元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「笑う招き猫」

2017-07-17 06:30:03 | 映画の感想(わ行)

 面白くない。一番の敗因は、漫才を題材にしているにも関わらず、肝心の漫才が少しも笑えないことだ。主人公達だけではなく、周りの芸人のネタも全然ウケない。本職の芸人もキャスティングされているのに、この体たらく。それはひとえに、ネタの内容の精査と見せ方を工夫することを作者が怠っているためだろう。ならば漫才以外の場面は良く出来ているのかというと、それも違う。とにかく弛緩した時間が流れるだけの、観て損したと思えるシャシンだった。

 高城ヒトミと本田アカコによる漫才コンビ“アカコとヒトミ”は結成5年目を迎えても、ほとんど売れていない。小さなライヴハウスで少ない観客を相手にする日々を送るのみだ。だが、少しずつマネージャーの尽力が功を奏し、2人にチャンスが舞い込むようになる。バラエティ番組に初出演が決まり、舞台のポスターの表示も大きくなる。しかし、元より生い立ちや芸に対するスタンスも違う2人の間に、大きな溝が出来始める。山本幸久の同名小説(私は未読)の映画化だ。

 主人公達のキャラクターが気に入らない。何より、どうして漫才師になりたかったのか、その背景が見えない。学園祭のアトラクションで少しばかりウケた程度で、芸人という不安定な世界に飛び込めるとは思えないのだ。2人は“ボケとツッコミ”という役割分担こそあるが、基本的にあまり違いは無いように思える。つまり、どちらも気難しくてヘタレで“付き合いきれない女”なのである。

 劇中で登場人物の一人から“辞めるのと逃げるのは違う”というセリフが発せられるが、彼女達は何かと理由を付けて逃げようとしているとしか思えない。これは周囲の若造連中も同様で、いずれも人生に対して及び腰だ。こんな者達が画面上をウロウロしてているだけでは、全然盛り上がらない。

 飯塚健の演出は平板でキレもコクも無く、目新しさを出そうと時制をバラバラにしてシークエンスを組み立てようとするが、これが上手くいっておらず、観ていて鬱陶しい限りである。

 主演は清水富美加と松井玲奈だが、映画内の設定としては27,8歳ながら、2人の実年齢も見た目もそれより若いので、かなり違和感がある。それでも演技の勘の良さでは定評のある清水はまだ良いとして、松井のパフォーマンスはいただけない。悪ぶってギャーギャー騒ぐだけでは“演技”にはならないのだ(ハッキリ言って、AKB一派は映画に出ないで欲しい)。

 落合モトキや荒井敦史、浜野謙太、前野朋哉といった脇のキャストも精彩が無い。良かったのは諏訪太朗や岩松了といったベテラン陣だけだ。それにしても、ラストに流れる楽曲の凡庸なこと。映画自体が低調ならば、せめて音楽だけでもキチンとして欲しかった。
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「ラン・ローラ・ラン」

2017-07-16 06:41:51 | 映画の感想(ら行)

 (原題:Lola Rennt)98年ドイツ作品。上映時間が81分で、まさに“一発芸”みたいな映画だが、楽しめた。監督・脚本は当時は若手だったトム・ティクヴァで、後年の冗長な仕事ぶりとは異なるキレの良い演出を見せる。

 午前11時4分、ベルリンに住むローラの部屋の電話が鳴る。ヤクザの裏金の運び屋をしている恋人マニからで、10万マルクを電車の中に置き忘れたという。20分以内に金を都合しなければ、ボスに消されてしまうらしい。彼女はまず銀行頭取の父親の元に行って金の無心を依頼するが、愛人と密会中の父親はそれどころではない。仕方なくマニと待ち合わせる場所に行き、一緒に強盗を働こうとするが、警察隊に囲まれて撃たれてしまう。

 すると映画は冒頭まで巻き戻され、ローラがマニの電話を受けるところから再開する。今度は父親を人質に銀行強盗を働くが、マニの方が不幸な目に遭ってしまう。再度映画は冒頭に戻るのだが、果たして“三度目の正直”でローラは上手く金を手に入れることが出来るのだろうか。

 作者の“単なる思い付き”みたいな題材をそのまま映画にしてしまうと鼻白むものだが、本作はいろいろなアイデアが詰め込まれており、退屈しない。同じシチュエーションでもエピソードの積み上げ方によって別々の結末に導くことが出来るという、映画手法のテキストにも使えるシャシンだ。

 何より、フランカ・ポテンテ扮するヒロインが街中を走り回るシーンが基調になり、作劇にスピード感を与えている(彼女の走る姿は美しい)。効果的に挿入されるアニメーションや、「ブリキの太鼓」のパロディなど、小ネタも充実している。特筆すべきはティクヴァとジョニー・クリメック、ラインホールド・ハイルによる音楽で、リズミカルでカッコ良い出来だ。

 F・ポテンテはその後「ジェイソン・ボーン」シリーズなどで広く名前が知られるようになるが、インパクトとしてはこの映画デビュー作を超えるものはないと思う。共演のモーリッツ・ブライプトロイのダメ男ぶりも良い。
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「おじいちゃんはデブゴン」

2017-07-15 06:21:50 | 映画の感想(あ行)

 (原題:我的特工爺爺)タイトルだけ見るとお手軽なアクション・コメディだと思われがちだが、中身はけっこうシリアス。そしてR15に指定されているように、エゲツない描写も目立つ。主人公の体格と同じように、観た後はずっしりと重みを感じてしまう一編である。

 66歳のディンはかつては人民解放軍の中央警衛局で要人警護の任に就いていたが、退役後はロシア国境に近い中国北東部にある故郷の町、綏鎮市で一人で暮らしている。彼は最近物忘れが激しく、医師から認知症の初期症状と診断され、元より気難しい性格が昂進してあまり他人と口をきかなくなっている。彼が心を許しているのは隣家に住む少女チュンファだけだが、彼女の父親レイは借金まみれで女房にも逃げられ、高利貸しを営むヤクザからの無理難題を受け入れざるを得ない立場に追い込まれている。

 レイに押し付けられた仕事は、ウラジオストクでロシアン・マフィアの財宝を奪うというものだった。一応成功はするが、途中でレイは逃走。ヤクザ組織は、チュンファを誘拐してレイをおびき出そうとする。また、宝石類を追ってロシアン・マフィアの殺し屋どもが町に乗り込んでくる。ディンはチュンファを救うため、封印されていた必殺拳を繰り出して悪者達に立ち向かっていく。サモ・ハン・キンポーが久々に主演と監督を兼ねた活劇編だ。

 ディンの過去はシビアだ。軍では海外の元首の警護も担当したほどの実力者ながら、愛のない結婚をして、やっとできた娘とは折り合えない。それでも孫娘は懐いてくれたが、彼女との外出時にはぐれてしまい、とうとう孫娘は行方不明のままだ(いかにも幼児の誘拐が日常茶飯事の中国らしい)。当然、娘とは縁を切られ、北京を追われて田舎町でひっそりと余生を送るしかない。さらに辺境の地にはゴロツキや、レイのように食い詰めた連中があふれている。

 斯様に舞台背景がリアルなので、年寄りが大暴れするという荒唐無稽な話も、違和感があまりない。格闘シーンは一見するとスローで地味だが、実は主人公の体格を活かした効果的な戦い方であることが分かる。特に体重を乗せて相手の関節を次々とヘシ折っていく技は、クンフーではなくリアルな“暴力”そのものだ。殺伐とした雰囲気の中で、ディンとチュンファとの心温まる関係性が描かれる。このコントラストの創出は見上げたものだ。

 レイ役にはアンディ・ラウ、さらにはツイ・ハークとユン・ピョウまで顔を揃えるという贅沢なキャスティング(サモ・ハンの人脈によるものだろう)。ウラジオストクの街並みや綏鎮市の雑然とした風景、そして住民たちの描写も興味深く、思わぬ拾い物の作品と言える。
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今年の“飾り山”は「スター・ウォーズ」。

2017-07-14 06:28:33 | 映画周辺のネタ

 昨年(2016年)ユネスコ無形文化遺産にも登録された福岡市の夏祭り、博多祇園山笠が今年も7月1日より15日まで開催された。例年通り市内14箇所に“飾り山”が設置されたが、その中で異彩を放っていたのが福岡市博多区の上川端商店街に設置された“八番山笠”である。

 ここの今年の飾り付けのテーマは、何と「スター・ウォーズ」だ。年末に公開される「最後のジェダイ」を題材にしたもので、手練れの博多人形師による造形は、実によく出来ている。話によれば、外国映画が“飾り山”のネタになるのは初めてだということで、かなりの見物客を集めていた。

 今回の“飾り山”のように、祭りの出し物を映画の宣伝に使うというのは、けっこう上手い方法かもしれない。特に福岡のように映画好きで祭り好きが多い土地柄だと、かなりの効果が見込めよう。出来れば今後も継続してほしい。

 博多祇園山笠のハイライトである“追い山”は7月15日に行われるが、開始時刻が朝の4時59分なので、前日徹夜でもしない限り良いポジションで観るのは無理だ。だが、博多祇園山笠は博多の夏を象徴する行事であることは間違いない。だが、今年の梅雨は県内の筑後地区で大水害が起こるなど、良くないニュースが目立つ。地元の方々の無事を祈りたい。
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「イヴの総て」

2017-07-10 06:30:27 | 映画の感想(あ行)

 (原題:All About Eve )1950年作品。その年のアカデミー賞において作品賞以下6部門に輝いた話題作だが、私は“午前十時の映画祭”にて今回初めてスクリーン上で接することが出来た。世評通り面白く興味深い映画で、いわゆる“芸能界の内幕もの”というジャンルを確立した作品と言えるかもしれない。

 劇作家ロイド・リチャーズの妻カレンは、毎晩劇場の楽屋口で大女優マーゴ・チャニングを“出待ち”しようとしている田舎娘イヴを見かける。彼女に興味を持ったカレンは、イヴをマーゴに紹介する。それをきっかけに、イヴはマーゴの付き人として雇われる。当初はすべてにおいて完璧に仕事をこなすイヴに感心したマーゴだが、次第に有能すぎるイヴをマーゴは疎ましく思うようになる。そしてマーゴの恋人である演出家のビルに対して傲慢な態度を取ったイヴに、マーゴは怒りを隠さない。

 だが、代役として舞台に立つ機会を得たイヴのパフォーマンスは評判を呼び、やがて彼女は批評家のアディスンを利用して有利な条件で次々と仕事をゲットするようになる。しかしアディスンの方が一枚上手で、彼はイヴの“正体”を掴んでいた。それでもイヴの名声は衰えず、ついにはアメリカ劇界最高の栄誉であるセイラ・シドンス賞を獲得するに至る。

 冒頭で授賞式の場面が映し出され、映画はそこから8か月前、つまりイヴとマーゴが最初に出会った頃に時世が遡る。あえて最初に結末を提示しているのは、たとえ“ネタバレ”をしても語り口の上手さによって最後まで観客を引っ張っていけるという、監督兼シナリオ担当のジョセフ・L・マンキーウィッツの自信のあらわれであろう。事実、終盤に至るプロットの組み立て方や、各登場人物の配置には名人芸クラスの風格を感じさせる。

 よく考えてみると、いくら才能があってもイヴがわずか数か月で層の厚い演劇界においてスターダムにのし上がれるわけがない。それ以前に、イヴが実力派ならば地元で何らかの実績を残しているはずである。だが、そんな瑕疵が気にならないほど、本編の展開は巧みだ。

 目的の為なら手段を選ばないイヴと、それを阻止しようとするカレン&マーゴの容赦ないバトル。翻弄されるばかりのロイドとビルの男性陣。そして海千山千のアディスンの暗躍。それらが組んずほぐれつ進行する様子は、一種のスペクタクルだ。さらにラストには飛び切り辛口の仕掛けが用意されており、興趣は高まるばかりである。

 イヴ役のアン・バクスター、マーゴに扮するベティ・デイヴィス、いずれも絶品。セレステ・ホルムやジョージ・サンダース等、他のキャストも万全だ。また新人時代のマリリン・モンローが顔を見せているのも嬉しい。一見の価値はある映画だ。
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映画は着こなしの参考になるか?

2017-07-09 06:26:28 | 映画周辺のネタ
 デパート等では夏物バーゲンが行われる時期になってきた。毎度冷やかしのつもりで覗いてみるが、気が付くと数点のアイテムを買ってしまい、我ながら意志の弱さには呆れてしまう(苦笑)。

 さて、池波正太郎の著書「映画を見ると得をする」の中に“映画を数多く観ていると、自然と服装のセンスなんかが垢抜けてくる”という一節がある。しかし私は自信を持って“こりゃウソだ”と断言する。映画ばっかり観ていると(特に若い頃)、カネをすべて映画につぎ込んでしまうため、服装には気を遣わない。“そりゃオマエだけだろ”との意見はごもっとも(^_^;)。でも、各地の映画祭に集まってくる連中の服装を見ていると(あ、これ男性に限っての話ね)けっこう図星だったりする。

 私だって映画を観まくっていた(今もだけど)二十歳前後のころは服装なんて無頓着(当時の写真見るとほとんど浮浪者だ)。その後、人並に衣装に金を使うようになったが、それは洒落者の同僚や従兄弟の影響からで、決して映画をよく観ていたからではない。映画の中のファッションが気になり出したのはそれからで、要するに映画を観て服装が垢抜けるかどうかは元々ファッションに興味があるかないかの問題なのだ(私は興味があっても垢抜けないが)。

個人的には、黒澤明の「乱」だのコッポラの「ドラキュラ」だのサリー・ポッターの「オルランド」だの、市川崑の「細雪」やピーター・グリーナウェイとかペドロ・アルモドヴァルの諸作などの“衣装デザイン賞いただきっ”みたいな立派なファッションより、自分が参考にできるような映画の中での着こなしに目が行ってしまう

 「炎のランナー」のブリティッシュ・トラッド。映画を観たあと本気で白のフランネルのズボンとホワイト・バックスを買いたいと思った(金がなくて断念)。コロニアル調でキメたダニエル・シュミット監督の「ヘカテ」。エレガンスの極致みたいな「華麗なるギャツビー」(74年版)。「の・ようなもの」は登場人物が全員アイビー。主人公(伊藤克信)が秋吉久美子扮するソープ嬢に“これ、Kentだぜ”と自慢するところは笑った。

 ウディ・アレンが出演作の中でよくやるツイード・ジャケットにチノパンを何気なく合わせる方法。「ドゥ・ザ・ライト・シング」のヒップホップな着こなし(同じスパイク・リー作品でも「マルコムX」の衣装は立派過ぎて真似できない)。映画を観た帰り道で同じブランドのセーター買ってしまったのは「ザ・プレイヤー」(衣装担当アレキサンダー・ジュリアン)。あと、あげればキリがない。

 どうせ私のような冴えないオッサンが、映画の登場人物みたいにカッコ良く着こなすなんて無理。それでも少しは参考にして街の美観を損ねないような服装はしたいと思う今日このごろである。
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「残像」

2017-07-08 06:43:06 | 映画の感想(さ行)

 (原題:POWIDOKI)アンジェイ・ワイダ監督の遺作で、いかにもこの作家らしい題材が提示され、予想通りのストーリーが展開する。しかし、それは決してマンネリではない。それどころか、本作をはじめワイダが取り上げてきたテーマの今日性がますます強く印象付けられる。この世界の本質的な情勢は彼が映画製作を開始した時期と、ほとんど変わっていないのだ。

 第二次世界大戦後のポーランド。かつてカンディンスキーやシャガールらと交流を持ち、非具象絵画の第一人者と呼ばれたヴワディスワフ・ストゥシェミンスキは、創作活動と美術教育に励んでいた。しかし、ソ連の影響下にある国情は次第に芸術家の自由を奪っていく。政府は社会主義のプロパガンダの手段としての芸術しか認めず、その風潮に反対したストゥシェミンスキは迫害される。

 彼は大学を追われ、生計を立てるあらゆる手段も奪われてしまう。そんな彼を教え子達は慕うが、やがて彼らも作品を展示する場さえ失う。さらには病床にあった妻を亡くし、一人娘との関係もギクシャクする中、ストゥシェミンスキはそれでも芸術を追求する姿勢を崩さない。だが、長年の不摂生が祟って彼はいよいよ絵筆を握ることが困難になっていく。

 ストゥシェミンスキは実在の画家だが、私は恥ずかしながらその名を知らなかった。しかし、劇中でいくつか紹介される彼の作品は先鋭的であり、均一性・具象性を求める全体主義とは相容れないことはすぐに分かる。政権にとっては、格好の弾圧の対象だ。また、大半の一般ピープルにとっては芸術なんかに縁は無い。何の疑問も持たずに独裁を受け入れる国民には、主人公のような異分子は排斥されて然るべきと思い込む。

 この理不尽な同調圧力と、それに翻弄される個人の苦闘という図式は、今も変わらない。スチシェミンスキの功績は後に本国ポーランドでも再評価され、今や国立美術大学の名前にもなっているほどだが、かつてのストゥシェミンスキのように苦汁を嘗めている者は現在も世界中に存在している。作品のカラーは暗鬱だが、ワイダの演出力は強靱だ。終盤の処理は、彼の代表作「灰とダイヤモンド」(58年)を思わせて感慨深い。

 主役のボグスワフ・リンダのパフォーマンスはかなりのもので、第一次大戦で負傷し不自由な身体になったストゥシェミンスキを、懸命に演じて圧倒される。教え子の女学生ハンナに扮するゾフィア・ビフラチュや、娘役のブロニスワバ・ザマホフスカ(ベテラン俳優ズビグニェフ・ザマホフスキの娘である)、盟友のユリアンを演じるクシシュトフ・ビチェンスキーらの仕事ぶりも印象的だ。ストゥシェミンスキの絵をフィーチャーしたエンド・クレジットは気が利いている。
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田山花袋「蒲団」

2017-07-07 06:30:48 | 読書感想文
 明治40年に発表され、文学史のテキストには“自然主義の先駆けとなった記念碑的作品”とかいう紹介文が載っている著名な小説だ。当然のことながら、誰しも若い頃にチェックしておくべき書物だが、私が読んだのはつい最近である(笑)。100年以上前に書かれた小説ながら、作品としては面白い。青年期ではなく年齢を重ねた時点で読んでみるのも、味わい深いものがある。

 作家の竹中時雄は30歳代半ば。妻と3人の子供と一緒に東京に住んでおり、仕事もコンスタントに依頼され、一見何の不満もない生活を送っている。ある時、横山芳子という女学生から“弟子にして欲しい”との連絡を受ける。初めは気が乗らなかった時雄だったが、芳子と手紙をやりとりするうちに、彼女がけっこう見込みのある人材であることが分かる。



 そして弟子入りを許可されて上京してきた芳子に会った時雄は、年甲斐もなく胸のときめきを覚えるのであった。折しも妻とは倦怠期にあり、芳子と一緒にいることが時雄にとって何よりの楽しみとなる。だが、芳子の恋人である田中秀夫が学業を放り出して上京してくるに及び、時雄は微妙な立場に追いやられる。

 30歳代半ばの男といえば、今ならば“青年”のカテゴリーに入るのかもしれないが、当時としては分別が付いているはずの立派な中年で、有り体に言えば“おっさん”である。その“おっさん”が若い娘に心を奪われて悶々とする。しかも、自分からは決して相手にゾッコンであるという素振りを見せず、保護者面して巧妙に“恋敵”から芳子を遠ざけようと画策する。そのみっともなさが素晴らしく面白い(笑)。主人公がいろいろと姑息な手段を講じた挙句、自らの狙いとは違う結末を迎えて途方に暮れるラストは最高だ。

 本作は作者の田山の経験を元にしており、時雄の懊悩は書き手の率直な心情の吐露でもある。ここまで書いて良いのかと思うほど、表現は容赦ない。もっとも、これは“リアリズムの衣を被ったエンタテインメント”であることも考えられるが、それを勘案しても一気に読ませる文章力には感心してしまう。幅広い層に面白さを感じさせる作品であるだけに、映画化しても成果が期待出来る。
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「ハクソー・リッジ」

2017-07-03 06:30:01 | 映画の感想(は行)

 (原題:HACKSAW RIDGE )戦場の残虐な描写を受け付けない観客を除けば、できるだけ幅広い層に観てもらいたい映画だ。戦争の真実を伝えるだけではなく、その切迫した状況においても自らの信念を貫いた主人公の孤高の人間性を過不足無く描き、大きな感銘をもたらす。今年度のアメリカ映画の、収穫の一つだろう。

 ヴァージニア州の田舎町で生まれ育ったデズモンド・ドスは、弟と一緒に野山を駆け回る活発な少年だった。しかし、優しかった父トムは第一次世界大戦に従軍して以来、心に傷を負って酒に溺れ母バーサとの諍い絶えなくなっていた。ある日、兄弟喧嘩で相手に大けがを負わせた彼は、聖書の“汝、殺すことなかれ”という教えに共鳴し、以後信仰に生きるようになる。

 やがて第二次大戦が勃発し、デズモンドの周りの者達も次々と出征する。婚約中のデスモンドも何とか国に奉仕したいとの思いで志願するが、決して銃に触れないという自らの姿勢を崩すことはなかった。そのために周囲との軋轢は大きくなるが、やがて軍当局も彼のスタンスを認め、彼は衛生兵として前線に出ることになる。1945年5月、沖縄の激戦地である“ハクソー・リッジ”こと前田高地に赴いたデスモンドはあまりの惨状に驚く。だが、信念を曲げない彼は部隊が撤退した後の現場に一人残り、重傷で動けない兵士達を出来るだけ助けようとする。

 沖縄戦で75人の命を救った、実在の米軍衛生兵を題材にした作品だ。主人公の子供の頃、そして入隊して紆余曲折の末にやっと彼の主張が受け入れられるまで、つまりは戦場以外のシーンがかなり長い。しかし、これらは決して余分なパートではない。それどころか、デスモンドが最前線でどうしてあのような行動を取ったのかを裏付ける意味で、必要不可欠の製作上の処理であることが分かる。

 軍に入っているのに戦闘訓練を受けないというのは不都合極まりない。そんなのが実際に戦場に出たならば、周りの足を引っ張るかもしれない。除隊させて当然だ・・・・と誰しも思う。しかし、映画はそういうアクロバティックとも言える設定を観る側に違和感を抱かせないように、ありとあらゆる方策を講じる。少なくとも“実話なんだから、納得しろ”という不遜な態度とは無縁だ。

 特に偏屈だと思われた父親が予想しないような大きな働きをするあたりは、感動的である。そして、主人公のような考え方を持っている者を従軍させることは、一見理屈に合っていないように見えて、実は軍の体制を整える上で有益であることも示されている(彼がいなければ75人もの無駄な犠牲者が出ていたのだ)。

 久々に演出を手掛けるメル・ギブソンの仕事ぶりは力強く、一点の緩みも無い。戦闘シーンの臨場感は圧倒的で、まさに観客を激戦地の只中に放り込むような凄みを感じる。主役のアンドリュー・ガーフィールドは好演で、線は細いが強靱な精神力を持った男を上手く実体化している。サム・ワーシントンやルーク・ブレイシー、リチャード・ロクスバーグといった脇の面子も良いが、父親役のヒューゴ・ウィーヴィングの味わい深さと婚約者に扮するテリーサ・パーマーの可憐さが特に印象に残る。サイモン・ダガンによるカメラワークとルパート・グレッグソン=ウィリアムズの音楽も要チェック。
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「ラテンアメリカ 光と影の詩」

2017-07-02 06:35:00 | 映画の感想(ら行)
 (原題:El Viaje)92年作品。監督は「タンゴ ガルデルの亡命」(85年)「スール、その先は・・・愛」(88年)で知られるアルゼンチンの異能フェナンド・E・ソラナス。軍事政権に抵抗してアルゼンチン南部からペルーに逃れた父親を追って南米大陸を縦断する少年を描くロード・ムービーだ。祖国へのオマージュを前衛的手法と独特の映像美でコラージュしてきたソラナスだが、ここでは明確なストーリーを追っているためか珍しくわかりやすい。ただし“ソラナス作品としては”という注釈付きではあるが・・・・。

 主人公はマゼラン海峡を渡りパタゴニアへ。そこではイギリスの石油資本が土地を半植民地化している様子が描かれる。そしてブエノスアイレスへ行くが、洪水で水没している。そこでチリからの亡命者と会い、独裁政治退陣後も逼迫している国情を訴える。ボリビアからペルーへ。悲惨としか言いようのない貧困の中にいる住民の姿が映し出され、次に行くブラジルでは対外債務で首が回らない国家情勢が、パナマではアメリカとの戦争で疲弊しきった国情が描かれる。まさに地獄めぐりのロード・ムービーだ。



 ソラナス監督得意のシュールな画作りは健在だ。水没した街に暮らす人々や、廃虚のような学校でプロパガンダ教育を受ける学生たち、国民に拘束帯を付けるように訴えるテレビ、ジャングルの中で微笑む美少女、主人公の父親(作家でもある)が描く物語に登場する英雄がアニメーションとなって画面にあらわれるetc.

 この技法は凡百の作家が使うと意図するものがミエミエになってシラけるところだが、切迫した作者の確信犯ぶりは観客の冷笑的な態度を許さない。なぜなら、ここに描かれることは(多少の誇張はあれ)すべて事実であるからだ。ラテンアメリカほど西欧列強(古い言葉だな)の蹂躙と搾取を強いられている場所はないのである。

 ペルー奥地には未だに奴隷制同然の労働環境が存在すること、アルゼンチンが借金のカタに領土を切り売りしていること、そしてアメリカのパナマ介入の真相だ。この政治的フィルムを少年の成長をからめたロード・ムービー仕立てにしたのは正解で、さわやかな青春映画の雰囲気が重苦しい題材を中和し、誰にでも楽しめる娯楽作に仕上がった。ただ、反動勢力は気に入らなかったらしく、映画の公開後ソラナスは暗殺未遂に遭っている。ロベルト・マシオのカメラが捉える茫洋とした南米の大地は強いインパクトを残す。アストル・ピアソラの音楽が美しさの限りだ。
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