元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「劔岳 点の記」

2009-07-17 06:23:37 | 映画の感想(た行)

 とても感銘を受けた。本作に対して“登場人物の内面が描けていない”だの“大きなドラマが起こらない”だのといった感想しか持てないとしたら、それはこの映画の主題を見過ごして別のところに目が行っているせいである。

 明治末期に立山連峰の劔岳への初登頂を目指した男たちの話だが、主人公が属している陸軍測量部の幹部達の頑迷さや、登頂競争を仕掛けてくる日本山岳会との確執といった、物語の大きなうねりに繋がりそうなことはサッと切り上げてゆく。元より、そんなことは“脇のエピソード”でしかない。この作品は、プロとしての矜持を抱いた男たちが職務を忠実に遂行し、復命した後は家に帰るまでを描いている。いわば“出張”の記録を綴った映画なのだ。

 単に仕事で遠出するとき、行程の最中に“骨太の人間ドラマ”なんか期待している勤め人なんかいない。たまたま面白い体験をしたとしても、それは結果論に過ぎず、出張の目的に関与してくるものではない。この劔岳登山でも、確かに並の出張よりは遙かにハードではあるが(笑)、あらかじめ課題が設定されたビジネス旅行に過ぎないのだ。

 融通の利かない上司に閉口したり、意外なライバルが現れたりすることもあるだろう。でも、それは業務達成に対する“外野からの横槍”でしかない。そんなことは軽く受け流しながら、ビジネスマンは仕事に励む。どうやったら期間内に山に登れるのか、そのためにはどういう段取りを踏めばいいのか、そういう職務遂行への冷徹なプロセスを描くことこそが本作の存在意義なのである。

 ならばそんなのはドキュメンタリーで十分ではないのか・・・・という意見も当然出ると思う。しかし、主人公の柴崎と年若い妻との関係性を見れば、劇映画として扱わなければならない必然性が垣間見えてくる。浅野忠信と宮崎あおい演じるこの夫婦は、外で厳しい仕事をこなす夫と、旦那を信じて家を守る妻という(少なくとも当時の)ひとつの理想型を象徴している。ドキュメンタリーでは表現できない、演技によって表現されるシンボルとしての夫婦関係は、主題の普遍性により大きく貢献していると思う。

 登場人物達は、この夫婦関係(あるいは家族関係)を何度も再確認するために仕事に打ち込み、そして家に帰るのだ。この部分さえ描けていれば、いくら“出張”の最中にケレン味たっぷりの出来事に遭遇できずとも構わない。ビジネスのスキームを追えばそれで良いのだ。ストイックともいえる作劇が、逆にテーマを明確化させる。そういう作者の巧妙な企みに、ただただ感服するのみである。

 名カメラマン・木村大作の監督デビュー作だけあり、映像は痺れるほどに美しい。撮影は並大抵のものではなかっただろうが、これ見よがしな“苦労談”には仕上げていない。浅野と宮崎のほかにも香川照之や松田龍平、仲村トオル、役所広司といった多彩な面々が手堅い演技を見せる。まさに作品の主題に合致したような“良い仕事ぶり”である。観る価値はたっぷりある秀作だ。
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「JM」

2009-07-16 06:29:05 | 映画の感想(英数)
 (原題:JM Johnny Mnemonic)95年作品。未来世界を舞台に、脳にシリコン・チップを埋め込んで極秘データを配達するエージェント、ジョニーの活躍を描いたSF活劇編だ。まず考えるのは、はたして人間の頭脳にはどれだけの記憶容量があるのか・・・・ということだ。

 キアヌ・リーブス扮する主人公はデータを頭の中にインストールして持ち運ぶ“記憶屋”だ。彼の容量は160ギガバイトだという。そこに320ギガバイトほどのデータを無理矢理入れ込ませたおかげで生命の危険にさらされるわけだが、容量はその程度なのだろうか。人間の脳のほとんどは普段使われず眠っており、それは“NIGHT HEAD”と呼ばれる・・・というのは別の映画のキャッチフレーズだったが(^_^;)、かなりの容量があるのは確かだろう。

 以前観た「ナビゲーター」という映画で、“NIGHT HEAD”に全宇宙の星間航行図をインストールしてまだ余裕がある、というくだりがあり、たかが一企業の企画書(?)を入れただけでパンク寸前になるというこの映画の設定はちょっと・・・・、という気にもなってくる(笑)。まあ、映画では脳に埋め込んだシリコン・チップの中に記憶させる設定なのだけど、それならわざわざ主人公の子供時代の記憶を消す必要もないとは思うのだけどね。

 さて、これは米アート界の巨匠と言われるロバート・ロンゴが初めて監督した劇場用作品である。観た感想だが、どうでもいい映画である。凝りまくったデザインは「ブレードランナー」のレベルを一歩も出ていないし、第一ああいう造形はもう飽きた(どこがアート界の巨匠なのかさっぱりわからん)。昔の記憶がない主人公の苦悩や、娘を亡くした日本人ヤクザ(ビートたけし)の絶望などをギリギリまで出してほしかったが、素人に近い監督では無理というものだ。アクションの段取りも目新しさはない。

 唯一面白かったのが、主人公がインターネットにアクセスする際に使うヴァーチャル・リアリティ仕立てのシステムだ。パワーグローブとCGの動きが絶妙のシンクロで、近未来にはこういうアーキテクチャーが出てくるかもしれないという気になってくる。キャスト面では地下組織のボスを演じるアイス・Tが「トレスパス」に続いての儲け役。ラップ界には結構アクション映画向けの面構えが多いと思った。
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「ディア・ドクター」

2009-07-15 06:25:49 | 映画の感想(た行)

 普通の映画である。手触りは悪くなく感銘度もそこそこ。プログラム・ピクチュアとして流しておくには良いが、それ以上でも以下でもないと思う。ただし、これが「蛇イチゴ」と「ゆれる」で若手女流のホープに登り詰めた西川美和監督の新作だということになると、あまり愉快になれない。

 数年前に医者のいない村に赴任してきて、長らく村人から信頼されていた医師が突然失踪。当然、周囲は大騒ぎになる。このシークエンスを冒頭に持ってきて、本編はその真相を描く“回想シーン”がメインとなり、時折医者の行方を追う警察を中心とした“現在の時制”が挿入されるという構造だ。つまりは一種謎解きの形を取っており、地味だと思われる題材をサスペンスフルに展開させようとしている。その目論見はとりあえず成功しており、二時間を退屈させることなく見せきっている。しかし、個々の描写がどうにも“ぬるい”のだ。

 その最たる物が八千草薫扮する老婦人と東京の病院に勤めている娘(井川遥)との関係性である。婦人はガンの罹患を自覚しているが、それを娘には知られたくないのだという。診察している医者も病気の告知をあえてせず、この村で静かに最期を迎えさせたいと思っているらしい。ところが、盆休みに娘が帰省してくるのだ。医師ならば母親の変調に気付くはずだし、事実、その症状を巡って村医者に詰め寄る。その顛末はネタバレになるので書けないが、まるで作劇を放り出したような杜撰さだ。

 この母親と娘がどのような屈託を抱えているかがほとんど示されない。一応、父親が病死していることが大きなファクターであることが暗示されるが、その程度では難病の扱いに関して納得は出来ない。それが説得力を獲得するためには、婦人と村医者との関係をもっと突っ込んで描くべきであったろう。

 どこか胡散臭い村医者に心酔するインターン(瑛太)や、献身的な働きをする看護婦(余貴美子)の描き方も、どこかわざとらしい。全体的に、どうしてそういう設定なのかということよりも“そういう設定だから細かいことはゴチャゴチャ言うな!”という開き直りが鼻について、釈然としないものが残る。思うに、主演に笑福亭鶴瓶を持ってきたことが本作の性格を決定したのではないだろうか。鶴瓶はまさしく“細かいことなんか、よろしいがな”というキャラクターそのものだ(笑)。

 鶴瓶はテレビの「鶴瓶の家族に乾杯!」と同じノリで登場し、どうやら観客もそれを期待しているフシがある。どうやらこの雰囲気は、単館系のシャシンというよりも「男はつらいよ」や「釣りバカ日誌」に近い。鶴瓶の主演でこの医者が全国各地を流れ歩くというシリーズ物をやったらウケると思う。特に「釣りバカ」が終了した後は、この企画は興行的には悪くないネタではないだろうか。ただし、それゆえ西川美和の資質とのズレは如何ともし難く、釈然としない気持ちで劇場を後にしたのであった。
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「ショーガール」

2009-07-14 06:25:28 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Show Girls)95年作品。弱肉強食のショー・ビジネスの世界で、トップ・ダンサーを夢見るヒロインの奔放な生態を描いたドラマ。監督がポール・ヴァーホーヴェンだから、登場人物の心理描写だの葛藤だの微妙なニュアンスだのといったデリカシーがまったくないのは当然として、映像表現や画面構成が話にならないほど雑でいいかげんだ。観ていて不愉快になってくるほど。

 まず、この三流ヘビメタ・バンドのレコードジャケットみたいな悪趣味きわまりない舞台装置。今どき場末の舞台でもお目にかかれないような、日本のC級バラエティ番組でも少しはマシなのを持ってくるだろうと思わせる、実に低レベルのセットと美術、そして大道具小道具。ただハデにすればいいと思ってんだろうけど、もうちょっと脳味噌のあるスタッフを選ぶべきだった。

 そして、超ダサイ振り付け。ただカロリー高そうな連中が音楽に合わせて手足を動かしているだけ。振り付けとしての“形”がないから(感覚として20年は遅れている)、部分部分のポーズを目まぐるしいカメラのカット割りでそれらしく見せようとしているに過ぎない。ダンサーの質も悪い(「コーラスライン」なんかのキャストとは雲泥の差)。ラッキィ池田でも少しはマシなの作るだろう(笑)。コスチュームも最悪。ついでに言うと、ヴェルサーチなんかのチャラチャラした舞台以外の衣装もヒドい。

 さらに登場人物が全員パッとしない。特にエリザベス・バークレー扮するヒロインは、頭悪い+性格悪い+見た目悪いという救いようのなさで、筋肉と性器だけで生きている、絶対に知り合いたくないタイプ。その他のキャラクターについてはコメントすらしたくない。

 “外見だけハデならそれでよし”というヴァーホーヴェンの作風は、「ロボコップ」や「トータル・リコール」などのSFアクションや「氷の微笑」みたいなサイコ映画ならサマになるだろうが、こんな「イヴの総て」を思わせる芸能界バック・ステージものと合っているとは断じて思わない。しかもこの低調な脚本(ジョン・エスターハスによる)に数億円を出したという、ハリウッドの能天気さにはついて行けない(-_-;)。
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「精神」

2009-07-13 06:25:00 | 映画の感想(さ行)

 かなりキツい映画である。岡山市にある、生活保護受給層などの経済的に恵まれないメンタル障害者を対象とした診療所を舞台に、患者たちを定点観測したドキュメンタリー。監督は「選挙」(私は未見)で評判を博した想田和弘だ。

 冒頭、いきなり今にも死にそうな雰囲気を漂わせた若い女のカウンセリングが始まる。聞けば昨日薬を大量摂取したらしい。あやうく三途の川を渡ろうとした彼女だが、その境遇は友人たち(おそらく同じ病を持つ者)が次々に死んでいき、生きてゆく価値がまったく見出せない。おそらくはこれから何度も同じ事を繰り返すのだろう。世の中にたった一人取り残されたような絶望を、医師をはじめとする診療所のスタッフは何とかしようとするのだろうが、この状態を見せつけられると見通しは明るいとは言い難い。

 次々と登場する患者達は、自分たちの苦しみを切々と訴える。それも過剰なほど饒舌だ。しかし、しゃべればしゃべるほど、彼らと健常者との距離を感じるばかり。最もヤバいと思ったのは、家に帰ると“ヘンな声が聞こえる”とかで診療所の宿泊施設に泊まっている女の独白だ。

 重大な刑事事件と思われる事実を、さほど深刻なことでもないような口調で淡々と述べる。このような人間が存在するということ自体が衝撃だが、それ以前に彼女の持つ“世界観”がどのような形態をしているのかほとんど想像できない。未開の領域は何もジャングルの奥や極地帯だけにあるのではないのだ。我々のすぐ近くに人知の及ばない空間がポッカリと口を開けているという、慄然とするような事実。そのセンス・オブ・ワンダーを描き出しているだけでも本作の存在価値はある。

 患者の中にはギャグを飛ばしたりして陽気に振る舞うオヤジや、通院する前より少しは良くなったと言うオバサンも登場する。しかし、彼らがいくらか普通っぽく見えるのは診療所の中だけなのだ。娑婆の世界ではシビアな現実が容赦なく襲ってくる。それを如実に示すのが映画のエンドロールだろう。観る者は少なからぬショックを受けるはずだ。

 後半、長いこと障害に苦しんで初老の年代に達した人物が登場する。彼は健常者が障害者に対して感じる“壁”よりも、障害者自らが作る“壁”の方が大きいと言う。その“壁”を突き崩そうと悪戦苦闘することが“生き甲斐”になっているような印象を受ける。連続する暗いエピソードの中で、この部分だけが救いのように思えた。

 それにしても、21世紀に入って吹き荒れた(構造改革万能の)新自由主義の嵐が、この福祉厚生の分野にも暗い影を落としていることを実感せずにはいられない。患者達の心中を理解することは出来ないかもしれないが、経済面でフォローすることは出来たはずだ。それを“自己責任”のスローガンの元に切り捨ててしまった過ちをリカバリーさせるには、膨大な時間と労力がかかるのだろう。実に遺憾なことだ。
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「ウイズ」

2009-07-12 07:30:55 | 映画の感想(あ行)
 (原題:The Wiz)78年作品。先ほど急逝したマイケル・ジャクソンの、おそらくは(ドキュメンタリー等を除いて)唯一の長編映画出演作だ。39年製作の「オズの魔法使い」のリメイクだが、正しくは原作をアレンジした演劇版の映画化である。舞台は現代のニューヨークで、ヒロインのドロシーは24歳の小学校教師に変えられている。黄色いレンガ道はアスファルトの上に描かれ、旅の出発点はハーレムだ。キャストは全員が黒人で、おなじみのナンバー「オーヴァー・ザ・レインボウ」こそ流れないものの、やはりミュージカル映画の体裁を取っている。

 映画のセットが奇態ならば、出てくるキャラクターも異形のものばかり。太った機械人形や紙人形、怪物人形などの意匠は、グロテスクさをも醸し出している。白い粉で攻撃してくるケシ女性軍団の一隊なんて、まるでシャレにならないエゲツなさだ。ところが、ヘタすれば際物に終わりそうなネタを、作者は何とか見応えのあるシャシンに押し上げている。監督は何とシドニー・ルメットで、確かにニューヨーク派と呼ばれている彼だが、ミュージカルは専門外かと思ったらけっこう健闘している。シナリオにジョエル・シューマカーが参画しているのもミソで、さすが後に「オペラ座の怪人」を手掛けるだけあって無理のない脚色だと思う。

 マイケルが演じているのは“カカシ男”で、脳みそが無い代わりに新聞紙のスクラップが頭の中に入っていて、何かというと一部を引っ張り出して格言みたいに読み上げるのが何とも可笑しくもチャーミングだ。ただし、ドロシー役がダイアナ・ロスだというのは納得できない。当時すでに30歳をとうに過ぎていた彼女が、いけしゃあしゃあとファンタジー映画の主役を張るのは無理があった(爆)。もっと若いキャストを連れてくるべきだったと思う。

 特筆されるべきは音楽で、チャーリー・スモールズの原曲をクインシー・ジョーンズが賑々しくアレンジ。全編これノリの良さで観る者を圧倒する。クライマックスは終盤の群舞シーン。画面からの熱気が館内に充満し、素晴らしい盛り上がりを見せる。封切り当時はあまり話題にならなかったが、もっと評価されても良い佳作だ。

 それにしても、マイケルの早すぎる人生からの退場は残念でならない。近年は第一線から退いていた感があったが、これで終わるような奴であるはずがなく、華々しくカムバックしてくれることを信じていただけに落胆は大きい。今はただ、冥福を祈るのみである。
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「クローンは故郷をめざす」

2009-07-11 07:15:23 | 映画の感想(か行)

 アンドレイ・タルコフスキー監督の傑作「惑星ソラリス」との共通性が見て取れる。死んだ人間が生き返ってくるところ、文字通り“故郷をめざす”主人公、そして“水”の描写を流れる時間のメタファーとして扱うこと等は誰でも感付くことだろう。さらに、低予算で昨今のSF映画と比べると随分と簡素なエクステリアを纏っていながら、内実はSFの雰囲気・空気感を凡百のハリウッド製の大作群よりも遙かに醸成させていることも共通している。

 ならば本作はタルコフスキーのエピゴーネンに終始していると思ったらそれは違う。食い足りない部分はあるにせよ、独自の世界観を提出している点は評価して良いだろう。宇宙飛行士である主人公(及川光博)は宇宙空間での作業中に殉職する。事前に全細胞の遺伝子情報を残していた彼はクローン人間として蘇るが、幼少期の記憶しか持たずに再生したため、生まれ育った故郷を目指すべく研究所を抜け出して失踪する。二度目に再生された彼は一度目のクローンを探して、これまた故郷への道を急ぐ・・・・という筋書きだ。

 主人公には双子の弟がいたが、幼い頃に水難事故で亡くしている。クローンによる再生は、この幼少時の兄弟関係と共鳴しているのは確かだが、一見“語るに落ちる”ような設定ながらけっこう深みも感じさせるのは、前提となる幼年時代の描写が実に丁寧かつ普遍的な雄弁さを持ち合わせているからだ。山深い村で優しい母親と3人で暮らしていたが(父親の影はない)、彼の無鉄砲な遊びが原因で弟は川に呑まれてしまう。子供なりに抱く悔恨と屈託はヒリヒリと観る者の胸に迫り、無垢な時は永遠に失われた悲しみが画面を横溢する。

 美術担当の木村威夫とカメラマンの浦田秀穂による映像は素晴らしく、清涼な佇まいを持ったウェットな空気感の創出と、奥行きのある画面構成は見事と言うしかない。特に空から落ちてくる宇宙飛行士のイメージなどは、神秘的ですらある。中嶋莞爾の演出は、静か過ぎる展開をギリギリのところでメリハリを付ける職人技を発揮。決して観客を置いていかない態度には好感を覚える。エグゼクティブプロデューサーにヴィム・ヴェンダースの名前があるが、少なくともヴェンダースの近作より上質の出来であるのは確かだ。

 及川の演技は殊の外良い。あのアンドロイドみたいな容貌に悲哀の影がよぎると、その“落差”が大きな効果を発揮する。母親役の石田えりの存在感も申し分ない。それにしても、勝手に“昇天”する道を選んだ一度目のクローンに対し、寄る辺ないスタンスに置かれた二度目のクローンの魂はどうなっていくのだろう。観賞後、ずっとそれが気になっている。
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「メガフォース」

2009-07-10 06:31:01 | 映画の感想(ま行)
 (原題:MEGAFORCE )82年作品。香港のプロデューサーであるレイモンド・チョーが監督ハル・ニーダムを起用して作ったアメリカ製SFアクションである。

 この二人が手掛けた作品群の中で一番良く知られているのが「キャノンボール」であろう。どうしようもない内容だったが、堂々興行収入32億円の大ヒットとなった。しかも、同じ頃に公開されたスピルバーグの「レイダース/失われたアーク」の倍以上の収益をあげている。そのボロ儲けぶりに味をしめてチョー&ニーダムが次に手掛けたのが本作。日本ではその年の夏休み映画の目玉として賑々しく公開されている。

 舞台は中近東のどこか。世界平和のために超法規的に結成された謎の軍団「メガフォース」の活躍を描く・・・・という設定。話の展開については支離滅裂でコメントする気力もないが、びっくりしたのが戦闘シーンである。沙漠の真ん中を白昼多数のオートバイや三輪車を駆って大挙移動するメガフォース軍団からして噴飯ものだが(これじゃミサイル一発で全滅だ)、そんなのがパットン大戦車軍団みたいなのを相手にして、大して苦労もせずに勝利を収めてしまうバカらしさ。しかも、彼らを運ぶのが骨董品みたいな四発の大型輸送機というのがナサケない。

 ラストの、観客をバカにしきったような“特撮”には脱力するが、それ以前に戦闘中に何か込み入った場面になると、途端に砂嵐が襲って来るという超御都合主義には失笑するしかないだろう。当時の惹句には“製作費80億円の超大作”とあったが、どう見ても10億円程度しか掛けていないと思う。出演者についてはコメントもしたくない(というか、誰が出ていたのか忘れた ^^;)。

 ただし今から考えてみれば、80年代(まあ、70年代も似たようなものだったが)はこういうバッタもんみたいな映画がヒットする素地が興行界には存在していたのだろう。もちろん作品自体はまったく評価できないが、そういう“何やら怪しい雰囲気”をシャレとして楽しむ余裕が観客の側にもあったのだと思う(今ではそうはいかない)。それはそれで、面白かったのかもしれない。青筋立てて作品のトンデモぶりを指弾したこと自体、野暮だったかも(^^;)。
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「それでも恋するバルセロナ」

2009-07-09 06:29:43 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Vicky Cristina Barcelona)インモラルで生臭い話なのだが、実に好印象。ウディ・アレンの熟練の技とスペインの明るい陽光が、危うい筋書きを巧みにスマートな艶笑喜劇へと昇華させている。

 バルセロナで一夏を過ごすためにアメリカからやって来た2人の若い女。彼女たちに絡んでくるのが離婚したばかりのプレイボーイの画家で、たちまち三角関係の泥沼に突入・・・・と思ったら、この恋愛ゲームに外野から次々と予期せぬ連中が飛び入り参加してくる。三角どころか四角・五画へと発展する混迷したラヴ・アフェアを破綻せずに積み上げていくその手腕に感心すると共に、各キャラクターに的確な“見せ場”を配置するウェルメイドな脚本にも唸らざるを得ない。

 一応中心となるのは、ハビエル・バルデム扮する画家だろう。刃傷沙汰になりながらも、やっとのことでカミさんと分かれたはいいが、実は彼女が居なければ何も出来ないヘタレ野郎だ。あっちこっちの女に手を出して遊び人を気取ってみても、身勝手な孤独感から逃れることが出来ない。言うまでもなく過去にウディ・アレンが演じてきたダメ男に通じるものがあるが、アレンがやるとユダヤ臭さとインテリのイヤらしさが出てくることもあったのに対し、バルデムはラテン系らしい明るさで深刻度ゼロの楽天性を獲得している。

 それにしても、単純な(?)三角関係は泥沼に入りがちだが、これが四角関係以上になると、場合によっては逆に“ややこしさ”が一つのリファレンス性を演出し、かえってスッキリとまとまってしまうものなのだ・・・・と、つくづく思う(個人的にはそういう経験はないが ^^;)。

 もちろん本作は、カオスも突き詰めれば“秩序”に達するという単純な図式だけで展開してはいない。誰某が“よろめきモード”に入る順序およびタイミングが絶妙で、小道具・大道具の使い方も相まって巧妙な仕掛けが施されている。一見突き放したようなナレーションも、ドラマが必要以上に脂ぎってくるのを抑える意味で効果的だ。

 この映画でアカデミー助演女優賞を取ったペネロペ・クルスはエキセントリックかつチャーミングな画家の妻を楽しそうに演じていたが、彼女にしてみれば“軽くこなした”という部類だろう。それよりも奔放なヤンキー娘を演じるスカーレット・ヨハンソンが印象深い。若いわりには出演作の多い彼女だが、蓮っ葉な雰囲気の役柄が目立っていた。ところがこの映画では、気侭なキャラクターながら、下品にならず実に可愛く描かれている。ウディ・アレンは彼女にゾッコンなのだろう。好きな対象が出ていれば撮る方も気合いが入ろうというものだ(笑)。
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「メジャーリーグ2」

2009-07-08 06:21:56 | 映画の感想(ま行)
 (原題:Major Leage II)94年作品。大リーグのお荷物球団クリーブランド・インディアンズの奮闘を描いてヒットし「メジャーリーグ」(89年)の続編だが、観終わって感じたのは、ヒット映画の続編を作ることの難しさである。

 前作は劇場で観たしテレビ画面でも何回かお目に掛かっているが、やっぱり面白い。“友情、努力、勝利”という、どこぞのマンガ雑誌のキャッチフレーズのように、典型的な明朗スポ根ドラマをコメディ・タッチで描いた快作。この作品の続編なんて必要ない。ドラマはリーグ優勝を果たした翌年、すっかり増長して腰抜け集団になったクリーブランド・インディアンズの面々が、なんとかハングリーさを取り戻して2度目の優勝に突き進んでいく様子を描く。

 でも、この設定にどれだけ魅力があるのか。落ちこぼれ連中がガッツを見せて頑張るという“スポ根王道路線”に関する面白そうなネタは、前回すべて出してしまったのである。ちょっと設定が変わったぐらいで、観客ウケする要素がそれほど違うわけではなし。結果としてすべてが二番煎じの感が免れない。

 ブードゥー教から仏教に鞍替えしたペドロと、日本からの助っ人タカ・タナカ(石橋貴明)の掛け合いが面白いぐらいで、チャーリー・シーンもトム・ベレンジャーも手持ちぶさたのようだ。性格の悪い女性オーナーの再登場も意外性なし。野球選手としてのペーソスを盛り込んだ前作に比べ、全体的に“単なるお笑い”に終始しているようで、素直に喜べない。

 でもまあ、つくづく感じるのはアメリカ人の野球に対する思い入れの高さである。観客席の盛り上がりもさることながら、実況アナウンサーと解説者(?)の極端なまでの地元エコひいきの姿勢は見上げたものだ。対して日本のプロ野球は一見盛り上がっているようだが、大リーグに比べると閉鎖的で楽しくない。映画の題材にふさわしいような、真に面白いプロ野球になってほしいものである。
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