元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「真昼の切り裂き魔」

2006-06-30 06:55:13 | 映画の感想(ま行)
 84年新東宝製作のピンク映画で、監督は「木村家の人びと」「コミック雑誌なんかいらない!」「病院へ行こう」等の滝田洋二郎。

 今でこそ職人監督みたいなとらえ方をされて一般映画を次から次へと撮っている彼だが、デビュー当時はピンク映画のホープと言われて成人向けを量産していたのである。滝田監督の作風は大きくわけて2つあって、ひとつは「痴漢」シリーズに代表される徹底的なドタバタ・コメディ、もうひとつは「コミック雑誌・・・・」のようなシリアスなサスペンス・ドラマ。この作品はもちろん後者に属し、ピンク映画時代の代表作とされているものだ。

 主要な登場人物は3人。写真週刊誌の女性編集者、フリーのカメラマン、そしてアマチュア読者カメラマン。アマチュアのカメラマンが新幹線の窓から何気なくシャッターを押していると、その中の一枚に殺人の現場らしきものが写っていた。犯人は連続して発生している通り魔殺人事件の容疑者ではないかと思った彼はその写真を警察や写真週刊誌の出版社に持っていくが、誰も信用してくれない。やがて、犯人の魔の手は主人公たちの周囲にもおよびはじめ、彼らは独自に捜査を開始するが・・・・・。

 まるで成人映画らしくないストーリーであるばかりでなく、巧妙なプロットとたたみかける演出によって最後までピーンと緊張の糸が張りつめたスリラー映画の快作となっている。

 からみのシーン(そりゃやっぱり成人向けですから)はもちろん、ときおり挿入される抽象的なショット-----エアブラシで描かれたイラストのような半熟目玉焼がナイフとフォークで切り開かれるシーン、上下するエレベーターをあおって撮った不安定なシーン(アラン・パーカー監督の「エンゼル・ハート」みたい)など-----がすべて本編の伏線となっているところがすごい。ヒッチコックの「サイコ」の一場面を再現するあたりは御愛敬だとしても、たいしたものだ。

 冷たいトーンの撮影と照明、成人映画でここまでやる?といわんばかりのハイテックなインテリア共々、実にモダンな映画といえる。現代では誰もが切り裂きジャックになりうるというテーマをよくあらわした作品だ。

 意外な犯人、それに続くラストのショッキングなシーンなど、忘れ難い印象を残す。「セブン」とか「コピーキャット」みたいなハリウッド作品よりも数段観る価値があると言えよう。
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「あおげば尊し」

2006-06-27 06:45:53 | 映画の感想(あ行)

 末期ガンを患う父親を、生徒達に命と死の厳粛さを見せるための“教材”にしようとする小学校教師の苦悩を描く市川準監督作品(原作は重松清)。

 同監督は「病院で死ぬということ」で似たような題材を取り上げているが、文字通り病院で生を全うせざるを得ない、たぶん我々の多くがそうなるであろう普遍性を持つネタに比べて、在宅での死(比較的レアケース)を描く本作は、伊丹十三の「大病人」という派手な先行作品があるだけに分が悪いと言える。

 ここでは主人公が教師で、父親も元教師という設定により、教育問題をからめて新味を出そうとしているものの、どうもしっくり来ない。だいたい、子供達に死期の近い人間の姿を見せることによって何か“効果があるはずだ”と考えること自体が安易ではないか。事実、多くの生徒達がネガティヴな反応しか示さず、主人公は落胆するのだが、これは作者のエクスキューズにしか見えない。

 しかも、インターネットで死体の写真を見たり斎場に忍び込んで遺体を眺めたりするのが好きな一人の生徒について、終盤にその“背景”が取って付けたように示されるのは鼻白むしかない。そんな甘い認識で人間の“心の闇”を語ってもらっては困るのだ。

 ここは奇をてらわずに、厳格で生徒のウケも良くなかった父親と、かつての教え子との関係を地道に追った方が観客へのアピール度が高かったのではないか(しかも、ああいう結末を迎えるのなら、なおのこと)。

 ただし、これが初主演となるテリー伊藤は意外なほどの好演で、映画が“語るに落ちる”レベルにシフトダウンすることをギリギリのところで防いでいるのは評価したい。特に生徒にロンパリの目を指摘されて理由を隠さず説明するシーンは印象的。妻役の薬師丸ひろ子がアイドル時代の残り香を見せているあたりもよろしい(笑)。

 それにしても、最近は卒業式で「あおげば尊し」はあまり歌われないらしいが、これは“我が師の恩”より“生徒個々人の思い出”の方を優先させようという風潮だろうか。寂しいことだ。
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「ミッション:インポッシブル」

2006-06-26 08:27:03 | 映画の感想(ま行)
 (原題:Mission: Impossible)今夏、第三作が公開予定だが、私は期待していない。何しろ96年製作の、この第一作からして低調の極みであるからだ。往年の人気テレビシリーズ「スパイ大作戦」の期待の映画化も、トム・クルーズが主演だとこんなになるのかと脱力できること請け合いだ。

 だいたいトム君に理詰めで動く沈着冷静なスパイ役なんかできるわけがない(極論)。ところが困ったことに、この映画は彼自身のプロダクションで製作されている。“トム君中心。あとはオマケ”のスタンスが貫かれていて、もう呆れるほどの映画の私物化ぶりだ。

 トム君の“あんまり難しいことを考えるのは得意じゃない”というキャラクターに合わせるように、プロットの展開が極めて平易。つまりサスペンス映画としてレベルが低い。冒頭の、諜報員の名簿を盗んだスパイを追いつめようとするエピソードからして、“これが「スパイ大作戦」の映画化か?”と思うほどの段取りの悪さ。ハメるつもりがハメられてしまう彼らの顛末も、大方の観客には簡単に予想がついてしまう。一番シラけた場面は、トム君が事件の裏を推理(?)すると、画面にその通りのシーンが漫然と流れるくだりで、こんなのはクライマックスのキメの部分に持ってくるならまだしも、中盤でネタを明かしてあとはトム君得意のノー天気な活劇に突入させようという意図がミエミエで、すでにTV版とは(悪い意味で)一線を画す、お手軽映画になり果てましたという作者の“投了サイン”でしかない。

 さらに、ジャン・レノやエマニュエル・ベアール、ジョン・ヴォイトにヴァネッサ・レッドグレーブという豪華な面子を脇に配しているにもかかわらず、少しも印象に残らない。考えてみればこれも当然で、“あんまり難しい演技は得意じゃない”というトム君を中心に撮らなければならないため、ちょっと本気出せば簡単に主役を食ってしまう実力派の脇のキャストには出来るだけ芝居させないようにしたためだ。これでは監督ブライアン・デ・パルマも何もやることがなく、大味なアクション演出に終始するしかない。

 「007」の向こうを張ったようなヨーロッパロケも観光映画の域を出ず、特急列車の上での活劇場面は予告編だけで十分。おなじみのテーマ音楽がむなしく響く。
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負けるべくして負けたサッカー日本代表。

2006-06-25 07:28:00 | 時事ネタ
 日本チーム、予選敗退。残念なことだが、個人的には正直「予想通りだな」といったところ。何せ3連敗だと思っていたからね。クロアチアに引き分けたのが奇跡と言えるかも。私は最初からシラケていて日本戦の生放送は一度も見ていない(まあ、仕事が厳しくて帰宅即就寝の日々が続き、テレビどころではなかったこともあるが)。

 なぜ当初から「ダメだ」と思っていたかというと、ロクにシュートも出来ないフォワードがいたからでもなく、病気がちなミッドフィルダーが先発していたからでもない。それ以前の問題。選手に采配を振るうはずの監督が無能だったから。そして、そんなボンクラを大枚払って監督に据えたサッカー協会のお偉方がいい加減だったから。

 別に私はサッカーに詳しいわけではなく、具体的に采配のどのへんが拙いのかを指摘することは出来ない。だが、ジーコが就任当時に協会やマスコミの間で「トルシエ流、組織重視、結果重視の退屈なサッカーから、中村俊輔に象徴される個人の能力を最大限活用するようなサッカー、いわゆる“魅せるサッカー”へのシフトチェンジを図る」とか何とかいう謳い文句が踊っていた時点で「あ、ダメだこりゃ」と見限っていた。

 監督の経験が全くない人間に一国の代表監督を任せるJFAの姿勢も噴飯ものながら、この「個人の能力を活かした魅せるサッカー」なるスローガンほど馬鹿臭いものはない。個々人に自由に「能力を活かす」ということになれば、監督なんて要らないではないか。てゆーか、各自が勝手に能力を活かすことが主眼なら、勝負なんかどうでもいいだろう。で、結果的に勝負にならない試合を3回こなして帰国することになった。JFAとしてはこれで本望ではないのか。

 本気で勝とうと思うなら、マジに決勝トーナメントへ進みたいと切望していたのなら、そんな「組織重視から個人主義へ」みたいな寝言は慎むべきだったろう。綿密な戦術策定と適材適所の起用、それに向けての合理的な鍛錬、そして期待に応えられる人材の育成、こういう組織だったチーム作りこそが大舞台で結果を出すことの必要条件だと思っていたが、違うのか? 個人任せの野放し体制で大きな大会で結果を残し続けたサッカーチーム---サッカーに限らず、どんなチームスポーツでもいいが---がもしもあるのなら教えて欲しい。

 問題は、この「個人の自由を尊重する楽しいサッカー」なるマヤカシを持て囃した世間だ。特に、ある程度結果を残した組織主義の前任者トルシエを貶め、自由放任無責任無為無策の素人ジーコを最後まで弁護するマスコミの姿勢には脱力感を覚える。さすがにW杯惨敗で週刊誌などではジーコ批判が持ち上がっているが、テレビや新聞ではあからさまな強い非難は巻き起こっていない。

 トルシエは日本語を覚えようとしない生意気な野郎だからいくらケナしてもOKだが、ジーコは「神様」だから神聖にして冒すべからずってか? こういう根拠皆無の「精神論」「印象論」もどきが事を誤らせるのだ。本来は遅くともアジア一次予選の途中(特にシンガポール戦)でジーコを解任して他のもっとマシな人材を充てるべきだったのだ。

 しかしまあ、こういう「現実の結果を考えず、場当たり的な“印象”ですべてを決める、悪しき精神主義・印象至上主義」が受け入れられる素地がファンにも、マスコミにも、そして世間にもあったってことは、小泉みたいなハッタリ野郎が長期に政権を維持している事実を見ても、認めざるを得ない。みんな、現実の損得勘定よりも、結果よりも、その場限りの“印象”が好きなんだろう。

 で、今後の日本チームに明日はあるか。次の大会で活躍できるか。

 今回の「結果」を十分反省して「現実的な」対策を打てば何とかなるかもしれない。JFAがマスコミの「神様ジーコは良くやった。悪いのは○○選手」みたいなピント外れの「雑音」を廃して地道にチーム作りに勤しむ・・・・しかないだろう。ただでさえ、次回からはアジア予選にオーストラリアが入ってきて本大会出場のハードルが高くなることは必至。さらに今回決勝トーナメントにアジア勢がひとつも入らなかったことからも分かるように、アジア全体のレベル低下による出場枠削減の懸念もある。よほどフンドシ締めてかからなければダメだろうね(-_-)。
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「プロデューサーズ」

2006-06-24 17:42:24 | 映画の感想(は行)

 (原題:The Producers )メル・ブルックス監督のデビュー作のリメイクだということを観た後に初めて知った。ただし、舞台化は68年の映画製作後だから、これは舞台版の映画化と言っていいかもしれない。いずれにしても、無頼に楽しい映画だ。

 もちろん、ここには全盛期のMGMミュージカルのごとく現世を完全に超越したような悦楽感はないし、ジーン・ケリーやフレッド・アステア、ジンジャー・ロジャースのような天才もいない。ネイサン・レインとマシュー・ブロデリックは好演だが、往年のミュージカル・スターのような輝きには欠ける。ユマ・サーマンに至っては身体が重すぎて画面のリズムが停滞してしまう。何より、全体を覆う“ユダヤ臭さ”には愉快になれない。

 しかし、しかしである。それでも、ウキウキとした旋律に乗って登場人物が歌い踊り、絵に描いたようなハッピーなストーリーが臆面もなく展開されると、心の底から幸せな気分になれる。これがミュージカルの魔術であろう。

 特に劇中劇「春の日のヒットラー」は、あまりの煌びやかさ、あまりの脳天気さに、マジで泣けてきた。人間、涙が出るのは哀しいときや嬉しいときばかりではない。楽しくてたまらないときも目頭が熱くなるのだ。時代設定の1959年の意匠も万全で、街中に「ウエストサイド物語」や「マイ・フェア・レディ」のポスターが貼られているあたりはニコニコしてしまう。

 ミュージカル映画というジャンルは、もはやハリウッドでは作れず、インド映画の専売特許になってしまったと思っていたが、その認識は間違っていたようだ。今もブロードウェイではヒット作は次々と出ているし、トニー賞も盛り上がっている。映画のネタには困らないはずだ。今後もこういうシャシンが作られることを切望するものである。
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「コンセント」

2006-06-23 06:53:15 | 映画の感想(か行)
 2001年作品。田口ランディの同名小説の映画化で監督は中原俊。

 前半はちょっと面白い。精神錯乱の末に餓死した兄の幻影におびえるヒロインの姿をホラータッチで描き、死んだ兄の部屋に残された“コンセントにつないだままの新品の掃除機”の謎や、得体の知れない登場人物たちが映画のミステリー度を高めてゆくのは確か。

 ただし、中盤以降は完全に失速。取って付けたような“謎の真相”とワザとらしい“ヒロインの覚醒”とやらが画面を大いに盛り下げてくれる。そして、劇中に精神科医も出てくるのに映画で描かれる登場人物の“悩み”の原因の数々が呆れるほど図式的で平易なのには脱力してしまった。これは映画の責任というより、原作者の人間観察の底の浅さと安易な依頼心によるものだろう(原作は読んでいないし、読む予定もない)。

 ただし、全然観る価値のない映画かというと、そうでもない。それは何より主演の市川美和子に尽きる。かなり個性的な顔立ちとぶっきらぼうな演技が、人間離れしてゆくヒロイン像にぴったりで、何やら異様な存在感を醸し出すことに成功している(怪我の功名か)。もっとも、「アナザヘブン」といいこの映画といい、役柄が限定されるようなキャラクターであるのは仕方がないけどね。
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「リムジンドライブ」

2006-06-22 06:57:07 | 映画の感想(ら行)
 2001年作品。ニューヨークを舞台に、今時の日本人少女と黒人ドライヴァーが巻き起こす騒動を描いたコメディ。監督・脚本は「ジャンク・フード」などの山本政志。

 ギャグの連続で観ていて退屈はしなかったが、出来としてはそれほどのシャシンとは思えない。

 観る前は“停滞していた人間関係やその周囲の状況が部外者により攪乱されてあらぬ方向へ(いい意味でも悪い意味でも)動き出す”というドラマツルギーの王道を行くスタイルの映画だと思っていたのだが、主人公のコギャルは結局何もしていないし、ラストで彼女が去って行ってもニューヨークの下町で暮らす彼等の生活は変わらない。

 もちろん彼女のせいでリムジンの運転手は一時的に職を失い、バーテンあがりの凶暴なチンピラが狼藉をはたらいたりするのだけれど、それが結果としてドラマ的に面白いかというと、あんまり・・・・。

 山本政志監督としては「ジャンクフード」の暴力性と「てなもんやコネクション」のおちゃらけ路線をミックスしたつもりだろうが、今回はどっち付かずの感があり散漫な印象を受ける。まあ“ドラマの辻褄合わせなんかよりも、俺の描きたいのは多人種の揃い踏みによるカルチャー・ギャップのオカシさだけなのダ”と開き直られたら黙るしかないけどね(暗然)。
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「真昼の暗黒」

2006-06-21 06:48:38 | 映画の感想(ま行)
 今井正監督による昭和31年作品。実在の冤罪事件を描いて当時の映画賞を総ナメにした“社会派映画の傑作”とされているシャシンだが、現時点で観ると何か釈然としないものを感じる。

 だいたい、あれだけ明確な無罪立証が成されているのに、いくら戦後の混乱期の余韻があるとはいえ、簡単に裁判所が有罪判決を出すはずがないではないか。“実話だからしょうがない”といっても、実際には弁護側の論告を拒絶するだけの当局側の圧力なり策謀があったはずで、そのへんを詳細に描かないと説得力はない。もしも現在、この映画と同様のプロットで法廷劇が製作されても「失敗作」との烙印を押されるだけだろう。

 ではなぜこの作品が当時高い評価を受けたのか。それはつまり、その頃は“裁判所も警察もまったく信用ならないものだ”というコンセンサスが確立していたからではないかと思う。いわばアナキズム的な左傾思想。映画ジャーナリズムも能動的な映画ファンもこのスタンスにかぶれていたからに違いない。

 だから“なぜ信用ならないか”ということは映画でわざわざ描かなくても自明の理であり、裁かれる側の人物背景だけを描けば事足れりというような評価の仕方をされたのであろう。その時点での最先端のトレンドを掴んでも、時が過ぎれば古い方法論にしか見えない。映画というのは難しいものである。

 今井監督の演出はとりたてて才気走ったところは見当たらないが、後年の「戦争と青春」などとは段違いの骨太さを見せていることは認める。草薙幸二郎や左幸子らキャストの頑張りも印象的。伊福部昭の音楽も良い。
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自殺対策基本法って・・・・。

2006-06-20 06:45:46 | 時事ネタ
 去る6月15日、国と自治体、事業主、国民に自殺対策の責務を課した「自殺対策基本法」案が衆院本会議で可決、成立した。

(引用開始)
 (この法の)基本理念として、自殺は「個人的な問題としてのみとらえるのではなく、その背景に社会的な要因がある」と指摘し、社会問題と位置づける。そのうえで、国と自治体に「自殺防止対策を策定し、実施する責務がある」ことを条文化する。(中略)このほか、国と自治体は、自殺防止に関して調査研究を推進し、情報の収集や分析、提供を行うとする。一般国民に対して、教育や広報などを通じて、必要な施策を実施することも明文化する。(毎日新聞 2006年5月14日)
(引用終了)

 法の概要そのものにはそれほど間違ったことは書いていないようだが、それ以前の、肝心の対策の方向性そのものが完全にピントが外れていると思うのは私だけだろうか。

 警察庁が2003年に発表した原因・動機別・年齢別自殺者数(遺書ありのみ)の資料では、原因の中で一番多いのが健康問題 で37.5%にものぼる。次に経済苦で35.2%。実にこの二つで全体の7割以上を占めている。問題解決の手法としては、大きな原因から片付けるのが定石だ。健康問題に関しては、これはもう医療機関に頑張ってもらうしかない。よって、現時点でつぶすべき優先順位は経済問題ということになる。しかも、経済的な問題は一位の健康問題と大きな部分でリンクしていると思われる。なぜなら“先立つもの”がなければ治る病気も治らないし、退院・快癒後のアフターケアも覚束ないからだ。

 では、その庶民が被る経済苦を低減させるようにするにはどうしたらいいか。そんなのは知れたこと、景気を良くすればいいのである。一般ピープルにも、困窮しないだけのカネが回ってくるようにすれば良いのである。

 前にも書いたが、マスコミの“景気は回復した!”というスローガンは嘘っぱちである。儲かっているのは一部の輸出関連大企業の幹部のみ。どうすれば本物の景気が回復し、一般庶民が経済苦に陥らずに済むのかは別の機会に書くとして、この“根本的な解決策”を提示せず、やれ“情報の収集や分析、提供を行う”といった、具体的なようでいて実は抽象的な掛け声の羅列に終始する“自殺対策法”の存在理由とは、ズバリ“誰も責任を取りたくない”ってことに尽きるのではないか。

 いくら小泉首相が“格差が出るのは仕方がない(=経済苦で悩む者が多くなってもやむを得ない)”と言っても、自殺者が増えている事実は厳然としてある。だから当局側としては何かアクションを起こさなければならない。でも、本気で問題解決を図るとなると“大きな原因から潰すこと”それ自体が理詰めの展開の発端となり、当然そうなると“結果”を求められる。政治家も役人も、そんな面倒な立場はゴメンである。だから“教育や広報などを通じて、必要な施策を実施しよう”みたいな、御為ごかしの対策しか打とうとしないのだ。対策自体がスローガンならば、結果が伴わなくても“おかしいなァ”とトボケていればいい。そして“何か対策をやりました”という事実・実績のみが残る。まるで笑えない笑い話。そんな間にも、経済苦で人生を全うするハメになる者は後を絶たない。

 こうなれば政治家も官僚も学者も“自殺するのは本人が悪い! 自殺するならするで、我々の迷惑にならないところで、ひっそりとやってくれ!”と、“本音”をブチあげたらどうなんだ。そうなりゃ誰だって眉ぐらいひそめるだろう(冷笑)。もっともらしいスローガンの連呼など、百害あって一利無しだ。
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「タブロイド」

2006-06-19 06:50:47 | 映画の感想(た行)

 (原題:Cronicas)エクアドルの幼児連続殺人鬼を追うマイアミの放送局のリポーターが“私は殺人犯と知り合いだ”と言う胡散臭い男を取材したことで、取り返しのつかない事件に巻き込まれてゆくさまを描くアルフォンソ・キュアロン作品。監督・脚本は新鋭セバスチャン・コルデロが担当している。

 マスコミの欺瞞を暴く映画は数あれど、残虐度と後味の悪さではピカイチだろう。構図としては「スクープ/悪意の不在」や「破線のマリス」等と共通している部分が多々あるが、これが鬱蒼とした“緑の魔界”とでも形容したくなるようなエクアドル奥地のジャングルを背景に、この国が抱える悪しき官僚制および賄賂社会、さらにアメリカに対する従属的政治体制というハードなネタを散りばめると、得体の知れないダークな雰囲気が全篇を覆う。救いようのないラストも気分を萎えさせるのに十分だ。

 それにしても、古今東西の映画で描かれてきた、このマスコミの独善というやつは救いようがないものだ。つまらない野心と、吹けば飛ぶよなプライドと、身の程知らずの使命感で、事態をますます悪化させ、自分たちはまったく責任を取らない。権力を告発するつもりが、逆に権力に翻弄される滑稽さ。さらに自らが“権力”であることを都合良く失念している。

 “問題の男”を演じるレオノール・ワトリングは底知れぬ心の闇を体現化して圧巻だが、リポーター役のジョン・レグイザモがマスコミ人種の軽薄さをうまく表現していて感心した。スペイン語もペラペラで驚いたが、彼はコロンビア出身ということを最近知った私である(^^;)。
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