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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ゆきてかへらぬ」

2025-03-17 06:06:00 | 映画の感想(や行)
 作品のエクステリアはとても魅力的で、昨今の邦画の中では突出したクォリティを示す。キャストも全員が上質のパフォーマンスを見せ、批判すべきところは見つからない。また、シッカリとした演出は好感が持てる。しかし、映画としてはあまり盛り上がらないのだ。これはたぶん、作劇のコンセプト自体に問題があったのだと思う。

 大正時代、京都のマキノ映画制作所に所属する若手女優の長谷川泰子は、年下の学生である中原中也と出会い、一緒に暮らし始める。やがて2人は東京に転居するが、彼らを後に高名な文芸評論家となる小林秀雄が訪ねてくる。小林は中原の詩人としての早熟な才能に惚れ込んでおり、意気投合する。泰子は才能溢れる彼らから仲間はずれにされたような気分になるが、やがて小林も彼女を好きになり、複雑な三角関係が始まってしまう。



 とにかく美術やセット、衣装デザインなどの素晴らしさに圧倒されてしまう。おそらくは綿密な時代考証に基づいた精緻な画面造型、そして儀間眞悟のカメラによる思い切ったアングルからの映像は、眺めているだけでリッチな気分になる。主役の広瀬すず、木戸大聖、そして岡田将生の演技は万全。特に木戸は初めて見る役者ながら、そのナイーヴな持ち味には感心した。

 しかし、この映画には中原中也の文学者としての非凡さや、小林秀雄の並外れた批評眼などにはまったく言及していない。もちろん、体裁はメロドラマだからそんなのは必要無いという言い方も出来るだろうが、よく知られた人物たちを扱っているのだから彼らの才能を紹介するのは当然だ。また、そういうモチーフを挿入することによってドラマは盛り上がる。

 脚本は大御所の田中陽造だが、そのシナリオの元になっているのは長谷川泰子の回想録「ゆきてかへらぬ 中原中也との愛」なのだ。つまりは、ヒロインの視点によってしか物語は綴られていない。これでは映画を作る上で失当ではないだろうか。優れた“外観”を持っていながら作品として物足りないのは、そのせいである。

 それでも、16年ぶりに長編映画のメガホンを取った根岸吉太郎は頑張っていたとは思う。同じく田中陽造の脚本による「ヴィヨンの妻 桜桃とタンポポ」(2009年)よりは落ちるが、「透光の樹」(2004年)に比べれば遥かにマシ。根岸が今後も映画を手掛けていくのかどうかは不明だが、この世代に属する他の監督が次々と世を去ってしまった現在、彼には新作を期待したいものだ。
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「雪の花 ともに在りて」

2025-02-16 06:30:55 | 映画の感想(や行)
 さほど期待していなかったのだが、題材が興味深かったのであえて鑑賞。しかし、観終わって激しく後悔した。これはちょっと、酷すぎる。脚本の第一稿が出来上がった時点で、大幅に書き直しを指示するか、あるいは製作自体の中止を箴言するプロデューサーはいなかったのか。とにかく、斯様なシャシンが“世界に誇る新たな時代劇の傑作”などという惹句を伴って全国拡大公開される事実こそ、日本映画界の衰退ぶりを如実に示していると思う。

 江戸時代末期、当時は有効な治療法が存在せず、不治の病と言われてきた痘瘡(天然痘)の制圧のため、種痘(予防接種)の実施と普及に尽力した福井藩の町医者である笠原良策の物語。吉村昭による原作は未読だが、いくらでもドラマティックで感動的な映画に仕上げられる素材だと思う。しかし、本作には何の求心力も無い。ストーリーやキャラクターを盛り上げようという意図さえ感じられず、単に出来事だけを漫然と並べているだけ。一体何のための映画化か。



 とにかく、開巻10分で観る気が失せるのだ。まず、時代劇なのにセリフが現代調。登場人物たちの立ち振る舞いは抑揚が無く、何ら感情移入が出来ない。良策の行動に対しては当然のことながら数々の障害が立ちはだかるのだが、それらはいずれも主人公の説得あるいは時間を置くことによって“いつの間にか”解決してしまう。

 かと思えば、必然性のない唐突な立ち回りが発生したり、冬場の峠越えを敢行する「八甲田山」モードのシークエンスが挿入されたり、良策の妻の千穂が“思わぬ実力”を発揮したりと、支離滅裂なモチーフが次々と現われる。

 映像も話にならず、同一のカメラアングル、同一のキャラクター配置によって、異なる時制の複数の場面が撮られるという暴挙(≒手抜き)を平気でおこなっている。四季折々の風景はキレイだが、絵葉書的で奥行きが足りず。いい加減、途中で退場したくなったほどだ。良かったのは、加古隆による音楽ぐらいである。

 監督は小泉堯史だが、彼は初期作品以外は何ら目立った仕事をしておらず、今回も低調な仕事ぶり。主演の松坂桃李をはじめ、芳根京子に三浦貴大、宇野祥平、坂東龍汰、益岡徹、吉岡秀隆、そして役所広司と、演技巧者なキャストを集めていながら、全員を大根に見せるという、ある意味“離れ業”が炸裂しているのには呆れた。この全体的な覇気の無さは、今年度のワーストワンの有力候補にふさわしい。とにかく、小泉監督は引退した方が良いと思う。
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「山の焚火」

2025-01-24 06:22:35 | 映画の感想(や行)
 (原題:HOHENFEUER)85年作品。ストーリーだけに着目すればとんでもないインモラルなシロモノであり、単なる怪作として片付けられるところだ。しかし、この舞台設定とキャラクター配置によって、何やら神話の世界のような雰囲気を醸し出している。ヌーボー・シネマ・スイスの旗手として知られるフレディ・M・ムーラーによる作品で、85年のロカルノ国際映画祭にて大賞を獲得している。

 アルプスの奥地で、荒れた農地とわずかな家畜にすがってささやかに生きる4人の家族が主人公。十代半ばの息子は、生まれつき耳が聞えない。だが、しっかり者の姉のサポートもあり健やかに育っている。ある日、些細なことで息子は父親と仲違いし、家を飛び出して山小屋で一人暮らしを始める。姉はそんな弟を心配してたびたび小屋を訪ねるのだが、やがて何と姉の妊娠が発覚してしまう。思いがけない近親相姦に激高した父親は、猟銃を持ち出してすべてを終わらせようとする。



 バックに控えるアルプスの大らかな自然の風景に対し、序盤から登場人物たちの周囲には神経質なくらいに繊細な緊張感があふれている。それをさらに強調するのが音響だ。風の音やハチの羽音、または柱時計の針音などが、静謐な情景の中で効果的に扱われている。まさに何かが起きる“予感”が画面の隅々にまで漲っている。そして、その中に生きる息子の思春期独特の肉体の焦燥感も浮き彫りになっていく。その切迫感が、観る者をとらえて離さない。

 姉と弟との性交渉というモチーフも、こういうドラマ設定の中ではごく自然に納得させられるのだ。もちろん作者は彼らの行為を異常なものとして扱っておらず、その罪を批判する姿勢も見せない。このような設定では“自然なもの”として描かれているのだ。しかし、親の世代のモラルとしては許されない。

 終盤の筋書きと、それに続くエピローグは、一般的な道徳律の世界から離れた“彼方の次元”へと旅立つような映画的スリルを味合わせ、圧倒される思いである。ピオ・コラーディのカメラによる映像は痺れるほど美しく、作品の格調高さに貢献している。トーマス・ノックにヨハンナ・リーア、ロルフ・イリック、ドロテア・モリッツらキャストはすべて好演。なお、タイトルの意味はラストシーンで分かるのだが、実に深い余韻を残す。
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「山逢いのホテルで」

2024-12-21 06:26:06 | 映画の感想(や行)
 (原題:LAISSEZ-MOI )ほとんど共感できない映画であり、ずっと居心地の悪さを感じたままエンドマークを迎えた。登場するキャラクターすべてにリアリティが無く、筋書きも絵空事の域を出ない。どうしてこんな建て付けで映画を作ろうとしたのか不明だ。まあ、上映時間が92分と短いことは救いかもしれない。もしもこの調子で2時間以上も引っ張られたならば、マジで途中退場していた可能性大だ。

 スイスアルプスの麓にある小さな町に住む中年女性クローディーヌは、仕立て屋として生計を立てながら障害のある息子を一人で育てている。真面目に見える彼女だが、別の顔を持っていた。毎週火曜日になると彼女は、濃い化粧をして白いワンピースを身にまとい、アンクル丈のブーツを履いて山の上のリゾートホテルを訪れる。そして一人旅の男性客を選んでは、一日だけの関係を楽しんでいた。ところが、ある日出会ったミヒャエルと相思相愛になってしまう。彼はダム建設の技術者で、この地にある巨大ダムのメンテナンスのために派遣されていたのだが、ミヒャエルはクローディーヌに別の場所に行って一緒に暮らそうと持ち掛ける。



 まず、ヒロインの造型にリアリティが無い点が不満だ。都市部ならばともかく、こんな田舎で派手な真似をして、しかも山間部を歩き回るには不適切極まりない服装に身を包んで遠出する女など、いるわけがない。息子がいるということは当然のことながら彼女には夫あるいはそれに相当するパートナーがいたはずだが、それについての言及は完全スルー。

 どうしてクローディーヌが今の土地に暮らして服飾業に携わっているのか、その背景の説明も無い。息子の世話をしてくれる隣家の女性に対して辛く当たったりもするが、単に未熟な女だということが示されるだけで、何ら興趣を喚起しない。彼女の誘いに乗るオッサンたちの振る舞いにも、見どころは無い。

 さらに悪いことに、そろそろ老境に達しつつあるヒロインのリアルな裸身が遠慮会釈なく何度もスクリーンを横切ったりするのだから、参ってしまう。監督マキシム・ラッパズのセンスは最悪だと言えよう。ドラマを作ることを投げ出したようなラストも願い下げだ。

 主演のジャンヌ・バリバールは頑張ってはいるが、それが報われているとは言い難い。また、その他のキャストについてはコメントもしたくない。唯一の救いはブノワ・デルボーのカメラによるアルプスの雄大な風景で、劇場内の空気が変わっていくようだった。
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「夕陽のガンマン」

2024-04-28 06:08:31 | 映画の感想(や行)

 (英題:FOR A FEW DOLLARS MORE)1965年作品。日本とアメリカでは1967年に公開された、言わずと知れたマカロニ・ウエスタンの代表作とされているものだ。今回4Kデジタルリマスター版が公開されたので鑑賞してみた。なお、私は有名なテーマ曲こそ知ってはいたが、本編をスクリーン上で観るのは初めてである。

 札付きの悪党であるエル・インディオに1万ドルの賞金が賭けられたことを知った賞金稼ぎのダグラス・モーティマー大佐は、早速行動を起こす。同様に2千ドルの賞金首を仕留めたばかりの賞金稼ぎのモンコ(名無しの男)も、インディオ一味を狙っていた。モーティマーはモンコに、共闘して一味の賞金を山分けすることを提案する。承知したモンコは、顔馴染みの悪党グロッギーと共にエルパソ銀行を襲撃しようと企んでいたインディオの一党に潜入。外部で陽動作戦に当たるモーティマーと協力して、ターゲットを一網打尽にしようとする。

 一応、主演はモンコに扮するクリント・イーストウッドということになっているが、圧倒的に目立っていたのはモーティマーを演じるリー・ヴァン・クリーフだ。黒装束に身を包み、振る舞いやセリフ回しも実に洗練されている。もちろん、ガンマンとしての腕も華麗に見せる。さらに言えば、インディオ役のジャン・マリア・ヴォロンテも儲け役だ。まさに非の打ち所の無い(?)悪党ぶりで、ラスボスとしての風格は大したものだ。それに引き換え、イーストウッドは垢抜けない小物としての存在感しか与えられておらず、あまり印象に残らない。

 なお、脚本は大して上等とは言えない。特に敵役側に捕らえられた2人が、なぜか逃がしてもらうという展開は納得出来ない。シナリオ作りにも参加したセルジオ・レオーネの演出はこの頃はピリッとしない。新奇さを出そうとした挙げ句に話が冗長になり、132分というこの手のシャシンにしては長すぎる尺になってしまった。余計なモチーフは削って1時間半ぐらいに収めるべきではなかったか。

 とはいえ、エンニオ・モリコーネのお馴染みの音楽が流れて荒野に銃声が響き渡ると、それらしい雰囲気にドップリと浸ることが出来る。ロケ地はスペインのアルメリア地方だが、アウトロー達が跳梁跋扈していたアメリカ西部の佇まいを再現していたと思う。なお、劇中に登場するエル・パソの町並みは本作のために沙漠の中に作り上げられたセットである。このセットは現存し観光名所になっているとか。マカロニ・ウエスタンが当時の映画界に与えた影響が垣間見える話だ。
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「夜明けのすべて」

2024-03-04 06:08:17 | 映画の感想(や行)
 出来はかなり良い。これはひとえに、題材と監督の資質との絶妙なマッチングによるものだ。考えてみれば当たり前のことなのだが、いくら優れた企画があっても、スタッフを適材適所に配置させなければ映画は失敗に終わる。そこを上手くやるのがプロデューサーの腕の見せ所なのだが、日本映画の場合はそのあたりが実にいい加減なケースが多い。その点、本作は珍しい成功例であり、本年度の邦画では確実に記憶に残る内容だ。

 月経前症候群(PMS)に悩む会社員の藤沢美紗は月に一度はイライラが抑えられなくなり、その時は職務を果たすことも難しい。幸いにも会社側は障害に理解があり、社長はそんな彼女を見守っている。ところが新たな同僚の山添孝俊のある行動が切っ掛けで、美紗は怒りを爆発させてしまう。だが孝俊はパニック障害を抱えていて、どうやって日々生きていったら良いのか分からなかったのだ。2人は互いの境遇を打ち明ける間に、特別な感情が芽生え始める。瀬尾まいこの同名小説の映画化だ。



 監督の三宅唱は対象を一歩も二歩も引いたところからストイックに捉えて、いわばドキュメンタリー・タッチに近い作風を持っていると思うのだが、過去の彼の作品はそれに合っていなかった。いずれもストーリーを盛り上げる必要性のある、いわばプログラムピクチャー的なシャシンばかりで、あまり評価は出来ない。しかし本作は、彼の持ち味が活きる内容だ。

 メンタル面でのハンデを持つ主人公たちの描き方は、本当にナチュラルである。大方の観客が期待してしまうような、孝俊と美紗が反発し合いながらも恋仲になるといったラブコメ展開には決してならない。それでいて2人の関係は同志のように深く、互いを信頼している。ハッキリ言って、無理矢理なラブコメ路線など現実にはそうあり得ないのだ。まずは相手のことを理解し、立場をわきまえたまま常識的な対応をするのが常だろう。まあ、中には色恋沙汰に発展することもあるかもしれないが、それは結果論に過ぎない。

 そしてこの映画の秀逸な部分は、主人公たちが自身の症状は改善されなくても、相手や職場の仲間や取引先など、周囲の者たちへのフォローが可能であることに気付く点だ。それが彼らの“成長”であり、下世話な恋愛話よりも数段グレードが高く、かつ普遍的だと思う。終盤の2人の身の振り方も、実に納得出来るものである。

 主演の松村北斗と上白石萌音は朝ドラでも共演して息はピッタリ。演技も申し分ない。会社の社長を演じる光石研や、孝俊の前の職場の上司に扮する渋川清彦、孝俊を憎からず思っている千尋役の芋生悠、他に藤間爽子や久保田磨希、宮川一朗太、りょう、丘みつ子など、パフォーマンスに難のある者が一人も出ていないのは気持ちが良い。あえて16ミリフィルムで撮られた映像はこの監督のキャラクターに合致しているし、Hi’Specによる音楽も見事だ。
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「山女」

2023-08-05 06:08:02 | 映画の感想(や行)
 題材と作品の雰囲気は悪くないが、釈然としない部分目立ち、個人的には評価しがたい。柳田國男の「遠野物語」に着想を得た作品としては、82年に公開された村野鐵太郎監督の「遠野物語」よりはマシだとは思う。しかしながら、元ネタが逸話や伝承に基づいた一種のファンタジーであっても、ドラマ化する場合はストーリーの整合性は保たれるべきだ。本作はその点が食い足りない。

 18世紀後半の東北地方は冷害に見舞われ、主人公の若い娘・凛の住む村でも食糧難にあえいでいた。しかも、凛の父の伊兵衛は先祖の罪により村人から冷遇されている。苦しさに耐えかねた伊兵衛はある“事件”を引き起こしてしまうが、凛は父の代わりに全責任を負い村を去る。一人で山の奥深くへ進んだ彼女は、そこで半人半獣の不思議な男と出会う。彼こそ村人たちから恐れられる山男だったが、凛はその男と行動を共にするようになる。



 村の状況は厳しいはずだが、どうも全体的に描写が小綺麗だ。もちろん、リアリズムを強調して観る者に過度の不快感を与える必要はないが、この映画には実体感が不足している。山男はどうして以前から村人にその存在を知られ、恐れられていたのか、その事情がハッキリしない。また、どうやって生き延びていたのかも不明。特に東北の冬を乗り切れるだけの備えも無いように見えるのには、違和感を覚えるばかり。そして、勿体ぶって出てきた割にはあまり活躍しないのには脱力する。

 凛の風体はこの時代の人間とも思えないほど身ぎれいだ。他の村人も一応はそれらしい格好はしているものの、役になりきっていないように思える。終盤は伝奇的な展開になるが、それほど劇的でもない。いわば想定の範囲内だ。

 長田育恵と共に脚本も担当した福永壮志の演出は、時代劇としての体裁を整えることより理不尽な村八分の実態やヒロインの境遇等を通して現代にも通じる社会問題を炙り出そうとするかのような仕事ぶりだが、キャストの演技指導の面では腰が据わっていない印象を受ける。

 凛に扮するのは山田杏奈だが、明らかに作品のカラーからは浮いている。2021年公開の「彼女が好きなものは」や「ひらいて」で見せた彼女の強烈な個性が抑制されているようで、観ていて不満だ。永瀬正敏に三浦透子、森山未來、山中崇、川瀬陽太、白川和子、品川徹、でんでんなど芸達者な面子を集めてはいるが、あまり機能していない。とはいえダニエル・サティノフのカメラによる鬱蒼とした山中の風景や、アレックス・チャン・ハンタイの音楽は申し分なく、その点だけは認めたい。
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「予告された殺人の記録」

2023-01-13 06:20:35 | 映画の感想(や行)
 (原題:Cronica de una Muerte Anunciada )87年フランス=イタリア合作。フランチェスコ・ロージ監督作品としては比較的珍しい純文学の映画化だが、見応えのある作品に仕上げられている。正直、今ではあまり映画ファンの間では記憶に残っているシャシンとは言い難いものの、決して悪い出来ではない。ただ、本作が公開された80年代後半には他にも(賞レースにおける)大作・話題作が目白押しで、影が薄くなったのは仕方がないとも言える。

 おそらくは20世紀前半の南米コロンビアの小さな町に、バヤルド・サン・ロマンという若い男がやってくる。彼は謎めいた風体であったが、実は相当な金持ちで、結婚相手を探して各地を旅していたのだ。広場を通りかかった若い娘アンヘラを見初めたバヤルドは、彼女こそ運命の人だと思い込みプロポーズする。

 気の進まないアンヘラを周囲は説得し、町をあげての婚礼がおこなわれる。しかし初夜で新婦が処女でないことを知ったバヤルドは、絶望して婚姻取り消しを申し出る。どうやら彼女の貞操を奪ったのは、富も名誉もある青年サンティアゴ・ナサールらしい。アンヘラの家族は名誉を守るため、サンティアゴの殺害を予告する。ノーベル賞作家ガブリエル・ガルシア・マルケスの同名小説の映画化だ。

 物語は古風な愛憎劇で、しかも25年ぶりに故郷に戻ってきた医師クリストの回想によって進められることもあり、神話的な雰囲気が横溢する。殺人事件が起きることを町の誰もが予想していたにも関わらず、止めようとする動きはない。警察すら捜査に乗り出した形跡も無いのだ。さらには、サンティアゴが本当にアンヘラの初めての男だったのかも不明。すべては町が孤立したロケーションにあり、閉鎖的な風土によって不条理な因果律が暴走したことによる。

 フランチェスコ・ロージの演出は、このカリブ海に面した風光明媚な土地柄とは裏腹の、偏狭で不寛容な空気をジリジリと描出する。そして、バヤルドとアンヘラの関係性の実相が示される終盤の処理は、一種のカタルシスになって強い印象を残す。ルパート・エベレットにオルネラ・ムーティ、ジャン・マリア・ボロンテ、イレーネ・パパスと、顔ぶれも実に濃い。

 サンティアゴ役のアントニー・ドロンはあの有名スターの二世だが、良い演技をしている。まあ、彼は映画俳優としては父親にとても及ばなかったが、彼の半生は映画並みに面白いようだ。パスカリーノ・デ・サンティスのカメラによる南国の美しい光景、ピエロ・ピッチオーニの音楽も万全である。
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「夜、鳥たちが啼く」

2022-12-23 06:10:05 | 映画の感想(や行)
 佐藤泰志の小説の映画化にしては、極端に暗くも重くもないので“物足りない”と感じるかもしれない。しかしながら、適度な明るさと温度感を伴う方が観る側にとって幾分気が楽であるのは確かだ。ましてや監督は最近登板数が多くプログラム・ピクチュアの担い手のような存在になった城定秀夫だ。いたずらにヘヴィなタッチを期待するのは筋違いである(笑)。

 埼玉県の地方都市(ロケ地は飯能市)に住む作家の慎一は、かつては文学賞を獲得したことがあるが現在は複写機保守の仕事をしながら売れるアテもない小説を細々と書き連ねている。以前は生活を共にしていた恋人の文子がいたが、ケンカ別れした挙句に先輩に寝取られてしまう。そしてあろうことか、文子と一緒になったその先輩の元妻の裕子が幼い息子を連れて慎一のもとに転がり込んでくる。彼は家を母子に提供し、自分は敷地内にあるプレハブ小屋で暮らすようになる。こうして同居とも別居とも言えない奇妙な共同生活が始まる。



 慎一は嫉妬深くて気難しい野郎であり、今後文壇に復帰することはほぼ不可能。裕子は夜な夜な行きずりの男たちとの関係に溺れる身持ちの悪い女である。2人揃って通常のドラマではすぐに消されそうな“陰キャ”の典型だが、なぜか放っておけない存在感がある。それをバックアップするのが裕子の息子のアキラの存在。

 アキラは慎一を呼び捨てにするが、これはすなわち慎一の精神年齢が子供と同等であることを意味する。そんな“子供同士”の慎一とアキラは何となく仲良くなるが(笑)、それが裕子の内面にも微妙な変化をもたらす。もちろん、彼らが少しばかり前向きになろうと、状況は劇的に好転はしない。だが、そういう生き方も決して否定されるものではないのだ。

 城定の演出は淡々としていながら無駄がなく、適度なユーモアも交えつつ(特に“だるまさんがころんだ”の場面はケッ作)スムーズにドラマを進めていく。主演の山田裕貴はかなり健闘していて、この半ば人生投げたような男をリアリティをもって表現している。ヒロイン役の松本まりかはスクリーン上で見るのは初めてだが、巷の“あざと可愛い”という評価通りのヤバそうなオーラが満載。今後もこの個性を突き詰めてほしい。中村ゆりかにカトウシンスケ、藤田朋子、宇野祥平などの脇の面子も悪くなく、観て損しないだけの要素は確保されている。
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「百合の雨音」

2022-11-26 06:22:02 | 映画の感想(や行)
 日活ロマンポルノ50周年を記念し、現役の監督3人がそれぞれ作品を手がけた“ROMAN PORNO NOW”の第三弾。金子修介が演出を担当しているだけあって、第一弾の松居大悟監督「手」や第二弾の白石晃士監督「愛してる!」よりはマシな出来映えだ。ヒット作を数多く手掛けた金子監督は、もともとロマンポルノ作品「宇能鴻一郎の濡れて打つ」(84年)でデビューしている。同性愛を扱った作品では「OL百合族19歳」(84年)という快作もあるので、今回の企画は手慣れたものだったはずだ。だが、やっぱり往年の日活ロマンポルノのヴォルテージの高さには及ばない。

 出版社に勤める葉月は恋愛に対してイマイチ踏み込めない。なぜなら、過去に辛い経験があり臆病になっているからだ。そんな彼女は美人で有能な上司の栞に憧れている。ところが隙が無いように見える栞も、夫との関係が上手くいかずに悩んでいる。ある夜、大雨で帰宅できなくなった2人は、成り行きで一線を越えてしまう。



 さすがに金子監督はラブシーンの扱いが上手く、けっこう盛り上がる。しかし演じる小宮一葉や花澄、百合沙といった女優陣は、昔のロマンポルノのキャストにはとても及ばない。演技指導が不十分なのか、皆表情が硬くセリフ回しも抑揚に欠ける。かといって、ルックスが並外れているというわけでもなく、大きな求心力は望めない。

 むしろ栞の夫の造型が興味深い。朝っぱらから職場で堂々と不倫行為をやらかす不埒な野郎でありながら、妻の言動がそれなりに気になっている。かと思えば葉月には屁理屈をこねて接近したりする。演じる宮崎吐夢は、この無節操な人物を観る者に“男なら誰しも、このような軽佻浮薄な側面があるよなァ”という共感を抱かせるパフォーマンスを披露している(笑)。

 会社内での紆余曲折を経て、収まるところに収まったラストはまあ納得出来るが、それほどのカタルシスは生まれない。金子の演出はヘンに昭和っぽく、フワフワしたBGMとスマートさを敢えて外したような画面構成は一種の個性を発揮しているが、それが効果的かと問われると、あまり色良い返事は出来ない。

 結局“ROMAN PORNO NOW”における三本は(当初の予想通り)成果を上げられなかったが、何やら“成人映画を作るのだから!”という気負いばかりが先行しているように思う。ポルノだって劇映画の一種なのだから、あくまで通常のウェルメイドなドラマ作りに専念し、その上で絡みのシーンを多めに挿入するという肩の力を抜いたスタイルで臨んで欲しかった。
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