元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「つぐない」

2008-04-30 06:28:17 | 映画の感想(た行)

 (原題:Atonement )凝った仕掛けに賛否両論別れそうな映画だ。私はというと、エクステリアの見事さと俳優陣の着実な仕事ぶりには感心させられるので悪い評価は与えたくはないが、さりとて諸手を挙げて褒め上げることも出来ないといった、微妙な立場を取ることになってしまった。

 1930年代のイギリス。郊外の大邸宅で暮らす上流階級の娘セシーリアと、女中頭の息子ロビーは相思相愛だが、セシーリアの妹ブライオニーの誤解とジェラシーが“ある事件”の濡れ衣をロビーに着せることになり、悲劇の幕が上がる・・・・といった筋書き。設定だけ見れば、身分違いの恋を迫り来る戦争の影をバックに紡ぎ出したメロドラマだ。

 屋敷が舞台となる前半部分は「プライドと偏見」でもクラシカルな意匠の妙味を存分に表現したジョー・ライト監督らしく、悠然としたタッチで英国の富裕層の生活を映像化する。吟味された時代考証による衣装デザインや美術は溜め息が出るほど美しく、また故意に時制を前後させる進行を時折挿入させることにより、ゆったりしているように見えて緊張感を持続させることに成功。

 冒頭のブライオニーの叩くタイプライターの音がそのままドラマ展開の通奏低音となり、またブライオニーの神経質な歩き方をはじめ、少ないショットで登場人物の性格を印象づける手際は大したものだ。

 しかし、ブライオニーが戯曲を執筆しているという前振り(およびタイプ音)が、映画全体の“伏線”であったことが判明する後半は、いったいどう捉えるべきなのか。第二次大戦に従軍する羽目になったロビーが体験する夢ともうつつとも付かぬ足取り、罪の意識を背負ったブライオニーと頑なな態度を崩さないセシーリアとの確執、それらが虚実取り混ぜたようにシュールに進む中盤以降は、例えてみれば鈴木清順監督の「ツィゴイネルワイゼン」や「陽炎座」などに近いアプローチかもしれない。

 けれども、物語の基盤が過ちを犯したブライオニーの“悔恨の念”であるとの建前はどうなってしまうのか。作者サイドとしては前半は“事実”であり、後半は“絵空事”だということにしたいのだろうが、ラストの“オチ”から勘案すると、そもそもこの話自体が最初から“あり得る”のか“あり得ない”のかも疑わしい。

 もちろん、映画の実存をわざと曖昧模糊としたままで観客を挑発する方法論もあって良い。ただ本作に限っては、メロドラマという映画の骨格にそんな仕掛けを弄するほどの必要性があるのかと思ってしまうのだ。いわば、物語をひっくり返して驚かそうとしたものの、ひっくり返す箇所を間違えて映画自体が御破算になる危険性に曝されてしまったということだ。イアン・マキューアンによる原作がどういう構成になっているのか知らないが、映画を観る限りこういう手法は掟破りだと言われても仕方がない。

 ヒロイン役のキーラ・ナイトレイ、ロビーを演じるジェームズ・マカヴォイ、幼いブライオニーに扮したシーアシャ・ローナンはじめ、キャストは盤石。ダリオ・マリオネッリの音楽も素晴らしい。ただし、釈然としない感じはいつまでも残る。評価の難しいシャシンだ。
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今野敏「隠蔽捜査」

2008-04-29 06:25:55 | 読書感想文
 なかなか面白く読めた。何より、警察小説としては切り口が斬新だ。主人公の竜崎伸也は40代の警察庁キャリア。ひょんなことから現職警官が手を染めていると思われる連続殺人事件に関わり、事態の収拾に奔走する様子を描く。

 通常このような設定だと、事件をきっかけに現場要員との鍔迫り合いが発生し、キャリアとノンキャリアとの確執とか、エリートは現場が分かっていないといったお決まりのモチーフが出てくるものだが、本作には見事なほどそれがない。だいたい所轄の人間さえ必要最小限の頭数しか出てこないし、容疑者さえ直接顔を出すことはないのだ。

 では何がドラマのメインかといえば、キャリア同士の微妙なパワープレイである。これはクライム・サスペンスというより、エリートとしての身の処し方を諄々と説いた、教養小説みたいなものである。

 竜崎は実に鼻持ちならない奴として登場する。自身が東大卒であるためか、東大出身者以外の官僚を完全にバカにしている。自分の息子は浪人中だが、実は有名私大に合格していたのを、竜崎が“東大以外は大学とは認めない!”とばかりに無理矢理入学を辞退させたのだ。かと思えば、結婚を控えた娘に対しては“女には学歴なんぞ不要だ”という感じで、まったく教育に無関心を決め込む。当然、出世欲は並はずれて強い。

 ハッキリ言って、そばにいたら一発ブン殴ってやりたいほどの嫌な野郎だが、実は地位と経歴ばかりに凝り固まっている男ではないことが次第に分かってくるのが興味深い。彼は“自分は他の者とは違うエリートだからこそ、誰よりも警察官僚として公共の福祉に尽力するべきなのだ”という強い自負がある。

 私立大卒で如才ない同期生がその明け透けな人柄で人気を集めているのとは対照的に、峻厳で取っつきにくい雰囲気ながら、読むに従ってこういう男こそが警察組織に一番必要なのだという説得力を感じてくる。さらに、息子の不祥事で窮地に立たされるが、それを乗り越えることによって彼もその家族も人間的に成長していく様子も描かれ、読後の感想は良好だ。

 よく“上に立つ者は、太っ腹なところを見せねばならない”と言われるが、実は原理原則を前面に掲げてしっかりと筋を通すことが、清濁併せ呑む鷹揚さよりも数段大切なことなのだということを教えられる。竜崎みたいな奴が周囲に何人もいたらそりゃ鬱陶しいが(笑)、官庁に限らずあらゆる組織には必ずひとつのセクションに一人はいて欲しい人材である。吉川英治新人賞受賞作にふさわしい快作だ。
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「アメリカを売った男」

2008-04-28 06:37:17 | 映画の感想(あ行)

 (原題:Breach)見応えはあるが、欠点も目立つ。国家機密を20年以上ソ連に漏らし続けたFBIのベテラン管理職と、彼を探るために部下として投入された若い捜査官との心理戦を描く、事実に基づいたサスペンス編だ。

 一番納得できないのは、長きにわたって二重スパイを演じてきたこのFBIエージェントの、内面がまったく描けていないこと。有り体に言えば、機密を東側に流して多くの工作員を犠牲にさせた、その理由が分からないのだ。

 扮するクリス・クーパーは確かに見事。堅物かと思うと妙にチャーミングなところがあるし、マジメ一徹みたいに見えて、実は妻との情交をビデオに撮って仲間に流す等の変態的行為に及んだり、一筋縄ではいかない矛盾だらけのを人物像を嬉々として演じている。ただし、おかしな人物だから機密を敵国に流したのだ・・・・という図式には持って行けないのは明らかだ。

 確かに実力はピカイチだと自負しつつも、現場を知らないエリート連中に主要ポストは押さえられ、自分はクソ面白くもないデスクワークを強いられながら定年を迎えようとしているという、その鬱屈は見て取れる。熱心なカソリック教徒であるだけに、WASPが幅を利かせるアメリカ社会の状況にも我慢がならなかったと予想も出来る。だが、それだけでは自らの地位を危なくしてまでも国家に反逆しなきゃならない動機には成り得ない。

 さらに、彼は用意周到でありながら大事なところでミスをしている。多くの銃器を車のトランクに入れっぱなしにしたり、電波発信器の存在に思い当たりながら何もしなかったり、そもそも怪しげな行動が目立つ若い部下を簡単に信用してしまうこと自体、まるで納得できない。ひょっとしたらこれらの不手際は“捕まりたいというマゾヒスティックな願望”の表出かもしれないが、いずれにしろ釈然としない部分が多い。

 ビリー・レイの演出は「ニュースの天才」の頃よりは進歩しており、サスペンス場面も地味ながらけっこう見せる。ただし脚本の詰めが甘く、何やら“実録物”という題材に寄りかかっているようで愉快にはなれない。実話だからこそ、周知の事実以上の映画ならではの“真実”を描出すべきであっただろう。

 若手捜査官を演じるライアン・フィリップは悪くないが、C・クーパーの前では線が細く見える。それよりも彼の“真の上司”に扮したローラ・リニーが印象的だ。器量は決して悪くないのだが、FBIの仕事をこなすために私生活を犠牲にした挙げ句いつの間にか中年になり、今では孤独な日々を送るのみ。キャリアウーマンの悲哀を感じさせて出色だった。タク・フジモトの撮影とマイケル・ダナの音楽は申し分なし。
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「オアシス」

2008-04-27 21:29:55 | 映画の感想(あ行)
 (英題:Oasis )2002年韓国作品。監督・脚本は「ペパーミント・キャンディー」のイ・チャンドンで、その年のヴェネツィア国際映画祭で監督賞と新人賞(ムン・ソリ)を受賞している。

 健常者と障害者との恋愛というテーマ以前に、落伍者にはとことん冷たい韓国社会の実態に慄然としてしまう。ソル・ギョング扮する前科者の主人公は少し頭が弱いが故に家族からは除け者にされる。そしてラスト近くに明かされる“服役の真の理由”のあまりの理不尽ぶりには涙も出ない。

 ムン・ソリ演じる脳性麻痺の女は当局側の障害者向けの優遇措置を全て兄夫婦に奪い取られ、住処も追い出されてろくな教育も受けないまま狭いアパートの一室に押し込められている。そんな二人が出会って愛し合うようになっても、周囲はこの関係をまったく理解できないというより、存在それ自体が何か汚い物であるかのように白い目で見る。昨今人情が失われてきたと言われる日本でも、これほどまでに酷くはない。

 さらに困ったことに、障害者を取り巻く社会状況が最低レベルであるという事実は、ハンデを負った人間を映画が描く上で達成される水準も低く成らざるを得ないのだ。要するにこの映画は“障害者でも恋愛しますよ”とか“障害者も心の中は健常者と変わりませんよ”とかいう当たり前のことを滔々と説いているに過ぎない。そんな当然のことを映画でわざわざ取り上げなければならない事情そのものが悲しいと言える。

 主演の二人は好演で、特に障害者にしか見えないムン・ソリが幻想の世界で“健康体”になって主人公とランデブーする場面は泣けてくる。しかし、映画全体の設定が“前近代的”であるため、素直に感動できないのが辛いところだ。同様のネタを扱った我が国の「ジョゼと虎と魚たち」に比べれば感銘度は随分落ちると言わねばならない。
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「フィクサー」

2008-04-19 07:13:53 | 映画の感想(は行)

 (原題:Michael Clayton )かなり“薄味”の映画だ。それはジョージ・クルーニーの“カッコつけ”のために作られた(らしい)ことが大きいと思う。

 クルーニー扮する中堅弁護士は、若い頃には理想を掲げて法曹界に入ったものの、妥協と御為ごかしがはびこる現場の実態に失望し、ところが自らには状況を打破するだけの甲斐性もなく、今ではしがない“もみ消し専門”の仕事屋(フィクサー)に身をやつしている。さらには本業だけでは食っていけないとばかりに始めた食堂経営が失敗し、けっこうな額の借金も抱えている。そんな彼が、所属する法律事務所が抱える公害訴訟にコミットすることになり、身体を張った活躍をする・・・・というのが粗筋。

 要するに“やさぐれ弁護士が改心して真摯な働きをする”といった過去にも見たようなパターンの映画なのだが、主人公が法廷弁護士ではなく雑事を引き受ける下っ端だというのが新味だろうか(実際、彼は最後まで法廷に出ることはない)。こういう設定のドラマを観客に納得させるためには、主人公が重い腰を上げて大仕事に乗り出すための動機付けが重要だ。しかしこの映画ではそれが不十分。

 劇中では長年その訴訟を担当してきて、挙げ句に精神に変調を来した主人公の僚友(トム・ウィルキンソン好演)の存在がクローズアップされており、クルーニー弁護士は彼を放っておけずに手助けするという持って行き方をしているが、それでは弱い。まずは事件の理不尽さと、当事者企業の対応のいい加減さを徹底的に描出すべきではなかったか。原告の何人かにシビアなセリフを吐かせるぐらいでは、とても追いつかない。

 敵役として登場する企業側の女流弁護士の方がよっぽど存在感がある。彼女は知的でキレ者らしい容貌を持ち、表面上は徹底して理詰めの行動を取りながら、その実自分の置かれた立場が揺らぐことに対して絶えず恐怖心を持っている。普段は論理的であるからこそ、追い込まれると逆にその論理に絡め取られてしまい、ついには思いっきり“非論理的なこと”に手を染めてしまう。そんなインテリの弱さというか、女性であることの脆さというか、リアルな人間像を提示させることに成功している。演じるティルダ・スウィントンが素晴らしく、オスカー獲得も納得だ。

 ただしウィルキンソンとスウィントンとの間に挟まれてしまうと、クルーニーの仕事ぶりはドラマを引っ張る上では力不足の役柄だと思われてしまう。そんな頼りない男を主人公にしなくてはならない企画だから仕方ないのかもしれないが、もうちょっと存在感のある芝居をして欲しい。

 終盤のプロットも万全ではないではないだけに、観賞後の味わいには欠けると言うしかない。これが監督デビュー作となるトニー・ギルロイの演出は粘りが足りない。ジェームズ・ニュートン・ハワードの硬派な音楽は快調で、ロバート・エルスウィットのカメラによる寒色系の映像は効果的であっただけに、惜しい出来だ。
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「第5回九州ハイエンドオーディオフェア」リポート(その3)

2008-04-18 06:33:22 | プア・オーディオへの招待

 この催しにはヴィジュアル部門の展示もある。ハイヴィジョン用ディスクの規格がブルーレイに統一されたせいか、以前のイベントならばNHKのハイヴィジョン放映を録画したものなどを流していたのが、今回は市販ディスクを採用してのデモばかりだ。すでにアメリカでは映画のブルーレイディスクが日本円にして2千円ほどで売られているらしく、DVDからの移行はかなりの短期間になると予想される。

 高精細プロジェクターも数年前に比べて価格も下がってきているし、ここでデモされていた120インチのスクリーンとDLP方式(あるいは、それと同等のスペックを持つ機器)のプロジェクターという組み合わせは、一戸建て(特に新築時)におけるホームシアターの“定番”になるだろう。ただし、会場では画像抜きの音声だけのパフォーマンスも行われたが、どんな高価なAVアンプを揃えようと、サウンドだけならばその4分の1あるいは5分の1の価格のピュア・オーディオ用ステレオアンプの音質しか得られない。AVシステムとピュア・オーディオシステムとは別個に揃えるのがベターだ。

 あと、アナログコーナーも新設され、アナログプレーヤーの新作も数多く展示されていた。80年代にCDが市場に現れてから“もう長くはない”と思われていたアナログレコードは、今でもしっかり生き残っているだけではなく、新たなファンも獲得している。CDプレーヤーと比べてアナログプレーヤーはユーザー側で手を加えられる余地が相当大きく(何しろ、カートリッジから出力される「リード線」と呼ばれる細く短いケーブルを替えるだけでも大きく音は変わるのだ)、趣味性はかなり高い。今後も音楽メディアの一角を担うことになるだろう。それにしても、米国McIntosh社の新作プレーヤーのデザインには笑ってしまった。

 さて、例年になく賑わった今回のイベントだが、あくまでも「ハイエンドオーディオフェア」であり、普通のカタギの勤め人が気軽に手を出せる価格帯のものは最初から対象外になっていたのは不満だった。もちろん、オーディオ好きにとって各社の最上位クラスのものを聴くのは楽しいが、オーディオファンなど音楽ファン全体からみればごく一部である。再生装置の質にはまるで関心のない大多数の層を取り込むイベントを開く方が、よっぽど業界のためになるのではないか。

 たとえばiPodなどの携帯プレーヤーからどれだけのパフォーマンスを引き出せるか検証したり、ミニコンポと廉価版ピュア・オーディオシステムとの聴き比べをやったり、コンポに付属しているケーブルと市販ケーブルとの性能の違いを明らかにしたり・・・・といった、一般ピープル(特に若年層)にも身近に感じられる分野から積み上げるイベントがあってもいい。いわば「ハイエンド」ならぬ「ローエンドオーディオフェア」(笑)みたいなのを開いたらさぞや面白いだろう。

 また、会場の福岡国際会議場は広々とはしているが、交通アクセスがあまり良くない。ここは天神のような繁華街で開催してもよかった。ついでにモーターショーみたいにキャンペーンガール(もちろん、露出度多め ^^;)を多数配備すれば、それ目当てのオッサンどもやカメラ小僧なんぞも多数動員出来て大層な賑わいになると予想できる(激爆)。ともあれ、昨今のオーディオ不況にあって、限られた愛好者を相手にするのもいいが、もっと顧客の幅を広げるような施策を打つことも大切ではないかと思う今日この頃だ。

(この項おわり)
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「第5回九州ハイエンドオーディオフェア」リポート(その2)

2008-04-17 06:43:11 | プア・オーディオへの招待

 オーディオシステムの音の方向性を決定するのはスピーカーなので、今回のイベントでも主な興味の対象はスピーカーだった。嬉しかったのは、米国JBL社の往年の名器である「Paragon」の音を聴けたことだ。今まで写真でしか見たことがなかったのだが、実物に接するとその存在感にビックリ。そして音を出してみると二度ビックリである。音色は明るく闊達な“お馴染みのJBLサウンド”なのだが、表情が豊かで思わず引き込まれてしまう。もちろん、試聴機は40数年前に作られた製品だけあってレンジは狭く解像度も低い。鳴らせるジャンルも古いジャズ限定みたいなところがある。しかし、聴かせどころというか、ツボというか、そういうのを設計者が完全に熟知したような音造りには感心するしかない。ユニークな外見も相まって、電気製品というより楽器のような印象を受ける。楽しい音を出すことにかけては、同社の現行のハイエンドモデル「EVEREST」より上だろう。

 初めて聴いたブランドとしては、ドイツのQUADRALが印象に残った。上級機種の「TITAN VII」はその怪異な容貌とは裏腹に、実に聴きやすい音を出す。音像に滲みや歪みといったものが全く感じられず、解像度も特上クラスだ。音場のゆったりとした展開も魅力的。オーストリアのBosendorfer社はピアノのメーカーでもあるらしく、ピアノの響板の原理を応用した独自のエンクロージャー構造を採用している。そのせいか、外見は実に薄手に仕上げていながら、音は朗々とした恰幅の良いものだ。しかも嫌味が無く音場も深い。キレの良さも兼ね備えていて、オールジャンルこなせそうだ。

 フランスのFOCAL_JMlabは随分前からオーディオファンの間で名を知られていたスピーカーのブランドだが、私はその上級機種のサウンドに接するのは初めてだった。これはもう絵に描いたような美音調で、ヴォーカルや弦楽器の艶と色気は捨てがたい魅力だ。ただし、駆動するアンプやプレーヤーには色付けの少ないものが求められよう。イスラエルのYG ACOUSTICS社のスピーカーは奇態なルックスながら何を聴いてもスムーズで余裕が感じられる。特にエンクロージャーの構造からか、上下方向の音場の再現性には目覚ましいものがある。

 あと、他にも多くの海外ブランドに接してみたが、当然の事ながらそれぞれに個性がある。サウンド面でのアプローチはそれぞれ違うが、とにかく音楽を楽しく聴かせようと腐心していることはどのメーカーも一緒だ。しかし、これが国内メーカーだと様子が違ってくる。PIONEERとSONYの最上位スピーカーも展示・デモされていたが、価格だけなら海外のハイエンド機と比べてひけは取らないものの、出てくる音がまったく面白味がない。確かに物理特性は凄いと感じる。解像度も分解能も、そしてレンジの広さもかなりのものだ。しかし、聴いていて楽しくない。

 有り体に言ってしまえば、国産スピーカーは音が暗いのだ。

 海外製スピーカーはメーカーによってキャラクターが異なるものの、ほとんどのブランドに共通して言えることは、音が明るいということ。設計者のポリシーの違いというより、国民性かもしれない。日本のメーカー(一部のガレージメーカーを除く)の開発姿勢は音楽の楽しさを伝えようというより、微分的に欠点を潰していくことを第一義的に考えられているようだ。これは個人的極論だが、日本の大手メーカーはピュア・オーディオ用のスピーカーを開発する必要はないんじゃないか。そもそも設計者が音楽好きではないと思われるので、何をやっても無駄だろう。

(この項つづく)
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「第5回九州ハイエンドオーディオフェア」リポート(その1)

2008-04-16 21:56:24 | プア・オーディオへの招待

 去る4月11日から13日にわたって福岡市の福岡国際会議場で開催された「第5回九州ハイエンドオーディオフェア」に行ってきたのでリポートしたい。今回は例年になくメーカーや販社のスタッフが多かったように思われ、それぞれが扱う商品のアピールに余念がなかったが、その中で一番興味深かったのが、マニア向けブランド「ローゼンクランツ」を展開するカイザーサウンド有限会社の主宰者のレクチャーである。

 表向きは新製品のスピーカー「The Musicality」のデモということになっていたが、演奏の途中で突然音を絞ると、セッティングについての講義を始めた。彼曰く、会場で使われていたスピーカーは室内全体に同じ音像・音場が行き渡るように配慮されているという。着席していた参加者を立たせて、部屋の中のどこでもいいから、任意のところで聴いて欲しいと要望。実際にスピーカーの向いていない箇所で聴いてみたら・・・・なんと、彼の言うとおり同じ音像・音場を認めることが出来るではないか。さらに、絶妙にバランスが取れているというその状態から、ほんの5,6センチ片方のスピーカーを移動してみたら・・・・驚くことに、完全に定位が崩れて不自然な音になっている。

 彼によれば、いい加減なセッティングをすると音が“逆相”になるそうだ。逆相というのはプラスとマイナスとを間違えて結線すること・・・・だけではなく、音像を上手く捉えることが出来ないセッティングをした際の音も指すのだという。おそらくは「The Musicality」が非常に緻密な設置を必要とする製品だということもあるのだろうが、これだけセッティングの重要性を説いたプレゼンテーションは、今まで足を運んだオーディオ関係のイベントではお目に掛からなかった。

 考えてみれば、スピーカーの配置によって音が変わるなんてことは我々オーディオファンにとって常識以前のことであるはずなのだ。ところが、いざ目の前に機器を並べられると、その機器自体の性能のことばかりに気を取られ、実際に自分が導入してどう使うのか、そのことを失念してしまう。製造側だってそれを承知しているからこそ、機器の宣伝に余念がない。カイザーサウンドの主宰者は、メーカーもディーラーも機器そのものを売り込むことに躍起になっており、使いこなしについての提案を行っていないことを憂慮しているらしい。

 送り手の興味が機器自体になっているのならば、ユーザー側もおのずから興味の対象は“どの機器をどの値段で買うか”ということになってしまう。だから実機を家電量販店などでチラッと見て、あとはネット検索で一番安いところを探して通販で買う・・・・なんていうやり方が罷り通っている。“作り手と売り手と、そして使い手とが互いにソッポを向いて、モノの価格だけが取り沙汰されている。これではオーディオの発展は見込めない!”というような意味のことを、彼は熱っぽく語っていたが、それは納得できる。

 実を言えば「ローゼンクランツ」の製品を導入するのは個人的には二の足を踏む。第一、高価だ。「The Musicality」はペア百万円を超える。確かに良い音だが、その価格の大きな部分をデザインと仕上げが占めていることは明らか。見かけをもっと簡素にすれば半額以下に抑えられ、我々一般ピープルも手が出しやすい価格帯になるかもしれない。同じフルレンジ一発のシステムでは以前SOULNOTEのSS1.0という50万円以下の高性能製品に接したことがあるだけに、余計にそう思った。

 しかし、彼の“オーディオ屋”としての矜持はしっかり伝わっており、こういう場に出てきてポリシーを披露してくれたこと自体は大いに有り難い。単なるモノの売り買いだけで終わらず、使いこなしを含めての総括的なプロポーズをオーディオ機器の送り手は実行するべきだとの彼の言い分は正しい。「ローゼンクランツ」に限らず、独自の商品展開をしている業者はこういったイベントにどんどん顔を出して持論を主張して欲しい。

(この項つづく)
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「突入せよ!『あさま山荘』事件」

2008-04-15 06:34:33 | 映画の感想(た行)
 2002年作品。72年に実際に起こった連合赤軍によるあさま山荘事件を題材に、その顛末を警察の側から描き出した群像ドラマ。通常のフィルム撮りではないので(デジカム使用)画面が少々汚いのはマイナスだが、映画自体は非常に面白い。何よりドラマを“警視庁と長野県警の縄張り争い”に絞り込んだことが実に思い切りが良く痛快だ。

 前代未聞の非常事態に直面した組織とその中の人物像をリアルかつコミカルに活写し、観る者の共感を呼ぶことに成功している。これを「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)」の若松孝二監督みたいに“犯人側が全然描かれていない!”と批判する向きもあったようだが、そこまでやると2時間では足りなくなるし、何よりヘタに連合赤軍の“生態”にまで触れようとすると、全共闘世代がどうのこうのといったイデオロギー領域にまでとりあえず言及しなければならず、作る側にとっては鬱陶しいだけだろう。この映画のスタイルは大正解だ。

 原田眞人監督にとって集団劇の演出は手慣れたもので、いわば彼の代表作である「金融腐蝕列島/呪縛」の緊迫感あふれる株主総会のシーンを幾分トーンダウンする代わりに2時間ぶっ通しでやったようなものである。人間、切迫した場面に出くわすと、かえって日頃のしがらみに囚われて大局を見ようとしないというのは事実のようだ。ここで重要になるのは役所広司扮する佐々淳行のように、真にリーダーシップを持った者であるのは言うまでもないだろう(もちろん当時実際に佐々がこのように立派な陣頭指揮を務めたのかは不明だ。ただし、原作が彼自身の手によるものなので、いくぶん主人公をヒーロー扱いしているのも仕方がないだろう)。

 藤田まことや串田和美ら脇のキャストも的確で、松尾スズキや蛍雪次郎が思わぬ役で起用されているところなど嬉しくなってしまう。雪山で格闘するスタッフの頑張りも十分伝わってくるし、これは近年の日本映画のひとつの収穫と言えよう。
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「光の雨」

2008-04-14 06:33:10 | 映画の感想(は行)

 2001年作品。前の「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)」の感想文の中で紹介した映画だが、間違いなく「実録・連合赤軍」よりは数段ヴォルテージが高い。高橋伴明監督の最良作であるばかりではなく、21世紀初頭を飾るエポックメイキングなシャシンだと思う。

 連合赤軍が「あさま山荘」にたどり着くまでの一連のリンチ殺人事件を描いた立松和平の同名小説の映画化だが、映画の中での主人公たちは“「光の雨」を映画化するスタッフ・キャスト”になっている。つまり、映画「光の雨」がここでは劇中劇として扱われている。しかも、この劇中劇のメイキングを撮っている若手監督による映像が頻繁に挿入され、いわば“三重構造”の作劇という思い切った脚色。同じような例として澤井信一郎監督「Wの悲劇」があるが、今回はあれより手が込んでいる。なぜこんな方法を取ったのか。

 劇中での映画「光の雨」の監督(大杉漣)が知床ロケでの真っ最中に失踪。彼はかつて全共闘の内ゲバ事件にかかわっており、映画製作途中にかつての“仲間”が彼に接触しようとしてきたため、自ら現場を放棄したのだ。製作中止寸前のところを、メイキング映像を撮っている若手監督(萩原聖人)がメガホンを引き継ぎ、撮影は続行される。劇中劇の「光の雨」、そのスタッフ・キャストの動向を描く“本編”、そしてメイキング映画でのキャストへのインタビュー映像という三つの流れが緊張関係を保ちつつクライマックスへと突入する。

 監督の高橋伴明は団塊世代。脚色は40代の青島武。さらに劇中での事件の当事者たちを“当時の若者”ではなく“現代の若者が演じるキャラクター”にした。作劇だけでなく製作面でも二重・三重の仕掛けがある。これは高橋監督にとっての作劇面での“保険”に過ぎないのか。単なるエクスキューズなのか。目先を変えただけなのか。答えは否である。まさしくこの映画はこの形態で撮られなければならない確固とした必然性に裏付けられている。

 高橋伴明が属している世代にとって、この事件に関しての思い入れは深いに違いない。しかし、それをそのまま映画の中に出してしまえば安直なノスタルジーに堕してしまう。ネタがネタだけに扱いは冷徹でなければならない。ただし、映画製作に当事者の世代が全然コミットしないとなると、それも問題。関係のない若い世代に任せてしまうと、せいぜいが「DISTANCE」のような小賢しいリベラリズム(いわゆる空論)に終わってしまう。そうなると、まずは“あの時代”を知る者が“この事件をこういうコンセプトで他の世代に伝えるのだ”という確固としたポリシーを提示し、それに若い世代が必要な部分をフォローしていく方法がベストだという結論に到達する。

 ではその“コンセプト”とは何か。それは“良識”である。つまり“世の中を良くしたいと思って行動するのはいい。しかし、その方法論やイデオロギーを間違えてはいけない”という、ごくまっとうな“大人のモラル”。「あの時代を生きた人間はすでにテロリズムの自己正当化と決別していること。“革命”や“サヨク”の時代は終わったことをハッキリと示すことが当事者の世代としての使命である」・・・・このコンセプトが成立した時点で、映画の成功は保証されたようなものだ。

 イデオロギー先行で映画を撮ろうとした大杉漣監督は早々に退場し、客観的・常識的スタンスを持つ若い萩原聖人監督に交替する。すると映画はすぐさま個々の登場人物の内面に向かい、深みのある展開を見せ始める。同時に“総括”と称する凄惨なリンチの実態が、殺される側のモノローグを織り交ぜることにより、より鮮明になる。このあたりの畳みかけるような演出は見事だ。ただし、時おり映し出されるメイキング映像では、若いキャストたちは事件の酷さと殺された者たちの無念さを語るものの、決して自分たちが演じるキャラクターへの共感は示さない。“わからない”と繰り返すだけだ。当然の話だろう。ここで“わかるような気がする”と答えようものなら、映画のコンセプト自体が崩壊してしまう。

 三重構造の脚本を背負いながら厳寒の知床ロケにも負けず、最後まで映画のヴォルテージ落とさなかった高橋監督の頑張りには目を見張るばかりだ。この映画自体が彼の世代から他の世代に向けての“総括”であるためだろう。キャストも皆素晴らしい。特に幹部を演じる山本太郎と裕木奈江は、とても“仲間を次々と完全論破するカリスマ性たっぷりの冷酷なテロリスト”には見えないのだが、その“善人面した普通の若者”が常軌を逸した犯罪者を演じることにより、逆にこの事件の狂気性を怖いまでに際立たせている。

 なお、高橋監督の話によれば、この三重構造のほかにもうひとつ、映画の製作風景を捉えるカメラが設置されており、いわば“メイキングのメイキング”とも言うべきフィルムが存在するという。そうなると“四重構造”か。また、上映時間3時間半を超える“完全版”もあるとか。機会があれば観てみたいものだ。
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