不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「大鹿村騒動記」

2011-08-31 15:53:13 | 映画の感想(あ行)

 地域伝統芸能の存在意義について考えたくなる一編だ。長野県の小さな山村・大鹿村。この村には300年以上続いてきた伝統の行事・大鹿歌舞伎がある。ここで鹿肉の料理店を営む風祭善は長年その歌舞伎の主役を演じてきたが、18年前に妻が仕事仲間の治と“駆け落ち”してしまい、今では寂しい一人暮らしだ。ところがある日、妻と駆け落ち相手が村に帰ってくる。妻は認知症を患っており、持て余した治は善にカミさんを“返しに”きたのだった。

 トラブルの元は善とその妻の問題だけではなかった。善が雇い入れたアルバイトの若者は、人当たりは良いがワケありで、大きな悩みを抱えている。村はリニア新幹線の誘致で賛否両論乱れ飛んでおり、もちろん過疎地としての課題を抱えている。

 しかし、このようにミクロ的にもマクロ的にも問題が噴出しているのは、現代に限った話ではない。いずれの時代においても、人々は悩み社会問題は存在していたのだ。放っておけば各個人も共同体もバラバラになってしまう。本作は“それを阻止するのが地域伝統芸能なのだ!”と言い切っているようだ。

 どんなゴタゴタを抱えていても、大鹿歌舞伎のシーズンになると人々は結束し、トラブルはひとまず棚上げされ、一致団結してイベントを成功させようとする。そしてそれが終わると人心はリセット状態になり、新たな気持ちでまた問題に向き合うのだ。本作の送り手は、そんな構図に(映画を含めた)芸能の原初的な姿を投影したのだろう。

 この映画は原田芳雄の遺作になってしまった。まさに鬼気迫る熱演・・・・と言いたいところだが、最後の仕事になってもいつもの飄々とした持ち味で作劇をしっかりと支えている。さすがだ。彼のように並はずれて存在感が大きい俳優は、いてくれるだけで画面が引き締まる。企画自体も彼の提案によるものだという。

 鈴木清順監督「ツィゴイネルワイゼン」での原田との共演が強烈な印象を与えた大楠道代をはじめ、岸部一徳、松たか子、佐藤浩市、石橋蓮司、瑛太、三國連太郎など配役はかなり豪華だ。これら個性の強い素材に対しオーバーアクトを極力廃して的確な業務配分を施した阪本順治の演出は、久しぶりに冴えている。ギャグの振り方も万全で、よく笑えた。

 脚本担当の荒井晴彦は、阪本とのコンビ作「KT」での不調ぶりとは打って変わったスムーズな仕事を披露。山村の風情も相まって、観賞後の気分は上々である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中洲ジャズ2011

2011-08-30 19:43:35 | 音楽ネタ

 去る8月26日と27日、福岡市博多区の中洲地区で、音楽イベント「中洲ジャズ2011」が開催された。2009年から始まり、今回で3回目になる。5,6か所の舞台でジャズのプレーヤーが演奏を披露し、多数の観客を集めたようだ。

 とはいえ、私は当日別に予定があり、わずかに見られたのはキャナルシティ博多のステージに出演した2組のミュージシャンのみである。ひとつはピアニストの立花洋一率いるTAKINGJAZZ(テイキングジャズ)。ジャズというよりはフュージョン系のポップスだ。オリジナル・ナンバーを中心にした展開だったが、残念ながら曲のクォリティはさほど高くない。客の反応もイマイチだ。

 しかし、ゲストでタップダンサーの中野章三が出てくると大いに盛り上がった。彼は中野ブラザーズの片割れだが、兄の啓介が亡くなったあとも現役ダンサーとして活躍している。すでに70歳を超えているにもかかわらず驚くべき身体のキレを見せ、観客を魅了。年を取ってもこれだけ踊れるのは素晴らしいことだ。

 もうひとつは女性ヴォーカルのSHANTI(シャンティ)。彼女はゴダイゴのトミー・スナイダーの娘で、2009年にメジャーデビューしている。オリジナル曲とカバー曲とを取り混ぜた展開だが、ストレートなジャズではなく“ジャズ風のポップス”と言うべきだろう。

 正直な話、彼女の歌声は心地良いが大向こうを唸らせるような厚みや深さはない。たぶん最初から“軽めの線”を狙っているのだろう。ただし今後はどう化けるか分からないが・・・・。それよりも、彼女のバックでギターを弾いていたオッサンのテクニックには感服した。

 他に日野皓正やフライド・プライド、ケイコ・リーといった有名どころも出場していたようだが、時間が無くて見られなかったのは残念だ。

 とはいえ、中洲地区でこのような催しがあること自体は評価して良いだろう。中洲は西日本有数の歓楽街だが、長引く不況で低落傾向が続いている。かくいう私もここ10年間中洲で飲んだことはない。イメージアップのためのイベントはどしどしやるべきだ。次回からは開催期日や演奏時間を拡大してほしいと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「シベリアの理髪師」

2011-08-29 06:34:08 | 映画の感想(さ行)
 (原題:Barber of Siberia )99年作品。19世紀末のロシアを舞台に、運命に翻弄される男女のラヴ・アフェアをスケール感たっぷりに描くニキータ・ミハルコフ監督作品。その年のカンヌ国際映画祭のオープニング作品でもある。

 主演のジュリア・オーモンドとオレグ・メンシコフはイマイチで、大味な作劇はニキータ・ミハルコフ作品としても全盛期のそれと比べて見劣りするのは事実だけど、“これは娯楽大河ドラマだ”と割り切って観ればけっこう楽しめる。映像も美術もなかなか良く、何より前半のおちゃらけシーンのオンパレードには笑わせてもらった。脇を固めるアレクセイ・ペトレンコとリチャード・ハリスも良い。

 それにしても、帝政ロシア時代を、あまりネガティヴな要素を挿入させずに描いているこの映画が本国で大ヒットしたということは、ロシアを覆う復古主義のあらわれなのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「コクリコ坂から」

2011-08-28 06:26:35 | 映画の感想(か行)
 何のために作ったのか分からない映画である。1963年の横浜を舞台に、高校に通いながら実家の下宿屋を切り盛りする健気なヒロインと、新聞部の部長の男子生徒との微妙な関係を描く本作、どう見ても“ここを伝えたい!”というポイントが存在しない。ただ微温的なドラマが漫然と垂れ流されるばかりだ。

 当時の高校生といえば、後の団塊世代である。何かと毀誉褒貶の多い(笑)この年代に対し、作者が何か意見を持っているのかといえば、まったくそのように見えない。そもそも監督の宮崎吾朗は団塊ジュニアでもないし、何か思い入れを持っている立場でもないとも思う。



 一応、主人公の出生の秘密がメイン・プロットになっているが、その背景には航海中に若くして殉職した彼女の父親の存在がある。父親は朝鮮戦争に関する業務に携わっていた最中に命を落としているが、その業務とは、LSTと呼ばれる戦車揚陸艦による米軍の上陸作戦の支援活動だ。第二次大戦が終わって、我が国はその後の国際紛争には関与していないという建前を取っていたにもかかわらず、裏では堂々と戦時動員が行われていた。

 このミッションの詳細は表沙汰になっておらず、当時の多くの一般ピープルが知っているはずがないのだが、なぜか学校の理事長をはじめ登場人物達にとっては周知の事実になっている。これは明らかにおかしいのではないか。

 だいたいこのネタを挿入するのならば、日本の戦後史について何らかの言及があって然るべきで、そのプロセスを経ることによって初めてヒロインの父親を取り巻く悲劇的な状況が浮き彫りになるはずだ。しかしながらこの映画の作者はそんなことに興味もないらしい。ただの“ノスタルジックなモチーフ”としか思っていないようだ。斯様に、この映画の作り手の問題意識は低い。

 美術や大道具・小道具の扱いは上手くいっており、特に学生会館“カルチェラタン”の造型などは見事だが、当然それだけでは映画全体を評価することは出来ない。単に「ALWAYS 三丁目の夕日」の路線の二番煎じだと思われても仕方がないだろう。さらに主人公達の声を担当する長澤まさみと岡田准一が低調で、キャラクターに血が通わない。この監督は満足な演技指導も出来ないようだ(そもそも声の出演の人選からして間違っているような気もするが ^^;)。

 スタジオジブリも近年はすっかり質的な下方硬直性が板に付いてきて、全盛期のネームヴァリューで何とか食いつないでいるような有様だ。本家ディズニーのように人材を幅広く集めて作風のリニューアルを図らない限り、低落傾向は食い止められないと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近購入したCD(その23)。

2011-08-27 06:21:03 | 音楽ネタ
 今回は交響曲三題。今年(2011年)はグスタフ・マーラーの没後百年に当たる。だから・・・・というわけでもないのだが(^_^;)、久々にマーラーの作品のディスクを買ってみた。交響曲第10番である。演奏はダニエル・ハーディング指揮のウィーン・フィル。2008年の録音だ。

 クラシックファンには説明するまでもないが、この曲はマーラーが完成させることなく終わった作品である。完成された部分のみ(第一楽章のアダージョ)の録音が多いが、補筆による全曲完成版のレコーディングもけっこうある。補筆版の中ではイギリスの音楽学者デリック・クックによるものが有名で、当ディスクもそれを採用している。



 正直言って私は補筆版の交響曲第10番は今までディスクを買ったことがなく、曲自体もラジオで数回聴いたのみ。実演に接したこともない。だからこのCDが交響曲第10番の全ディスコグラフィの中でどれほどのレベルに位置しているのか分からないが、聴いた限りではかなり上質の出来映えだと思う。とにかく音が滑らかだ。晩年のマーラーの激しい情念のテイストこそ希薄だと感じるが、純音楽的に目覚ましい響きの美しさを獲得していると言って良い。

 ハーディングは75年生まれの、若手と言って良い年代の指揮者だが、しなやかで強靱な曲の運び方には感心した。ウィーン・フィルの美音にもほれぼれする。清涼で、それでいて薄口ではなく、スコアの美しさを存分に堪能できるディスクだと思う。録音も、このレーベル(独グラモフォン)にしては良好だ。

 エリアフ・インバル指揮のフランクフルト放響によるマーラーの第5番が、廉価版それもBlu-specCD仕様で再発されていたので、思わず買ってしまった。86年の録音である。この曲はマーラーの交響曲の中でもよく知られており、特に第四楽章のアダージェットはヴィスコンティの「ベニスに死す」や市川崑の「おはん」といった映画にも採用されているので、クラシックファン以外でも聴いたことがある人は多いだろう。

 インバルの指揮は明晰そのもので、決して感情的に没入しない。レナード・バーンスタイン&ウィーン・フィルのような濃厚な演奏が好きな人にはあまり受け入れられないだろうが、本作の精緻な構築力には大きな説得力がある。だが、このディスクの最大のセールスポイントは録音の良さだ。



 マイクを多数立てて主に編集によってサウンド・デザインを決める通常のマルチ録音とは違い、マイクの数を最小限に抑えて音場の再現性を狙うというワンポイント録音方式を採用している。この方式はヘタをするとボケた音になることもあるが、本作は大成功した部類だろう。深々とした広大な音場がリスニングルームに展開、楽器の定位が明確で、音像も鮮明だ。当初リリースされた際はオーディオマニアの間で随分と話題になったものだが、今聴いても素晴らしい音質である。クラシック入門者にとっても必携盤だと思う。

 セルジュ・チェリビダッケ指揮のチャイコフスキー交響曲第5番が安い価格で再発されていたので購入した。オーケストラは手兵のミュンヘン・フィルで、91年のライヴ録音である。チェリビダッケは生前録音媒体の発売を嫌っていた(晩年近くにはビデオソフトはいくつかリリースされていたが)。そのため一般の音楽ファンにとって実演以外には彼の演奏に接することはほとんど出来なかったのだ。没後にようやく演奏会のレコーディング音源などがディスク化されてきた。このCDはその中でも彼の代表作と言われるものである。



 私はチャイコフスキーの作品はそれほど好きではない。何というか、情緒過多で長く聴いていると胃にもたれてくるのだ(笑)。この交響曲第5番も同様で、第6番「悲愴」に次ぐ知名度がありながら今までCDやレコードの一枚も買ったことがなかった。ただし、このディスクは評論家筋も絶賛しており、また伝説の指揮者チェリビダッケの実相を少しでも知りたいという思いもあり、今回入手した次第。

 実際聴いてみると、なるほど実に聴き応えのある演奏だ。情緒を廃した、純音楽的なアプローチ。テンポは遅めだが、音の厚みは格別。まさに屹立した音の壁がグッと迫ってくるようだ。チェリビダッケの指揮は鋼のように強靱で、最後までテンションが落ちることはない。ミュンヘン・フィルの演奏能力も端倪すべからざるもので、レベルとしてはベルリン・フィルなど他のドイツの一流オーケストラとタメを張れるほど。とにかくこの曲の代表盤であることは間違いない。録音もライヴ盤としては水準をクリアしている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「一枚のハガキ」

2011-08-26 06:30:19 | 映画の感想(あ行)

 99歳の新藤兼人監督のパワーにねじ伏せられそうになる一編である。第二次大戦も終わりに近い頃、中年ながら召集された松山啓太は、戦友の森川定造から、自分が死んだら手紙を読んだことを妻に伝えてくれと言われ、一枚のハガキを託される。やがて森川をはじめ一緒に招集された仲間のほとんどが亡くなるが、内地に待機していた松山は運良く生き残る。

 戦争が終わって帰宅した松山だが、父と妻が“駆け落ち”して家はもぬけの殻になっていることを知り、すべてを放り出したくなった彼はブラジルへの移民を決意。だが、渡航する前に森川との約束を思い出し、彼の家を訪ねる。そこには、未亡人の友子が一人で暮らしていた。

 前半部分に、森川が出征するシーンがある。万歳三唱で送られた次のシークエンスには、遺骨だけが戻ってくる場面が示される。やがて友子は森川の弟と再婚するが、その新しい夫にも赤紙が届き、万歳三唱で送り出される。そしてまたもや帰ってくるのは遺骨のみだ。この有様を舞台劇のようにロングショットで捉えたシーンは(驚くことに)ユーモラスである。

 本当は悲惨極まりない話なのだ。ただそれをストレートに描くよりも、ユーモアのテイストを挿入することにより、単なる悲劇を通り越した不条理性が強烈に印象付けられる。この映画は全編そういう“突き抜けたようなユーモア”に彩られている。実際、客席からも幾度となく笑いが巻き起こった。しかし、言うまでなくそれは地獄を見てきた登場人物達および作者自身の“捨て身の諧謔”なのである。

 松山も友子も戦争によって家族を失い、さらに松山が生き残ったのは上官の引いたクジの結果でしかなく、友子の夫が招集されて彼と同世代の村の顔役が戦争に行かずに済んだのも、ちょっとした“裏の事情”に過ぎない。そんなくだらないことで人の生死が決定されたこと。そして、勝つ見込みが極めて小さい戦争をあえて始めてしまった当時の日本。それを後押しした一般国民。かくも馬鹿馬鹿しい状況が具体的な悲劇として返ってくるなど、まさに“笑い話”ではないか。笑いながら、大粒の涙を流すしかないのだ。

 主演の豊川悦司と大竹しのぶは、完全なオーバーアクトだ。それは演じている本人達も、演出する側もたぶん分かっている。しかし、それを“単なる絶叫芝居じゃないか”と片付けることは絶対に出来ない。戦争という最悪の茶番劇を糾弾するには、それぐらいの感情の高揚がないと逆にウソっぽくなってしまうのだ。過去を捨て去るために、好きなだけ叫べばいい。

 森川役の六平直政、その両親に扮した柄本明と倍賞美津子、コメディ・リリーフである村の実力者を演じた大杉漣、いずれも好演だ。失われた人生からのわずかな希望の象徴として風にそよぐ麦の穂をとらえたラストは、新藤監督の往年の代表作「裸の島」を想起させる。そしてそれは、大震災からの復興を模索する我が国の状況と重なり、しみじみとした感動を呼ぶ。今年度の日本映画を代表する秀作だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「オーロラの彼方へ」

2011-08-25 06:30:46 | 映画の感想(あ行)
 (原題:FREQUENCY )2000年作品。ニューヨークでは珍しいオーロラが輝く夜、主人公の刑事はひょんなことから30年前の生きていた頃の父親と無線で交信出来るようになる。思わぬ奇蹟に陶然となる彼だが、やがて過去と現在とを結ぶ殺人事件の真相が浮かび上がる。時を超えてタッグを組んだ親子の活躍を描くグレゴリー・ホブリット監督作品。

 タイムトラベル物語の一変形ともいえる作品だが、脚本が上手く展開が読めない。何より過去に起きた変化が未来に影響を及ぼし、それが過去に働きかけた未来の出来事も変えてしまうというタイムパラドックスがキチンと絵として示されているのには感心した。

 30年の歳月を隔てた2つの空間を、オーロラと無線機を通して結びつけ、しかもそれぞれを映像面や小道具などで明確に描き分けているのも見事だ。デニス・クエイドとジム・カヴィーゼルの演技も悪くない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ツリー・オブ・ライフ」

2011-08-24 06:28:00 | 映画の感想(た行)

 (原題:The Tree Of Life)今年観た映画の中で、一番つまらない。ただ、ネット上での本作に対する否定的評価を見ると“意味不明で分かりにくい”といったものが散見されるが、私は決してそうは思わない。作者の意図しているものは大方は理解できる。しかし問題なのは、その“作り手の意思”とやらが救いようがないほどレベルが低いことだ。

 1950年代のテキサス。両親と3人の息子からなるオブライエン家は新興住宅地に居を構え、平凡ながらも幸せに暮らしていた。しかし、父親は次第にビジネス的な野心を抱き、家を空けることが多くなる。それと同時に子供達に厳格に接するようになり、長男はこの高圧的な父の態度に反感を抱く。そんな中、次男が若くして世を去り、残された家族は深い悔恨の念にとらわれる。長男が中年世代になった現在、彼は成功して裕福な生活を送っているが、父との関係に今もわだかまりを持っており、事あるごとに少年時代に思いを巡らせる。

 要するに、父親とのコミュニケーションの不全や若い頃の家族の不幸に対して屈託を引きずっている主人公が、何とか折り合いを付けて生きていこうとする話だ。それならそうで、父親のバックグラウンドをはじめとする家族の外面と内実とを長いスパンに渡って丹念に追えばいい。ところが伝説の監督(?)テレンス・マリックは何を思ったか、このミクロな主題を神の目から見たような“壮大な映像詩”に仕立ててしまった(爆)。

 作者から見れば、親子の確執なんてのは、遠い古代から進化を重ねた生物たちの(今のところ)頂点に立っている人類の原罪の一つとでも言いたいのだろう。さらに、冒頭近くの母親のモノローグで綴られる“神を受け入れた者は実直で、反対に世俗に執着するとロクなことにならない”といったようなことは、語るに落ちるような二元論でしかない。

 このオールオアナッシング的な単純な価値観が、一神教を信奉する多くの欧米人のメンタリティなのだろうか。たとえそうだとしても、斯様にあからさまな方法論を映画全体のコンセプトとして採用するというのは、普通赤面ものではないのか。それを得々としてやっているこの作者には“恥を知れ!”と言いたい。

 しかも、前半から延々と続く心象風景的な映像のコラージュというのが退屈きわまりない。これは明らかな「2001年宇宙の旅」の劣化コピーではないのか。それとニュアンスとしてタルコフスキーやケン・ラッセルあたりからの盗用も感じられ、ついでに「ジュラシック・パーク」もどきのシーンも挿入されるに及んでは、脱力するしかない。無駄に長い上に、イマジネーションの欠片もないのだ。クラシックを多用した音楽も、饒舌に過ぎて邪魔なだけ。

 父親役のブラッド・ピットと成長した長男に扮したショーン・ペンは好演で、母親役のジェシカ・チャスティンも悪くない仕事ぶりだ。しかし、映画の出来自体が話にならない以上、評価するわけにはいかない。とにかく、今年度ワーストワンの最有力候補である。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ニッポン国・古屋敷村」

2011-08-23 06:27:05 | 映画の感想(な行)
 81年小川プロダクション作品。監督は三里塚闘争などの記録フィルムで知られる小川紳介。

 舞台は東北の山村。映画はまずこの地方で頻発する作物の冷害についての科学的考察をおこなう。これがすこぶる面白い。実際に山村の地理模型を作り、実験に実験を重ねてついに原因を解明するまでのプロセスがミステリー映画顔負けの巧みな語り口でつづられる。説明に使用する小道具もすべて手作りで好感が持てる。上質の科学ドキュメンタリーを思わせる映画の前半部分。しかし、この映画のスゴイところはそれがこの長大な作品(上映時間は3時間を軽く超える)の序章でしかないことだ。

 おそらくは作者も当初は東北地方の冷害の記録映画として製作しようとしたに違いない。ところが、冷害研究のプロジェクトを組んだ現地のスタッフの家族を紹介したのがきっかけで、映画は“古屋敷”と呼ばれるそのの歴史・風土全体をも巻き込んでいく。

  

 それは住民へのインタビューから始まるが、単なる昔話にとどまらず、たとえば道が切り開かれ、テレビが入り便利になったことが生活を苦しくしたということ、あるいは昭和20年にニューギニアより帰還した元兵士が今でも兵隊ラッパを吹いている姿を画面に映し出すうちに、そこには日本の忘れられた戦後史さえも浮かび上がらせるようになる。

 とにかく、何の変哲もない山村の点描が日本という国の構造・根幹にまで触れる状況にまで発展する構成の大胆さにうなってしまう。

 忘れてはならないのは、この作品を撮るにあたって、スタッフが完全に現地住民と一体化している点だ(当然そうでなければこれだけ突っ込んだ描写が出来るはずがない)。資料によると、村の人々の信頼を得て協力をとりつけるまでに3年かかっているという。つまりこの作品は80年8月から81年7月までの記録であるのだが、それ以前78年から80年までも準備を続け、だからこそ冒頭の科学ドキュメンタリー部分の中でさり気なく平年の稲の開花時期を入れたりして説得力を持たせるのに成功している。地道な努力こそが記録映画製作の大きな要因であることを改めて知ることができる。

 一見ぶっきらぼうとも思われる据えっぱなしのカメラが住民ひとりひとりの内面まで映し出していて効果的。長い上映時間があっという間に終わってしまうドキュメンタリー映画の秀作である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「レベッカ」

2011-08-22 06:26:45 | 映画の感想(ら行)
 (原題:Rebecca )1940年製作で、日本公開は戦後の1951年。アルフレッド・ヒッチコック監督が初めてハリウッドで撮り、アカデミー作品賞を獲得した映画だが、私は今回のリバイバル公開で初めて観た。世評通り、今観ても古さを感じない格調のあるサスペンス編である。原作は「鳥」などで知られるダフネ・デュ・モーリアの同名小説だ。

 金持ちの有閑マダムの秘書をしているヒロインは、雇い主の旅行のお伴として訪れた南仏で、妻に死なれて失意の中にあった英国貴族のマキシムと出会い惹かれ合うようになる。旅行が終わる頃になって、二人はいきなり結婚。そのままコーンウォールにあるマンダレーの大邸宅に新妻として迎えられることになるが、そこは完璧な美貌と知性を誇っていた前妻レベッカの影響下にあった。何かというと前の奥方と比較され、彼女は次第に追い詰められていく。



 レベッカはマキシムの回想場面はもちろん写真ですら映し出されることは無く、最後まで謎の女として扱われているのが効果的だ。そのカリスマ性を象徴しているのが、屋敷を取り仕切っている家政婦のダンヴァース夫人である。無表情で、慇懃無礼を絵に描いたようなキャラクター。いつの間にか主人公の背後に立っているという神出鬼没ぶりは、レベッカの亡霊が乗り移ったような凄味を見せる。

 また、ある意味彼女よりも前妻の存在感を投影しているのが、屋敷の調度の数々である。レベッカが使っていた部屋のインテリアや家具・小物の配置に至るまで、それらは洗練の極を示し、その中で邸宅を支配していた前妻の振るまいが手に取るように分かる。

 ヒロインがマキシムに開催を提案した仮装舞踏会の夜、近くの入り江に打ち上げられたレベッカのヨットが発見されるに及び、単なる事故として片付けられていた前妻の死の真相が物語の中に急浮上してくる。それから後の展開はヒッチコック御大の独擅場だ。水も漏らさぬスリラー演出でグイグイと観客を引っ張っていく。二転三転するプロットを経て、レベッカの頭文字“R”が消えていくラストは深い余韻を残す。

 主演のジョーン・フォンテーンは正統派美人というよりも笑顔の可愛いアイドルスターといった感じで、何も知らない娘が怨念が渦巻く屋敷の中で藻掻き苦しむといった“嗜虐的趣味”の効果を大きくすることに貢献していたと思う(笑)。マキシム役のローレンス・オリヴィエはさすがの存在感。ノーブルな貴族を演じてサマになるのは彼を置いて他にはいないだろう。

 そしてダンヴァース夫人に扮したジュディス・アンダーソンは目の覚めるような(?)怪演。後年のホラー映画によく登場する“謎の老婦人”(なんだそりゃ ^^;)の原型みたいなキャラクター設定だ。これでオスカーを獲得したジョージ・バーンズのカメラワーク、フランツ・ワックスマンの音楽、すべてにおいて見応えのある秀作だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする