元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ミラーズ・クロッシング」

2008-02-23 06:58:54 | 映画の感想(ま行)

 (原題:Miller's Crossing )ジョエル・コーエンが監督、イーサン・コーエンが製作。「ノーカントリー」で今年度のアカデミー賞のノミネーションを賑わせているコーエン兄弟が90年に撮った作品。1929年、アメリカ東部のある都市(たぶん、ニューヨーク)ではアイルランド系のボス、レオとイタリア系マフィアのキャスパーが暗黒街で勢力を争っていた。レオの片腕トムはレオと男同士の友情で結ばれていたが、ふたりが同じ女ヴィーナを愛したことから友情にひびが入り、トムはライバル、キャスパーの側につき、血の抗争火ぶたが切って落とされる。

 公開当時はどこの映画雑誌を見ても、私の友人たちの意見も、そろいもそろって大絶賛だった。どんなにいい映画だろうかと期待して観に行ったのだが、なぜか少しも感銘を受けなかった私である。それどころか、どこがいいのかさっぱりわからない映画であった。かといってワースト作品としてケナすほど気分を害したわけでもない。要するに可もなく不可もないどうでもいいシャシンである。

 確かに独特の雰囲気がある。ハデな場面やギャング映画にありがちのケレン味を抑え、ヨーロッパ映画のような静けさと、落ち着いたカメラワークは印象に残る。けれどもワクワクする場面は皆無。だいたいこの主人公は何を考えているのかさっぱりわからない。

 レオの女を寝取ってしまうあたりは野心的な反逆児ともいえるが、相手側に寝返るくだりの往生際の悪さは何? 寝返った証拠として裏切り者のチンピラを殺すように強要されるがあっさりと逃がしてしまう。しかもそれを確かめに行った2人の手下も銃声だけで納得してしまい、死体も見ないという間抜けさには恐れ入った。敵側のボスの描写も成り上がりの単純な男としかとらえていない。“運命の女”ヴィーナにしたって貫禄不足で、暗黒街のボスがぞっこんになるようにはとても見えない。登場人物の内面がしっかりと描かれていないから、ラストの処理もしっくりいかない。

 この映画のハイライトとして雑誌にも大きく取り上げられていた“アイルランド民謡ダニー・ボーイがバックに流れる中でレオと殺し屋たちの大々的な銃撃戦が行われる場面”にしても、たいしたことはない。たとえば「ゴッドファーザーPART3」のオペラと殺しの場面をオーヴァーラップさせたシーンや、「ステート・オブ・グレース」の賑やかなパレードの裏で壮絶なドンパチが展開するくだり、などに比べるとヴォルテージが落ちる。第一、銃火器の使い方も怪しいように感じる。

 とはいえコーエン兄弟の作品は本作のように首を傾げる出来の映画もあるかと思えば、「赤ちゃん泥棒」や「ファーゴ」みたいに見応えのあるシャシンもあるし、現在でも要チェックの作家であることは間違いない。アカデミー賞の結果はどうあれ、今後も作品を追っていくことになるのだろう。
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「奈緒子」

2008-02-22 06:38:17 | 映画の感想(な行)

 主演二人の魅力でどうにか保っているような映画だ。駅伝競技を題材にしたマンガでは“最高傑作”との呼び声も高い原作(私は未読)の映像化のせいか、何やらストーリーを追うのに精一杯という感じで、肝心のドラマ構成はいささか心許ない。

 ヒロインの奈緒子は小さい頃に海で溺れそうになったところを、後に高校駅伝の注目選手になる雄介の父親に助けられるのだが、その際に父親は水死してしまう。成長した二人がどのようにしてこのわだかまりを乗り越えるのか、そのプロセスが映画のポイントになるはずだが、それが十分描けていない。

 彼女は雄介との関係を修復するために、夏休みを利用して彼の所属する学校の駅伝部の期間限定マネージャーとなる。その前の段階でロードレースで臨時の給水係になった彼女が、雄介に水の入ったペットボトルを手渡そうとして相手に拒否されるシークエンスがあるが、かくも溝が深い二人の仲が終盤近くになって“なんとなく”修復されてしまうのには、どうも釈然としない。

 雄介とチームメイトとの仲も同様で、一年生で早くも頭角を現した彼を周囲は決して快くは思わない。しかも彼は無邪気でかつ面倒見が良く、先輩達に対しても真摯にアドバイスをしてしまうのだが、それがまた反感を呼ぶといった案配だ。しかし、ラスト近くで皆“雄介にタスキを繋げ!”とばかりに頑張ってしまうのだから閉口する。駅伝競技やってれば自然とチームワークは生まれるはずだ・・・・などという安易な発想で撮っているのではないかと思ってしまう。

 第一、雄介は最初短距離の選手として活躍するのだが、それがまたどうして走り方が全く違うと思われる駅伝に転向するのか、明確な説明はない。主な舞台が長崎市周辺や壱岐になっているのに方言も聞かれず、コーチに至っては関西弁だ。しかもこのコーチは若い頃競技に参加していたとは思えないほど動作も体型も締まりがない(扮している笑福亭鶴瓶そのままである ^^;)。

 それでもレースの場面はそれなりに盛り上がる。アップダウンの多い長崎のコースの特色も良く捉えられているし、走っている連中もそれらしいシルエットと面構えだ。しかしそれだけではドラマの不備を帳消しに出来ないのは、言うまでもない。

 奈緒子を演じる上野樹里はいつものユーモラスな役柄ではないものの、自然体の演技で映画の雰囲気に落ち着きを与えており、改めて若手実力派との認識を新たにした。雄介役の三浦春馬は「恋空」の不良少年とは打って変わった爽やかスポーツマンぶりを体現している。彼は品もあるし、今後が楽しみな注目株だ。冒頭に書いたように、本作はこの二人で何とか支えられていると言って良い。

 監督は青春映画の名手である古厩智之ながら、どうも“原作もの”は勝手が違うと見え、タッチがぎこちない。オリジナル脚本で勝負すべき人材だと思う。
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記憶に残る、映画の中のセリフ

2008-02-21 08:43:35 | 映画周辺のネタ
 印象に残った“映画の中のセリフ”として真っ先に思い出すのが、利重剛が89年に監督した「ザジ ZAZIE」という作品の中で中村義人扮する主人公がつぶやく言葉である。

「性格の80%は“癖”だ。“癖”は直せる」

 なかなか面白い指摘だと思った。性格というのは文字通り内面的なものだが、それにより真に本人に影響を与えたりするものは、具体的な行動、すなわち外面的な要素である。性格によって頻繁に現れる行動パターンとしての“癖”を理性によって制御すれば、逆に性格そのものを変えることも出来ると作者は主張したいらしい。突き詰めて考えれば“内面”とは個的なものではなく他者との関係性により形成される部分が大きいので、第一義的に他者と関わり合う外形的要素を修正すれば、内面へのフィードバックも少なくないはず。それで性格まで一変してしまうことも十分有り得る。

 ただし、外面的な行動を修正するのは並大抵のことではない。本人によほどの自覚と持続力がなければ達成されるものではないのだ(遺伝的・先天的な部分も当然あるだろう)。確かに“80%は癖”かもしれないが、残り20%を克服するのは至難の業である。人生はそんなに甘くない。

 とはいっても、自分の性格に関して悩みを持つ者にとっては“目からウロコ”のセリフであることは間違いないだろう。物事を別の視点から捉えることの重要性も合わせて、なかなか含蓄に満ちた言葉である。

 もうひとつ、シルヴェスター・スタローンが83年に監督した「ステイン・アライブ」の中で印象的なセリフがある。ジョン・トラヴォルタ扮する自己中心的な新入りダンサーに対して、舞台監督がこのように言い放つ。

「周りを自分に従わせようと思うな。自分を周りに合わせるんだ!」

 周囲の状況に不満を募らせていた当時の私にとって、このセリフはかなり効いた。まずは協調して、それから自分を出してゆく。そうしないと何も事態は進展しない。こんな当たり前のことがまさか映画の中から発せられるとは思ってもみなかった。それにしても、昨今の風潮を見るとますますこのセリフの重さを感じさせられる。“人権”だの“個性”だのといったスローガンばかりが先行し、自分を抑えて周囲に合わせることが悪いかのごとく論じられる。戦後民主主義とやらの悪弊かもしれない(^^;)。

 さて、実は「ザジ ZAZIE」も「ステイン・アライブ」も映画としてはロクなものではない。そもそも映画は映像と演出によりテーマを表現するのが王道であり、主題をセリフで滔々と語るのは落第である。映画の内容よりセリフが印象に残ってしまうのは、その映画が失敗であることを意味する。映画には“お題目”としてのセリフなんか不要だ。画面でテーマを語るべきなのである。
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「トゥルー・ロマンス」

2008-02-20 06:31:14 | 映画の感想(た行)
 (原題:True Romance)93年作品。クエンティン・タランティーノが脚本を担当し、トニー・スコットがメガホンを取った作品。「俺たちに明日はない」「ゲッタウェイ」を思い起こさせる“青春アクション映画”(?)のアウトラインを持つこの映画は、同じようなスタイルを持つ公開当時の作品、たとえば「いつかギラギラする日」をプロットの優秀さにおいて、「ワイルド・アット・ハート」をキャラクターの造形において、完全に上回っている。

 デトロイトのコミック・ショップで働く若者(クリスチャン・スレーター)はある晩知り合ったコールガール(パトリシア・アークエット)と意気投合。翌日には結婚してしまう。ところが彼女には悪どいヒモ(ゲーリー・オールドマン)がくっついていた。こいつは邪魔になると思った主人公はヒモのアジトに単身乗り込み、ヒモをぶち殺す。そこで奪ったトランクにはなんとコカインがぎっしり。高く売ってひと儲けしようとする二人はハリウッドへ。ところが犯行現場に忘れてきた免許証から身元が割れ、ヒモのボスであるマフィアの幹部(クリストファー・ウォーケン)は彼らを追う。当然、警察も嗅ぎ付け、事態は三つ巴の様相を呈してくる。

 何といっても程度を知らない暴力描写が見物だ。ヒモを片ずける場面のドギツさ、ラスト近くの大銃撃戦のエグさ、そしてヒロインがマフィアのヒットマンを叩き殺す場面は、見ていて鳥肌が立つほど(このシーンだけでも観る価値はある)。

 でも映画全体はとても明るくてポップなのだ。リアリズムを排しファンタジーの方向に振っているのが正解で、しかもそれに対しプロットは強固そのもの。誰でも納得してしまう展開になっている。加えて気の利いたセリフ回しはタランティーノ脚本の独壇場(であると資料に書いてある)。主人公の父(デニス・ホッパー)とウォーケンの対決場面は白眉ともいうべきもので、ウィットに富んだ応酬は見応えあり。

 底抜けに明るい結末も愉快だが、豪華キャストの持ち味を発揮した演技合戦が実に楽しい(ブラッド・ピットがジャンキーの役で出ていたりする)。ハンス・ツィマーのどこかトボけた音楽も効果的。陰湿さも病的なところも全くない明朗な“残酷アクション劇”である。

 欠点があるとしたら、演出が素直すぎるところだろうか。脚本をいじらずにそのまま映画化してしまう職人監督トニー・スコットの持ち味だろうが、兄のリドリー・スコットが演出したら少し違う感じになったろう(失敗作の可能性も高いが ^^;)。
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「エリザベス:ゴールデン・エイジ」

2008-02-19 06:33:25 | 映画の感想(あ行)

 (原題:ELIZABETH THE GOLDEN AGE)見た目は豪華絢爛だが、中身は薄い。98年に製作された前作「エリザベス」では、即位したばかりの若い女王の周辺でドロドロとした権謀術数が巻き起こり、女王本人はというと当惑するばかりだった。それがまた政治の“真実”というか、国の中枢に居ること自体が手を汚さざるを得ない状況に陥るといった、身も蓋もない有り様を見せつけて、歴史好き・政治ネタ好きの観客にとっては大いに興趣を覚える出来になっていたのだ。

 しかし女王として手腕を振るうようになってからを描く本作では、主人公の女傑としての存在感こそあるものの、事は段取り通り進むばかりで、ストーリー面での面白さはない。

 時は1585年、ヨーロッパの覇権を狙う大国スペインとの決戦は避けられず、スコットランド女王メアリー・スチュワートとの確執も抱えて、女王にとっては風雲急を告げる時期だったはずだが、映画はただ事実を並べるばかりで観客を唸らせるような仕掛けはほとんど見られない。ドラマティックに見せるべき暗殺未遂騒ぎも、メアリー・スチュワートの処刑も、画面にはパッションが感じられず平板に進むのみ。

 それではいけないと思ったか、航海士ウォルター・ローリーとの色恋沙汰が挿入されるが、これがまた取って付けた感じでほとんど盛り上がらない。ローリーと侍女ベスとの関係に嫉妬する女王も“ちょっとジェラシーを感じてしまいました(笑)”という程度で、激しい内面の吐露も見られない。

 スペイン無敵艦隊を打ち破るアルマダ海戦は世界史のターニング・ポイントともなる重大事件だが、これがまた見かけはハデながら映画を観る限り何がどうなっているのかサッパリ分からない。いかにしてわずかな手勢で強大な敵を打ち破ったのか、それを描いてこそ映画的高揚に結び付くはずだが、作者はそのことにまったく興味はないらしい。

 では何があるのかというと、おそらくはエリザベス女王その人をスクリーンの上で闊歩させたいという、呆れるほど単純な製作動機であろう。画面の中心に女王がいればそれで満足してしまう、その手前勝手な願望だけで一本作ってしまう作者の執着については、まあ見上げたものかもしれない。そういうば監督シェカール・カプールは、前作を撮ってから本作まで10年近くも他にめぼしい仕事をしていないみたいだ(爆)。

 主演のケイト・ブランシェットは大熱演だが、映画自体が掘り下げの浅い作りゆえ意気込みが空回りしているように見える。なお、音楽にインド映画ではお馴染みのA・R・ラフマンが参加していてけっこう良い仕事をしていた。彼もハリウッドに本格進出するつもりなのだろうか。
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「茄子 アンダルシアの夏」

2008-02-18 06:34:53 | 映画の感想(な行)
 2003年作品。黒田硫黄の漫画を原作としたアニメーション。スペインの自転車ロードレース“ブエルタ・ア・エスパーニャ”に出場する主人公ペペ・ベネンヘリの活躍を描く。高坂希太郎が監督・脚本・キャラクターデザイン・作画監督を務め、第56回カンヌ国際映画祭の監督週間に出品されている。

 黒田硫黄による原作漫画を立ち読みしてみたら、映画がまさに“原作通り”に作ってあることに驚いた。もちろん、原作を完全に無視して好き勝手に映画化するのは諸手を挙げて賛同できないが、あまりにも原作を忠実にトレースしている本作に作家性を発揮する余地があったのか疑問である。監督の高坂はスタジオジブリで作画を担当していた人物だが、キャラクターデザイン等(特に、変形サングラスをかけたジイさん)は従来のジブリ作品の追随でしかなく、ますますもって独自性が薄い。正直言って製作意図がわからない映画である。

 ひょっとして高坂にとって“長編作品を手掛けるための肩慣らし”という意味があったのかもしれない。内容も中途半端で、登場人物がすべて“ヘンに日本人っぽいガイジン”なので感情移入がしにくい上、漫画では気にならないセリフ回しも(弱体気味の声優陣も相まって)映画になるとぎこちない。50分弱の上映時間では物語のバックグラウンドにまで言及できず、かといってこの語り口では一時間半に引き延ばしたところで間延びするだけだ。画面にアンダルシアらしい明るさがないのもマイナス。

 自転車レースの場面はさすがに良く出来ているが、すでに「ヤング・ゼネレーション」や「アメリカン・フライヤー」といった素晴らしい“実写の自転車競争映画”に接している身にすれば、これは“アニメでもここまでやれました”という技術的アピールでしかない。カンヌの監督週間に出品した心意気は買うものの、中身が追いついていない印象を受けた。
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「L change the World」

2008-02-17 07:04:23 | 映画の感想(英数)

 こりゃヒドい。中田秀夫監督らしくもない超駄作。もっとも、中田監督がデビュー当初持っていた才気はすでに失われ、今は並の演出家にすぎないが、それにしてもこの体たらくは何なんだ。少しはカツドウ屋魂を見せたらどうなのかと言いたい。

 ヒットした「DEATH NOTE」二部作からのスピンアウト作品で、松山ケンイチ扮する名探偵“L”が夜神月とのバトルの後に取り組んだ事件の顛末を描いているのだが、とにかくストーリーが滅茶苦茶である。今回の敵はマッドサイエンティストとその取り巻きで、地球環境を改善させるために、新種のウイルスを使って人類を“大量駆除”しようと企んでいる・・・・という、あまりにもバカバカしい設定からしてアウトだ。

 何しろこいつらは生物兵器テロの後にどういう世界を作ろうとしているのかも不明。単に人間の頭数を減らせばどうにかなると思っていること自体、子供向けの特撮ドラマの悪役も務まらないほどの間抜けぶりである。しかも、親玉格の工藤夕貴と高嶋政伸は全然アタマ良さそうに見えないし、他の連中に至っては単なるデクノボーだ。

 迎え撃つ“L”側は、慣れない“子守り”を強いられ、まったく有能には見えない“お笑いFBIエージェント”の南原清隆との漫才にウツツを抜かした挙げ句、脱力するような“結末”を目指してヨタヨタと進むしかない。その他、いちいち突っ込みを入れる元気も起きないほどの支離滅裂・御都合主義のオンパレード。脚本書いた奴に脳みそはあるのだろうかと疑うこと小一時間である。

 低予算でアップアップしているような、みすぼらしい映像のエクステリアもノーサンキューだ。申し訳程度に活劇場面が挿入されるが、これが緊張感のカケラもない。アクションの何たるかも分かっていない、そのヴォルテージたるや、テレビの2時間サスペンスよりも落ちる。

 「DEATH NOTE」編の断片らしきものが挿入されるが、これが前作のファン向けの“御為ごかしのサービス”にしかなっておらず、無駄に上映時間を伸ばす効果しかない。そもそも、どうして「DEATH NOTE」の後日談にしなければならないのか。“L”が健在だった頃の、まったく独立した話で勝負できなかったのか。いくらでも工夫する余地はあったのではないか。中途半端に前作の人気の“おこぼれ”に有り付こうとするからボロが出るのだ。

 いずれにせよ、これでは「DEATH NOTE」に接した小中学生といえども、鼻も引っかけないだろう。観客をナメきった製作側の思い上がりがたまらなく不愉快な愚作である。観る価値無し。
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「かあちゃん」

2008-02-16 07:21:57 | 映画の感想(か行)
 先ごろ惜しくも逝去した市川崑監督の、2001年度作品。江戸時代の貧乏長屋を舞台に、情に深く、人を信頼することを子供達に教えてきたひとりの母親を巡る人情ドラマだ。

 公開当時いくつかの映画評で指摘されているがこれは“落語の映画化”である。各キャラクターの台詞は棒読みのようで、心情表現をそのままモノローグとして語っているばかりか、ドラマの状況等も延々と登場人物が説明してくれる。場面展開も限られ、役者の動かし方も平板。こういう落語的手法は、映像で語る映画の特質と相容れないはずだが、市川崑監督はこれを確信犯的に全面展開させることにより、紙一重で失敗を回避している。

 上映時間が短いのも“ボロの出ないうちにサッと引き上げる”という意味で賢明だ。結果として山本周五郎の原作のエッセンスをうまく伝える人情時代劇に仕上がったと思う。岸恵子の“かあちゃん”はもう少し柔らかさが欲しいが、口八丁手八丁ぶりはよく出ていた。お馴染みの“銀残し”の映像も含めて、市川監督の技巧的な“攻め”の姿勢には敬意を表したい。味のある小品である。

 それにしても、市川監督はついこの前まで現役だったことが信じられないほどの高齢だったので、鬼籍に入ったことは残念ではあるが“ああ、とうとう・・・・でも仕方ないか”という感慨を持ったのも確かだ。しかし心配なのは巨匠を失った今後の日本映画界である。年代からすれば森田芳光や根岸吉太郎などの80年代前半にデビューした面々が“第一線の演出家”ということになってしまうが、ハッキリ言って彼らは頼りない。

 昨今は“邦画バブル”と言われたほど興行的に上向いた日本映画だが、本当に信用のおける人材は実は少ないのだ。バブルはいつかは破裂するが、それがごく近い将来であっても不思議ではないと思う。
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「テラビシアにかける橋」

2008-02-15 06:41:49 | 映画の感想(た行)

 (原題:Bridge to Terabithia)昨年観た「パンズ・ラビリンス」と似た設定の映画だが、こちらの方が出来が良い。理由は、本作が高い普遍性を獲得しているからだ。

 「パンズ~」がスペイン内乱時の不穏な空気と子供の無邪気な想像という、いかにも“相反するモチーフを二つ並べれば面白いだろう”といった、作者の安易な思い付きから一歩も出ていない平板な展開に終始していたのに対し、この映画は誰しも子供時代に体験したであろう屈託や心の揺らぎを丁寧に描いている。ファンタジー場面はそれを補う素材に過ぎず、必要以上に出しゃばることもない。

 舞台はアメリカの田舎町。いじめられっ子の少年と、彼のクラスの転校生で隣に越してきた家の娘とのコンビは、片や友達付き合いよりも絵を描く方を好み(けっこう上手い)、片や優等生ながら考え方がユニーク過ぎて周囲から浮いている存在で、いわば似たもの同士が意気投合しているように見えるが、映画は二人を決して孤立させない。

 彼らは森の奥を“テラビシア”と名付け、リスや鳥を邪悪なクリーチャーに見立て、大木を巨人になぞらえた想像の世界に入り浸っているように見えるが、実はそこは厭世的なオタク趣味とは一線を画す“外の世界にも通じている空間”である点は納得できる。二人を取り巻く環境は厳しいが、彼らは“テラビシア”で自分たちのイマジネーションを発散させ、明日を生き抜く糧とする。実は“テラビシア”は単なるファンタジー世界ではなく、二人の淡い恋のステージでもあるのだが、互いを必要とする気持ちが周囲との関係性をも徐々に好転させてゆく過程も、実に説得力がある。

 終盤近くの暗転は“ここまでしなくても”と思う向きもあるかもしれないが、原作者のキャサリン・パターソンのシビアな体験が元になっているだけに、作劇に緊張感と切迫感を与えることに成功していると思う。辛いことがあっても“テラビシア”はいつも心の中にある・・・・という結びは感動的だ。

 これが長編実写映画デビューとなるガボア・クスポの演出は余計な力みがまったく見られないスマートなもの。マイケル・チャップマンの撮影およびSFX班の頑張りも特筆すべきである。キャスト面ではナイーヴな眼差しが印象的な少年役のジョシュ・ハッチャーソンもいいが、メインはヒロイン役のアンナソフィア・ロブだろう。同世代のダコタ・ファニングなんぞ忘却の彼方に押しやってしまうようなノーブル過ぎる容貌、特にあの猫みたいな目がヤバい(^_^;)。10年後・20年後が楽しみな大物子役である。

 父親役のロバート・パトリックもイイ味出してたし、音楽教師役のズーイー・デシャネルは主人公がのぼせるのも当然だと思うほど魅力的だった。子供向けファンタジーのレベルを超えた秀作で、より広い層に接してもらいたい映画である。
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「息子の部屋」

2008-02-14 06:30:55 | 映画の感想(ま行)
 (原題:La Stanza del Figlio)2001年。イタリアの港町を舞台に、長男を事故でなくしたことにより、大きく傷ついた家族が再生に向けて歩みだしていく様を描く。監督・脚本・主演は「ナンニ・モレッティのエイプリル」のナンニ・モレッティ。その年のカンヌ国際映画祭でパルムドール賞を受賞している。

 主人公の息子の死がクライマックスとして設定されていないのは、残された家族が苦悩の果てにいかに彼の死と折り合いを付け、そして乗り越えていくかが映画の焦点になっているからだ。家族は息子が死ぬ時に誰も付いていてやれなかった。あの日緊急の仕事や用事がなければ、息子は今も生きていたかもしれない。そんなことを今さら考えても何も意味はないが、「あの時もしも」と詮無いことを思わずにはいられない両親の姿は、見ていて辛い。

 主人公の職業が精神分析医というのも効果的で、他人の悩みを聞いてやらなければならない彼が、一番苦悩に苛まれてゆくという皮肉はインパクトがある。

 だが、息子がかつて付き合っていたガールフレンドとの出会いにより、家族は再生に向かってゆく。浜辺に佇む彼等の姿をロングショットで捉え、明るくはないが決して悲観的ではない家族の未来を暗示する終盤のシーンは十分感動的だ。

 ジュゼッペ・ランチのカメラによるストイックな映像。モチーフとして扱われるブライアン・イーノの音楽の何と効果的なことか。しみじみとした佳篇であり、ナンニ・モレッティ作品としては最上の部類だろう。ただし、平易な語り口の良心作ながら才気走った部分がほとんどないこの映画が、カンヌ映画祭の大賞受賞作だという事実は少々首を傾げざるを得ない。
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