元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「靖国 YASUKUNI」

2008-07-31 06:29:32 | 映画の感想(や行)

 ひとこと、くだらない。まさに箸にも棒にもかからない駄作だ。最初に断っておくが、反日だ何だという巷のイデオロギー面での論議なんかまったく興味がない。映画は娯楽である限り“面白いか、面白くないか”が唯一の評価基準となる。右だろうが左だろうが、はたまた斜め後方だろうが(?)、そんなことは眼中にはない。本作はまったく面白くないし、そもそも作り手は“面白くしてやろう”とも思ってはいないのだ。その意味では、この映画には存在価値さえないと思う。

 メインとなる素材は靖国神社に日本刀を奉納していた老刀匠である。映画は彼の仕事ぶりを紹介すると共に、長い時間を割いてインタビュー場面を映し出す。しかし、そこでは何も語られない。元より寡黙な彼の口から重要な言質を取ろうとする工夫さえもない。ただ質問して、それに対して考えている彼の顔を大写しにするだけ。

 本当は、おそらく彼のような刀匠が作った日本刀が軍属に渡り、それが戦場で使われたことについてのコメントを得たいのだろう。あえて指摘すれば、南京事件の“百人斬り競争”なんかに関係するようなことを言ってもらいたいのかもしれない。しかし、相手は“大人”だから、そう簡単に問題発言をするはずもない。挙げ句の果てに“じゃあ、そっちはどう思う?”と逆に質問されて口ごもる始末。この映画の作者は、靖国神社に縁が深い刀匠にまで会いに行って、いったい何をしているのか。平易な質問を並べて、相手の顔を撮っているだけならば、誰でも出来る。

 映画は8月15日の境内の風景を映し出す。軍服姿などの濃い面々が大挙集合してなかなか興味深いが、言うまでもなくこれは映画の“手柄”ではない。当日当所にカメラを置いてただ回しているだけだ。本作を観るよりは実際8月15日に靖国に行った方が数段面白い体験が出来るだろう。逆に言えば、その日に彼の地で撮影を敢行すれば、誰だって撮れる絵である。

 この李纓とかいう中国人監督は、マイケル・ムーアや原一男の爪の垢でも煎じて飲んだらどうなのか。たとえば、靖国神社の宮司に夜討ち朝駆けのアポなし突撃取材を行い、刺激的なコメントを取るぐらいのことをやってみろ。誰にでも取れる映像を漫然と流すことしか出来ないで、何がドキュメンタリー作家だ。何がカツドウ屋だ。恥を知れ。

 しかも、ラスト近くにはニュース映像を反日テイストたっぷりにコラージュしてお茶を濁す始末。御丁寧にナチス・ドイツのユダヤ人迫害からインスピレーションを受けたグレツキの交響曲第3番をバックに流し、旧日本軍の所業をナチスと同レベルで扱おうという、あまりアタマのよろしくない意図さえ透けてみせる。そういう取って付けた“語るに落ちる”ようなマネはやめてほしい。

 なお、映画の冒頭に“靖国神社の御神体は日本刀である”とのテロップが流れるが、これは正しくはない。明治44年に靖国神社が正式に発行した「靖国神社誌」に所収されている「祭神・附御霊代」には“御霊代は神剣および神鏡である”と明記されており、どこにも“日本刀オンリーだ”とは謳っていない(付け加えると、剣と日本刀は同一のものではないだろう)。こんな調べればすぐに分かることさえやっていない作者の怠慢さには呆れるばかりだ。

 いずれにしても、この無能監督に何も考えずに国民の血税を進呈した文化庁の体たらくは批判されてしかるべきだろう。そんなカネがあるのなら、自分の国の映画作家の育成に回すべきだ。
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「EAST MEETS WEST」

2008-07-30 06:32:09 | 映画の感想(英数)
 95年作品。「スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ」と似たような無国籍風活劇だが、「ジャンゴ」同様ちっとも面白くない映画だ。時は幕末、サンフランシスコに到着した幕府の使節団から強奪された三千両を追う元水戸藩士(真田広之)と彼を狙うお庭番(竹中直人)らが繰り広げる和洋折衷ウエスタンで、監督は岡本喜八御大。

 どこがダメかというと、もう単純にヘタな点である。ストーリーはシンプルで納得できるが、演出がまったくサマになっていない。“西部劇を撮るのが映画を志したときからの長年の夢”と言う監督、実は西部劇の何たるかを全然理解していない。保安官、ならず者、インディアン、酒場での撃ち合いetc.それら西部劇の“外見”は確かにある。だが、なぜ西部劇かという確信犯めいたものがどこにもない。サムライを西部の荒野に置けば絵として面白いだろう、という低レベルの発想しかない。

 西部劇に描かれる世界がアメリカ人の精神的基盤だ、という一説が何かの文献に書かれていたが、それならばアメリカの原風景である西部劇に産地直送の(?)日本文化が入り込むカルチャー・ショックとディレンマを気合い入れて描くべきだろう。結局は損得勘定で動くフロンティア・スピリッツとやらと、義理と人情と忠義に厚い非合理的な大和魂の確執。シビアに描き込めば収穫は大きかったろう。だが、しょせん「独立愚連隊」の岡本だから、難しいこと言いっこなし、面白ければいいじゃん、の世界を目指している。それはそれでいいのだが・・・・。

 居合い斬り以外のアクション場面のヒドいこと。ただ、ピストルをバンバンぶっ放すだけで活劇にはならない。アクションは呼吸と間と段取りである。登場人物をバタバタ走らせるわりには背景の絵の切り取り方が素人っぽく、アクションを必然性ではなく帳面合わせみたいなやっつけ仕事で進めているから、画面にすきま風が吹きまくる結果となる。西部劇をネタに別の面白さをデッチ上げる手口では、マカロニ・ウエスタンの方が数段上。同じような設定の「レッド・サン」(71年)とも比べようがない。

 ガンマンに転身する元教師やら、手下の元生徒たちや、ウロウロするインディアンの皆さんも印象が薄く、悪役もインパクトがなく、残ったのはなんとか個人芸で盛り上げようとする竹中直人の涙ぐましいガンバリだけ。こうなったら時代劇と西部劇のパロディ場面を満載して思いっきりおちゃらけに走ればよかったものを。とにかく煮えきらない珍作に終わってしまった。エンド・クレジットの杏里の歌のなんと茶番なこと(脱力)。
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「クライマーズ・ハイ」

2008-07-29 06:31:19 | 映画の感想(か行)

 もうちょっと脚色をリファインした方が良いと思った。85年8月の日航機墜落事故を前にした地方紙の新聞記者たち奮闘ぶりを描く本作、主人公である遊軍記者の悠木(堤真一)を取り巻くエピソードの中には不十分なものが目立つ。

 悠木と社主(山崎努)との確執の元になっているものは何か、それがハッキリしないので終盤の展開が宙に浮いている。悠木の母親をめぐるエピソードは、文字通り取って付けたようだ。横暴な販売局長との関係性も深くは描かれない。悠木を駅で待っている間に倒れてしまう登山仲間の扱い方は中途半端で、ドラマを停滞させるだけ。そもそも主人公の家族に対する描写がシッカリしておらず、平行して描かれる(現代が舞台の)登山シーンから息子との和解に至る筋書きは説得力を欠く。

 実はこれらは横山秀夫の原作の中では十分説明されていたのだが、2時間の映画の中に全て挿入できるはずもなく、結果として上っ面をなぞる程度に終わっている。どうせ小説版のディテールを網羅できないから大胆なエピソードの刈り込みが必要だったと思うのだが、どうも煮え切らない総花的な展開になってしまったようだ。

 しかし、それらに目をつぶれば見応えのあるシャシンであることは確かである。原田眞人の演出は秀作「金融腐食列島/呪縛」でも描いたようなビジネス現場での群像劇に関しては水を得た魚のごとく快調ぶりを見せる。寒色系の映像の中を縦横無尽に動き回るカメラ。引きのショットと移動撮影、幾分オフ気味の音声も臨場感を盛り上げる。今回は特に“締め切り”という新聞社独自の舞台小道具がモノを言い、迫り来るタイムリミットと素材を追い求める記者達とのギリギリの攻防戦がサスペンスフルな映画的興趣を呼び込む。

 さらに、社内の部署同士の鍔競り合いも熾烈を極め、過去の栄光を忘れられないベテラン勢と主人公らの駆け引きをはじめ、営業サイドからの突き上げが大々的な“出入り”へと発展するプロセスはまさにジェットコースター的で、さぞかし作り手は撮っていて楽しかっただろうと思わせるヴォルテージの高さだ。

 脇のキャストでは悠木の部下を演じた堺雅人がいい。一見頼りないが、強靱な記者魂を内に秘めてマイペースに真相に肉迫してゆくあたりの説得力はかなりのものだ。紅一点とも言える尾野真千子も悪くない。河瀬直美のようなロクでもない演出家と一緒に仕事するより、本作のような骨太の娯楽作で演技の本流を学んだ方が大成する素材だと思った。悠木の上司役である遠藤賢一の海千山千ぶりは言うまでもない。

 不満点はあるが、昨今の邦画では題材の重さも相まって見応えのある作品であるのは確かであろう。本作を観て、80年代という激動の時期を今一度振り返ってみるのもいいと思う。
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「マッチスティック・メン」

2008-07-28 07:30:14 | 映画の感想(ま行)
 (原題:Matchstick Men)2003年作品。詐欺師の男が周囲の企みに翻弄される犯罪コメディで、監督がリドリー・スコットなので少し期待したものの、あまり面白くない。何より、詐欺師を主人公にした映画なのに、その手口が極めてみみっちいのだ。

 立派に事務所を構えていながら、やることが「その日暮らしの寸借サギ」ではどう考えても間尺に合わないだろう。さらに痛いのは、映画の中盤で早々にネタが割れてしまうこと。二十代半ばのアリソン・ローマンが14歳の娘を演じていること自体、すでに結末がバレバレである。取って付けたようなエピローグもエクスキューズにしか思えない。ニコラス・ケイジ扮する主人公の造形も低レベル。潔癖性のヘビースモーカーなんて実際いるのかどうかは別としても、神経質を装ったチック症演技など、わざとらしくて見ていられない。

 リドリー・スコットの演出は切れ味に欠け、テンポも悪い。清澄な映像にかろうじて彼らしさが認められる程度で、今回は製作総指揮のロバート・ゼメキスのテイスト(それも、調子の悪いときのゼメキス)が勝っているようだ。ジャズ風の音楽などスピルバーグの「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」との共通性を見出せるが、出来としては雲泥の差。どうにも気勢の上がらない映画である。
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「歩いても 歩いても」

2008-07-27 06:47:50 | 映画の感想(あ行)

 是枝裕和監督の最良作だと思う。デビュー作「幻の光」に接した時、私は彼を“小津安二郎の(低調な)エピゴーネン”だと評したが、たぶんそう思った者は少なくなかっただろう。おそらくは本人もそれを気にしてか、ファンタジーものやカルト宗教に関わる人々といったイレギュラーなネタを取り上げたり、ホームドラマを描いても「誰も知らない」のような常軌を逸した設定を用意したり(でも、映画自体はその「設定」に負けていたが ^^;)、そこそこの世評とは裏腹な迷走ぶりを示していたと思う。

 ところがこの新作は、満を持しての家族ドラマへの回帰だ。しかも、奇を衒ったシチュエーションは極力抑え、普遍性を持つ設定に徹している。カメラワークこそ小津の影響は見られるが、作劇は小津流とは一線を画す自分自身の方法論を貫いているあたり、フッ切れたような潔さを感じてしまった。

 舞台は神奈川県三浦半島の田舎町。長男の命日のため、次男は妻とその連れ子と共に自分の実家にやってくる。元開業医で頑固者の父親は家業を継がずに家を出た次男とソリが合わない。次男の嫁もコブ付きの再婚ということで、姑とはしっくりいかない。連れ子である男の子は尚更で、継父の実家では居場所がない。対して長女とその家族は無手勝流の明るさを見せ、何とか場を保たせている。逆に言えば長女一家がいなければ空中分解をしてしまうような危うい“家族の肖像”である。事実、長女一家が夕刻に帰ってしまうと、それまで少なくとも表面的な平穏ぶりを見せていた家の中が切迫した状況になる。

 父親は優秀だった長男が他人を助けようとして事故死し、片やリストラされて甲斐性のない次男を見比べて憮然たる思いに駆られる。母親は飄々としているようでいて、誰よりも長男の不在を悲しんでいる。次男の妻は尽くそうと思うほど大きくなる旦那の両親との距離を気に病むばかり。しかし、そんな彼らが本音を出しつつも相手を見限らないという最後の一線を死守して奮闘努力した結果、結局は収まるべきところに収まっていく。

 是枝の“小津流とは違う自分自身の方法論”とは、小津が家族の離反を完璧な様式美で切々と訴えたのに対し、本作は家族の再生を徹底した世俗的視線から描いていることである。つまりは楽天性だ。彼らは一触即発の状態を経験しながら、最後には人間的成長を遂げる。ラストの処理など、登場人物たちの前に広がる限りない未来を暗示して、見事と言うしかない。

 キャストはいずれも好演。阿部寛と夏川結衣はいつもとは異なるバツの悪い役柄を開き直って演じているし、原田芳雄はさすがの貫禄、長女役のYOUのノンシャランな存在感も見逃せない。圧巻は母親に扮する樹木希林で、マイペースに見えて実は腹に一物有りそうなキャラクター造型は見上げたものだ。内面の屈託をぶちまけるような終盤の大芝居もクサくなる一歩手前で留まっている。家屋の佇まいや出される家庭料理などのディテールも抜かりがなく、これは今年度の邦画の収穫といえよう。
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ハインリヒ・シュリーマン「古代への情熱」

2008-07-26 22:00:36 | 読書感想文
 映画「トロイ」でもお馴染みのトロヤ遺跡をはじめ、数々の古代遺産の発掘に功績を挙げたシュリーマンの自伝である。

 中盤以降に次々と紹介される研究の「成果」は、古代ギリシアの美術工芸に詳しくない私としてはピンと来ないが、作者の並はずれた行動力と実行力には圧倒される。彼が子供の頃に読んだトロヤ戦争の物語を成人しても頑なに信じ続け、実業家として発掘に必要な財産と教養を手に入れた後、人生の残り半分を発掘一筋に捧げた情熱。そのバイタリティには驚かされる。

 一番印象に残ったのは「時間を盗むのだ」という一節である。人生で与えられた時間は誰でも限られている。生きるための雑事に費やす日々の時間の中から、いかにして「自分だけの時間」を盗み出すか。豊かな人生を送るには、そのテクニックが不可欠なのだと思う。その姿勢を見習うだけでも、目を通す価値のある本である。
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「インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国」

2008-07-25 06:33:57 | 映画の感想(あ行)

 (原題:Indiana Jones and the Kingdom of the Crystal Skull)おそらくは近い将来作られるであろう“新シリーズ”への繋ぎの役割を果たす作品であり、それ以外は何ら存在価値のない映画である。

 本作の時代設定は1957年だ。映画の中では前三作から約20年の時が経過し、地球上にある秘境・魔境の探索は一段落して宇宙開発と核戦略が注目の的になる。第二次大戦前において、辺境の地でムチを片手にナチスや怪しい邪教集団なんかと戦ってきた、往年のヒーローであるインディ・ジョーンズの出番は少なくなってきている。有り体に言ってしまえば“時代遅れ”なのだ。

 ただし、いきなり主役を交代させての心機一転となると、興行的には難しい。そこで何とか“引退の花道”みたいな筋書きをデッチあげ、次なる展開の布石にしたかったと思われる。そういう積極的とは言い難い製作動機のせいか、作劇もアクション場面も弛緩しきっている。

 序盤の米軍基地でのソ連軍との追いかけっこは、いくら“悪者が放った弾丸はすべて外れる”というお約束があるとはいえ、段取りとカット割りの切れ味は前三作とは比べようもないほど低レベル。続く核実験施設からの脱出劇は完全に“有り得ない”パターンであり、観ていて脱力するのみ。大学構内での大立ち回り、ジャングルの中でのカーチェイス、いずれもスピード感が欠如してまるで盛り上がらない。古代遺跡のセットと仕掛けはどこかで見たようなものばかりだし、虫の大群が出てくるのも二番煎じで、クライマックスは第一作「レイダース」の焼き直しのようでいてヴォルテージの高さはまるで及ばず。全体的にエピソードを行き当たりばったりに並べているだけで、ドラマにまるでメリハリがない。

 作中ではインディは58歳という設定で、演じるハリソン・フォードは60歳をとうに過ぎている。老体にもかかわらず飛んだり跳ねたりの頑張りは敢闘賞ものだが、正直言って痛々しい。久々登場のカレン・アレン扮するマリオンとの“夫婦げんか”は確かに微笑ましいけど、どうも年寄り臭くてマッタリとなり過ぎてしまうのは痛し痒しである。わずかに目立っていたのは悪役を楽しそうに演じていたケイト・ブランシェットぐらいだ。

 さて、主役が替わっての今後の方向性はどうなるのだろうか。冷戦時代に付き物のスパイ・アクション仕立てで行くか、今回のようなSF風味にするのか、いろいろとネタは考えられるが、観る側としてはとりあえず生暖かく見守っていくことにしよう(爆)。
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「夢魔」

2008-07-24 06:36:36 | 映画の感想(ま行)
 94年作品。往年のにっかつロマン・ポルノがよみがえったような、スキャンダラスで凶々しい魅力にあふれた映画だ。バスの運転手である主人公(田口トモロヲ)は近ごろ同じ夢ばかり見る。子供のころ、いじめられてケガした彼が帰宅すると母はおらず、当時下宿していた若い女(真弓倫子)から手当を受ける。彼女の胸元にタバコを押し当てたような火傷のあとを発見した彼は、薬を塗ってやる。それは子供にとっては大変官能的な体験だが、果たして本当にあったことなのかは定かでない。

 ある日彼はバスの中に置き忘れていた女物のサイフを拾い、入っていた身分証を頼りに持ち主を探して届けに行く。その女・紀子(真弓倫子の二役)も最近同じ夢を見るという。それは胸元の火傷のあとに子供が薬を塗っている夢である。

 映画はどうして二人が同じ夢を見るのか説明しない。そういうことはハナから重要視されていない。それは二人が出会って奈落の底に墜ちていくきっかけでしかないのだ。一見マジメで清純そうな紀子は、昼はOL、夜は売春婦である。そんな生活に対して罪悪感はゼロ。金が欲しいとか淫乱だとかではなく、ただ単に呼吸するようにセックスをしまくる。友人(大西結花)の彼氏とも彼女が紹介してくれた男とも平気で寝る。主人公とも会ってただちに部屋に連れ込んで変態的な行為を迫る。

 感情・理性の一部が完全に欠落したようなこの女の生活は、まさに夢の中にいるように実体感がない。平凡そのものの刺激のない生活に埋没していた主人公も同じように夢の中にいる。この映画は眠っているような日々を送る二人が、夢から覚めるまでを描いた作品、と言っていいのかもしれない。

 ひんぱんに会うようになった二人は、夢の続きを見るようになる。夢と現実の区別がつかない主人公は、残酷な夢の結末を実行するハメになる。女もそれに従うしかない。クライマックスの真夜中のバスの中での惨劇は、人間の持つ妄想の激しさを見事に表現して圧巻だ。そしてそれまでのトーンが一変するラストシーンの驚き。なかなかしたたかな演出である。

 人間味のまったくない千葉・幕張の市街地を巡行するバス、寒色系の画面構成が、登場人物の心情風景を的確にあらわしている。佐々木原保志の撮影が見事。そういえば、この映画の概略は石井隆が描く“村木と名美”のシリーズと似ていないこともない。ただ、当時は袋小路に入った感のあった石井作品より、数段ヴォルテージが高い。

 田口は相変わらずの怪演。映画初出演の真弓の存在感もスゴイ。何といってもエッチだ(笑)。原作は勝目梓。音楽は中国映画「青い凧」も手掛けた大友良英。そして監督はピンク映画出身で「やわらかい生活」や「きみの友だち」など一般映画でも多くのフィルモグラフィを持つ廣木隆一だが、私が今まで観た彼の作品ではこの映画が一番良い。
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「私の胸の思い出」

2008-07-23 06:33:35 | 映画の感想(わ行)

 (原題:天性一對)第22回福岡アジア映画祭出品作品。突然乳ガンを宣告されたキャリアウーマンの苦悩と再出発を描くロー・ウィンチョウ監督による香港映画だが、とにかく深刻な題材にもかかわらず過度に脳天気な展開に呆れるばかりである。まあ、極端に深刻ぶって大仰な“泣かせ”に走る韓国映画よりはマシだが、こうも脳みそにシワがないような与太話を押しつけられると、重大であるはずのテーマ自体も限りなく“軽く”思えてくるのだから困ったものだ。

 いくら広告業界の第一線に身を置く多忙な状況とはいえ、自分の命に関わることを何の逡巡もなく二の次・三の次にして目先の雑事にとらわれてしまうヒロインの非・聡明ぶりに呆れてしまう。かと思えば女友達二人の痴話喧嘩がクローズアップされたり、妙にタイミング良く昔の恋人が現れたと思ったらケチな寸借詐欺に関与していたり、さらに彼女と仲良くなる軟派な医者が性的不能に陥って心理療法を受けているとか何とか、どうでもいいようなネタが延々と続く。

 もちろん彼女自身も悲観して練炭自殺を二度も試みるとかいった描写も出てくるのだが、どうも本気で悩んでいるようには思えず、取って付けたような印象しか残らない。終盤にはライバル会社との広告コンペのエピソードなんかも挿入された後、彼女が手術を受けることを決意するくだりで終わるのだが、このラストでようやく“ああ、これは難病ものだったんだ”と思い出す観客もいるかもしれない(笑)。

 主演のミリアム・ヨンは確かにキャリアウーマンっぽいが、どうもガサツであまり可愛くない。相手役のリッチー・レンは論外。たとえて言うならば“自分をカッコいいと思っている売れないホスト”である(爆)。結論としては、観る価値のあまりない映画だと片付けてよかろう。ジョニー・トーがプロデュースしているのに、この出来映えには脱力する。

 さて、福岡におけるアジア映画祭の“元祖”であるこの映画祭だが、今やこれから派生して“本家”の地位を得るに至った9月のアジアフォーカス福岡国際映画祭の完全に後塵を拝するようになっている。いくら“ボランティアによる運営”を謳い文句にしようが、大事なのは出品映画の質だ。もちろん私はすべての作品を観ているわけではないが、ここ数年間この映画祭で良い映画に出会った記憶はない。そろそろ映画祭の存続を含めて、真面目に今後の方針を議論したらどうだろうか。
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「ルディ 涙のウイニング・ラン」

2008-07-22 06:52:33 | 映画の感想(ら行)
 (原題:Rudy)93年作品。アメリカ映画得意のスポ根もの。でも、ここで描かれるクライマックスはワールド・シリーズの九回裏でもなく、オリンピック陸上競技のゴール前の攻防でもない。大学フットボールの公式戦、しかも主人公がフィールドにいたのはわずか27秒間、カッコよくタッチダウンするわけでもなく、難しいパスを決めたりもしない。ただ走り回っているだけ。かといって、シニカルに構えたり視点を別のところへ持って行って雰囲気を変えたりもしない。まことに正攻法でストレートなドラマ。そして十分感動的なのだ。

 70年代前半、フットボールの名門ノートルダム大学にあこがれる少年ルディ(ショーン・アスティン)だが、家庭の事情で進学を断念する。しかし、いつか家族の前でノートルダム大チームの一員としてプレイしたいという夢はふくらむばかり。4年間、父の経営する工場で働いて学費を稼ぎ、カレッジに入りノートルダム進学を志す。

 想像を絶する苦難の連続。一流大学に入学するため猛勉強する主人公だが、何度も何度も落ちる。もーあきれるぐらいに落ちる。おまけに好きな女の子からはフラれる。死ぬ思いで末席で入ったものの、名門チームにおいそれと入部できるわけがない。160センチしかない体格。技術もパワーもない。それでも熱心さに打たれて入部できるが、当然補欠である。来る日も来る日もレギュラー達の練習台をつとめて数年が過ぎ、気がつくと最終年度だ。自分を認めてくれたコーチは転任となり、4年生最後の試合は近づいてくる。果たしてルディはフィールドに立てるのか。

 この逆境を演出はまさに容赦ない筆致でたたみかける。通常だと“ここで状況は好転するだろう”と観客が思う部分はすべてその期待を裏切る。さらに、金もなく試合も見られない主人公の惨めさや、家族からも疎んじられる境遇も手加減なく描く。しかし、だからこそ、これをはねかえすルディの熱意が素晴らしく輝いて見えるのだ。言い忘れたが、実話である。フィクションとは違う、等身大の主人公の焦りや挫折、そして希望を観客が感情移入しやすいように盛り上げていく手法は、まさにあなどれない。

 監督はデヴィッド・アンスポー。知る人ぞ知るスポ根映画の快作「勝利への旅立ち」(87年)を手掛けて注目されたが、今回もクライマックスの試合場面は、怒涛のような高揚感で圧倒させる。ジェリー・ゴールドスミスの音楽。オリヴァー・ウッドのカメラ。スポーツ映画好きには見逃せない秀作である。
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