元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「鴛鴦歌合戦」

2011-01-31 05:58:50 | 映画の感想(あ行)
 タイトルは「おしどりうたがっせん」と読む(説明するまでもないが ^^;)。昭和14年製作の、マキノ正博監督による時代劇ミュージカル。世評通りの、無類の楽しさを持つ映画だ。

 飄々とした片岡千恵蔵の素浪人を始め、志村けんのバカ殿様も真っ青のディック・ミネのアホ殿様、骨董マニアの脳天気なオヤジに扮する志村喬、それに市川春代や深水藤子、服部富子といった華やかな女優陣が何の衒いもなく伸びやかに歌声や踊りを披露しているのを見ていると、こちらも嬉々とした気分になってくる。

 宮川一夫による流れるようなカメラワーク、角井嘉一郎と長谷川繁吉による完成度の高い舞台セット(特に画面一杯に広がるカラフルな唐傘は絶品)、そして大久保徳二郎の手によるウキウキするような音楽。昨今のインド製娯楽映画などメじゃない、全盛期のMGMミュージカルに匹敵するヴォルテージの高い作品を生み出していた時期が日本映画にもあったのだ。

 それにしても、このような映画を“戦争直前の暗い世相に対する現実逃避としての明朗快活さ”と断じる評論があるのは小賢しい限りである。戦前は我々が思っているほど「暗く」はなかったはずだし、世相がどうだろうと、明るく楽しい映画は支持されて残っていくのだ。それが娯楽というものなのだ。
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「エリックを探して」

2011-01-30 06:52:51 | 映画の感想(あ行)

 (原題:Looking for Eric)ケン・ローチ監督にしては珍しい甘口のヒューマン・コメディだが、ソツのない作劇で楽しめる。勝因は、かつてマンチェスター・ユナイテッドで活躍した名選手エリック・カントナが本人役で出演しており、しかも主人公の“心の声”を代弁しているというモチーフにある。イギリスの下層階級民の最大の娯楽であるサッカー、そのプレイの極意を人生の指針に重ね合わせる平易な語り口と、有名プレイヤーをイレギュラーな設定で登場させる凝った作劇とが、玄妙な面白さを醸し出している。

 主人公は二度の結婚に失敗し、今は二番目の妻が“置いていった”二人の高校生の息子と一緒に暮らしている中年男。しかも子供達は完全にドロップアウトしていて、そのだらしない生活態度を注意すれば逆ギレされて、満足に言い返せずにスゴスゴ退散。仕事面でも風采の上がらぬ郵便局員に過ぎない。どこから見ても完全なダメ親父である。

 彼も若い頃はダンス競技会でブルーのスウェードの靴を履き、颯爽とした出で立ちで最初の妻をゲットしたのだが、今ではその面影はない。ところが上の息子が街のギャングと関わり合いを持ってしまったことから、切迫した事態に突入。彼は重大な決断をしなければならなくなる。

 印象的なのは、エリック・カントナの“アドバイス”を頼りに打開策を探っていくうち、彼は自分が思っているような救いようのない男ではなく、実はそれなりに恵まれた人間であることを自覚することである。

 カントナが考えるベスト・プレイは、ゴールに突き刺さる華麗なシュートではない。ゲームを形成するための、味方へのパスにある。そう、主人公には“味方”が付いていたのだ。それは、普段はグチを言い合っているだけの仲だと思っていた職場の同僚達であった。そして、ロクでもない息子達も、別れた最初の妻と、その間に出来た娘も、彼の“味方”だったのだ。

 彼らが一致団結してギャングに立ち向かう終盤のシークエンスは痛快そのもの。確かに現実離れしているが、ファンタジー仕立てなのでさほどの違和感もない。人間、不幸を憂うばかりでは何も前に進まない。落ち着いてじっくりと周囲を見渡してみれば、人生それほど捨てたものではないことが分かるはずだ。

 自分の“味方”は必ずいる。作者のそういうポジティヴな視線が快い映画だ。主演のスティーヴ・エベッツをはじめ、キャストは皆(それほどメジャーではないが)味がある。ローチ監督の、サッカーとそれを愛する名も無き庶民に対する愛情が感じられる佳編と言えよう。
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「阿修羅のごとく」

2011-01-29 07:20:08 | 映画の感想(あ行)
 2003年作品。向田邦子の原作を森田芳光が映画化。年老いた父に愛人と子供がいるというのことを知って驚く四姉妹の、それぞれの人物群像を追う。
 
 登場人物がモノを食べるシーンがやたら多い。そして言い争って何かをひっくり返す場面も目立つ。取り込み中に電話が掛かってくる展開も頻繁に繰り返される。ただし、これらのシーンはまったく面白くも可笑しくもない。いわば年輩コメディアンの「お約束芸」みたいなもので、単なる場面を繋ぐだけの「記号」でしかない。

 そんな表面的なくすぐりで場を保たせようとしているだけの、きわめて薄っぺらいシャシンだ。演技陣の臭い小芝居(悪ノリ)の連続に辟易し、テレビドラマ以下のベタな展開に大あくび。正面切った情念や葛藤の描写とは無縁の森田演出は、以前の「失楽園」と同様の失敗を再現しているに過ぎない。

 また、場面設定でキャラクターの内面を描くことができず、苦し紛れにセリフで蕩々と主題を語らせているあたり、脚本担当の筒井ともみは相変わらずの無能ぶりを露呈させている。

 長女役の大竹しのぶをはじめ、黒木瞳、深津絵里、八千草薫 、仲代達矢、小林薫といった多彩なキャストを揃えていながら、良いところをほとんど出していないのには、逆の意味で“感心”してしまう。強いてあげれば深田恭子の(この頃の)肥満ぶりに閉口した程度だろうか(笑)。昭和55年前後の風俗だけは上手く再現しているとは思うが、とにかく忘れたい映画である。
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「わたしの可愛い人 シェリ」

2011-01-28 06:33:13 | 映画の感想(わ行)

 (原題: Cheri )舞台設定の説明に終始した序盤こそ冗長だが、次第に達者なキャストの“腹芸”に引き込まれ、結果として観賞後には決して小さくはない満足感を得ることが出来た。ベテランのスティーヴン・フリアーズ監督の円熟味を堪能する一編である。

 20世紀最高の女性作家と言われるコレットの代表作「シェリ」(私は未読)の映画化。1906年のパリ。主人公のレアは19世紀末の華やかだったベル・エポックの時代に生きた元高級娼婦である。全盛期には稼ぐだけ稼ぎ、50歳に手が届こうとする今では引退して悠々自適の生活だ。そんな彼女が、元“同僚”でもあるマダム・プルーから、19歳の一人息子シェリの面倒を見てほしいと頼まれる。

 シェリはおよそ考えられる限りの道楽をやり尽くし、この若さにして人生に飽き飽きしているような奴だ。マダム・プルーは、修羅場も体験してきたレアに息子を叩き直してもらい、マトモで金を稼げる男にしたいのだ。当初数週間のつもりで“軽くあしらう”つもりだったレアだが、逆にシェリに惹かれてしまう。

 要するに本当の恋愛をしたことがなく金儲けのことだけ考えて中年になってしまった女が、思いがけず魅力的な年下の男に出会って“よろめいて”しまったという話だ。これを下手な演出家が手掛けると冗長なメロドラマにしかならないが、さすがコスチューム・プレイでは定評のあるフリアーズ監督、堂に入ったキャストの動かし方で説得力のある作劇を達成している。またそれに応える俳優陣の頑張りも素晴らしい。

 レアを演じたミシェル・ファイファーは、セレブを気取りながらも胸のときめきを抑えられない女心をヴィヴィッドに表現。終盤、思わず我に返って鏡を見つめ、自分がもう若くはないことを自覚するようなショットなど絶品だ。

 シェリ役のルパート・フレンドも一見軽佻浮薄ながら、実は苦悩を抱えている若者像をナイーヴに好演。ドラマが進むほど内面描写に磨きが掛かってゆくのが見ものだ。シェリのその後の運命も十分に納得出来るものがある。マダム・プルーに扮するキャシー・ベイツは相変わらずの海千山千ぶり。

 特筆すべきは衣装や美術で、アールヌーボー・スタイルの小道具・大道具、ヒロインが身にまとうハイセンスなドレス等は、その方面に興味のある人ならば一層楽しめるだろう。ダリウス・コンジによるカメラワークもなかなかのもので、観る価値十分の佳作である。
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「YMCA野球団」

2011-01-27 06:36:57 | 映画の感想(英数)

 (英題:YMCA Baseball Team)2002年作品。私は第17回の福岡アジア映画祭(2003年)で観た。20世紀初頭、野球黎明期の韓国で日本軍の野球チームに挑戦した人気アマチュアチームを描くスポ根コメディ。主演のソン・ガンホが以前主役を演じた「反則王」とよく似たテイストを持つ映画だ。

 一本気な主人公が、やったこともないスポーツにハマって、やがて徒手空拳で強豪に立ち向かうようになる。その奮闘ぶりが笑いを呼ぶ。特にラスト近くのチームがピンチに陥った時に颯爽と登場する場面は、本人が大真面目なだけに哄笑の嵐である。

 キム・ヒョンソクの演出は派手さはないが、丁寧で好感が持てる。主人公達が野球をやり始めるプロセスも無理なく描かれているし、何より茶系をメインとしたノスタルジックな画面作りが印象的。

 また、日本軍人役として伊武雅刀と鈴木一真も出演している。韓国映画で日本の俳優を見るのは当時は初めてだったが、日本人をそれほど悪し様には描いておらず、最後まで単なる“主人公達のライバル”として扱っているのは気持ちが良い。

 舞台挨拶に立った監督もそのことについて“私が作りたかったのはスポーツ映画であり、イデオロギーとは無縁でありたい”という意味のコメントを述べていたが、冷静な態度だと思う。
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「アンストッパブル」

2011-01-26 06:36:36 | 映画の感想(あ行)

 (原題:Unstoppable )楽しんで観ることが出来た。2001年にオハイオ州で発生した機関車暴走事故を下敷きにした本作(映画ではペンシルバニア州に変更)、何より上映時間が1時間39分というコンパクト・サイズなのが良い。

 昔のパニック映画みたいに、グランド・ホテル形式に登場人物をズラッと並べて各人のプロフィールを綴るというやり方を取っていない。中心人物を絞り、人物背景もそこそこに爆走する機関車とそれを止めようとする関係者とのバトルに素早くなだれ込む。この割り切り方が潔い。

 いつも仕事に手を抜く運転士のブレーキ操作のミスで動き始めた無人の貨物車は、勝手にギアが“力行”に入ってしまいスピードアップ。踏切に突っ込んでトレーラーを破壊し、鉄道会社や当局側の手だてをことごとく粉砕しつつ、引火性の化学物質を満載したまま市街地へと突き進む。

 主人公はリストラを言い渡されたベテラン機関士と入社間もない若い車掌の2人が設定されているが、本当の主役は機関車そのものだろう。トニー・スコット監督らしい、複数のカメラで被写体を捉えて細かいショットをどんどん積み重ねて迫力を出そうという、ケレン味たっぷりの映像構成がかなりの効果を上げている。

 こいつを止めようとする方法が、別の機関車を背後に連結させて引っ張ろうという、いかにも単純明快で力ずくなのが嬉しい。ヘタに小細工をすると、その段取りの説明に余計な上映時間が取られるからそれを避けたとも思われる。賢明な判断だ。また、事態の対処に当たる現場司令室と会社役員との軋轢を通して、効率一辺倒な現代アメリカのビジネス事情を批判するという配慮も忘れてはいない。

 主演のデンゼル・ワシントンはT・スコット監督の前作「サブウェイ123 激突」に続いての登板だが、前の運行司令から運転士役に回っているのは何となく可笑しい。相棒の車掌役はクリス・パインが扮している。「スター・トレック」でのカーク役はあまり印象に残っていなかったが、今回は生意気な新入りの若造を伸び伸びと演じている。

 もちろん、この“ベテランと若手”のコンビは数多くの刑事ドラマ等で取り上げられてきた定番のキャラクター配置であり、その意味でも安心して観ていられる。そして、どちらも女性に手を焼いている(運転士は大学生の娘たち、車掌は別居中の嫁さん)という設定になっているのがケッ作だ。冗長になりそうなエピローグも手早く切り上げ、観賞後の満足感はかなり高い。ハリー・グレッグソン=ウィリアムズによる小気味良い音楽も要チェックだ。
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「ティアーズ・オブ・ザ・サン」

2011-01-25 06:34:30 | 映画の感想(た行)
 (原題:Tears of the Sun)2003年作品。内戦下のナイジェリアからアメリカ国籍の女医を救出せよとの命令を受けたアメリカ海軍特殊部隊の隊長(ブルース・ウィリス)が、思わぬ出来事によって“個人的な戦闘”に身を投じていく様子を描く。

 ウィリスみたいな内面的演技の出来ない俳優にこういう役を振ってはいけない。百戦錬磨の米海軍特殊部隊の隊長が、現地軍による狼藉を目撃したぐらいで(ここであえて“ぐらい”という表現を使わせてもらう)、急に博愛精神に目覚めて命令違反をおこなうなどという御都合主義的な展開を押し切るためには、主人公の中で起こったであろう決定的なパラダイムの転換(モニカ・ベルッチ扮する女医の色香に迷ったわけでもあるまいに)を描ききらなければならないはずだが、元より大根のウィリスには無理な相談である。

 しかも、軍紀違反を犯したせいで自軍に少なからぬ犠牲者が出たという不祥事に対して議会やアメリカ世論が簡単に納得するはずがないことを考え合わせると、この設定には最初から無理がある。

 監督のアントワン・フークアは黒人であるせいか、アフリカとその原住民に対して思い入れがあるのは分かるが、ここではそれが過剰であり、時として鬱陶しい。戦争アクションとしての段取りも下手で、ラストの戦闘シーンなどただ銃を撃ちまくっているだけで何の工夫もない。

 冷戦以降のアメリカ軍の働きを描いた映画としては「ブラックホーク・ダウン」や「エネミー・ライン」に及ばない、低調な出来と言わざるを得ないだろう。
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「ばかもの」

2011-01-24 06:43:07 | 映画の感想(は行)

 凡作である。金子修介監督としては初めてコミック原作でもおちゃらけでもアイドル物でもない“普通の劇映画”に挑戦した作品になるが、結果は彼の不得意分野を再認識しただけに終わっている。

 彼の得意技は“映画のマンガ化”だ。たとえ原作がすでにマンガであっても、金子はさらに映画をマンガチックに再構築するような製作姿勢を前面に出す。実写用にデフォルメされたような作劇は深みこそないが、それだけ主題の表出に関してはシンプル化されることになり、平易でメリハリを付けたドラマツルギーが可能になる。

 しかし、今回の題材は芥川賞作家・絲山秋子の同名小説だ。絲山の小説は以前「逃亡くそたわけ 21才の夏」が本橋圭太監督によって映画化されているが、あの作品にあったファンタジー風味のストーリーがこの「ばかもの」には微塵もない。つまりは純然たる“文芸作品の映像化”にリアリズム路線で取り組む必要があったわけだが、これほど金子の資質に合わない企画もないのである。失敗するのも当然なのだ。

 群馬県の三流大学に通う19歳のヒデは、偶然出会った強引な年上の女・額子と成り行きで付き合い始める。一時は額子の部屋に毎日通うほど夢中になるヒデだったが、ある日彼女は“別の男と結婚する”と言い残して彼の前から去る。それから10年の歳月が流れ、その間にヒデは新しい恋人も得たことがあったが、心のどこかで額子が忘れられず、それを紛らわせるように酒に溺れていく。ようやくアルコール依存症から脱した彼は、事故で大怪我を負った額子と再会するのだった。

 長いスパンに渡って男女の感情の機微を追うという純文学的なアプローチは、やっぱり金子には合っていない。たとえて言うならば、ヘタな漫画家が既存の小説を無理矢理に劇画化したような情けなさが全編に漂っている。とにかく各キャラクターの掘り下げが浅い。各登場人物の内面をきめ細やかに描出しないとサマにならない題材であるにもかかわらず、誰も彼もが“脚本通りにやりました”という義務感しか表に出せていない。

 主演の成宮寛貴は頑張ってはいる。しかし、肝心のアル中演技がなっていない。前に観た「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」の浅野忠信と比べれば、まるで子供の演技と言うしかない。ヒロイン役の内田有紀も頑張っている。けれども、元より役作りのキャパシティが小さい彼女にとって“演じる努力はしている”ということを見せることは可能でも“役に成り切る”ことは無理なのだ。

 よって、演出と題材とのアンマッチをキャストのパフォーマンスでカバーするという戦術も成り立たない。おかげでラストなんかカタルシスの欠片も感じられない。金子監督としては、もう一度自分の適性を顧みることが大事かと思われる。
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「現実の続き 夢の終わり」

2011-01-23 06:57:51 | 映画の感想(か行)
 (原題:A Chance to Die )2000年日本=台湾合作。マフィアの抗争に巻き込まれて命を落とした恋人の敵を討つために台湾に渡った日本人女性を描く活劇篇。監督はチェン・イーウェン。

 台北で地元のマフィアと日本のヤクザとの取引現場が何者かに襲われ、大金を奪われた上に日本人麻薬ブローカーが殺される。訃報を聞いて台湾にやってきた彼の恋人は犯人グループへの復讐を誓うが、やがてマフィア内部の勢力争いにより彼女自身が危ない立場に追いやられてしまう・・・・という話だ。

 当時松竹をクビになった奥山プロデューサーが手掛けているが、出来はどうにも話にならない。支離滅裂で御都合主義の筋書きは御愛敬としても、キャラクターに魅力が皆無でアクションもまるでダメ。チャン監督の腕前も三流と言うしかない。

 ヒロインに水野美紀が扮しているが、元々はアクションも十分にこなせる彼女が久しぶりに本領を発揮できるネタであるはずなのに、これでは不本意極まりない。何のために作られたのかわからない映画である。
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「海炭市叙景」

2011-01-15 07:35:50 | 映画の感想(か行)

 現在の日本社会を覆う閉塞感をヴィヴィッドに描出した力作である。原作は佐藤泰志の連作短編集。佐藤は函館市出身の小説家で、若い頃からその達者な筆力でさまざまな文学賞の候補になるが、とうとう芥川賞にも三島由紀夫賞にも(最終選考には何度も残るものの)届かずに、41歳にして自らの命を絶ってしまう。ただし、地元の函館市には今も彼を慕う人たちがけっういて、この映画は彼らが出資して作り上げた映画である。

 舞台は“海炭市(かいたんし)”という架空の街だが、モデルもロケ地も函館市である。函館には一回しか行ったことがないが、私が子供の頃に何年か過ごした長崎市とよく似た雰囲気を持つ街だという印象を持っている。それは港町らしい開放感と、異国情緒を兼ね備えた明るい土地柄の雰囲気である。映画でも「キッチン」や「つむじ風食堂の夜」といった幾分浮世離れした題材の作品がよく似合う。

 しかし、本作に描かれる函館市は恐ろしく暗い。造船所をリストラされた若い兄妹の悲運や、女房に浮気されているプラネタリウムの経営者の鬱屈、再開発で立ち退きを強いられている老婆の捨て鉢な態度、ストレスから家庭内暴力に走るプロパン配給業者など、描かれている人物達も題材も陰鬱なものばかりだ。外界に通じているはずの海も、彼らを閉じこめる“自然の牢獄”でしかない。

 監督は同じ北海道出身の熊切和嘉で、ダメ人間を描いてきた彼の作風にマッチした素材だが、今回ばかりは救いがない。それは原作がそうであるからということだけではなく、ここに描かれていることは厳然たる真実だからである。

 不況により地方はどんどん切り捨てられ、そこに住む者は難儀を強いられている。どこか別の場所に行こうにも、それぞれのしがらみを負っている者達にとっては無理な相談なのだ。景気が良ければ他に選択肢もあるだろう。しかし、今の状況では自らが握りしめているほんの僅かなものにしがみつくしかない。それを手放して新規撒き直しを図るには、あまりにも状況はヘヴィなのだ。

 こういう逃れようもない先細りの未来を迎えなければならない絶望感を、一点の曇りもなく活写した熊切監督の覚悟と求心力には瞠目させられるばかり。暗いモチーフばかりなのに、スクリーンから目が離せない。いくらマイナスのオーラを漂わせている題材であろうと、作る者のメッセージの強さがあれば、映画的興趣として昇華されるのである。

 谷村美月や竹原ピストル、加瀬亮、南果歩、小林薫といったキャストも万全で、寄る辺ない人物像の数々を画面上に焼き付けている。観ていて楽しい映画ではないが、我々が生きている社会の実相をレアな形で再認識するには絶好の作品だ。
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