元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

漫然と選んだ2016年映画ベストテン(^^;)。

2016-12-31 06:57:17 | 映画周辺のネタ
 年の瀬になり、まことに勝手ながらここで2016年の個人的な映画ベストテンを発表したい。



日本映画の部

第一位 この世界の片隅に
第二位 海よりもまだ深く
第三位 オーバー・フェンス
第四位 家族はつらいよ
第五位 シン・ゴジラ
第六位 ヤクザと憲法
第七位 何者
第八位 蜜のあわれ
第九位 葛城事件
第十位 ひそひそ星



外国映画の部

第一位 マネー・ショート 華麗なる大逆転
第二位 最愛の子
第三位 リリーのすべて
第四位 弁護人
第五位 ディーパンの闘い
第六位 帰ってきたヒトラー
第七位 ニュースの真相
第八位 若葉のころ
第九位 トランボ ハリウッドに最も嫌われた男
第十位 マネーモンスター

 2016年は邦画が質的に好調で、外国映画は不振だった。ただし、一位の「マネー・ショート 華麗なる大逆転」を筆頭に、世相を反映したのはアメリカ映画と言って良いだろう。先の米国大統領選の結果を見ても分かるように、グローバリズムに対する反発が顕在化し、必然的にそのトレンドがエンタテインメントの分野にも影響を及ぼしていく。果たして、毒にも薬にもならないような御為ごかしのシャシンが客を集めている日本映画界が、社会を反映した作品を作れるのかどうか、大いに疑問だ。

 なお、以下の通り各賞もテキトーに選んでみた。まずは邦画の部。

監督:片渕須直(この世界の片隅に)
脚本:高田亮(オーバー・フェンス)
主演男優:松山ケンイチ(聖の青春)
主演女優:間宮夕貴(風に濡れた女)
助演男優:竹原ピストル(永い言い訳)
助演女優:宮崎あおい(怒り)
音楽:中田ヤスタカ(何者)
撮影:笠松則通(蜜のあわれ)

 次に、洋画の部。

監督:アダム・マッケイ(マネー・ショート 華麗なる大逆転)
脚本:チャールズ・ランドルフ、アダム・マッケイ(マネー・ショート 華麗なる大逆転)
主演男優:ブライアン・クランストン(トランボ ハリウッドに最も嫌われた男)
主演女優:ヴィッキー・チャオ(最愛の子)
助演男優:クリスチャン・ベール(マネー・ショート 華麗なる大逆転)
助演女優:アリシア・ヴィキャンデル(リリーのすべて)
音楽:エンニオ・モリコーネ(ヘイトフル・エイト)
撮影:エドワード・ラックマン(キャロル)

 ワースト作品についても触れておきたい。まずは日本映画。

1.リップヴァンウィンクルの花嫁
 岩井俊二監督も“終わって”しまったようだ。盛り上がりも無い3時間は、苦痛以外の何物でもなかった。
2.君の名は。
 これは“子供向け”だろう。しかしながら、この異常なまでのヒットは違和感しか覚えない。再度念を押すが、これは質的にも“子供向け(=子供だまし)”でしかない内容なのだ。
3.淵に立つ
4.ふきげんな過去
5.アズミ・ハルコは失踪中
6.女が眠る時
7.俳優 亀岡拓次
8.団地
9.ジムノペディに乱れる
10.猫なんかよんでもこない。

 次に外国映画。

1.スポットライト 世紀のスクープ
 ハリウッドにおいてはユダヤ系勢力が強いことを再確認しただけの映画。アカデミー賞を取ったりしているのも、まあ頷ける。
2.ブリッジ・オブ・スパイ
 やっぱりスピルバーグ印。コーエン兄弟に脚本を担当させても、登場人物の内面描写なんかまるで覚束ない。
3.ヘイトフル・エイト
4.ルーム
5.ブルックリン
6.マジカル・ガール
7.山河ノスタルジア
8.ヴィクトリア
9.ゴーストバスターズ
10.X-MEN:アポカリプス

 さて、映画とは直接は関係ないが、2016年は多くの有名ミュージシャンが世を去ったことでも記憶されるだろう。デイヴィッド・ボウイにプリンス、モーリス・ホワイト、グレン・フライ、キース・エマーソン、グレッグ・レイク、レオン・ラッセル、ジョージ・マイケル、ピエール・ブーレーズ、ニコラウス・アーノンクール、冨田勲etc. 改めて時の流れを感じずにはいられない。
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「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」

2016-12-30 07:16:06 | 映画の感想(ら行)

 (原題:ROGUE ONE )別に観なくてもいい映画である。製作意図が不謹慎とも言えるもので、中身も弱体気味。特にキャラクター設定の練り上げ不足は如何ともし難く、ドラマがちっとも盛り上がらない。ストーリー自体も面白くなく、ホメるべき箇所が見つからないという、何とも困ったシャシンだ。

 帝国軍の究極兵器“デス・スター”の設計に携わったアーソ博士は嫌気がさして開発チームを抜け、辺境の惑星で妻子と暮らしていた。ところが帝国軍によって無理矢理連れ戻され、その際に幼い娘ジンは逃げ出し、反乱軍の首領であるソウ・ゲレラに匿われる。

 時が流れ、反乱軍はアーソ博士がデス・スターの中に脆弱な部分を故意に仕込んだことを知る。デス・スターの設計図を入手するために、有志で極秘チーム“ロ―グ・ワン”を結成。反乱軍の幹部には行動を知らせないまま帝国軍の基地に独断で乗り込む。そのメンバーの中には成長したジンも含まれていた。本シリーズの「エピソード4」の開巻直前までの顛末を追ったスピンオフ作である。

 とにかく、感情移入できるキャラクターが一人もいないのには参った。どいつもこいつも愛嬌が無く、深刻ぶった表情を浮かべるだけ。ならば内面描写が十分成されていたのかというと、それも違う。単なる“記号”のように、与えられた役柄とセリフをトレースするのみだ。加えて、前半部分の画面の暗さには閉口する。

 暗鬱な映像と根暗な登場人物達の覇気の無い芝居が延々と続いた後、中盤からは明るい画面のもとでバトルシーンが展開するのだが、新しいアイデアが提示されるわけでもなく、賑々しいわりにはひどく退屈だ。

 そもそも、本作に出てくる連中はほとんど本シリーズには登場しない。だから結末はどうなるかは予想が付く。それならそうでハードな戦争映画としてのルーティンを守るべきだと思うのだが、本来“脳天気な宇宙ファンタジー”としての体裁を持つこのシリーズにはそういうテイストは合わない。「スター・ウォーズ」の御膳立ての中で「プライベート・ライアン」をやろうとしても、居心地が悪いだけだ。反乱軍首脳部と“ロ―グ・ワン”との関係性の扱いはいい加減で、主人公達が何か戦果を挙げそうになると、何も考えずに“全軍突撃”の命令が下されるというのは噴飯物。

 ギャレス・エドワーズの演出は凡庸で、盛り上げるポイントを掴めないまま終わってしまう。フェリシティ・ジョーンズ扮するヒロインは、どう見ても“二線級キャラ”であり、訴求力は無し。ドニー・イェンやチアン・ウェンら中国系俳優も登場するが、座頭市あたりの低級なパロディでしかない(やたらフォースというフレーズを念仏のように唱えるのも鬱陶しい限り)。

 ジョン・ウィリアムズのお馴染みのテーマ曲も無く、ラストに本編のキャラクターを何人か取って付けたように登場させるのにも脱力する。スピンオフ作品とは名ばかりで、本編の各作品の“隙間”で商売しようという小賢しい下心が見え隠れして、実に不愉快。本シリーズを追う気力も失せてくるようだ。
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「ハムレット」

2016-12-26 06:37:57 | 映画の感想(は行)
 (原題:HAMLET)何度も映画化されているシェイクスピアの戯曲だが、今回取り上げるのは90年に撮られたアメリカ=イギリス合作だ。コスチューム・プレイには定評のあるフランコ・ゼフィレッリが演出を担当しているのは異論は少ないだろうが、何と主演はメル・ギブソンである。しかもこれが意外にサマになっている。マッドマックスの逞しさと、シェイクスピアが提示する悩める主人公像とが絶妙のマッチングを見せ、観ていて退屈しないのだ。

 このキャスティングからすれば当然のことながら、ゼフィレッリは保守的な観客が喜びそうな内向的文芸映画の線は狙っておらず、ハリウッド的に明快で直裁的なヒーロー映画に仕上げている。ギブソン御大扮するハムレットは、あの有名な“生か死か、それが問題だ”というセリフも早口で軽くこなし、あとは一人で悩むより行動するハムレットを印象付ける。



 原作はシェイクスピアの作品の中では一番長く、そのまま映画化しようとするとケネス・ブラナー監督版(96年)のように4時間を超える“大作”になってしまうが、本作では脚色も簡略化につとめ、ストーリーラインを際立たせることで、誰にでもわかるシェイクスピア映画になった。考えてみれば、ゼフィレッリは「じゃじゃ馬馴らし」(67年)や「ロミオとジュリエット」(68年)でも元ネタとはやや異なるタッチを見せていたし、珍しいことではないのかもしれない。

 また、本作では女性キャラクターを邪魔なものみたいに扱っているところが面白く、しかもガートルードにグレン・クローズ、オフィーリアにヘレナ・ボナム=カーターという粘着質の演じ手を配しているあたり、確信犯的だ。他のゼフィレッリ作品と同じく、舞台セットは見事。デイヴィッド・ワトキンのカメラによる色調を抑えて光と影を強調した中世絵画のような映像も素晴らしい。音楽はエンニオ・モリコーネが担当しており、印象的なスコアを提供している。
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「安城家の舞踏会」

2016-12-25 06:46:58 | 映画の感想(あ行)
 昭和22年松竹作品。私は福岡市総合図書館の映像ホールにおける特集上映で、今回初めて観ることが出来た。華族の没落を通して、人間の内面の弱さを突き詰める吉村公三郎監督作。実に見応えのある映画で、イタリアのルキノ・ヴィスコンティ監督の諸作に通じるような美意識が横溢している。この年のキネマ旬報誌のベストワン作品でもある。

 戦後、日本国憲法の施行により、華族制度は廃止された。それにより、特権階級であった旧華族の構成員は落ちぶれるだけだった。名門と言われた安城家も例外ではなく、生活のために持っているものを切り売りするしかなかった。とうとう抵当に入れた家屋敷まで手放す時が来てしまう。安城家の人々は夢のように消えて行くかつての名家の最後を記念するために、舞踏会を催す。



 当主の忠彦は家を抵当に闇屋の新川から金を借りていたが、この期に及んでも忠彦は家を手放すことが惜しくなり、招いた新川に必死に頭を下げる。しかし新川は承知せず、さらには自分の娘曜子と安城家の長男正彦との縁談も取り消すと言い出すのであった。やがて夜が更けて客はすべて帰り、静まりかえった安城家で、年老いた忠彦はある決断をする。

 物語は安城家の次女の敦子の目を通して語られる。彼女は抵当の肩代わりを、かつての安城家の運転手で今は運送会社を興して成功している遠山に頼む。しかし、華族のプライドに凝り固まっている安城家の人々はそれを受け入れない。言うまでもなく敦子は新しい時代の象徴であり、それを強調するように映画は彼女のアップで始まり、アップで終わる。

 だが、本作は単なる新旧二項対立の構図を提示してはいない。舞踏会を催す側、そして招かれた側、いずれも一筋縄ではいかない小心ぶりを、捻ったエピソードの連続であぶり出してゆく。感心したのは各登場人物の配置の見事さで、重要なモチーフが示されると、必ずその関係者が近くに佇んでいるという展開を、全くワザとらしくならない語り口で見せてゆくという演出の巧みさには唸った。脚本は新藤兼人で、その手腕はこの頃から発揮されている。

 忠彦役の滝沢修、正彦に扮する森雅之、新川を演じる清水将夫、そして津島恵子や神田隆、殿山泰司など芸達者が揃っているのも嬉しい。敦子を演じているのは原節子で、フリーになっての第一作で初の松竹作品でもある。小津安二郎作品に出る前の、若々しい魅力が溢れていて、スター性も十分だ。生方敏夫によるカメラワークや、木下忠司の音楽も万全で、戦後の日本映画復活の先駆けとも言える作品だと思う。
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博多駅前広場のイルミネーション。

2016-12-24 06:51:57 | その他
 先日行われた職場の忘年会が意外と早い時間で終わり、その帰りにJR博多駅前のイルミネーションを見に行った。もっとも勤務先がこの駅の近くなので何度も目にしてはいるのだが、じっくりと見るヒマなんてない。それだけに、余裕を持って見物する機会を得たことはけっこう有り難かった。



 このイルミネーションがいつから実施されているのか知らないが(おそらくは博多駅がリニューアルした2011年からではないかと思う)、今ではすっかりこの季節の“観光名所”になったようだ。見物客が多く、それを当て込んだ出店もたくさんある。

 約70万球の膨大な明かりが博多駅前広場を彩り、クリスマス気分を盛り上げる。お馴染みの“光のオーロラ”や“ケヤキのドレスアップ”はもとより、新作ディスプレイとして“光のティアラ”や“スカイピラーゲート”が登場し、いっそう華やかになったようだ。特に“スカイピラーゲート”はモダンなオブジェとして、これからも名物の一つになるのだろう。



 それにしても、2016年には近くに博多KITTEもオープンし、10年ぐらい前までは“ただの停車場(およびその関連施設)”のような位置付けだったこの地区も、すっかり福岡市の繁華街の一つとして認知されたようだ。賑やかさが増し、市自体の人口が増えるのも当然か。願わくばこのエリアにミニシアターの一つでも作って欲しい。シネ・リーブル博多駅が閉館して、もう5年にもなるのだから。
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「この世界の片隅に」

2016-12-23 06:39:30 | 映画の感想(か行)
 とても感銘を受けた。原作が長いせいか食い足りない箇所も散見されるが、全体的に技巧面はもとより物語の求心力が高いレベルで発揮されており、観る者を圧倒する。今年度の国産アニメーション映画の収穫は、「君の名は。」のようなお子様向け番組では断じてなく、本作である。

 昭和19年、主人公のすずは生まれ育った広島市江波を離れ、約20キロ離れた呉市に嫁いでくる。時に彼女が18歳の頃である。結婚相手とはそれまでロクに顔を合わせないままだったが、幸いにして夫は優しく、先方の家族も善良な者ばかりだ。戦争によって物資が欠乏してくるが、すずはそれでも工夫を凝らして家族の毎日の食卓を作り、家事をこなしてゆく。しかし戦争が進むにつれ、軍港であった呉は空襲の標的となり、彼女は大切なものを次々と失う。それでもなお、すずは前を向いて生きていくことをやめない。こうの史代の同名コミック(私は未読)の映画化だ。



 本作の最も優れている点は、日常生活と戦争との距離感の描出が絶妙であることだ。これはつまり、戦争に対するイデオロギー的な先入観や、センチメンタリズムの方向に振られたテイストなどを徹底的に排除していることを意味する。戦争を“ただ、そこにある事実”として捉え、それがもたらす大いなる災厄も、自然災害か何かのように受けとめられている。

 “ヒロインは前を向いて生きていくことをやめない”と書いたが、実際は“前を向いて生きる以外、何もできない”のである。戦災で家々が燃え、出征していった者達が帰らず、すずも重傷を負ってしまうが、そんな中でも庶民の生活は続いていく。そしてもちろん、そこには“笑い”もあれば“喜び”だってあるのだ。

 思えば、映画関係者を含めた何らかの“表現者”は、戦争の描き方について“こうあらねばならない”という特別のスタンスを(意識的・無意識的に関わらず)取ってしまうのではないか。もちろん、それぞれの見方に立脚して製作をおこない、成果を上げる例も少なくないだろう。しかしながら、言い換えればそれは作者のメンタリティを一歩も出ていないのだ。



 個的な“表現者”の視点とは別に、戦時中の名もなき市井の人々の生活は、確固として営まれている。それを体現するかのように、すずのキャラクターはノンシャランでマイペース。自分が何者であるか(何者かでなければならないか)を模索する前に、自分はこの世界の片隅に生きる取るに足らない人間であると自覚してしまっている。このアイデンティティーの確立は実に強固で、戦争の惨禍もそれを揺るがすことはできない。普通の人間として、ただ生きていればいい・・・・この頼もしい自己肯定こそが、本当は“前を向いて生きる力”の源泉に他ならないと宣言しているようだ。

 秀作「マイマイ新子と千年の魔法」(2009年)で知られる片渕須直の丁寧な演出は決して声高に主張したりはせず、隅々にまで配慮が行き届いている。パステル調の色遣いによる瑞々しい画面構築は、ため息が出るほどだ。すずの妊娠の顛末が語られなかったり、ヒロインの友人であるリンのプロフィールが描写不足だったりする欠点もあるが、それらの瑕疵も不問にしたくなってくる。

 声の出演ではすずをアテた“のん”こと能年玲奈の存在感が光る。事情によりなかなか仕事が出来ない境遇らしいが、逸材であることは間違いなく、今後も映画に出てほしい。コトリンゴによる音楽も好調。とにかく、極上の2時間余りを過ごすことができる逸品だ。
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「ヤング・アインシュタイン」

2016-12-19 06:31:07 | 映画の感想(や行)
 (原題:YOUNG EINSTEIN)88年オーストラリア作品。コイツは面白い。観る前は“ガイジンには笑えても、日本人はちっとも笑えないアチラ産の大味コメディじゃないのか?”とも思っていたのだが、実際に接してみたらそんなことは全くなかった。若い頃のアルバート・アインシュタインを描く・・・・という建前で、中身は徹底的にお笑い方面にイジられており、しかも史実をもマジメに見据えた上で玄妙に大幅改変しているという芸の深さ。作った奴はただ者ではない。

 タスマニア島でのどかに暮らしていたアインシュタインは、自家製ビールに泡を立てる方法を考えている間に相対性理論の公式を発見。早速彼はその理論を発表するため・・・・ではなくビールの醸造法の特許を得るため大都市シドニーへ向かう。途中、列車の中でマリー・キューリーと出会って一目惚れするが、居合わせたプレストンによって邪魔されてしまう。



 残念ながら特許は得られなかったが、シドニーに滞在している間にアインシュタインはサーフィンを発明したりと、マリーの歓心を得ることに成功。嫉妬したプレストンは彼を精神病院に入れ、ビール製法を盗んでノーベル賞をも受賞しようと企んだ。ところがビール製造器は実は原子爆弾であり、爆発に向けてのカウントダウンを開始。アインシュタインは新発明のエレクトリック・ギターでそのエネルギーを放出させようと奮闘する。

 アルバート・アインシュタインは南ドイツ出身のはずだが、ここでは勝手に別の場所に変えられている(爆)。そもそも彼がキューリー夫人と知り合ったのは、彼女が結婚した後であり、彼も妻帯者だったのだ。さらにはこの時点で故人だったダーウィンがVIPとして出てきたり、ライト兄弟の一人が黒人だったり、フロイトが母親に連れられていたりと、まさにやりたい放題。

 だが、主人公が特許局に勤めることになるくだりは、実際に彼が特許局の技師だった事実にヒントを得たものだ。ついでに言うと、プレストンのモデルはヒットラーであり、彼がバーバリアン兄弟と手を結んでビールを作る展開は、ヒットラーがドイツのババリア地方を支配できれば全ドイツを制圧できると考え、ミュンヘンのビアホールに押し入って新しい独裁政府を宣言したという事実の巧妙なパロディである。このように、作者はただおちゃらけているのではなく、徹底的に素材を研究していると言えよう。

 監督および製作・脚本・主演をもこなすのは、オーストラリア出身のヤッホー・シリアスなる人物。このふざけた名前を、アーティストとしての自分の信念で、なんと本名にしているというナイスな野郎である。展開はテンポ良く、カラフルな映像に絶妙のギャグが入り交じり、人を食ったラストまで存分に楽しませてくれる。シリアス監督のその後の消息は知らないが、本作を手掛けたことだけでも記憶に値する人物であると思う。
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ONKYOのスピーカーの上位機を聴いてみた。

2016-12-18 06:52:27 | プア・オーディオへの招待
 去る12月9日から11日に渡って、北九州市のJR小倉駅の近くにあるアジア太平洋インポートマートで開催された、第30回九州オーディオ&ビジュアルフェアに足を運んでみた。・・・・とはいっても当地には別の用事があって行ったのであり、フェア会場には1時間程度しかいなかったので総体的なリポートなど出来るはずもないが、印象に残った点をひとつ挙げてみたい。

 ハイエンド指向であるこのイベント。今回も相変わらず会場には総額1千万円どころか4千万円、5千万円もするシステムがゴロゴロ展示してあり、いったい誰が買うのだろうかと困惑するばかり。主催側のディーラーの社長は“これからは若い世代へ交替していくことが課題だ。ぜひ今後に期待して欲しい”と語ったそうだが、現状を見る限りその気配さえ感じられないのには脱力するしかない。



 そんな中で興味を惹かれたのは、ONKYOが新たにリリースしたスピーカーであるScepter SC-3だ。価格はペア60万円で、決して安いとは言えない製品なのだが、常軌を逸した高価格品ばかりが幅を利かせている会場内にあってはリーズナブルな値段に思えてくるのだから怖い(爆)。なお、駆動していたアンプ類も同社製品である。

 ONKYO製品においてScepterという名称は60年代から使われており、今回は久々の“ブランド復活”とのことでメーカーとしても力の入ったモデルだという。確かに、定格や外観はなかなか“意欲的”だと思った。ウーファーには世界で初めて開発に成功したというセルロースナノファイバーが使われており、ツィーター部は同社がかつて得意としていたホーン型が採用され、新設計の振動板はマグネシウム製である。

 エクステリアは何やらPA用スピーカーを思わせるような無骨で素っ気ないものだが、家庭用としてはギリギリ許せるデザインではある。ただし奥行きは大きいので狭い部屋には不向きだと思われる。特筆すべきはペアになるスピーカースタンドのAS-3で、剛性が優先されるであろうケースが多い他の置き台とは異なり、不要な振動を吸収するための弾性を持つ構造になっている。おそらくは、このスタンド込みのサウンド・デザインになっているのだろう。



 実際に音を聴いてみると、余計なケレンを廃した実に素直なサウンドが出てくる。レンジは広いが、いたずらにハイファイ度を強調したような部分は無く、決してイヤな音を出さない。少なくとも、同じ国産機としては先日試聴したDIATONEの試作機みたいに耳に突き刺さるような不快な音ではなかったのは有り難い。全体的にバランスが良く、かといって一部のモニター用スピーカーのような神経質さも感じられず、聴きやすい展開だと言える。

 音場は若干狭く感じられたが、それはCDプレーヤーに下位モデルを使用していたせいもあったのだろう。また、同社の多くのスピーカーのように繋ぐアンプを選ぶといった傾向も感じられない(まあ、実際に他社のアンプを接続して聴いたわけでは無いので断言は出来ないが ^^;)。

 ONKYOが2014年に発売したD-77NEのようなオールドファン目当ての復古調の製品ではなく、明らかに“攻め”の姿勢で開発されたモデルだと言えよう。同価格帯の他社のスピーカー(特に海外製品)に比べてどれほどの競争力があるのかは未知数だが、オーディオ好きとしては聴いて損はしないほどのクォリティを確保している製品であると思う。
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「ジムノペディに乱れる」

2016-12-16 21:25:00 | 映画の感想(さ行)

 やっぱり行定勲は三流の監督だ。日活の成人映画の輝けるブランド“ロマンポルノ”の45周年を記念し、現役の監督たちが新作ロマンポルノを手掛ける“日活ロマンポルノ・リブート・プロジェクト”の第一弾だが、この注目企画の一翼を担いながら低調な仕事ぶりしか見せられないこの演出家には、早々にレッドカードを突きつけるべきだと思う。

 かつては国際映画祭で賞を獲得したこともある映画監督の古谷も、今はスランプに陥り、せいぜい低予算映画の仕事にありつくのがやっとだ。今回もつまらない脚本に閉口しながらも渋々と新作の撮影に入るが、主演女優がラブシーンで文句を言い始め、結果、映画は製作中止となってしまう。急にヒマになった古谷は、映画専門学校の教え子である結花と関係を持つ。さらには知り合った女ほぼ全員と性交渉を持つが、実は彼には入院中の妻がいて、現在は植物人間状態で余命幾ばくも無い。しかし彼女を前にしても、古谷は無軌道な生活を辞めようともしない。

 自堕落なダメ中年の性遍歴を追うという設定はまあ悪くは無いが、問題はこの主人公に異性を惹き付ける魅力が微塵も感じられないことだ。どんなにショボクレていても、内にキラリと輝くカリスマ性やダンディズムがあれば女達がなびくのも、まあ納得できる。しかしどう見ても古谷は冴えないオッサンそのもので、こんな中年男を前に躊躇無く女どもがパンツを脱いでいくシーンの連続には、鼻白むばかり。

 さらに言えば、ロマンポルノの基本的手法である“10分に1回のセックスシーン”のノルマは何とかクリアしていながら、そのヴォルテージの低さには呆れるばかりだ。ただ裸の男女を並べているだけで、そこにはエロさも“ときめき”もまったく無い。行定監督には“アダルトビデオでも見て少しは勉強すれば?”と言いたくなった(笑)。

 面白くもないエピソードが延々と積み重り、最後は取って付けたようなモチーフが挿入される。また題名の通りサティのジムノペディ第一番が頻繁に挿入されるが、これが何のメタファーにもなっていないばかりか、画面と全然合っていない。この監督は音楽的センスも持ち合わせていないようだ。主演の板尾創路にとっても、本作は“黒歴史”になるのではないか。芦那すみれや岡村いずみといった女優陣も、往年のロマンポルノの銀幕を飾ったお歴々と比べるのもおこがましい。

 それでも興味を惹かれた箇所を無理矢理挙げてみると、まず風祭ゆきがチラッと出ていること。若い頃の彼女の“熱演”に感心した身としては嬉しかった。そして、古谷が“最近の若い女優はなかなか脱がないな”みたいなことを呟くことだ。これは行定勲の“本音”かもしれないが、確かに若くて良い人材がけっこういる割には“身体を張れる”女優が少ないのが現状。このあたりを打破していくことが今後の“課題”かもしれない(苦笑)。
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「ダークマン」

2016-12-12 06:36:10 | 映画の感想(た行)
 (原題:DARKMAN )90年作品。サム・ライミ監督によるヒーロー物といえば「スパイダーマン」三部作を挙げる向きが多いだろうが、彼のヒーロー映画の代表作は、間違いなく本作だと思う。アメコミの原作に準拠しないオリジナル・キャラクターで、彼のオタク趣味が十分に発揮されていると言って良い出来だ。

 人工皮膚の開発に従事する科学者ペイトンは、恋人で弁護士のジュリーが取り組んでいる都市開発にからむ収賄事件の証拠を持っていたことから、殺し屋のデュランの一味に襲われ、全身に大火傷を負ってしまう。奇跡的に一命を取りとめた彼は、神経が切断されて感覚が麻痺し、その結果抑制力を失なって超人的なパワーを発揮する身体になっていた。焼けただれた顔をジュリーにも見せられなくなった彼は、密かに廃工場で研究を続け、ついに誰にでも化けられる人工皮膚を開発。闇のヒーロー“ダークマン”となってデュラン一味に復讐を開始する。



 人に姿を見せられず、仮面の下で生きる。怒りが爆発すると常人の6倍の力を発揮するが、人工皮膚は99分しか保たない。パワーはあるが、あまりにもハンディの多いこのヒーロー像は、アメコミの主人公(たとえば「バットマン」等)よりも切迫した宿命を背負い込み、しかも十分にマンガチックだ。

 研究所が爆破されるとペイトンが文字通り火だるまとなって外に放り出されるシーンはケッ作だが、さらに怒りを爆発させると「巨人の星」もかくやと思われるほどの大仰な映像イメージが挿入される(笑)。一応製作元はユニヴァーサルというメジャー会社なのだが、徹底したB級タッチには嬉しくなってしまう。

 ライミの演出はテンポが良く、アクションシーンも万全で、ホロ苦いラストの処理も見事なものだ。主演のリーアム・ニーソンは絶好調。根がマジメなのだが理不尽な境遇に耐えられずに暴走してしまう主人公を、正攻法(?)のシリアス演技で実体化させてしまうのはアッパレである。

 女優の(外見面での)趣味がよろしくない同監督だが、ジュリー役のフランシス・マクドーマンドもルックスはイマイチ。しかしながら、持ち前の演技力で役を自分のものにしている。コリン・フリールズやラリー・ドレイクら悪役もイイ味を出している。さらにはジョン・ランディス、ブルース・キャンベルらがゲスト出演しているのも嬉しい。ダニー・エルフマンの音楽も効果的。ライミ監督にはこういうタッチの娯楽編をまた撮って欲しいものだ。
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