元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ジュラシック・ワールド 炎の王国」

2018-07-30 06:18:02 | 映画の感想(さ行)
 (原題:JURASSIC WORLD:FALLEN KINGDOM )前作より質的にダウンしている。それでも前半はまあまあ楽しめた。しかし、中盤以降は話にならない。脚本が底抜けであるばかりではなく、演出もたどたどしくて、とにかく観ていられないのだ。恐竜達を画面上でウロウロさせるだけで2時間あまりを保たせられると思っている、作り手のその魂胆が気に入らない。

 数年前にハイブリッド恐竜“インドミナス・レックス”が引き起こした大惨事によって崩壊したテーマパーク“ジュラシック・ワールド”が存在するイスラ・ヌブラル島は、火山の噴火によるカタストロフィが迫っていた。当局側は恐竜達の生死を自然に委ねることを決定するが、民間レベルで恐竜の救出計画が進む。



 恐竜行動学のエキスパートであるオーウェンと、テーマパークの運営責任者だったクレアはこのプロジェクトに加わる。ところが、島に上陸した直後に火山が大噴火。オーウェン達は九死に一生を得て脱出する。アメリカ本土の恐竜達の“収容先”になった富豪ロックウッドの大規模秘密施設では、遺伝子操作によって生まれ た“インドラプトル”が暴れだし、大パニックが発生する。

 まず、危険な恐竜を島の外に出そうとする施策自体が噴飯物だ。人間が勝手に蘇らせたクリーチャーは、天災と共に世の中から消え去る方が良い。そもそも、前作で重大なトラブルが起こった“ジュラシック・ワールド”の経営者であったクレアが、何の責任も取らされずに涼しい顔をして恐竜救出作戦に関わるという設定からして付いていけない。

 ただし、絶海の孤島で起きる大規模な災害と、ジャングルを逃げ惑うオーウェン一行と恐竜達を畳み掛けるように描いた前半部分は、それなりにサマにはなっている。やっぱり、こういうネタは秘境を舞台にするのが一番だ。



 ところが、舞台がロックウッド邸に移って人間と恐竜との追いかけっこになる後半は、おそろしく段取りが悪い。とにかく“ここをこうするから、結果としてこうなる”といった演出の因果律が崩壊し、行き当たりばったりに展開するのみである。

 だいたい、前作に続いてまた遺伝子操作で生まれた新種の恐竜が大暴れするという話を持ち出すとは、作者にはマンネリズムに対する認識が浅いと言わざるを得ない。ラストに至っては、ただ呆れるばかり。続編に繋げるための措置だろうが、これでは何ら事態は収拾されない。

 J・A・バヨナの演出はたどたどしく、ドラマを上手く整理出来ていない。クリス・プラットやブライス・ダラス・ハワード、ジェームズ・クロムウェルといったキャストは、いずれも精彩を欠く。ジェラルディン・チャップリンやジェフ・ゴールドブラム等の濃い面々もいるのだが、大した見せ場も無く終わってしまう。夏休み映画の目玉として拡大公開されているが、内容がこの程度ならば、早々に興行的に失速するのではないだろうか。
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「読書する女」

2018-07-29 06:22:17 | 映画の感想(た行)
 (原題:La Lectrice )88年フランス作品。とても面白く観た。本作の主題は、ズバリ言って“読書の奥深さと官能性”であろう。本を読む、そして読み聞かせるというのは、日常生活から別の世界に逸脱するということだ。

 ならば映画もそうではないかという意見もあるだろうが、読書においては自分から書物に能動的に対峙しなければ、別世界への扉は開けない。読み聞かせの場合も、言葉だけで情景を想像するという主体的な行為が必要だ。映画(あるいはテレビ)のように、放っておいてもメディアが音と映像を勝手に流していくような構図とは、一線を画している。



 読書が趣味のコンスタンスは、自分の読んだ本の世界を頭の中で創造するのが大好きだ。今日も「読書する女」という本を読んで、本の朗読を職業とする女王人公マリーが遭遇する出来事を空想していた。マリーの訪問先の人々は、いずれも一風変わっている。半身不随のマザコン少年にはモーパッサンの「手」を読んでやるが、刺激が強すぎて彼は発作を起こしてしまう。

 精神病院に足を運べば、医者から“患者に死んだ作家の本を読み聞かせるな”と注意される。離婚して欲求不満が溜まっている中年オヤジにデュラスの「愛人 ラマン」を読んでやると、互いにその気になってしまう。訪問先の幼い女の子は「不思議の国のアリス」が気に入っており、朗読するため2人で遊園地に行くと、マリーは誘拐犯と間違えられる。

 とりとめもない話なのたが、冗長な印象は無い。それは本編がヒロインの読んでいる本の映像化であり、マリーが出会う人々は、その本の中のキャラクターであることが大きいだろう。いわば捻りの利いた三重構造で、この構図自体が興趣を呼び込む。そして登場人物達は悩みを抱えていながら、接した本の内容によって、自分と向き合うことが出来る。

 マリーは狂言回しなのだが、その言動を読者として眺めているコンスタンスの内面とシンクロし、それがまた終盤で現実世界にフィードバックされてゆくという凝った筋書きには唸るばかりだ。

 ミウ=ミウ扮するマリーの造型がとても良い。ベートーヴェンの音楽に乗って飄々と訪問先を渡り歩く様子は、浮き世離れした存在感を醸し出す。それでいてけっこう妖艶なのだから、言うこと無しだ(笑)。ミシェル・ドヴィルの演出には余計な力みが見られず、スムーズにドラマを最後まで持っていく。クリスチャン・リュシェやシルヴィー・ラポルト、ミシェル・ラスキーヌといった脇の面子も良い。
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「グッバイ・ゴダール!」

2018-07-28 06:30:07 | 映画の感想(か行)

 (原題:LE REDOUTABLE )主演女優の魅力で何とか最後まで付き合うことが出来たが、内容自体はまったく面白くない、作劇及び脚本の質が悪いのはもとより、そもそも作者は題材に対して何の関心も抱いていないようだ。いかなる理由でこの映画が製作される運びになったのか、さっぱり分からない。

 1967年。パリの大学で哲学を学ぶアンヌは、当時革新的な映画手法で一大センセーションを巻き起こしていたジャン=リュック・ゴダール監督と知り合う。ゴダールが同年撮った「中国女」の主演に抜擢され、そのまま彼と結婚。ゴダールの仲間たちとの交流や、撮影現場のエキサイティングな雰囲気など、結婚後の日々はアンヌにとって生まれて初めての刺激的なものであった。

 一方、68年には五月革命が勃発。パリの街ではデモ活動が日ごとに激しさを増し、ゴダールも革命に大きな関心を示す。だが、同時にアンヌとの仲は徐々に冷え切ってゆく。ゴダールの2番目の妻であったアンヌ・ヴィアゼムスキーによる、自伝的小説の映画化だ。

 とにかく、全編を通して何も描かれていないのには参った。アンヌがどうしてゴダールに惹かれて結婚することになったのか、ゴダールはどのような動機で五月革命に関わるようになったのか、その頃“映画を変えた”とまで言われていたゴダールの、斬新な作風の真髄とは何か、そしてなぜ最終的に2人は分かれるに至ったのか等々、大事なことは一切提示されていない。

 その代わりに取り上げられているのは、当時の風俗とファッション、そしてゴダールが何度もデモ隊に巻き込まれ、そのたびにメガネを割ってしまうという脱力ギャグだけだ。アンヌとゴダールとの結婚生活はおよそ10年続くのだが、映画ではその時間の流れが捉えられていないのも減点対象である。

 ミシェル・アザナヴィシウスの演出はメリハリが乏しく、同じようなシーンの繰り返しで観ていて眠くなる。しかし、アンヌに扮するステイシー・マーティンの可愛さで、どうにか途中で寝入ることを回避できた(笑)。ルックスの良さはもちろん、仕草やセリフ回しも実にキュート。しかも大胆で奔放だ。彼女のプロモーション・フィルムだと割り切ってみれば、それほど腹も立たない。

 反面ゴダール役のルイ・ガレルや、ベレニス・ベジョ、ミーシャ・レスコ、グレゴリー・ガドゥボワといった他のキャストはほとんど印象に残らないが、これも仕方がないだろう。ギョーム・シフマンによる撮影も、特筆されるものはない。
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「セント・オブ・ウーマン 夢の香り」

2018-07-27 06:31:22 | 映画の感想(さ行)

 (原題:SCENT OF A WOMAN)92年作品。大統領の側近まで務めた歴戦の英雄ながら、態度のデカさと口の悪さで人の敬意を得られず、家族からは無視され、孤独のまま退役を迎えた目の不自由な初老の元軍人フランクが、若い主人公チャーリーとの出会いにより、序々に自分を取り戻して行くまでを描くドラマ・・・・と書けば、しかるべきスタッフとキャストが手掛ければ、相当いい映画に仕上がる題材であると誰にも予想できる。

 ところが、私を待っていたのは2時間40分ものお尻の痛くなるような上映時間だった。監督はマーティン・ブレスト。「ビバリーヒルズ・コップ」(84年)や「ミッドナイト・ラン」(88年)など、アクション・コメディを手掛けていたこの作家の、初のシリアス・ドラマである。ハッキリ言って、この監督はシリアスな場面の撮り方を知らないのではないかと思う。

 会話のタイミングの悪さ、カメラ・アクションの凡庸さは目を覆うほどで、盛り上がってしかるべきのシーンが全然パッとしない。たとえば、自殺をしようとするフランクと、それを止めようとするチャーリーのやり取りの場面。全篇のハイライトであるはずなのだが、平板な画面の連続で、感動するどころかアクビさえ出てしまう。

 それに対し、フランクが盲目の身でありながら、フェラーリで街中をぶっ飛ばすシーンは、待ってましたとばかりに画面が生き生きと弾んでくる。この落差。やはりこの監督は根っからのアクション派である。終盤の高校の懲罰委員会のシーンになってやっとドラマが動いたという感じだが、不要な部分を省略して1時間半ぐらいにカチッとまとめれば、もっと見応えのある作品に仕上がったかもしれない。

 ただ、主演のアル・パチーノの仕事ぶりは万全だと思う。頑固さと孤独感が入り交じったフランクのキャラクターをうまく体現化している。若い女(ガブリエル・アンウォー)とタンゴを踊るシーンも素敵だし、何よりも本物の盲人としか見えない迫真の演技は、この俳優に初のアカデミー賞(遅すぎるとも言えるが)をもたらしたのも当然だ思わせる。チャーリー役のクリス・オドネルも良いパフォーマンスだ。

 “セント・オブ・ウーマン”は直訳すると“女の香り”で、フランクが香水の匂いで女性の性格を言い当てるあたりをあらわしていると思うが、一見女性映画かと思われる原題をそのまま邦題に持ってくるのは少し疑問。配給会社は工夫してほしかった。
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「女と男の観覧車」

2018-07-23 06:27:52 | 映画の感想(あ行)

 (原題:WONDER WHEEL)ウディ・アレン御大の名人芸を存分に堪能出来る一編だ。作品傾向としては「ブルージャスミン」(2013年)に通じるものがあるが、作者の素材への視点は、より一層辛辣で身につまされる。だが、それでいて映画としては“心理的スペクタクル”(?)を前面に押し出して、存分に楽しませてくれるのだから堪らない。

 1950年代のニューヨークの近郊型リゾート地であるコニーアイランド。その遊園地内にあるレストランで働いているジニーは、再婚同士で一緒になった回転木馬係であるハンプティと、ジニーの連れ子である息子のリッチーと3人で暮らしている。生活は楽ではなく、住み家は観覧車の見える安い部屋だ。それでも彼女は昔は舞台女優であり、今でも一花咲かせたいと目論んでいる。

 そんなジニーが知り合ったのが、海水浴場で監視員のアルバイトをしながら劇作家を目指している若い男ミッキーだ。ハンプティの凡庸さにウンザリしていた彼女は、たちまちミッキーと懇ろな仲になる。そんなある日、ギャングと駆け落ちして音信不通になっていたハンプティの娘キャロライナが転がり込んでくる。キャロライナはシンジケートの内実を警察に漏らしたため、組織に追われていた。ハンプティは何とか匿おうとするが、ヒットマン達はコニーアイランドにもやってくる。

 ジニーの造型が出色だ。「ブルージャスミン」のヒロインは最初から常軌を逸していたが、本作の主人公は、不本意な人生を歩んできた結果、捨て鉢な行動を取るようになった。その過程が容赦なく描かれ、また現在の彼女の愚かな振る舞いに対して、映画は手加減しない。

 どう見てもただの平凡な主婦なのだが、内心“ワタシの居場所はここではない。また絶対に盛り返せる”と確たる根拠も無く思い込んでいる。不釣り合いな若いミッキーを独り占め出来ると信じ、彼がキャロライナと仲良くなるのを嫉妬に身を焦がしながら見つめる。それがやがて取り返しの付かない事態を招いても、ジニーは反省しない。

 ただ、突き放した扱いにも関わらず、中年女の悲哀が滲み出て観客への訴求力を失っていないことは、実に見事だ。こういう“自分の実力はこんなものではない”というアテにならない自信に縋り付いている図式は、程度の差こそあれ(私を含めて)誰の心の中にも存在しているのだと思う。その意味で、本当にシビアで観ていて身を切られるようだ。

 アレンの演出は冴え渡り、屈託を抱えて小市民的な言動に終始する登場人物たちの醜さを、絶妙なモチーフを散りばめて鮮明に焙り出す。主演のケイト・ウィンスレットは素晴らしい。彼女のフィルモグラフィの中では指折りのパフォーマンスだ。ジャスティン・ティンバーレイクやジム・ベルーシ、ジュノー・テンプルなどの演技も申し分ない。

 ヴィットリオ・ストラーロのカメラによる映像はとても美しい。ドラマの背景に表現主義的なオブジェのごとく大きな観覧車が鎮座するという構図も、見事と言うしかない。本年度のアメリカ映画の収穫である。
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「マッド・フィンガーズ」

2018-07-22 06:23:02 | 映画の感想(ま行)

 (原題:FINGERS )78年作品。主役の若き日のハーヴェイ・カイテルのサイコ演技を存分に堪能できるシャシンであり、それ以外の目的(たとえば、平易な娯楽編を気軽に観たい等)をもってこの作品に接するのは、断じて奨められない(笑)。このように観客を選別する姿勢は、却って清々しいともいえる。

 ニューヨークの下町にある、アパートの一室でピアノの練習をしているジミーは、いつかカーネギー・ホールで演奏することを夢見ていた。しかし彼の“本職”は、高利貸しの父親を手助けするため、荒仕事を請け負う取り立て屋だ。ある日ジミーは、父からコゲつきの清算を依頼される。債務者であるリカモンザはヤクザのボスであり、さすがのジミーも簡単にはいかず、手こずっているうちに警察に捕まってしまう。何とか釈放されたジミーだが、精神的な動揺は隠しようがなく、ピアノのオーディションでは落選。それをきっかけに、彼の行動はますます常軌を逸したものになってゆく。

 冒頭、一心不乱にピアノを弾いた後で、若い女を口説くために大型ラジカセを大音量で鳴らしながら外出する主人公の姿は、誰が見ても立派な異常者である。さらに、リカモンザを追い込むためにその情婦を襲い、エゲツなく金を要求するあたりも、まさに外道そのものだ。

 そんなロクでもない生活を送りながらも、ピアノで弾くバッハの音楽に対し、陶酔的な憧れを隠せないという設定は出色。崇高な芸術と低劣な犯罪とのコントラストが鮮やかだ。ジェームズ・トバックの演出は派手さはないが、ドキュメンタリー・タッチの生々しさがある。特に暴力シーンのリアルさは、観ている側にまで血しぶきが飛んできそうだ。

 カイテルのパフォーマンスは最高で、身体中を震わせて怒りを表現する場面の禍々しさや、ラストでカメラを延々凝視する目つきの危なさ等は、まはや彼以外では到達し得ない異様なオーラが充満している。ティサ・ファローやジム・ブラウン、マイケル・ヴィンセント・ガッツォー、タニア・ロバーツといった面々も一筋縄ではいかず、存分に怪演を楽しめる。

 「タクシードライバー」(76年)のマイケル・チャップマンの撮影による、ざらついたニューヨークの街の描写も捨てがたく、これは当時としてはカルト映画的な存在感を持った作品と言える。
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「ルームロンダリング」

2018-07-21 06:09:28 | 映画の感想(ら行)

 設定は面白いのだが、出来映えはとても合格点は付けられない。聞けば新人の映像作家の発掘を目的としたコンペティションで入賞したオリジナルストーリーの映画化らしい。しかし、いくら原案が優れていても、脚本のクォリティをはじめ、キャストに対する演技指導、そして大道具・小道具の使い方等に関して十分に練り上げないと、劇場用映画としては通用しないのだ。

 主人公の八雲御子は、父親は世を去り、母親は失踪、そして育ててくれた祖母も亡くなり、天涯孤独の身となってしまった。そんな彼女の前に、不動産屋を営む叔父の悟郎が現れる。悟郎は御子に住む場所とアルバイトの提供を申し出る。そのアルバイトとは、いわゆる“事故物件”に短期間住み、それ以降の新規入居者に対する不動産屋による物件の履歴説明責任を帳消しにする“ルームロンダリング”という仕事だった。御子は、このアルバイトを始めるとすぐに、その部屋で死んだ者達の幽霊が見えるようになる。彼女は幽霊達と共同生活を送りつつ、彼らの現世で思い残したことを解消するために奔走するハメになる。

 孤独なオカルト女子が、型破りな叔父をはじめ、幽霊や隣人らによって少しずつ“社会性”を身に付けていくという筋書きは悪くない。ホラーテイストこそ採用されているが、これは主人公が自分が何者であるかを自覚するという、普遍的な青春ドラマのルーティンを踏襲している。

 しかしながら、どうも作りが安直なのだ。幽霊が出てくるところは、いたずらに観る者を怖がらせる必要は無いが、もう少しインパクトが欲しい。全編に渡ってオルガンを使ったライトな音楽が流れ、脱力系コメディの線を狙っているフシもあるのだが、中盤以降は御子が殺人事件に巻き込まれるというハードな展開があるにも関わらず、タッチがソフト過ぎて白けてしまう。

 よく考えれば、悟郎が御子にこの仕事を頼む理由もハッキリしない。彼女のことを心配するのならば、もっとカタギの職場を紹介して見聞を広げさせた方が数段良かったはずだ。また、ラスト近くには母親の“消息”が明らかになるのだが、どうしてそうなったのか具体的説明は無いし、暗示だけにするにしても段取りが不十分だ。

 これが長編デビュー作になる片桐健滋の演出はメリハリに欠け、盛り上がらない。特に、後半の“活劇”シーンは気合いが全然入っておらず閉口した。主役の池田エライザは、演技面ではまだまだである。ただ、妙な存在感はあると思う。さらに、可愛らしいルックスと共に、下着姿になった時のインパクトは並々ならぬものがある(笑)。

 悟朗役のオダギリジョーは彼自身の持ち味で何とか持ち堪えているが、伊藤健太郎に渋川清彦、光宗薫、木下隆行、つみきみほといった他のキャストは上手く機能していない。あまり冴えない出来に終わってしまったが、唯一、ヒロインが空を飛ぶ飛行機を“手で掴む”というモチーフだけは面白い。この映像感覚を活かせば、この監督の今後も期待出来るかもしれない。
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「PNDC エル・パトレイロ」

2018-07-20 06:21:57 | 映画の感想(英数)
 (原題:EL PATRULLERO )91年メキシコ=アメリカ合作。アレックス・コックス監督の映画はあまり観ていないし、彼自身、ここ10年間は新作を手掛けていない。ただ、本作によって個人的にコックスは十分記憶に残る演出家になった。とにかく、この禍々しい吸引力には一目を置かざるを得ないだろう。

 ペドロ・ロハスとアニバル・グエレロはメキシコ国立ハイウェイ・パトロール・アカデミーを卒業後、交通機動隊に配属される。勤務地は沙漠の真ん中だ。ある日、ペドロは不法労働者を乗せたトラックを運転する若い女グリセルダを検挙するが、彼女に一目惚れした彼は、ほどなく結婚してしまう。だが、賄賂を受け取ることを拒んでいるため収入が少ないペドロに、グリセルダの不満は募ってゆく。

 仕事上でも冷や飯を食わされるようになった彼は、無許可のトラック運転手から思わず賄賂を受け取ってしまい、それからは堰を切ったように悪の道に入る。そんな時、麻薬密輸業者を追跡していたアニバルが、ペドロに助けを求めてくる。

 ストーリー自体はありがちだが、各キャストの気合いの入った働きぶり、そして絶妙な映像表現によって、最後までスクリーンから目が離せない。特筆すべきは、光と影のコントラストだ。

 照りつける灼熱の太陽、巻き起こる砂塵、パトカーに反射する眩しい陽光。それに対して主人公はサングラスを片時も離さず、また売春宿の底知れぬ闇が、昼間の日光と強烈な対比を成す。もちろんこれは、ペドロの内面の光と影をも表現している。クローズアップを極力廃し、ロングショットと長回しにより、明暗をくっきりと観る者に印象付けることに成功。1時間43分の映画だが、良い意味で長い時間をカバーしている。

 活劇場面は派手さは無いものの、乾いた即物性によりインパクトは大きい。主演のロベルト・ソサは、左頬に本物の傷痕があり、これがけっこう実録風の雰囲気を醸し出している。演技も達者だ。ブルーノ・ビシールやヴァネッサ・ボウシェ、ザイーデ・シルヴィア・グチエレスといった出演陣は馴染みが無いが、皆良い面構えをしている。

 ピカレスクな魅力が溢れるこの映画を製作したのは、今はなき日本の配給会社ケイブルホーグの主宰者であった根岸邦明だ。当時はバブルの余韻も残っており、こういう積極的な姿勢を持った映画人も多かったのだろう(今では信じられないが ^^;)。
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「万引き家族」

2018-07-16 06:38:22 | 映画の感想(ま行)

 終盤の作劇面での不手際により満点は付けられないが、それでも昨今の日本映画の中では上出来の部類だ。第71回カンヌ国際映画祭で大賞を獲得した事実を考慮せずとも、十分に語る価値はある。

 有り体に言えば、本作が提起しているのは“家族とは何か”ということだろう。もっとも、是枝裕和監督はこれまでずっとそのテーマに沿って映画を撮り続けており、本作にも過去の諸作の要素は取り入れられている。だが、今回は以前のモチーフの“総集編”には留まらず、目覚ましい求心力を発揮しているのは、作者のスキルアップと覚悟の現れであろう。

 前半に主人公達は本当の家族ではないことが明かされる。それぞれの生い立ちは決して幸福なものではない。本当の家族からは見捨てられた者、取り返しのつかない犯罪に手を染めた挙げ句に逃げ込んできた者、そしてまた、この“家族”の主である柴田治は、団地の廊下で凍えている幼い女の子を見つけて“家族”に招き入れる。

 彼らは一家の老母である初枝の年金だけでは食っていけず、臨時雇いの仕事の傍ら万引きによって日用品を調達している。インモラルな稼業で日々を送る彼らだが、それでも笑いが絶えない明るさがある。しかし、ここで“血は繋がっていなくても、家族としての絆は生まれるのだ”などという単純な結論には決して行き着かない。いくら仲が良さそうに見えても、しょせんは訳ありの連中が身を寄せ合っているだけである。

 それを如実に表現しているのが、花火大会の夜に縁側に一家が集まるシーンだ。ビルの谷間にある古びた一軒家からは、花火は見えない。それでも“音だけで十分だ”とばかりに楽しもうとする。この部分に於ける花火が“本当の家族”の暗喩であり、音だけしか聞こえない不完全な状態に留まっている彼らは、いつまで経っても“家族のイミテーション”に甘んじることしか出来ない。

 この映画の実質的な主人公は、治の“息子”である祥太だ。幼い頃に親に捨てられていたのを治に拾われ、家族の一員になった。それまでずっと治を手本にして生きてきたのだが、思いがけず“妹”が出来たことによって、初めて責任感というものが生まれる。そして、改めてこの家族の反社会性に子供ながらに気付くのだ。その祥太の行動によって、この家族の運命は大きく揺らぐ。

 彼らは、それぞれが本当の家族の仲では不遇だったが、この一家においても本当の幸せは掴めない。作者はそこまで追いやった状況の理不尽さに対して激烈に抗議しているようだ。“それは社会が悪いのだ!”と言ってしまえば青臭く聞こえるが、昨今世間を賑わせている数々の事件を見ても、大切なのはこの問題を真剣に考え、そして声を上げることなのだと思う。現時点では小賢しい自己責任論が入り込む余地など、存在しない。

 印象的なシーンはけっこうあるが、風俗で働いている一家の“次女”である亜紀が、客である孤独な若い男と心を通わせるくだりは特に心に染みた。本年度の邦画の屈指の名場面だと思う。

 冒頭述べたように、この映画は最後の詰めが甘い。この一件が家族内で完結するような事態ではなくなった時点では、もっと段取りに気を遣うべきだろう(あれでは何も解決していない)。とはいえ、その瑕疵を差し引いても、本作のクォリティは高い。

 リリー・フランキーに安藤サクラ、松岡茉優、樹木希林、柄本明、池松壮亮、そして2人の子役、出演陣はいずれも素晴らしいパフォーマンスを見せる。近藤龍人のカメラによるざらついた臨場感のある画面、久々に映画音楽を担当した細野晴臣の仕事ぶりも万全だ。
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「ワンダーランド駅で」

2018-07-15 06:24:23 | 映画の感想(わ行)
 (原題:Next Stop Wonderland)98年作品。ウィットに富んだ小粋な大人のラブコメの線を狙ってはいるが、作者の力量がイマイチであるためか、物足りない出来に終わっている。上映時間が96分と短いにも関わらず、かなり長く感じてしまった。

 恋人に振られてしまったエリンは傷心の真っただ中にあったが、それを見かねた母親が、勝手にエリンの名前で恋人募集の広告を出してしまう。早速数十件の応募があるが、彼女はどれもピンと来ない、一方、配管工をしながら大学のカリキュラムを履修しているアランも、その広告を目にする。彼の悪友どもはエリンの彼氏候補として名乗りを上げろと囃し立てるが、アランにその気はない。なぜなら彼は、大学で一緒に学んでいるジュリーと交際中だったからだ。



 その頃エリンは広告の効果が思いのほか小さいことに落胆していたが、そんな彼女の前に優しい二枚目のブラジル人アンドレが現れる。エリンは彼に誘われ、ついにはブラジル行きの航空券を手にしてしまう。

 ハナからネタバレするようで恐縮だが、これは主人公たちが出会うまでを描いた映画である。だから、終盤を除いてエリンとアランは顔を合わせることはない。その設定だけ見れば、気が利いているようにも思えるのだが、どうにも作劇がパッとしない。

 ブラッド・アンダーソンの演出は冗長で、登場人物の内面にも迫っていないが、それをドキュメンタリータッチの“自然な”撮り方でカバー出来ると思い込んでいるらしい点が何とも浅はかだ。含蓄のあるセリフを散りばめて求心力を上げようとするものの、どれも上滑りしている。

 そもそも、ボストンを舞台にしたアメリカ映画という事実と、手持ちカメラおよびボサノヴァ音楽というインディ的テイストが悲しいほど合っていない。このコンテンツならアメリカ映画である必要はなく、フランス映画でも観ていればいい。これが長編第二作目だったブラッド・アンダーソンの仕事ぶりは低調だが、その後彼は娯楽路線(それもB級)に転じたことを考え合わせると、こういうネタは合っていないかったのだろう。

 主演のホープ・デイヴィスとアラン・ゲルファン、そしてヴィクター・アルゴ、ジョン・ベンジャミン、カーラ・ブオノといったキャスト陣はあまり印象に残らず。クラウディオ・ラガッツィの音楽は、映画抜きの“単品”ならば評価できる。
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