元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ダム・マネー ウォール街を狙え!」

2024-02-26 06:08:37 | 映画の感想(た行)
 (原題:DUMB MONEY)同じく金融ネタを扱った快作「マネー・ショート 華麗なる大逆転」(2015年)ほどのインパクトは無いが、これはこれで十分に楽しめるシャシンだ。しかも「マネー・ショート」みたいな専門用語のオンパレードて一般観客を置き去りにするような傾向は無く、誰が観ても作者の言いたいことが伝わってくる。ハジけた演出とキャストの頑張りも要チェックだ。

 2020年、マサチューセッツ州に住む会社員キース・ギルは、赤いハチマキにネコのTシャツ姿で“ローリング・キティ”と名乗り株式投資情報を日々動画配信するという“別の顔”を持っていた。彼はアメリカ各地の実店舗でゲームソフトを販売するゲームストップ社を贔屓にしており、すでに5万ドルも同社の株に注ぎ込んでいた。キースは同社が過小評価されていると訴えると、彼の主張に共感した多くの小口の個人投資家がこの株を買い始め、2021年には株価は爆上がり。ゲームストップ株を空売りして一儲けを狙っていた大口の富裕層は大きな損失を被った。



 この事件は連日ニュースで報道され、キースは気鋭の相場師として持て囃される。出てくる株式用語は“空売り”ぐらいで、もちろんその意味は把握する必要はあるが、それを別にすれば平易な展開だ。もちろん、キースとその支持者の行動はコロナ禍で外出できずに娯楽を求めていた者が多かったという背景を抜きにしては考えられない。

 しかし、本作は株式投資の何たるかを描出している点で、かなりの求心力を獲得している。ゲームストップ株は高騰するが、キースたちは決して株式を売却しないのだ。彼らはゲームストップ社の業態と姿勢を評価しているだけで、単なる投機の道具とは思っていない。個人投資家にとっての株の購入とは、その企業を応援するためのものだ。マネーゲームに対するアンチテーゼを何の衒いも無く披露している点で、たとえエクステリアがイレギュラーであっても、見応えたっぷりの映画に仕上がっている。

 クレイグ・ギレスピーの演出はオフビートのコメディタッチで、観る者によっては“やり過ぎ”と思われるかもしれないが、作品のセールスポイントになっているのは確かだ。主演のポール・ダノは絶好調。お調子者のようで実は熱血漢という、たぶん実物もこういうキャラクターなのだろうという説得力がある。

 ピート・デイヴィッドソンにヴィンセント・ドノフリオ、アメリカ・フェレーラ、ニック・オファーマンといった脇の面子も万全。特に主人公の妻に扮したシャイリーン・ウッドリーが、久しぶりにイイ味を出していた。なお「マネー・ショート」を観た際も思ったが、劇中の法人などは全て実名で表現されているのは感心する。もしも同じような題材を日本映画で扱えば、いらぬ忖度が罷り通って実名も出せない生温いシャシンに終わっていたことだろう。
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「メルヴェの人生更新中!」

2024-02-25 06:09:31 | 映画の感想(ま行)
 (原題:MERVE KULT)2023年6月よりNetflixより配信されたラブコメ編。他愛のない話で、特に高く評価出来る箇所は見当たらない。しかしながら興味深いのは、製作国がトルコだという点だ。トルコ映画といえばユルマズ・ギュネイやヌリ・ビルゲ・ジェイランといった社会派の監督によるヘヴィな作品をまず思い浮かべてしまうが、当然のことながら娯楽方面に向いたライトな映画もあるわけで、本作のようなシャシンの存在を確認出来ただけでも有り難い。

 イスタンブールの下町に住む若い女メルヴェは今まで母親が所有するアパートの家賃収入を頼りに生きてきたが、そろそろ自分自身で人生を切り開きたいと思っていた。そんな折、母親の名義だと思っていたアパートは実は別居中の父親のもので、しかも借金が嵩んでいた父親は物件を売却していたことが発覚。メルヴェ母子をはじめとする住民たちは立ち退きを迫られ、彼女も早急に働き口を見つけなくてはならない。ファッションに興味を持っていたメルヴェは大手アパレルメーカーに飛び込みで求職し何とか採用されたが、そこの若社長アニールは訳ありの人物で、彼女は振り回されるハメになる。



 当初は衝突することが多かったメルヴェとアニールが、やがて互いを憎からず思うようになってくるのだろうと思っていると、実際その通りに展開する。メルヴェの両親の微妙な関係性やアニールの過去との確執などのネタも挿入されるのだが、それほど効果的ではない。アプリを作成して一儲けを企むメルヴェの仲間たちのエピソードに至っては、まさに取るに足らないレベル。

 それでも最後まで観ていられたのは、名所旧跡が一切出てこないイスタンブールの風情ある下町風景と、ヒロインが次々と披露する突飛でカラフルなファッションゆえだろう。ジェマル・アルパンの演出は取り立てて才気走ったところは無いが、登場人物が突然観客の側を向いて独白するシーンなどのギャグのセンスは認めて良い。上映時間を99分にまとめたのも的確だ。

 主演のアーセン・エロールは典型的なファニーフェイスで、登場するだけでお笑いの空気が充満してくる。相手役のオザン・ドルナイも優柔不断な二枚目を上手く演じている。ズハル・オルジャイにフェリト・アクトゥグ、エスラ・アッカヤといった他のキャストはもちろん馴染みは無いが、手堅い仕事ぶりだ。
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「罪と悪」

2024-02-24 06:10:26 | 映画の感想(た行)
 上出来の筋書きとはとても言えず、突っ込みどころは少なくないのだが、最後まで飽きずに付き合えた。これはひとえに“真面目に撮っているから”に他ならない。ここで“何だよ、映画は真面目に作られるのが当たり前じゃないか!”といった反論が来るのかもしれないが、残念ながら昨今の日本映画の多くはそうではないのだ。(特定の)観客層に媚び、スポンサーに忖度し、なおかつ世の中をナメたような不真面目なシャシンが罷り通っているのが現状だろう。対して、本作はそういう素振りがあまり見えないだけでも評価に値する。

 福井県北部にある清水町(現在は福井市に編入)に住む中学生の正樹の遺体が橋の下で発見される。どうやら殺されたようで、彼の同級生である春、晃、双子の朔と直哉は、正樹が懇意にしていた町外れの荒ら家に住む老人が犯人だと思い込む。彼らは老人の住居に押しかけて詰問するが、揉み合っているうちに老人を殺してしまう。春は全ての罪を引き受けた上で老人宅に火を放つ。



 22年後、刑事になった晃が父の死をきっかけに町に帰ってくるが、かつての事件と同じように、橋の下で少年の遺体が発見される。捜査を担当する晃は建設会社を経営する春をはじめ幼なじみと再会するが、それは22年前の悪夢を甦らせる切っ掛けになる。

 暗い過去のある晃が警察官になれるとは常識では考えられないし、前科者の汚名を受け入れた春が社会活動じみた仕事をやっているのも無理がある。また、事件の裏側に晃の上司が暗躍しているらしいってのも図式的で面白味が無い。そもそも、22年前の事件自体の成り立ち自体が牽強付会だ。

 しかし、それらの瑕疵を認めた上で画面から目を離せなかったのは、ドラマの背景がリアルでヘヴィだからだ。山に囲まれ、外界から隔絶されたような町の描写は非凡である。土地から離れない住民も多く、地縁と血縁が一般的モラルを駆逐する閉塞感が漂っている。また、かつての少年たちの家庭環境は酷いもので、その捉え方も切迫しており安易にスルーできない。斯様に舞台設定に手を抜いていないことが、作品がライト方面に向かうことを押し留めている。

 オリジナル脚本を手に長編映画デビューを果たした齊藤勇起の仕事ぶりは荒削りだが、及第点には達していると思う。高良健吾に大東駿介、村上淳、しゅはまはるみ、佐藤浩市、椎名桔平といったキャストは手堅いが、朔に扮する石田卓也のパフォーマンスが見劣りするのは残念だ。なお、撮影と音楽は万全である。
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ローマ展に行ってきた。

2024-02-23 06:08:03 | その他
 2024年1月5日から福岡市中央区大濠公園の福岡市美術館で開催されている“永遠の都ローマ展”に行ってきた。ローマのカピトリーノ美術館に所蔵されている古代ローマ帝国時代から近代までの作品が展示されており、国内では東京以外での開催は福岡だけだ。また、昨年2023年は明治政府が派遣した“岩倉使節団”がカピトリーノ美術館を訪ねてから150年の節目に当たるとかで、それを記念する意味合いもある。



 作品自体に関してはここで素人の私があえてコメントする必要は無いが、それでも目を引いたのがカラヴァッジョによる絵画「洗礼者聖ヨハネ」だ。少年時代の聖ヨハネが観覧者の側に顔を向けて悪戯っぽく笑っている構図で、表情の捉え方はもとより、暗いバックとキャラクターを照らす光が抜群のコントラストを醸し出している逸品だ。何でも福岡展だけの展示とかで、これを見られただけでも足を運んだ甲斐があった。



 なお、一部を除いてすべての展示物が写真撮影可能(ただし、フラッシュ使用や動画撮影は不可)。以前観に行ったミュシャ展もそうだったが、SNSが普及した昨今では、こういう施策が普通になってくるのかもしれない。
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「コット、はじまりの夏」

2024-02-19 06:12:08 | 映画の感想(か行)
 (原題:AN CAILIN CIUIN )子供を主人公にした映画としては、傑出したクォリティだ。実際に第72回ベルリン国際映画祭で子供を題材にした映画が対象の国際ジェネレーション部門でグランプリを受賞し、第95回アカデミー賞の国際長編映画賞にノミネートもされるなど、各アワードを賑わせている。それでいて少しも高踏的なテイストや作家性の押し付けなどは感じさせず、誰が観ても良さが分かる。必見の作品だと思う。

 時代は80年代初頭。アイルランドの田舎町で両親と多くの兄弟姉妹と暮らす9歳の女の子コットは、出産を控えた母親の負担を軽減させるために夏休みの間だけ親戚のキンセラ夫妻の農場で過ごすことになる。元より内気で無口なコットは最初はヨソの家での生活に馴染めないようだが、ショーンとアイリンの夫婦は面倒見が良く、コットはキンセラ家が営む農場を手伝う間に次第に心を開いてゆく。だが、夏休みも終わりに近くなり、コットが家に帰る日が迫ってきた。アイルランドの作家クレア・キーガンの小説の映画化だ。



 コットの父親は甲斐性無しの乱暴者で、母親は夫に逆らえない。やたら多い家族は断じて夫婦が子供好きだったわけではなく、レイプまがいの性交渉の末に母親が妊娠した結果である。それを象徴するかのように、コットの家は薄暗い。反対に、キンセラ夫妻の家は子供はいないが、明るく清潔だ。夫婦はコットがやらかす粗相にも怒らず、躾けるべき部分はしっかりと押さえていく。

 キンセラ夫妻にはかつて男の子がいたが、どうして今はいないのか、その理由が明かされる箇所は観る者の心を揺さぶらずにはおかない。そしてラストでの実家でのやり取りは、本当に感動的だ。コットの将来はどうなるのかは分からない。だが、確実にこれまでの彼女とは違う生き方に踏み出す“はじまりの夏”になったのだ。

 ドキュメンタリー作品を多く手掛けてきた監督のコルム・バレードの腕は確かなもので、余計なケレンや冗長な展開を排して素材にナチュラルに向き合う姿勢に好感が持てる。ケイト・マッカラのカメラによるアイルランドの田園風景は痺れるほど美しく、また室内のシーンにおける陰影の深い画面造型には感服するしかない。

 コット役のキャサリン・クリンチは子供ながらノーブルに整った顔立ちと透明感あふれる佇まいで観る者を魅了する。将来楽しみな人材だ。キャリー・クロウリーにアンドリュー・ベネット、マイケル・パトリックといった大人のキャストも万全。セリフのほとんどがアイルランド語というのも、実に効果的だ。
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「アフター すべての先に」

2024-02-18 06:08:53 | 映画の感想(あ行)
 (原題:AFTER EVERYTHING)2024年2月よりNetflixより配信。各登場人物の関係性がいまひとつ掴めないと思って眺めていたが、実はこれシリーズ物の一作で、本作の前に数本の“前日談”が存在しているということを鑑賞後に知った(笑)。それはともかく、アナ・トッドによる(若者向け)恋愛小説の連作の映画化なので、実にライトな建て付けでそれほどの深みは無い。では全然面白くなかったのかという、そうでもない。含蓄のあるセリフは挿入されているし、何より映像が素晴らしくキレイだ。その意味では観て損したという気はしない。

 英国の若手作家のハーディン・スコットは、デビュー作「アフター」が好評を博したものの2作目が書けず酒に溺れる毎日だ。1年以上のスランプ状態のまま、彼は気分転換を兼ねて過去に付き合いのあったナタリーの住むリスボンに向かう。ハーディンには「アフター」執筆時にテッサ・ヤングという恋人がいて、小説の内容が彼女との関係性を赤裸々に綴っていたものらしく、そのためテッサは彼の元を去って行った。だがハーディンは彼女のことを忘れられず、それがスランプの原因の一つでもあったのだ。リスボンでも新作の構想は浮かばず鬱屈した日々を送るハーディンだが、あるトラブルを切っ掛けに再起を図ることになる。



 どう見てもハーディンは文才のあるような男とは思えないし、彼の仲間たちにしてもチャラチャラした軽量級の奴らばかり。加えて前作までに語られていたらしい人物関係がハッキリしないので、序盤は(個人的には)盛り上がらないままだ。しかし、舞台がリスボンに移ってからはイッキに目が覚める。

 ミュージック・ビデオを数多く手掛けたジョシュア・リースのカメラによるポルトガルの風景は、ため息が出るほど美しい。赤い屋根の住宅が続き、市電が走るリスボンの市街地。そして陽光がきらめく海岸の景観など、観光用フィルムも顔負けの仕上がりだ。この映像だけでも本作に接する価値はある。

 荒んでいたハーディンの内面が、ナタリーをはじめとする周囲の人間によって徐々に改善していく様子は、型通りとはいえ悪くはない。そして、父親が彼に言う“たとえ結果として上手くいかなくても、真心を込めて全力でやれれば、それで「成功」なのだ”というセリフは、けっこう刺さった。カスティル・ランドンの演出は可も無く不可も無し。ハーディン役のヒーロー・ファインズ・ティフィンをはじめ、ジョセフィン・ラングフォード、ミミ・キーン、ベンジャミン・マスコロといった若手キャストは馴染みは無いものの、良くやっていると思う。
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「カラフルな魔女 角野栄子の物語が生まれる暮らし」

2024-02-17 06:07:06 | 映画の感想(か行)
 「魔女の宅急便」で知られる児童文学作家の角野栄子(1935年生まれ)の日常に、4年間にわたって密着したドキュメンタリー。興味深い部分はあるし、終盤の展開は感動的なのだが、物足りなさも残る。元ネタは2020年から2022年にかけてEテレにて全10回で放送された同名番組であり、それに追加撮影と再編集を施して映画版として完成させたものだが、やはり最初から一本の劇場用映画として製作されたものとは勝手が違うようだ。

 まず目を奪うのは、角野が住む鎌倉の自宅の造型だ。すべてが“いちご色”の意匠に囲まれ、まるで御伽の国の世界である。彼女自身の外見もブッ飛んでいて、徹底的にカラフル、そしてマンガチックなメガネをトレートレマークにしている。なるほど、表現者というのは程度の差こそあれ常人の美意識を超越しているものだと感じ入ったのだが、彼女は若い頃はそのような身なりはしていない。普通の(カタギの ^^;)女性にしか見えないのだ。ならばどうして今のような境地に至ったのか、映画ではそれについて言及していない。



 また、彼女は1958年ごろにインテリアデザイナーの男性と結婚しているが、夫とは共にブラジルに2年間滞在したことが述べられているだけで、彼が角野の仕事にどう影響を及ぼしたのか、そして旦那はどうなったのかも描かれていない。大事なことが押さえられていないまま映画は中盤過ぎまで進むので、観ている側としては退屈だった。

 しかしながら、ブラジルで世話になった少年が角野に会いに来るラスト近くのエピソードは良かった。あれから長い時間が経ち、かつての少年も年老いてしまったが、それでも2人の絆は失われていない。さらに、共に訪れる江戸川区の角野栄子児童文学館の造型の素晴らしさには唸ってしまった。隈研吾が設計を担当したとのことだが、国立競技場よりも良い仕事なんじゃないかと、勝手なことを思ってしまう(苦笑)。一度は足を運んでみたいものだ。

 監督の宮川麻里奈はテレビ版でのディレクターでもあるが、まあ無難にこなしたというレベルだ。藤倉大の音楽は万全で、以前手掛けた「蜜蜂と遠雷」(2019年)よりも良い。ナレーションは宮崎あおいが担当。キュートな声が角野の作品世界とマッチしていた。
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「ミス・シャンプー」

2024-02-16 06:08:57 | 映画の感想(ま行)

 (英題:MISS SHAMPOO)2023年12月よりNetflixから配信された台湾製の犯罪映画仕立てのラブコメ編。紹介映像は面白そうで、実際開巻20分程度は楽しめるのだが、あとは緩すぎる展開が続くばかりで大して盛り上がらないままエンドマークを迎える。クレジットをよく見ると、監督が日本版リメイクも製作された「あの頃、君を追いかけた」(2011年)のギデンズ・コーだ。あの映画は本国ではヒットしたらしいが、個人的には受け付けなかったことを思い出した。鑑賞前に気付くべきだったと反省するばかり。

 台北の下町にあるヘアサロンに、ある嵐の夜、ケガをしたヤクザ者の男タイが転がり込んでくる。謎の刺客にボスを殺され、自分も危うい状況になったタイは、追手から逃れるために近くにあったその店に飛び込んだのだ。美容師見習いのフェンに介抱されて一命を取り留めた彼は、彼女に惚れてしまう。すると後日、彼は子分どもを引き連れてサロンに通うようになり、フェンを口説き落とそうとするのだった。何となく良いムードになってくる2人だが、タイが仕切る組を完全に潰そうとする勢力は徐々に魔の手を伸ばしてくる。

 ごく普通の家庭で育ったフェンと、少年時代から極道の世界に身を置くタイ。そのギャップが興趣を呼ぶのは確かで、序盤はその関係性だけで笑いが取れる。しかし、タイがフェンに真剣な交際を迫ったり、敵対勢力の動向を描かなければならない中盤以降になってくると、気合の入らない凡庸なモチーフが積み上げられるだけで一向にドラマが進展しない。

 そもそもヘアサロンを舞台にしていながら、美容に関するウンチクがほとんど披露されないのは失当だろう。かといって、ヤクザの抗争劇が迫力あるわけではなく、アクション場面も見るべきものは無い。フェンが心酔するプロ野球選手に関するネタにしても、今ひとつ工夫が足りていない。ラストシーンに至っては“何じゃこりゃ”と言いたくなるレベルだ。

 それでもタイ役のダニエル・ホンは長編映画初出演とは思えない存在感を発揮しているし、フェンに扮するビビアン・ソンも「私の少女時代 OUR TIMES」(2015年)に続いてキュートな魅力を振りまいている。ただし、それ以外のキャストは弱体気味で、あまり印象に残らない。それにしても、エンドクレジット表示時の“悪ノリ”には苦笑した。やること自体は問題ないが、もっと上手くやって欲しかったというのが本音だ。
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「自転車泥棒」

2024-02-12 06:09:16 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Ladri di Biciclette )1948年作品。第二次世界大戦後のイタリアで作られたネオレアリズモ映画の代表作。昔テレビ画面で鑑賞したような記憶があるが、今回私は福岡市総合図書館にある映像ホール“シネラ”での特集上映にて、初めてスクリーンで観ることが出来た。話自体は重苦しいもので、描きようによっては悲惨なだけのダークな映画になったところだが、一方で力強さや突き抜けたような明るさも存分に感じられる。かなり奥行きの深い、語る価値のある作品かと思う。

 戦争が終わって数年経った頃のローマ。経済は回復しておらず、町には失業者が溢れていた。そんな中、2年間も職を得られず職安に通い詰めていたアントニオ・リッチは、ようやく役所のポスター貼りの仕事を得る。業務には自転車が必要だが、あいにく自前の自転車は質入れ中。そこで妻のマリアが家のベッドのシーツを質に入れ、その金で買い戻す。意気揚々と仕事に出かけたアントニオだが、初日に自転車が盗まれてしまう。自転車が無ければまた職を失うことになり、彼は6歳の息子ブルーノと一緒に自転車を探し回る。

 ほぼ全編でロケーション撮影が敢行され、雰囲気はドキュメンタリーに近い。主人公を襲う逆境の数々には観ていて身を切られる思いだ。警察に届けても“自分で探せ”と言われるだけ。町で犯人らしき者を見かけて追いかけるが空振りに終わる。ついには当初バカにしていた、マリア行きつけの占い師に頼み込む始末。アントニオの、絵に描いたような小市民ぶりには共感できるし、そんな父親を慕うブルーノの純情には泣かされる。

 ただし、決してシビアな展開ばかりではない。主人公の困窮に何とか手を貸そうとする友人のバイオッコとその仲間たちの心意気には胸を打たれるし、終盤に切羽詰まったアントニオが起こした不祥事に対する“被害者”の配慮は有り難いとしか言えない。それに、犯人らしき者が住む地域の住民の結束や、資本家の横暴に対する労働組合の存在感など、地元のコミュニティがしっかり機能していることが明示されている。この共同体の存在が戦災からの復興を予想させて、鑑賞後の心象は重いものではない。

 ヴィットリオ・デ・シーカの演出は見上げたもので、モチーフを無理なく配置して主人公たちの境遇を的確に映し出す手腕には感服した。キャストはプロの俳優を使わず素人を起用しており、アントニオに扮するランベルト・マジョラーニは失業した電気工で、ブルーノ役のエンツォ・スタヨーラは監督が街で見つけ出した子供だ。リアネーラ・カレルやジーノ・サルタマレンダといった脇の面子もプロ顔負けのパフォーマンスを披露している。

 なお、終映後に何とメイキング映像が挿入されている。撮影風景やキャストに対する監督の演技指導の様子などが示され、これが実に面白い。驚いたのは、エキストラに当時19歳のセルジオ・レオーネが参加していることで、彼がこの十数年後に娯楽映画史上に残る快作の数々をモノにすることを考えると本当に感慨深い。
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「哀れなるものたち

2024-02-11 06:28:08 | 映画の感想(あ行)
 (原題:POOR THINGS )ヨルゴス・ランティモス監督の前作「女王陛下のお気に入り」(2018年)よりはマシな出来映え。少なくとも最後まで退屈せずに付き合えた。ただ、世評通りに大絶賛するわけにはいかない。とにかく、物足りなさが全編を覆う。その原因はいろいろと考えられるが、一番大きなポイントは、鑑賞する前に私はアラスター・グレイによる原作を読んでいたことだろう。両者があまりにも違うので、面食らってしまったというのが正直な感想だ。

 ヴィクトリア朝時代のスコットランドのグラスゴー。若い人妻ベラは人生を悲観して川に身を投げる。天才外科医ゴッドウィン・バクスターはその遺体を引き取り、妊娠中だったベラのお腹にいた胎児の脳を移植し、彼女を奇跡的に蘇生させる。ベラは驚くべきスピードで“成長”を遂げるが、広い世界を自分の目で見たいという欲求に駆られ、放蕩者の弁護士ダンカン・ウェダバーンに誘われて大陸横断の旅に出る。



 悩み多き人生から解放されるが如く生まれ変わったヒロインが、いろんな経験を積んで徐々に魅力を会得していくという、簡単に言えばそういう話だ。彼女の体験の中で大きなウェイトを占めるのがパリの売春宿で働いたことで、映画の中でも大きな尺を取られている。ところが、原作ではこのパートは大して重要なモチーフではない。

 それどころか、小説版ではベラがゴッドウィンの手によって生き返るという物語の発端自体が怪しいものとされている。それが明らかになるのは、小説が一度エンドマークを迎えた後に展開する“もうひとつの物語”に示されていることで、ハッキリ言ってこの“パート2”の方が、それまで語られていたことよりも数段面白いのだ。

 対してこの映画版は、フランケンシュタインの亜流みたいな設定は別としても、性遍歴によって無垢な女性が一皮剥けるという、まるで「エマニエル夫人」みたいなシンプル過ぎる構図しか見えてこない。終盤になると話はどんどん在り来たりになって、単なるSFファンタジー編にしか思えなくなる。

 ランティモスの演出は前回とは違って弛緩せずに何とか場を保たせているが、仰々しく展開する奇態なセットや美術に頼り切りの感があり。そのセンスも、既視感が強い。私のように無駄に映画鑑賞歴が長いと、テリー・ギリアムやピーター・グリーナウェイ、デレク・ジャーマンあたりの作品群との類似性ばかりが気になってしまう(まあ、ホリー・ワディントンによる衣装デザインだけは良かったけどね)。

 主演のエマ・ストーンはとても頑張っている。しかし。ここまで“身体を張る”必要があったのか疑問だ。加えて、R18指定ならではの性的シーンの釣瓶打ちは、困ったことに少しもエロティックではない。マーク・ラファロにラミー・ユセフ、クリストファー・アボット、スージー・ベンバ、キャサリン・ハンター、マーガレット・クアリー、ハンナ・シグラといった脇のキャストも印象に残らず。評価に値するのはゴドウィンに扮したウィレム・デフォーの怪演ぐらいだろう。
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