元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「レベル・リッジ」

2024-09-30 06:33:35 | 映画の感想(ら行)

 (原題:REBEL RIDGE )2024年9月よりNetflixから配信。設定だけ見ると、これはシルヴェスター・スタローン主演テッド・コッチェフ監督による「ランボー」(82年)と似た話だと思われがちだが、中身は違う。「ランボー」は帰還兵である主人公を取り巻く情勢に関していくらか言及されていたとはいえ、映画はランボー自身の逆境と苦悩に主眼が置かれていた。対して本作が取り上げているのは、現時点での社会的不条理そのものだ。活劇物としては及第点に達していないかもしれないが、存在価値はある。

 ルイジアナ州の田舎町。元海兵隊員のテリー・リッチモンドは、拘留されている従兄弟のために、保釈金を手に地元の司法当局に向かっていた。ところがパトロール中の警官に因縁を付けられて、準備した現金の入った袋を不当に押収されてしまう。納得出来ないテリーは、司法研修生のサマー・マクブライドと協力して事態の打開を図ろうとする。すると浮かび上がってきたのは、地元警察およびそれを取り巻く状況の腐敗ぶりだった。

 テリーはスタローン御大が演じたランボーのように派手に暴れ回るわけではない。現役時代は特殊部隊に属していて腕に覚えはあるが、今では単なる民間人だ。問答無用で銃をぶっ放してくる警官たちに対しても、節度を守らざるを得ない。だから殺傷性の低い道具で対峙せざるを得ず、バトルシーンは盛り上がりを欠く。

 それでも強く印象付けられるのは、この地域が構造的に抱える問題だ。州当局はこんな僻地の警察署に予算を回す気は無い。めぼしい産業も見当たらないこの地域に待ち受けるのは、他地域との合併による要員のリストラだろう。だから警察としては現金および銃火器の不法な没収や、拘留期限の誤魔化しによる検挙率の水増しに走る。

 もはや警察は治安維持機能を持ち合わせない“反社会組織”に成り果てている。これが真実なのかどうかは我々部外者には分からないが、映し出される南部の草臥れて寂れた状況を見れば、さもありなんと思わせる。脚本も担当したジェレミー・ソルニエの演出はそれほどスムーズではないが、問題意識の抽出に腐心していることは十分窺われる。

 主演のアーロン・ピエールは不貞不貞しい好演。当初は物腰は柔らかいが、次第に本性を現していくあたりの表現は上手いと思う。ドン・ジョンソンにジェームズ・クロムウェル、ジャネイ・ジャイといった脇のキャストも申し分ない。なお、サマーに扮しているのがアナソフィア・ロブだというのは少し驚いた。十代の頃の彼女しか知らなかったが、見た目も演技も成長の跡が見える。
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「きみの色」

2024-09-29 06:32:57 | 映画の感想(か行)
 これは面白くない。とにかくシナリオの出来が悪すぎる。そしてアニメーション技術も及第点には達していない。監督の山田尚子が2016年に手掛けた「映画 聲の形」は、食い足りない部分は多々あるものの、主人公の造型と卓越したアイデアが満載の映像処理により見応えのある作品に仕上がっていた。だからこの新作も期待したのだが、完全にハズレだったようだ。

 全寮制のミッションスクールに通う日暮トツ子は、子供の頃から人間が“色”として見えるという特殊な感性を持っていた。そんな彼女は、同じ学校に通っている作永きみが気になって仕方が無い。何しろトツ子の目からは、きみは美しい青に“見える”のだ。しかし、きみは突然に学校を辞めてしまう。きみを探すトツ子は、街の片隅にある古書店でやっと彼女を見つける。そこに居合わせた音楽好きの影平ルイと意気投合したトツ子は、3人でバンドを組むことになる。



 トツ子はある種の共感覚の持ち主なのだろうが、人間自体に“色”が付いて見えるというのは、無理筋の設定だ。相手をある程度知ってから“色”を認識するのならば分からなくもないが、最初から“色合い”で付き合うかどうかを決めるなんてのは、独善に過ぎないだろう。きみが退学した理由は最後まで示されないし、そもそも生徒が学校からエスケープすれば真っ先に保護者に連絡が行くはずだが、それも無し。

 きみが店番をしている古本屋は、路地裏のそのまた奥にあり、現実感はゼロだ。ルイの住処は携帯電話の電波も届かない離島で、そこにある古い教会を3人は練習場所にするのだが、これも浮世離れしている。要するにこれは、私が最も苦手とする“若年層向けのファンタジーもの”ではないか。

 それでも主人公たちのキャラが好ましく、なおかつ3人によるバンドのサウンドが素晴らしければ許せてしまうのだが、それも不十分。トツ子は身勝手な理由で修学旅行をキャンセルするし、きみは何を考えているか分からない。ルイの家庭環境は微妙みたいだが、それは詳述されないし、本人の中身はどうなのかも掴めない。学園祭でのバンドのパフォーマンスは観ていて一向に盛り上がらないし、楽曲のレベルも低い。つまりは見せ場が無いのだ。

 舞台は長崎市をモデルにしているらしいが、あの町に住んだことのある身から言わせれば、ほとんど魅力が出せていない。とにかく映像に奥行きが無く平板である。色遣いもパステルカラーのパッチワーク(?)に終始して陰影に乏しい。極めつけはMr.Childrenによるエンディングテーマで、それまでの映画の雰囲気とまったく合っていない。ひょっとして作者はミスチルのファンなのかもしれないが、この起用は失敗だったと言わざるを得ない。
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「ラストマイル」

2024-09-28 06:34:56 | 映画の感想(ら行)
 取り敢えず最後まで退屈せずにスクリーンに向き合えたが、正直“こういう映画の作り方ってアリなのか?”という違和感を拭いきれない。確かにカネは掛かっているものの、これは地上波か配信でテレビ画面で鑑賞すべきシャシンではないかと思う。しかも、これが最近の(実写の)邦画では珍しくヒットを飛ばしているという事実を見るに及び、日本映画を取り巻く環境について改めて考え込んでしまった。

 世界最大のショッピングサイトが仕掛けるイベントの一つである11月のブラックフライデーの前夜、関東物流センターから一般消費者に配送された荷物が爆発し。犠牲書が出るという事件が発生。さらに同様のアクシデントは連続して起こり、当該サイトや運送業者は窮地に陥る。関東センター長に着任したばかりの舟渡エレナは、チームマネージャーの梨本孔と共に解決を図ろうとするが、やがて事件の背景には数年前の労務災害が関係していることが明らかになる。



 塚原あゆ子の演出はスムーズで、物語が滞ることはない。野木亜紀子による脚本も、散りばめられた伏線はほとんど回収され、大きな瑕疵は無いように見える。しかし、ここで取り上げられている物流業界やネット通販関係の中に蔓延するブラックな様態とか、儲け主義を優先するあまり人権が軽視されている社会的風潮とかいった重大なモチーフに思いを馳せる観客は、ほとんどいないだろう。なぜなら、これはTVドラマの拡大版とほぼ同じ立ち位置で作られているからだ。

 私は本作を観るまで知らなかったのだが、これはTBSの人気ドラマ「アンナチュラル」及び「MIU404」と世界線で起きた事件を扱っているらしい(私はどちらも未見で内容も知らない)。だから、脇のエピソードに必要以上にスポットが当たっており、意味も無く配役も豪華だ。元ネタのドラマを少しでも関知している向きならば敏感に反応してしまうのだろうが、そうではない私は不自然としか思えない。だから、映画としては物足りない。

 本気で社会派の題材を扱おうとするならば、テレビ版に寄りかかったような余計な“お遊び”は不要だ。もっとも、そうなると広範囲な観客は呼べないという意見もあろうが、正攻法を突き詰めて高評価を得るようなレベルまで引き上げていれば、それはそれで存在価値がある。

 及び腰な姿勢でライト層にアピールすればそれでヨシとする送り手と、映画に多くを求めていない観客との“共犯関係”が罷り通っている状況では、韓国映画あたりにはとても追いつかないだろう。主演の満島ひかりと岡田将生は悪くはないが、彼らとしては(特に満島は)“軽くこなした”というレベルだろう。他のキャストは多彩だが、何やら“総ゲスト出演”という空気は拭いきれない。
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超絶リアリズム絵画展に行ってきた。

2024-09-27 06:23:31 | その他
 先日、福岡市博多区下川端町にある福岡市アジア美術館で開催されていた「ホキ美術館所蔵名品展 超絶リアリズム絵画」に行ってきた。ホキ美術館は千葉市にあり、写実絵画を専門とするミュージアムだ。その所有作品はすべて日本人の現代作家たちによるもので、約500点を保有しているという。今回の展覧会は、そのコレクションの中から64点が選抜されている。

 タイトルにある超絶リアリズム絵画というのは、いわゆるスーパーリアリズム(対象を克明に描写する美術の潮流)に属するのだろう。私はこういうタッチの作品をまとめて観たことがなく、興味深く鑑賞することが出来た。また、我が国にこのような方法論を採用している作家が、現時点で少なからず存在していることも(恥ずかしながら)初耳だった。



 写真的なリアリティを追求することから、いきおい没個性的な手法だと思われるかもしれないが、素材を即物的に捉えて作り手のテーマに応じて配置していくという意味では、ポップアートに通じるものがあるという。なるほど、写真で用が足せればこのような手法は存在しないわけで、展示された作品はいずれも“現実とは異なる、もう一つのリアル”を醸し出していた。

 中でも気に入ったのは、大阪府出身の画家である原雅幸の「モンテプルチアーノ」だ。イタリアのトスカーナ州にある城壁に囲まれた美しい町の遠景を捉えたものだが、圧倒的な存在感と、光と影のコントラストが素晴らしく、いつまでも観てみたい魅力を湛えている。



 なお、福岡市アジア美術館(創立は99年)に足を運んだのは久しぶりだが、他の市内の美術館と異なり街中にあるのは珍しい(歓楽街として有名な中洲とも近い)。その名称通り、主にアジアの作家の作品を網羅した常設展示はもちろん企画展にも個性が感じられる。これからも面白そうな出し物があればチェックするつもりだ。
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「愛に乱暴」

2024-09-23 06:36:13 | 映画の感想(あ行)
 実に胸糞が悪くなる映画だ。断っておくけど、この“胸糞”という言い方は最近は時に褒め言葉として使われるようなので、ここではそう表現させてもらった。とにかくインモラルなモチーフが釣瓶打ちで、ここまで追い込むかと半ば感心しながら鑑賞を終えた次第。広く奨められるシャシンでは決してないが、求心力の高さは認めざるを得ない。

 神奈川県綾瀬市に住む初瀬桃子は、夫の真守と2人で真守の実家の敷地内に建つ離れで暮らしている。母屋には義母の照子が1人いるだけだが、桃子は何かとプレッシャーを感じていた。そんな折、近所のゴミ捨て場で不審火が相次いだり、桃子が主宰する石鹸教室の行く末が怪しくなったりと、不穏な出来事が相次ぐ。そしてついに、真守の浮気が発覚して事態は風雲急を告げる。吉田修一の同名小説の映画化だ。



 とにかく、主人公が遭遇する災難の数々には呆れつつも納得(?)してしまう。何しろ周囲の人間の大半が、桃子に(意識的か無意識的かに関わらず)悪意を持っているのだ。取りあえず“別居”を選択した義母は、ヒロインに気を遣っているようでいて、微妙な屈託を隠せない。桃子は以前は会社勤めをしていて、結婚を機に退職しているのだが、くだんの石鹸教室は元の職場が便宜を図って実現したものらしい。ところがその古巣の会社は、桃子のことを何とも思っていなかったことが発覚する。真守の不倫相手の若い女は、桃子に対して申し訳ないようなポーズを取るものの、本当は邪魔な存在でしかないのだ。

 ならば桃子は観る者の同情を誘うような健気な人妻なのかというと、そうでもないのが嫌らしい。彼女は“ある秘密”を持ったまま結婚したのだが、それが夫と義母にとって彼女を疎ましく思う絶好のネタになっている。なお、桃子は床下に住みついている猫のことを気に掛けているようだが、その“真相”が明らかになる後半の展開は胸糞そのものだ。

 さらに、終盤で真守が独白する“浮気の理由”とやらは、まさに身も蓋もないハナシで身震いするほど。結局、映画の中でマトモだったのは一見本編と関係のなさそうな脇の人物だけだったというオチは、後ろ向きの興趣が溢れている。森ガキ侑大の演出は「さんかく窓の外側は夜」(2021年)の頃より格段の進歩を見せ、最後まで緊張を途切れさせない。

 主演の江口のりこは快演で、彼女の代表作になることは必至だ。真守に扮する小泉孝太郎をはじめ、風吹ジュンに馬場ふみか、青木柚、斉藤陽一郎など全員が及第点に達するパフォーマンスを披露している。岩代太郎の音楽も良い。
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「アグリーズ」

2024-09-22 06:34:33 | 映画の感想(あ行)

 (原題:UGLIES)2024年9月よりNetflixから配信されたディストピアSF作品。ラストが尻切れトンボであり、これは明らかに続編の製作を前提に撮られたものだろう(もしもパート2以降の予定が無く、これで終わりならばシャレにならない)。とはいえカネは掛けられていて映像の喚起力はかなりあるので、観て損は無いとも言える。

 遠い未来、人類は世界戦争によって一時はその数を大幅に減らしていた。その後、残った人々はクリーンで効率的なエネルギー源を開発することに成功し、右肩上がりに復興を遂げる。さらに争いを避けるため、当局側は16歳を境に全員に“理想的な”美容整形手術を義務付ける。すべての者の外見に欠点が無ければコンプレックスや妬み嫉みが生じず、結果として戦争なども起こりようも無いという理屈だ。

 16歳の誕生日を間近に控えて整形手術を心待ちにしていたタリー・ヤングブラッドは、先に手術を受けたボーイフレンドのペリスが人格さえも変えられていたことにショックを受け、このシステムに疑問を持つ。そして彼女は居住エリアの外で“昔ながらの”生活を送るアナキストのデイヴィッドたちと接触し、抗議活動に身を投じる。

 厳格に管理された未来社会で、そこに相容れない自由主義者たちがバトルを仕掛けるという構図は、今まで何度も取り上げられてきたネタで新味は無い。ただ、強制的な美容整形手術といったモチーフはいくらか興味を惹かれる。トンデモな理論であることは確かだが、ルサンチマンというものば外見が大きく関係しているのは事実だろう。ただし、変わるのは外観だけではなく頭の中身も同様だというのは、こういう方法論はファシズムと紙一重であることを示している。

 映画は予想通りの展開を見せるが、マックGの演出は賑々しく、アクション場面はアイデア豊富で盛り上がる。メカ・デザインや外界の自然の風景は目を楽しませてくれる。ただ前述の通り、エンディングが確定されていない。続編が必須の御膳立てだろう。

 主演のジョーイ・キングのパフォーマンスは悪くないのだが、元々が可愛い彼女が美容整形手術を望むというのは、ちょっと筋違いではないだろうか(笑)。キース・パワーズにチェイス・ストークス、ブリアンヌ・チュー、ラバーン・コックスなどの脇の面子も良くやっている。
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「箱男」

2024-09-21 06:36:07 | 映画の感想(は行)
 安部公房による原作は読んでいないが、安部の他の著作は何冊か目を通したことがあり、その晦渋な作風は強く印象付けられた。たぶん「箱男」も、観念的・幻惑的な内容で映像化は困難な素材なのだろう。このネタに挑戦したのが“アクション派”の石井岳龍監督だというのは興味を惹かれた。果たしてどう料理してくれるのかと、少なからぬ期待を持ってスクリーンに向き合ったのだが、結果は空振りだ。別のアプローチを採用した方が良かったのではないだろうか。

 主人公の“わたし”は、段ボール箱を頭から被った姿で町をさまよう「箱男」である。彼は箱にあけられた小さな穴から世の中を見渡し、その想いをノートに記述していく。「箱男」は世の中の雑事から解き放たれ、究極の自由を手に入れたかに見えた。しかし、そんな彼を勝手に模倣しようとする輩などが現われ、「箱男」の身辺には剣呑な空気が充満してくる。



 まず、原作は1973年に書かれており、実際映画も冒頭に当時の世相に言及しているのだが、本編の大半はその前提を完全無視していることは、明らかに失当だ。さらに、序盤に主人公を狙う正体不明の人物たちが現われるのだが、これ以降は見当たらなくなる。何のために採用したモチーフなのかさっぱり分からない。

 “わたし”に纏わり付いて「箱男」の存在を乗っ取ろうとするニセ医者が出てきたり、“軍医”と呼ばれるラスボスめいた初老の男が勿体ぶって登場したりと、物語は多様性を示しているようで筋の通った展開には行き着かない。主人公が書き綴っているノートが何らかのメタファーなのかと思われるが、真相は不明。

 石井の演出は段ボール男同士の格闘場面などに持ち味の片鱗は窺えるが、それ以外は要領を得ない。この際だから開き直って、「箱男」たちが体術を駆使して暴れ回るバイオレンス巨編として換骨奪胎してしまった方が良かったのかも(笑)。主演の永瀬正敏をはじめ、浅野忠信に佐藤浩市、渋川清彦、中村優子、川瀬陽太と濃い面子を集めてはいるが大して機能しているようには思えない。

 唯一強烈な印象を受けたのが、ニセ医者の助手を演じた白本彩奈だ。まだまだ演技は硬いが、極上のルックスと醸し出されるエロティシズムで観る者の目を奪う。これからも映画に出てくれるかどうかは不明だが、作品を追いたくなるような素材ではある。
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「全部ゲームのせい」

2024-09-20 06:29:18 | 映画の感想(さ行)
 (原題:SPIELEABEND )2024年7月よりNetflixから配信されたドイツ作品。冒頭の明るいラブコメ的展開は、とてもドイツ映画とは思えない雰囲気なのだが(笑)、途中から筋書きが怪しくヒネたものになるに及び、やっぱりドイツらしさ(?)は確保されていると納得してしまった。とはいえダークな方向には行かずにコメディの体裁は整えられているので、観て損のないシャシンではある。

 ベルリンで自転車店を営むヤンは、ある日偶然フォトグラファーのピアと知り合う。2人の相性は抜群で、交際は順調。そんなある日、ピアはいつもの仲間とのゲームナイトにヤンを誘う。会場はピアの僚友であるカロの豪邸で、メンバーはカロの夫のオリヴァーにアーティストのシェイラら、個性的な面子ばかり。一応はゲームで盛り上がるが、何とそこにピアの元カレのマットが現われる。思わぬ人物の登場に敵愾心を露わにするヤンだったが、一方その裏でオリヴァーが飼っていたオウムが逃げてしまう。ヤンは共同経営者のアレックスに密かに連絡し、オウムを捕まえるように依頼する。



 胡散臭い連中が集まるパーティーに参加したら、ハプニングが次々と起こって主人公が難儀するという話は別に珍しくもないが、本作のエゲツなさはシャレにならない。ヒロインの元の交際相手が登場するのはまあ許せるとして、けっこうピアとの関係が生々しく、しかもそれが“つい最近”まで続いていたというのは、実に底意地が悪い話だ。

 さらにヤンが“あるスポーツ”でマットに決闘を挑むというくだりで、2人の格好が常軌を逸しているというネタはブラックに盛り上がる。ピアはカロが主宰するアパレル企業に誘われているが、要するに部下として迎えるということで、それをキャリアアップと断じているカロの独善もイヤらしい。

 それでも逃げたオウムに関するエピソードからは映画はスラップスティック方面に向いてきて、平易な笑劇としての雰囲気を醸し出していく。特に舞台がカロの邸宅を離れて夜のベルリン動物園に移行すると、それが顕著になる。そしてラストは収まるところに収まるのだから、不満を覚えることは無い。

 マルコ・ペトリーの演出はテンポが良くドラマを最後まで持って行ってくれる。ヤン役のデニス・モーイェンとピアに扮するヤニナ・ウーゼは、飛びきりの美男美女ではないけど味のある好演を見せる。アンナ・マリア・ミューエにアクセル・シュタイン、シュテファン・ルカ、アレックスといった顔ぶれは馴染みは無いものの、いずれも満足出来るパフォーマンスを披露している。
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「モンキーマン」

2024-09-16 06:38:13 | 映画の感想(ま行)
 (原題:MONKEY MAN)大いに楽しめる熱血活劇編だ。もっとも、観る者を選ぶ。小綺麗でスマートな出で立ちのシャシンが好きな多くの“カタギの皆さん(謎 ^^;)”はまず受け付けないだろう。だが、私をはじめとするヒネた映画好きには、過去の有名作からの引用も含めた力任せの建て付けに、共感してしまう向きも少なくないと想像する。

 インドの某都市で密かに開かれている闇のファイトクラブで、猿のマスクを被って“モンキーマン”と名乗り、殴られ屋として生計を立てているキッドは、この町にいるはずの母の敵を探していた。彼は幼い頃に故郷の村を焼かれて孤児となり、それ依頼どん底の人生を歩んでいたのだ。そんな時、彼はかつて自分から全てを奪った者たちのアジトに使用人として潜入することに成功する。悪者どもの首魁は昔彼の住む村で狼藉をはたらいた警察幹部だけではなく、その上に君臨する怪しげな教祖であることを知ったキッドは、周到に復讐の手はずを整えていく。



 とにかく、主演と監督を務め脚本にも参画したデヴ・パテルの才覚に感心する。明言はされていないが、たぶんブルース・リーの影響が大きいだろう。ブルース・リーも、何本か主演と共に演出やシナリオ作成も手掛けていた。肉体アクション主体であることはもちろん、終盤での格闘シーンにおける鏡の使い方などを目撃するに及び“おお、やっとるわい!”と心の中で快哉を叫んでしまった。

 基本が復讐譚なので明るい話になるはずはなく、陰惨で残虐なシーンはあるし展開は力任せで泥臭い。だが、何とかして自身の熱いパッションをスクリーンに叩き付けたいという映画作家デヴ・パテルの切実な思いが横溢して、全編瞠目させられっぱなしだ。パテルは「スラムドッグ$ミリオネア」(2008年)で主人公の少年を演じて強い印象を残したが、ここまでの遣り手に成長したのかと、驚くしかない。

 地下格闘場での酩酊するような高揚感から、敵の本拠地に紛れ込んで人脈を作る等のパートの“緩徐楽章”を経て、あの「死亡遊戯」(78年)ばりの各階に配されたバトルに達するまで、まさに筋書きはジェットコースターだ。シャロン・メールのカメラが捉えた架空のインドの町の情景は、猥雑で剣呑で実に求心力が高い(ロケ地はインドネシアらしいが)。エスニック色を前面に出したジェド・カーゼルの音楽も効果的だ。

 格闘相手をに扮するシャルト・コプリーをはじめ、ピトバッシュにビピン・シャルマ、シカンダル・ケール、アディティ・カルクンテ、ソビタ・ドゥリパラなど、キャストは馴染みは無いが皆良い面構えをしている。
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「集団左遷」

2024-09-15 06:36:37 | 映画の感想(さ行)
 94年製作の、東映による社会派映画。こういう題材がそれまでなかったのが不思議で、遅まきながら作られたことは評価しよう。何より感心したのは、ドラマが浪花節的なお涙頂戴劇に走るのを必死になって阻止しようという、スタッフの努力が伝わってくることだ。

 バブル崩壊後、業績不振に陥った不動産会社。経営側はリストラ要員の掃き溜めとして新設された“首都圏特販部”に50人を送り込み、達成不可能なノルマを課し、やり遂げなければ解雇に追い込もうとする。崖っぷちに立たされた“不良社員”たちの反撃なるか。監督は「ちょうちん」(87年)や「修羅場の人間学」(93年)などの梶間俊一。宣伝プロデューサーとして舛添要一が参加している。



 特販部の部長に選ばれたのは、副社長(津川雅彦)のスキャンダルを暴露しようとし、逆に閑職に追いやられた元重役(中村敦夫)。バブル期の強引なセールスが顰蹙を買い、総務課に飛ばされた課長(柴田恭兵)。ほかに、妻の重病を契機に家庭人間となった者(河原崎健三)や、退職寸前で事なかれ主義の係長(小坂一也)など、深い事情を抱えた人物が揃っており、やろうと思えばいくらでも大仰にウェットに仕上がるところだ。

 ところが、題材が題材だけに、そうはならない。ほとんどのメンバーが営業経験がなく、宣伝費はゼロ、クズみたいな物件を押しつけられ、おまけに経営者側のスパイがわずかなチャンスをも摘み取っていく。荒唐無稽というなかれ、けっこう現実と近かったりするのだ。サラリーマンの悲哀などゆっくり味わうヒマはなく、厳しい現実になりふり構わず抵抗する彼らの姿を容赦なく描くことによって、逆に組織の中で埋没しそうになる人間性をリアルに提示しようとしている。

 クライマックスは特販部の廃止を決める役員会での、特販部員と幹部との対決。副社長の元愛人の女子社員(高島礼子)の証言により、副社長の不正の数々が暴かれる。そして特販部スタッフがどんなに辛酸を嘗めたかも公表される。センチメンタルに盛り上がって当然の場面だ。しかし、ハッピーエンドには持って行かない。副社長の“貴様らのようなボンクラどもの食い扶持も、俺たちが頑張って稼いでやったんだぞ。少しばかり頑張ったからって、お前らが会社のお荷物だったことは間違いない!”という言い分も事実なのだ。

 柴田恭兵が副社長に怒りの鉄拳をぶちこもうとも、中村敦夫が病身を顧みず必死の説得をしようとも、カタルシスは生まれない。作者もそれを知っている。このやりとりは、重く苦い。結局、勝負の行方は“これ以外の結末はない”という形で終わる。

 それにしても、“どんなに惨めな仕事でも、与えられればやらずにはいられない、それがサラリーマンの悲しい性だ”という劇中のセリフには考えさせられた。見ようによっては食い足りない点も多々あるが、この頃の邦画の中ではかなりマシな部類である。なお、レゲエを大々的にフィーチャーした小玉和文の音楽は非常に見事だ。
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