元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「地中海殺人事件」

2017-06-30 06:32:15 | 映画の感想(た行)

 (原題:Evil Under The Sun)82年イギリス作品。70年代半ばから80年代前半にかけてジョン・ブラボーンとリチャード・グッドウィンのコンビが製作したアガサ・クリスティ原作の映画化は次々にヒットしてきたが、これはその中の一本。1941年に書かれた「白昼の悪魔」(私は未読)の映画化で、ガイ・ハミルトンの堅実な演出も相まって、水準を超えた出来になっている。

 イギリスの荒地で、ハイカーによって婦人の死体が発見される。その頃、ロンドンの保険会社でエルキュール・ポアロはホーレス卿から仕事を依頼されていた。ホーレス卿は婚約した女優のアリーナに20万ドルの宝石を与えたのだが、彼女は他の男と結婚してしまった。宝石を取り戻したところ、それがニセ物だったらしい。果たしてアリーナは本物を着服したのかどうか、ポワロに確かめて欲しいという。

 当のアリーナはアドレア海の孤島にあるホテルで休暇を過ごしているので、ポアロもそこへ乗り込む。ホテルは気難しい女主人ダフニーをはじめ、一癖も二癖もある人物達が顔を揃えていた。そんな中、アリーナが浜辺で殺されているのが見つかる。ホテルの滞在者には全員鉄壁のアリバイがあり、捜査は難航すると思われた。しかしポワロの灰色の脳細胞は確実に犯人を追い詰めてゆく。

 散りばめられていた伏線がラストに向かってキッチリと回収されていく様子は、実に気持ちが良い。使われているトリックは原作通りだと思われるが、実際に映画で見せつけられると“なるほど!”と納得してしまう。そして何より、舞台になる地中海のリゾート地の風景が観光気分を引き立てる。

 ピーター・ユスティノフ演じるポワロのキャラクターがケッ作で、気取ってはいるけど雰囲気が風光明媚な土地には似合わないというディレンマが面白おかしく表現されている。特に、泳げないのに一応は水着で浜辺に出て、水泳のマネゴトをしてお茶を濁すくだりは笑った。

 このシリーズでは付き物の豪華なキャスティングも魅力で、ジェーン・バーキンにジェームズ・メイソン、ロディ・マクドウォール、ダイアナ・リグ、マギー・スミスといった面々が持ち味を出したパフォーマンスを披露している。コール・ポーターの音楽とアンソニー・パウエルによる衣装デザインも要チェックだ。クリスティ作品をはじめとする本格派ミステリーの映画化は最近あまり見かけないが、そろそろ新しい作品も観たいところである。
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「TAP THE LAST SHOW」

2017-06-26 06:31:27 | 映画の感想(英数)

 ラストの約20分間のショーの場面がすべてだ。もっとも、それに関しても万全の出来ではない。パフォーマーの妙技をじっくりと見せてくれればそれで良いはずなのだが、作者はステージの描写だけでは場が保たないと思い込んでいるらしく、肝心なところでブツ切りになって余計なシーンが挿入される。だが、そんなマイナス要素を差し引いてもこのシークエンスは素晴らしい。反面、それ以外のパートは全然ダメだ。作品のコンセプトをもっと煮詰める必要があったと思う。

 渡真二郎は昔は一世を風靡した天才タップダンサーだった。しかし19年前の舞台での事故で足が不自由になり、引退を余儀なくされてしまう。その後は演出や後進の指導に当たったが、何をやっても上手くいかない。今ではショービジネス界から遠ざかり、酒に溺れる日々だ。ある時、古くからの友人である劇場支配人の毛利が渡のもとにやってくる。劇場経営が行き詰まり、近々最後のショーを企画しているが、その演出を渡に依頼したいというのだ。しぶしぶ引き受ける渡だが、個性的な若いダンサーたちと接するうちに、かつての情熱が蘇ってくる。

 エキセントリックだが突出した才能を持つベテランが若手をシゴき倒すという設定は、デミアン・チャゼル監督の快作「セッション」(2014年)に通じるものがある。しかし、内容は足下にも及ばない。ただの古くさいメロドラマである。

 運河沿いの倉庫のセットに代表されるように、舞台装置は気恥ずかしいほどの懐古趣味に溢れている。渡に見出される若いダンサーたちのバックグラウンドは、どれもこれも救いようがないほど陳腐で退屈だ。しかもタップの技量だけでキャスティングしているおかげで、演技は全員学芸会並み。そもそも、渡と毛利との掛け合いからして気取りまくったオヤジのキザなセリフの応酬で、脱力するしかない。

 とにかく、くだらない“お涙頂戴”的なモチーフは不要だ。芸術の高みにまで昇華されたタップの神髄と、それに魅せられた者達の、狂気のドラマを見たいのだ。

 主演を務め、なおかつ今回が初監督になる水谷豊はこのネタを約40年温めてきたという。だが“構想○○年、製作○○年”といった触れ込みのシャシンが面白かった例しがない。念願の企画であるからこそ、謙虚に外野の話を聞き、テーマを練り上げることに腐心すべきであろう。毛利役の岸部一徳をはじめ六平直政、北乃きい、前田美波里といった俳優陣も精彩が無い。

 とはいえ、終盤に怒涛のステージングを披露する若い連中の力量には驚かされる。我が国においてタップダンスがどの程度普及しているのか知らないが、これだけのものを見せつけられると、日本のショービジネス界の未来も決して暗くはないと思わせる。映画の出来には目をつぶって、タップそのものを楽しもうという向きには良いかもしれない。
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「トーク・レディオ」

2017-06-25 06:58:58 | 映画の感想(た行)
 (原題:Talk Radio)88年作品。いかにもオリヴァー・ストーン監督らしい、エキセントリックで挑発的な映画である。取り上げられているモチーフも面白い。ただし、鼻につくような独善的スタンスを隠していない作品でもある。公開当時は賛否両論あったようだが、それも納得できる。

 テキサス州ダラスの地方ラジオ局KGABの番組「ナイトトーク」のパーソナリティであるバリー・シャンプレーンは、リスナーからの悩み相談の電話に対してことごとく毒舌を振るう過激な姿勢がウケていた。全国ネットへの進出も間近になっていたが、当然のことながら彼を憎む者も多く、ネオ・ナチ・グループからは嫌がらせを受け、バスケットボールの試合に招かれた際には観客からのブーイングの嵐が巻き起こったりする。



 バリーは現在プロデューサーのローラと恋仲だが、別れた妻エレンのことが忘れられない彼は、全国放送出演が決まったことを彼女に告げる。しかしその日になって、局の幹部は全国オンエアの延期を決定する。ヤケになった彼は今まで以上に放送中での過激なパフォーマンスに走るのだが、やがて取り返しの付かない事態を招いていく。

 要するに、自分のスタイルで世間を挑発し続けていたラジオDJが、いつの間にか自身がそのスタイルに飲み込まれてしまい、破局に到るという話だ。言うまでもなく主人公はオリヴァー・ストーンの分身である。ヒステリックに観客に迫る姿勢が、知らぬ間に“過激のための過激”になり、自家撞着に陥る。そのことを映画の題材として取り上げることにより“過激さ”を冷静に外から眺めようとしているが、やはりそれも自分の“過激さ”の発露に過ぎなかったという、何ともやりきれない図式が提示されている。

 だが、スティーヴン・シンギュラーの原作を戯曲に仕上げ、今回主演も果たしたエリック・ボゴジアンの働きは凄いと思う。他者を攻撃すればするほど追い詰められていく屈折した人物像を、実に的確に表現していた。アレック・ボールドウィンやエレン・グリーン、レスリー・ホープといった脇の面子も良い。

 それにしても、こういうスタイルのラジオ番組が実在していることは、日本とは状況が違うことを如実に示していると思う。我が国では公衆の面前で罵倒の応酬が繰り広げられることはあまりない。せいぜい今ならネット上での陰湿なものになるのだろう。なお、音楽担当は“ポリス”のスチュワート・コープランドで、悪くないスコアを提供している。
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「ある決闘 セントヘレナの掟」

2017-06-24 06:26:00 | 映画の感想(あ行)
 (原題:BY WAY OF HELENA)昨今珍しい西部劇、しかも題材は興味深い。だが、ストーリー展開と演出が低レベルに過ぎるため、まったく盛り上がらず退屈至極である。監督と脚本家の腕が悪いというよりも、この程度のハナシで製作にゴーサインを出したプロデューサー側の責任が大きいのかもしれない。

 1886年、メキシコとの国境を流れるリオ・グランデ川に、数十もの死体が流れ着く。事態を重く見た州知事は、テキサス・レンジャーのデイヴィッドに川の上流にある町マウント・ハーモンに潜入し、事件の真相を突き止めるように命じる。当初は単身で現地に赴く予定だったデイヴィッドだが、自分が留守がちで寂しい思いをさせている妻を見かねて、一緒に連れて行くことにする。



 マウント・ハーモンでは謎の宣教師エイブラハムが、住民たちをカルト宗教の支配下に置いていた。デイヴィッドはいきなりエイブラハムから保安官に任命されて面食らうが、捜査を進めるうちにこの町の“真の姿”が見えてくる。さらにデイヴィッドとエイブラハムとの間にはある過去の因縁があり、2人の対決は避けられないものになっていく。

 当局側からの特命で主人公がカリスマ的な人物が牛耳る人里離れたコミュニティに入り込んでいくという設定は、コッポラの「地獄の黙示録」にも通じるものがあるが、あれには遠く及ばない。確かにマウント・ハーモンは山奥にあるが、一見すると何の変哲もない田舎町だ。もちろん、その裏にゾッとするような正体が隠されているという図式は悪くはないが、映画ではそんな得体のしれない凄味はまったく出せていない。

 エイブラハムは相当なワルだが、その有り様は“単なる悪党”の域を出ず、町全体を圧するようなカリスマ的な存在感は希薄だ。事の真相にしても、こんな残虐なことは当時の西部では珍しくなかったのではと思わせるほど、インパクトに欠ける(昔のマカロニ・ウエスタンの方がよっぽどエゲツなかった)。



 だいたい、デイヴィッドもエイブラハムも相手を始末する機会は何回もありながらそれを実行せず、よくある“荒野の決闘”のパターンに無理やり持ち越してしまうのは噴飯ものだ。また、その決闘シーンも先日観た「ノー・エスケープ 自由への国境」と似たパターンで、段取りが悪くてシラケてしまう。

 デイヴィッド役のリアム・ヘムズワース、エイブラハムに扮するウディ・ハレルソン、共に大したパフォーマンスではない。キーラン・ダーシー=スミスの演出はメリハリが無く、弛緩した時間が流れるだけだ。カメラワーク、音楽、いずれも平凡。現時点で西部劇を作るのならば、今日性の醸成こそが必要だと思うのだが、本作にはそれは見当たらない。観なくてもいい映画である。
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「シコふんじゃった。」

2017-06-23 06:26:33 | 映画の感想(さ行)
 91年作品。公開当時の角界はいわゆる“若貴フィーバー”が巻き起こり、相撲が一種トレンディな扱いを受けていた。とはいっても、映画の題材としては、これほど不向きなものはないと思う。第一キャスティングはどうするのか。そんなに太った役者を集められるわけはない。それに実際の大相撲の面白さに対し、フィクションである劇映画が勝てるわけがない・・・・。ところが、この映画はそういうマイナス要因をいとも簡単に吹き飛ばし、立派に相撲を娯楽映画の素材として料理してしまった、日本映画では珍しい熱血スポーツ映画の快作だ。

 軟派な生活を送る大学四年生の山本(本木雅博)は、要領よく就職も決めたものの、卒業には少し単位が足りない。そこで相撲部の顧問である教授(柄本明)から単位取得を条件に、廃部寸前の相撲部に入部して試合に出場することを義務づけられる。最初は適当にやっていた山本だが、仲間も増え、次第に相撲の面白さに目覚めていく。



 奇をてらったり、色物ばかりに走ったりの寄り道は無し。実にストレート、竹を割ったようなストーリー展開だ。テンポのいいセリフの応酬も小気味よい。舞台を大学相撲にすることにより、相撲向きでない体型の本木でも違和感がない。

 各登場人物が実にいい味を出している。緊張すると下痢になる大学八年生のヘンな先輩(竹中直人)、山本のハンサムな弟(宝井誠明)と彼に恋する太った女の子(梅本律子)、名誉マネージャーの夏子(清水美沙)、試合相手もバラエティに富み、無駄なキャラクターが一人もいない。

 主人公たちがどんなに頑張っても素人の悲しさ、最初の試合では惨敗してしまう。そんな弱い自分たちが悔しくて、いつしか夢中で稽古するようになる。その奮闘ぶりはおかしくも感動的だ。クライマックスのリーグ戦では、アメリカ映画のお株を奪う盛り上がりを見せる。出演者も相当に訓練を重ねたのだろう。手に汗握る見せ場の連続で、笑いながらも目頭が熱くなる。

 古くさい精神論や安っぽい根性の押し売りなどは皆無。それでいてスポーツ映画の勘どころを押さえたスカッと爽やかな好篇だ。周防正行監督も、この頃は才気が漲っていた。なお、この映画のモデルとなった立教大学相撲部は、映画と同じく3部リーグ下位を低迷していたが、映画のロケが終わった直後の大会でなんとリーグ優勝してしまったらしい。
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「LOGAN/ローガン」

2017-06-19 06:30:26 | 映画の感想(英数)

 (原題:LOGAN )とても見応えはあったが、設定と結末が思い切った扱いで、これまでの本シリーズの位置付けや今後のあり方が心配になってくる。ただ言い換えると、従来までの流れをひっくり返してまでも撮り上げたという、作者の良い意味での気負いが感じられて好ましい。とにかく一見の価値はある映画である。

 2029年、すでにミュータントの大半が死滅しており“X-MEN”も存在していない。ウルヴァリンことローガンは何とか生き延びているが、体内に埋め込まれたアダマンチウムにより、治癒力の低下と老化が目立ってきた。今ではメキシコ国境近くでリムジンの運転手をしながら、認知症を患っているプロフェッサーXことチャールズ・エグゼビアの世話をする毎日だ。

 ある日、ローガンは元看護婦でガブリエラと名乗る女から、ローラという素性の分からない少女をノースダコタまで連れて行って欲しいと頼まれる。ローラはローガンの遺伝子を元に人工的に生まれたミュータントで、兵器としてミュータントを利用しようとする政府系企業の研究機関から逃げ出してきたのだ。ノースダコタではローラの仲間が待っているという。ローガンはチャールズを伴い3人で北に向かうが、ピアース率いる組織の実働部隊は執拗に追いかけてくる。

 お馴染みのキャラクターの中で生き残ったのはローガンとチャールズだけだという、その設定には驚くしかない。しかも2人とも往時のパワーは失われ、人生の終焉を持つだけの身だ。特にチャールズは、今までの行いを悔いている。そんな彼らの最後の仕事はローラを無事に送り届けること。2人は、この旅の行き着く先に自らの境遇が好転するような期待を見出しているわけでもない。ただ、久しぶりに現れたローラという“守るべき対象”のために全身全霊を尽くす。

 無謀な戦いに徒手空拳で臨むローガンには、時代劇や西部劇における孤高のヒーローに通じるものを見出すことが出来る。事実、劇中には「シェーン」(53年)の映像が主人公たちの運命のメタファーのように何度か挿入される。このロクでもない世界で、それでも生きなければならないローラたちの世代に希望を託し、老兵は去りゆくのみだ。この筋立てには、正直グッと来た。

 ジェームズ・マンゴールドの演出は、今までの精彩を欠く仕事ぶりがウソのように堅牢でブレがない。畳み掛けるような筆致は、長い上映時間も気にならないほどだ。ヒュー・ジャックマンとパトリック・スチュワートは好演で、子役のダフネ・キーンも実に達者だ。

 それにしても“X-MEN”がこのような形で終わるとは思ってもみなかった。もちろん、アメコミの世界ではパラレルワールドは珍しくもないらしいので、今後いつものキャラクターが出てくる映画が作られる可能性はある。しかし、“X-MEN”の行く末がこのようなヴォルテージの高い形で提示された以上、それらの“新作”が存在感を発揮するとは思えない。MARVELの今後を予想する意味でも、とても興味深い作品である。
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「バレット・バレエ」

2017-06-18 06:45:16 | 映画の感想(は行)
 2000年作品。塚本晋也監督作品としては、平易な面白さを感じ取れる映画だ。「鉄男」(89年)や「東京フィスト」(95年)などのエキセントリックな路線とは明らかに違う。もちろん、フツーの映画と比べれば相当アクは強いが(笑)、魁偉な“外観”に慣れてしまえば良質の娯楽映画としての側面が見えてくる。コアな映画ファンには幅広く奨められるシャシンだ。

 CMディレクターの合田は、恋人の桐子を拳銃自殺で失ってから“死”と“銃”のイメージが頭から離れなくなった。ある晩、泥酔した彼は不良グループの少女・千里にちょっかいを出すが、彼女の仲間である後藤たちにボコボコにされてしまう。何とか仕返しをしようとする合田だが、そのためには拳銃が必要だと思い込み、街をさまよい歩く。



 一方、後藤たちは別の不良グループとの抗争の真っ最中であった。ついにはグループのメンバーが次々と殺されるという事件が発生。やっと拳銃を手に入れた合田はその渦中に飛び込むが、後藤によって孫を殺害されたヤクザの工藤が乱入し、激しいバトルが展開する。

 塚本自身が演じる主人公の、偏執的な言動が凄い。銃を密造したり、ヤクザから買い入れようとしたりと、その振る舞いは間が抜けてはいるのだが、やればやるほど合田の狂気が発散されて目が離せなくなってしまう。また、単なる不良のケンカが派手な殺し合いに発展する畳み掛け方は大したものだが、それに合田と工藤という常軌を逸したキャラクターを介入させることにより、尋常ならざる迫力を生み出すに至っている。

 モノクロ画面や手持ちカメラなどの素材が、マイナー映画っぽくならずに娯楽作品の要素として料理されているのに感心(撮影も塚本が担当している)。ひとつひとつのシークエンスにパワーがみなぎり、スピード感に圧倒される。千里を演じる真野きりなの存在感にはシビレたが、鈴木京香や井川比佐志、村瀬貴洋といった脇のキャストも見逃せない。バイオレンス満載の展開ながら、意外とラストが爽やかなのも高得点だ。
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「20センチュリー・ウーマン」

2017-06-17 06:26:33 | 映画の感想(英数)

 (原題:20TH CENTURY WOMEN)時代風俗の描写以外には、何ら見るべきものが無い映画である。とにかくストーリーが退屈極まりない。何も面白そうなことは起こらないし、展開の平板さをカバーするような語り口の巧みさも無い。聞けば作者の自伝的内容らしいが、独り善がりであるとの誹りは免れないであろう。

 1979年のカリフォルニア州サンタバーバラが舞台。15歳の少年ジェイミーの両親は離婚して、今は母ドロシアと暮らしている。とはいえ狭くはない家には、下宿人の若い女アビーと中年男ウィリアムがいる。また近所に住む幼なじみのジュリーが頻繁に訪ねてくるので、けっこう賑やかだ。息子との関係が上手くいっていないことに悩むドロシアはジュリーとアビーに助けを求めるが、彼女たちもけっこう屈託を抱えていて頼りにならない。逆にジュリーに自身の恋愛に対する及び腰な姿勢を指摘されたドロシアは、アビーに刺激的な世界を教えてくれと頼むのだった。

 ジュリーの妊娠騒ぎとか、アビーがガンに罹患していたことがあったとか、ウィリアムがドロシアに気があるとか、それ自体はドラマを広げられそうなモチーフは並んではいるのだが、どれも見事なほど面白さのカケラもない弛緩した展開が目立つ。作り手に盛り上げようという気が無いのか、あるいは自己満足で済ませているのか、とにかくつまらなくて観ている間は眠気との戦いに終始した。

 ジェイミーは母親が中年になってから生まれた子だが、そのことがストーリーに大きく反映することはない。ジェイミーに添い寝するけど何もさせないジュリーの態度は面倒くさいし、写真家志望のアビーの生活もアーティスティックな部分は見受けられず、ウィリアムの優柔不断ぶりもイライラするばかり。斯様に微温的なハナシが長々と続いた後には、どうでも良い幕切れが待つのみだ。マイク・ミルズの演出は凡庸である。

 ただし、精神分析医に相談することが一種の流行だったり、音楽ではパンクロックが一段落してニューウェイヴに移行したりと、当時の時代色は良く出ていた。西海岸らしい明るい映像も取り柄だろう。55歳という設定のドロシア役のアネット・ベニングは自身もまだ50代なのだが、かなり老けて見える(若い頃は可愛かったけどね)。演技面でも今回は精彩が無い。

 ジュリーに扮するエル・ファニングは“見た目だけ”のパフォーマンスに終始。グレタ・ガーウィグやルーカス・ジェイド・ズマン、ビリー・クラダップといった他の面子も印象に残らない。雑誌等では高得点の評も見受けられるが、私は同意しがたい。
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「ゼイラム」

2017-06-16 06:30:03 | 映画の感想(さ行)
 91年作品。「牙狼 GARO」シリーズで知られる雨宮慶太監督の、劇場用映画デビュー作である。地球に逃亡して来た極悪宇宙人“ゼイラム”を追ってやって来た女賞金稼ぎ“イリア”、そしてその戦いの中に巻き込まれてしまった二人の地球人の、一夜の戦いが繰り広げられる。私は本作を封切り当時に観たのだが、けっこう面白かった。設定としては「プレデター」と「ヒドゥン」と東映変身特撮物を合わせたようなものだが、本気で作っているため、あんまり安っぽくなっていない。

 “ゼイラム”のクリーチャー・デザインが秀逸だ。三度笠をかぶった股旅みたいな出で立ちで、バックに流れる読経が抜群の効果である。本物の頭は三度笠のまん中にあり、こいつがヘビのように伸び縮みして獲物を捕らえる。「プレデター」の宇宙人よりもデザイン的に成功している。冒頭の宇宙刑務所(だと思う)での銃撃戦で、あっという間に数十人を血祭りにあげるシーンは、ざらついたモノクロの画面も相まって、異様な迫力を生んでいる。この冒頭場面のリアルさがあるため、それからの展開もなぜか納得のいくものになっている。



 ハリウッドでこういう題材を扱うと、悪い宇宙人をやっつける役柄として決まってマッチョなヒーローが登場するが、この映画では若い女の子だというのが、いかにも日本的(?)だ。ヒロインの“イリア”を演じる森山祐子がなかなかよろしい。かわいい顔と堂々とした体格、そしてパワースーツを身体に蒸着させるシーンなどは、その筋のマニアが見たら感動してしまうだろう(笑)。

 アクション・シーンも日本映画としては頑張っていて、違和感がない。SFXに金をかけられないため、舞台を“ゾーン”と呼ばれる無人空間と、現実空間に“イリア”が作ったアジトの二つだけに限定したアイデアが生きている。また、事件に巻き込まれる地球人(螢雪次朗、井田州彦)が電気屋の技術担当だという設定が、ラスト戦いの伏線になっている。

 そのラスト近くの“ゼイラム”が本体があらわす場面は、ほとんど「遊星からの物体X」だが、デザインは意外にもチャチではなく、ちょっとびっくりさせられた。雨宮慶太の演出は“ゼイラム”と地球人二人の追いかけっこが主体になる中盤の展開にまだるっこしいものがあるが、まずまず及第点をつけられる。観る価値はあるだろう。
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「家族はつらいよ2」

2017-06-12 06:25:17 | 映画の感想(か行)

 面白くなかったのは、取り上げたネタが不適切だったからだ。さらにストーリー展開は主人公達の独善ぶりを強調するばかりで、観る側に少しもアピールするものがない。ひょっとして今後もシリーズ化を狙っており、パート3に向けての“繋ぎ”としての扱いに過ぎないのかもしれないが、いずれにしろ評価は出来ないシャシンだ。

 横浜に住む平田家の主・周造は、自家用車での外出を毎日楽しみにしている。ところが最近は車に凹み傷が目立つようになった。このまま事故でも起こされては大変だと、家族は高齢の周造に運転免許を返上させようと説得を試みる。しかし、親父に進言する役どころを互いに押しつけようとしている家族の魂胆を見透かした周造は完全にヘソを曲げてしまい、埒があかない状態に。

 そんなある日、周造の妻の富子が海外旅行に出かけることになり、思いがけず“期限付きの独身”に戻った周造は、かねてより懇意にしていた居酒屋の女将かよを乗せて車を走らせる。その途中で高校時代の同級生・丸山と偶然に再会を果たす。不遇な生活を送っている丸山を励ますために周造は有志だけの同窓会を催すが、酔いつぶれた丸山を一晩泊めるハメとになる。ところが、朝起きてみると丸山は息をしていない。かねてより患っていた心臓病が急激に悪化してしまったのだ。ちょうど周造の運転免許の件で集まっていた家族一同は大騒ぎになるが、やがて身寄りの無い丸山の“野辺送り”をするべく奔走するようになる。

 そもそも“死”を主要モチーフとして採用する必要があったのだろうか。いくらコミカルな味付けをしようと、あまりにもヘヴィ過ぎて笑えない。さらに平田一家の丸山に対する“上から目線”が気になる。丸山は若い頃に事業に失敗して以来、まったく良いところが無く生涯を終えてしまった。対して平田家は、トラブルメーカーの周造を擁してはいるが、横浜青葉区に一戸建てを構えて、三世代仲良く暮らしている。

 運転免許を返上してどうのこうのという話も、所詮は運転は周造の道楽に過ぎない。過疎地での、免許を返上したくても出来ない老人達の状況に比べると“いい気なものだ”としか思えないのだ。さらに火葬場での悪ふざけ以外の何物でもない展開を観るに及び、ウンザリしてしまった。確かに独居老人や福祉の問題は重要だろう。しかし、それはこんなホームコメディで茶化して扱うハナシではないはずだ。

 演出はメリハリが無く弛緩し、ギャグも空回り。山田洋次は出来不出来の差が大きい作家ではあるが、今回は“ハズレ”である。周造役の橋爪功をはじめ、吉行和子に西村雅彦、夏川結衣、中嶋朋子、妻夫木聡、蒼井優、小林稔侍、風吹ジュンといったキャストは賑やかだが、どれも気合いが入っていない。特に橋爪はリアルに今“家族はつらいよ”という状態なので、余計に情けなく見えてしまう。製作されるであろう第三作は、今回出番が少なかった吉行扮する富子あたりがクローズアップされるのだろうか。
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