94年作品。気合いの入った国産娯楽映画の快作である。鶴屋南北による「四谷怪談」の原作では主人公の民谷伊右衛門は赤穂の浪人という設定で、歌舞伎でも「忠臣蔵」と「四谷怪談」は交互に上演されていたという。
松の廊下での刃傷沙汰の一件で赤穂藩は取り潰され、藩士は浪人となって仇討ちの機会をうかがっていたが、彼らの中には自暴自棄と無力感が渦巻いていたのは間違いないようで、その代表として伊右衛門を登場させている。少年時代に辻斬りで生計を立てていた彼にとって、忠義のために人を殺すことは何でもないが、元主君の仇を取っても破滅は目に見えている武士の在り方に馴染めない。対して日々平和に生きる庶民を代表するのが高岡早紀扮するお岩である(原作では武家の娘であったお岩を気のいいソープ嬢にした設定は正解だ)。
悶々とした生活を送っていた伊右衛門は屈託のない彼女との平穏な暮らしに安らぎを得るが、仇討ちを控えた自分の立場と浮き世への未練とに板鋏みになり、半ばヤケ気味に吉良の家臣の娘お梅の誘いに乗ってしまう。この伊右衛門の屈折したニヒリズムと自虐性がこの作品での「四谷怪談」の真骨頂と言えるが、「忠臣蔵」の部分にもそれが大きく照射されているところが面白い。
仇討ちは美徳でも何でもない。津川雅彦演ずる大石内蔵助は着々と討ち入りの計画を立てながらも、夜ごと刹那的な豪遊にふける。彼も仇討ちは集団自殺に過ぎないことを知っている。それでも武士である以上、そうせざるを得ないジレンマが彼を悩ます。破滅に向かってひた走る47人の悲劇性が浮き彫りになる。「忠臣蔵」の本質を突いたのは、同時期に公開された仇討ちをシミュレーション・ゲームのように描いた(結果は大失敗)“本伝”たる市川崑監督の「四十七人の刺客」ではなく、この“外伝”の方であった。
それにしても監督・深作欣二のおそるべき演出力。突風吹きすさぶ浅野匠(真田広之)の葬儀シーンにオルフの「カルミラ・ブラーナ」がかぶさるトップ・シーンから、テンポのいいカット割りと、登場人物たちをしなやかな動きで画面せましと疾走させる躍動感に圧倒されてしまう。
圧巻は討ち入りの景気づけに赤穂浪士たちが舞う“曽我兄弟の仇討ち”と伊右衛門を誘惑するお梅の乱舞、そしてだまされて毒をあおり顔が崩れていくお岩のカットの3つの場面が、伊右衛門の弾く琵琶の音をバックに同時進行でクライマックスになだれこんでいくシークエンスである。浮遊するように動くカメラ、耳をつんざく音響、横溢するパッション。この部分だけでこの映画を観る価値は十分すぎるほどある。
暗いアナーキーさを抱えた伊右衛門を演ずる佐藤浩市の存在感。「トカレフ」(93年)以来悪役が実に板に付いてきた。お梅の荻野目慶子は前代未聞の怪演だ。口のきけない狂女で、厚いメイクに加え脇の石橋蓮次と渡辺えり子とトリオで人形浄瑠璃みたいな奇矯な造形を見せる。高岡早紀(凄い巨乳!)の大熱演は言うまでもない。各々のキャラクターが実に“立って”いるし、余計な登場人物もいない。そして1時間40分という娯楽映画のニーズにぴったりの上映時間。まさに言うことなしだ。
現世とあの世が表裏一体になった(!)変則の討ち入りシーンのあとに訪れるのは、琵琶の音がレクイエムのように登場人物たちを退場させていく静寂のラストだ。“生きてる人は死んでいて、死んだ人は生きている”とは鈴木清順が「陽炎座」の中でヒロインに言わせたセリフだが、それを地で行く無常感の中にそれでもなお彼らを必死で生きた愛すべき存在として肯定する作者の優しい視点が感じられ、感動さえ覚える。エンタテインメント性と形而上的な深みを両立させた、間違いなく、深作監督の後期を代表するヴォルテージの高い作品だ。
松の廊下での刃傷沙汰の一件で赤穂藩は取り潰され、藩士は浪人となって仇討ちの機会をうかがっていたが、彼らの中には自暴自棄と無力感が渦巻いていたのは間違いないようで、その代表として伊右衛門を登場させている。少年時代に辻斬りで生計を立てていた彼にとって、忠義のために人を殺すことは何でもないが、元主君の仇を取っても破滅は目に見えている武士の在り方に馴染めない。対して日々平和に生きる庶民を代表するのが高岡早紀扮するお岩である(原作では武家の娘であったお岩を気のいいソープ嬢にした設定は正解だ)。
悶々とした生活を送っていた伊右衛門は屈託のない彼女との平穏な暮らしに安らぎを得るが、仇討ちを控えた自分の立場と浮き世への未練とに板鋏みになり、半ばヤケ気味に吉良の家臣の娘お梅の誘いに乗ってしまう。この伊右衛門の屈折したニヒリズムと自虐性がこの作品での「四谷怪談」の真骨頂と言えるが、「忠臣蔵」の部分にもそれが大きく照射されているところが面白い。
仇討ちは美徳でも何でもない。津川雅彦演ずる大石内蔵助は着々と討ち入りの計画を立てながらも、夜ごと刹那的な豪遊にふける。彼も仇討ちは集団自殺に過ぎないことを知っている。それでも武士である以上、そうせざるを得ないジレンマが彼を悩ます。破滅に向かってひた走る47人の悲劇性が浮き彫りになる。「忠臣蔵」の本質を突いたのは、同時期に公開された仇討ちをシミュレーション・ゲームのように描いた(結果は大失敗)“本伝”たる市川崑監督の「四十七人の刺客」ではなく、この“外伝”の方であった。
それにしても監督・深作欣二のおそるべき演出力。突風吹きすさぶ浅野匠(真田広之)の葬儀シーンにオルフの「カルミラ・ブラーナ」がかぶさるトップ・シーンから、テンポのいいカット割りと、登場人物たちをしなやかな動きで画面せましと疾走させる躍動感に圧倒されてしまう。
圧巻は討ち入りの景気づけに赤穂浪士たちが舞う“曽我兄弟の仇討ち”と伊右衛門を誘惑するお梅の乱舞、そしてだまされて毒をあおり顔が崩れていくお岩のカットの3つの場面が、伊右衛門の弾く琵琶の音をバックに同時進行でクライマックスになだれこんでいくシークエンスである。浮遊するように動くカメラ、耳をつんざく音響、横溢するパッション。この部分だけでこの映画を観る価値は十分すぎるほどある。
暗いアナーキーさを抱えた伊右衛門を演ずる佐藤浩市の存在感。「トカレフ」(93年)以来悪役が実に板に付いてきた。お梅の荻野目慶子は前代未聞の怪演だ。口のきけない狂女で、厚いメイクに加え脇の石橋蓮次と渡辺えり子とトリオで人形浄瑠璃みたいな奇矯な造形を見せる。高岡早紀(凄い巨乳!)の大熱演は言うまでもない。各々のキャラクターが実に“立って”いるし、余計な登場人物もいない。そして1時間40分という娯楽映画のニーズにぴったりの上映時間。まさに言うことなしだ。
現世とあの世が表裏一体になった(!)変則の討ち入りシーンのあとに訪れるのは、琵琶の音がレクイエムのように登場人物たちを退場させていく静寂のラストだ。“生きてる人は死んでいて、死んだ人は生きている”とは鈴木清順が「陽炎座」の中でヒロインに言わせたセリフだが、それを地で行く無常感の中にそれでもなお彼らを必死で生きた愛すべき存在として肯定する作者の優しい視点が感じられ、感動さえ覚える。エンタテインメント性と形而上的な深みを両立させた、間違いなく、深作監督の後期を代表するヴォルテージの高い作品だ。