元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「Aサインデイズ」

2017-03-31 06:38:51 | 映画の感想(英数)
 89年作品。内容はそれほど上出来ではないが、時代背景の描出と題材になった音楽の扱い方は悪くないので、評価はそれほど低くない。監督は崔洋一で、出来映えにはムラがある彼のフィルモグラフィの中では水準には達していると思う。

 アメリカの統治下にあった1968年の沖縄。定時制高校に通う16歳のエリは日米のハーフで、コザ市のレストランで働いている。ある日、彼女はAサインバーでロックを演奏する連中と知り合う。Aサインバーとは米軍から風俗営業の許可をもらった飲み屋のことだ。エリは彼らの一人であるサチオに惹かれ、一年後には二人は結婚して男の子をもうける。



 ところがサチオは浮気者で、しかもエリに生活費も渡さない。包丁を持ち出して子供と一緒に死ぬというエリを何とかなだめるため、サチオは彼女をバンドのヴォーカルとして入れることにした。意外にもエリはロックに適性を示し、次第に人気も出てきたが、メンバー間の不仲が生じてサチオは孤立。グループは解散に追い込まれ、さらに悪いことにサチオは交通事故に遭い、楽器が弾けなくなってしまう。利根川裕原作の実録小説「喜屋武マリーの青春」を原案としたドラマだ。

 この時期の沖縄の風俗描写は上手くいっていると思う(まあ、リアルタイムで知るはずもないのだが、それらしい雰囲気は出ている)。無国籍風の猥雑さが画面の隅々にまで行き渡り、独特の熱気を孕んでいる。サチオに扮する石橋凌はさすが“本職”だけあって、演奏シーンは手慣れたものだ。今聴くと垢抜けないサウンドだが、当時の沖縄はこのような荒削りの音が受け入れられたのだろう。

 ドラマ自体は可もなく不可もなしだ。俺様主義のロックンローラーと結婚した若い女の苦労話というのは珍しくもない題材だし、展開も凡庸。だが、エリ役の中川安奈の大柄な身体を持て余したような不敵な存在感は、観る者の視線を引き付けるものがある。広田レオナや余貴美子、大地康雄といった脇の面子もいい。なお、中川は2014年に若くして世を去っているが、惜しいことをした。
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「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」

2017-03-27 06:33:08 | 映画の感想(あ行)

 (原題:DEMOLITION)作者のスノッブな姿勢が散見され、ケレン味たっぷりの映像処理や演出が目白押し。こりゃハズレかなと思ったら、最後は何とか格好が付いた形になり、取り敢えずホッとした(笑)。まあ、場合によってはこのような語り口も許容されるのだろう。

 デイヴィスはウォール街で腕を振るうエリート金融マンだ。とはいえ毎日“売った、買った”という業務を机上の数字だけでやり取りするのは、味気なくもある。ある朝、突然の交通事故で妻が他界してしまう。ところがデイヴィスは全然悲しみを覚えない。彼女は自分にとって何だったのかと、悩みは深くなるばかり。

 会社の社長でもある義父は“とにかく、一度何もかも壊してしまい、それから身の振り方を考えろ”と言うが、それを真に受けた彼は本当に身の回りのあらゆるものを破壊し始める。そんな中、デイヴィスは自動販売機の不具合を自販機メーカーに訴えたところ、思いがけず消費者対応係のシングルマザー、カレンと知り合う。彼女と仲良くなると同時に、妻との関係性を思い返してみる彼だが、やがてデイヴィスは妻が遺していったものを見付けることなる。

 本作の設定は西川美和監督の「永い言い訳」(2016年)と似ている。だが、映画が始まる前から夫婦仲が冷え切っていた「永い言い訳」に対し、この映画の主人公はどうして妻の死を悲しめないのか分からない。だからということでもないが、やけくそになったデイヴィスの奇行は目に余る。

 彼は職場の備品はもちろん、家具調度品や、ついには自宅そのものを壊していく。それらのシーンをハッタリかました演出で大仰に盛り上げようとするジャン=マルク・ヴァレ監督は、悪ノリしていると言われても仕方がないだろう。

 しかし、そんな乱行も亡き妻の想いが明らかになる終盤とのコントラストを際立たせるという意味で、それなりの合理性を持っていることは分かる。世の中、偽善やゴマカシばかりが横行して斜に構えて生きることを余儀なくされる面もある。だが、本当の善意は確実に存在し、それを見つけるまでには本作の主人公のようにハードな試行錯誤が必要だ。そのことを変則的に訴えている本作の有り様は捨てがたい。

 主演のジェイク・ギレンホールは絶好調。大きな目をギョロつかせながら、理不尽な立場に追いやられた男を軽いフットワークでこなしている。カレン役のナオミ・ワッツも相変わらず達者だ。クリス・クーパーやジューダ・ルイスなど、脇の顔ぶれも良い。なお、原題から懸け離れたこの邦題の意味は、最後に分かる。
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「輝きの海」

2017-03-26 06:10:16 | 映画の感想(か行)

 (原題:Swept from the Sea)97年作品。キャストは悪くなく、風景は美しいのに、監督の腕が三流だから凡作に終わってしまった。もっとドラマティックに引っ張れないのだろうか。これじゃTVムービーと変わらないじゃないか。

 20世紀初頭、イギリス南西部のコーンウォールの小さな漁村に住む若い女エイミーは、両親が結婚する前に生まれてしまったため、住民たちから村八分にされていた。彼女が安心できる場所は、海岸の漂流物を集た洞窟の中だけである。そんなある日、村に難破した船の生き残りである男ヤンコが現れる。ヤンコの乗っていた船はウクライナからアメリカに向かう予定だったが、嵐に遭って沈没したのだった。

 村人たちは言葉も通じないヤンコを厄介者扱いするが、エイミーだけは彼に救いの手を差し伸べる。2人は仲良くなり、周囲の反対を押し切って結婚するが、さらなる悲劇が待っていた。ジョゼフ・コンラッドの短編小説「エイミー・フォスター」の映画化だ。

 設定もストーリーもかなり大時代である。だからあえて映画化するためには、現代的な視点を盛り込まなければならないが、それが見当たらない。もちろん、異分子に対する共同体の冷淡な態度というものはいつの時代にも存在する。しかし、それが現時点(もちろん、製作された90年代も含む)で訴求力を持つほどに、この映画の語り口は力強くはない。

 ビーバン・キドロンの演出は平板で、エイミーに理解を示すスウォファー家の人々やケネディ医師の内面描写が通り一遍になっている。メリハリのない展開に終始していると思ったら、ラスト近くになると途端に話が慌ただしくなり、あとは釈然としない気分で劇場を後にするのみだ。

 ただし、キャストの仕事ぶりは達者。レイチェル・ワイズにヴァンサン・ペレーズ、イアン・マッケラン、キャシー・ベイツと芸達者が並んでおり、それぞれソツのないパフォーマンスを見せている。だが、当時ワイズは「ハムナプトラ」の、イアン・マッケラは「ゴールデンボーイ」の印象が強くて、イマイチ役としっくりいっていない印象もある。ディック・ポープのカメラによる映像は美しく、大御所ジョン・バリーのスコアは流石だと思った。
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「ラビング 愛という名前のふたり」

2017-03-25 06:47:43 | 映画の感想(ら行)

 (原題:LOVING)題材やキャストの演技は悪くない。しかし、あまりにも演出が抑え気味で、盛り上がりに欠ける。おそらく作者としては余計なケレンを廃して対象を自然に扱いたかったのだと思うが、こうも展開が平板だと観ていて眠気を覚えるのも仕方が無い。少しはエンタテインメントに振った映画作りをした方が、広範囲な支持を集めたと思う。

 1958年、バージニア州の田舎町セントラル・ポイントに住むレンガ職人リチャード・ラビングは、恋人のミルドレッドから妊娠したことを告げられ、大喜びで結婚を申し込む。しかしリチャードは白人で、ミルドレッドは黒人であった。当時バージニア州では、異人種間の結婚は違法だったのだ。

 そこで2人は、異人種間の結婚が認められている首都ワシントンで結婚式をあげ、地元に戻って暮らし始める。だが、結局は警察に逮捕された2人は裁判所から離婚するか州外に住むかという二者択一を迫られる。やむなく故郷を後にして都会に出るラビング夫妻だったが、子育てを環境の良い田舎でしたいとの思いが募り、思い切った行動に出る。1967年に異人種間結婚を禁じる法律を無効にする判決が下った“ラビング対バージニア州裁判”の顛末を描く実録ものだ。

 まず、ほんの50年ぐらい前まで異なる人種同士の婚姻が禁じられていたという、アメリカの極端に保守的な有り様には驚く。言い換えれば、現在でもこの国は基本的にあまり変わっていないということだろう。それだけに、2人が生まれ育ったバージニア州の小さな町のリベラルな雰囲気が印象的だ。

 ただし、前述のようにストーリー運びはメリハリが無く訴求力に乏しい。たとえば、彼らがこっそりと故郷に戻ってきて隠れ住むというくだりは、いつ当局側に見つかるかというサスペンスを醸成しても良いはずだが、扱いは淡白に過ぎる。訴訟の支援勢力の人間模様や、裁判のプロセスなどもじっくり描きたいところだが、呆気なくスルーされている。ジェフ・ニコルズの演出は慎重さを通り越して“及び腰”になっている感があり、こんな調子でハッピーエンドを用意してもらっても鼻白むばかりである。

 ただし、出演者はかなり健闘している。寡黙なリチャードに扮するジョエル・エドガートンは、まさに佇まいだけで全てを語ってしまうような存在感を発揮。そしてミルドレッド役のルース・ネッガの演技は素晴らしい。控え目なから凛とした力強さを見せるかと思えば、家族に対しての甘やかな愛情の表現にも抜かりが無い。アカデミー賞はファニーフェイスのねーちゃんではなく彼女が取るべきだっただろう。マートン・ソーカスやテリー・アブニー、マイケル・シャノンといった脇の面子も良い味を出している。
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「遥かなる大地へ」

2017-03-24 06:27:07 | 映画の感想(は行)
 (原題:FAR AND AWAY)92年作品。19世紀、はるかな夢の国アメリカに大志を抱き、祖国アイルランドを後にした男と女。それは厳しく無情な旅の始まりであった・・・・。ロン・ハワード監督がトム・クルーズと組んだ大作で、当時アメリカ映画としては久々の70ミリ映像も話題になっていた。

 観終わってガッカリ。要するに、アイルランドの貧しい小作人の息子が、男勝りでわがまま放題の地主の娘と出会い、二人でアメリカに渡り、めでたしめでたし、という話だ。これがファンタジーならともかく、アメリカの歴史を背景にしてリアルに描かれなければならない素材なのに、そのへんがすっかり抜け落ちている。ろくに取材もせずに、あわただしく撮影を始めてしまったのではないか?



 そもそも「遥かなる大地へ」という邦題に偽りありだ。題名通りの広大な大地があらわれるのは、ラスト15分だけではないか。あとは天気の悪いアイルランドの田舎と、やたら暗いボストンの貧民街(この部分がめちゃくちゃ長い)の描写だけである。特にボストンの場面は主人公がストリート・ファイトで金を稼ぐくだりが必要以上に冗長で、別にこの時代が舞台でなくてもかまわないような展開が続く。作り手の歴史的事実の不勉強を如実に示していると思う。

 冒頭近くの父親の最期の場面を、ラストでは主人公に振ってくるあたりなど芸がないし、第一“土地獲得競争”のプロセスが十分説明されていないからドラマ的に盛り上がるわけがない。

 加えて、主人公の二人にはほとんど感情移入できない。トム・クルーズは最後まで気のいいだけのアンチャンだし、ニコール・キッドマンは威勢がいいだけの女性でしかなく、こちらの共感を呼ぶような人間的葛藤とか、個性のぶつかり合いなどはどこにも見あたらないのは困ったものだ。能天気なだけのキャラクターではこの歴史的ドラマを支えきれるわけがない。70ミリの大画面や流麗なカメラワーク、エンヤによるテーマ音楽も今となってはしらじらしい限りだ。
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「愚行録」

2017-03-20 06:48:55 | 映画の感想(か行)

 これが長編映画デビューとなる石川慶監督の、独特の映像センスが光る映画だ。彼はポーランド国立映画大学で演出を学んだとのことだが、登場人物の心の闇を象徴するかのような、深く沈んだ色調の画面は日本映画ではあまり見かけたことがない。まさしくクシシュトフ・キエシロフスキやイエジー・スコリモフスキといった、ポーランドの監督たちの作品を思い起こさせる。

 週刊誌の記者である田中武志は、ある凄惨な殺人事件を取材している。一家3人を包丁でメッタ刺しにした犯人の手掛かりは掴めず、一年経った今でも捜査は難航したままだ。事件の被害者である田向家は、エリートサラリーマンの父親に美人の母親と育ちの良い娘という、文句の付けようのない家族だったのだが、武志が田向を知る者たちにインタビューするうちに、彼とその妻の“裏の顔”が浮かび上がっていく。

 一方、彼の妹の光子は育児放棄の罪で逮捕されている。武志は折を見て弁護士と共に留置場に面会しに行くが、光子はメンタル障害を疑われ、精神科医の診断結果を待っている状態だ。

 冒頭、バスに乗る武志が他の乗客から席を譲ることを強要され、その当てつけに低劣な小芝居を弄する場面から、この男の空虚な内面が伝わってくる。さらに、武志の取材相手がどいつもこいつもロクなものではなく、加えてこの殺人事件の背景には複雑な事情があることが明らかになる。とはいえ実情は“複雑”ではあっても深みは無い。各人の身も蓋もない(しかも、レベルの低い)本音や悪意が交錯し、結果として取り返しの付かない事態に陥ったという、そういう仕掛けだ。

 この底の浅い構造を観る者に切迫感を持って提示することが出来たのは、前述のユニークな映像感覚によるところが大きい。特に印象に残ったのが、田向家の住まいだ。周囲からやや高い位置にあり、しかも外観は無機質である。高級住宅地に位置してはいるが、住む者の薄っぺらい虚栄心が横溢しているようだ。それを見上げる犯人との構図は、黒澤明の「天国と地獄」を思い出す映画ファンもいることだろう。

 貫井徳郎による原作は数年前に読んでいるが、それに比べてこの映画化作品の筋書きはあまり上手いとは言えない。光子の学生時代を描くパートは作劇上重要であるはずだが、確固としたヒエラルキーが存在するキャンパス風景と、それに対応する光子との関係性が描き切れていない。そもそも、恵まれない生い立ちの彼女が有名私大を目指した理由が分からない。普通の公立校でも良かったのではないか。

 武志に扮する妻夫木聡をはじめ、小出恵介、臼田あさ美、市川由衣、松本若菜といったキャストは万全。中でも素晴らしいのが光子役の満島ひかりで、こういう不安定な内面を抱えたキャラクターを演じさせると絶品だ。プロットには不満はあるが、演技陣の頑張りと独自の映像を堪能できるという意味では、観る価値のある映画である。
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ドン・ウィンズロウ「ザ・カルテル」

2017-03-19 06:39:00 | 読書感想文
 ニューヨーク出身のライター、ウィンズロウの代表作といえばメキシコ・マフィアの生態を生々しく綴った「犬の力」(2005年刊行)だが、本書はその続編だ。高評価の作品のパート2というのは、通常は質の低下が懸念されるところだが、これは前作を凌ぐほどの重量感と迫力で読む者を圧倒する。かなりの長編ながら、弛緩するところも見当たらず、一時も飽きさせない。

 前作でメキシコの麻薬カルテルと壮絶な戦いを演じたDEA(アメリカ麻薬取締局)捜査官のアート・ケラーは、第一線を退いて田舎で養蜂家としての生活を送っていた。ところがある日、刑務所に送ったはずの敵の首魁であるアダン・バレーラが脱獄したというニュースが飛び込んでくる。バレーラは再び大きな組織を作り上げるが、彼がいない間にメキシコは複数のシンジケートが誕生しており、すぐさま血で血を洗う抗争が勃発。



 バレーラはケラーに対する恨みも忘れておらず、ケラーの首に莫大な額の懸賞金を積み上げる。ケラーは“現場”に復帰し、アメリカ当局やメキシコ連邦保安局と協力して対処に当たるが、カルテルのパワーは簡単に押さえつけられるものではなかった。2006年ごろから始まったメキシコ麻薬戦争を題材にしたドラマだ。

 物語の基調はケラーとバレーラとの確執だが、脇のキャラクターが主役となるパートにもかなりのページ数が割かれている。ならば展開がそれだけ散漫になるのかというと、全然違うのだ。各エピソードはそれだけで一つの長編小説が成り立ってしまうほど、密度が濃い。そしてそれらは、本作の大きなテーマであるメキシコおよび(麻薬の一大マーケットになっている)アメリカの現状に収束していく。

 登場人物の多くは自らの欲望あるいは矜持によって生き方を決めたはずが、無残にも命を落としていく。カルテルの構成員はもちろん、ケラーに味方する当局側の人間やマスコミ関係者も、この状況にコミットした途端に命のやりとりを強いられる。ただし、いくらメキシコで修羅場が展開されようとも、漫然と大麻とコカインを吸い、ヘロインと覚醒剤を打つ北米の連中の立場は変わらない。その現実に対する激烈な怒りと、苦々しい諦念とが文面から迸っている。

 ウィンズロウの筆致は淀みがなく、キャラクターの掴み方や活劇シーンの高揚感には瞠目させられる。ミステリー好きはもちろん、骨太な社会派作品を望む読み手にも大きくアピールできる作品だ。
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「彼らが本気で編むときは、」

2017-03-18 06:40:07 | 映画の感想(か行)

 荻上直子の監督作は「かもめ食堂」(2006年)しか観ていないが、あの映画に対して覚えた違和感が本作にも横溢している。「かもめ食堂」の主人公は“母親が逝った時より猫が死んだ時の方が悲しかった”とモノローグで語るように、親との関係性を上手く構築できていなかった。この映画の登場人物達も同様である。別に親子関係についてどういう見解を持とうが勝手なのだが、それが作品の面白さに結び付いていないのは、実に不満だ。

 11歳の女の子トモは、母親のヒロミと2人で暮らしていたが、ある日ヒロミが男に入れあげて家を出てしまう。一人きりになったトモは、仕方なく近くに住む叔父マキオの家に転がり込む。だが、叔父にはリンコと名乗る同棲相手が出来ていた。リンコは元男性で、老人ホームで介護士として働いている。最初は戸惑うトモだったが、愛情を持って世話をしてくれるリンコに、次第に心を開いていく。脚本は荻上監督によるオリジナルだ。

 まず、トモに対するヒロミの態度が不愉快極まりない。明らかに虐待であり、しかも最後までこの母親は反省一つしないのだ。若い頃のリンコとその母親との関係も釈然としない。息子の“性癖”に理解を示しているようで、何やら自分の所有物のように扱っている。トモの同級生のカイの母親は、ステレオタイプの価値観を押しつけてくるだけで、子供を理解しようとしない。またトモやリンコにも父親はいたはずだが、その存在は見事なほどにネグレクトされている。

 斯くの如く、本作における本当の血縁関係にある親子は、どれも正常では無い。で、親身になって子供の面倒を見てくれるのが、性的マイノリティだけであったという話を展開しているわけだ。言うまでも無く、こんな図式は底が浅すぎる。

 同性愛やトランスジェンダーが、そんな“イレギュラーな親子関係”へのアンチテーゼとして位置付けられているということは、言い換えればLGBTが“イレギュラーな親子関係”との対立要件でしか存在価値が成立し得ないことになる。もちろん、実際はそんな単純なものではないはずだ。それに、男根イコール煩悩と断定しているリンコの思いがよく分からないし、リンコが108個の男根の編み物のオブジェを作るくだりも、作劇上は牽強付会に過ぎるのではないだろうか。

 リンコに扮する生田斗真は好演。よくここまで役を自分のものにしたと思う。子役の柿原りんかも良い。しかし、その他のキャストが機能していない。桐谷健太にミムラ、小池栄子、門脇麦、りりィ(これが遺作)、田中美佐子と、悪くない面子を揃えているのに残念だ。
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「ディス・イズ・マイ・ライフ」

2017-03-17 06:25:22 | 映画の感想(た行)
 (原題:THIS IS MY LIFE )92年作品。いろんなトラブルはあったけど信じ会える家族こそ何よりも掛け替えのないものだ・・・・というこの映画の主題に文句はなく、ハートウォーミングな良心作という評価もあるだろう。しかし、冷血漢(苦笑 ^^;)の私にとっては物足りない。この程度では“笑って楽しむ”ことはできても、観たあとすぐに忘れてしまうだろう。

 デパートの化粧品売り場で得意の話術を発揮し、多くの顧客を獲得する主人公ドティは離婚後、娘2人を女手ひとつで育てている。彼女の夢は漫談家として舞台に立つことで、娘たちもそれを応援しているが、別れた夫はドティの才能を理解してくれなかった。そして、チャンスがめぐってくる。エージェントにスカウトされたドティは、トーク・ショーとTV出演でめきめき頭角をあらわし始めたのだ。



 しかし、そうなると寂しくなるのは娘たち。特に長女のエリカは家庭をかえりみない母親からどんどん遠ざかっていくようになる。「恋人たちの予感」(89年)の脚本を執筆し、メリル・ストリープ主演の「心みだれて」の原作者でもあるノーラ・エフロンの初監督作品で、メグ・ウォリッツァーのベストセラー小説を脚色、カーリー・サイモンが音楽と主題歌を担当している。

 出演者が芸達者揃い。主演のジュリー・キャヴナーは「レナードの朝」(90年)などの名脇役だが、ここでは彼女の持つコメディエンヌとしての才能が大いに発揮されている。サマンサ・マシス扮するヒネたようで実は純情な長女は実に印象的だし、エージェント役のダン・エイクロイドはいつもの個人芸で大いに笑わせてくれる。

 しかし、善良な人々の予定調和的ドラマはしょせん絵空事。現実はそんなに甘いものではない。映画では別れた夫は冷淡で皮肉っぽい人物として、つまり悪者として描かれるが、ヒロインの方にも責任はあったに違いなく(だいたい少しばかり話術に長けているぐらいで芸能界にデビューできるわけがなく、こんな夢ばかり追っている妻を持った男の苦悩は察するに余りある)、そのへんをシビアーに突っ込まないと、真の観客の共感は得られないと思う。

 どうしても“良心作”のまま押し通すならば、ウソをウソとして納得させるだけのパワフルな演出力がもっと必要だが、監督第一作目のエフロン監督の力量ではあまり期待できない。結果として中途半端な印象の作品になったことは否めない。
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「ラ・ラ・ランド」

2017-03-13 06:35:26 | 映画の感想(ら行)

 (原題:LA LA LAND)明らかに、作者の興味の対象外である題材を無理矢理に採用したという印象だ。ひょっとしたら本人にはその自覚は無かったのかもしれないが、観る側からすればそれは一目瞭然。別のスタッフと別のキャストで製作した方が、はるかにマシな出来になったと思われる。

 ハリウッドの撮影スタジオの近くにあるカフェでバイトしているミアは女優志望。何度もオーディションを受けるが、色好い返事をもらったことはない。今日も不合格で落ち込んだ彼女がピアノの音色に誘われて入ったジャズバーで偶然ピアニストのセバスチャンと出会うが、印象は最悪だった。後日、ミアはパーティ会場で軟派な音を奏でるバンドの一員になっているセバスチャンを発見。ジャズバーをクビになって、やむなくそんな仕事をしていたのだ。初めて会話をしたものの衝突してしまう2人だったが、互いの境遇と夢を知るようになって惹かれ合う。ところがセバスチャンが“生活のために”一時的に加入したバンドが売れてしまい、ミアとの“格差”が表面化する。

 昨今のアメリカ映画では珍しいミュージカル作品だが、まるでサマになっていない。何より、主演2人の歌と踊りのスキルが低すぎる。しかも、オリジナル楽曲のクォリティが大したことない。ミュージカル映画なので深くて込み入ったストーリーは必要ないとは思うが、それにしては面白くない話である。片方が有名になったと思ったら、もう片方が時間をおいてブレイクするという筋書きを、何のひねりも無く漫然と展開させるのみだ。

 ならば演出と脚本を担当したデイミアン・チャゼルが一番撮りたかったものは何かというと、それはジャズだろう。要領を得ないミュージカル場面が目立つ本作の中で、ジャズのライヴだけは躍動感に満ちている。セバスチャンのジャズに対する思い入れ、決して恵まれているとは言えないジャズの現状と将来に関する提言、そしてスタンダードなジャズの素晴らしさを訴えたいという作者の意図は明白だ。

 しかし、一方でそれは“ジャズ以外の音楽”の扱いの安直さにも繋がっている。セバスチャンが所属したバンドがやっているのは、お手軽な80年代ポップスや平凡なファンク・サウンドだ。とてもジャズに比肩しうるものとは思えない。この監督、若いくせに最近の音楽に疎いのではないだろうか。

 主演のライアン・ゴズリングとエマ・ストーンは健闘しているが、ミュージカルに相応しい人材ではない。そして、彼ら以外のキャラクターが全くクローズアップされていないのにも閉口してしまう。ともあれ、現時点でミュージカル映画を作ろうとするならば、アップトゥデートな切り口が必要だろう。往年のMGMミュージカルと似たような次元で留まっていては、高い感銘度は期待できない。
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