元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「若葉のころ」

2016-08-31 06:21:06 | 映画の感想(わ行)

 (原題:五月一號)欠点はあるが、それを軽くカバーしてしまうほどの魅力がこの映画にはある。本当に観て良かったと思える、台湾製青春映画の佳作だ。長らく忘れていたピュアな感覚が戻ってきたような、そんな甘酸っぱい気分を味わうことが出来る。

 主人公バイは台北に住む17歳の女子高生だ。両親は離婚しており、今は母と祖母との3人暮らしである。高校生活は順調であったが、ある日、母のワンが交通事故に遭い、意識不明の重体となってしまう。そんな中、バイは母のパソコンに初恋の相手リンに宛てた未送信メールがあるのを発見する。ワンは現在でもリンのことを忘れられないのだ。バイは母に代わってリンに“会いたい”とメールを送る。一方、リンはいまだに独身で、そこそこ実入りの良い仕事には就いているものの、私生活はあまり恵まれてはいない。時折、30年前の高校時代を回想し、初恋の人だったワンのことを思うのだった。

 現在の出来事と、リンとワンが高校生だった80年代が交互に描き出されるのだが、その段取りが上手くいっているとは思えない。バイの友人の男関係がどうのとか、高校時代のリンが担任の女教師に憧れていたが思わぬ“真相”を突きつけられて動揺するとか、明らかに余計なエピソードが無理筋で挿入されており、映画のテンポが鈍くなると同時に上映時間が無駄に長くなっている。

 それでも、バイと若い頃のワン、そしてリンの微妙な内面をすくい取る演出には惹き付けられてしまう。出色なのは、高校生のリンがビージーズの「若葉のころ」の歌詞を中国語に翻訳する課題を教師から与えられることで、この曲が後半のドラマを形成する重要な“小道具”になっていること。言うまでもなくこの曲は「小さな恋のメロディ」(71年)の挿入歌であり、歌詞の内容も映画の内容と微妙にシンクロしている。そして終盤近くの感動シーンの伏線でもある。

 ラストは御都合主義かもしれないが、後味は良い。この映画がデビュー作になる監督のジョウ・グータイはミュージック・ビデオの演出家らしいが、映像の訴求力には目覚ましいものを感じる。原題にもある5月の季節感の描出など、悩ましいほどだ。

 バイと若い頃のワンを演じるルゥルゥ・チェンはとびきりの美少女ではないものの、表情の豊かさとしなやかな身のこなしで観る者を魅了する。高校時代のリンに扮したシー・チーティアンもナイーヴな好演。現在のリン役のリッチー・レンとワン役のアリッサ・チアも堅実な仕事ぶりを見せる。

 関係ないが、現在のリンの友人がオーディオ・ショップを営んでおり、リン自身も高級な機器を導入しているのは印象的だった。リンの自宅にあるのは米国McIntosh社のスピーカーXR290を中心としたシステムで、日本円にして総額一千万円を軽く超えるだろう。80年代の回想シーンでもオーディオ機器がフィーチャーされている箇所があり、監督の趣味をあらわしているのかもしれない。
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「蘇える金狼」

2016-08-30 06:26:02 | 映画の感想(や行)
 79年作品。角川映画40年記念企画としてリバイバル上映され、今回初めて観ることが出来た。いやはや、それにしても酷い出来である。こんなものが多額の宣伝費をかけて全国拡大公開されていたというのだから、この頃の邦画界というのはマトモではなかったと言うべきであろう(もっとも、それは角川映画に限った話だったのかもしれないが ^^;)。

 大手油脂メーカーの経理課に籍を置く若手サラリーマンの朝倉哲也は、凶悪な“裏の顔”があった。ある日、朝倉は現金移送中の銀行のスタッフを襲い、一人を射殺して1億円を強奪。ところが、その札はナンバーが銀行に登録されていて使えない。彼は横須賀のヤクザに掛け合ってその札を麻薬に替え、それを再び安全な紙幣に替えた。やがて朝倉は、手に入れた麻薬で会社の上司の愛人である永井京子を手なずける。



 一方、会社の不正経理を嗅ぎつけた桜井という男が強請を仕掛けてくる。会社側は朝倉に桜井の始末を依頼するが、事が終わり次第に朝倉自身の抹殺も企んでいた。それを読んでいた朝倉は、会社幹部の弱みを握って逆襲に転じる。大藪春彦の同名の小説(私は未読)の映画化だ。

 とにかく、筋書きが滅茶苦茶である。杜撰な現金強奪作戦を堂々とやってのける厚顔無恥ぶりから始まって、主人公がボクシングジムに通っているという事実を掴んだだけで、いきなり殺しの依頼をする会社幹部が噴飯ものならば、上手く立ち回ったつもりで全く合理的ではない行動を取る桜井にも呆れる。映画の進行と比例するかのように支離滅裂の度合いは幾何級数的に上昇し、ラスト近辺などスタッフが映画作りを放り出したような醜態だ。

 そもそも、朝倉の正体と行動規範がまったく納得いくようには扱われていない。普通の勤め人でありながら銃の扱い方に長けており、人を殺すことを何とも思っていない。それ相応の“経歴”を臭わせる部分があって然るべきだが、その気配は全くない。もちろん、どういう内面を持っているのか皆目分からない。

 監督は村川透だが、撮影時に何か悩みでもあったのではないかと思うほどグダグダである。アクションシーンには緊張感・高揚感は皆無。テレビの刑事ドラマにも劣る。こんなつまらない内容の映画に、豪華なキャストが顔を揃えていることには驚かされる。主演の松田優作をはじめ、佐藤慶や成田三樹夫、小池朝雄、草薙幸二郎、岩城滉一、真行寺君枝、千葉真一等々、よくもまあ集めたものだ。だが、全員揃いも揃って精彩を欠く。良かったのは美しさとエロさを全面開示した京子役の吹雪ジュンぐらいだ。

 角川映画はそれまで邦画界に存在しなかったメディア・ミックスを仕掛けて一世を風靡したが、良い作品は数えるほどしか無い。いくらマーケティングを新規に工夫しても、実際に映画を作るのは従来からのスタッフと俳優達であることを失念していたようだ。早晩“限界”に達してしまうのは当然のことだったのだろう。
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「ターザン:REBORN」

2016-08-27 06:25:50 | 映画の感想(た行)

 (原題:THE LEGEND OF TARZAN)こんなに弱いターザンは願い下げだ。わずか4,5人の敵に簡単に取り押さえられ、類人猿とのタイマン勝負では防戦一方で、挙句の果ては悪党の親玉に簡単に背後から迫られてピンチに陥る。子供の頃からジャングルの中で数々の修羅場を潜ってきたはずのタフガイを、かくも頼りなく描いてもらっては困るのだ。ヒーローたるもの、4,5人どころか4,50人ばかり束になって掛かってきても返り討ちにするぐらいの強さがなくてはならない。肝心の主人公の造形からして“この程度”なので、あとは推して知るべしだ。

 1885年、アフリカ・コンゴの統治に行き詰ったベルギー国王レオポルド2世は、側近で手練れのネゴシエーターであるレオン・ロムを現地に派遣し、負債の解消のためダイヤモンドを採掘させようとする。ロムは奥地の部族と接触するが、族長は“ターザンと引き換えにダイヤを渡す”という条件を出す。

 その頃、ターザンこと英国貴族ジョン・クレイトンの元に、レオポルド2世からのコンゴ視察依頼が届く。コンゴで行われている奴隷的な労働実態を検証したいというアメリカ特使のウィリアムズの申し出もあり、ジョンは妻ジェーンを連れてウィリアムズと共に生まれ育ったアフリカに戻る。ところがロム率いる一味が集落を急襲し、ジェーンが連れ去られてしまう。ジョンとウィリアムズは必死の追跡戦を開始する。

 ターザンがアフリカからイギリスに帰って時間が経過した後から始まるので、野生児としての主人公の魅力が出にくくなっている。もちろん、彼の生い立ちやジェーンと知り合った経緯は回想形式で紹介されるのだが、取って付けたような印象しかない。加えて、前述のように今回のターザンはケンカが強くなく、上半身は裸だがいつもキッチリとズボンを着用しているので、いよいよ興ざめだ。

 さらに言えばトレードマークであるはずの雄叫びも弱々しく、木から木へと飛び移るシーンは高揚感は皆無。結局、物語に決着をつけるのはターザンの腕っ節ではなく、彼の動物とのコミュニケーション能力だったりする(笑)。

 デイヴィッド・イェーツの演出は凡庸極まりなく、一向に盛り上がらない。主演のアレクサンダー・スカルスガルドはイケメンでマッチョながら、救いようのないほどの大根だ。海千山千のサミュエル・L・ジャクソンや「007/スペクター」よりも悪役が板に付いていたクリストフ・ヴァルツなどの面子が脇を支えるが、ドラマの弱体ぶりを挽回するには至らず。良かったのはキツめの美貌が光るジェーン役のマーゴット・ロビーぐらいだ。

 関係ないが、筒井康隆の短編小説に「老境のターザン」というのがある。当然のことながら“本家”のパロディなのだが、これがけっこう笑える。誰か映画化してくれないだろうか(爆)。
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「テオレマ」

2016-08-26 06:23:51 | 映画の感想(た行)

 (原題:Teorema )1968年イタリア作品。監督は鬼才と言われたピエル・パオロ・パゾリーニ。作られた当時は斬新で高い評価を受けていても、時が経つとその“図式”を見透かされてしまい、見せられても鼻白む結果になることは少なくない。この映画もその典型ではないかと思う。

 ミラノの郊外に大邸宅を構える実業家パオロの元に、ある日、謎の配達夫によって一通の電報が届けられる。内容は“明日着く”とだけあり、発信人の名前も書いていない。翌日、パオロ邸で開かれたパーティの席に、一人の見知らぬ青年が紛れ込む。家人は不審に思ったが、彼はそのまま屋敷に住みついてしまった。それからパオロの一家は常軌を逸した行動を取るようになる。

 人目を憚らず家族が好き勝手に振る舞うようになった後、青年はフラリと家を出ていく。しかしパオロたちの“乱行”はその後もエスカレートするばかりで、家庭は完全に崩壊してしまう。そんな中、家政婦のエミリアだけは何かを悟ったように田舎に帰り、奇跡を起こし始める。

 早い話が、これは森田芳光監督の「家族ゲーム」(83年)や深田晃司監督の「歓待」(2010年)と同じ構図の映画である。もちろんこれらの作品は「テオレマ」より後に作られたのだが、皮肉なことに今日でも通用する普遍性を持った映画は、これら“後発組”だったりする。

 猫かぶってた連中が、異分子が入り込んだことによってキレるという、よく考えればありがちな設定。それをイタリア社会特有の階級闘争うんぬんや宗教的テイストを絡めて高踏的に難解っぽく描いたのが当時としては目新しかったのであろう。でも今観たら冗談としか思えない。エミリアがもたらす奇跡と、その後の彼女の行動は思い入れたっぷりに描かれるが、宗教に疎いこちらから見れば珍妙にしか思えないのが辛い。

 青年役のテレンス・スタンプはまさに怪演。彼の代表作であるウィリアム・ワイラー監督の「コレクター」(65年)に並ぶ変態ぶりだ(笑)。シルヴァーナ・マンガーノやマッシモ・ジロッティ、ラウラ・ベッティといった他の面子も濃い演技を披露している(ついでに言えば、ジロッティは体毛も濃い ^^;)。音楽はエンニオ・モリコーネで、ニューロティックなスコアを披露している。なお、私はこの映画を某ミニシアターの特集上映で観たのだが、ラスト近くで観客席のあちこちから“何だこりゃ”という呟きが聞こえてきたのには苦笑した。
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「インデペンデンス・デイ:リサージェンス」

2016-08-22 06:32:28 | 映画の感想(あ行)
 (原題:INDEPENDENCE DAY:RESURGENCE )もとより、本作に質の高さなどは少しも期待していない。要はどれだけ無茶をやらかして笑わせてくれるか、興味の対象はそれだけだ。で、観終わると、そのことに対する“満足感”は見事に達成されたと言える。筋書きや演出、映像、キャストに対する演技指導など、すべてにおいてデタラメの極地であり、全編これ失笑の嵐だ。さすがはローランド・エメリッヒ御大、その“伝統芸”には感服するしかない(爆)。

 96年に製作・公開され、世界中で大ヒットを記録したSFお笑い巨編「インデペンデンス・デイ」の続編。映画の中でも20年ばかりの時間が流れ、かつて地球侵略を狙ったエイリアンを撃退した人類は、宇宙からの脅威を前に一つにまとまっていた。回収した異星人の技術を利用して防衛システムを構築し、月面にも前線基地を置いて新たな危機に備えていた・・・・はずだった。



 ところが前回のエイリアンの生き残りがSOSを発信。今度は想像を絶する巨大な母船を伴って地球に迫ってくる。そんな中、月面で発見された小さな球体が昔エイリアンに侵略されて滅ぼされた他の異星人が送ったものであることが判明。実はエイリアンはこの球体の奪還も狙っていた? ・・・・という、釈然としない設定から始まってあとはエメリッヒ大先生が得意とする内容空疎な与太話が延々と続く。

 各プロットはもうどこから突っ込んで良いのか分からないほどの世迷いごとがてんこ盛りで、まさに御都合主義と支離滅裂さが大爆発している。クライマックスなんか、意味も無く“怪獣映画”のルーティンを披露する始末。出てくるキャラクターは全員脳天気で、まともな思考形態を有している者は一人もいない。



 ならば映像処理ぐらいは凄いのかといえば、これも手抜き以外の何物でもなく、ハデな画面が炸裂しているわりには段取りや仕上がりが雑だ。少なくとも前作にはディザスター映画として観客を驚かせるアイデアがその映像にはあったのだが、今回は皆無である。

 一応、戦闘機パイロットの主人公をリアム・ヘムズワースが演じ、他にビル・プルマン、ジェフ・ゴールドブラムら前作から続投したキャストも参加しているのだが、“ご苦労さんでした”としか言いようがない(ウィル・スミスの不在理由があっさりと説明されたのには苦笑したが ^^;)。

 それにしても、世界的な危機を扱っているにも関わらず、地球上にはアメリカと中国以外の国は存在しないようになっているが、どういうことだろうか(大笑)。チャイナマネーのハリウッド侵攻はこれほどまでに凄いという話かもしれない。エイリアンの地球侵略よりも、そっちの方が心配だ(呆)。
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「ふたりの桃源郷」

2016-08-21 06:38:58 | 映画の感想(は行)

 このドキュメンタリー作品の中で個人的に一番興味を惹かれたキャラクターは、不便な山奥の生活をあえて選んだ老夫婦ではなく、彼らを心配しつつも支える娘たちでもない。ズバリ言って、三女の夫である。彼は早くに両親を亡くし、十分に親孝行出来なかったという負い目もあり、妻の父母にありったけの親愛の情を示し、決して楽ではない世話も買って出る。さらに自身が経営する店も畳んで、老夫婦が住む山の麓に引っ越してくるのだ。

 そこには“妻の身内だから”という建前や単なる同情などを超越した、切迫した何かがあったに違いない。もちろん、映画はそれをあからさまに説明したりはしない。彼の行動を淡々と追うだけだ。しかし、だからこそ崇高とも言える彼の内面が滲み出てきて、観る側の心を打つ。この人物を登場させただけでも、この映画の存在価値はあると思う。

 本作はKRY山口放送局によるドキュメンタリー番組を、映画用にまとめたものだ。1947年、田中寅夫は復員を機に、住んでいた大阪から彼の故郷に近い山口県内に山を買い、開拓して野菜や米を作りながら3人の娘を育てる。61年に娘たちの教育環境を考えて大阪に居を移すが、還暦を過ぎた二人は79年に再び山奥に引っ越し、電気も水道も無い生活を送る。そんな両親を心配した娘たちは同居するように勧めるが、老夫妻はその提案を拒絶。やがて、娘たちも両親の生き方を理解していく。

 端から見れば、田中夫婦は何とも自分勝手な年寄りである。しかしながら、不自由な生活を心の底から楽しんでいる二人の姿を見ていると、こういう人生もあっていいと思えてくる。衣食住が完備された都会の生活は、彼らにとって便利ではあるが決して幸せなものではない。・・・・というか、人間の幸福というものは物理的な利便性だけでは決して推しはかることが出来ないことを、改めて思うのだ。

 そのことにいち早く気付くのが前述の三女の夫で、だからこそ彼は妻の両親のために精一杯尽くすのだろう。今は田中夫妻はすでに逝去しているが、その想いは残された者達に確実に受け継がれていく。理想的な家族の営みが、脈々と息づいていることに感銘を受ける。

 長い期間にわたってこの題材を追い続けた、佐々木聰監督およびプロデューサーの頑張りには感心するしかない。もちろん、田中夫妻が若い頃からの記録を数多く残していることも、この映画が成功した理由であろう。小回りの利く地方放送局のポジションを活かした製作スタンスも納得だ。ナレーションは吉岡秀隆が担当しているが、落ち着いた声でとても良い仕事をしている。
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「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」

2016-08-20 06:40:05 | 映画の感想(た行)

 (原題:TRUMBO)正直な話、個人的には逆境にあえぐ脚本家ダルトン・トランボ(およびその家族)の奮闘よりも、彼を糾弾する下院非米活動委員会とそのシンパ連中の精神構造の方に興味がある。もちろんローゼンバーグ事件などのスキャンダルが発生して、当時の米国内の共産主義に対するアレルギーは極限にまで達していたと思われるが、それでも関係の無い映画関係者や学者にまでに迫害の範囲を広げていったという、その病的な思考形態はどこから起因するものなのか。単なる“ヒステリー現象”と片付けて良いものなのだろうか。そのあたりをもっと突っ込んでほしかった。

 1940年製作の「恋愛手帖」でアカデミー賞脚色賞候補になるなど、着実にキャリアを積んできたダルトン・トランボだが、第二次大戦後の冷戦下に起きた赤狩りのターゲットになり、当局側への協力を拒否したことで投獄されてしまう。釈放後も彼は表立っては活動は出来ず、偽名で執筆を続けて「ローマの休日」(53年)をはじめとする注目作を次々に発表する。

 映画で扱われている事実は実に興味深い。なるほど、こんなことが起こったのかと、深く感じ入った次第だ。トランボを支える妻や子供達の“心意気”も素晴らしい。

 そして一番印象的だったのは、冷や飯を食わされていたトランボをあえて雇い入れ、B級作品ながら仕事の場を与えた弱小映画会社(キング映画社)の経営者達である。そこには“有名脚本家の作品を安く買える”という打算があったことは確かだが、映画に対する矜持はしっかりとある。トランボの作品を起用することにケチを付けるために乗り込んできた“赤狩り推進派”の輩を、社長がバット片手に追い返す場面は本作のハイライトだろう。

 ただ、前述のように“迫害する側”の事情が深く描かれていないことに対しては、不満を覚えてしまうのだ。当然のことながら、ハリウッドとしては最初から赤狩りは絶対悪として扱われているし、そうせざるを得ない背景もある。だが、本作においてトランボに助け舟を出すカーク・ダグラスやオットー・プレミンジャーよりも、敵対するゴシップ・コラムニストのヘッダ・ホッパーの不気味さの方がインパクトが強いのだ。こちらの方もトランボと対比するように深く描き込めば、より映画的興趣は大きくなったと思う(まあ、それが難しいことは承知しているが ^^;)。

 ジェイ・ローチの演出は堅実そのもので、技巧的には文句の付けようが無い。主演のブライアン・クランストンは好演で、ダイアン・レインやルイ・C・K、エル・ファニング、ジョン・グッドマン、そしてホッパーに扮するヘレン・ミレンなど、他のキャストも皆良い仕事をしている。セオドア・シャピロの音楽やジム・デノールトによるカメラワークも万全だ。しかしながら、以上のような釈然としない点があるので、諸手を挙げての大絶賛は控えさせていただく。
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「ヤング・アダルト・ニューヨーク」

2016-08-19 06:23:23 | 映画の感想(や行)

 (原題:WHILE WE'RE YOUNG )作者の“魂胆”が見え透いており、全然愉快になれないシャシンだ。もっとも、筋書きが型通りでも語り口が巧みならば評価できるのだが、これが凡庸きわまりないので途中で面倒くさくなってくる。あとは眠気との戦いに終始。正直、観たことを後悔してしまうような映画である。

 ニューヨークのブルックリンに住むドキュメンタリー映画監督のジョシュと、その妻で映画プロデューサーのコーネリアは共に40歳代半ば。子供はいない。ジョシュはスランプ気味で新作を手掛けられず、アートスクールの講師をやって糊口を凌いでいる。コーネリアは著名な監督である父親の作品を担当しているが、先の見えない状態であるのは夫と同じである。ある日、2人はアートスクールの聴講生である監督志望のジェイミーとダービーの若夫婦と知り合う。彼らは流行のデジタルデバイスに背を向け、レトロかつクリエイティヴな生活を送っている。ジョシュとコーネリアは彼らに触発され、元気を取り戻していく。しかし、実はジェイミーはとんだ食わせものであり、自身の映画作りにジョシュ達を巻き込もうとしていたのだ。やがてジョシュは、難しい立場に置かれることになる。

 要するに、トシばかり取って何の実績もあげていないのではと悩む中年夫婦が、溌剌と見える若い者達と知り合ったことにより柄にも無く頑張ってしまうものの、結局は身の程を知るという、あまり奥深いとは思えないハナシを予定調和的に綴っているだけだ。カルチャーギャップを前面に出して似非インテリ中年の悲哀を描いたつもりだろうが、あいにくそのような単純な図式に乗せられてしまうほど、こちらはナイーヴではない。

 だいたい、ちゃんとしたカタギの人間ならば、ジェイミーのような胡散臭い若造に容易く丸め込まれたりしないのだ。それは主人公が行き詰まった映像作家だろうと、子供がいない家庭だろうと、たとえ独身であったとしても関係ない。単に考えが足りないだけである。ジェイミーの佇まいも、いかにもワザとらしくて脱力してしまう。

 監督のノア・バームバックは“ウッディ・アレンの後継者”みたいな評価を受けているらしいが、有能かつ海千山千のアレンとは比べるのもおこがましい。アレンならばこのような無理筋の設定も軽妙洒脱なコメディに仕立て上げてしまうのだろうが、バームバックの演出は平板に過ぎる。テンポは悪いし、ギャグの振り方もイマイチだ。音楽の使い方は凝っているが、何やら“オレって、センス良いだろ”と言わんばかりの選曲には閉口する。

 主演のベン・スティラーをはじめ、ナオミ・ワッツ、アダム・ドライヴァー、マンダ・サイフリッド、チャールズ・グローディンと、結構多彩なキャストを集めているのに、もったいない話である。

 余談だが、ジェイミーの家にはアナログレコードが山積みにされており、彼はそれをPIONEERの古いプレーヤーを使って聴くのだが、その様子にジョシュが“コイツは上の世代と話が合う”と勝手に合点してしまうくだりはけっこう痛々しい。彼のこの趣味は、文字通り自分の好みでしかない。オジサン層に共感してどうのこうのというハナシでは決してないのである。最近はアナログレコードを好む若い世代が増えつつあるらしいが、この動きを“古い世代の価値観(?)”で捉えてその範囲内での商品展開しか出来ないというのも、送り手側の独善でしかないと思う。
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アナログレコードの優秀録音盤(その5)。

2016-08-18 06:09:58 | 音楽ネタ
 現在はアナログレコードの復権が巷間で取り沙汰されているが、CDが市民権を得た80年代後半には“レコードはもうすぐ無くなる”という認識が広がっていた。だからオーディオファンやコアな音楽ファンの間では“欲しいレコードは早急に入手しなければならない”というトレンドが形成されていたように思う。一部のレコード会社はそういう動きにつけ込むように、特別仕様のレコードを限定でリリースするケースが見られた。その中で有名だったのが、キングレコードが発売した“スーパー・アナログ・ディスク”である。

 英国DECCAレーベルの往年の名盤のマスター音源を、製造工程や材質に十二分に気を遣い、重量級のディスクに仕上げたもので、価格も一枚3,800円と強気のプライスタグが付けられていた。86年から10年間ほど小刻みに発売されていて、初期の製品はアクリルケース付きという豪華さだ。かくいう私も謳い文句につられて10数枚ほど購入してしまった。今回はそのうちの2枚を紹介したい。



 ウィルヘルム・バックハウスとカール・ベーム指揮ウィーン・フィルによるブラームスのピアノ協奏曲第2番は、間違いなくこの曲の代表的な名盤である。演奏はまさに横綱相撲で、その風格とスケールの大きさで聴く者を圧倒。文句の付けようが無い。

 肝心の音質だが、1967年の録音ながら、かなりの高水準。人工的な音場という評価もあるだろうが、見晴らしは良い。バックハウスのピアノも骨太でシッカリと録られている。しかしながら、私はこのソースを普通のCDで聴いたことが無く、スーパー・アナログ・ディスクのアドバンテージが如何ほどなのかは認識できない。それでも豪華なジャケットの佇まいは、買って良かったと思わせるものがある。

 アルベニスのスペイン組曲を、フリューベック・デ・ブルゴスがニューフィルハーモニア管弦楽団を指揮したディスクも持っている。ブルゴスはスペインに関連したナンバーを手掛けると抜群のうまさを発揮するアーティストで、本作においてもその色彩感とノリの良さは際立っている。とにかく、イギリスのオーケストラから斯様なカラフルなサウンドを引っ張り出せるという、その手腕には敬服するばかりだ。



 これも1967年の録音だが、その質は高い。特に音のクリアネスには感心するしかなく、同レーベルが80年代に展開するのシャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団の一連の録音にどこか通じるものがあると思った。なお、このディスクはアクリルケースが付属していたが、経年劣化で退色しているのは残念ではある。しかし、今でもジャケットの保護には役立っているのは有り難い。

 このスーパー・アナログ・ディスクの高評価に影響されたのか、キングレコードからDECCAレーベルの販売権を譲り受けたポリドールレコード(現ユニバーサル・ミュージック)からも似たような企画が提示された。それが“LONDON FINAL LP”である。90年代初頭にリリースされ、音源は80年代以降の比較的新しいものが中心だった。やはり重量級ディスクが特徴で、値段も通常のLPよりも上である。

 私はこのシリーズも何枚か保有しているが、今回紹介するのはワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」からの管弦楽曲集だ。演奏はサー・ゲオルグ・ショルティ指揮のウィーン・フィル。82年のスタジオ録音である。定評のある演奏者によるお馴染みのナンバーであり、内容は申し分ない。誰にでも勧められる。



 このソースはCDでも聴いたことがあるが、明らかにこっちの方が音が良い。もちろん、使い勝手の違うメディアを同列で比較するのはナンセンスなのだが、サウンドの温度感や音像の密度の高さに関してはアナログが有利であるという“俗説”を、一瞬でも信じたくなってしまう(笑)。

 ただし、このLONDON FINAL LPのライナーノーツに“いかにアナログは優れているか”ということを謳っているのには脱力した。そんなにレコードが良いのならば、簡単にソフトの主流をCDに移行させるなと言いたくなる。少なくともDECCAレーベルの音源をレコードで作り続けて欲しかった。

 いずれにしても、これら限定品ディスクが発売されていた頃には、21世紀になってアナログレコードが見直されるとは関係者の誰も思っていなかっただろう。メディアの変遷は、送り手側の都合だけで勝手に形成されるものではなかったということだ。
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「裸足の季節」

2016-08-17 06:27:57 | 映画の感想(は行)
 (原題:MUSTANG )ハードな題材を扱っているにも関わらず、鑑賞後の印象は薄い。これはひとえに本作が“設定に乗っかった”作りになっているためだ。つまり作者は斯様な物語の背景を準備した時点で満足してしまい、ドラマを掘り下げる努力を怠っているのである。これでは評価は出来ない。

 イスタンブールからおよそ1,000キロ離れた海沿いの小さな村に暮らす5人姉妹は、10年前に両親を亡くし、祖母と叔父に育てられてきた。そこは昔ながらの古い慣習が今でも罷り通っており、女子の人権などまったく顧みられていない。彼女たちも例外ではなく、年長の子から次々と意に沿わない結婚を強いられ、見知らぬ相手の元に嫁いでいく。末っ子のラーレは、何とかその因習から逃れようと、車の運転を覚えたり外部の者と連絡を取ったりと、ささやかな抵抗を試みる。やがてすぐ上の姉の結婚も決まり、ラーレはかねてから考えていた計画を実行に移す。



 オリンピック候補地に名乗りを上げるほどの近代都市を擁していながら、地方へ行けば前時代的で封建的な体制が残存しているという、トルコの情勢には今さらながら驚かされる。放課後に男子生徒達と浜辺で遊んだという理由だけで、家には鉄格子を嵌められて軟禁され、結婚初夜には“処女性”を相手方の親族から逐一チェックされる始末。理不尽きわまりない話である。

 5人姉妹も唯々諾々と従っているわけではなく、夜中にこっそり外出したり、内緒でサッカーの試合に出かけたりする。テレビ中継を通じて姉妹のサッカー観戦を知った祖母が、叔父達にバレるのを防ぐために電柱の変圧器を破壊して回るエピソードには大笑いした。だが、それらのモチーフは“想定の範囲内”に留まっている。

 ハネっ返りの末娘の奮闘も、それらを押さえつけようという大人達の横暴さも、ひとえに彼の国の“情勢”に準拠していることに過ぎないのだ。その構図を逸脱して独自の映画的興趣を獲得することは、最後まで無い。この5人姉妹でなければ為し得なかった盛り上がるエピソードを提示できないまま、語るに落ちるような結末をラストに待機させるのみである。



 女流監督のデニズ・ガムゼ・エルギュヴェンはアンカラ出身で、その後フランスやアメリカで映画を学んでいる。つまり、一度も自国の前近代的な状況に身を置いたことはない。外部から素材を覗いているに過ぎないのだ。本作が煮え切らないのは、そこに由来しているのかもしれない。

 ラーレ役のギュネシ・シェンソイをはじめ5人姉妹を演じる女優達はとても可愛く、祖母や叔父に扮している役者もイイ味を出している。黒海沿岸の美しい風景や、ウォーレン・エリスによるクラシカルな音楽も良いのだが、内容がこの程度では殊更持ち上げる気にはならない。

 それにしても、この邦題はいただけない。原題とかけ離れているし、そもそも昔のアイドル歌手のデビュー曲みたいだ(笑)。配給会社にはもっとセンスの研鑽を望みたいところである。
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