元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「遠い声、静かな暮らし」

2020-11-30 06:30:27 | 映画の感想(た行)
 (原題:Distant Voices, Still Lives )88年イギリス作品。しっかりと作られた佳編である。単なる家族ドラマの枠を超え、描く対象は幅広く、掘り下げは深い。監督のテレンス・デイヴィスはこれが長編処女作で、新人にもっとも権威のあるロカルノ国際映画祭での88年度グランプリ受賞作品である。

 1950年代のリバプール。この日結婚式を迎えたアイリーンの一家は決して裕福ではなかったが、大した災厄も無く、それまで人並みの生活を送ることが出来ていた。ただし、父親は早々に世を去っていた。アイリーンとメイジー、トニーのきょうだいにとって、父親は厳格で融通の利かない厄介な存在だった。



 彼は子供たちのやることに全て反対し、時には暴力を振るっていた。しかし、クリスマスにはそっとプレゼントをくれたり、優しいところもあったのだ。娘の晴れ舞台に父親がいないことは、家族にとってはやはり寂しい。メイジーとトニーもやがて結婚し家庭を持つのだが、いずれも平穏とは言えない日々を送る。ただ、それでも彼らの人生は続いていくのだった。

 回想シーン中心に映画は進んでいくが、これは単なるノスタルジーではなく、過去を描くことこそが現在と未来への意味を生み出すものだという、作者の時間に対する独特の見識が窺われるのだ。事実、本作で展開される過去の出来事は、文字通り“過ぎ去った”ことではなく、今も登場人物たちの傍らに寄り添い、これからも共にあることを示唆している。

 そしてその構図を効果的に表現せしめるのが、彼らが昔から愛唱していた当時の歌である。家族間の確執を赤裸々に描出することだけがホームドラマのメソッドではない。言いたいことも、それぞれの想いも、音楽に乗せて昇華させるという、この手法は作り手の冷静さと賢明さをあらわしており、観ていて感心する。また、音楽のリズムが演出のテンポとシンクロし、相乗効果が現出していることも見逃せない。そして、その表現方法は主人公の一家だけではなく、周囲の者たちの生き方もカバーしている。

 父親役のピート・ポスルスウェイトの演技は、彼の多彩なフィルモグラフィの中では上位に入る。頑固だが、人間味のあるキャラクターの創出は見事だ。フリーダ・ダゥウィーにアンジェラ・ウォルシュ、ディーン・ウィリアムズ、ロレイン・アシュボーンといった他のキャストも手堅い。ウィリアム・ダイヴァーとパトリック・デュヴァルのカメラによる、奥行きのある映像も見逃せない。
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「おらおらでひとりいぐも」

2020-11-29 06:52:18 | 映画の感想(あ行)
 退屈な映画だ。とにかく、何も起こらない。もちろん、ストーリーに起伏が乏しくても映像や語り口で面白く見せる映画もあるだろうが、本作には見事に何も無いのだ。これで2時間17分も観客を付き合わせようという、送り手の姿勢は大いに疑問である。また困ったことに予告編だけは面白そうに出来ている。その予告編を観て映画館に足を運び、失望した向きも少なくなかったと想像する。

 埼玉県の地方都市に住む桃子は75歳。夫には先立たれ、子供たちは遠方に住み、今は一人暮らしだ。変化の無い生活を送る彼女の前に、見知らぬ3人(たまに4人)の男が現れる。彼らは彼女の“心の声”だった。彼らと賑やかなやり取りを続ける桃子は、55年前に故郷の東北の村を飛び出し、上京して同じ方言を話す周造と結婚し、それなりに幸せな家庭を持ったことを思い出すのだった。若竹千佐子による同名の芥川賞受賞作(私は未読)の映画化である。



 “心の声”たちが周りで走り回ることを除けば、桃子の日々は単調そのものだ。図書館で本を借り、病院へ行き、たまに自動車のセールスマンと会う程度。後半には周造の墓参りに出掛けるが、それも近所であり、道中で何変わったことに遭遇するわけでもない。どう考えても、主人公の生活をそのまま描くだけでは劇映画としての興趣に乏しい。

 ならば“心の声”たちの言動や桃子の回想場面、あるいは空想シーンなどが面白いのかというと、全然そんなことはない。どの場面も画面に隙間風が吹きまくっており、作り手のイマジネーションの不足ぶりが印象付けられるだけだ。桃子が地球の歴史に興味を持ち、自前の“歴史ノート”を作るくだりも取って付けたようで、正直言って意味が無い。

 結局、頭の中での空想にひたるよりも、桃子の人生を変えるのはささやかな“行動”であることが終盤示されるようだが、そんな当たり前のことを今さら主張してもらっても、こちらは鼻白むだけだ。

 主役は田中裕子と蒼井優のダブルキャストだが、芸達者な彼女たちの真価は発揮されていない。特に田中は現時点で60歳代の半ばであり、75歳のヒロインを演じるのは“元気すぎる”(笑)。濱田岳に青木崇高、宮藤官九郎、田畑智子、六角精児といった脇の面子の扱いも不十分だ。なお、周造に扮する東出昌大は相変わらず大根。沖田修一の演出は平板で、盛り上がりに欠ける。良かったのはハナレグミによる主題歌ぐらいか。個人的には、観なくても良い映画だった。
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プロ野球セ・リーグの“マイナーリーグ化”を防ぐ方法。

2020-11-28 06:52:06 | その他
 去る2020年11月25日に、福岡ソフトバンクホークスが日本シリーズでセ・リーグ覇者のジャイアンツを4連勝で退け、パ・リーグ球団として初の4連覇を飾った。今年はコロナ禍の関係で優勝パレードは行われないのが残念だが、地元の球団がこれだけ活躍してくれるのは、あまりスポーツには興味はない私にとっても実にうれしいことだ(優勝セールという特典も付いてくるし ^^;)。

 さて、シリーズの内容はまさに一方的で、同じく4連勝だった前年と比べても、圧倒的な力の差があったと言わざるを得ない。しかもジャイアンツは2位以下の球団を寄せ付けずにリーグ優勝したにも関わらずである。すでにマスコミ等では両リーグの“格の違い”が指摘されている。この10年間で日本シリーズをセ・リーグのチームが制したのは1回だけ。ここ20年間でも5回しかなく、都合により本年度は実施されなかった交流戦でも、過去の成績ではセ・リーグはパ・リーグの後塵を拝している。

 セ・リーグが弱いのはDH制が無いからだとか、狭い球場が多いだとか、いろいろと言われているが、たとえDH制を採用して各球場をリニューアルしようとも、はたまたクライマックス・シリーズをセパ混合にしたとしても、状況はあまり変わらないと思う。ちなみにMLBもア・リーグとナ・リーグではDH制の有無があるが、ワールドシリーズではここ20年間両リーグがほぼ半数ずつ優勝数を分け合っている。

 セ・リーグが弱い理由というのは、ズバリ言って巨人の存在だと思う。

 今回の日本シリーズの期間中に、巨人の某コーチが“ジャイアンツというネームを背負っているわけだから。すごく歴史の古いチームでやっているわけだから”というコメントを発したらしいが、指導者がそういうセリフを吐ける環境が存在すること自体が問題なのだ。今どき、ネームだのプライドだの伝統的な球団だのと言い募ってみても、そんなのは選手にプレッシャーをかけるだけで何もならない。他の11球団では、たぶんあり得ない事態だろう。

 確かに、ジャイアンツは歴史の古い球団だ。しかし“歴史”や“伝統”では勝てない。また、よく4番打者を“第何代目”と呼ぶが、そんなどうでもいい言い方が罷り通ってしまうのが、この球団の特異性をあらわしている。そして巨人の親会社は全国紙だ。傘下のテレビ局とのメディアミックスにより、昔から高い人気を誇ってきたし、今でも観客動員数は上位であるし、マスコミのヨイショも横行している。

 だが、この“黙っていても客が入る球団”を抱えているリーグは、他球団の自助努力を阻害する。いくら野球人気が衰えたといっても、巨人戦は他の5球団にとってドル箱だ。しかも、巨人はその実力が陰りを見せたとしても、同一リーグからめぼしい人材をかき集めて“球界の盟主”たる比較優位を保とうとする。

 対してパ・リーグには“球界の盟主”なんてものは存在しない。いくらホークスが強いといっても、地方球団にすぎない。元々は30数年前に大阪から馴染みのない九州の地にやってきて、ゼロからチームを作り上げてきたのだ。他の5球団も同様で、プレー内容と営業努力に手を抜けば、客は入らない。相手がホークスでも、力一杯ぶつかっていかなければ、ファンは納得しない。ひとつのチームに依存しているセ・リーグとは、次元が違うのだ。

 これは無理な注文だが、巨人が無くなるか、あるいは東京を離れて地方で出直すかしなければ、セ・リーグの根本的な浮上は覚束ないだろう。

 巷ではセ・リーグのことを“セカンド・リーグ”だの“J2”だのと揶揄する向きもあるらしいが、このままではセ・リーグのマイナーリーグ化は避けられない。別に巨人が沈もうがどうしようが興味はないが、巨人が弱くなるとリーグ全体が左前になる図式は愉快になれない。一方、もしもホークスが弱くなるようなことがあっても、パ・リーグのレベルが落ちるとは考えにくい。ホークスを凌駕する別チームが台頭するだけだ。セパ両リーグの格差は、すでに構造的なものになっている。いずれにせよ、日本シリーズがワンサイドゲームの連続になり、興趣を削ぐようなことは願い下げだ。
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「ザ・ハント」

2020-11-27 06:21:56 | 映画の感想(さ行)

 (原題:THE HUNT)出来自体は大したことはないのだが、設定はかなり興味深い。特に、敵役の描き方にはこれまで見られなかった独創性が感じられる。そのため本国では物議を醸したらしいが、銃乱射事件が発生したことを受けての公開延期という事態にも見舞われたとかで、いろいろと訳ありのシャシンであることは間違いない。

 12人の男女が森林地帯の中で目覚める。彼らは年齢や職業もさまざまで、互いに面識も無い。そして、ここはどこなのか、どうやって来たのかもわからない。目の前にあるのは巨大な木箱だけ。こじ開けてみると、一匹の豚と多数の武器が出てきた。一同が困惑していると、突然銃弾が飛んでくる。何者かが彼らの命を狙っているらしい。逃げ惑う彼らが思い当たったのは、金持ちが一般市民を殺戮する“マナーゲート”という狩猟ゲームだった。ネット上だけの噂と思われていたが、実在したらしい。かくして、必死のサバイバル劇が始まった。

 こういう“人間狩り”を描いた映画は過去に何本も存在したが、その多くがイカレた連中(たいてい富裕層)の蛮行を取り上げていた。本作も悪者どもは金持ちなのだが、ユニークなのはこいつらが過激な環境テロリストあるいは反レイシズム主義者である点だ。KKK団のような右派のレイシストではなく、リベラル陣営が手前勝手な正義感により狼藉に及ぶという図式が面白い。

 どこの国でもそうだが、ウヨクもサヨクも頭が悪いという点では一緒だ。だから左派がバカなことをやるのも何ら不思議ではないのだが、彼の国では珍しく思われるのだろう。しかも、昨今(アカデミー作品賞の新基準などの)行き過ぎたリベラリズムが米映画界を“侵食”している中、この映画を観て留飲を下げる向きもあるのだろう。

 さて、映画の序盤でいかにも物語の中心人物になりそうな若い男女があっさりと消されたり、12人の中になぜか戦闘能力が極端に高い者が含まれていたり(その理由も示される)と、面白い御膳立ては見られる。また、誰が敵か味方か分からない展開も悪くない。しかしながら、中盤以降は凡庸なサスペンス劇になる。ラストの敵の首魁とのバトルは、あまりにもショボくて見ていられない。

 そもそも12人が送り込まれたのが東欧某国で、(すべてがヤラセとも思えない)中東から来た難民のキャンプなんかも映し出されるというのは、この“マナーゲート”というのは随分と“穴”があるのだと思わざるを得ない。クレイグ・ゾベルの演出はテンポは悪くないが、ドラマの盛り上げ方に関しては不満が残る。

 ベティ・ギルピンにエマ・ロバーツ、アイク・バリンホルツ、そしてヒラリー・スワンクといったキャストは可もなく不可もなし。ただし上映時間は1時間半ほどだし、前述の設定の面白さもあって、観て損したという気にはあまりならない。
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「本気のしるし」

2020-11-23 06:57:50 | 映画の感想(は行)

 土村芳が演じるヒロイン像が最高だ。通常、映画に出てくる悪女というのは見るからに蓮っ葉であったり、過度にセクシーだったり、一見おとなしそうだが実は裏表があったりと、とにかく自身を高みに置きたいという野心が滲み出ているものである。だが、本作の女主人公にはそのような様子は無い。それどころか、いつも周りに“すみません”と謝っている。だが、それでいて知り合った者たちを奈落の底に突き落とす。無意識的に災厄を呼び込むという、新しいタイプの“悪女像”を提示した時点で、本作の成功は約束されたようなものだ。

 玩具を取り扱う商社に勤める辻一路は、仕事はそつなくこなすが熱中出来るものが無く、成り行きまかせの日々を過ごしていた。ある晩、彼は踏切の中で立ち往生してしまった若い女を救う。葉山浮世と名乗るその女と一路は警察からの事情聴取を受けるが、彼女の供述は二転三転して、気が付くと責任が一路に押し付けられそうな気配になる。

 その場は何とか切り抜けた彼だが、今度は浮世が抱えた借金を肩代わりするハメになる。それから一路は彼女に振り回されることになるのだが、実は浮世には過去に何度もトラブルを引き起こし、周囲に多大な迷惑を掛けてきたことが明らかになる。星里もちるによる同名コミックを映像化したテレビドラマを、劇場公開用に再編集したものだ。

 結局、同情や共感だけで相手にアプローチしてもそれは絶対に“恋愛”には発展せず、それどころか不幸を呼び込むだけなのだ。この映画に出てくる者たちは、程度の差こそあれ、そのあたりが全く分かっていない。浮世はその極端な例である。とにかく、自身は意識せずとも相手を“その気”にさせるのが始末に負えないほど上手い。

 そして、一路をはじめ職場の仲間や彼の交際相手も、本当の“恋愛”には遠い位置にいる。少し世話を焼いたり、何となく一緒にいたりするだけて、相手と恋愛関係にあると勘違いし、真相に気付いたときには大きな代償を払うハメになる。映画は彼らが七転八倒する姿を、容赦なく描き出す。その有様はスペクタクルであり、4時間近い上映時間もまるで苦にならないほどのヴォルテージの高さだ。

 また、それらが総花的なエピソードの羅列には終わっておらず、終盤には劇映画らしい結末(カタルシス)が用意されているのも見事である。さらに、色恋沙汰には興味は無く全てを損得勘定で割り切るキャラクターとして、闇金を経営するヤクザを重要なポジションに置いているのは出色だ。

 深田晃司の演出は粘り強く、クールでスクエアなタッチは最後まで求心力を失わない。土村の演技は見上げたもので、地味な印象を逆手に取ったヒロインの造型には驚くしかない。一路に扮した森崎ウィンは、ハッキリ言ってこれほど上手い俳優とは思わなかった。まあ、演技がヘタだったらハリウッドには呼ばれるわけがないのだが(笑)。石橋けいに宇野祥平、北村有起哉、忍成修吾と、脇の面子も実に濃い。第73回カンヌ国際映画祭“Official Selection 2020”選出作品。本年度の日本映画の、収穫の一つだ。
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「罪の声」

2020-11-22 06:55:50 | 映画の感想(た行)
 手際の良い作劇で、観ている間は退屈しない。キャストの好演もあり、2時間を超える上映時間もさほど長くは感じられなかった。ただし、エピソードを詰め込んだわりには映画の主題(と思われるもの)があまり見えてこない。これはたぶん、主なスタッフがテレビ畑の者たちであり、映画らしい思い切った仕掛けを用意出来なかったことが原因だろう。

 大阪にある新聞社の文化部に籍を置く阿久津英士は、すでに時効となっている昭和最大の未解決事件を追う特別企画のスタッフに選ばれる。当時の資料を頼りに取材を進めるうち、彼は犯人グループが脅迫電話に3人の子供の声を使ったことに興味を覚える。一方、京都でテーラーを営む曽根俊也は、ある日父の遺品の中から古いカセットテープを見つける。



 さっそく再生してみると、聞こえてきたのは幼い頃の自分の声だったが、それはあの事件での身代金の受け渡しに使用された音声テープと全く同じであることが分かった。事件のことを調べ始めた曽根は、やがて阿久津と接触する。グリコ・森永事件をモチーフにした塩田武士による同名小説(私は未読)の映画化だ。

 本作においては、あの事件には60年代に日本を席巻した安保闘争が大きく関わっていることになっている。70年代初頭にその運動は頓挫したはずだったが、その残党が80年代になって“ある切っ掛け”によって活動を再開するという筋書きが背景のひとつだ。ならば映画としては、70年までと80年代以降との時代の空気感(特に、国民の政治に対する意識)の違いを、鮮明に打ち出す必要がある。

 しかし、ここでは当事者たちの単なる“私怨”で片付けられている。しかも、途中から事件のイニシアティブは犯行の片棒を担いだヤクザ組織に取って代わられており、これでは何のために安保闘争というネタを採用したのか分からない。そもそも、曽根の身内がどうしてそんなヤバい音声テープ等を廃棄せずに現在まで保管していたのか不明だし、阿久津が勤める新聞社が現時点でこの事件を取り上げた理由も判然としない。

 映画はそんな重要なことはサッと流し、曽根の家族および事件関係者の親族を中心にドラマを展開させる。これがまあ、いわゆる“泣かせ”の要素が満載で、過剰なほど繰り返される。それが一般観客の皆さんにはウケているようだが、本格的ミステリーを期待していた向きには、まるで物足りない。

 土井裕泰の演出には破綻が無いように見えるが、やはり“テレビドラマ的”であり、深みに欠ける。主演の小栗旬と星野源をはじめ、松重豊に古舘寛治、市川実日子、火野正平、宇崎竜童、梶芽衣子などキャストは充実している。若手では原菜乃華(園子温監督の「地獄でなぜ悪い」で印象的だった子役だが、いつの間にか成長している ^^;)と阿部純子の仕事ぶりが目立っていた。Uruによるエンディングテーマ曲も悪くない。
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宮原坑跡に行ってみた。

2020-11-21 06:30:20 | その他
 先日、福岡県大牟田市にある三井三池炭鉱の宮原坑跡に行ってみた。これは2015年に世界文化遺産として登録された“明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業”のひとつであり、国の重要文化財でもある。同じ福岡県内とはいっても私が住む福岡市と大牟田市はかなり離れており、今まで足を運ぶ機会が無かったのだが、ちょうどこの地域に用事があり、ついでに立ち寄った次第だ。

 この地区で石炭が発見されたのは15世紀と古く、江戸時代まで地元の藩の事業として採掘がおこなわれていたが、明治になって政府の官営事業になった。1889年に三井財閥に払い下げられ、以降、1997年に閉山するまで国内の主要炭鉱として大量の石炭を供給してきた。宮原坑は第二竪坑施設の一つで、1901年に完成している。



 とにかく、近くで見てみると、その規模の大きさに圧倒される。赤煉瓦建築の存在感はもとより、約22メートルの高さの竪坑櫓が、最近建てられたかのような質感を保持していたのには驚かされた。内部の施設も保存状態が良く、当時の雰囲気を漂わせている。

 現地では年配のボランティアの方が、この遺構に関して詳しい説明をしてくれたのは有り難かった。特に、宮原坑が主に地下水の排出のために稼働していたことは初めて知った。また、この煉瓦の積み方には英国式とフランス式があり、その違いと三井三池炭鉱の各施設は英国式で建てられていたことも興味深かった。ちなみに、群馬県の富岡製糸場はフランス式が採用されているという。



 帰りには、海沿いにある大牟田市石炭産業科学館にも寄ってみた。この施設は良く出来ていて、炭鉱の歴史を(エンタテインメント性を加味して)紹介しているのには感心した。あと、まったく関係ないが、近くにあったイオンモール大牟田のデカさにはびっくりした(笑)。映画館も併設されており、改めて巨大ショッピングモールと地方都市との関係の深さについて思い至った。
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「ウホッホ探険隊」

2020-11-20 06:25:52 | 映画の感想(あ行)
 86年作品。脚本が森田芳光で監督が根岸吉太郎という、製作当時の若い才能が初めてタッグを組んだということで話題になった映画だ。内容の方も水準は超えていて、ユニークでありながら完結で清新な印象を与える佳編である。なお、その年のキネマ旬報ベスト・テンでは第三位にランクインしている。

 ライターをしている榎本登起子は、中学生と小学生の2人の息子と一緒に暮らしている。夫の和也は食品会社に勤めているが、単身赴任中でめったに帰って来ない。しかしある日、和也が突然帰宅する。そして登起子に“好きな女が出来た。一度会って欲しい”と告げるのだった。



 呆気に取られるうちに和也の浮気相手の良子をまじえた席がセッティングされ、登起子は付き合わされるハメになる。ショックを受けた彼女はしばらく仕事を休むことにするが、取材先のミュージシャンのいざこざに巻き込まれ、気が休まるヒマが無い。やがて彼女は、離婚する決意を子供たちに打ち分ける。干刈あがたによる同名小説の映画化だ。

 ネタとしてはよくある夫婦の別離を扱っているが、やはりこのスタッフの手に掛かると一筋縄ではいかない様相を呈してくる。全体的なタッチは乾いてはいるが、軽妙な会話の中にしっとりとした情趣を折り込み、しかも才気とユーモアに満ちている。とにかく、根岸のきめ細かい描写力と、森田の得意とするイレギュラーで玄妙なセリフがしっかりと融合しているあたりに感心する。

 くだんのミュージシャンの滅茶苦茶ぶりや、愛人の登起子との初対面の席での傍若無人な態度などで、新奇な展開を出していると思ったら、離婚を持ち出した際の子供たちの狼狽で胸を突かれる場面を提示したりと、自由自在に作劇のリズムを作っているあたりが上手い。森田が関与した作品の中では、最も幅広い層にアピール出来る映画だと思う。

 主役の夫婦を演じる十朱幸代と田中邦衛は絶品で、表面では平静を装いながら、内面は揺れ動いてる中年男女を大きな説得力を伴って実体化している。藤真利子や時任三郎、斉藤慶子、陣内孝則などの当時の若手をフリーハンドで使いこなしているにのも納得した。丸池納の撮影と鈴木さえ子の音楽も申し分ない。なお、題名にある“ウホッホ”とは和也の咳払いを表現しているが、その語感は面白いと思う。
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「彼女は夢で踊る」

2020-11-16 06:27:03 | 映画の感想(か行)
 観ていて年甲斐も無く、胸が“キュン!”となってしまった(大笑)。我々オッサン層にとっての“胸キュン映画”とは、巷に溢れる壁ドン映画などでは断じてなく、こういうレトロ風味の美学に裏打ちされた、哀愁に満ちたシャシンなのだ。過ぎ去ってしまったもの、そしてこれから消えゆくもの、それらに対する哀切が溢れ、しみじみと感傷に浸れる。こういう映画は好きである。

 広島の歓楽街にあるストリップ小屋“広島第一劇場”は、社長の木下の奮闘もむなしく閉館が決定する。最後の記念公演として、名の知れたストリッパーが集結。その中に、木下が若い頃にこの職に就く切っ掛けになった踊り子にそっくりなダンサーを見かける。木下は昔を振り返り、彼女との出会いと別れを回想するのだった。広島市に実在するストリップ劇場を舞台にしたラブストーリーだ。



 映画は、現在と過去を平行して描く。昔、張り合いの無い毎日を送っていた若手サラリーマンの木下は、ひょんなことから“広島第一劇場”に出演中のストリッパーと知り合う。彼女のステージを観てその素晴らしさに打ちのめされた彼は、劇場で働くことになる。やがて支配人から小屋の運営を任された彼は、この劇場を維持するために奔走する。

 いまやパソコンやスマホで簡単にアダルト画像が無料で閲覧出来る時代にあって、ストリップはオールドスタイルな興行様式でしかない。だが、ストリップ小屋には他のメディアでは得がたい臨場感がある。ここに入れば、辛い浮き世を忘れられる。つまりは立派なエンタテインメントでもあるのだ。

 その、現実と遊離した“別世界”に魅せられた木下は、人生をそこに全て捧げてしまう。端から見れば愚かな行為かもしれないが、実は誰だってこの主人公のように“夢で踊る”ような生き方をしてみたいのだ。木下の清々しいまでの生き様は、しがらみに囚われて思うように振る舞えない者からすれば、何とも眩しくて羨ましい。それはストリッパーたちにも言えることで、この斜陽化した興行形態に敢えて身を投じ、文字通り飾らない姿を何の衒いも無く見せつける生き方には、感動するしかない。



 時川英之の演出はモノローグの多用など多分に気取ったテイストが感じられるが、それがこの作品ではプラスに作用している。主演の加藤雅也は今回珍しく“老け役”に挑戦し、実にイイ味を出している。青年時代の木下に扮した犬飼貴丈も、繊細なパフォーマンスで好印象。

 ベテランの踊り子に扮する矢沢ようこは、さすが“本職”だけあってステージ場面は盛り上がる。そしてヒロイン役の岡村いずみは行定勲監督の「ジムノペディに乱れる」(2016年)の時よりも数段魅力的に撮られており、今後の活躍を期待させるものがある。また、バックに流れるレディオヘッドの“クリープ”が素晴らしい効果を上げていた。
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「朝が来る」

2020-11-15 06:58:15 | 映画の感想(あ行)

 物語の設定とキャストの演技は良いが、展開には難がある。大事なことは描かれておらず、どうでもいいことに尺が充てられている。さらに、内容に対して上映時間が長すぎる。とはいえ、興味を覚えるモチーフは確実に存在しているので、観て損したというレベルでは決してない。

 川崎市のタワーマンションに住む栗原佐都子は、夫の清和の体質により妊娠できないことを知り、子供のいない人生を歩もうとしていた。だが偶然に特別養子縁組の制度を知り、斡旋事業者“ベビーバトン”の仲介によって男の子を迎え入れる。それから6年、夫婦は朝斗と名付けた息子と共に幸せな生活を送っていた。ある日、朝斗の産みの母である片倉ひかりを名乗る若い女から“子供を返してほしい”という電話がかかってくる。佐都子たちは一度だけひかりと会っていたが、当時はひかりは中学生だった。ところが訪ねてきたくだんの女は、かつてのひかりとは別人のように見えた。辻村深月の同名小説の映画化だ。

 予告編でも示されていたが、突然電話をかけてきた怪しい女に栗原夫妻が自宅で会うというのは、どう考えても不自然だ。これは電話を受けた時点で警察か、あるいは弁護士に相談すべき案件である。そもそも、ひかりの境遇に関しては多くの時間が割かれているものの、どうも要領を得ない。妊娠させた同級生との関係は曖昧で、その後相手がどういうオトシマエを付けられたのか不明だ。

 ひかりの“転落人生”は微温的で芝居がかっており、本当の修羅場には遭遇していないように思える。栗原夫妻の扱い方も全体的に冗長で、特に朝斗が幼稚園で友達にケガさせたのどうのという話は不要である。こんな調子でラストで感動しろと言われても、観る側としては戸惑うばかりだ。

 ただし“ベビーバトン”の運営の様子はとても興味深い。養子縁組に至る手順や、養父母に求められる条件、さらには過去に養子を迎え入れた実際の家庭の状況など、有益な情報が網羅されている。本作を観て大いに参考になる向きも少なくないのではないか。

 全体的に、脚本も担当した河瀨直美監督にとって、あまり合っているネタだとは思えない。脚色をリファインして別の演出家に任せた方が良かったと思う。とにかく各キャラクターに対する不自然なクローズアップの多用や、奥行きに乏しい白茶けた画面には閉口した。

 永作博美に井浦新、蒔田彩珠、浅田美代子、利重剛などのキャストはいずれも好演。とりわけ浅田のパフォーマンスには感心した。音楽は小瀬村晶が担当しているが、あまり印象に残らず。代わりにC&Kとかいうユニットによるテーマ曲が何度も流れるが、これが全然大したことが無いナンバーで、聴いていて鬱陶しく感じた。
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