元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ゴーストライター」

2011-10-31 06:31:40 | 映画の感想(か行)

 (原題:The Ghost Writer)あまりにもプロットの構築が杜撰なので、観ていて面倒くさくなってきた。だいたい、主人公がどうして元英国首相の自叙伝のゴーストライターをやるハメになったのか、全然分からない。

 前任者は謎の死を遂げている。当然彼は腰が引けているが、そんな彼に周りの者は仕事を押しつけようとしている。いったい何のためだろう。この政治家の裏の秘密を探らせるためか? ならば十分な下準備をおこなった上での依頼でなければならない。ところが実際には、彼が秘密を嗅ぎ当てるかどうかはまったくアテにならないまま仕事にゴーサインが出るのだ。

 事実、今回の一件のカギを握っていると思われる人物に主人公が接触することが出来たのは、単なる偶然の積み重ねに過ぎないのである。そもそも、くだんの政治家自身が自伝の出版にあまり乗り気ではないように思える。

 脚本の不備は中盤にもある。それは主人公が前任者も使っていた車に乗り込むと、車内のナビがキーパーソンの住処へのルートを勝手に案内してくれる点だ。その車は前任者が死んだ時にフェリーに取り残されていたもので、もちろん警察がナビの情報も調べているはず。そうでなかったら“裏の勢力”が手を回してナビの内容も消去しているはずではないか。

 さらには終盤、真相を当事者に知らしめるために主人公は実に回りくどいことをする。劇中で“組織”の追っ手を振り切るためにかなり思い切った行動に出た彼にしては、随分と消極的な振る舞いだ。もちろんその理由に対する言及もない。第一彼は単なる作家であり、しかも気弱で野心もないように描かれる。そんな彼が明確な動機も無くヤバい話に食いついてくるという設定そのものに無理があると思う。本作の筋書きは斯様に杜撰で、説得力がまるでない。

 代わりに取って付けたように紹介されるのが、軍需産業とCIAとの結託という、いわゆる軍産複合体の陰謀というやつだ。作者としては昨今の時事ネタに目を配って社会派のカラーを出したつもりだろうが、それがどうして一介のゴーストライターが難儀する話と結びつかなければならないのか、まるで理解できない。

 ロマン・ポランスキーの演出はヘンに沈んでいて(まあ、いつものことだが今回は特に ^^;)、気勢が上がらない。始終天気が悪いのも暗鬱な効果を狙ってのことだと思うが、観ているこちらも気が滅入る。主演のユアン・マクレガーは“何か腹に一物ありそうだが、実は何も無い”といったキャラクターを淡々とこなしているだけ。

 政治家役のピアース・ブロスナンだけはさすがに貫禄はあるが、それはあくまで“見た目”だけで、役柄としての凄みを出すには至っていない。キム・キャトラルやオリヴィア・ウィリアムズ、トム・ウィルキンソンといった脇の面子も大したことはなく、結果として2時間あまりの上映時間がとても長く感じた。個人的にはほとんど評価できないシャシンだ。
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「パール・ハーバー」

2011-10-30 06:57:45 | 映画の感想(は行)

 (原題:Pearl Harbor)2001年作品。さすがジェリー・ブラッカイマー&マイケル・ベイの“迷コンビ”。予想通りの“中身がスッカラカンの大味な超大作”に仕上げていた。特に戦闘場面までの一時間半にもなろうかというクサさ100%の昼メロ以下の脳天気なラヴ・ストーリーには呆れるのを通り越して失笑してしまう。

 たぶん当時の製作者は「タイタニック」の成功を横目に“スペクタクルに色恋沙汰を挿入すればウケる”と短絡したのだろうが、監督が恋愛映画のイロハも知らない大雑把な野郎ではそれも無理な相談だってことに気が付かなかったのだろうか。

 “かなり配慮した”と言われた時代考証も無茶苦茶で、日本軍のお偉方が河川敷で幹部会議をしたり(横では子供たちが凧上げしている)、屋外プールに模型を浮かべて海戦のシミュレーションをするなどの(やってる連中はなぜかフンドシ姿)ハリウッド名物“えせ日本”が満載。

 そして、真珠湾攻撃の指揮官が山本五十六になっていたり(司令官は南雲忠一中将なんだけど)、零戦が濃緑色塗装になっていたり(開戦当時は全部灰白色塗装。濃緑色になるのは大戦後半から)、しかもそれが陸軍病院を攻撃したり(そんな事実はない)、その病院の従軍看護婦の化粧がえらく厚かったり(あれじゃイメクラのねーちゃんと一緒だ)etc. とにかくヒドいもので、考証しても“この程度”なら最初からするなと言いたい。

 売り物の戦闘シーンは確かにスゴい。「プライベート・ライアン」の模倣も見られるけど、そんなことを気にするヒマもないほどの迫力。正直言ってこの映画は戦闘場面以外は観なくてよろしい。でも、主人公二人(ベン・アフレックとジョシュ・ハートネット)が戦闘機に乗ってからの展開は「トップガン」の二番煎じになり、急激に熱が冷めてくる。だいたい、零戦がはるかに性能の劣るP-40ごときに簡単に撃ち落とされるわけがない(笑)。

 さらに驚いたのは、真珠湾攻撃が終わった後も映画が延々と続くこと。有名なドゥーリトル隊による日本爆撃のエピソードを扱っているのだが、これがまた冗長かつメリハリのない演出で画面を大いに盛り下げてくれる。アメリカ軍がヤラれっぱなしでは国内で商売にはならないから無理矢理に挿入したんだろうけど、ドゥーリトル作戦自体が隊員の安全などこれっぽっちも考えていない行き当たりばったりの危険な戦術だったことを考え合わせると、この展開はどう考えても利口ではない。ここは真っ当にミッドウェイ海戦あたりを取り上げるべきだった(それも手短にね)。

 最近の研究ではルーズベルト大統領が真珠湾攻撃を事前に知っていたことは常識になりつつある。アメリカ側に3千人もの犠牲者が出たにもかかわらず、彼は“その程度の損害で済むなら安いものだ。重要なのは日本を戦争に引き込んでやっつけることだったのだ”という意味のことを言ったとか。

 しかも真珠湾には空母はおらず、沈められたのはどうでもいいような旧式戦艦ばかり。もとより太平洋戦争自体が“日米両国による太平洋の制海権争い”だったことを考えると、さもありなんという感じだ。ひとつの太洋に海軍大国が二つ以上存在できないことは、歴史が証明している。もっとも、そんなことはナイーヴなアメリカ一般市民の皆さんは知る由もないか・・・・。
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「エンディングノート」

2011-10-29 07:17:06 | 映画の感想(た行)

 ドキュメンタリー映画の力作だとは思うが、拭いがたい違和感も覚えてしまうのも確かだ。たぶんこれは“作者と対象との距離”に収斂されるようなことなのだろう。改めてドキュメンタリーの製作スタンスの在り方について考えさせられる。

 主人公の砂田知昭は長年大企業の営業担当として尽力し、最終的には役員にまで登り詰め、67歳でめでたく退職した。ところが間もなく末期ガンを告知される。現役時代から段取りの良さでは定評のあった彼は、そんな事態に陥ってもなお持ち味を発揮。死ぬ前にやらなければならないことを列記し、またその進捗状況までチェックする“エンディングノート”を作成。最期のときまで万事セッティングすると心に決める。

 監督の砂田麻美は彼の次女で、ガン告知から最期のその時までが克明に記録されている。砂田知昭は“エンディングノート”の通りにまず斎場を下見し、思い入れのある場所への家族旅行を実行し、外国で暮らす孫たちに会って思いっ切り遊ぶ。当然のことながら遺産分配などはキッチリと手筈を整える。すべてにソツがない。

 カメラを回しているのが実の娘なので、他人には見せない“素”の表情までも披露し、何より彼自身が明るく前向きなキャラクターなので、重苦しさはほとんどない。それどころか笑えるシーンさえある。麻美監督自身が父親の代わりにナレーション担当するという思い切った手法も、かなり効果的。たぶん“逝く前にはこうありたいものだ”という感慨を観る者に与えるはずだ。

 しかし、それでも私はこの作品には納得しない。それは作者の批評精神が見当たらないからだ。主人公は40年以上も働きづめで、休日も接待に明け暮れ、家族と過ごした時間はそう多くはなかったはずだ。苦労して定年まで勤め上げ、やっと自分の時間が持てると思ったら目の前に人生の終焉が迫っている。こんな理不尽なことがあっていいのか。

 それに、現役時代さながらに自分の最期の時のアレンジメントを粛々と(ある面ドラスティックに)おこなう主人公に対して、正直私は“悲しい”気分にもなった。もっと自分勝手に少ない余命を謳歌してもいいのではないか。無茶をやってもいいのではないか。

 万事キッチリと準備を怠らない彼に対し、果たしてこれで良いのかという一歩引いた評論性をも発揮して欲しかった。これがもし親族ではなく第三者が製作に当たっていたら、対象を取り巻く状況についての言及が増えていたはずだ。たとえ娘にしか見せないような素顔は撮れなくても、素材を包括的に考察するスタンスは確保できていたと思う。

 それから最も疑問に思ったのが、主人公は“毎年受けていた健康診断でガンが見つかった”という事実だ。ということは、一年以内の短い期間で発症して末期まで進行したことになる。スキルスのようなタチの悪い症状だったのではないかとも想像するが、映画ではそのことが説明されていないのは不満だ。医療のあり方について新たな切り口も見つけられたかもしれないのに、残念な話である。
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「ザ・セル」

2011-10-28 06:31:23 | 映画の感想(さ行)
 (原題:The Cell)2000年作品。最先端の技術を使って患者の精神世界にサイコ・ダイビングするという治療をおこなっている女流心理学者が、連続殺人犯の脳に入り込んで被害者の監禁場所を探ることになる。しかし、そこは異様な世界だった。

 ヒロイン役のジェニファー・ロペスの内面世界は桜が満開。もちろんこれは衣装デザイン担当の石岡瑛子の趣味なんだろうけど、映画の内容としては、ちょっとイマイチである。何より、心の中の世界を扱っているわりには、登場人物たちの内面描写がえらく浅い。

 これが劇場映画デビューとなるターセム監督はCMやミュージック・ビデオ畑の出身だが、この分野の仕事ぶりから一歩も出ていない。ただし、この後に撮った「落下の王国」ではサマになっている部分もあり、いわば発展途上の作家のシャシンということになるだろう。ハワード・ショアの音楽は素晴らしい。
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「ミケランジェロの暗号」

2011-10-27 06:29:46 | 映画の感想(ま行)
 (原題:Mein bester Feind )可もなく不可も無しの出来である。これはひとえに“愛想のない演出”に尽きるだろう。こういうコン・ゲーム仕立てのシャシンは、ハッタリかまして盛り上げるに限ると思う。しかし、いくら戦時中のシビアな境遇を扱っているからといっても、本作の演出は平坦に過ぎるのだ。もっとケレン味を効かせて欲しい。

 1938年のウィーン。裕福なユダヤ人画商の一人息子ヴィクトルと、かつての使用人の息子ルディは親友同士だった。ところがナチの台頭と期を同じくしてルディは親衛隊に加入。ヴィクトルとは敵対する関係になってしまう。ルディはかねてからヴィクトルの家に幻のミケランジェロの絵画があることを聞きつけており、それを党に差し出して出世しようと企んでいたのであった。

 ところが押収した絵画はニセモノ。すでに収容所に入れられていたヴィクトルを呼びつけて絵画の在処を探ろうとするのだが、彼を乗せた飛行機がレジスタンスの攻撃を受けて墜落。それから事態は二転三転し、混迷の度を増してくる。



 事故で上官達が死んでしまい、誰も二人の顔を知らない状態になり、互いに服を交換して相手に成りすますというプロットがクローズアップされてくるが、どうも作劇が弾んでこない。これがハリウッド映画ならば大仰な語り口を見せるところだが、ウォルフガング・ムルンバーガーの演出はヘンに沈んでいてストーリーの喚起力に欠ける。だいたい、本物のミケランジェロの絵画の在処が観ていて誰でも分かってしまうという点が脱力してしまう。

 ならば内面描写は巧みかといえばそうでもなく、あれほどヴィクトルと仲が良かったルディが、自らの欲得のため簡単に相手を裏切ってしまうあたりの背景がほとんど示されない。これでは単に“金持ちのユダヤ人がイヤだった”という取って付けたようなモチーフしか思い浮かばないではないか。

 主演のモーリッツ・ブライブトロイとゲオルク・フリードリッヒの演技は悪くはないが、取り立てて良くもない。個人的にはヴィクトルの母親役でマルト・ケラーが出ていたのが印象深かった程度だ。

 さて、この邦題はとてもいただけない。劇中には暗号なんて出てこないのだ。何やら「ダ・ヴィンチ・コード」などの絵画にまつわるサスペンス編の“二匹目のドジョウ”を狙ったようで脱力する。DLP映写による小さくて平板な画面も願い下げ。評価出来ない映画である。
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「好色一代男」

2011-10-26 06:27:45 | 映画の感想(か行)
 昭和36年作品。原作はもちろん井原西鶴の同名作品だが、監督がクセ者の増村保造なのでヒネった作りになっているだろう・・・・と思ったら全然違う(笑)。これは何といっても主演の市川雷蔵の映画だ。

 雷蔵演じる但馬屋のドラ息子世之介が、次々と女性遍歴を重ねるだけの映画。好色丸に乗って“別の世界”へと旅立つラストまで、徹底して御都合主義的な世界が展開する。ここまでやると、むしろアッパレだ。

 絢爛豪華な舞台と女優陣をバックに、雷蔵扮する調子のいい二枚目がひょいひょいと世の中を渡って行く様子を見ているだけで楽しい気分になってくる。若尾文子の美しさもさることながら、中村玉緒のコケティッシュな魅力も見逃せない。
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「ツレがうつになりまして。」

2011-10-25 06:33:46 | 映画の感想(た行)

 昨今は凡打連発の佐々部清監督作品とも思えない(笑)、丁寧に作られた佳編だ。何より作劇が大上段に振りかぶっていないのが良い。これが闘病をメインに患者の病状の推移をリアリズムで定点観測していくような方法を採用していたならば、重くて見ていられなかっただろう。

 とはいえ、表層的な部分を扱っただけのお手軽ムービーでもない。ストーリーの重点を夫婦の関係性と2人の人間的成長に置いており、それがまた無理のない作劇に終始しているおかげで、観賞後の印象は上々だ。

 売れない漫画家の晴子と夫の幹男(通称ツレ)は結婚して5年になる。子供はいないが、夫婦仲はかなり良い。ところがある日、外資系のソフトウェア会社に勤めるツレは仕事上のストレスが溜まり、うつ病を発症してしまう。病気の原因が仕事にあるにも関わらず出勤しようとするツレに向かって晴子は“貴方が会社を辞めなければ、私は離婚する”と言い放ち、ツレの面倒と家計とを一度に背負い込むことになる。

 すると夫の収入をアテにしていたそれまでの自分が、いかにアマチュア気分で漫画を描いていたかを思い知らされる。序盤に晴子の連載が人気不振で打ち切られるくだりが紹介されるが、これは当然のことなのだ。片手間に描かれた漫画など、誰も読みたくはない。

 そんな彼女が意を決して“ダンナがうつ病になったので、自分が稼がないといけない。仕事を下さい!”と出版社の人間に直訴するシーンは、本作のハイライトのひとつだ。自立することにより、単にもたれ合うだけの夫婦関係から、協力して困難に立ち向かう“同士”へとシフトアップしようとする瞬間を、鮮やかに描いている。

 細川貂々による同名のエッセイの映画化だが、原作に使われているユーモラスなイラストをそのまま劇中に挿入させ、おそらく実際には深刻な事態になったことが何度かあったにもかかわらず、映画自体は軽やかなイメージを印象付ける。主演の宮崎あおいと堺雅人は大河ドラマでもお馴染みになったコンビネーションで、安心して観ていられる(特に宮崎の衣装は可愛い ^^;)。大杉漣や余貴美子、吹越満といった脇の面子もソツのない仕事ぶりだ。そして夫婦が飼っているイグアナとカメが抜群のコメディ・リリーフである。

 語り口が終盤にちょっと説明過多になってしまうのが難点だが、まずは観て損のないクォリティを維持している。それにしても、ツレの勤務先の有様には考えさせられた。リストラが横行し、送別会ばかりが続く。そして残った社員には過大な負担を強いる。まさに“ブラック会社”そのものだ。景気が低迷する昨今、ツレのような環境に置かれてメンタル障害を負うケースが今後も増えていくのだろう。困ったことだ。
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「連弾」

2011-10-24 06:29:16 | 映画の感想(ら行)
 2001年作品。常々、竹中直人には監督の才能はないと思っていたが、近作の「山形スクリーム」のようにお笑いネタの披露に徹したり、あるいは本作みたいに素材を深く突っ込まずに表面をなぞるだけに留めておけば、そこそこ楽しめる映画は作れるらしい。

 物語の中心になるのは、専業主夫の主人公(竹中)とゼネコンの設計課長である妻の美奈子(天海祐希)という逆転夫婦。ある夜、二人は大ゲンカを始める。原因は美奈子の浮気だ。それを機に息子は母を頑なに拒むようになり、一方娘はピアノの発表会での母親との連弾のことで頭がいっぱい。要するに崩壊寸前の家庭を描こうという算段だ。

 似非ミュージカル的な展開は笑えるし、俳優の使い方にも破綻がなく、何より天海祐希にパァッとした活発な役柄を振っているところは感心した(前に触れた「狗神」みたいな暗い役は全然似合わない)。

 もちろん、家族の崩壊についての深い洞察や鋭い心理描写はなく、竹中にそれが出来るわけもない。これからは“観ている間は楽しいけど観た後何も残らないコメディ作り”に邁進してもらいたいが、竹中自身は“いや、オレは深いドラマを作れるのだ”と錯覚したらしく、その次の作品として松浦寿輝の小説「花腐し」の映画化に挑戦する予定だったとか。まあ、実現しなくて一安心といったところだろう。
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「クイック!!」

2011-10-23 07:08:05 | 映画の感想(か行)

 (英題:QUICK )粗いデジカム映像のせいもあって大雑把で安っぽい印象を受けるが、プロットと活劇シーンのアイデアはそう悪くはない。ハリウッドでリメイクしてもおかしくない素材だと思う。

 元暴走族のハン・キスは昔はいろいろとハデなことをやらかしたが、今はしがないバイク便稼業。ある日、生放送の出演に遅れそうな女性アイドル歌手アロムをスタジオまで送り届けることになるが、そこに正体不明の男から電話が掛かってくる。アロムが被ったヘルメットに爆弾が仕掛けてあり、30分以内に指定の場所に“あるもの”を届けなければ爆発するというのだ。

 もちろん、ヘルメットを外しても即爆発。しかも、2人が10メートル以上離れても爆発。その“あるもの”とはやはり爆弾であり、行く先々に爆弾を届けるハメになった2人は、史上最悪の爆弾テロに巻き込まれてしまうのだった。

 ヤン・デ・ボン監督のヒット作「スピード」と似た設定だが、こちらは犯人が遠隔でタイムリミットを自由にセット可能で、その都度主人公達がキリキリ舞いすることになるのが目新しい。さらにハン・キスに個人的恨みを持つ警官がいて、昔の愚連隊仲間を集め彼にダメージを負わせようとする。いわば三つ巴の様相を呈してくるのだが、犯人側も国家機密や在日ヤクザの利権などが絡み合って一枚岩ではない。斯様に収拾が付かなくなりそうなシチュエーションを、監督チョ・ボムクは紙一重のところで何とか踏み止まり、最後まで持って行ったという感じだ。

 アクションシーンの段取りはけっこう上手い。中でもミョンドンで展開するカーチェイスは圧巻で、次から次と現れる障害物をかわしながら繁華街を疾走するくだりはなかなか見せる。高速道路での追いかけっこも見応えがあり、特にトラックからプロパンガスのボンベが多数落下し、路上が修羅場となるあたりは盛り上がる。また、走っている電車の屋根にバイクで飛び移るシーンもあるが、さすがにこれには苦笑を禁じ得ない(爆)。

 簡易なCG合成も散見されることから、活劇場面には手を抜いているとも思えたが、そういう観客の“疑念”を考慮するかのようにエンド・クレジットにはNGシーンも付与されている。出演者は生傷が絶えず、スタントマンなんか両足骨折で長期療養という目に遭っているようだ。御苦労さまである。

 主演のイ・ミンギはちょっと軽量級だが、飄々とした味を見せる憎めない二枚目だ。残念だったのがヒロイン役のカン・イェウォンで、ちっとも美人ではないし品も無い。今の韓国の若手女優は、こんなのしかいないのだろうか。
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高級小型スピーカーを試聴した。

2011-10-15 06:52:50 | プア・オーディオへの招待
 市内のオーディオショップで新しいスピーカーを試聴出来たので、リポートしたい。先日の別の店での試聴会では海外製を主に聴いたが、今回は国産品だ。製品名はKISO ACOUSTIC(キソ・アコースティック)のHB-1である。

 聞き慣れないメーカーであるが、2009年に発足したニューカマーだ。その名の通り、岐阜県に居を構える。HB-1は片手で持てるほどの、軽量でコンパクトな2ウェイモデルである。高音部はホーン型で黒檀の削り出し。低音部の素材はおそらくポリプロピレン系であろう。キャビネットはギター製造で知られる高峰楽器製作所が受け持っており、外装の仕上げは丁寧だ。



 さっそく音を聴いてみると・・・・正直言って、驚いた。

 このサイズからは信じられないほどの、低音の量と音場の広さが体感出来る。目をつぶって聴いていたら大型スピーカーと間違えそうだ。さらに音像は超リアル。ヴォーカルは血が通っており、ヴァイオリンの独奏なんかは、松ヤニが飛んで来そうな臨場感である。

 リスニングルームにステージの奥の奥まで見渡せるような、三次元的な音響空間が再現される。このパフォーマンスは、凄い。

 そして何より印象的だったのは、作り手が“自分の聴きたい音”を突き詰めていったことが分かることだ。国内大手メーカーの、おそらくは周波数測定器などと睨めっこしながらカタログデータを積み上げる姿勢とはまったく違う、ヒアリングのみで追い込んでいったサウンド・デザインが垣間見える。

 しかし、自分がこの製品を買いたいかというと・・・・それは遠慮したい。何よりHB-1はあまりにも高価な商品なのである。ペアで136万円。しかもそれはベーシックモデルであり、カスタムモデルだと200万円にも達する。たとえ手練れのオーディオマニアでも、購入には躊躇するであろう。

 そして肝心の音も、実を言うと私の好みではないのだ。HB-1の生々しいサウンドは、聴いていて疲れる。オーディオというのは生演奏とは違うのだ。自室でヴァイオリンやピアノの強奏を始終至近距離で聴きたいとは思わない。くつろいで聴きたい時や、BGM的に流しておくのには、HB-1は合わない。

 とはいえ、このスピーカーが端倪すべからざる実力を持っているのは確かだ。高額であるのはエンジニア個人の手作りであることが大きいと思う。このノウハウを大手メーカーが採用すれば(まあ、難しいとは思うが)、もっと価格は下げられる。せめて半額ぐらいにしてくれれば、ベストセラーになるだろう。

 今回HB-1よりも興味を持ったのは、これを駆動するアンプである。これも国産の新勢力であるSPECの製品が起用されていた。SPECは2010年に発足したメーカーで、そのモデルは今年(2011年)春のオーディオフェアで聴いたことがある。あの時は独CANTON社のスピーカーをドライヴしていたが、今回のHB-1とのコラボレーションも勘案すると、かなり上質な製品であることが分かる。



 デジタルアンプではあるが、無機的で硬い部分はどこにもなく、それどころかほんのりと温かみさえ感じさせる。しかもフラット傾向で余計な味付けはされていない。デジタルアンプらしい駆動力の高さと省電力性もセールスポイントだ。

 ハイエンドモデルのRSA-F1こそ高額で手を出しづらいが、下位のRSA-M1やRSA-V1はACCUPHASELUXMANといった既存の国産メーカー品と十分タメを張れる競争力を持つ。特に余計な機能が付いていないSPECのモデルには、魅力を感じるマニアも少なくないであろう。私も予算があれば導入したいと思ったほどである。
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