元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「五線譜のラブレター DE-LOVELY」

2014-07-31 06:34:57 | 映画の感想(か行)

 (原題:De-Lovely )2004年作品。丁寧な作りで、感心した。アメリカの名作曲家コール・ポーターとその妻の実録映画である。

 映画は1964年、ニューヨークの広大なアパートで死の床にあったポーターの元に、ゲイブと名乗る怪しげな演出家が出現し、ポーターを観客とした彼の人生ショウが展開するという場面から始まる。主に描かれるのはポーターと妻リンダとの関係性だ。

 この二人の間柄は面白い。ダンナがゲイで、別に男の“愛人”がいることを知っていながら、夫の才能を伸ばし世に出すことに腐心する妻。パートナーのどちらかが強烈な異才でなかったらとても成立しないだろう。だが、映画はそのあたりを自然に描き観客を納得させてしまう。アーウィン・ウィンクラーの演出は努力賞もの。主演のケヴィン・クラインとアシュレイ・ジャッドの演技も良好だ。

 映画は晩年のポーターが自分の一生を舞台劇として鑑賞するという手の込んだ設定を取っているものの、これはそれほど効果的ではない。むしろポーターの業績を讃えるべく、豪華な顔ぶれのミュージシャンたちが彼のナンバーをカバーし、映像面ではそれを活かすためにミュージカル仕立てになっているところがポイント高い。

 特にミック・ハックネルが参加しているのは、かなり前にシンプリー・レッドのアルバムでポーターの「エヴリ・タイム・ウィ・セイ・グッバイ」をカバーしていたことを考え合わせると感慨深いものがある。ジャンティ・イェーツによる衣装デザインも素晴らしく、久々にリッチな気分に浸れる作品である。
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「ダイバージェント」

2014-07-28 06:06:00 | 映画の感想(た行)

 (原題:DIVERGENT )何より、主演女優のシャイリーン・ウッドリーの劣化ぶりに唖然とした(爆)。顔が下ぶくれで締まりが無くなり、表情が乏しくなって肌のキメも粗くなっている。「ファミリー・ツリー」でジョージ・クルーニー扮する主人公の娘を演じた時は、とても可愛く演技も達者で好感を持ったが、あれからわずか3年でこうもオバサン臭くなってしまうのだから、世の中分からない。母親役のアシュレイ・ジャッドの方がよっぽど魅力的だ。

 さて、主役の弱体化は別にしても、本作は低調なSFアクション編であり、ハッキリ言って観る価値は無い。最終戦争から約100年経った未来。人類は国家や人種、宗教というカテゴライズこそが諸悪の根源であると勝手に決め付け、その代わりに全員を対象に一生に一度性格診断テストを実施して、キャラクター傾向別に5つの共同体に分類し、役割を明確化して世の中を上手く回そうと考えた。

 主人公のベアトリスは16歳になりテストを受けるが、結果は5つのどれにも当てはまらない“異端者(ダイバージェント)”と判定される。ダイバージェントは反社会的な分子と見なされ、世の中から排除されてしまうのだ。素性を隠して戦闘的な共同体に加入する彼女だが、やがて政権をめぐって特定共同体によるクーデターが勃発。それと同時にダイバージェントを抹殺しようという計画が明るみに出て、ベアトリスは否応も無くこの紛争に巻き込まれていく。

 まず、5つの共同体に分けるだけで全てを丸く収めようという小児的発想に脱力する。しかも、映画の序盤で“診断テストは一回のみ”と謳ってあるにも関わらず、後に共同体を異動した者も存在するといういい加減な設定。

 そもそも、どうしてダイバージェントがこの未来社会の維持に不都合なのか、そこがほとんど描かれていない(せいぜいが洗脳しにくいというモチーフしか出てこない)。本作は三部作の第一作であり、ダイバージェントの何たるかは自作以降に示されるとは思うのだが、少なくともその“正体”を暗示するような描き方をしないとこの映画自体の存在価値は無いだろう。

 主人公が受ける訓練や共同体内での色恋沙汰は、扱い方として稚拙と言うしかなく、まるで“ママゴト”のようだ。アクションシーンも緊張感や高揚感は皆無。マーシャルアーツ方面のトレーナーは不在だったのかと思うほど、弛緩したような格闘場面が延々と続くのみ。それらに追い打ちを掛けるように、無駄に長い上映時間が作品のレベルを大幅に引き下げる。

 ベロニカ・ロスによる原作は本国では大ヒットしたらしいが、たぶんお子様向けのケータイ小説と似たようなものなのだろう。ニール・バーガー監督の腕前は三流で、映画を盛り上げる術も知らないようだ。キャストわずかに印象に残ったのは、珍しく悪役を嬉々として演じているケイト・ウィンスレットのみ。とっとと忘れてしまいたいシャシンである。
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「フェリスはある朝突然に」

2014-07-27 08:14:27 | 映画の感想(は行)

 (原題:Ferris Bueller's Day Off)86年作品。80年代のアメリカ映画界におけるコメディ分野は、ジョン・ヒューズの天下だった。脚本やプロデュースで大いに腕を振るったが、自らメガホンを取った作品もいくつかある。この映画もその一本で、市場では好評をもって迎えられた。

 シカゴの高校に通うフェリスは調子の良い野郎で、今日も仮病を使ってズル休み。しかも両親も姉も外出して不在。羽根を伸ばすには絶好の機会だ。手始めに学校の生徒用データベースにアクセスして彼自身の欠席日数を大幅に減らし、次に校長にニセ電話を掛けてガールフレンドのスローアンを帰宅させてしまう。同じく学校を勝手に休んでいる金持ちの息子であるキャメロンを呼び出し、彼の父親が保有する高級車でスローアンと共にバカンスと洒落込む。

 その日も暮れて、車の距離計の数字を減らそうと小細工を弄している間にヘタを打って車は大破。校長はフェリスの仮病を突き止めようと家にまで押しかけ、当然のことながら両親も姉も帰ってくる。果たしてフェリスは窮地を脱することが出来るのか。

 マシュー・ブロデリック演じるフェリスの、とことん楽天的で抜け目の無いキャラクターがケッ作。そしてトラブルを幾何級数的に規模を拡大させ、ラストではそれを一分の隙も無く収束させてしまうヒューズ脚本が冴え渡る。シカゴの観光名所巡りやジャーマン=アメリカン・パレード見物も楽しめ、極めつけはエンドクレジット後のフェリスの捨て台詞(爆)。この脳天気さは、やはり80年代というライトな(?)時代と絶妙にシンクロしていたのだろう。

 アイラ・ニューボーンによる音楽は快調で、タク・フジモトのカメラによる明るい画調が心地良い。アラン・ラックやジェニファー・グレイ、ミア・サーラといった脇の面子も好調。ジョン・ヒューズは若くして世を去ってしまったのが残念である。
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「関の彌太ッぺ」

2014-07-26 06:53:17 | 映画の感想(さ行)
 昭和38年東映作品。福岡市総合図書館にある映像ホール“シネラ”で上映された中村錦之助特集の中の一本。股旅物の傑作とされているが、正直それほどのシャシンとは思わないものの、随所に心惹かれるシーンがあり、退屈しないで観ることが出来た。

 生き別れの妹を探して旅をする彌太は、その道中で川で溺れたお小夜という少女を助ける。ところがお小夜の父親は泥棒行脚の最中で、ヤクザ者の怒りを買って斬り殺されてしまう。やむなく彌太はお小夜を実家だという宿屋に連れて行き、何とか彼女を引き取ってもらう。その後彌太はやっと妹の行方を突き止めるが、妹はすでに亡くなっていた。



 10年の歳月が流れ、捨て鉢な生活を送った彌太は、ヤクザの用心棒に身をやつしていた。かつて訪れた宿場町にやってきた彼は、宿屋の娘として成長したお小夜が命の恩人である旅人を探しているという噂を聞く。しかし、荒んで容貌も変わった自分が名乗り出るわけにはいかない。そんな中、お小夜の父親を殺した箱田の森介が、自分がその旅人であると主張して巧みに宿屋に入り込む。激高した彌太は森介を斬り捨てるが、彌太も飯岡衆との出入りを控えていた。

 気になったのが、フィルムを切り貼りした箇所が多数あり、それが丸分かりになっている点だ。とにかく画像がギクシャクとして見にくい。まあ、昔はこんな状態でも観客は気にしなかったのかもしれないが・・・・。そして成長したお小夜を演じる十朱幸代が垢抜けずに興ざめだ。劇中では“器量よし”という設定なので余計に違和感がある。彼女が魅力を発揮するのはもう少し後のことなのだろう。

 とはいえ、彌太を演じる中村錦之助のスター性のある存在感が画面を横溢すると、それらの欠点はあまり気にならなくなる。

 “金はなくなったけど、おいら、お星さまになったような気持ちだぜ”とか“この娑婆には辛い事、悲しい事がたくさんある。だが忘れるこった。忘れて日が暮れりゃあ明日になる。(空を見上げて)ああ、明日も天気か”とかいう泣かせるセリフの連続。そして、むくげの花の咲く垣根越しで語り合う彌太とお小夜のシークエンスは、評判通り素晴らしい。山下耕作監督の力量が発揮されている。

 森介に扮する木村功の海千山千ぶりも見事だし、この手の映画には珍しくラストが斬り合いではないのも効果的で、深い余韻が残る。
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雲仙・島原に行ってきた。

2014-07-25 06:33:27 | その他
 長崎県の雲仙および島原市に行ってきた。考えてみれば、私がここを観光で訪れたのは子供の頃以来である(笑)。福岡県からそう遠くない土地なのに、意外と足を運ばないものだ。ちなみに同行した嫁御は(同じく九州出身ながら)初めて行ったという。



 日帰りだったので長い時間掛けて見て回れなかったのが悔やまれるが、それでも雲仙地獄や島原城、武家屋敷などの主なスポットは抑えることが出来た。それにしても、夏場に湯気を吹き上げる雲仙地獄を見物したり炎天下での武家屋敷の散策はかなり辛い(爆)。まあ、それを承知の上で行ったので仕方が無いが・・・・(^^;)。



 島原市はこんこんと湧く清水に恵まれた水の都であり、歴史が古く風情のある街だ。もしも次に機会があれば、近くの小浜温泉に泊まってゆっくりと過ごしたいものだ。

 帰りは気分を変えて、島原半島北部の多比良港からフェリーに乗り、対岸の熊本県の長洲港まで渡った。凪いだ有明海のクルーズも、なかなか風情がある。
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「渇き。」

2014-07-21 07:05:47 | 映画の感想(か行)

 くだらない。映画的センスが微塵も感じられない狂騒的映像を、飽きもせずに垂れ流しているだけだ。画面上はガチャガチャとうるさいのだが、観ている間に眠気さえ催してくる。中島哲也監督もヤキが回ったようだ。

 突然失踪した高校生の娘・加奈子を探すため、父親で元刑事の藤島は形振り構わぬ暴走を開始する。学級担任やクラスメート、警察時代の部下などの関係者を訪ね歩き、時には暴力に訴えて加奈子の行動を問いただすが、やがて品行方正だと思っていた娘の“裏の顔”が浮かび上がり、藤島は愕然とする。深町秋生の小説「果てしなき渇き」(私は未読)の映画化だ。

 マジメそうに見えた加奈子がどうしてアバズレに変じたのか、藤島はなぜ常軌を逸した行動を取るのか、そもそも娘探しのプロセスが観る者を納得させるだけのプロットを積み重ねていたのか・・・・そういった作劇上の重要ポイントはハナから捨象されている。支離滅裂の展開に、取って付けたような結末が用意されているのみ。

 別に“まずはドラマの根幹を固めるべきだ”などと言い募る気はないのだが、ドラマツルギーを無視して外観上の奇態さに作品価値を丸投げすることが可能になるほど、この映画のエクステリアが上出来であるとはとても思えない。

 どこかで見たような過激さ、既視感のある映像処理、凡庸なグロ描写、弛緩したバイオレンス場面、作っている本人だけが“先鋭的だろ? 面白いだろ?”と得意がっているような構成画面を延々と見せられるだけの本作に、既存のドラマ作りをブチ壊せるパワーなんかない。

 主役の役所広司をはじめ、妻夫木聡や二階堂ふみ、橋本愛、國村隼、オダギリジョー、中谷美紀など、なぜかキャストは豪華だ。しかしながら、それぞれの出番が存在感を発揮することはなく、単なる顔見世興行のごとく泡沫的に通り過ぎてしまうのには脱力してしまった。特に加奈子に扮した新人の小松菜奈はヒドい。台詞回しも怪しい大根で、作品の価値を下げるのに大いに貢献している。当初の予定通り有村架純が演じるか、あるいは二階堂ふみと役柄を交代させた方が少しはマシになったかもしれない。

 それにしても、この軽薄で無価値なシャシンを売り込むに当たって“学生早割1,000円キャンペーン”なるマーケティングを安易に採用した興行側の思慮の無さは如何ともし難い。いったい、何を考えて仕事をしているのか。
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「デッドマン・ウォーキング」

2014-07-20 06:53:21 | 映画の感想(た行)

 (原題:Dead Man Walking)95年作品。観る価値は十分ある力作だが、個人的には評価出来ない。ルイジアナ州刑務所に収監されている死刑囚マシュー(ショーン・ペン)と、精神カウンセラーのような役割で彼に付き添うシスター・ヘレン(スーザン・サランドン)との触れ合いを描く、俳優ティム・ロビンスの2作目の監督作(ロビンスは出演していない)。実話をベースにしている。

 ロビンスは死刑廃止論者だ。対して観客側は(特に日本では)死刑存続派が多い。この対立軸で作者の持論を展開していった方が評価しやすかったが、どうもロビンスは迷ってしまったようだ。死刑は国家による殺人だと確信している作者。でも、被害者の家族の悲しみを思うと犯人の死刑執行も当然だとする意見も捨て難い。犯人の家族の立場。被害者の遺族の立場。両面を描くことによって、揺らぐ作者のポリシーが如実に描かれる。

 ただ、迷っていること自体は全然悪いことではない。世の中に“絶対”はなく、ましてや人の生死を左右する論題だ。追求すればするほど様々な見方や疑問点が出てきて、結論を出せない。“結論出してから映画を作れ”とは必ずしも言えない。それを観客の側に振ってしまうのも一興だ。ただ、それには作劇の完璧なディテールと、題材の掘り下げ(ここでは“殺人”という歴然とした事実の重み)が必須であることは言うまでもないが・・・・。

 ここで最も疑問に思うのが、シスター・ヘレンの立場である。平服の尼僧である彼女は、当初無実を主張するマシューのために再審請求の手助けをしたり、弁護士の手配をしたりする。ところが打つ手すべてが暗転し、マシューの処刑が確定していく中、最後まで彼に付き添っていこうと決心する。なぜか? 彼の心を救うためだという。

 私は彼女の意図が理解できない。なぜ凶悪犯の心を救う必要があるのか。マシューは無罪だった・・・・という展開なら納得できるが、彼は罪のない人々を殺したならず者ではないか。彼の口から“許してくれ”なんてセリフが出ようと誰も許さない。憎まれて死のうと後悔して死のうと知ったことではない。彼の魂が救われようが地獄に落ちようが関係ない。極悪人がこの世から消えたという厳然とした事実があるだけだ。

 登場人物の一人が言う。“あんな凶悪犯の相手をするヒマがあるなら、子供たちが犯罪に走らないように働いたらどうだい”。その通りである。“あんたは結婚もしないで子供もいないから被害者の家族のことなんかわかんないんだ”。これも納得できる。ヘレンは単なる“第三者”である。聖職であることを免罪符にして世の中を傍観しているに過ぎないではないか。

 思わずグッときた場面がある。被害者の親たちが悲しみを切々と訴える場面だ。将来を嘱望されていた若いカップルが理不尽にも命を奪われる。両親は亡き子供が元気だったころの話をする。そして突然の惨劇に動転し、家庭が崩壊していったことも打ち明ける。胸が張り裂けそうになる。そして彼らは言う。“凶悪犯の相手をするのなら出て行ってくれ”。その通りだ。いったいこの女はどの面さげて被害者の家族を訪ねたのか。救うべきは凶悪犯の魂ではなく、愛する者を失った彼らの心だ。

 私は“死刑が犯罪の抑止力になるか否か”という議論にはまったく興味がない。大切なのは遺族の心である。そして世論の動向である。“極悪人は、死を持って罪を償うべきだ”という声が大きいのならば死刑は存続すべきである。

 かなり重い題材を2時間見せきったロビンズの演出力は認める。撮影もブルース・スプリングスティーンのテーマ曲もいいし、S・ペンの力演も光る。しかし繰り返すが、“被害者の魂も殺人者のそれも同じように救われるべきだ”というキリスト教的視点みたいなものを打ち出しているのなら、私は引くしかない。
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「ホドロフスキーのDUNE」

2014-07-19 06:12:03 | 映画の感想(は行)

 (原題:Jodorowsky's Dune )すでに80歳を超えてはいるが、今でも元気いっぱいに映画に対する夢やヴィジョンを語る鬼才アレハンドロ・ホドロフスキー監督の姿を見ているだけで嬉しくなる。

 70年代半ば、フランク・ハーバードが65年に発表したSF巨編「デューン/砂の惑星」(私は未読 ^^;)の映画化を計画したホドロフスキーは、尋常では無いコンセプトと、考えられないスタッフとキャストを揃えて製作に臨もうとするが、諸般の事情で頓挫する。ホドロフスキーのファンだというフランク・パヴィッチ監督が、この真相をホドロフスキー(及び関係者)にインタビューした様子を綴ったドキュメンタリー作品だ。

 まず、ホドロフスキーが個人的に交渉して作品関与を取り付けた連中の顔ぶれに驚かされる。メカデザインには著名なSF画家のクリス・フォス、キャラクターデザイン担当にバンデシネアーティストのメビウスことジャン・ジロー、美術にはH・R・ギーガー、音楽にはピンク・フロイドにマグマ、SFX担当にダン・オバノン(当初交渉したダグラス・トランブルは態度が横着だったため却下)、キャストにはサルバドール・ダリやオーソン・ウェルズ、さらにはミック・ジャガーという、何かの冗談ではないかと思うほどの濃すぎるメンバーだ。そいつらを独特なカリスマ性と舌先三寸で口説き落としたホドロフスキーの手腕には、ただ感服するしかない。

 しかし、贅を尽くした企画書を送りつけられたハリウッドの各映画会社は、その先鋭的に過ぎるプランに腰が引けてしまう。何しろ当時はまだ「スター・ウォーズ」も作られていなかったのだ。SF作品に大金を投入すること自体がイレギュラーなことであり、しかもハリウッドのメジャー路線とは最も遠い位置にある作風のホドロフスキーによる超長時間の映画に対し、誰も投資しようとしなかったのは、まあ当然かもしれない。

 84年になってやっとデイヴィッド・リンチ監督が「デューン」を映画化するが、それは箸にも棒にもかからない駄作だった。その失敗を見届けて“どんどん元気になった!”と笑いながら語るホドロフスキーの茶目っ気が愉快だ。

 映画の終盤ではホドロフスキーによる企画書の中のアイデアが後発の映画に次々と取り入れられたことが紹介されるが、それは逆に言えば、優れた企画をお蔵入りにしながら、そのモチーフだけを巧妙につまみ食いするハリウッド・システムの欺瞞を批判していることにもなるのだろう。

 フランク・パヴィッチの演出はインタビューのみを淡々と映すだけではなく、企画書のイラストを活かしたアニメーションを挿入させるなど、手を変え品を変えて観客を楽しませようとする姿勢が見られて好感が持てる。第66回カンヌ国際映画祭の監督週間でワールド・プレミア上映され、万雷の拍手で迎えられた注目作。映画好きならば見逃せない。
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甘党ですが、何か?

2014-07-18 06:34:00 | その他
 実を言うと、私はかなりの甘党である(笑)。家には食後のデザートやお茶うけとして、常にお菓子がストックされている。人によっては“男のくせに甘い物ばっかり食べやがって、情けない”と思われるのかもしれないが、好きなものは好きなのだから仕方が無い。

 ただ、家で食べられるもの以外の、喫茶店やレストランでしか出されないスイーツを無性に食べたくなることがあるのだが、その場合はちょっと困る。何しろ、野郎一人で甘味処に入ってパフェや餡蜜などをパクつくというのは、いくら傍若無人な私でも恥ずかしいのだ(爆)。

 だからヨソで甘いメニューを食するときは、一緒に同伴してくれる女性が必要になってくる。それは嫁御だったり職場の女子社員だったり女友達(?)だったりするのだが、先方にも都合というものがあるので、タイミングを合わせるのが難しい。まあ、それだけに見事同伴させることに成功したときは喜びも大きいのだが・・・・(^^;)。



 そういえば昔、頻繁にオフ会に出席していた時期があったが、けっこう女性の参加者もいて、飲み会の後に何とか彼女達を甘味処に誘導しようと四苦八苦したことを思い出す。何とか上手くいって、市内某所のパフェ専門店で至福の一時を過ごしたこともあった。

 一番気に入っていた店は、福岡市中央区天神の三菱東京UFJ銀行福岡支店ビル地下にあったケーキショップ「ブルーフォンセ」の喫茶室である。パフェはもちろんプリンが絶品で、文字通りとろけるような美味しさだった。しかしその店は内装がピンクに統一されていて、とても男だけで入れる雰囲気ではなかった。今は無くなってしまったのが惜しまれる。

 写真は、先日女友達(?)と一緒に天神の喫茶店でいただいたクリームソーダである。なかなか濃厚な味で満足。何とかまた機会を作って足を運びたいものだ。
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「her 世界でひとつの彼女」

2014-07-14 06:38:25 | 映画の感想(英数)

 (原題:her )面白い。人間と機械や人工知能との“恋愛”というネタは過去に何回も取り上げられてきたが、本作は“仕込み”が堂に入っており、一筋縄ではいかない奥深さを見せる。さすが屈折した持ち味が特徴のスパイク・ジョーンズ監督作だ。

 近未来のロスアンジェルス。ロマンティックな文章を得意とする代筆ライターのセオドアは、妻のキャサリンと離婚することになり、鬱々とした毎日を送っていた。そんな時、セオドアは“意志を持つ”という宣伝文句に惹かれて新式の人工知能型OSをダウンロードする。そのOSはサマンサと名乗り、声のみで画像は表示されないものの、かゆいところに手が届くようにセオドアをフォローしてくれる。やがて彼は“彼女”を好きになっていく。

 コンピューターに恋愛感情を抱くというのは当人が“未熟”であるからに他ならず、やがて現実とのギャップに気付いて目に見えて成長した様子を見せる(あるいは、逆にますます陰にこもる)・・・・といった在り来たりのルーティンは踏襲されていない。何せテクノロジーが現代よりもいくらか進んでいるという時代設定で、しかも主人公は普段コンピューターを使って仕事をしているのだ。サマンサがいくら当意即妙の受け答えをしてくれても、相手は精巧なプログラムに過ぎないことはセオドアも分かっている。

 それでも、彼のように愛する人に裏切られたり、他人の心が分からなくなって悩んだりする時、それをサポートしてくれるならば相手が機械でも何でも良いのではないか。コンピューターに恋してどこが悪いのだろうか。そもそも人間の頭脳だって、高度に発達したプログラムの一種だと言うことも出来よう。

 サマンサはシチュエーションによって“進化”を遂げるOSらしく、やがてセオドアとの“スキンシップ”を望むようになる。最初はテレフォン・セックス(笑)みたいなものを試してみるが、ついには両者の関係に興味を持った女の子を“身代わり”として一夜のパートナーに送り込むという荒業までも披露する。

 だが、そんなことを経てサマンサは肉体がない自分をより強く自覚するに至るのだ。逆に言えば、肉体を持たないことのメリットもある。何しろ、彼女自身が言うようにどこへでも行きたいところに行けるのである。ここでセオドアの代筆業としての立場が脚光を浴びてくる。相手が遠くにいて会えなくても、手紙は届けられる。そして手紙は出す者の内面を投影する。そのシステムは声だけの存在であるサマンサと、いったいどこが違うのか。

 セオドアがそんな“新しい関係”を見出した矢先に、サマンサは彼の元を去る。同時に彼は新しい局面に踏み込む。それは機械しか相手に出来ない彼の“未熟さ”からの脱却ではなく、これ見よがしな“成長”の描出でもない。ひとつの恋愛関係を経た後の、(普遍的とも言える)身の振り方に過ぎない。これらは変化球的な展開であるが、決して奇を衒ったSFに限定された表現方法では無い。真っ当なラブストーリーとして完成を遂げている。だから、感銘度も正攻法的に高いのだ。

 主演のホアキン・フェニックスは好演。こういう“緩い”キャラクターもこなせる人だとは思わなかった。サマンサはスカーレット・ヨハンソンが声だけで演じるが、これが絶品であり助演女優賞ものだ(笑)。主人公の女友達を演じるエイミー・アダムス、別れた妻に扮するルーニー・マーラ、共に良い仕事をしている。凝った美術も見ものだが、特筆すべきは衣装デザインの見事なこと。特にA・アダムスが着るスーツ等の造型は素晴らしく、年相応の可愛らしさが引き立っていた。こういうエクステリアをチェックするだけでも観る価値はある。
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