元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「モルエラニの霧の中」

2021-05-31 06:19:56 | 映画の感想(ま行)
 約3時間半という長尺(途中休憩あり)。ドラマティックな展開は無く、意味不明な心象風景的なモチーフが目立ち、まさにアート指向の悠然とした映像が延々と続く。通常、斯様に明け透けな作家性を前面に出した作劇では“自己満足の凡作”と片付けられるパターンが多いのだが、本作は違う。これは各登場人物が主体になるストーリーに重きを置かず、舞台になる町そのものを“主人公”として撮り上げた叙事詩のようなものだ。その意味では実に見応えがある。

 北海道室蘭市に住む人々を描いた7話連作形式で紡ぐオムニバス劇で、それぞれのエピソードは一見独立しているが、他のパートと微妙にクロスしている。寓話的でファンタジー方面に振った逸話は正直好きになれないが(笑)、時代の流れに翻弄される者たちをじっくり捉えた部分は納得出来る。



 取り上げられたキャラクターは、いずれもこの町から、あるいは自身のライフワークから、または人生から“去って行く”者ばかりだ。定住するため新規にやって来る者はいない。去りゆく者たちは、その前に自分がこの町に残した何らかのものを掘り起こそうとする。ただ、それを見つけたからといって何か能動的な事物が喚起されるわけではない。ひたすら後ろ向きな感傷に浸るだけだ。

 そんなネガティヴな姿勢ばかりでは映画としての求心力は発揮出来ないと思うところだが、そうはならない。彼らはかつては町の一部として“機能”していたはずだが、時代と共に、一枚ずつ剥がれ落ちるように町から離れてゆく。そして町自体もゆっくりと沈み込んでいく。その哀切が観る者の心に迫り、切ない感動を生む。映画に“前向きな”テイストを求める向きには絶対に合わないシャシンだが、この“滅びの美学”とも言うべきコンセプトに共鳴するのも映画鑑賞の醍醐味の一つだ。

 5年がかりで完成させた坪川拓史監督(脚本も兼ねる)の粘り強さは尋常ではなく、これ見よがしなケレンに走りそうなシークエンスも抑えたタッチで撮りきり、地に足が付いた人々の描写はリアリティを先行させる。香川京子に大塚寧々、坂本長利、水橋研二といったキャストは良くやっているが、小松政夫と大杉漣の姿を見られるのは特筆ものだ(大杉扮する写真館主が心臓発作で倒れる場面はハッとしてしまった)。

 若手では再婚を機に町を離れる介護士の娘を演じた久保田紗友が印象的で、唯一未来へ通じるキャラクターを上手く表現していた。新宮英生と与那覇政之のカメラによる映像は本当に美しく、坪川監督自身が手掛けた音楽も好印象だ。特に挿入曲「しずかな空」は、本年度の邦画を代表するナンバーだと思う。
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「アウトサイダー」

2021-05-30 06:05:06 | 映画の感想(あ行)

 (原題:The Outsiders )83年作品。公開当時は“中途半端でどうしようもないシロモノ”という評(朝日新聞)もあったようだが、確かにフランシス・フォード・コッポラ監督の作品にしては随分と軽量級だ。ストーリーも過去の“不良少年もの”(?)のエピゴーネンでしかなく、訴求力は大きくはない。しかし、当時の若手スター総出演の本作には“華”があり、若年層の支持を集めたことも事実だ。

 オクラホマ州タルサのイーストウッド地区に住む14歳のポニーボーイは、両親を事故で失い、兄のダリーが親代りだ。ポニーは不良グループの“グリース”に属していた。一方、富裕層が住むウエストウッド地区には“ソッシュ”というグループがあり、“グリース”と対立関係にある。ある晩、ポニーは映画館で“ソッシュ”の女子メンバーであるチェリーと知り合うが、そのせいで両グループは一触即発の状態に。

 “グリース”で一番血の気が多いポニーの2歳上のジョニーは、“ソッシュ”の連中と揉み合ううちにチェリーのボーイ・フレンドであるボブを誤って刺殺してしまう。事情を知ったダニーは、ポニーとジョニーにタルサを離れるように指示するのだった。スーザン・エロイーズ・ヒントンによる同名小説の映画化だ。

 話自体はまるで「ウエスト・サイド物語」と「理由なき反抗」と「エデンの東」を足して3で割ったようなシロモノで、新味は無い。そもそも原作は作者が17歳の時に発表されており、有り体に言ってこれはライトノベルであろう。色恋沙汰こそ控え目だが、登場人物の造型は深みに欠ける文字通りの“ライト級”だ。コッポラの演出も殊更シャープな部分はなく、可も無く不可も無い展開に終始。

 しかしながら、出ている面子を眺めていると“お得感”がかなり高いことが分かる。何しろポニー役のC・トーマス・ハウエルをはじめ、マット・ディロンにラルフ・マッチオ、パトリック・スウェイジ、ロブ・ロウ、エミリオ・エステベス、トム・クルーズ、ダイアン・レイン、レイフ・ギャレットなど、この頃ヤング・アダルト・スター(ブラット・パック)と呼ばれた連中が全員集合している。さらにスティーヴィー・ワンダーの有名なテーマ曲が映画を盛り上げ、若い観客にとっては堪えられなかっただろう。事実、日本の映画雑誌「スクリーン」の読者選出ベストテンでは、見事トップを獲得している。
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「ジェントルメン」

2021-05-29 06:16:25 | 映画の感想(さ行)
 (原題:THE GENTLEMEN )いかにもガイ・リッチー監督作らしい、ケレンとハッタリの連続で賑々しくストーリーを進めてくれるが、底は浅い。少なくとも、同監督の出世作「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」(98年)と比べれば、かなり落ちる。有り体に言えば、脚本の精査が足りていない。

 アメリカからイギリスに渡り、マリファナの取引で財を成した組織のボスのミッキー・ピアソンが、巨額のビジネス資産をすべて売却した上での引退を決める。そんな中、私立探偵のフレッチャーがミッキーの側近であるレイモンドのもとを訪れる。フレッチャーはミッキーとそのシンジケートの“弱み”を握っており、そのネタを買い取らないと大手ゴシップ紙に情報をリークすると脅す。

 一方、アメリカの富豪マシュー・バーガーがミッキーの事業を譲り受ける話が進められていた。また、マシューの仲間であるチャイニーズ・マフィアや、偶然この件に関わることになったロシアン・マフィア、町のワルどもを束ねる得体の知れない男“コーチ”などが暗躍し、ミッキーの周囲は慌ただしくなってくる。

 いろんな連中が入り乱れて筋書きは複雑のように見えるが、実はマリファナ密売組織の事業移管の話に過ぎず、プロットはひどく単純だ。ミッキーの仕事を妨害している奴らの親玉は誰なのかというのは、すぐにネタが割れる。他の者たちも、観ている側が“こいつは、たぶん腹の中でこう思っているのだろう”と予想すると、それはすべて的中する。結末にはほとんど意外性はなく、この方向以外では締められない運びになっている。

 映画の大半はフレッチャーがレイモンドに話す内容に沿って進行し、だから多少は荒唐無稽な“脚色”が付与されているのは仕方がないが、それにしてもストーリーが面白くない。そもそも、これだけの騒ぎを起こしておいて警察当局がまったく介入しないというのも変だ。悪徳刑事でも登場させて、重要な役割を割り当てるぐらいの工夫が欲しかった。リッチーの演出は派手だが、話自体が気勢が上がらないので“から騒ぎ”に終わっている感がある。

 マシュー・マコノヒーにチャーリー・ハナム、ヘンリー・ゴールディング、ミシェル・ドッカリー、コリン・ファレル、そしてヒュー・グラントなど顔ぶれは多彩だが、いずれも想定の範囲内の仕事ぶりだ。とはいえ、アラン・スチュワートによる撮影は悪くないし、クリストファー・ベンステッドの音楽および既成曲のチョイスは非凡である。何も考えずに映画の“外観”だけを楽しみたいという向きには適当かもしれない。
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「アメリカの友人」

2021-05-28 06:17:18 | 映画の感想(あ行)

 (原題:Der amerikanische Freund)77年西ドイツ=フランス合作。ヴィム・ヴェンダース監督が31歳の時に撮った長編で、この頃の同監督は才気煥発であり、作る作品はどれも気合いが入っていた(昨今の彼とは大違い)。本作もキレの良い犯罪ドラマに仕上がっており、しかも深みがある。鑑賞後の満足度は高い。

 ハンブルグにやってきたアメリカ人の詐欺師トム・リプリーは、贋作の絵画を不当に売りさばいて利益を得ていた。彼はミノという怪しい男から、邪魔な人間を消すことを強要される。トムはオークション会場で額縁職人のヨナタンと知り合うが、ヨナタンは白血病で余命幾ばくも無いことを聞きつけたトムは、彼を殺人にはめ込むことを思い付く。

 多額の“前払い金”を受け取ったヨナタンは、ターゲットの男を射殺する。ところがこの“成功例”を聞きつけたミノは、ヨナタンに再び殺しの依頼をする。ヨナタンと懇意になっていたトムは、何とかそれを阻止しようと、殺しの“現場”に乗り込んでくる。パトリシア・ハイスミスによる「トム・リプリー」シリーズの一作の映画化だ。

 とにかく、トムとヨナタンの切迫した友情の描き方に圧倒される。それは一般的に言われる友情の概念から完全に逸脱しており、虚々実々の駆け引きの上にかろうじて成立しているような危うい関係性だ。何しろ、贋作の絵を売りとばすトムが差し出した握手を、ヨナタンが拒否したことから2人のやり取りが始まるのだ。おそらくヨナタンが長くは生きられないという事実が無ければ、最初からトムは彼に近付かないだろう。

 トムはカセットテープに“私は誰、ここはどこ?”といった虚無的な自問を繰り返し吹き込んでいるような男で、この一瞬を生きるしかないヨナタンこそが、自身の心の隙間を埋めてくれる存在だと勝手に合点する。そんな2人が惹かれ合い、でもやはり互いに別の世界に生きていることを再認識するまでの、波瀾万丈のドラマである。

 ヴェンダースの演出は淀みがなく、サスペンスの醸成には目を見張るものがある。それをバックアップするのが、ロビー・ミュラーのカメラによる独特の色彩だ。ヨナタンの息子ダニエルのレインコートの黄色や車のオレンジ色、赤一色のトムの部屋なども印象的だったが、特に効果的なのが街角のブルーがかった風景だ。それも明るさを廃した深い青で、作品のカラーと合致している。

 主演のデニス・ホッパーとブルーノ・ガンツのパフォーマンスは見事。リサ・クロイツァーやジェラール・ブランといった脇の面子も良い。また、ニコラス・レイやサミュエル・フラー、ダニエル・シュミットといったヴェンダースの“同業者”たちが顔を揃えているところも見逃せない。
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「ヒルビリー・エレジー 郷愁の哀歌」

2021-05-24 06:20:05 | 映画の感想(は行)
 (原題:HILLBILLY ELEGY )2020年11月よりNetflixより配信。これは「ビューティフル・マインド」(2001年)と並ぶロン・ハワード監督の代表作になりそうである。精緻でウェルメイドに仕上げる腕は確かだが感銘度に欠けるこの監督の特質を、題材の“熱さ”と各キャストの熱演が巧みにカバーし、実に見応えのある映画に仕上がった。

 オハイオ州ミドルタウン出身のジェームズ・デイヴィッド・ヴァンス(通称JD)は、貧しい家庭で育ちながらも精進し、兵役を経てオハイオ州立大学からイェール大学の大学院法科に進み、就職を見据えてインターンシップの面接に臨もうとしていた。ところが地元に住む姉から電話が掛かり、母親のペヴが麻薬の過剰摂取で病院に担ぎ込まれたという連絡を受ける。一度は故郷に帰り、面接までに母親の受け入れ先を探さねばならない。彼の胸に、十代の頃の母および祖母と暮らした日々のことが去来する。作家であるヴァンスの回顧録の映画化だ。



 ペヴは恐ろしく身持ちが悪く、結婚と離婚を何度も繰り返し、今でも周囲を困惑させている。彼女はかつては看護師だったが、問題行動を繰り返したため免許を剥奪されている。祖母のマモーウも若い時分は奔放だったが、何とか立ち直って娘を真っ当に育てるつもりが失敗し、そのことを後悔していた。

 この状況からJDがマトモな人生を歩んだことはまさに“奇跡”のようだが、映画はその過程を平易に描く。マモーウは何とか孫たちにペヴの轍を踏まないように配慮するが、ペヴの持つマイナスオーラは凄まじく、一筋縄ではいかない。母と祖母との火花を散らすバトルと、そこに巻き込まれないように踏ん張るJDの苦悩が画面に大いなる緊張感をもたらす。

 冒頭、ローティーンだったJDが傷ついた亀を助ける場面があるが、彼が根は思いやりのある人間であることを示す適切な“前振り”だと思う。そして、母と祖母、および姉や恋人から(それぞれ形はかなり違うが)愛されていたことを知るのだ。エンドクレジットのバックに登場人物たちの“その後”が紹介されるが、映画で描かれたことが合理性を持っていたことが分かり感心する。

 演技面では、何といってもペヴ役のエイミー・アダムスが凄い。言動はインモラルながら、その実愛情に飢えている女の生き様をヴィヴィッドに表現する。マモーウに扮したグレン・クローズも素晴らしく、何とかアカデミー賞を取らせたかった。ガブリエル・バッソやヘイリー・ベネット、フリーダ・ピントー、ボー・ホプキンスなどの面子も好調。

 マリス・アルベルチのカメラによる深みのある映像と、ハンス・ジマー&デイヴィッド・フレミングの音楽も申し分ない。余談だが、本国では何とラジー賞の候補にあがっている(笑)。原作ではかなり言及されていたアメリカ中西部の実状や社会格差を描いていないというのが理由らしいが、本作の上質さに接する限り、そんなことはどうでも良いと思えてくる。
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「水を抱く女」

2021-05-23 06:21:47 | 映画の感想(ま行)
 (原題:UNDINE)世評が高いので期待して観てみたが、どうにもピンと来ないシャシンだ。要するにこれは、私の苦手とするファンタジー映画である。だからストーリーもキャラクター設定もそれに呼応するように一貫性が無く、ドラマとして説得力に欠ける。雰囲気だけで何とか保たせようとしているが、個人的にはノーサンキューだ。

 ベルリンの博物館に勤務する学術委員のウンディーネは、ある日突然恋人のヨハネスから別れを切り出される。悲しみをこらえて仕事に臨む彼女だが、潜水作業員のクリストフとひょんなことから知り合う。彼は優しく、ウンディーヌもすぐに好意を抱く。ところが、クリストフと一緒に町を歩いていた彼女は偶然にヨハネスとすれ違い、動揺する。そしてヨハネスはあろうことか復縁を迫るのであった。そんな中、クリストフが勤務中に重大な事故に遭う。



 ヨーロッパに古くから伝わる水の精霊ウンディーネの神話を下敷きにしているらしいが、本作にはスピリチュアルなテイストは表面上は希薄だ。単なるラブストーリーのように見えるが、ヘンなところにオカルトじみたモチーフが挿入されるのが実に場違いだ。ケガして寝込んでいるはずのクリストフがウンディーネに電話を掛けてきたり、ヨハネスに対して唐突なオトシマエを付けたりと、おかしな筋書きが堂々と展開されている。

 ついでに言えば、ヒロインが超現実的な振る舞いをするのは終盤になってからで、その前には何の伏線も暗示もほとんど無い。斯様に脈絡に欠ける点が、ファンタジー映画の特徴であろう。クリスティアン・ペッツォルトの演出は以前の「東ベルリンから来た女」(2012年)同様、要領を得ない。しかしながら水中シーンは良く出来ているし、バックに流れるマルチェッロのオーボエ協奏曲(バッハによるチェンバロ編曲版)はけっこう効果的だ。

 そして博物館で見学客に対しておこなわれる、ベルリンの町の成り立ちについてのレクチャーはタメになった。その意味では、観る価値は全然無いとは言えない。主演のパウラ・ベーアは良くやっており、フランツ・ロゴフスキやマリアム・ザリー、ヤコブ・マッチェンツといった他の面子も悪くない。だが、映画の中身が低調なので高評価は差し控える。
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「偶然の旅行者」

2021-05-22 06:16:13 | 映画の感想(か行)
 (原題:The Accidental Tourist)88年作品。監督としてのローレンス・カスダンの仕事では、「白いドレスの女」(81年)と並ぶ業績だと思う。ソフィスティケートされた大人の人生ドラマであり、各キャラクターは十分に掘り下げられており訴求力が高い。スタッフ、キャストとも好調で、各種アワードにも輝いたのも当然と思われる。

 旅行ライターのメーコン・ラリーが長期取材を終えてメリーランド州ボルチモアの自宅に帰ってみると、妻のサラから別れを切り出される。実は彼らの一人息子が一年前に事件に巻き込まれて死亡してから、夫婦仲は冷え切っていたのだ。一人暮らしを強いられるハメになったメーコンは自暴自棄になり、挙げ句の果ては事故で骨折してしまう。



 メーコンは療養を兼ねて兄弟たちの住む祖父母の家に身を寄せるが、誰にでも噛みつく飼い犬を何とかしようと、彼は犬の調教師ミュリエルを雇う。8歳の病弱の息子を持つシングルマザーの彼女はかなり個性的で、最初は面食らったメーコンだが次第に惹かれていく。ところが、そこにサラから連絡があり、2人はヨリを戻す機会を得る。アン・タイラーによる小説の映画化だ。

 息子を失っても生活のリズムを変えず、むしろ仕事に没頭することによって不幸を忘れようとする男と、悲しみに打ちひしがれたその妻との関係が上手くいくはずは無い。そんなことが分かっていながら、妻に出て行かれた主人公の戸惑いは観ていて身につまされる。そんな彼が違う環境で新たな出会いをするものの、もう若くはないメーコンはいまひとつ踏み込めない。そのあたりの懊悩は上手く掬い取られている。

 離婚歴のあるミュリエルにしても同じで、積極的に振る舞っているようでなかなか一線は越えられない。それがメーコンのパリ取材旅行で事態は急展開。まさにタイトル通りの“偶然”を装った仕掛けが炸裂する。プロットは原作に準じているとは思うが、これがスリリングで引き込まれてしまう。

 このやり取りを通じて、人間は年を重ねても変わっていけるのか、あるいは変わらないのか、それが人生の後半戦を左右することに思い当たる。変わることで得ることもあるし、変わらない方が良い場合もある。そんな分岐点に遭遇するのも、生きることの醍醐味ではないかと考える。

 カスダンの演出は抑制されたタッチでありながらポイントは的確に突いてくる。適度なユーモアを挿入しているあたりも好印象。ウィリアム・ハートにキャスリーン・ターナー、ジーナ・デイヴィスという演者の配置も申し分なく、特にデイヴィスの魅力は特筆ものだ。ジョン・ベイリーによる撮影、ジョン・ウィリアムズの音楽、共に言うこと無し。
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「FUNNY BUNNY」

2021-05-21 06:24:31 | 映画の感想(英数)
 ストーリー自体は独り善がりで、ほとんど辻褄が合っていない。各キャストの演技も、ワザとらしくてサマにならない。ならば駄作として片付けて良いのかというと、そうとも言い切れない。演劇と映画とを隔てる壁を、無理矢理に突破しようとしている、その意欲だけは買う。

 自称小説家の剣持聡とその親友の漆原聡は、ウサギの着ぐるみに身を包み閉館間際の区立図書館に押し入る。彼らの目的は、図書館に収納してあるという“絶対に借りられない本”を探すことだった。その中に宝の地図が隠してあるという。2人は司書の服部茜と入場者の新見晴を縛り上げ、保管庫を探し回るが見つからない。そこに偶然館内に残っていた遠藤葵が茜と晴を助け出すが、剣持と漆原は侵入した理由を彼らに説明して、あろうことか協力を求めるのだった。



 4年後、駅のホームで線路に飛び込もうとしていた男を、剣持は助ける。その男・菊池広重は茜の大学時代の友人で、かつてはバンドを組んでプロデビューしていた。そこで剣持たちは菊池に前向きになってもらうため、ラジオ局に押し入って電波ジャックを図る。飯塚健(監督も担当)によるオリジナル戯曲の映画化だ。

 いくら閉館時刻とはいえ、広々とした図書館を司書が一人で切り回せるとは思えない。そもそも“絶対に借りられない本”の何たるかを精査しないまま、闇雲にバックヤードを漁りまくるという、剣持と漆原の考えの拙さには閉口する。2人が図書館を襲撃した理由というのも、牽強付会の最たるもので全く共感出来ない。果ては菊池が茜と昔繋がりがあったというのは、御都合主義も良いところだ。

 だが、本作には奇妙な味わいがある。通常、演劇の映画化は舞台特有の雰囲気が映画と合っていないという点が欠陥として指摘されることが多いが、この作品は故意に映画を“舞台劇っぽく”することでブレイクスルーを狙っている。演劇と違って“場面”は多岐に渡っているにも関わらず、舞台劇のテイストを濃厚に焙り出すというのは、一種の“離れ業”と言って良い。別にそれで映画として面白くなるわけでもないが(笑)、手法のプレゼンテーションとしての価値はあるだろう。

 主演の中川大志と岡山天音をはじめ、関めぐみ(久しぶりに見た)、森田想、落合モトキといった出演陣はエロキューションを前面に出してのパフォーマンスに終始する。ただし、菊池が在籍したバンドは“ニルヴァーナの再来”という触れ込みにも関わらず、ニルヴァーナの足元にも及ばない凡庸なレベルで大いに盛り下がった。
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「オクトパスの神秘:海の賢者は語る」

2021-05-17 06:34:32 | 映画の感想(あ行)
 (原題:MY OCTOPUS TEACHER)2020年9月よりNetflixより配信。第93回アカデミー長編ドキュメンタリー賞受賞作である。内容は驚くべきもので、最初からラストまで目が離せなかった。一見、よくある自然観察系ドキュメンタリー(?)のようだが、内実はヒューマンドラマであり、家庭劇であり、時にサスペンス映画だったりする。この多面性と意外性は、本作に屹立した個性を付与していると言えよう。

 映像作家のクレイグ・フォスターは、長年の激務で疲弊しきっていた。そこで故国の南アフリカに戻り、ケープタウンの近くにあるファルス湾でダイビング三昧の日々を送ることで、心身を癒やそうとする。ある日彼は、海中で貝殻が積み上げられた不思議な物体を見つける。近付いてよく観察すると、それはタコが身を隠すために貝殻をくっつけた姿であった。その生態に魅了された彼は、そのメスのタコを“彼女”と名付けて毎日海の中に潜り続ける。一方、クレイグは思春期の息子との仲がうまくいっておらず、この“彼女”の存在がそれを修復する一助になればいいと思っている。



 とにかく、この“彼女”の振る舞いにはびっくりすることばかりだ。タコは知能が高く、犬や猫と同等だとも言われる。それを裏付けるように、エサの採り方はとても頭脳的だ。そして天敵のサメとの“攻防戦”は、アクション映画さながらにスリリングである。“彼女”の繰り出すあの手この手は、観る側はまったく予想が出来ず、まさにセンス・オブ・ワンダーの釣瓶打ちだ。

 さらには“彼女”が魚の群れを相手に遊んだり、クレイグを友人と見なしてじゃれついたりもする。もちろん、クレイグは相手が野生生物ということで“ペットと飼い主”のような関係は構築しない。もっとも、タコの寿命は約一年で、これが犬や猫とは決定的に違うところだ。いずれは悲しい別れが待っていることは分かるのだが、いざ直面すると観ているこちらも胸が痛む。

 ピッパ・エアリックとジェームズ・リードの演出は、クレイグの他にカメラマンなどのスタッフが行動を共にしているにもかかかわらず、全編これ“彼女”とクレイグ(およびその息子)だけの物語に見せるという離れ業をこなしていて感心する。また映像は痺れるほど美しく、クレイグの言う通り、海の中は“SF映画顔負けの別世界”だ。ケビン・スミッツによる音楽も効果的。
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「ブータン 山の教室」

2021-05-16 06:12:50 | 映画の感想(は行)
 (原題:LUNANA: A YAK IN THE CLASSROOM)素材は珍しく、映像は美しい。キャストも好演だ。しかしながら、いまひとつ感銘度には欠ける。それは脚本の不備によるものだが、もしかすると作者はこの筋書きが真っ当だと思っているのかもしれない。観る側にとっては、彼の国の事情は十分には分かりかねる。

 ブータンの首都ティンプーに住む若い男ウゲンは教職課程を終えて実習の最中だが、教師は向いていないと思っており、実はミュージシャン志望である。そんな彼に当局側は、国内で最も僻地にあるルナナ村の学校へ期間限定で赴任するよう言い渡す。一週間かけてたどり着いた村は、住民が50人あまりの、電気も水道もない辺境の地だった。あまりにヘヴィな状況に戸惑うウゲンだったが、温かく迎える村民たちと付き合ううちに次第に教師の役割を自覚してゆく。だが、冬が近くなり彼が村を離れる時期がやってくる。



 ルナナ村までの行程はほとんどアドベンチャー映画で、しかもかなりの尺を取っている。対して村に到着してからは、村人たちとの軋轢や生徒たちの反抗といったネガティヴな要素は見られない。ウゲンはすんなりと村に馴染み、生徒たちはすぐに懐き、自分のやりたいように授業を進め、ついでに村の若い女子とも仲良くなったりする。

 いささか拍子抜けだが、おそらくこの国では教師が“聖職”であるという認識が強く、特に地方においては教職に就いている者を邪険に扱うということは考えられないのだろう。それだけ教育が重要視されているのだ。とはいえ、終盤の扱いには納得出来ない。幸福度が高いと言われるこの国でも、若年層の考え方はこんなものだと見切っているのが何とも切ないのだ。

 これがデビュー作となるパオ・チョニン・ドルジ(脚本も担当)の演出は破綻が無く、上手くやっている。適度なユーモアを交えているのも好感触だ。とはいえ、この筋書きがブータンの実相を表しているのならば、こちらとしては理解の外にあると言って良いだろう。

 主演のシェラップ・ドルジをはじめ、ゲン・ノルブ・へンドゥップ、ルドン・ハモ・グルンといった出演者はいずれも良くやっている。生徒たちは実際に地元の子ばかりだが、皆面構えが良く、特に学級委員のペム・ザムはとても可愛い。ヒマラヤ山脈の風景は当然ながら美しく、劇場内の空気まで変わっていくようだ。
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