(原題:Atonement )凝った仕掛けに賛否両論別れそうな映画だ。私はというと、エクステリアの見事さと俳優陣の着実な仕事ぶりには感心させられるので悪い評価は与えたくはないが、さりとて諸手を挙げて褒め上げることも出来ないといった、微妙な立場を取ることになってしまった。
1930年代のイギリス。郊外の大邸宅で暮らす上流階級の娘セシーリアと、女中頭の息子ロビーは相思相愛だが、セシーリアの妹ブライオニーの誤解とジェラシーが“ある事件”の濡れ衣をロビーに着せることになり、悲劇の幕が上がる・・・・といった筋書き。設定だけ見れば、身分違いの恋を迫り来る戦争の影をバックに紡ぎ出したメロドラマだ。
屋敷が舞台となる前半部分は「プライドと偏見」でもクラシカルな意匠の妙味を存分に表現したジョー・ライト監督らしく、悠然としたタッチで英国の富裕層の生活を映像化する。吟味された時代考証による衣装デザインや美術は溜め息が出るほど美しく、また故意に時制を前後させる進行を時折挿入させることにより、ゆったりしているように見えて緊張感を持続させることに成功。
冒頭のブライオニーの叩くタイプライターの音がそのままドラマ展開の通奏低音となり、またブライオニーの神経質な歩き方をはじめ、少ないショットで登場人物の性格を印象づける手際は大したものだ。
しかし、ブライオニーが戯曲を執筆しているという前振り(およびタイプ音)が、映画全体の“伏線”であったことが判明する後半は、いったいどう捉えるべきなのか。第二次大戦に従軍する羽目になったロビーが体験する夢ともうつつとも付かぬ足取り、罪の意識を背負ったブライオニーと頑なな態度を崩さないセシーリアとの確執、それらが虚実取り混ぜたようにシュールに進む中盤以降は、例えてみれば鈴木清順監督の「ツィゴイネルワイゼン」や「陽炎座」などに近いアプローチかもしれない。
けれども、物語の基盤が過ちを犯したブライオニーの“悔恨の念”であるとの建前はどうなってしまうのか。作者サイドとしては前半は“事実”であり、後半は“絵空事”だということにしたいのだろうが、ラストの“オチ”から勘案すると、そもそもこの話自体が最初から“あり得る”のか“あり得ない”のかも疑わしい。
もちろん、映画の実存をわざと曖昧模糊としたままで観客を挑発する方法論もあって良い。ただ本作に限っては、メロドラマという映画の骨格にそんな仕掛けを弄するほどの必要性があるのかと思ってしまうのだ。いわば、物語をひっくり返して驚かそうとしたものの、ひっくり返す箇所を間違えて映画自体が御破算になる危険性に曝されてしまったということだ。イアン・マキューアンによる原作がどういう構成になっているのか知らないが、映画を観る限りこういう手法は掟破りだと言われても仕方がない。
ヒロイン役のキーラ・ナイトレイ、ロビーを演じるジェームズ・マカヴォイ、幼いブライオニーに扮したシーアシャ・ローナンはじめ、キャストは盤石。ダリオ・マリオネッリの音楽も素晴らしい。ただし、釈然としない感じはいつまでも残る。評価の難しいシャシンだ。