元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

ROTELのCDプレーヤーを購入した(その1)。

2014-05-31 06:47:00 | プア・オーディオへの招待
 CDプレーヤーを買い替えた。それまで使っていたプレーヤーはONKYOのC-1VLであるが、購入してすでに8年近くもなり、また回転メカであるCDプレーヤーは経年劣化が大きいことも考え併せて、今回の更改に踏み切った次第。また私が使っていたC-1VLは一度“音飛び”が発生したことがあり、修理に出しても原因不明で戻ってきたこともあって(その後、いつの間にか収束)、今後も長く使うことに対して懸念があったことも事実だ。

 新しい機種は、ROTELRCD-1570である。あまり聞かないブランド名だが、ROTELは1961年創立という、長いキャリアを持つ日本のメーカーだ。70年代までは積極的に商品展開をおこない、オーディオ雑誌などにも広告を出していたが、80年代に入って見かけなくなった。消滅したのかと思っていたら、英国人スタッフをチーフ・エンジニアに迎え、営業の軸足を欧州に移して存続していたらしい。10年ほど前から国内市場に“復帰”し、取扱店は限られるもののコンスタントに製品を投入している。



 もちろん、今回RCD-1570を選んだ理由はその音質に納得したからである。CDプレーヤーを選ぶにあたり、まず過度な音の色付けがあるものは除外した。“音の入り口”で強いカラーリングが施されていては、システム全体の使いこなしが難しくなるからだ。そして出来るだけ情報量が確保されているモデルが望ましい。

 斯様なスタンスで各メーカーの機種を試聴した後に候補に残ったのは、RCD-1570とONKYOのC-7000Rであった。後者はフラットで音の伸びは良いが中高域に硬さがあり、長く使う場合に“聴き疲れ”を覚えることも考えられ、また今まで使ったことのないブランドの製品を導入してみるのも面白いと思い、このROTELのモデルを入手するに至った。

 音を出してみると、C-1VLよりも明らかに分解能がアップしていることが分かる。細かい音が良く聴こえるようになった。しかも、各音像に不要なエッジが立っていない。音の表面(?)が滑らかに磨き上げられ、実に聴きやすい。音場はスムーズに広がり、某社製品みたいに余計な“(音色の)味付け”も感じられず、特定帯域での強調感もない。物理特性のみを重視するのではなく、ヒアリングによってサウンドの質感が練り上げられたような印象を受ける。



 接続するアンプを選ばず、使いやすい製品だと思う。もちろん30万円超の機器と比べれば差があるが、10万円台で買えるプレーヤーとしては音質を最優先に考えるユーザーに幅広く奨められる。

 ただし、ユーザーインターフェースの面では受け付けないリスナーもいると思う。なぜなら、この製品はトレイ式ではなくスロットイン形式を採用しているからだ。大半のプレーヤーは本体からCDを載せるトレイがスライドして出て来るのだが、RCD-1570はカーステレオのように前面パネルにあるスロットにCDを挿入させる方式を採用している。セットする際、大事なディスクに傷が付くのではないかという懸念を抱かれるのも当然だ。

 しかし、実際に操作してみると、盤面がダメージを負う確率はトレイ式とあまり変わらない印象を受ける。トレイ式ではディスクを載せるときと演奏が終わってトレイから取り出す際に乱暴に扱うとCDに傷が入る可能性があるが、スロットイン式ではCDを細いスロットに挿入するときに、無造作にやると上手く入らず、誤ってCDを床に落としてしまう危険性があると感じた。いずれにしても、ディスクは丁寧に扱いたいものだ。

 引き続き、使い勝手等に関して次のアーティクルで述べたい。

(この項つづく)
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「チョコレートドーナツ」

2014-05-30 06:28:33 | 映画の感想(た行)

 (原題:ANY DAY NOW )事実に基づいた映画であることを鑑賞後に知り、酷評するのを少し思い止まった。これがフィクションならば単なるお涙頂戴劇だろう。ディテールは粗雑だし、展開には無理がある。要するに通俗メロドラマのヴァリエーションとしての価値しかないが、実話ならば“こういうこともあったのだ”と納得は出来る。

 70年代のカリフォルニアで、歌手デビューすることを夢見ながらゲイ専用のキャバレーでショウダンサーとして日銭を稼いでいるルディと、同性愛者であることを隠しつつ社会正義を全うするために検察事務所に勤めるポールは、ルディが働く店で出会い恋仲になる。

 ある日ルディのアパートメントの隣に住む女が麻薬所持で逮捕され、その息子であるダウン症の少年マルコは置き去りにされてしまう。見かねたルディ達はマルコを家に招き入れ、彼らは家族のように寄り添って暮らすことになる。しかし、ルディとポールはゲイであるということで好奇の目にさらされ、当局側は理不尽にもマルコを二人から引き離そうとする。

 まず、主人公の二人がマルコを養育しようと思った根拠が明確に示されていないことに不満を覚える。育てる上で大きな困難が伴うことが予想が付く状態で、容易にマルコを引き取れるはずもない。そこには切迫した事情があったはずだが、ここではただ“可哀想だから”という表面的な事情しか見て取れないのだ。

 そもそも、ルディとポールがどうして惹かれ合ったのかという経緯も描かれていないではないか。何やら“ゲイ同士は、目と目が合うだけで直ちに懇ろになるものだ”という下世話な見方さえ窺われる。

 同性愛に対しての偏見が厳しかった時代、しかもポールは法曹関係者だ。自分たちの行動がどういう結果に繋がるか、分かるはずである。それをヘタに親権に拘って無理筋の訴訟を起こすなど、全然スマートに見えないのも痛い。

 確かに、ジャンキーの親に子供の養育を丸投げしてしまう当局側の措置は批判されても仕方が無いし、マルコのような境遇の子供を受け入れる施設の状態が良くないことも想像出来る。しかし、それらは別の問題だろう。“(環境が悪いから)ゲイのカップルに子供を委せても良い”ということにはならない。社会に対して何か言いたいことがあるのならば、主人公二人が同性愛者である必要も無かったのではないか。たとえば重い過去を背負った男女が恵まれない子供を引き取ろうとするような話ならば、訴求力も普遍性も増したはずだ。

 主演のアラン・カミングとギャレット・ディラハントは好演。特にルディに扮するカミングは、ナイーヴな表情とソウルフルな歌声により、観客の目を引きつける。しかしながら、映画のコンセプトそのものが練り上げられていない状態では、積極的な評価はしたくない。
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「ドラッグストア・ガール」

2014-05-26 06:24:45 | 映画の感想(た行)
 2003年作品。宮藤官九郎が脚本を手掛けたわりには、まあまあ楽しめる映画にはなっている。彼氏に振られた勢いでひょんなことから地方商店街の大手ドラッグストアでバイトすることになった女子大生と彼女に惚れ込んだ中年男どもが、ラクロスで町おこしに乗り出すという話だ。

 「釣りバカ日誌」シリーズの監督でもあった本木克英の作品らしく、珍しいプログラム・ピクチュア的な雰囲気を持つコメディで、本来なら「釣りバカ」の併映で封切られるのがふさわしいような体裁だ(上映時間も1時間40分という適度なものである)。



 作品の性格がハッキリしているので、柄本明や三宅裕司、伊武雅刀、六平直政、徳井優、余貴美子といった一癖ありそうな面々のベタな芝居も笑って許してしまう。出てくるギャグはさんざん使い古されたものばかりだが、テンポ良いドラマ進行のおかげで爆笑ポイントが満載。ヒロイン役の田中麗奈(体育会系が実に似合う)の魅力も十分活きている。

 ただし、ラクロスの日米対抗戦を巡る終盤はほとんど盛り上がらず(「少林サッカー」のマネはちょっとサムい)、登場人物の“その後”を描くべき部分もスッポリ抜けている。ドラマを締めくくるべきラスト近くの詰めが甘いのは、やっぱり宮藤脚本であるからか。もっと推敲が必要だったろう。個人的にはエンド・クレジットに流れるバグルスの「ラジオ・スターの悲劇」が懐かしかった。
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「WOOD JOB!(ウッジョブ) 神去なあなあ日常」

2014-05-25 06:41:03 | 映画の感想(英数)

 本作で妙に印象に残っているのは、主人公が両親と暮らしている家が安アパートの狭い一室であることだった。高校を卒業する息子がいる家族の住処としては、あまりにも質素だ。この父と母には(その言動から想像出来るように)甲斐性が無いのだろう。もしも一戸建てか少しは上等なマンションに家族が住めるような状況ならば、果たして主人公が林業なんかに興味を持ったのかどうか、すこぶる怪しい(笑)。

 ともあれ、矢口史靖監督が得意とする“ウンチク詰め込みムービー”(?)としては楽しめる。今回初めてオリジナル脚本ではなく、三浦しをんによる原作を脚色したというあたりも、この監督のフレキシビリティが増したことを示している。

 大学受験に失敗して進路が決まらない勇気は、何気なく目にした林業研修プログラムの案内チラシに、この業界の関係者と思われる美人の写真が載っていたことに大いに興味を覚え、何の予備知識もないままこの研修に参加する。期間は一年で、一ヶ月のオリエンテーションを経て、各業者の見習い社員として三重県の山奥で過ごすのだ。現地は都会っ子の勇気の想像をはるかに超えた僻地で、おまけに彼を待ち受けていたのは人間というよりも野獣と形容したくなるような先輩のヨキであった。

 ヘタレな若造が周囲の叱咤激励によって何とか一人前への道を歩き出すという、青春スポ根ドラマの王道を軸に、一般にはほとんど馴染みが無いと思われる林業という仕事のディテールを網羅し、終盤にはスペクタクル的な見せ場も用意しているという、文句の付けようのない体裁を取ったシャシンだ。

 散りばめられたギャグの水準も決して低くはなく、各キャラクターは十分に“立って”いる。もっとも、子供が山中で遭難したシークエンスにおけるオカルティックなモチーフや、ラスト近くの“祭”における主人公の行動の段取り、物見遊山で訪れる大学サークルの扱いなど、スマートではない作劇も目に付くところではあるのだが、作品の“勢い”の前では些細な瑕疵であると思う。

 主役の染谷将太はさすがに上手く、主人公の成長ぶりを遺憾なく出している。今回“海猿”から“山猿”に転向したヨキ役の伊藤英明は、直情径行型のマッチョマンを巧みに演じて好印象。光石研や柄本明、優香、西田尚美、マキタスポーツといった脇の面々も良い。

 ただし、ヒロイン役の長澤まさみはダメだ。誰でも出来る役であり、それ以前に彼女の演技力がデビュー当時からまったくアップしていないことに脱力してしまう。思い切ったイメチェンでも図らないと、先は長くないと思わせる。

 それにしても、冒頭にも書いたが中年になっても貧しい借家暮らしに甘んじている主人公の両親には、思わずシンミリとさせられる。ワーキングプアの連鎖を断ち切るには、林業への挑戦みたいな“大英断”が必要だということか。世相を反映している点も評価出来よう。
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「ドリームキャッチャー」

2014-05-24 06:57:08 | 映画の感想(た行)
 (原題:Dreamcatcher)2003年作品。かつては名脚本家であり、監督としても「偶然の旅行者」等の佳作を世に出したローレンス・カスダンだが、昔日の勢いはすっかり影を潜めてしまった。久々に演出を担当した当作品も、まるで気勢の上がらない三流SFスリラーでしかない。

 幼なじみの4人が雪深い狩猟小屋での、毎年恒例の休暇に結集。やがて、道に迷った瀕死のハンターを助けたことから、彼らは怪奇現象に襲われる。それは少年時代に彼らに起こったある事件と関連していた。スティーヴン・キング原作によるSF怪異譚。



 原作(かなり長い)は読んでいないが、まるで「スタンド・バイ・ミー」と「トミーノッカーズ」と「IT」を足して3で割ったような筋書きから判断するに、キング作品としても上等のものではあるまい。

 しかも、長大な小説を端折って脚色しているためか、ディテールが実に粗雑。第一、主人公たちを襲うエイリアンの“生態”がさっぱりわからず、何をどうしたら事件は解決するのか、観客にはほとんどわからない。物語の鍵を握る“主人公たちの幼なじみ”に関しても、説明がまるでないままラストにいきなり“活躍”してしまっては面食らうばかり。

 トーマス・ジェインをはじめとする主演の4人は印象が薄く、何とか作品に重量感を与えるために起用されたであろうモーガン・フリーマンも、ワケのわからない役柄を振られたせいか生彩を欠く。唯一の見どころはカイル・クーパーによる凝った冒頭タイトルのみ。とっとと忘れたい映画である。

 余談だが、中盤でエイリアンの“声”があたり一面に鳴り響く場面があるが、オーディオフェアでのAVシステムのデモにこのシーンが使われていたのには苦笑してしてしまった。なるほど、サラウンドにおける音像の定位をチェックするには絶好のソフトではある(爆)。
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「初春狸御殿」

2014-05-23 06:16:21 | 映画の感想(は行)
 昭和34年大映作品。福岡市総合図書館にある映像ホール“シネラ”で上映された市川雷蔵特集の中の一本だ。雷蔵の映画とはいっても「眠狂四郎」シリーズみたいな切れ味鋭いものとは全く異なり(笑)、全編にわたって脱力系の“御座敷芸”が披露されるだけの作品。映画全盛期にはこういう趣向のシャシンも存在価値はあったのかもしれない。

 舞台は狸の国で、カチカチ山の村娘お黒と狸御殿のきぬた姫が瓜二つだったことから起こる騒動を描いている。ハッキリ言って監督の木村恵吾もまともに映画作りをしているようには見えず、出演者に丸投げしているのがよく分かるような内容だ。登場人物がすべて狸であるというのも、送り手側の“マジメに観てもらっては困るよ”というエクスキューズとしか思えない。

 ただし、お黒ときぬた姫の両方から好かれる隣国の若君狸吉郎に扮した雷蔵が歌って踊るシーンを延々と見せつけられると“まあ、いいじゃないか”という気分になってくるのも事実だ。やっぱり雷蔵にはスターのオーラがある。

 相手役の若尾文子の美しさと存在感も見逃せないし、脇役に勝新太郎まで出てくるのだからちょっと嬉しくなる。ゲスト出演のマヒナスターズの面々もケッ作だ。

 狸が主人公なので子供向けかと思ったら何やらお色気シーンもあるし、一体どういう層を対象にした映画なのかと考えてしまったが、タイトルの“初春”というフレーズで一応合点が行った。これはたぶん正月にオッサンどもが年始回りの帰り(?)にホロ酔い加減で観るシャシンだったのだろう(爆)。酒が入ったまま密度の濃い映画に接するのは確かにツラい。斯様なグダグダの内容の映画が丁度良かったのかもしれない。
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「ロッカーズ」

2014-05-20 06:15:10 | 映画の感想(ら行)
 2003年作品。楽しめる映画だ。陣内孝則の長編映画初監督作だが、彼がかつて在籍していた福岡出身のバンド「ザ・ロッカーズ」をめぐる実録映画かと思ったら違った。ロッカーズが活躍していたのは80年前後だが、映画の舞台は(公開当時の)現代で、純然たるフィクションである。

 中村俊介扮する主人公と重い病気を抱えたギタリストとの関係や、彼が手術直後にコンテスト会場に現れて喝采を浴びたという話も出来すぎで、本当かどうかわからない。でも、陣内にとってそういうことはどうでもいいのだと思う。自分の昔の姿をネタにしてロックに打ち込む普遍的な青春像を描きたかったのだろう。



 物語を自己満足的にしないためか、はたまた自身の照れもあるのか、観客を喜ばせるためのギャグが数多く挿入されており、大いに笑わせてくれる。それぞれは使い古されたネタばかりなのだが、ロックンローラーらしい(?)リズム感で次から次へと繰り出され、考えるヒマを与えない(博多弁のノリも良い)。

 圧巻はコンサートのシーンで“さすが本職は違う”と思わせる素晴らしさだ。しかも、主人公達のバンドだけではなく、このコンテストに参加している他のグループの高い実力もそれぞれ短い時間ながら的確に紹介されており、その手際の良さに唸るばかりだ。

 クライマックスのライヴ場面の余韻で蛇足とも思えるエピソードも気にならない。サウンドトラックにはオリジナル音源ではなく、中村をヴォーカルに置いた新バンドで昔の楽曲をカバーしているが、これが殊の外よろしい。

 玉木宏や岡田義徳、上原美佐といった若手キャストが万全で、佐藤浩市や麻生祐未、大杉漣に小泉今日子、鈴木京香に中井貴一などの豪華なゲスト出演も楽しい。福岡を舞台にした明朗青春篇としては「博多っ子純情」以来の快作であると思う。
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「ブルージャスミン」

2014-05-19 06:23:08 | 映画の感想(は行)

 (原題:Blue Jasmine)とても面白かった。悲惨な話なのだが、笑いが絶えない。その笑いはもちろん表面的なものではなく、対象を冷徹に“分析”した上で、そのチグハグさを滑稽な形で提示しようという、高度な技巧から来るものだ。それを易々とやってのけるウディ・アレン御大の腕前は、年を重ねてますます磨かれていると言って良い。

 主人公ジャスミンは投資会社を経営している実業家の夫とニューヨークでセレブな生活を送っていた。しかし、旦那のやらかした不正取引によって結婚生活は破綻。資産もすべて抵当に入り、無一文の状態でサンフランシスコに住む妹ジンジャーの家に身を寄せる。ところが決して裕福では無い妹の厄介になっているにもかかわらず、ジャスミンはセレブ気分が抜けきらない。周囲は一応気を遣ってくれるものの、慣れない環境で精神的に参ってしまうような毎日だ。

 そんな時、彼女はあるパーティで資産家である独身男性のドワイトと知り合う。彼は外交官で、近い将来政界に進出しようと考えている野心家。ドワイトこそが自分を“あるべき場所”にカムバックさせてくれる人物だと思い込んだジャスミンは、自分の身の上について嘘を並べてしまう。

 これは単に“勘違いした元セレブ女が身の程をわきまえずにヘタ打った”という底の浅い話ではない。彼女がメンタル面で追い詰められていくのは、ジンジャー達とのぎこちない関係や今までとは勝手が違う西海岸の風土のせいではないのだ。ニューヨークで夫と優雅な生活を送っていた頃から、内面的に万全な状態とは言い難かった、それどころか、子供の頃から本当の愛情に恵まれず、他人とまともにコミュニケーションを取る能力が欠如していることが示される。

 映画はサンフランシスコでの不遇な日々と、ニューヨークの一見リッチな生活とを交互に見せるが、その手法がヒロインのニューロティックな中身の描写を容赦無いものにしていることに感心する。同時に彼女を取り巻く連中の品位の無さも強調しているが、そんな彼らの噂話や当てこすり等に対して全く“免疫”を持ち合わせておらず、知らぬ間に孤立しているジャスミンの姿は悲しい。

 しかし、そういう認識のズレを一歩も二歩も退いた地点から眺めて“笑い”に転化させてしまう作者の力量には恐れ入るばかりだ。皆から理解されない主人公も、小市民的なメンタリティから一歩も出ることが無い周りの者達も、離れて見れば“同じ穴の狢”なのだ。突き放したような終盤の展開も、むべなるかなと思わせる。

 主演のケイト・ブランシェットは絶好調。演じててさぞや気持ちが良かったろう。ジンジャーに扮するサリー・ホーキンスや、ピーター・サースガード、アレック・ボールドウィンといった脇のメンバーも良い仕事をしている。ハビエル・アギーレサロベのカメラによる風光明媚なサンフランシスコの街の描写や、古いジャズを活かした音楽も要チェックだ。
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北海道フェアに行ってきた。

2014-05-18 08:14:00 | その他

 5月15日(木)から18(日)にわたって福岡市中央区の福岡天神中央公園で開催された「第3回北海道フェアin福岡 ザ・北海食道」に足を運んでみた。北海道発の美味しいものを食べさせようというイベントなのだが、デパートなどで開かれる北海道展などとは違って、屋外で飲み食い出来るというのがセールスポイントだ。アウトドアで食事すれば美味しさが倍加するというのは誰しも経験していることで、しかも好天に恵まれ、会場はかなりの混雑だった。

 私と嫁御はラーメンと焼きトウモロコシ、そして夕張メロンのエキスを使用したソフトクリームを食したが、いずれも素晴らしく旨かった。値段は高めだが、それも許せるほどの味だ。ただ、数千円の海鮮丼の屋台に長い列が出来ていたのにはビックリ。消費税率アップで庶民の財布のひもは固くなったはずだが、美味しいものには糸目は付けないということだろうか。

 そういえば、私が北海道に行ったのは随分昔だ(もちろん、独身時代 ^^;)。その時食べたものにも“ハズレ”がなく、かなり満足して帰ってきたのを覚えている。余裕が出来たら、また行ってみたい。
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「プリズナーズ」

2014-05-17 06:36:12 | 映画の感想(は行)

 (原題:Prisoners)ドゥニ・ ヴィルヌーヴ監督の前作「灼熱の魂」と同じく、これは“有り得ない話”である。しかし、主に戦争という(観客からすれば)非日常の状態にあるレバノンに舞台を設定した前回は、その“有り得ない話”を“有り得るかもしれない話”に移行させることが可能なバックグラウンドを持っていた。対して本作にはそのような御膳立ては無いため、いつまで経っても話は“有り得ない”ままである。そのためインパクトの弱さは否めない。

 ペンシルヴァニア州の田舎町に住むケラー・ドーヴァーとその家族は、11月の感謝祭の日には全員で近所の友人バーチ家に向かい、そこで会食するのが恒例行事になっていた。ところが親が目を離した間に、ケラーの娘で6歳のアナとバーチ家の7歳の娘ジョイが行方不明になってしまう。失踪当時近くに停まっていた不審な車の情報から、警察は近所に住むアレックスという知的障害を持つ青年の身柄を確保。しかし物的証拠が無く、彼は釈放されてしまう。

 アレックスが事件に関わっていることを疑わないケラーは、何とアレックスを誘拐して廃屋に閉じ込め、殴る蹴るのリンチを加えて口を割らせようとする。一方、この事件を捜査していた地元警察署のロキ刑事は、少ない手掛かりを集めて一歩一歩真相に迫ろうとしていた。

 ケラーはリバタリアニズム(完全自由主義)という極めてアメリカ的な思想を持ち合わせている。つまり“いつ何があっても対応出来るように備えておく”というスタンスだ。この設定が成された時点で、置いて行かれる観客がいると思う。こんな考え方は、日本人とは相容れないものだ。

 さらに彼が(いくら“娘のため”とはいえ)アレックスに対し虐待の限りを尽くすというのは、これまた理解出来ない。決定的な証拠があれば警察がとうの昔に勘付いているし、それが無かったから釈放されたのである。ケラーの暴挙を弁護するような見方は、どうしても出来なかった。

 さらに、この映画のプロットは脆弱だ。そもそも、どう考えても真犯人の動機が分からない。宗教的な絡みがあるので納得出来ない部分があるとはいえ、随分とアバウトな作劇ではある。途中、重要参考人の一人が自殺してしまうくだりがあるが、この段取りはいい加減で興ざめだ。元神父の地下室で発見された死体が何か語っているようで、ほとんど何も事件の全容を示唆していないのにも呆れる。

 この話が前作と同じような無法地帯で展開されるのならば、まさに“何でもあり”といった感じで受け入れられるのかもしれないが、日常的な時間が流れているアメリカの街中で斯様なトンデモなストーリーが綴られるというのは、違和感が大きい。

 主演のヒュー・ジャックマンをはじめロキ刑事役のジェイク・ギレンホール、そしてヴィオラ・デイヴィス、マリア・ベロといったキャストは熱演だが、映画自体が“宙に浮いた”ような出来なので、評価は出来ない。2時間半付き合った結果は、疲労感の方が大きかった。
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