09-24 06:40:49 | 映画の感想(さ行)

 (英題:The Song of Sparrows)アジアフォーカス福岡国際映画祭2008出品作品。このところパッとしなかったイランのマジド・マジディ監督だが、この新作では「運動靴と赤い金魚」を撮った頃には及ばないまでも、かなりの復調ぶりを見せている。やはり、子供をダシに使うとイラン映画は強い(笑)。

 テヘランの近郊でラクダを飼育する牧場に勤めている主人公は、高校受験を控えた耳の不自由な娘の補聴器が壊れて困り果てている。さらにラクダが一羽逃走してしまい、多額の補聴器代と併せてこのままでは賠償金も支払わねばならない。切羽詰まった彼はアテもなくテヘランに出てくるのだが、ひょんなことからバイクタクシーの運ちゃんと間違われ、それから客を乗せては小金を稼ぐようになる。

 舞台挨拶に出てきたマジディ監督も言っていたように、本作の面白さは田舎でそれなりの充足していた生活を送っていた主人公が、都会と関わるようになって大きな変化を体験することにある。いくばくかの収入を得ることは出来たが、実は家族の為にはあまりなっていない。

 街で拾ってきたガラクタを庭先に積み上げ、大して役にも立たないそれらに対し所有欲を募らせる。近所の人々との付き合いもしっくりと行かなくなった。小学生の息子は古井戸で金魚を養殖することを考えつき、資金集めのため仲間と一緒に街で物売りまで始めてしまう。無邪気だった彼らが、都会絡みの利権(?)によって人の迷惑を顧みない困ったガキへと変貌してしまう様子はやるせない。

 もちろん主人公も子供達も終盤に手痛いシッペ返しを食らうことになるのだが、その有様は逃げたラクダのように道に迷っているばかりだ。もちろんここでは“田舎は良いけど都会は世知辛い”などという単純な二元論を唱えているのではない。田舎にだってアフガニスタンに出稼ぎする者がいたり、けっこうシビアな現実がある。そもそも何もない原野からバイクを少し飛ばせば先進国の大都市と変わらないテヘランの町並みが広がること自体、相当冗談がキツイと思うのだ。

 周囲が都会の論理に絡め取られていくプロセス、そして本来田舎にも蔓延していたドライな現実が都会とのアクセスによって顕在化していく、その愉快ならざる事態と諦観を過不足なく描いたあたりが、本作の手柄であろう。主演のレザ・ナジは好演で、この映画により第59回ベルリン国際映画祭で主演男優賞を受賞している。イランの茫漠とした大地と、即物的に捉えられるテヘランの風景も印象的だ。一般公開が待たれる佳作と言える。
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「マッド探偵(ディテクティブ)」

2008-09-23 06:28:19 | 映画の感想(ま行)

 (原題:神探)アジアフォーカス福岡国際映画祭2008出品作品。これは面白い。何より“自らを痛めつけることによって事件を解決する刑事”という主人公の設定が絶妙だ。しかも彼は“他人の心の闇を擬人化して見る能力”も身につけている。反面、重い精神疾患を抱えていて妻には逃げられ、警察も辞めるハメになる。その辞めるきっかけになったのが、定年を迎えた上司の歓送会で、いきなり自分の耳を切り取って“記念品”として渡すという常軌を逸した所業なのだから、まさに天才とキ○ガイのと分水嶺に立つ危険度100%の問題人物である。

 そんな彼が香港警察からの依頼で迷宮入りになりかけた警官失踪事件を解決するため捜査現場に復帰するのだが、当然ながら一筋縄ではいかない展開を見せる。重要参考人である失跡警官の同僚を追う主人公は、相手が7人もの“心の闇”を引き連れて行動していることを知って愕然とする。7人のうち親分格は若い女の姿をしていて、一番下劣な行動に出るのが太った男の格好をしているというのが笑えるが、彼らが現れる“主人公から見た情景”と現実の場面とのシンクロが絶妙で、観ている側は夢かうつつか分からないスリリングな映像体験ができる。

 さらに主人公は別れた妻の“残留思念”と生活しており、そこに実際の前妻が現れてバトルを挑んだりするのだから、興趣は一段と高まってゆく。被害者の行方を追うため自分で生き埋めになったり、暴飲暴食を演じたりと、マゾ的な荒行がエスカレートするのも見どころだ。

 監督ジョニー・トーとワイ・カーファイだが、ジョニー・トーの鋭角的な映像タッチは今回も健在。彩度を落としたストイックな画調もさることながら、クライマックスの“鏡を利用した銃撃シーン”は見事というしかない。シニカルな結末も含めて無駄な作劇というものが感じられず、これは上質の“大人の仕事”と言うべきだろう。

 主演のラウ・チンワンはまさに怪演。いかにも壊れそうで、壊れたついでに周りの者を全員道連れにしてしまうような危ういキャラクターを見事に表現している。日本の俳優にたとえれば“絶好調の時の田口トモロヲ”といったところか。彼のパフォーマンスに接するだけでもこのシャシンの存在価値はある。一般公開の際は見逃してはならないだろう。
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「881 歌え!パパイヤ」

2008-09-22 06:41:39 | 映画の感想(英数)

 (原題:881 )アジアフォーカス福岡国際映画祭2008出品作品。まるで気勢の上がらない映画だが、本作品が既に首都圏等では一般公開されたと知って少し驚いた。どう考えても客を呼べる要素はあまりないシャシンであり、何を考えて配給したのか理解に苦しむところである。

 シンガポールではお盆の季節になると街のあちこちに“ゲータイ(歌台)”と呼ばれるステージが設置され、そこでいろいろな出し物が催される。当初は伝統芸能だけだったらしいが、次第に歌謡ショーの体裁になり、今ではそこで客を取れるシンガーは“ゲータイ歌手”として絶大な人気を得るらしい・・・・といった風俗的興味だけが本作の身上である。ドラマ部分はまったく大したことがない。

 スターを目指す普通の女の子2人組(ミンディー・オン、ヤオ・ヤンヤン)が、事務所の女社長の身内である“ゲータイの女神”なるものから音楽的才能を得て“パパイヤ・シスターズ”としてデビュー。ヒットチャートを賑わせる活躍をするといった設定からしてバカらしい。そんな女神がいるならば誰も苦労はしないのだ。

 さらに一方の女の子は不治の病に罹っていることや、女社長の息子が淡い恋心を抱いていることなど、取って付けたようなモチーフが続く。そもそも女神の手助けで売れっ子歌手になったような連中に、観客が感情移入できるわけがないではないか。

 監督・脚本のロイストン・タンは本作が3本目の長編映画ということだが、テンポが悪く撮り方が下手で中盤を待たずして退屈でたまらなくなってくる。これ見よがしな拙いSFXで愛嬌を振りまこうという戦術も、ことごとくハズして笑いの一つも取れない。終盤のワザとらしい御涙頂戴の筋書きにも脱力だ。

 そして最大の敗因は、主人公達が歌う場面に魅力がないこと。もちろん御当地モノの強みで本場ならではのハデなステージングが展開されるが、一本調子で2,3曲聴いたら“もういいよ!”となってしまうのだ。だいたい私はこういう演歌路線は好きではない。音楽をネタにした映画を作る場合、たとえそのジャンルの音楽が苦手な観客でも映画を観ている間は好きにさせてしまうのが真骨頂だろう。それが出来ないのは、作り手に力量が不足しているからだ。キャストも魅力なく、ライバル役の“ドリアン・シスターズ”の方が見栄えがするのだから困ったものである。とにかく、あまり観る価値はない。
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「ポケットの花」

2008-09-21 06:35:34 | 映画の感想(は行)

 (英題:Flower in the Pocket)アジアフォーカス福岡国際映画祭2008出品作品。どうにも冴えない映画だ。舞台はクアラルンプールの下町。小学生の兄弟の日々を追ったドキュメンタリー風の映画だが、ストーリーに起伏がない。もちろん、アクセントになるエピソードを積み重ねればいいというものでもないが、これだけ工夫もなく映像が流れてゆくだけのシャシンは観ていて辛い。

 二人は古い集合住宅に住み、母親はいない。どうしていないのか、暗示させるようなものはない。父親はマネキン人形を作っている小さな工房を経営しているが、ドラマ的になぜマネキンなのかは分からないし、それが物語と絡んでくる様子はない。親子で会話する場面は終盤近くにならないと出てこないし、それどころか父親が帰ってくる時分は子供達は寝てしまっており、朝はまだ寝ている父親を起こすわけでもなく、さっさと自分たちだけで身支度をして登校してしまう。つまりはほとんど家族の体を成していないのだが、映画はそれについて何か言及しようという様子は見受けられない。

 兄弟二人と仲良くなろうとする近所の女の子とその家族の描写も、思わせぶりながら何も話が発展するところがない。二人が拾ってくる子犬が何か大きな事件を引き起こすのかと思っていたが、これも空振り。全体的に、ドラマの要点がまったく見えてこないのだ。

 わずかに興味を引いたのが、彼らは中国系でマレー語がうまく話せず周囲とのコミュニケーションが十分に取れないこと。おそらくは中国から移民して間もないのだと思う。学校ではクラスメートに“通訳”してもらわないと教師と意思の疎通も図れない。そのことをもって多民族国家マレーシアの実相を浮き彫りにしようとしたのかもしれないが、上手く活かせるような展開に持っていくことは出来なかったようだ。

 リュウ・センダックの演出には特筆できるようなものはない。釜山映画祭やロッテルダム映画祭で新人監督賞や観客賞を受賞しているとのことだが、それほどの才気はまったく感じられなかった。正直言って、あまり観る価値はないと思う。それにしても「ポケットの花」というモチーフが劇中にまったく出てこないが、これもよく分からない。
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