元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「まぶだち」

2012-07-30 06:52:02 | 映画の感想(ま行)

 (注意! 映画の結末に触れています)

 2001年作品。80年代の長野県の田舎町を舞台に、3人の男子中学生(沖津和、高橋涼輔、中島裕太)の青春前期のドラマを描く古厩智之監督作品。生徒達のキャラクターは丁寧に描き込まれてはいるが、同じ年に製作された岩井俊二監督の「リリイ・シュシュのすべて」に比べるとずいぶん甘く、まあ佳作クラスだろうか・・・・と思っていたら、ラストの登場人物達の「その後」を説明した部分で少なからず衝撃を受けた。

 主人公やクラスメイト達は誰一人として幸福な人生を歩んだ者はいなかったのだ。ある者は逆境に甘んじ、またある者は鬱屈した人生を送り、中には非業の死を遂げた者もいる。そして、ただ一人担任の理科教師(清水幹生)だけが順調に出世して校長になる。

 この教師がまた異常なキャラクターに設定されており、自分の人生観を生徒に押しつけて、反抗する生徒を徹底してクズ扱いする。生徒の未熟ぶりを容赦なく抉り出す彼の指導ポリシーは共感できる部分もないではないが、そんな彼自身がそれにふさわしい完璧な人間かというと大いに疑問で、自分にはとことん甘い夜郎自大で偏屈なサディストとしか思えない。

 通常こういう設定のドラマだと「横暴な教師は一生うだつが上がらず、自由気ままに青春を謳歌していた生徒達は闊達な人生を送りました」というオチになるはずだか、ここでは全く逆になっている。

 もちろん、開放的な学生時代を送った者がその後も順調な人生を送れるとは限らないし、この教師のように体制べったりで高圧的に振る舞う方が世渡り上手なのは世の常なのだが、ここでの結末の付け方は単なる「現実はこうだよ」という割り切り方には留まらない、作者の「心の闇」を垣間見るような、何か非常に暗くて陰惨なものを感じてしまうのだ。「リリイ・シュシュ~」とは別の意味で実に“痛い”映画であり、観る価値は大いにある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

GOLDMUNDのアンプを試聴した。

2012-07-29 07:11:40 | プア・オーディオへの招待
 スイスのオーディオ機器メーカー、GOLDMUND社のアンプの試聴会に足を運んでみた。78年に創設された同社は、欧州を代表する高級ブランドとして知られる。今回聴けたのはプリアンプのMimesis 27.8とメインアンプのTelos 250である。二つあわせて定価ベースで380万円ほどだが、これでもGOLDMUNDのラインナップの中では安い方なのだ。

 CDプレーヤー部は同じくスイス製のCH Precision社のモデルが使われていたが、これも600万円を超える高級機。スピーカーは米国WILSON AUDIO社のSASHAが繋げられており、こっちは約350万円。総額一千万円を超えるシステムでの試聴となった。



 値段が高いのだからパフォーマンスの質も上々なのは当たり前・・・・とはいかないのがオーディオの世界で、ハイエンドであっても低調な音しか出ないシステムに遭遇することも少なくない。しかし、今回のシステムが奏でるサウンドはかなりクォリティが高く、感心した。

 音がとにかく清澄。チリひとつ落ちていないような音場の展開で、音像はどれもピンポイント的に定位する。上下左右はもちろん奥行き方向にも音は広がり、しかも音色は明るい。これぞ高級機といった満足感を聴き手に与えてくれる。

 WILSON AUDIOのスピーカーは屈託の無い音の押し出し感が特徴的だが、スイス製の機器でドライヴすると奔放な低域の手綱が絞られ、制動の効いた展開になる。では面白味も薄れるのかと思われそうだが、しっかりとWILSON AUDIOらしい闊達な持ち味は活かされ、聴いていて実に楽しい。



 今回のGOLDMUND社のアンプの特徴として、バランス入出力が無いことが挙げられる(すべてRCAケーブルによるアンバランス接続だ)。そしてメインアンプにもDAC(デジタル/アナログ・コンバーター)が内蔵されている。これはこのシステムがピュア・オーディオではなくAV用を想定しているためらしい。

 こういう高価な機器をAVシステムとして“手軽に”導入してしまうユーザーというのはあまり聞かないが、欧米ではけっこう存在しているのだろう。

 GOLDMUND社の製品といえば、何年か前に同社の定価140万円のユニバーサルプレーヤーEdios 20Aの内部パーツが、PIONEERの定価3万円弱のDVDプレーヤーDV-600Aとほとんど同じであることが指摘され、一悶着起こしたことを思い出す。

 あれから日本における輸入代理店が変わり、仕切り直し的に現行の商品ラインナップが揃えられたのだが、いずれにしても“あの事件”はオーディオ機器における“正常な価格”とは何であるのか、考えさせられる出来事であったように思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ぱいかじ南海作戦」

2012-07-28 06:52:48 | 映画の感想(は行)

 観ていてノンビリは出来るが、ただそれだけといった感じの映画だ。椎名誠の同名小説の映画化。勤務先が倒産し、嫁さんには逃げられ、失意のどん底にあった主人公の佐々木が“自分探し”のために訪れた西表島で一癖も二癖もある連中と付き合うハメになるというコメディ。監督はこれが長編映画監督デビューになる細川徹である。

 最初に佐々木が出会うのが、浜辺でホームレス生活を送る怪しい四人組だ。彼らと意気投合する佐々木だが、しばらく経つと四人組は佐々木の荷物とカネを奪って姿を消してしまう。たちまち窮地に追いやられる佐々木の“救世主”になったのが、都会生活に疲れて島にやってきたオッコチくんという青年。佐々木は彼を言いくるめて、生活費を出させることに成功。

 やがてアパとキミという女子二人も加わり、浜辺での生活も板に付いてきたところで、彼らはくだんの“ドロボウ四人組”に対して戦いを挑むという話だ。

 阿部サダヲ扮する佐々木のモノローグに乗って、調子よく話が進むところはよろしい。ホームレス連中に簡単にダマされた情けない野郎であるにもかかわらず、サバイバルの達人を気取って3人の“新参者”に向かって蕩々とウンチクを垂れるのも笑える。ただし、彼らが立案する“作戦”というのがテントの周囲に鳴子を配置したり、落とし穴を掘ったりといった“子供レベル”である点はあまり愉快になれない。しかも実際はそれらと関係なく決着が付いてしまうのだから、観ているこちらは鼻白むばかり。

 また主人公の別れた妻がCMディレクターで、撮影隊を引き連れて島にやってくるという終盤の展開も取って付けたようで愉快になれない。中盤までのサバイバル路線を緩い感じで続けていけば、上質の“環境ビデオ”みたいなノリで盛り上がったと思うのだが、残念だ。

 阿部サダヲは相変わらずの快演だが、オッコチくん役の永山絢斗やピエール瀧をはじめとする泥棒軍団も気持ちよさそうに演技をしている。ただし、キミに扮する佐々木希は最悪だ。まったく演技が出来ないのに、どうして映画に出ていられるのだろうか。今回特にアパ役として貫地谷しほりという芸達者が隣に控えていることもあり、その大根ぶりは痛々しい限り。今後よほど優秀なスタッフに恵まれない限り、女優業から足を洗った方が良い。

 肝心のラストは正直言ってワケがわからない。原作もそうなっているのかどうか知らないが、これでは途中で映画作りを放棄したと捉えられても仕方が無いだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画音楽のあり方について。

2012-07-27 06:28:17 | 映画周辺のネタ
 よく考えてみれば“映画音楽”という枠組みも奇妙なものだ。一般に映画音楽といえばジョン・ウィリアムズやジェリー・ゴールドスミスあたりを思い出す向きが多いかと思うが、ポップス・ナンバーの寄せ集めであっても立派に映画音楽足りうるのである。

 作曲家陣にしても、武満徹や黛敏郎、ジョン・コリリアーノといった真性のクラシック畑(現代音楽)の人材がいると思えば、ラロ・シフリンやデーヴ・グルーシンのようなジャズ系、トレヴァー・ラビンやヴァンゲリスなどのロック系も存在する。もちろん単発的に映画音楽を担当している有名ミュージシャンも少なくない。当然音楽性も千差万別である。

 しかし、それらは“映画の中で流れている”との理由ですべて“映画音楽”というひとつのジャンルに括られてしまう。そのへんが実に面白い。

 しかも、映画音楽は“たまたま映画に使われた○○というジャンルの曲”という割り切った捉え方をされないのである。たとえばマイルス・デイヴィスの「死刑台のエレベーター」はモダン・ジャズの名盤として知られているが、これが映画音楽として扱われなければジャズ・ファン以外の音楽好きからは見向きもされなかったはずだ。

 ところがあの旋律がルイ・マルの才気走った演出とセットになって語られるとき、単なる“ジャズの名曲”という次元を離れて“代表的な映画音楽”という別の評価と聴き手を獲得するようになる。いわば映画音楽とは“映画の中で使われている”という名目以外にも、音楽自体の形態とは関係なく“聴き手の受け取り方”によってジャンル分けされた、興味深い素材であるとも言えるのである。

 さらに、普段聴いている音楽ジャンルと好きな映画音楽の形態が一致するとは限らない。私はラップだのヒップホップだのといったサウンドは嫌いだが、「ドゥ・ザ・ライト・シング」や「JUICE」などの音楽は好きである。また、映画音楽としての久石譲作品には幅広いファンがいるが、それ以外の久石の音楽はポピュラーとは言えない。映画というフィルターをかけることにより、別の付加価値を聴き手にもたらしているのだ。

 逆に言えば、映画に使われる音楽というのは、そのジャンルの音楽を愛好している層以外の普通の映画ファンをも、その映画を観ている間はその音楽ジャンルを好きにさせるような存在感がなければならないと思う。

 もっとも、映画自体より音楽の方が目立ってしまうのも考えものだ。確かにレベルの低い映画音楽は願い下げだが、“音楽は良かったけど映画の内容は忘れた”では意味がない。あくまで映画の中の音楽は“本編”の従属物であるべきだろう。場合によっては音楽を一切使わない映画作りだってあるのだから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「紅夢」

2012-07-23 06:17:33 | 映画の感想(か行)

 (原題:大紅燈篭高高掛)91年作品。第44回ヴェネツィア国際映画祭で銀にて銀賞を獲得。中国の新進作家・蘇童による中編小説「妻妾成群」の映画化で、時代は1920年代、大地主の第四夫人として嫁ぐことになったヒロイン・頌蓮が、主人の絶大な権力と女たちの愛憎に翻弄される姿を描く。監督は張藝謀、エグゼクティヴ・プロデューサーが候孝賢(ホウ・シャオシエン、と読む)という豪華スタッフである。

 「紅いコーリャン」(87年)と「菊豆」(90年)で中国の苦難の近代史を描写したかに見えた張監督は、この作品ではそういう歴史的・社会的側面にはっきりと背を向けている。

 確かにここには大地主の結婚相手を人間扱いしない非近代性や、牛馬のごとくこき使われる使用人たちの苦労も描かれる。社会派と言われる映画作家にとって格好の素材が提示されてはいるのだが、作者の意図は別のところにある。外界とは隔離された女主人公の自閉的な内宇宙へとひたすらのめり込むのだ。

 ヒッチコックの「裏窓」を思い起こすように、この映画では冒頭の部分を除いて、カメラは迷宮のような地主の屋敷、特に妻たちの部屋が並ぶ中庭を出ることはない。そしてその夜の相手に選ばれた女の足の裏を打つ木槌の音だけが広い邸内に響き、高々と掲げられる大紅燈は登場人物たちの暗い欲望をあらわすかのように闇夜に輝く。

 第二夫人と第三夫人との確執が物語の中心として描かれるが、ドラマティックな描写があるわけではない。すべての出来事が暗喩を中心としたシンボリックな映像の動きとしてとらえられる。“密室の官能性”とでも言おうか、これもまた映画的興奮のひとつには違いない。観る者を引き込んで離さない。

 そして映像の素晴らしさは特筆ものである。大きな提燈の赤が無彩色や寒色をベースにしたバックの中からふっと浮かび上がる美しさを何と表現したらいいのだろう。張監督の色彩感覚は世界屈指である。舞台的構図のような画面レイアウトに人物を配置させたバランス感覚の見事さ、静かな様式美を基調にしているから、終盤の雪の中の惨劇の衝撃がリアルに伝わってくる。

 張監督と三たびコンビを組む主演のコン・リーは相変わらずの好演。時折流れる民族音楽も効果的だ。しかし、公開当時は「紅いコーリャン」のダイナミズムを愛していた私としては、この隔絶された息苦しさは少し納得できない部分がある。

 重要な人物であるはずの地主は最後まで一度も顔をハッキリと見せないが、これはどういう意味だろう。ひょっとしたら張監督にとって、この自閉的空間から外界に打って出るべき対象がこの地主の顔に投影されているのではないだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラーシュ・ケプレル「催眠」

2012-07-22 06:31:43 | 読書感想文

 本国スウェーデンをはじめ、各国で話題になったという匿名作家(現在は本名が明かされている)のデビュー作。上質のミステリーとして評判になり、早くもラッセ・ハルストレム監督による映画化が決定しているそうだ。

 ストックホルム郊外で起きた一家惨殺事件。父親がまず殺され、母親と幼い娘がメッタ刺しにされる。15歳の長男は大けがをしながらも何とか一命を取り留めるが、捜査にあたった国家警察のリンナ警部は、催眠療法で知られるバルク医師に少年から事件の状況を聞き出すように依頼する。ところが、意外か事実が明らかになって・・・・という話。

 結論から先に述べると、つまらない小説だ。冒頭の惨劇の真相解明が物語の中心プロットになると誰しも思うはずだが、実際にはそうならないのには心底呆れた。何と中盤からバルク医師の息子の誘拐事件がメインになり、一家惨殺事件なんてまるで“放置プレイ”のごとく脇に追いやられる。

 ならば一家惨殺事件が完全に解決するのかというとそうでもなく、何やら“結末らしきもの”が御為ごかし的に示されるだけだ。で、誘拐事件の方は面白いのかというと、これも大したことはない。暗躍するナゾの少年団(?)みたいなのが何か鍵を握っているのかというと、実はあまり関係が無かったりする。

 どうやら犯人像はバルク医師が過去に試みた催眠療法に大きく関与しているらしいことが分かってくるのだが、それを説明するために途中から“バルク医師の一人称小説”が挿入される。これがまた不必要に長い。嫁さんとの確執なんか要領を得ない描写の連続で、正直どうでもいい気分になってくる。

 キャラクターも魅力無し。バルク医師は甲斐性の無いオヤジに過ぎないし、リンナ警部なんかただの“記号”に見えてくる。そもそも、催眠術の持つ妖しく危険な要素を描出していないのが致命的で、読んでいてちっともワクワクしないのだ。映画化を担当するハルストレム監督も旬の作家ではないし、こっちも期待出来ない。上下巻にわたる長編だが、個人的には読む価値は無かったと言える。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「アメイジング・スパイダーマン」

2012-07-21 06:49:48 | 映画の感想(あ行)

 (原題:THE AMAZING SPIDER-MAN)以前のサム・ライミ監督によるシリーズと比べたら、こちらの方がずっと面白い。それは作者の“オタク度”の違いに起因していると思う。

 今から考えればトビー・マグワイア扮するライミ監督版の主人公は、オタクっぽくて性格も明るいとは言い難く(変身時以外は)身体のキレも悪かった。イマイチ冴えない奴がひょんなことからスーパー・パワーを得て活躍するという、いわばオタク野郎の願望を満たした時点で自己満足しているようなシャシンで、肝心の作劇は充実していたとは言い難い。

 対して装いを新たにした本作のピーター・パーカーは、ごく平凡な高校生だ。取り立てて秀でた点はないが、成績は悪くなくスポーツだって一通りこなす。極端にオタク的な趣味も持たない。こういう“フツーの奴がイレギュラーな事態に突入する”という設定は、有り体に言えば“無理がない”のである。

 普遍性が高く、その後の展開もフリーハンドで行える余地が大きくなる。オタク趣味に足を引っ張られる懸念も無い(笑)。そのせいか、作品の雰囲気は明るい(注:単なる脳天気とは違う ^^;)。ピーターの両親の失踪の原因は分からず、優しい伯父さんが非業の最期を遂げるなど、結構屈託が多いものの、自前のコスチュームをいそいそと作ったり熱血スポーツ路線みたいな特訓に勤しんだりと、あくまで前向きだ。演じるアンドリュー・ガーフィールドのタイトでスポーティな出で立ちは、作品のカラーにマッチしている。

 「(500)日のサマー」で知られるマーク・ウェブの演出は若者恋愛事情の扱いが巧みで、ヒロインのグウェンとの絡みも手慣れたものである。グウェン役のエマ・ストーンは、女優の趣味が最悪であるライミ版のキルスティン・ダンストとは比べものにならないほど魅力的。敵役のリース・イーバンズもこれまた“フツーの奴がイレギュラーな事態に突入する”シチュエーションをうまく表現した妙演である。マーティン・シーンやサリー・フィールドらベテラン陣が脇を固めているのも嬉しい。

 私は偏光メガネの長時間着用が苦手なので3D版では観ていないが、アクション場面はよく練られていると言える。ただ、怪人リザードの暴れぶりがハリウッド版「ゴジラ」と似ているように感じるのは御愛敬か(笑)。いくつかのモチーフが未解決のままで終わるのは次回作を待てという意味だろうが、ヒットしているのでパート2も作られるだろう。このペースでシリーズを重ねてほしいものだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ほえる犬は噛まない」

2012-07-20 06:27:18 | 映画の感想(は行)
 (英題:Barking dogs never bite )2001年韓国作品。年上の妊娠中の妻に頭が上がらない大学の非常勤講師の男と、マンションの管理事務所で働く冴えない女の子が、団地内で多発する飼い犬失踪事件に巻き込まれていくというアクション・コメディ。

 まさに傑作である。ギャグに次ぐギャグの応酬。テンポの良すぎる展開。粒ぞろいのキャラクター。何より、考えてみればブラックでシリアスな題材にもかかわらず、後味がさわやかで感動さえ覚えてしまうのは素晴らしい。



 監督のポン・ジュノはこの後「殺人の追憶」(2003年)や「母なる証明」(2009年)といった話題作を撮るのだが、私は彼が脚本も手掛けた本作がベストだと思う。いくつものモチーフがバラバラに並んでいるように見えて、終盤にイッキにまとめる手腕には舌を巻いた。

 嫁さんの尻に敷かれっぱなしでヤケクソ気味の男に扮するイ・ソンジェもいいのだが、ヒロイン役のペ・ドゥナの存在感には圧倒された(彼女はこれがデビューから二作目だった)。美人ではないけど実に健気で可愛らしく、活劇場面での身体表現力には瞠目させられる。

 黄色を主体にした画調(銀杏の黄葉、ヒロインのジャージetc.)、ジャズを活かした音楽も最高だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「アメリ」

2012-07-17 06:34:11 | 映画の感想(あ行)

 (原題:Le Fabuleux destin d'Amelie Poulain )2001年作品。好奇心旺盛だが内気で自分の心情を表に出せないヒロインの、奇妙な恋のさや当てを描く。本国フランスでは大ヒットし、公開当時は我が国でも随分と話題になったものだ。

 自分の殻に閉じこもっていた主人公が何かのきっかけで外部に向かってブレイクアウトしてゆく話・・・・などという古今東西掃いて捨てるほど撮られてきたネタを今さら扱うにはよほどの創意工夫が必要だが、そこはジャン=ピエール・ジュネ監督、エクステリアには抜かりがない。

 キュートな意匠をCGやデジタル処理を使って表現し、現実のパリをノスタルジィと情緒あふれるファンタスティックな異世界に作り変えている。そして何といっても、これが出世作になった主役のオドレイ・トトゥの存在感だ。

 びっくりするほど大きな瞳と華奢な体つき(そして巨乳 ^^;)、生々しさを排除した透明なキャラクターの創造は、ヒロインが仕掛ける“悪戯”に代表されるような彼女の身勝手な善意の押しつけを巧みに中和し、観客に共感を覚えさせる次元にまで昇華させている。

 もともとこの役はエミリー・ワトソンで想定されていたらしいが、ワトソンが主演していたら冗談がキツ過ぎて笑えない映画になっていたことだろう(爆)。ヤン・ティルセンによる音楽やブリュノ・デルボネルの撮影も良く、何度でも観たくなる作品である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

親は何をしていたのか(イジメについて)。

2012-07-16 07:09:10 | 時事ネタ
 滋賀県大津市で中学2年の男子生徒がイジメを受けて自殺した事件、イジメの非道さに加え、事実を隠蔽しようとした学校当局や教育委員会、あるいは被害届を門前払いした警察などの杜撰な姿勢が明るみに出つつある。これらは徹底的に究明しなければならないことは、言うまでもないだろう。

 しかし、この事件について個人的にはどうも腑に落ちぬところがある。それは、被害者の親はいったい何をやっていたのか・・・・ということだ。

 息子が自殺を考えるほど追い込まれまで悩んでいることに、どうして気が付かなかったのか。聞けば、事件の3日前にイジメっ子どもが家にまで押しかけ、部屋の中を荒らして金品を奪ったらしい。これは立派な“犯罪”ではないか。最低でもこの時点で親が何らかのアクションを起こしていれば、悲劇は防げたのではないか。子供が犠牲になってから被害届を出しても遅い。

 よく“最近のイジメは質が悪い”というセリフを口にする大人がいるが、イジメなんてものは古今東西あったわけで、今更“イジメは犯罪だから良くない!”というシュプレヒコールを上げるだけでは何もならない。学校のセンセイなんて昔からイジメに対しては無力だし、教育委員会や警察はもっとアテにならない。結局、イジメに対峙しなければならないのは、本人と親なのである。

 ひょっとして、今回の被害者とその親には“イジメに遭うのは(自分が弱いことが明らかになるという意味で)恥ずかしい”という意識があったのではないだろうか。本人はその“恥ずかしいこと”を家族に打ち明けられず、親は子供が“恥ずかしいこと”に遭遇しているとは思いたくはなく、事実を正面から見据えないままに取り返しの付かない事態になってしまったのではないか。

 普段から親が“誰だってイジメの被害には遭う。恥ずかしいことではない。だからイジメられたら遠慮無く打ち明けろ”とでも言っておけば違った結果になったのかもしれない。子供が“イジメられていて辛い”と言えば“本当に辛かったら学校に行く必要は無い”とアドバイスできるような姿勢を親が見せておくべきだったと思う。

 もちろん、子供がイジメに苦しんでいることに気がつくような、親としての洞察力が不可欠であることは言うまでもない。

 繰り返すが、今回イジメに荷担した奴をはじめ、事なかれ主義の教師連中や教育委員会、警察の及び腰などは糾弾されなくてはならない。ただし、そんな“加害者側に対する非難”ばかりが先行しても、イジメ問題は解決しないのだ。大切なのは、現時点で手酷いイジメに遭遇している生徒達を救うことである。その役目を担うのは学校でも警察でもなく、親なのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする