元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「続・深夜食堂」

2016-11-30 06:33:06 | 映画の感想(さ行)

 前回と同じく3つのエピソードから成るが、そのうち最後のパートだけは好きになれない。聞けばこの部分だけ原作(安倍夜郎によるコミック)と離れた映画オリジナルらしく、違和感を覚えたのはそのせいかもしれないが、いずれにしても鑑賞後の印象は格別とは言い難いのには困った。

 第三話の中心人物は福岡から上京してきた老女・夕起子だ。東京駅で不慣れな携帯電話で会話した後、夜遅くに路上で胡散臭そうな男に現金の入った封筒を渡す。相手は彼女の息子の同僚と名乗り、金を受け取るとそそくさと去って行った。彼女は帰ろうとタクシーに乗るのだが、偶然にも運転手は深夜食堂のマスターの知り合いである晴美だった。夕起子の話を聞いておかしいと思った晴美は、よもぎ町交番に彼女を連れて行く。警官の小暮は事情を聞くと共に、マスターに夕起子の面倒を見てくれるように頼む。

 要するに“振り込め詐欺”(この場合は“来て来て詐欺”だが)に引っ掛かった老人を、レギュラーメンバー達がフォローする話だ。夕起子は実の息子の連絡先どころか消息さえも知らない。もちろんこれには理由があるのだが、いくら御都合主義が約束事の当シリーズとはいえ、牽強付会に過ぎるのではないだろうか。百歩譲ってそういう背景があるとしても、簡単に詐欺に遭うとは考えられない。

 さらに言えば、夕起子と息子との折り合いの付け方にしても、詐欺事件の顛末にしても、何とも煮え切らない展開で不満が残る。そして何より、いくら福岡は東京から遠いといっても、こんなにも世間知らずでナイーヴな年寄りがいるとは納得しがたい。とにかく“博多ごりょんさん”をナメたらいかんばい(笑)。たぶん食堂のメインメニューの由来に言及したいためにこのエピソードを用意したのだろうが、もうちょっと筋書きを練り上げて欲しかった。

 残り二つのパートは楽しめる。喪服を着ることがストレス発散になるという変わった趣味を持つ女が、本当の通夜の席で出会った渋い中年男性に惹かれていく話は、絶妙のオチも付いて大いにウケた。近所にあるそば屋の息子・清太が、なかなか子離れしてくれない母親・聖子に、10歳以上も年長の恋人さおりとの結婚を言い出せずに悶々とする話も、予定調和ながらしみじみと見せる。

 マスター役の小林薫をはじめ、佐藤浩市、池松壮亮、キムラ緑子、小島聖、多部未華子、片岡礼子、谷村美月、オダギリジョーなど、豪華な顔ぶれを揃えながらそれぞれの個性を発揮させている松岡錠司の演出はソツがない。このシリーズの売り物である料理の描写も絶妙で、今回は焼肉定食と焼きうどん、豚汁定食がフィーチャーされるが、どれもすこぶる旨そうだ。新宿の裏通りのセットは申し分なく、お馴染みの鈴木常吉による主題歌も効果的だ。それだけに、第三話のヴォルテージの低さは惜しいと思う。
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「マグダレンの祈り」

2016-11-29 06:37:11 | 映画の感想(ま行)
 (原題:The Magdalene Sisters )2002年イギリス=アイルランド合作。まず驚くのが、ここに登場する“マグダレン修道院”のような前近代的な宗教施設が、つい最近(20世紀末)までアイルランドに存在していたという“事実”である。

 当修道院は19世紀に誕生し、新約聖書に登場する娼婦の身から改心して聖女となったマグダラのマリアにあやかって、社会的に阻害された女性の保護収容と仕事の斡旋を名目として設立されたが、その内実は虐待と強制労働が日常茶飯事の、狂信的なカソリックの戒律が支配した非人道的な組織であったことを告発している。この映画はそんな施設に無理矢理に収容された3人の若い女のドラマだ。



 1964年、ダブリンに住んでいたマーガレットとバーナデット、ローズの3人は、ふしだらな罪深い女と見なされてマグダレン修道院に収容される。そこは厳格なシスター・ブリジットに支配された、抑圧的な世界だった。3人は脱走すべく、あらゆる手立てを考え出す。

 なるほど、理不尽な境遇にもめげず、健気に生きていく彼女たちの姿は感動的に見える。しかし、ちょっと待ってほしい。果たして、ここに描かれた“事実”は本当のことなのだろうか。この“事実”が摘発されたのは本作の製作年度から数年前。しかも、証拠と言えるのは当事者の“証言”だけなのだ。第一、こんな“事実”が百年近くも埋もれていたとは考えにくい。

 まあ、それからの真相追求がどうなったのか分からないが、この映画からその“衝撃的な事実”を差し引いてみれば、よくある“女性の苦労話”でしかないのは辛いところだ。女性版「カッコーの巣の上で」だという批評も見受けられたが、物語の内容やキャラクター設定はあの映画に遠く及ばない。題材に依存するだけの作劇では限界があるのは当然だろう。

 俳優でこれが監督デビューのピーター・ミュランの演出は手堅いがここ一番の盛り上げ方が弱い。唯一の見所はヒロイン役の新人女優ノーラ=ジェーン・ヌーン。大きな目が実に挑発的で、本作以降の仕事ぶりは知らないが、一度見たら忘れられないインパクトを観る者に与える。
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「ぼくのおじさん」

2016-11-26 06:35:03 | 映画の感想(は行)

 一応楽しめる映画ではあるのだが、後半からの展開が冗長に過ぎる。上映時間をあと30分ぐらい削ってタイトに仕上げていれば、もっと評価出来たと思う。とはいえ観客席からは幾度となく笑いが起こり、鑑賞後の満足感を与えてくれることに関しては申し分ない。シリーズ化も狙える企画だろう。

 小学生男児・雪男の家に居候している父親の弟は、大学の哲学の教員というのが表向きの職業だが、実は講義は週に一回しかなく、ほとんどの時間を家でゴロゴロして過ごしている。性格は見栄っ張りで屁理屈ばかりこねているくせにケチで、雪男の宿題を見てやるどころか、小遣いを横取りしたりと、まったくもってどうしようもない人間だ。

 そんなおじさんに見合いの話が持ち上がる。相手はハワイの日系4世である稲葉エリーだ。当初は見合いを嫌がっていたおじさんだったが、何と一目ぼれしてしまう。しかし、祖母が経営するコーヒー農園を継ぐためエリーはハワイへ帰ってしまう。おじさんは何とかエリーに会うべく、ハワイへ行く作戦をあれこれと考え出すのだが、どれも不発。そんな中、雪男がおじさんを題材にして書いた作文が入選。副賞はハワイ旅行だった。こうして2人はエリーに会うためにハワイへと出かけるのであった。北杜夫が自身をモデルに書いたロングセラー小説の映画化である。

 松田龍平扮するおじさんのキャラクターが最高だ。絵に描いたようなダメ男で、周囲が受ける迷惑も少なからぬものがあるが、どこか憎めない。何をやらかしても“しょうがないなあ”と呆れながら、笑って許してしまいそうだ。テレビドラマ「あまちゃん」等でも実証済だが、彼は良い案配に“抜けた”役柄をあてがわれると、無頼のパフォーマンスを発揮する。

 そんなボケの演技を迎え撃つのは子役の大西利空で、容赦ない突っ込みを見せながら、このおじさんが好きでたまらない様子が観る側に伝わってきて好ましい。さらに脇に寺島しのぶや宮藤官九郎、キムラ緑子、銀粉蝶といったクセの強い面々が控えているので、映画的興趣は増すばかりである。

 しかし、後半舞台がハワイに移り、経営が逼迫するコーヒー農園の行く末や、エリーを追ってやってきた元婚約者等のパートが多くなると、途端にドラマが停滞する。いつしかおじさんの役回りは「男はつらいよ」の寅次郎みたいなものになり、それに呼応するかのように余計なモチーフが散見されるようになる。エリーを演じる真木よう子の大根ぶりも鼻につき、モタモタしたまま終盤を迎える。

 もっとエピソードを刈り込んでサッと切り上げればボロも出なかっただろう。この調子で2時間は長い(「男はつらいよ」シリーズだって1時間半程度だ)。山下敦弘の演出は、今回はリラックスしすぎていると思う(笑)。次回は戸田恵梨香扮する雪男の担任教師とのアバンチュールが描かれるのかもしれないが、その際はプログラム・ピクチュア然としたエクステリアを期待したいところだ。
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「眠狂四郎勝負」

2016-11-25 06:33:38 | 映画の感想(な行)
 昭和39年大映作品。シリーズ屈指の傑作と呼ばれているが、殺陣の仕上がりや映像のキレ具合は大したことがなく、少なくとも「眠狂四郎無頼剣」(昭和41年)の方がずっと上だと思う。しかしながら、職人・三隅研次監督の手際と脚本の巧さは無視できず、観る価値はある作品だ。この頃の大映の定番は粒が揃っている。

 狂四郎はひょんなことから朝比奈伊織という老侍と知り合うが、実は彼は勘定奉行の職にあり、政敵から命を狙われている。黒幕は第11代将軍・家斉の娘高姫で、彼女は名家の御曹司と結婚するものの早くに夫を失って自堕落な生活をしているが、嫁ぎ先の持つ金融や流通に関する利権を握っていた。それに目を付けた赤座軍兵衛をはじめとする腹黒い連中が彼女の周囲をうろついているが、朝比奈はそれを摘発しようとしている。 彼に味方した狂四郎も亡き者にしようと、敵は殺し屋を次々と差し向ける。その中には幕府に囚われている夫を救うため、仕方なく軍兵衛の配下になっている采女も含まれていた。



 とにかく、1時間半にも満たない上映時間の中にさまざまなプロットを詰め込んで、一分の乱れも無くストーリーが進んでいくシナリオには感心する。脚色を担当した星川清司の腕前は確かだ。三隅御大の演出もスムーズで、話が流れるように展開していく。

 だが活劇場面は弱体気味で、弓矢や鉄砲玉が全然狂四郎に当たらないってのは、いくらチャンバラ映画とはいえ、かなりの違和感ある。刀で軽くはじき飛ばす場面ぐらいあってもよかった(笑)。

 主演の市川雷蔵は本作においてもカリスマ性を発揮。ニヒルなスタイルで押し切っているが、敵の罠に簡単にハマって捕らわれる場面もあったりして、無敵ではないところを醸し出してもサマになる(爆)。ヒロイン役はお馴染みの藤村志保で手堅い仕事ぶり。浜田雄史をはじめとする悪役連中も良いが、何といっても朝比奈を演じる加藤嘉が光る。その飄々とした持ち味は、時として雷蔵を凌ぐ存在感を発揮。この頃から演技力には定評があった。
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「永い言い訳」

2016-11-21 06:01:52 | 映画の感想(な行)

 西川美和監督作品としては「ゆれる」(2006年)には及ばないが、「ディア・ドクター」(2006年)や「夢売るふたり」(2012年)よりは上出来だ。食い足りない部分が無いではないが、鑑賞後の満足感は決して小さくはない佳編だと思う。特に主人公の年齢に近い層が観ると、身につまされるものがあるだろう。

 人気作家の津村啓こと衣笠幸夫は、妻の夏子と連れ添ってからかなりの年月が経つが、夫婦としての間柄はとうの昔に終わりを告げ、今は単なる“友だち関係”でしかない。夏子が友人のゆきとバス旅行に出かけている間、幸夫は浮気相手を家に連れ込んでよろしくやっていると、バスが川に転落して友人もろとも妻が死亡したことが知らされる。

 仕方なく悲しみにくれる夫を演じる幸夫だが、そんな彼にゆきの夫である大宮は、妻を失った悲しみを切々と訴えるのであった。トラック運転手である大宮は家を空けることが多く、幼い2人の子供を抱えて途方に暮れていた。夏子の死に特別な感慨を持たなかった幸夫は、その後ろめたさを帳消しにするためか、大宮の子供達の面倒を見ることを申し出る。直木賞候補にもなった西川美和自身の小説を映画化したものだ。

 主人公のダメさ加減が良い。妻からはとっくの昔に愛想を尽かされていて(おそらく、長い間セックスレス状態)、だから彼女がいなくなっても感情を揺さぶらせることは無く、しかし何か贖罪になるようなことを実行しなければならないという義務感だけはある。この身勝手な男を、嫌味にならずに観る者に共感を覚えるようなキャラクターに練り上げる作者の力量には感心するしかない。

 それは具体的には、幸夫のマンションと大宮の住まいとの空気感の違いや、大宮の娘を自転車に乗せて坂道で難儀する場面などの、ディテールの積み上げによる。さらには、幸夫が初めて子供を前にして立ち往生してしまうバツの悪さや、大宮と彼が好意を寄せる女性に対する微妙な屈託をぶちまけるシークエンスなど、その追い込み方は尋常では無い。有名作家である幸夫を興味本位で取り上げるマスコミの嫌らしさも相当なものだ。

 そういう徹底的に辛口なスタンスだけではなく、主人公が徐々に人間関係を修復していくプロセスを、ポジティヴな視点を忘れずに的確に積み上げていく姿勢は見上げたものである。たとえ自己嫌悪でドン底に落ちようとも、自分を少しでも必要としてくれる人間を見出すことによって、立ち直っていく。その心理の不可思議さを、噛んで含めるように追った本作のクォリティは侮れない。

 ただし、終盤付近の展開は無理があり、それと共に説明的なセリフが大々的に挿入されるのはマイナスだろう。もっとストイックに物語を締めて欲しかったが、そこは作者の“どうしても言いたかった”という正直な真情の吐露と捉えるべきかもしれない。

 主演の本木雅弘は好演。どこから見ても立派なヘタレ中年で、気取った様子も無く実直に役柄を自分のものにしようとしている。大宮に扮する竹原ピストルも、無骨ながら好感の持てる役作りで及第点。夏子役の深津絵里や、池松壮亮、黒木華、山田真歩、そして子役2人と、脇の面子も実に良い。
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「彼方へ」

2016-11-20 06:20:01 | 映画の感想(か行)
 (原題:SCREAM OF STONE )91年ドイツ=フランス=カナダ合作。山岳映画としてはかなりのクォリティを保持している。大自然に挑む男達の葛藤と反目、その果てにある皮肉な結末と、ストーリーラインもかなり練られている。ヴェルナー・ヘルツォーク監督としても会心の出来ではないかと思う。

 ロック・クライミング世界選手権で優勝したマーチンは、その場で進行役であるジャーナリストのアイヴァンに、同席していた世界のトップの登山家ロッチャと共に南米パタゴニアにある前人未到のセロトーレ山に挑戦することを告げる。後日彼らは現地近くでキャンプを張り、登頂の準備をするが、連日の悪天候のためアタックを見合わせていた。しびれを切らしたマーチンは、周囲に内緒でロッチャのパートナーであるハンスを連れて山頂へと向かうが、雪崩に遭って失敗。しかもハンスは犠牲になる。



 だが、帰国したマーチンは登頂に成功したと主張し、マスコミで取り上げられて一躍時の人となる。僚友を失ったロッチャはパタゴニアに留まっていたが、マーチンの行動に疑問を抱いた彼は、改めてセロトーレ山への登頂を賭けて勝負を挑む。

 まず、このパタゴニアの鋭峰の造型に圧倒される。それほど高くないのだが、ほとんどが直角にそびえる岩壁だ。常に天候は不安定な上に突風が吹き、登山家を寄せつけようとしない。そしてそこで展開するドラマは、主人公2人のプライドがぶつかり合い、見応えたっぷりだ。

 ついに山頂に達した者が目撃したものは、単なる征服欲など完全に超越した、狂気にも似た人間の所業である。明らかにそれはヘルツォークの代表作である「アギーレ 神の怒り」(72年)の主人公に通じるものがあるが、本作でそれを演出するのは物語の中心人物ではなく、傍系のキャラクターであるのが面白い。しょせん、大自然は小賢しい世俗的な欲望によって“征服”できるものではなく、常軌を逸したメンタリティによって“同化”するしかないという、作者のニヒリスティックなスタンスが見て取れよう。

 マーチン役のシュテファン・グロヴァッツは実際のクライマーでもあり、その存在感は際立っている。ロッチャを演じるヴィットリオ・メッツォジョルノ、アイヴァンに扮するドナルド・サザーランド、ヒロイン役のマチルダ・メイ、そして謎の男を演じるブラッド・ドゥーリフと、役者はかなり揃っている。ハーバート・ラディシュニンによる素晴らしい登山撮影。観る価値はある。
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「バースデーカード」

2016-11-19 06:52:16 | 映画の感想(は行)

 ベタな構図で“お涙頂戴”を狙った作品であることは分かるのだが、ところどころに興味を持たせるモチーフがあり、最後までさほど退屈しないでスクリーンに対峙することが出来た。たまにはこういう映画も良いかもしれない。

 長野県諏訪市に住む9歳の紀子は泣き虫で引っ込み思案の女の子だったが、そんな彼女をいつも励ましてくれたのは優しい母・芳恵だった。しかし、やがて芳恵は病魔におかされて余命幾ばくも無い状態に。紀子の10歳の誕生日に、芳恵は紀子と紀子の弟・正男が成人するまで毎年手紙を送ると約束する。芳恵がこの世を去り、翌年紀子が11歳の誕生日を迎えたとき、本当に芳恵から手紙が届く。

 以来、毎年届けられる母からの手紙には紀子にとって有意義なアドバイスが書かれていて、そのたびにたくさんの体験を得ることが出来た。しかし20歳になると“いつまでも母の指図通りにはならない”とばかりに反発するようになる。ちょうど紀子にも交際相手が出来て、自分の人生を歩もうとしていた頃だ。だが、母が仕掛けた“粋な計らい”は、手紙だけではなかったのだ。

 序盤、子役の扱い方が恐ろしく下手であるのには脱力した。まるで学芸会レベルだ。また、大して面白いエピソードがあるわけでもない。ならば紀子が中高生になってから観る者を惹き付ける話が展開するのかというと、それも無し。母の故郷である小豆島に赴くシークエンスも、平板な時間が流れるだけ。せいぜい男友達とのアバンチュール場面(?)でラブコメのパロディが挿入され、笑わせてくれる程度だ。

 しかしながら、大学生・社会人になった紀子が小さい頃の母との約束を果たすべく、テレビの「パネルクイズ アタック25」に出るくだりはけっこう盛り上がる。この映画は朝日放送の製作なのでこういうネタを仕入れたのだろうが、番組作りの舞台裏、特に出場者の選抜に関する描写が興味深い。さらに番組進行がよく考えられていて、最後まで結果が読めない。このくだりの後、母親からのプレゼントが明らかになるという展開は悪くない。

 吉田康弘の演出は彼が2013年に撮った「旅立ちの島唄 十五の春」には及ばないが、それほど大きな破綻は無い。出演者の中では芳恵に扮する宮崎あおいのパフォーマンスが図抜けている。若くて優しい理想的な母親像を、一点の違和感も無く演じきっているのには舌を巻いた。さらに、紀子の空想シーンでワンショットだけセーラー服姿が映し出されるのだが、これが尋常では無い可愛さで、彼女のファンは随喜の涙を流すことだろう(爆)。

 対して紀子役の橋本愛は演技面ではまだまだで、さらなる精進を望みたい。また脇にユースケ・サンタマリアや須賀健太、木村多江、洞口依子といった面々が揃うのだが、残念ながら印象に残るような芝居は見られなかった。あと関係ないが、諏訪湖付近の風景は先日鑑賞した「君の名は。」の舞台を彷彿とさせる。もちろん、あの映画はこの地をモチーフにしたものだが、花火大会のシーンなどは共通する部分が多く、観ていて苦笑してしまった。
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“体育会系”という名の理不尽。

2016-11-18 06:34:32 | 時事ネタ
 2015年12月に自ら命を絶った電通の若手女子社員の労災認定が、2016年9月末に下りた。この件に関してはマスコミはもちろんネット上でもいろいろな意見が提示されているので、改めて私がコメントする必要も無いとは思うが、この大手広告会社も持ち合わせてるらしい“体育会系の企業体質”について、自身の体験を交えて述べてみたい。

 大昔、私が大学4年生になったばかりの頃、就職課が主催して有名企業に勤めている卒業生を招いての意見交換会が何度か行われた。当然私も参加したのだが、その中で強く印象に残ったのは、名の知られた旅行会社に勤務しているOBの講演であった。

 彼は居合わせた学生達に、こういう質問をした。

“海外で団体旅行の添乗員が、もしも急病や思わぬケガに見舞われて業務が続行不可能になった場合、どう対処したらいいと思うか”

 学生側は“現地の支店・営業所に連絡して、代役を立ててもらう”とか“まずは本社の指示を仰ぐ”とか“日本大使館や領事館に助けを求める”とかいった、まあ妥当と思われる答えを返したのだが、そのOBは“すべて違う!”と言ってのけた。さらに彼は大真面目でこう述べたのだ。

“添乗員が勤務中に病気になったり、ケガすることはあり得ない。もしもそういう奴がいるとしたら、それは根性が足りないのだ”

 その時、学生はもとより就職課のスタッフ達も目が点になったことは言うまでも無い。彼の物言いが質問に対する回答になっていないことはもちろんだが、とにかく業務上の危機管理もへったくれもなく、“根性があれば何とかなる”といった精神論で全てを押し切ろうという、その姿勢には違和感しか覚えなかった。もちろん私は、そんな企業に入社しようという気は完全に失せた。

 聞けばそのOBは、在学中は某体育部のキャプテンだったらしい。学力うんぬんよりも、クラブ活動で培った体力と目上の者に対する(盲目的な)忠誠心により就職戦線を勝ち抜いたと豪語していた。正直、私はこの“体育会系のノリ”というやつが苦手である。個人的にスポーツが不得意だったというのもあるが(笑)、何より“無理が通れば道理が引っ込む”ということわざを地で行くような、非合理的な方法論が罷り通る世界とは、出来るだけ距離を置きたいと思っているのだ。

 幸い、私が選んだ就職先は“体育会系の企業”ではなかったのだが(ただし、部署によっては体育会系の雰囲気のところもあるようだが ^^;)、もしも道理よりも体育会系ゴリ押しが優先するような職場に身を置いていたならば、長くは続かなかっただろう。

 さて、報道をチェックする限り、電通というのは“体育会系の企業”そのものであるようだ。どんなに理不尽なことを強要されても、上司・先輩や取引先の命令には絶対に逆らえないらしい。まあ、電通に限らず、この業界は多かれ少なかれそんなものだろう(私も昔、広告会社をいくつか訪問してみてその尋常ならざる雰囲気だけは感じ取れたものだ)。

 はっきり言って、体育会系のノリに徹している企業に明るい未来があるとは思えない。体力だけで勝負していては効果的なイノベーションは望めず、早々に行き詰まってしまうだろう。電通はたまたま昔からの、業界大手としての既成の“利権”がモノを言って現在の地位を維持しているだけだ。今後も発展し続けていくかどうかは疑問である。少なくとも、従来通りの仕事の進め方をしている限り、小手先的な対策で残業時間を規制したぐらいでは事態は好転しないだろう。また犠牲者が出ることは想像に難くない。

 余談だが、くだんのOBが勤めていた会社は、後年別の企業に吸収されて“単なる子会社”に成り果てている。彼がどうなったか、当方の知るところではない。
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「お父さんと伊藤さん」

2016-11-14 06:23:10 | 映画の感想(あ行)

 上映時間が少々長いことを除けば、味のある佳作として評価できる。肩の力が抜けたゆるいタッチでありながら、決して描写は弛緩せず、大事なテーマを無理なく扱っているところがポイントが高い。演技力に定評のあるキャストの手堅い仕事ぶりも含めて、誰にでも勧められる出来だ。

 主人公の彩は30歳を過ぎているが独身で、書店でアルバイトをしながら気ままに生きている。彼女は以前のバイト先で知り合った54歳のバツイチのおっさん・伊藤と同棲しているが、身を焦がすような色恋沙汰の末にそうなったのではなく、何となくフィーリングが合って一緒に暮らしているだけだ。

 ある日、彩の父親が兄夫婦の家を追い出され、予告なく彩のアパートに転がり込んでくる。見知らぬ中年男が娘の部屋にいることに驚く彼だったが、それでも娘と住む決心は変わらない。3人の珍妙な共同生活が始まり、父親と伊藤はウマが合うところもあって、大きなトラブルも無く日々が過ぎていく。しかし、父親は“ある思い”を抱えていたらしく、突然書き置きを残して行方不明になってしまう。

 伊藤のキャラクター設定は面白い。分かっているのは以前結婚していたことぐらいで、どういう経歴を持っているのかまったく分からない。定職を持たないダメ男に見えて、手先は器用。彩の父親を探すために“意外な人脈”を活用したりする。決して感情を露わにすることが無く、泰然自若なスタンスを崩さない。彩としても一緒にいると落ち着くから付き合っているのだろう。しかし、伊藤はトリックスターに過ぎない。あくまで主役は彩とその家族である。

 約40年間にわたって教師を務めていた父親は、数年前に連れ合いを亡くし、以前からの融通の利かない性格がますます気難しくなってきた。兄と同居していた頃には兄嫁は音を上げてしまい、やむなく彩のところに来るのだが、彼女にしても決して父親を良く思ってはいない。彩がいまひとつ人生に向き合えないのは、彼の影響よるところが大で、しかも変に頑固なところは父に似ている。兄も父親と対峙することには及び腰だ。

 伊藤の出現によって兄妹は父と話し合う機会を得るが、それでも完全に打ち解けることはない。父には父の、今まで積み上げてきた日々の重みを抱え込んでいるし、子供達とは生きてきた時間も時代も異なる。両者がすれ違って当然なのだ。

 しかしながら、ほんの少し相手のことを考えれば、わずかでも歩み寄ることは可能だ。彼らがどういう選択をするのが一番良いのか、映画はハッキリとは示さない。果たして父親は誰と暮らすのがベストなのか、そういうことにも言及していない。だが、結論じみたモチーフを提示しないこと自体が、けっこうリアルである。人生には“正解”なんて無い。それぞれが手探りで進むしかないのだ。

 タナダユキの演出は丁寧で、声高に主張しない分、説得力がある。ただ、後半の展開には冗長な箇所が目立ち、編集で切り詰めた方が良かった。久々に主役を張る上野樹里は好調。改めてこの女優の実力を垣間見ることが出来る。リリー・フランキーと藤竜也の達者な仕事ぶりは言うまでもない。
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「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」

2016-11-13 06:52:38 | 映画の感想(な行)
 (原題:Knockin' on Heaven's Door )97年作品。今年(2016年)あろうことかノーベル文学賞の受賞者になってしまったボブ・ディランだが、「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」(邦題:天国への扉)は彼の代表曲の一つで、数多くのミュージシャンにカバーされている。本作はこのナンバーをモチーフに作られたドイツ映画。2人の男の人生最後の冒険をクールに描いたロードムービーである。

 同じ病室に入院中しているマーティンとルディは、ともにガンの末期患者で余命幾ばくも無い。ある晩、こっそりとテキーラを飲んで酔っ払った2人は、冥土の土産にまだ見たことがない海に行こうと思いつき、酒の勢いで病院を抜け出してしまう。



 駐車場の高級車を盗み出して海に向かう2人だが、何とその車はギャングが使っていたもので、中には大量のヤバい金が隠されていた。下っ端ギャングのアブドゥルはボスに上納する予定だった金が無くなって大慌て。金を取り返すべく、2人の後を猛追する。

 主人公達が病身でありながら無茶な逃避行をするハメになるという、この設定は面白い。トーマス・ヤーンの演出はQ・タランティーノ作品からのパクリが目立つけど、無邪気っぽくて愛嬌があるので許せる。だが、ドイツ製のシャシンであるためか、あまり画面は弾まない。また、筋書きに思い切った仕掛けがあるわけでもない。それでも、ひょうきんなマーティンとマジメなルディのコンビネーションは面白く、切ないラストシーンを見せつけられるとシンミリとした気分になる。ハリウッドでリメイクしても良い素材かもしれない。

 主役のティル・シュヴァイガーとヤン・ヨーゼフは好調。特にシュヴァイガーは脚本にも参画しており、多才な人材であるのは事実のようだ。ボブ・ディランのタイトル曲はゼーリッヒが担当しているが、悪くないアレジだと思う。

 余談だが、この曲のカバーで一番気に入っているのはガンズ・アンド・ローゼズのヴァージョンである。これも映画の挿入曲(「デイズ・オブ・サンダー」のサウンドトラックに収録)なのだが、ハードロックのテイストが良い案配にミックスされ、実に聴き応えがある。オリジナルよりも演奏時間が適度に長いのもよろしい。
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