元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「10月のソナタ」

2010-09-30 06:39:21 | 映画の感想(英数)
 (英題:October Sonata)アジアフォーカス福岡国際映画祭2010出品作品。タイの映画だが、これはまるで韓流ドラマだ。観ていて気恥ずかしくなるようなベタな展開で、通常ならば凡作扱いで切って捨てても良いのだが、物語のバックにシビアな政治ネタが挿入されると捨てがたい魅力が出てきたりもするのだから、映画というのは面白い。



 80年代、有名映画スターの突然の死を悼む集会で偶然出会った若い男女。海辺のコテージで一年後の同じ10月8日にまた会おうと約束して彼は去っていくが、次の年もその次の年も彼女の前に姿を現さない。やがて彼女を好いてくれる男が現れて結婚。だが、くだんの彼氏を忘れられない彼女は家を出る。彼の方はといえば、リベラルな活動家として社会運動に身を投じるが、いつしか不治の病に冒されて・・・・といった話だ。

 まず、二人が離ればなれになるきっかけが、ヒロインが文字が読めずに彼からのメッセージが伝わらなかったからという“思い切った”モチーフ(爆)が提示されている。通常ならば失笑ものだが、国民の教育水準があまり高くなかった当時のタイでは、それも納得出来る。

 さらに91年から92年までは軍政が敷かれ、バンコク市内ではデモ隊と軍との衝突が起こり数百人の犠牲者が出ている。当然その暗い影はこの映画の主人公達に影響を与えており、大仰な行動パターンもバックに切迫した社会情勢があるため、それほど気にならない。



 よく見れば古色蒼然たる“すれ違いドラマ”なのだが、それでも監督のソムキアット・ウィットゥラニットは安易なお涙頂戴劇にさせないだけの謙虚さは持ち合わせているようだ。映像面では健闘していて、奥行きのある画面構成と美しい色調は観る者を楽しませる。

 なお、ゲストとして監督と主演俳優二人が来ていた。彼氏役のタナワット・ワッタナプティもわりと二枚目だったが、びっくりしたのはヒロインに扮したラチャウィン・ウォンウィリヤである。映画の中よりも実物の方が遙かに可愛くてキレイである。上映後の劇場のロビーは握手やサインを求める客でごった返していたのは、言うまでもない(笑)。
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「お父ちゃんの初七日」

2010-09-29 06:34:56 | 映画の感想(あ行)
 (原題:父後七日)アジアフォーカス福岡国際映画祭2010出品作品。前半は好調だが、中盤以降は腰砕けになる。惜しい出来だ。50代の若さで突然世を去った父親。台北でキャリアを積んだ娘(ワン・リーウェン)は、その知らせを聞いて急遽実家のある田舎町に出向く。ところがその地域の葬式の風習は実に面倒臭く、さらに式を取り仕切る道士のワンマンぶりにさんざん振り回される・・・・という話だ。

 慣れない事態に右往左往するヒロインの奮闘ぶりが笑いを呼ぶ。父親の棺の中に彼が生前“愛読”していたエロ本を入れるハメになるのをはじめ、名も知らない“親戚”が次々と現れたり、さらに一定の時間ごとに棺の前で泣かないといけない(食事中だろうと歯磨き中だろうとお構いなし)。



 道士のプロフィールもけっこう生臭く、女性遍歴(?)の末に一緒になった今の妻が、必要以上に“やり手”なのが笑わせる。花輪の代わりに炭酸飲料缶でタワーを作ったは良いが、折からの暑さで缶が破裂して大騒ぎになるというくだりもポイントが高い。

 しかし、後半になるとギャグのネタが枯渇したのか、普通のホームドラマになってしまうのが不満だ。それと同時に演出テンポが鈍くなってくる。

 この手の映画で思い出されるのは何と言っても伊丹十三の「お葬式」だが、あの映画の優れていた点は事前にネタをよく練っていたことだ。前半のドタバタ劇から終盤のしみじみとした人間ドラマへと着地させるまでに間延びさせないよう、あらゆる方面のモチーフをギッシリと詰め込んでいた。対してこの映画は工夫が足りない。

 葬儀が終わった後、ヒロインが今は亡き父親の存在感にあらためて想いを巡らすという“結び”にしたいのならば、そこに至るまでの前振りを積み上げるべきである。だが、父親が生前営んでいた屋台の運営方法(?)とか、オヤジギャグを連発して周囲の失笑を買っていた頃の話だとか、どうでもいいようなエピソードばかりが並んでおり、ラストに至る“助走”の部分が著しく欠けている。最後のヒロインのモノローグがまるで宙に浮いた感じになってしまうのも、むべなるかな。

 監督はワン・ユィリンとエッセイ・リウの共同だが、後半のまとまりのなさは、案外複数の者が演出を担当しているから・・・・なのかもしれない。
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「水辺の物語」

2010-09-28 06:35:11 | 映画の感想(ま行)

 (英題:Woman on Fire Looks for Water )アジアフォーカス福岡国際映画祭2010出品作品。これはどうにも受け付けない映画だ。マレーシアの地方都市で漁師として生計を立てている中国系の父子。父親は若い頃に好きな人がいたのに彼女と結婚しなかったことを、年取った今でも悔やんでいる。息子には好きな女の子がいるが、ひょんなことから雇われた水産物加工会社の社長の娘から猛アタックを受ける。父と子は同じ運命をたどってしまうのか。監督はウー・ミンジンなる人物。

 上映前に舞台挨拶に現れたウー監督はどう見ても20代の若造だ。ならば若者らしい溌剌とした展開で観客を引っ張ってくれるのかと期待したが、これがまったくのハズレである。演出テンポは極端に遅く、主人公達が扱う魚のアップや周囲の風景などを固定カメラで追っただけの意味もない映像の連続。さほど効果もないカメラの長回しも満載だ。

 おそらくは登場人物の心象スケッチか何かのつもりだろうが、冗長極まりない。こういう撮り方は、いかにも頭でっかちの映画青年が好みそうな遣り口である。やっている本人はさぞや気持ちが良かったと思うが、それに付き合わされる観客はたまったものではない。

 それでも肝心のストーリーが面白ければ許せるのだが、これがまた要領を得ない。サッと流せば10分で終わるような話を、前述のフィルムの浪費で引き延ばしているだけだ。出てくる連中にサッパリ魅力がないのも困った話で、特に父親の行動なんか作者の人間観察の浅さが露呈している。昔の“結婚するはずだった女”のもとに今も通い、彼女の旦那に嫌味を言われた挙げ句に自滅するなんて話を、背景をまるで描いていないまま示されても脱力するだけだ。

 ロケ地の珍しい風習や自然がたっぷりと紹介されているわけでもなく、わずか1時間40分の映画ながら、眠気を抑えるのに苦労した。監督と一緒にやってきた主演女優も“ただ身体の線が細いだけ”で見るべきものなし。こんな低調な映画がどうしてこのイベントで公開されるのか、さっぱり分からない。映画祭プロデューサーは一体何を考えていたのだろうか。
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「私のテヘラン」

2010-09-27 06:28:39 | 映画の感想(わ行)

 (英題:My Tehran for Sale)アジアフォーカス福岡国際映画祭2010出品作品。作品自体はさほど面白くはないが、題材および取り上げられたモチーフは興味深い。テヘランに住むヒロインは、イラン出身でオーストラリア国籍を取得した恋人と結婚し、国外で生活することを夢見ている。舞台俳優でもある彼女にとって、社会的制約が厳しいこの国は住みにくいのだ。

 しかし、健康診断でHIV感染が発覚。オーストラリアはエイズ・キャリアの移住は認めないため、彼女の計画は頓挫する。しかもそのことがきっかけで恋人は去ってしまう。だが、彼女は出国の希望は捨てず、非合法な手段に訴えて目的を達成しようとする。

 まず、戒律が厳しいこの国で、アングラ的な演劇を上演するグループが存在すること自体が驚きだ。考えてみればどこの国にも芝居好きはいるので、こういう活動に走る者達が存在するのは当然なのだ。しかし、これまで観たイラン映画ではそんなことは描かれなかった。しかもエイズに罹患する者もいるとは、イスラム圏のイメージとは相容れない。

 一人暮らしをしているヒロインの生活感をはじめ、いろいろな悩みを抱えている周囲の人々の描写はリアルで、これまでのイラン作品とは随分と趣が違う。違法移民ブローカーの扱いも興味を惹かれた。とはいえ本作はイラン単独の製作ではなくオーストラリアとの合作であり、監督はイラン出身で豪州に移住した女流グラナーズ・ムサウィーなので、それも当然かと思われる。おそらくは監督自身の経験も大きく投影されているのだろう。

 時制を前後させた編集処理や、冷たく寂寞としたテヘランの街の描写など、技巧的には健闘していると言って良い。惜しむらくはストーリーラインが冗長で、話が本筋に入るまで時間が掛かりすぎること。それため、どうしてもメリハリを欠いた作劇が印象付けられてしまう。なお、主演のマルジエ・ワファメールは好演。相手役のアミル・チェギニーも悪くない。寒色系を活かした撮影とバックに流れる音楽はセンスが良いと思う。
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「ハルク」

2010-09-26 06:54:39 | 映画の感想(は行)
 (原題:The Hulk)2003年作品。マーベルコミックのお馴染みの代表作を「ウェディング・バンケット」などのアン・リー監督が映画化。実験中に致死量のガンマ線を全身に浴びる事故に巻き込まれ、逆上すると緑色をした巨大なモンスター“ハルク”へと変身するようになった遺伝子学者の数奇な運命を追うアクション編だ。

 アン・リー監督の身上は台湾時代の「推手」から一貫して“家族の絆”であることには異論はないだろう。ところが問題はハリウッドに渡ってから秀作「ブロークバック・マウンテン」を撮るまでの間、その演出力・描写力が衰えていたことだ。さらに悪いことに「アイス・ストーム」などという要領を得ない家族劇を取った後の「グリーン・デスティニー」の興行的成功で思い掛けず“活劇派”とのレッテルを貼られてしまう。

 私は「グリーン~」は目覚ましいアクション場面が冗長な人間ドラマと居心地悪そうに並んでいるだけの失敗作だと思っているが、アメリカ映画界はそう考えなかったらしく、今回は人気アメコミの実写映画化という、アン監督の資質に最も合わない企画をあてがってしまった。結果は「グリーン~」と同様である。

 確かに活劇場面は素晴らしい。沙漠でのハルクと米陸軍とのバトルなど大したものだ。しかし、エリック・バナ演じる主人公とニック・ノルティ扮する父親の確執やジェニファー・コネリー演じるヒロインと彼女の父親との反目を必要以上にダラダラ流し(その割には内容が薄い)、ひたすら上映時間を引き延ばす無駄な努力しかしていないのを見ると脱力するしかない。

 漫然とした展開を補うためか、画面分割などの映像ギミックを多用しているが、観ていて鬱陶しいだけだ。アン監督はそろそろ台湾に帰って腰を据え、原点に戻ってシッカリとした映画を作って欲しい。
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「悪人」

2010-09-25 06:46:43 | 映画の感想(あ行)

 不満点がけっこうある。吉田修一の同名小説の映画化である本作の惹句には“いったい誰が本当の悪人なのか”といったフレーズが踊っているが、そんなのは考えるまでもなく、殺人を犯した者が“悪人”に決まっているではないか。

 では他の者は“悪人”ではないのか・・・・などという突っ込みは、この場合は無意味だ。道徳的に徹頭徹尾“善人”である者なんかいない。誰だって暗い部分を持っている。ただしいくら性根が意地悪であろうと、違法行為をやっていなければ、実際に人を殺した者に比べれば“悪人度”は天と地ほどの違いがある。本作の弱さは、一般ピープルの“悪人度”の高さを描く事によって、真の悪人(殺人者)を相対化させてしまおうという意図が垣間見えることである。

 確かに、殺人犯の男の周囲の人間達は褒められた連中ではない。彼と逃避行に走る紳士服店の女子店員は、自らの意志の弱さにより地元から一歩も外に出られないまま、やがて中年に差し掛かろうとしている。ひょんなことから出会い系サイトで知り合った男にのめり込むが、それまでの自身の不甲斐なさを捨て去ったことにして、自己満足に浸っているだけだ。

 殺される若い女も実に性悪で、他人を見下すことでしかアイデンティティを保てない。彼女の父親は実直で他人に説教したりもするが、娘をロクデナシに育ててしまった“責任”はどこかに置いてきている。事件に関与している男子大学生はとことん愚かだし、殺人犯の祖母も孫の躾さえ出来ず、挙げ句の果ては悪徳商法の片棒を担ぐ始末。

 しかし、これら周囲の人間の描写に比べて肝心の犯人のプロフィールは意外なほど杜撰だ。ただ貧乏で鬱屈した日々を送っていたという、お座なりの解説しか付与されていない。まずはコイツの心の闇を徹底して描くべきではなかったのか。あるいは、そんなに周りの者を重点的に追いたいのならば、犯人は完全に突き放して扱うぐらいの割り切り方が妥当かと思われる。作劇面で煮え切らない展開しか見せていないから、ラストのヒロインの独白も宙に浮いたものになってしまったのだ。

 本作でモントリオール世界映画祭の主演女優賞を獲得した深津絵里だが、正直言ってさほどの好演とは思えない。まあ“普通の演技”だ。髪を金色に染めて役に臨んだ妻夫木聡も“彼にしては目先の変わったパフォーマンスだな”ぐらいの印象しか受けない。岡田将生や樹木希林、柄本明などは良くやっているけど仕事自体は想定の範囲内だ。唯一印象的だったのが殺される女を演じた満島ひかり。可愛らしさの中に潜む邪悪さを、本当に上手く表現している。あの童顔を時として醜く見せてしまうあたり、相当なクセ者だ。

 李相日の演出は丁寧で、舞台になった北部九州の雰囲気を良く出している。方言の扱いもあまり違和感がない。笠松則通のカメラや久石譲の音楽も万全だ。その意味では観る価値はあるとは思うが、諸手を挙げての評価は差し控えたい。
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「二重スパイ」

2010-09-24 08:43:47 | 映画の感想(な行)
 (英題:Double Agent)2003年韓国作品。亡命者を装い韓国に潜入した北朝鮮工作員の運命を通して、朝鮮半島の緊迫した現代史の裏側を描き出す。監督はキム・ヒョンジョン。

 朝鮮半島をネタにしたスパイものとしては「KT」なんかよりも出来が良い。脱北した元工作員を南側が安易に信用せず、激しい拷問から始まって四六時中監視がつき、やっと潔白が認められるくだりなど、当時の切迫した情勢を見事に描出している。潜伏したエージェントと接触するプロセスや韓国安企部の状況など、ディテールにも抜かりはない。

 ハン・ソッキュは今回も好演で、実直な安企部職員と冷酷なエリートスパイとをうまく演じ分けている。ヒロイン役のコ・ソヨンも相変わらずキレイだ。亡命後のエピローグは余計だが、全体的な出来としては及第点に達している。

 それにしても、近年は北側だけでなく韓国の暗部も容赦なく描いた映画が今になって作られたことには考えさせられる。物語の舞台になった80年代前半は光州事件や戒厳令などに代表されるように、韓国にとって最もシビアな時代であった。この作品には製作側と観客側の双方が抱く“あの頃は厳しかったが今はそうではない”という認識(あるいは願望)が反映されているのだろう。

 しかし、実際そう思っているのは彼らだけで、近年は日本をはじめとする周辺諸国は“北の脅威”に改めて対峙しなければならない状況に追い込まれている。この“温度差”が今後の展開にどう影響を与えるのか、懸念の残るところである。
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「オカンの嫁入り」

2010-09-23 06:54:39 | 映画の感想(あ行)

 しみじみとした家族ドラマの佳篇である。原作は咲乃月音による日本ラブストーリー大賞受賞作とのことだが、内容は男女間の恋愛沙汰ではなく、主に母と娘との関係性を追っている。監督は呉美保で、前作「酒井家のしあわせ」よりも熟達した境地を垣間見せていて頼もしい。

 大阪の下町に暮らす森井陽子と月子の親子。父親はかなり以前に亡くなり、月子は父の顔もよく知らない。ある晩、陽子がは髪を金色に染めた若い男・研二を連れてきて“この人と結婚する”と言い放つ。月子にとっては文字通り寝耳に水で、思わず家を飛び出してしまうが、陽子には言い出せない秘密があり、月子もヘヴィな屈託を抱えている。やがてこの一件がきっかけになり、彼らは親子の関係と周囲の者達との関わり合いを再度見直すことになるのだ。

 月子は、会社勤めをしている時に同僚の男性社員からストーカー被害を受け、それ以来電車にも乗れず引きこもりのような状態である。もちろん本人は“このままではいけない”とは思っているが、なかなか自分の世界から踏み出せない。そこで母が考えたショック療法が、この結婚なのである。

 研二はヤンキーっぽい外見とは裏腹に、思いやりにあふれた好青年だ。元板前でもあり、料理が素晴らしく上手い。ただ、彼もまた心の中に傷を隠している。それが明らかになる中盤の展開は、実に切ない。そして月子は陽子から衝撃の真実を明かされる。結婚の一件は、ただの伊達酔狂ではない。娘への心からのメッセージだったのだ。お涙頂戴になりそうな展開を、ユーモアに転化させてしまう大阪弁の科白回し、そして大阪の街の情緒。直截的にではなく、フワリとオブラートに包んだような丁寧なエピソード配置に感心させられる。

 白無垢姿の母と、それを見つめる娘との描写は美しい。月子が立ち直るきっかけになる古いおまじないの言葉“つるかめ、つるかめ”が印象的。

 母娘を演じる大竹しのぶと宮崎あおいは初顔合わせだが、両人とも大向こうを唸らせるような芝居はしていない代わりに、抑制された感情表現に卓越したものを見せる。特に宮崎は久々の代表作になりそうなパフォーマンスだ。研二役の桐谷健太、母娘を見守る医者役の國村隼、共に好演。そして森井家の大家であり、隣人でもある絵沢萠子の存在感が圧倒的だ。この二軒の家の位置関係が実に効果的で、プライバシーと濃い近所付き合いとを絶妙のブレンドで混ぜ合わせた最良の形を見せてくれる。

 愁嘆場で終わらない結びは、作品の性格を熟知した上での処理で、観賞後の後味も最良だ。谷川創平のカメラと田中拓人の音楽も合わせて、誰にでも奨められるシャシンである。
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「藍色夏恋」

2010-09-22 06:43:27 | 映画の感想(あ行)
 (原題:藍色大門)2002年作品。高校生3人の恋愛模様を描く台湾製の青春篇である。監督は「アバウト・ラブ 関於愛(クワァンユーアイ)」などのイー・ツーイェン。青春ものに限らず映画に観る側がのめり込めるかどうかは、ひとえに登場人物に感情移入できるか否かにかかっているが、この作品の場合、そのへんがどうも不調だ。

 主人公の女子高生は親友に頼まれて同じ高校の男子生徒にラブレターを渡す。ところが彼はヒロインが好きになり、親友との仲がギクシャクし始める。この三角関係をジックリと描けばそれなりの出来になったはずだが、捉え方が実に表面的。“思春期の淡い恋”をキレイな映像にオブラートして提示するのはいいとして、それを言い訳に表現そのものも“淡い”まんま放置していることがわかる。

 思わぬ展開に戸惑う男子生徒や乙女チックに“恋いに恋焦がれる”親友の屈託が全然伝わってこないし、そもそもその“屈託”自体存在するのかどうかもわからない。実は主人公には“ある秘密”があるのだが、それもこの微温的ドラマに何とかアクセントを付けようという苦肉の策にしか思えないのが辛い。

 とにかく、フワフワした“青春時代の思い出”だけでは観る者にインパクトを与えられないことをこの作者は知るべきだろう。我が国の「blue」や「まぶだち」といった思春期ドラマの秀作を見習って欲しい。なお、主演の新人二人(チェン・ボーリン、グイ・ルンメイ)は素質そのものは悪くないと思う。
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「ぼくのエリ 200歳の少女」

2010-09-21 06:37:08 | 映画の感想(は行)

 (英題:LET THE RIGHT ONE IN)直截的な残虐性も、きらめく詩情も、北欧の凍てつく空気の中に消えていくような、独特の魅力を持つ映画だ。70年ごろのストックホルムの郊外を舞台に、孤独な少年とヴァンパイアの少女との結びつきを描いたヨン・アイヴィデ・リンドクビストによる小説「モールス」の映画化で、原作者が作品を手掛ける際にインスパイアされたというモリッシーの楽曲のファンであるトーマス・アルフレッドソンが演出を担当している。

 主人公の12歳の少年オスカーは、学校ではイジメられてばかりいる気弱な生徒だ。両親は離婚していて母親と暮らしているが、彼女はあまり面倒を見てくれない。たまに会う父親も“同性の恋人”に夢中であり、それほど子ども好きではないようだ。しかし、自分一人でいる時はナイフ片手に“反撃”のシミュレーションに余念がなく、それなりに暗いものを内に隠している。

 冬のある日、アパートの隣の部屋に中年男とその娘とおぼしき少女が越してくる。オスカーと同世代のように見える娘はエリと名乗り、やはり深い孤独を抱えていて、二人は同病相憐れむように惹かれ合う。一方、街では残虐な殺人事件が連続して起こっていた・・・・。

 ストーリー自体は実にインモラルだ。惨劇を引き起こすヴァンパイアは“悪”そのものであるはずだが、周りの人間達も立派な奴なんか一人もいない。オスカーの両親はああいう有様だし、教師連中も親身になってはくれない。安酒場にたむろする中年男女は皆人生に疲れている。オスカーが手本に出来るような大人は存在しないのだ。さらに彼に対するイジメは熾烈を極め、終盤には命の危機に曝される。

 子どもを冷遇するような環境に置かれ、とても“成長”など見込めないオスカーが、永遠の“若さ”に閉じこめられているエリと仲良くなるのも当然なのだ。相手がヴァンパイアと知っても、オスカーは彼女との付き合いを辞めない。やがてエリとの“道行き”を選択する彼がまったく不幸に見えないのは、その手段しか残されていないという彼の立場に徹底的に準拠しているからだろう。ここでは小賢しい道徳論は通用しない。ただ透徹した“悲しさ”があるだけだ。

 ベルイマンの「ファニーとアレクサンデル」では北欧の夏の神秘的な白夜の描写が印象的だったが、本作では絶望的にまで暗く長い冬の北欧の夜が大きなアクセントになっている。ショッカー場面は多くはないが、見せ方に細心の注意が払われており、効果は絶大である。死臭漂う、冷たくも美しいメルヘンであり、観賞後の余韻は格別だ。子役二人の存在感もなかなかである。
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