元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ミスター主婦クイズ王」

2006-09-30 06:52:31 | 映画の感想(ま行)

 アジアフォーカス福岡映画祭2006出品作品。これは面白い。韓流コメディの快作だ。

 妻の積立金を詐欺で失ってしまった専業主夫の主人公が、賞金目当てでテレビの“主婦クイズ番組”に出演したことから始まる騒動を描くこの映画、実に作りがスマートなのだ。わざとらしい泣かせのシーンも、出演者の自己陶酔的な大芝居もなく、明朗そのもののストーリーで誰でも楽しめ、後味は極上だ。もちろん、世相を反映した題材はアピール度が高い。

 主演のハン・ソッキュが良い。最近は気難しい役ばかりで“熱演型”の俳優としての評価が固まったかに見えた彼が、久しぶりに肩の力を抜いた軽妙な役柄を上手くこなしている・・・・というか、こういう“気の良いアンチャン役”こそ彼に最も似合っていると思う。しかも、彼が演じるとどんなにアホなマネをやっても絶対に下品にならない。専業主夫として団地の自治会役員や家事をいそいそとこなす姿は、韓国俳優なら思いっきり臭く笑いを取りに来るところだが、ギリギリのところでスッと“引いて”いるあたり、なかなかのクレバーさを見せつける。

 妻役のシン・ウンギョンも気の強さと可愛さとを上手くブレンドした妙演だし、幼い娘に扮する子役が腹の立つほど達者だ(笑)。明色を基調にした画面デザインも心地良い。

 舞台挨拶に出てきたユ・ソンドン監督は、どう見ても20代の若造で、最初は本作でデビューした若手男優かと思ったほど。この若さで手練れの職人監督みたいに娯楽映画のツボを掴んでしまったとは、何とも驚きだ。今後の活躍が期待できる。
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「私の生涯で最も美しい一週間」

2006-09-28 06:44:05 | 映画の感想(わ行)
 アジアフォーカス福岡映画祭2006出品作品。6組のカップルの、それぞれの恋の顛末を描く。

 韓国版「ラブ・アクチュアリー」と喧伝されていたが、あの作品と比べると、かなり泥臭く垢抜けない。6つのエピソードのうち2つが“難病もの”であるのは韓国映画らしい下世話さだが、展開もご都合主義の極みで、あり得ないプロットのオンパレード。しかも随所にお約束の“あざとい泣かせのシーン”が用意されている(脱力)。

 まあ、いくら話が田舎芝居でもそれを俳優の存在感で押し切るのが韓流ドラマの常套手段だが、今回のキャストはどれも魅力がない。中には顔を見るだけで気分が悪くなる奴もいる(爆)。話を一週間に限定しているせいで漫然としたストーリーが長時間垂れ流しにならないのが、長所といえばそうかもしれない。

 それでもただ一つ、映画館の初老の主人と売店のオバサンとのアヴァンチュールだけは感心するところがあった。彼は昔ながらの“街の映画館”を守り続けてきたが、時代の波には勝てず、シネコンの“フランチャイズ店”になることを要請される。彼女の方はずっと役者志望だが、もとより才能はなく、それでも映画の近くにいたいがため映画館と同じ建物に店を持っている。

 そんな二人が映画を接点に寄り添い合う過程を綴るこのエピソードは、監督ミン・ギュドンの映画に対する想い入れが前面に出てきているのだろう。劇場のスクリーンを上手く利用したクライマックスもけっこう感動的だ。逆に言えば、この話がなかったらまるで観る価値のない映画だと言える。有名スターも出ていない本作は日本公開も難しかろう。
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「母」

2006-09-27 08:14:34 | 映画の感想(は行)
 アジアフォーカス福岡映画祭2006出品作品。監督のレスター・ジェームス・ピーリスは、黒澤明やサタジット・レイとともに“アジア映画の三羽烏”と謳われるスリランカ映画界の大御所だという。彼の映画を観るのは今回が初めてだが、正直、これで本当に黒澤やサタジット・レイと肩を並べる巨匠なのかと首を傾げてしまった。

 主人公は女手一つで二人の息子を育ててきたが、一人は仏門に入り、もう一人は軍隊に志願する。いずれにしろ、母親の元から去っていくわけで、彼女は死ぬほど寂しがるわけだ。映画はその様子を切々と描くが、撮り方が非常に古くさい。大仰な芝居とケレン味たっぷりのカメラワーク(特に主演のマーリニー・フォンセーカは完全なオーバーアクト)、シークエンスの繋ぎも隙間風が吹きまくっている。1時間半ほどの上映時間がかなり長く感じられた。

 ピーリス監督は87歳とかで、若い頃には精気みなぎる作品をモノにしていたのかもしれないが、この作品を観る限り、才気は感じられない。ただし、スリランカの内戦の切迫した状況だけは映画の出来とは関係なく観る側にひしひしと伝わってくる。

 関係者の話によると、ロケ地はすでに“激戦地区”に成り果て、一般人は足も踏み入れられない状況だという。敬虔な仏教徒を多数擁するスリランカで、こういう惨劇が繰り返されている事実を目の当たりにすると、世の不条理を感じずにはいられない。宗教は戦争に対して無力であるのか・・・・。
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「私はガンディーを殺していない」

2006-09-26 06:50:01 | 映画の感想(わ行)

 アジアフォーカス福岡映画祭2006出品作品。ボンベイの大学を定年退職してから痴呆症にかかった元教授と、必死で父を看病する娘との関係を描く、本年度のムンバイ国際映画祭の国際批評家連盟賞受賞作。

 単なる老人介護の問題を扱った映画と次元を大きく隔てるキーワードになるのは、薄れゆく記憶の中で父親が繰り返す“私はガンディーを殺していない!”という言葉だ。ガンディーが暗殺されたときは父親は8歳で、もちろん事件に関わっているはずもない。しかし、やがて明らかになる意外な真相、そして父親の妄想を緩和するために医師達が仕掛ける“模擬裁判”のプロセスと結果により、作品はインドの近代史をも俯瞰する奥深いテーマを垣間見せてくるのである。

 特に“模擬裁判”が終わった後に父親がおこなう“弁明”には、オリヴァー・ストーン監督の「JFK」における終盤のケヴィン・コスナーの演説に匹敵するほどの衝撃を覚えた。そうなのだ。インド人に限らず、我々が今直面する問題のほとんどは、ガンディー暗殺とその事実を捉える現代人との関係性に代表されるような歴史的な“図式”によるものなのである。

 老人介護という市井のレベルの事柄から始まり、主題として終盤に巨大な姿をあらわす本作品の構造は強靱かつしたたかだが、家族の問題を出発点にしているのは“歴史”が身近な市民生活と同居していること、またそう成らざるを得ないことを真摯に描こうとしているからに他ならない。

 シネスコの画面を軽々と使いこなすジャヌ・バルアの演出は堅牢きわまりなく、主役のアヌパム・P・ケールとウルミラー・マートーンドカルの演技は素晴らしい。文学教授だった父親がよく口ずさむ“勇気を持つ者は敗北することはない・・・・”という詩が美しさの限りだ。
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書き込みを再開します。

2006-09-26 06:47:58 | その他
 本日よりブログの更新を再開します。

 まだまだけっこう忙しいので、毎日書き込めるかどうか分かりませんが、今後ともヨロシクお願いします ->ALL。
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一週間ほど休みます。

2006-09-18 21:46:42 | その他
 向こう一週間程度ブログの更新を控えようと思います。

 理由は簡単、いろいろと忙しくて文章を作成する時間が取れないからです(汗)。まあ、書くネタはないことはないのですが、どうも周囲が落ち着かなくて・・・・。

 来週には再開しますので、どうぞよろしくお願いします。
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「スーパーマン リターンズ」

2006-09-18 07:54:49 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Superman Returns)ハッキリ言って長い。あと30分削れば何とかなったかもしれない。こういうヒーロー物にとって“上映時間が長い”というのは場合によって致命的な欠陥になりうる。なぜなら、その“無駄に長い部分”は、単純な活劇場面の羅列とそれらの繋ぎのシーン以外の、どうでもいいパートである可能性が多いからだ。

 特にスーパーマンはバットマンやスパイダーマンみたいに“影の部分”を云々する余地の少ないキャラクターである。文字通り超人的な活躍ぶりを見せつけて観客に“わースゴいなー”と思わせるだけで事足りる。それが今回あろうことか“現代人にスーパーマンは必要か?”などというつまらないネタに色目を使い、それが不要に上映時間を伸ばしている。そもそもスーパーマンが実在している物語世界において今さら“スーパーマンの存在意義は?”と問うことに何の意味があるのだろうか。

 さて、そんな“不要な部分”を除けばそこそこ楽しめるシャシンではある。81年製作の「スーパーマンII/冒険篇」の続編という形を取り、出所したレックス・ルーサーとの対決も賑々しく披露される。SFXの出来も上々だ。ブライアン・シンガーの演出はアクション場面に限っては「X-メン」より健闘している。

 しかし、クラーク・ケントの扱いは中途半端だし、ロイスの彼氏および息子との関係とか、今後シリーズを続ける上で苦しくなるようなモチーフが目立つ。ひょっとして“復活”は今回限りだと割り切っているのかもしれない。

 主演のブランドン・ラウスは外見は実にサマになっているが、まだ演技は固い。ハゲをネタにした自虐ギャグで攻めてくる敵役のケヴィン・スペイシーには完全に負ける(笑)。ロイスに扮するケイト・ボスワースは少し若過ぎか。養母役にエヴァ・マリー・セイントが出ているのはオールドファンには嬉しかろう。
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「M:i:III」

2006-09-17 07:55:52 | 映画の感想(英数)

 (原題:Mission: Impossible III )間違いなくこのシリーズでは一番出来が良い。ただしそれは“本作は素晴らしく面白い”ということでは断じてなく、単に前の2作が酷すぎたからに過ぎない(爆)。

 もとよりトムくんに頭の良いエージェントなんか演じられるはずもなく、さりとてあまりに脳天気な活劇編にしてしまうと、根強い“往年のテレビシリーズのファン”から引導を渡されるのは確実。では今回はどうしたかというと、巧みな工作の段取りなんかハナから無視する代わりに、局面ごとの新メカや珍兵器のスピーディな“プレゼンテーション”に徹するという作戦に出た。確かにこれなら少なくともスパイ映画の雰囲気だけは味わえる。

 これが劇場用映画デビューとなるJ・J・エイブラムスの演出は実に歯切れが良く、各シークエンスをボロが出ないうちにサッと切り上げ、見た目にはアクションに次ぐアクションのジェットコースタームービーに仕上げている。フィリップ・シーモア・ホフマンの悪役をはじめ、ヴィング・レイムスやローレンス・フィッシュバーンなど、脇の面子も揃っていてトムくんをしっかりフォローしている(笑)。

 ただし、筋書きの方は超脱力。往年の香港製アクションも真っ青の場当たり的な脈絡のなさで失笑の連続だ。攻防戦の焦点になる“ラビットフット”なるシロモノの正体が不明であるのは序の口。後半には、作っている側は気の利いたドンデン返しのつもりが無茶苦茶な与太話に終始しているのには閉口するしかない。

 ただし、あまりにも脚本が良く出来過ぎていると、主役をもっとスマートにする必要があり、そうなるとトムくんが主演では似合わなくなるわけで、そのあたりの匙加減としてはこれが妥当かも知れない。まあ、暇つぶしに何も考えず観るにはいいだろう。
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電源ケーブルの交換は効果絶大!

2006-09-16 07:59:49 | プア・オーディオへの招待

 先日はオーディオ装置用に電源タップを購入したことを書いたが、今度はタップから各機器を繋ぐ電源ケーブルを交換してみた。今回も特段効果を期待してのことではない。単に電源タップを比較的見栄えの良い製品を選んだため、それに繋ぐコードも見かけがショボい付属品ではルックス面で満足できず、今回の購入に踏み切っただけの話。オーディオ(&ヴィジュアル)機器って見た目も大事だしね(爆)。

 当初は有名メーカー品を物色していたのだが・・・・なんと結構高いではないか。よく売れているクラスが2万円前後、上を見れば十数万円、中には30万円を超えるものもある。ケチな私は2万円どころか一本当たり1万円も出したくなかったので、とりあえず店頭で扱われている一般メーカー品はすべて無視し、今回は個人あるいは少人数で家内制手工業的に作成しているところからネット通販を利用して手に入れることにした。

 いくつかのサイトを閲覧して検討した結果、決めたのはshima2372という工房だ。価格も一本当たり1万円未満であり、送料無料、しかも複数購入すると割引があるという特典に惹かれた(笑)。購入したのは機器側のイントレットが3ピン式のものと2ピン式(メガネ型)のもの、計2本である。

 実際にセッティングして聴いてみたら・・・・驚いた!

 音が以前と違うのだ。音像の質量がグッと増し、輪郭も定位も明瞭度がアップした。前後の距離感も出てくる。それでいて押しつけがましさは皆無。特にドラムスやピアノの実在感にはハッとさせられる。要するに“安心して聴ける音”に変貌したのである。電源タップを交換してもほとんど変わらなかったのに比べ、今回の効果は“劇的”でさえある。2ピン式(メガネ型)のものはチューナーに繋いだが、これもラジオ放送のアナウンスに存在感が出てきてびっくり。音質に対する電源ケーブルの重要度は想像を完全に上回っていた。

 いくらマニアや評論家が“電源ケーブルをちゃんとしたものに交換すれば音質は向上する”と言おうが、私はイマイチ信用していなかった。もちろん厳密に言えば音が変わることは予想できる。しかし、電源コードを替えたところで、それ以前に発電所から一般家庭のコンセントまでは膨大な伝送路が存在するわけで、たかだかコンセントから機器までの通路をいじってみたところで焼け石に水だと思っていたのである。少なくともスピーカーケーブルやRCAケーブルを替えた際の効果と比べ、電源ケーブル交換の効果は微々たるものだと信じていた。しかし・・・・今回ばかりは私は間違っていた。電源ケーブルの見直しはオーディオの必須事項だったのだ。

 このコードに使われている線材は米国Belden社のものだ。同社は業界の最大手で、製品ラインナップは数千点にもなるが、日本に正規輸入されているオーディオケーブルは数点に過ぎないから、たぶんこの業者は個人輸入の形で調達し、それに適当なプラグを付けて製品化しているのだろう。これまでBelden社の音作りに接したことはなかったが、今回ケーブル交換によって得られた効果により、この“明瞭で手堅い音”こそが同社のサウンドであることが垣間見える。Belden製品のほとんどが業務用で、世界各国のレコーディングスタジオで幅広く使われているという事実も納得できた。

 最終的に3ピン式のものはアンプに繋いだのだが、CDプレーヤー用にも一本欲しくなってきた。次回は試しに一般メーカー品の“売れ筋のクラス”の製品を買ってみて、傾向の違いを楽しみたいと思う。
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「幸せのポートレート」

2006-09-15 06:56:23 | 映画の感想(さ行)

 (原題:The Family Stone)変わり者揃いの婚約者の家族との対立と和解を描くという、まあ以前にも何回か観たような話なのだが、互いの“化けの皮”がシビアな形で直ちに剥がれてしまうところが面白い。

 サラ・ジェシカ・パーカーが演じる主人公はニューヨーク在住のキャリアウーマンで、傍若無人で計算高いだけのガサツな女。彼女の婚約者の一家は極端に排他的なリベラル派で、一切隠し事をしないというのがモットーらしい。

 観ている側にすればどちらも付き合いたくないタイプだが、双方のそういう姿勢が“仮面”に過ぎないことが判明し、まさしく“素”の状態に立ち戻ったところから、結婚や母親の死期が近いといったリアルな事態に直面しながら、互いのコミュニケーションを一から積み上げていこうとする登場人物達の姿を見ていると、この監督(新鋭トーマス・ベズーチャ)の人間を見る目は確かだと思えてくる。

 ラスト近くの“主人公の妹が出てきてどうのこうの”という展開はワザとらしいが、これが突き放したままだとラブコメとしての商品価値(?)が下がるので仕方がないのだろう(笑)。それを除けば辛口の群像劇として見応えは十分だ。

 出演者の中では母親役のダイアン・キートンが最高だ。死を前にしての突き抜けたような諦観と一種の“明るさ”を違和感なく表現しているあたりはスゴい。思えば昔彼女が演じた役柄の数々は今回のサラ・ジェシカ・パーカーを上回る“自立した女”だったことを思うと実に感慨深い。幾分ノスタルジックな意匠と冒頭タイトルバックのセンスの良さも光る。公開時期が季節外れであるようにも思うが(舞台はクリスマス・シーズン)、まずは観る価値十分の佳作と言えよう。
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