元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ブリッジ・オブ・スパイ」

2016-01-31 06:17:27 | 映画の感想(は行)

 (原題:BRIDGE OF SPIES )呆れるほどつまらない。もとよりスピルバーグに登場人物の内面なんか描けるわけもないが、コーエン兄弟が脚本担当ということで少しはカバーされているのかと思っていた。しかしそれは大間違いだったのだ。とにかく、ドラマとして何の盛り上がりも無いまま2時間20分の長丁場に付き合わされるのは、観る側としてはいい面の皮である。

 米ソ冷戦下の1957年、保険の分野で実績をあげてきた弁護士ジェームズ・ドノバンは、ソ連のスパイとしてFBIに逮捕されたルドルフ・アベルの弁護を依頼される。極刑を望む世論にもめげず彼は粛々と職務をこなし、死刑でも終身刑でもない懲役30年の判決を導き出す。ところが60年に米軍の偵察機がソ連領内で撃墜され、ソ連当局がパイロットのフランシス・ゲーリー・パワーズを拘束する事件が発生。両国はアベルとパワーズの交換を画策し、ドノバンはその交渉役を任じられる。彼は家族には仕事の内容を秘密にして、東西勢力が直に接触しているポイントであるベルリンに赴く。

 一番の敗因は、主人公が全然活躍しないことだ。そもそもこの交換劇は米ソ両国が最初から望んでいたことである。そうじゃなければ、ソ連はパワーズを生かしてはいなかった。結局、ドノバンは単なる現場担当者に過ぎないのである。つまりは“上からの指示”に忠実に動く駒だ。そんなことでは映画的興趣が生じるわけがない。

 たとえば主人公が両国を敵に回し、その結果あやうく殺されそうになったりとか、あるいは彼の献身的に働きによって国家当局の意志を翻らせたとか、そういうドラマティックなモチーフを挿入しない限り、このネタで観客を楽しませることは不可能だ。

 もっとも“東側に拘束された学生も一緒に助けるために尽力したではないか”という意見もあるかもしれない。しかし、劇中の台詞でも語られていたように、この学生が東ドイツ政府に捕まったのは自業自得である側面が大きい。しかも、アベルの一件と同時進行するためにドラマ運びが散漫になっている。東西両陣営の駆け引きにも焦点は合わせられず(出来レースなのでそれも当然だが)、せいぜい盛り上がったのはドノバンが街角でチンピラの若造どもにコートを奪われる場面ぐらいだ。

 ドノバンはニュルンベルグ裁判において判事の助手を務めており、キューバ危機でも重要な役割を果たしていることから考えると、実際はかなり有能な人物だったはずだ。ところがこの映画での彼は“きつい仕事を終えて帰宅し、家族の顔を見てホッとする”というマイホームパパみたいな扱いしかされていない。苦悩や葛藤は表面的に言及されるのみだ。もちろん、53年のスターリンの死後に態度を変化させていたソ連側の状況といった歴史的背景は捨象されていて、まるで物足りない。

 主演のトム・ハンクスは可も無く不可も無し。他の面子もパッとしない(わずかに印象に残ったのはアベル役のマーク・ライランスの渋いパフォーマンスぐらい)。なお、スピルバーグ作品では珍しく音楽がジョン・ウィリアムズではなくトーマス・ニューマンが担当しているが、あまり効果が上がっておらず、この起用が正解なのか大いに疑問である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「アルカトラズからの脱出」

2016-01-30 06:50:47 | 映画の感想(あ行)
 (原題:Escape from Alcatraz)79年作品。娯楽活劇の名手であったドン・シーゲル監督の代表作であるばかりではなく、演技者としてのクリント・イーストウッドの大きな実績のひとつでもある。決して観て損は無い快作だ。

 サンフランシスコ湾内のアルカトラズ島は断崖絶壁と速い潮流に囲まれ、そこに建てられた刑務所は脱獄不可能とされてきた。1960年、フランク・モーリスという囚人が送られてくる。彼は米国各地の刑務所で何度か脱走を企て、手を焼いた当局側によってこの刑務所に収監されたのであった。彼の前に冷酷な所長ウォーデンが立ち塞がる。



 早くも所長から目を付けられたフランクは、部屋に呼ばれて警告を受ける。しかしその時、所長のデスクからツメ切りを失敬することを忘れてはいなかった。こうしてフランクは道具や仲間を集め、脱獄に向けて着々と準備を重ねていく。実話をもとにしたJ・キャンベル・ブルースのによる小説の映画化だ。

 とにかく、ストイックかつ密度の高い演出に圧倒される。BGMなし、女っ気なし、余計なセリフも当然なし。だが、頭が少しイッてしまった(自称)画家や、ねずみをペットにしている囚人など、各キャラクターは十分に“立って”おり、プロットの積み上げも実に堅牢である。

 そして他の棟に監禁されていた敵役が戻ってきたため、脱獄の決行を予定より1日早めたことによるサスペンスの盛り上げ方は大したものだ。単純な成功談に仕立て上げられていないラストの処理も良い。

 本作でのイーストウッドは寡黙な役柄なので地味な印象を受けるが、目的に向かって冷静に駒を進めるインテリジェンスも感じられる妙演である。アクションもの以外でこれだけ存在感を出せるのには感心した。パトリック・マクグーハンやロバーツ・ブロッサムなどの脇役も良い面構えをしている。また、フランク・ダラボン監督の「ショーシャンクの空に」等の後年の作品に対する影響力も見逃せない。なお、この脱獄劇の後にアルカトラズ島の刑務所は永久に閉鎖され、今では観光名所になっている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「アンジェリカの微笑み」

2016-01-29 17:08:23 | 映画の感想(あ行)

 (原題:O ESTRANHO CASO DE ANGELICA )退屈な映画だ。ほめている評論家は多く、2015年のキネマ旬報ベスト・テン洋画部門の第3位にランクインしているが、正直言ってどこが良いのか分からない。筋書きも各キャストの演技も全然ピンと来ず、上映中は眠気との戦いに終始してしまった。とっとと忘れたいシャシンである。

 ポルトガルのドウロ河流域にある小さな町。真夜中に町に一軒しかない写真館に、当地に住む富豪の執事がやって来る。急ぎの写真撮影を依頼したいそうだが、あいにく店主は不在。その様子を見ていた通りがかりの男が、最近町にやって来た青年が写真を趣味にしていることを執事に告げる。執事は早速その若者イザクの下宿を訪れて、彼に撮影を頼む。その仕事というのは、富豪の急逝した娘アンジェリカの写真を葬儀前にキレイに撮ることだった。

 屋敷でイザクがピントを合わせた瞬間、何とファインダー越しのアンジェリカは目を開き、彼に笑いかける。驚きながらも撮影を終えたイザクが写真を現像すると、今度は写真の中の彼女も微笑んでいるではないか。それ以来、彼はアンジェリカのことが頭から離れない。さらにはアンジェリカの亡霊らしきものがイザクの前に現れるようになる。

 何だか「雨月物語」のような怪異譚だが、全然怖くないし、話自体に深みがあるとも思えない。アンジェリカは何を考えてイザクにモーションをかけたのかまるで不明だし、イザクの方もそんな怪しげな話にどうして乗ったのか分からない。イザクが住む下宿には彼のほかにもインテリ層と思しき住人が何人かいるのだが、彼らが話す空疎なインテリ話がワザとらしく延々と続く。それを聞くイザクは何のリアクションもなく佇むばかり。

 教会の前にたむろする乞食とか、昔ながらの方法でブドウを育てる農民達とか、下宿の女主人が飼っている小鳥とかいった思わせぶりなモチーフが並べられるが、それらは何のメタファーにもなっていない。映像も全然大したことがなく、意味の無い長回しが連続すると思えば、アンジェリカの霊が現れるシーンのチープさには失笑するしかない。

 そもそもこの映画の時代背景はどうなっているのだろうか。主人公の出で立ちや使うカメラがデジカメではないことから判断すると数十年昔だという気もしたが、走っている自動車は現代のものだ。このあたりも非常に居心地が悪い。

 監督はポルトガルの巨匠と呼ばれて2015年に106歳で世を去ったマノエル・デ・オリベイラだが、私は彼の作品に接するのはこれが初めてだ(本作は彼が101歳の時に撮られている)。過去にどういう作品を手がけてそれらがどういう出来映えなのかは分からないが、この映画を観る限り才気走ったところは全く見当たらない。見所を強いて挙げれば、マリア・ジョアン・ピリスが弾くショパンのピアノ曲と、世界遺産に認定されているドウロ渓谷の景観ぐらいだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ハンガー」

2016-01-25 06:26:56 | 映画の感想(は行)
 (原題:The Hunger)83年イギリス作品。先日惜しまれつつも世を去ったデイヴィッド・ボウイは、映画にも何本か出演していた。本作はその中でもカルト的な人気を博しており、今観てもその独特の魅力は失われていないと思う。

 何千年も生きてきた女ヴァンパイアのミリアムとその恋人ジョンが、現代のニューヨークにあらわれる。彼らは深夜のディスコで若者を物色し、住み家に誘い込んでは命を奪い、その血をすすっていた。18世紀のイギリスでミリアムに見込まれてヴァンパイアになったジョンだが、不死のはずの彼が老い始めた。



 不安を感じた彼はアンチエイジングを研究する女医サラの元に足を運ぶが、彼女に診察してもらう前に白髪の老人になってしまった。絶望した彼は自ら命を絶つ。一方ミリアムはジョンの後釜にサラを据えようとして、彼女を誘惑する。しかしトムという恋人もいるサラには、ミリアムの誘いに簡単に乗るわけにはいかなかった。

 ジョンを演じるのはボウイだが、ミリアムにはカトリーヌ・ドヌーヴが扮し、サラにはスーザン・サランドン、トムにクリフ・デ・ヤングと、かなりキャスティングは意欲的だ。加えて、主人公達が住むアパートの古風で禍々しい雰囲気、スティーヴン・ゴールドブラットのカメラによる奥行きのある映像と、映画全体に耽美的な雰囲気が漂う。

 監督はこれがデビュー作になったトニー・スコットだが、後年ハリウッドで“職人的な活劇専門の演出家”になることが信じられないほど、高踏的なタッチを狙っている。もしも彼がこの路線を歩んでいたら、評価が変わっていたことだろう。ひょっとたら兄リドリーとは一線を画す映像派の旗手として持て囃されていたかもしれない。

 なお、実際のボウイの晩年はこの映画で描かれていたような老人ではなく、病気で憔悴していたとはいえ、最後まで凛とした二枚目の佇まいを残していたのは、ひとつの救いであったと思う。改めて彼の作品群を聴きたくなってきた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「クリード チャンプを継ぐ男」

2016-01-24 07:16:32 | 映画の感想(か行)

 (原題:CREED )長年「ロッキー」シリーズに付き合ってきた手練れの映画ファンならば、文句なく評価するであろう快作だ。ただし正直言ってこのシリーズは全て出来が良かったわけではない。オスカーを獲得した第一作こそ幅広い支持を集めたが、その後は無理筋の御膳立てが散見され、パート4に至っては“怪作”扱いだ。しかし、それらを肯定的に受け入れた上で、また新しいストーリーを刻もうとする、その心意気が嬉しい。

 主人公のアドニス・ジョンソンはロッキーのライバルであり盟友であったアポロ・クリードの息子だ。ただ愛人との間に出来た子なので、小さい頃から辛酸を嘗めてきた。やがてアポロの未亡人に引き取られ、何不自由ない暮らしを送れるようになる。長じて大手金融会社に就職して実績を上げるが、ボクシングに対する思いを断ち切れず、仕事と家を放り出して亡き父が戦いを繰り広げたフィラデルフィアにやってくる。彼はロッキー・バルボアに教えを請い、父親を超えるボクサーになるつもりなのだ。

 ボクシングから身を引いていたロッキーは最初はためらうが、アドニスの中にアポロの面影を観た彼は、トレーナーを買って出る。めきめき腕を上げるアドニスだが、その前に英国のチャンピオンが立ちはだかる。

 まず、構成が巧みである点が評価出来る。主人公はアポロの息子だが、正妻の子ではない。その引け目を感じるような生い立ちを克服し、自分の進みたい道を歩もうとするアドニスの物語。そして一線から退き食堂のオヤジとして余生を送る予定だったはずが、かつての盟友を強烈に思い起こさせる若者の出現によって、また戦いの世界へと舞い戻っていくロッキーの物語。その二つが絶妙にシンクロし合い、重層的に映画を盛り上げていく手法には感心した。

 そして“全力を尽くして困難に立ち向かう”という、王道的なドラマツルギーを何の衒いも無く差し出す作者の思いきりの良さが、観る者の大きな共感を呼ぶ。

 また「ロッキー」の第一作に関して公開当時“最下層に暮らす人々の哀歓をうたいあげている点だけで高評価だ。ボクシングの試合は「オマケ」に過ぎない”という評があったように、本作におけるフィラデルフィアの下町の描写も的確だ。恵まれない者達にとって、スポーツのヒーローの存在がどれだけ救いになっていることか。

 ライアン・クーグラーの演出はソツがなく、要所要所をキチンと撮り上げている。アドニスに扮するマイケル・B・ジョーダンは好演。身体能力もさることながら、内面の表現にも長けている。シルヴェスター・スタローンはさすがの存在感で、老骨にムチ打ってフィラデルフィア美術館の階段を上がっていくシーンには胸が熱くなる。進行性難聴を抱えたヒロイン役のテッサ・トンプソンも可愛くて良い。続編が作られるのかどうか分からないが、また主人公達の活躍を観たいのは確かだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ホワイト・バッジ」

2016-01-23 07:31:46 | 映画の感想(は行)
 (英題:WHITE BADGE )92年作品。第5回東京国際映画祭でグランプリを受賞した韓国映画。舞台は1979年のソウル。かつてベトナム戦争に参加し、戦記ものを執筆中の主人公は、ある日かつての戦友に再会する。ベトナムの後遺症で日常生活に適応できないその元戦友と接触するうち、ベトナムでの悪夢を思い出していく主人公だが・・・・。監督はチョン・ジヨン。本国では中堅の実力派として有名らしいが、作品を観るのはこれが初めてだった。

 はっきり言って物足りない。ベトナムでの現地住民虐殺シーンは「プラトーン」、地獄のような戦闘場面は「ハンバーガー・ヒル」、復員後も社会復帰できない登場人物の描写は「帰郷」あるいは「7月4日に生まれて」、ベトコンの耳を切りとって集める兵士は「ユニバーサル・ソルジャー」、戦場の幻覚が襲って来るあたりは「幸福の旅路」、さらにご丁寧に「ディア・ハンター」ばりのロシアン・ルーレットまで挿入されていて、アメリカ製ベトナム戦争映画の総集編を韓国流にやりました、という感じなのだ。



 まあ、“モチーフとしてたまたまそうなっただけで、大したことではない”と開き直れられると何も言えないのだが、観ている側からこういう指摘を容易に受けるのは、映画のアピール度が低いせいである。

 私が知りたいのは、ベトナム戦争というまったく自分のとことは関係のない戦争に理不尽にもかりだされた韓国兵士の苦悩である。大義名分のない戦争でヒドイ目にあった韓国兵士。自己のアイデンティティを踏みにじるこの仕打ちは、アメリカ人兵士よりも重たいディレンマがあって当然であり、そのへんを突っ込んでアメリカ映画のベトナムものとは一線を画す鋭い映画に仕立ててほしかったのだ。

 ところが描くのは、シビアーとはいえ従来のベトナム戦争のルーティンだけだ。79年当時の政変に伴うデモがベトナムの悪夢に重なるという、思わせぶりなシーンはとって付けたようで感心しない。そして韓国映画特有のこの重さ、暗さ。2時間あまりの上映時間がとてつもなく長く感じられた。唯一救いだったのが主役のアン・ソンギのニヒリスティックな演技。当時は女優中心の韓国映画界で、私が唯一名前を覚えているた男優だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「スター・ウォーズ フォースの覚醒」

2016-01-22 06:32:38 | 映画の感想(さ行)
 (原題:STAR WARS:THE FORCE AWAKENS )大して面白くもないが、欠点をあれこれと指摘するのも意味が無いように思う。この作品自体がひとつの“アトラクション”であり、映画としての出来を批評するようなシロモノではない。製作元がディズニーになったことも、そのことを裏付けている。

 前作「ジェダイの復讐」で帝国軍は壊滅したはずだが、その残党はファースト・オーダーと呼ばれる組織を立ち上げ、相も変わらず共和国軍やレジスタンスと戦闘を繰り広げていた。かつての帝国軍とのバトルで功績を残したルーク・スカイウォーカーは姿を消し、妹であるレイア・オーガナ将軍はレジスタンスを指揮してファースト・オーダーに立ち向かうと共に、兄の行方を捜索していた。



 そんな中、ルークの所在を示す地図を手に入れるため、レジスタンスのパイロットであるポー・ダメロンは惑星ジャクーを訪れるが、ファースト・オーダーの部隊は彼を追う。ポーはドロイドのBB-8に地図を託すが、その過程でレイとフィンという若者二人が物語に絡んでくる。

 ファースト・オーダーは帝国軍と違って重みも凄味もない。しかも、敵の首魁は軽量級に過ぎる。ファースト・オーダーの要塞はデス・スターの“改築版”みたいだし、若造二人は修業もしていないのに簡単にフォースを発動してしまう。それに、メカ自体も前作からあまり進歩しているとも思えない。

 昔馴染みのキャラクターも出てくるが、文字通りの“顔見世興行”であり、大したインパクトも無い。全体的にストーリーは深みも神秘性もなく、筋書きは平板に進んでいくのみだ。特殊効果は優れているが、大金を掛けているから当たり前で、何の驚きも無い。



 しかしながら、これが“(ゲーム化も見据えた)アトラクションのひとつ”だと割り切れば、あまり腹も立たない。私は通常の2D版で観たのだが、3Dや4DXで観たら遊園地感覚で楽しめるのだろう。J・J・エイブラムスの演出は可もなく不可も無し。ハリソン・フォードにマーク・ハミル、キャリー・フィッシャーといった面々には“久しぶりだ”というより“老けたなぁ”という印象が強い。デイジー・リドリーやジョン・ボヤーガ、アダム・ドライバーらの若手もいまいちパッとしない。

 ただし、数年後に続編が作られたらまた観ると思う。何のかんの言っても、SF映画を興業の柱に押し上げたのはこのシリーズであり、十代の頃にリアルタイムで初期の作品に胸を躍らせたのも確かなのだ。いわば本シリーズの新作に接することは単なる映画鑑賞ではなく、ひとつのイベントである。これからも付き合っていきたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「アトランティス」

2016-01-18 06:28:46 | 映画の感想(あ行)
 (原題:ATLANTIS)91年フランス作品。「グレート・ブルー」(88年)「ニキータ」(90年)のリュック・ベッソン監督が送る海洋ドキュメンタリー作品。ベッソンは今は“終わってしまった”作家だが、この頃は快作を連発していた。このようなマニアック(と言っていいのかな)な作品が公開されるのは、フランス映画界きってのヒット・メーカーだったベッソン監督の実績があったに違いない。構想に10年かけたという。

 こういう映画はえてしてメッセージ性が強くなりがちだと思う。いわく“海はこんなに美しいものですよ。だから環境問題に関心を持ちましょう”とか、“海の中の生物が見せる驚くべき生態”とかである。ま、この映画を観て何を感じようと個人の自由だが、私は作者の“海が好き”という単純明解な気持ちが最大限にあらわれた作品であると思う。よけいなことを考えずに、ひたすらこの美しい映像にひたっていたい。



 エリック・セラ(ベッソン作品ではおなじみ)の音楽が実に素晴らしい。ディズニー「ファンタジア」の海洋版を意図した部分もあるらしい。映像を先に撮影し、それに合わせた音楽を作曲または既成曲をあてはめるという手法を採用している。アラブ風のサウンドに乗って泳ぐウミヘビ、ロックのビートで跳ね回るアシカの群れ、マリア・カラスの歌うアリアに合わせてゆうゆうと泳ぐマンタ、拍手する観客を連想する小魚の大群、すべてがこれ以上にないと思わせる映像と音楽のマッチングである。

 カメラはラストを除いて一度も水の中から出ることはない。上下左右・自由自在に動くカメラワークは、あるときはさわやかな高原の朝を、あるときは無限の宇宙空間を、またあるときはうっそうとしたジャングルの奥地を、海の中の風景から抽出させることに成功している。撮影に要した時間は38か月、潜水海域は10か所。使ったフィルムの量は膨大なものになったという。

 さて、この映画を観た当時の友人たちの感想だが、“すばらしかった”という意見を期待した私をあざ笑うかのように“あー、途中であまり気持ちがよくって寝ちゃったよ”というのがほとんど。映像処理に目を奪われて寝るどころか息もつけなかった私はいったい何だ?(大笑)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ベテラン」

2016-01-17 11:15:32 | 映画の感想(は行)

 (英題:Veteran )映画の出来よりも、この作品が韓国で歴代3位の大ヒットを記録したという、その背景の方が興味深い。映画の質と興行収入の多寡が一致するとは限らないことは周知の事実であり、ヒットするには何らかの“イベント性”が必要になってくるが、本作ほどそれが明確に示されている例も珍しいと思う。

 ソウル地方警察庁の広域捜査隊に籍を置くソ・ドチョル刑事は、お調子者だが腕は立ち、個性的な仲間と共に難事件の解決に当たっている。ある日ドチョルは、彼の友人のトラック運転手が、リストラ処分に抗議するためシンジン物産を訪れた直後、自殺を図って意識不明の重体に陥ったことを知る。単純な自殺未遂として片付けられたこの一件に不審を抱いた彼は、真相の究明に乗り出す。どうやら裏で糸を引いているのは、巨大財閥シンジン・グループの御曹司、チョ・テオらしい。マスコミや利害関係者を総動員して卑劣な揉み消し工作を仕掛けてくるテオに対し、ドチョルは徒手空拳で立ち向かう。

 この映画が当たった原因は、ズバリ言って財界人を徹底した悪者に仕立て上げているからだろう。韓国は90年代に財政危機に直面し、97年にはIMFの介入を受けている。それからは新自由主義が持て囃され、国民の間では格差は開く一方だ。加えて大韓航空ナッツリターン事件やロッテ内部の覇権争いなど、近年は財界の不祥事が頻発している。大財閥に対する不信感が高まってきたタイミングで公開されたこの映画が、注目を浴びないわけが無い。

 しかも、誰が観ても分かりやすい勧善懲悪の構図を提示している。もちろんドチョル達は品行方正な警官ではないが、それが逆にリアリティを生み、訴求力を高めている。監督のリュ・スンワンは、以前の「ベルリンファイル」(2013年)とは打って変わった大味な仕事ぶり。前半からフザけた場面が目立ち、中盤からは持ち直すものの、荒削りで御都合主義的なテイストが散見される。しかしながら、ヘンに緻密な構成を採用すると、大方の観客は“引いて”しまうことも考えられ、これはこれで良かったのかもしれない。

 それでもアクション場面は盛り上がり、終盤のカーチェイスから肉弾戦に突入するあたりのタイミングも見事だ。主演のファン・ジョンミンは妙演だが、それよりも敵役のユ・アインの不貞不貞しさが印象に残る。やはり悪者の存在感が大きいと活劇映画は盛り上がる。

 ラスト近くでドチョルとテオの格闘を遠巻きで見守る一般市民に、観客は感情移入していると思われる。危なくて助太刀には入れないが、それでも手持ちの携帯電話等でこの有様を記録することによって、社会権力に対して無言の抵抗を試みているようだ。実際に韓国の国民がこのような行動を取るのかどうかは分からないが、作劇としては面白い処理だと思った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「四月の魚 ポワソンダブリル」

2016-01-16 16:38:50 | 映画の感想(さ行)
 86年作品。大林宣彦の監督作は出来不出来の差が途轍もなく大きいが、本作はダメな部類に入る。しかしながら、単なる駄作として片付けるには、妙な存在感がありすぎる。つまりは“珍作”ということになるのだろうか。完成から公開まで1年半もかかったのは、配給側も作品の位置付けが分からずに逡巡したことが想像出来る。

 33歳の根本昌平の肩書きは一応映画監督なのだが、7年前のデビュー作以来、1本も映画を撮っていない。初監督作は評論家筋に大ウケで、その勢いで4歳年上の女優の不二子と結婚してしまったが、今では彼女のヒモみたいな扱いだ。ある日、昌平のもとに数年前CM撮影で訪れた時にお世話になった、アラニア島の日系二世、パナポラ・ハンダ酋長から手紙が届く。今度来日するから、根本家を訪れたいという。



 アラニア島では、友情の誓いとして妻を一晩提供するという習慣があり、昌平も酋長の若妻ノーラと一晩過ごしている(実は一晩中2人で星の数を教えていただけ)。今度は昌平の番なのだが、困った彼は新人女優を不二子の替え玉にするというシナリオをでっちあげる。

 しかるべき作り手がそれなりの役者を集めて普通に撮れば、けっこう面白いシチュエーション・コメディになったことは想像に難くないが、本作は見事にハズしていて少しも笑えない。とにかく描写がユルユルで、展開も脱力系。眠気さえ催す。だが、演技経験の少ない主役の高橋幸宏がヘタな台詞回しでモノローグめいたものを連発しても、それほど不快にはならない。

 それは、主人公の特技であるフランス料理のウンチクが同じくユルい調子で綴られるタイミングが、何となく気持ちが良いからだ。音楽も高橋が担当しているが、これもこの雰囲気とマッチするようなフワフワとした曲調で、全体としていわば“環境ビデオ”の変化球バージョンみたい様相を呈する。これは得難い個性だと思う。

 不二子役の赤座美代子をはじめ、三宅裕司、泉谷しげる、峰岸徹、そしてハンダ酋長に扮する丹波哲郎と、豪華なのか奇を衒っているのか分からないキャスティングも印象的。原作者のジェームス三木もチョイ役で顔を出す。なお、替え玉の若手女優を演じた今日かの子は面白いキャラクターの持ち主だが、この映画だけで芸能界から消えてしまった。ちょっと扱いに困る映画に出るのも考えものだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする