元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「シン・シティ 復讐の女神」

2015-01-31 06:21:15 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Sin City:A Dame to Kill For )前作に比べると、大幅に落ちる出来。この続編が作られたのが前回から時間がかなり経ってからであり、(キャストの入れ替えなどもあって)インパクトの強さを持続出来なかったことが一番の敗因だろう。やはり映画製作にはタイミングが大事である。

 悪党どもが跳梁跋扈する街、シン・シティ。ストリップバーの看板ダンサーのナンシーは、前作で交際相手の刑事ハーティガンを自殺に追いやった街の支配者ロアーク上院議員に復讐するチャンスをうかがっていた。また、私立探偵のドワイトは昔の恋人エヴァから大富豪の夫のDVを打ち明けられ、義憤にかられる。しかし、実は悪いのはエヴァの方で、ドワイトを夫殺しに利用しようとしていたのだ。一方、若いギャンブラーのジョニーはロアークにポーカーで勝負を挑むが、反対に袋叩きに遭ってしまう。

 パート1に引き続きフランク・ミラーのグラフィック・ノベルを映画化したものだが、ストーリーの整合性なんかハナから捨象しているのも同様だ。しかし、ここには筋書きのデタラメさをカバー出来るような濃いキャラクターも、斬新な映像処理も存在しない。

 前回のイライジャ・ウッド扮する異形の殺し屋とか、ニック・スタール演じるバケモノに匹敵するような面子は現れず、映像ギミックも現時点で見れば手垢にまみれたようなものばかり。おまけにパート1で印象が強かったベニチオ・デル・トロやクライヴ・オーウェンは登場せず、マイケル・クラーク・ダンカンやブリタニー・マーフィはもういないし、デヴォン青木は産休中。

 オーウェンの代打であるジョシュ・ブローリンはパッとせず、ブルース・ウィリスは幽霊役なので活躍出来るはずも無い(笑)。わずかに目に付いたのは相変わらず無手勝流のミッキー・ロークと、エヴァ・グリーンのハダカだけ(爆)。一応はヒロイン役のジェシカ・アルバも大して目立っていない。

 斯様にキャストは大きく弱体化し、結果的に話自体の面白味の無さだけがクローズアップされることになった。これでは、ダメだ。もっと早い時期に、前作の配役を引き継いで“勢い”で作ってしまえば、まだ減点は少なかったと思われる。監督は原作のミラーとロバート・ロドリゲスのタッグだが、明らかに気が乗っておらず、凡庸な展開に終始。特にバトルシーンの芸の無さにはガッカリした。観る価値は無いと結論付けてしまおう。
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後藤忠政「憚りながら」

2015-01-30 06:40:23 | 読書感想文
 かつて山口組系列の武闘派組織であった後藤組を率い、その後引退して今では天台宗系の寺院の僧侶になっている後藤忠政が“現役”だった頃を綴った自叙伝だ。極貧の子供時代から、長じて愚連隊を結成し、やがて“本職”にスカウトされる。後藤組結成以後の創価学会との攻防や山一抗争、政財界との交流などが描かれ、紹介される事実自体はけっこう興味深い。

 しかし困ったことに、それらを熱心に語れば語るほど読み手は“ヤクザというのは、どうしようもない連中だな”というネガティヴな印象しか受けないのだ。そして、こんなゴロツキがどの面下げて仏門に帰依出来るのか、そのあたりの厚顔無恥ぶりを見せつけられるに及び、ウンザリする。



 とにかくこの男の“自分はムショで十分お勤めを済ませてきたから、今は完全に無罪だ”と言わんばかりのシンプル極まりない思考形態には呆れるばかり。悪辣なことを山ほどやっていたはずだが、それに対する反省の念は微塵も無い。

 肝臓移植の順番に割り込んだことを得々と話し、カタギの市民が襲撃されたことを“当然だ”と言ってのけ、宗教関係者を脅迫したことをドヤ顔で自慢する等、どう見ても著者は一般ピープルのメンタリティとは完全に一線を画した歪んだ性根の持ち主である。しかも、ところどころに説教じみたフレーズが挿入されているのは失笑するしかない。

 こんな奴が取って付けたように東日本大震災の復興支援に関与しているのというのは、被災地にとってありがた迷惑ではなかろうか。読み終わって、結局ヤクザはどう転んでもヤクザであり、人間のクズでしかないことがよく分かった。

 余談だが、後藤忠政と対立した元読売新聞社会部記者のジェイク・エーデルスタインが2009年に発表したノンフィクション「トーキョー・バイス」の映画化の話があったが、製作はどの程度まで進んでいるのだろうか(主演はダニエル・ラドクリフ)。夜郎自大な内容の本書よりも、そっちの方が数段面白そうである。
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「Jam Films S」

2015-01-29 06:39:08 | 映画の感想(英数)
 2004年作品。オムニバスシリーズの最新(最終)作で、園田賢次監督の「Tuesday」、高津隆一監督の「HEAVEN SENT」、石川均監督の「ブラウス」、手塚領監督の「NEW HORIZON」、阿部雄一監督の「すべり台」、原田大三郎監督の「α」、浜本正機監督「スーツ」の7つのパートから構成されている。

 しかしながら、まあまあ面白かったのは第七話「スーツ」だけだ。



 通常の軍隊は廃止され、そのかわり有事の際は国民の中から無作為に一人を選び出してモビルスーツ(のようなもの)を装着させて事に当たらせるようになった近未来。そんな大仰な設定を“スーツ装着者”に選ばれてしまった男のマンションの一室を舞台にしてほとんど語ってしまおうという横着さが嬉しい(笑)。藤木直人扮する軽佻浮薄な主人公と、小西真奈美演じるキャバクラ嬢との掛け合いも軽妙で、アホアホな結末まで観客を飽きさせない。

 対して、あとの6本はまるっきりダメ。映画になっていない。それどころか、あれほど多彩なキャストを揃えておいて平均以下のパフォーマンスしか示せない当時の“若手監督”たちって、いったい何なのかと思ってしまう。

 こういうオムニバスものは全編ピシッと製作意図が一貫していなければならないはずだが、このプロデューサーは放任主義で、カネだけ調達して口は出していないようだ。そんなのは映画製作とは呼べない。劇場で入場料取って見せようとする事自体が大間違いである。
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「0.5ミリ」

2015-01-26 06:38:06 | 映画の感想(英数)

 終盤でのヒロインのモノローグが本作のテーマを代弁している。未来が開けている者、若くして挫折した者、いろいろな屈託を抱えて年を重ねてきた者etc.そういう者達が現在同じ時間を共有していることの奇跡、人生の不思議さを活写した映画だ。もちろん、主題をセリフで語らせるのは映画作りの常道からは外れている。しかし、本作は少しばかり説明的なフレーズを挿入したぐらいではビクともしない作劇の堅牢性を保持している。間違いなく近年の日本映画を代表する秀作だ。

 介護ヘルパーの山岸サワは、派遣先の家族から余命幾ばくも無いジイちゃんと一度寝て欲しいと頼まれ、引き受けてしまう。ところが、当日思わぬ大事故が発生し、そのため仕事もお金も住む場所も失うハメに。当て所なく街をさまよう彼女が偶然目にしたのが、カラオケ店で“泊めてくれ”と無理な注文をする老人。

 サワは知り合いのフリをして割って入り、そのジイちゃんとカラオケルームで一晩中歌って盛り上がる。翌朝彼は、サワに感謝の言葉といくらかの小遣いを残して去っていくのだった。これに味をしめた彼女は、孤独でワケありの老人を見かけると彼らの家に居座って世話をやくという“押しかけヘルパー”を始める。ジイちゃん達は最初は困惑するが、介護も家事も完璧にこなすサワに対し、親しみを感じるようになっていく。

 たとえもうすぐ人生を終えようとする者であっても、それまで過ごした時間の中には、矜持や屈託は確実に蓄積されてゆく。それは幾ばくか名を成そうとも、あるいは社会の片隅でひっそりと過ごしていようとも、基本的には一緒だ。サワの言動は彼らの内面の発露の、いわば触媒として機能する。その意味では彼女はメリー・ポピンズのような妖精的存在だ。

 しかしながら、ラストの(冒頭の逸話とリンクする)エピソードに関してはサワの“神通力”はあまり役に立たない。それは、世話をやく対象が老人ではなく自分より年若い者であるためだ。だから彼女は、これからの相手の人生にただ寄り添うしかないのだが、その点も納得出来る。

 反面、内面を表に出さずに陰に籠もったまま最期を迎える者(あるいは残された時間を無為に過ごす者)も確実に存在しているわけで、そういう者達に対してもサワは決定的な存在感を発揮出来ない。だが、それを否定するわけでもない。丸ごと含めた形で肯定しているあたり、惹句になっている“死ぬまで生きよう、どうせだもん”というフレーズが示すように、作者の能動的なスタンスが見て取れる。

 安藤桃子監督の作品を観るのは初めてだが、若さに似合わない主題に対する透徹した視線を有しているのが頼もしい。3時間を超える上映時間を飽きさせずに見せきる力業もさすがだ。監督の妹でもある主演の安藤サクラは最高のパフォーマンスを見せる。彼女がいることで今の邦画界はどれだけ救われていることだろうか。

 津川雅彦や柄本明、草笛光子、井上竜夫、浅田美代子、そして新人の土屋希望といった脇を固める面子の仕事ぶりも素晴らしい。特に感心したのが坂田利夫で、まさに演技は神業的。長年皆を笑わせてきたスキルが全面開示している。クラシック音楽を主体としたBGMや、舞台になった高知県の風情も捨てがたく、これは必見の映画だと言えよう。
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「活きる」

2015-01-25 07:06:38 | 映画の感想(あ行)
 (原題:活着)94年中国作品。張藝謀監督のフィルモグラフィの中では「秋菊の物語」(93年)と「上海ルージュ」(96年)との間に位置づけられるが、買い付け料が高かったためか日本で公開されたのは2003年である。第47回カンヌ映画祭審査員特別賞を受賞した注目作だ。

 1940年代。主人公フークイはかつては資産家だったが、博打に明け暮れた挙げ句、気が付いてみれば一文無しになってしまう。妻のチアチェンは子供たちと一緒に家出。だが彼は唯一の特技である影絵芝居で全国を巡演し、細々と生き延びていく。戦後、何とか妻子と再会したフークイはヨリを戻す。



 50年代には共産主義の躍進期に入るが、成長した息子は国家主導の集会で事故死。60年代になると文化大革命によりベテランの医者はすべて摘発され、助かるはずの病人も悲惨な目に遭ってしまう。その中にはフークイの娘も含まれていた。

 物語は1940年代に始まり、それから70年代までを10年ごとを節目として、その時々の中国の社会を庶民の視点から描いていく。特に50年代の大躍進政策と60年代の文化大革命の扱い方は痛烈で、社会に対していかに大きな傷跡を負わせたかを如実に示し、また、その中で権力に翻弄されつつも何とか生き抜いてゆく主人公の行動を通して当時の中国人の生の姿に迫ろうとしている。声高な権力糾弾のシュプレヒコールがない分、メッセージが着実に観客に伝わる良心作と言えよう。



 ただし、製作年度と封切時期が大きく開いたせいか、封切り当時に劇場で観た際にはいまひとつ作者の情念が伝わらず、その後の張監督の作風の変節を考えると、何となく証文の出し遅れのような印象を受けるのも確か。公開のタイミングというのは難しいものである。

 チアチェンを演じるコン・リーはいつも通りの優れたパフォーマンスを見せるが、それより主人公役のグォ・ヨウの存在感が光る。
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「ベイマックス」

2015-01-24 06:34:50 | 映画の感想(は行)
 (原題:Big Hero 6)予告編やPR内容によってハートウォーミングな話だと予想していたら、全然違ったのには面食らった。これは原題が示すように、ヒーロー戦隊ものだったのだ。しかも原作はアメコミだという。まさに“看板に偽りあり”である(笑)。ならば活劇映画として面白いのかというと、そうではない。何とも扱いに困る作品なのだ。

 舞台は近未来、先端技術が集う都市サンフランソウキョウに暮らす14歳の少年ヒロは、ロボット製作に関して飛び抜けた才能を持ち、裏通りでのロボット格闘技に夢中になっていた。兄のタダシは、そんな弟を自分が通う工科大学に連れて行く。タダシの仲間達や著名な担当教授と出会って感動したヒロは、この大学に入ることを決める。



 しかしある日、研究所を襲った火災によりタダシは不慮の死を遂げてしまう。落ち込むヒロの前に現れたのが、タダシが生前作ったケアロボットのベイマックス。その献身的なフォローによってヒロは少しずつ立ち直るが、やがて事故の裏に巨大な陰謀が潜んでいることに気付いた彼は、兄の仲間達と共に戦いに挑む。

 ヒロが簡単にベイマックス向けのバトル用アタッチメントを作成したり、兄の仲間それぞれの特技を活かした高性能パワードスーツを考案するというのは、いかにも安易な筋書きだ。映画はこれを“天才少年だから”という一点で説明しようとするが、それでは全然面白くない。少しは悩んだり、試行錯誤を繰り返したりといったプロセスを経ないと、ドラマとして盛り上がらないのだ。

 そもそも、14歳の時点で大学生を遙かに凌ぐ学力を備えているのならば、単に大学の正規カリキュラムを奨めるよりも、もっと特殊な進路を提示した方が良かったのではないだろうか。敵の首魁との戦いはそれなりに盛り上がるが、結果的に犠牲者を出さない“健全な”展開にするのならば、序盤でのタダシの死があまりにも陰惨に思えてしまう。導入部をもうちょっと工夫すべきではなかったか。

 サンフランソウキョウの造形は日本の観客に対するサービスのつもりだろうが、どう見たって珍妙だ。原作は日本が舞台で、登場人物も全員日本人らしいが、どうして映画版でそれを踏襲しなかったのだろうか(作る自信が無かったかのかもしれないが ^^;)。

 各キャラクターにはあまり魅力も愛嬌も感じられず、ヒロと叔母のキャスとの関係性も通り一遍だ。だいたい「アベンジャーズ」等をはじめとして実写のアメコミ映画化作品が多数存在している現状で、何の目立ったセールスポイントも無くアニメーションを作成した意図というのも理解出来ない。

 ドン・ホールとクリス・ウィリアムズによる演出は可も無く不可も無し。スコット・アツィットやライアン・ポッターら声の出演には特筆すべきものは感じない。また、ディズニー作品にしては珍しくオリジナル音楽や使用する既成楽曲に関しては印象が薄い。エンドクレジットの後のエピソードには続編が出来そうな雰囲気も窺えるが、この調子ではあまり期待出来ないだろう。
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「ハートブルー」

2015-01-23 06:28:33 | 映画の感想(は行)

 (原題:POINT BREAK )90年作品。単純明快な活劇編で、最後まで飽きずに楽しめる。主演が当時売り出し中のキアヌ・リーブスで、監督がその頃に頭角を現してきた気鋭の女流キャスリン・ビグローという布陣なので、勢いのある映画に仕上がったのは当然と言えるかもしれない。

 カリフォルニアのベニス・ビーチで、元大統領のマスクを被った4人組による銀行強盗が多発。新任FBI捜査官のジョニー・ユタは、事件の手口から犯人はサーファーではないかと推測する。早速彼は地元のサーファーたちの間に潜入することにした。やがてジョニーは、カリスマ的なサーファーとして名を知られていたボディという男と出会う。

 相反する価値観を持つボディに最初は戸惑うジョニーだが、次第に友情を深めていく。ところが、ひょんなことから相手が犯人ではないかという疑いを持ったジョニーは、その直後に起こった強盗事件でそれを確信する。ボディもまたジョニーがおとり捜査をしていることを知り、彼を消そうと画策するのであった。

 ボディにはパトリック・スウェイジが扮し、リーブスとの“(当時の)二枚目ツートップ”を形成(笑)。それを粘り着くような官能的タッチで描き上げているのはいかにも女性監督だと言えそうだが、クライマックスのスカイダイビングの場面から、主人公が恋人と再会するまでのジェットコースター的なシークエンスは、女性の演出家であることを忘れさせてしまうほどに骨太で力強い。さすが、かつてジェームズ・キャメロンを私生活で御したこともある女傑だ(爆)。

 映像は流麗でキレイだし、マーク・アイシャムの音楽も好調。まあ、ボディのキャラクターを脚本でもう少し書き込んでほしかったし、そもそも犯人が日焼けしているという理由で“サーファーに違いない”と即断するのも無理があるような気がするが、そのあたりは目をつぶろう。とにかく気軽に楽しむのはもってこいの映画だろう。
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「TATSUMI マンガに革命を起こした男」

2015-01-19 06:31:52 | 映画の感想(英数)
 (原題:Tatsumi )とても興味深いアニメーション映画であった。表現者の矜持、および“仕事の流儀”といったものを絶妙の手法で見せてくれる。また我が国の伝説の漫画家である辰巳ヨシヒロを取り上げたのが、シンガポールの映画であったというのも面白い。

 辰巳は昭和10年大阪市生まれ。少年時代から漫画好きで、2歳年上の兄(桜井昌一)の影響もあって自分で漫画を描くようになる。中学校時代から多数の雑誌に投稿。たびたび入選して賞金を獲得したが、手塚治虫と会う機会を得てから、本格的に漫画家になることを志す。やがて彼は仲間達と共に従来の漫画の概念を一変させる“劇画”を提唱し、注目される。



 私はこの辰巳ヨシヒロという作家は知らなかった。そして“劇画”というのは白土三平や小島剛夕などの作品に見られるような絵柄を指すものだと思っていたが、実はそれは間違いで、リアリズム主体で大人向けのシリアスなストーリー自体のことであることを、本作を観て初めて理解した。

 映画は辰巳の半自伝的作品「劇画漂流」をベースに展開し、途中で彼の短編が5つ挿入される。その短編を観るだけでも、彼の才能の高さが窺われる。いずれも話の内容は暗く、出てくる連中も社会の底辺で藻掻いているような者ばかりだが、ドラマティックな展開と的確な心理描写で飽きさせない。特に、原爆投下直後の広島で壁に焼き付けられた親子の影を見つけたカメラマンのその後の人生を描いた「地獄」は、極上のクライム・ミステリーとして強く印象づけられる。

 辰巳の僚友にさいとう・たかをがいるが、メジャーになったさいとうとは違って、一貫して自分の描きたいものだけを追求した辰巳のプライドには感服する。もちろん、彼には独りよがりにならないだけの実力があったから、マイナーな市場でも生き残ってこられたのだ。



 ラスト部分は実写で、辰巳自身が登場する。かなりの高齢ながら、今でも“描きたいものがたくさんある”と断言するあたりは、実に頼もしい。漫画家というのは心身の大きな消耗を要求する職業ではないかと思うのだが(事実、長生きしなかった漫画家はけっこういる)、いまだにモチベーションを失っていない辰巳は流石と言うしかない。

 さらに、彼を再評価したのがアメリカやフランスの作家達であり、映画化したのがシンガポールの監督エリック・クーだというのは、日本の漫画ファンとしては複雑な気分になるのではないだろうか。原作のタッチを活かしているであろう紙芝居みたいなアニメーションの造形は面白く、彩度を抑えた画面処理(一部モノクロ)も効果的だ。さらに、声の出演を一手に引き受けた別所哲也の仕事も評価されるべきだろう。辰巳の作品は復刊されているらしいので、機会があれば読んでみたい。
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アナログレコードの優秀録音盤(その3)。

2015-01-18 06:32:03 | 音楽ネタ
 久しぶりに、保有しているアナログレコードの中で録音が優秀なものを紹介したい。ブラジルのパーカッショニスト、アイアート・モレイラによる「ミサ・エスピリチュアル ブラジリアン・ミサ」と題されたディスク(87年発売)は、私が持っているポピュラー系のレコードの中では間違いなく一番音が良いと思う。



 中南米音楽を基調としながら、ロックやジャズ、クラシック(特に現代音楽)のテイストを大々的に織り込んだこのアルバムは、本当の意味での“クロスオーバー・サウンド”と呼べるのではないだろうか。現代のミサ曲を想定したドラマティックな展開と共に、時折現れるキャッチーなメロディが抜群の効果を上げている。オーケストレーションを担当しているギル・エヴァンスの手腕も見逃せない。

 録音は広大なレンジ感が達成されており、特に高域の伸びは素晴らしいものがある。B面の金属製打楽器の連打が延々と続くパートでは、音像がスピーカーを無視して定位。まさにサウンドのシャワーが頭の上から振ってくるような希有な体験が出来る。レーベルはクラシック音楽が専門であるはずの独ハルモニア・ムンディであるというのも面白く、とにかくオーディオファンには自信を持って奨められるレコードだと言えよう(ただし、残念ながら現時点では入手困難である ^^;)。

 アメリカの現代音楽作曲家のジョージ・クラムの作品については、以前「魅入られた風景」を紹介したが、今回取り上げるのはリルケ等の詩の世界を表現した「夏の夜の音楽(マクロコスモスⅢ)」である。演奏はギルバート・カリッシュとジェイムス・フリーマンのピアノ、レイモン・デロシュとリチャード・フィッツのパーカッションだ。録音は70年代後半である。



 曲調は暗いが、幽玄な美しさを伴う逸品で、クラシック好きならば十分に良さが分かるだろう。録音は特Aクラスで、金属製打楽器の輝きや立ち上がりの速さ、深々としたピアノの音像など、聴き所は多い。音場は横方向にも前後にも広く、しかもクリアで見通しが良い。音圧の高い部分での音像の乱れや混濁も見当たらず、安心して再生音に対峙出来る。

 レーベルは米ノンサッチで、今やジャズやフュージョン系も含めた比較的幅広い音源を提供している同レーベルの、最も先鋭的な時期を代表するディスクだと言える。アメリカでプレスされているためか盤質がさほど良くないのが残念だが、CD音源ならば今でも手に入りやすいので、興味のある向きは聴いてみても損は無いと思わせる。

 79年から97年にかけて活動したスコットランドのシューゲイザー系バンド、コクトー・ツインズが84年に発表した3枚目のアルバム「TREASURE」(邦題:神々が愛した女たち)は、孤高の美意識が横溢した傑作である。同グループのディスクはアメリカのメジャー・レーベルであるキャピトルでリリースされたものも含めて他にも何枚かあるが、本作を超える内容を持つものは無い。



 サウンドの特徴は、女性ヴォーカルのエリザベス・フレイザーによる神秘的としか言いようのない歌声を中心に、リズム楽器を使わずエコーのたっぷり効いた音で聴き手を幻想の世界に誘うような展開で、一度接したら忘れられない強烈な個性を有している。また、歌詞の内容よりもサウンド・デザインを楽しんでもらいたいとの意図から、歌詞カードが添付されていないのも面白い。

 録音は確実に水準を超えているが、それほどの優秀録音ではない。それでも本欄であえて紹介したのは、レコードジャケットの美しさ故である。アート的に優れていると共に、CDの小さなパッケージでは表現出来ない存在感がある(このまま壁に掛けて飾ってもおかしくない)。ジャケットはレコードの(他のメディアでは得られない)特質であることを再認識出来る。
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「無知の知」

2015-01-17 07:19:53 | 映画の感想(ま行)

 無知の知とは、無知であるということを知っているという時点で、相手より優れていると考えることらしいが、そのスタンスが本作の題材にマッチしているとは、とても思えない。もちろん、自分が無知であることを知るというのは良いことだ。無知のくせに利いた風な口を叩くよりも、はるかにマシ。でも、無知を自覚した時点で立ち止まってしまっては何もならない。残念ながらこの映画の作者にも、それは言えると思う。

 ドキュメンタリー映画作家の石田朝也は、2011年の東日本大震災に続く福島第一原発事故の報に接し、原発について自分が何も知らないことに気付く。そこで真相を自分の目で確かめるため、現地の人々や震災直後の混乱した官邸と事故当時の状況を知る当時の政府関係者にインタビューを決行する。さらに、原子力開発を進めた科学者達にも“そもそも原発とは何なのか”という質問をぶつけると共に、新しいエネルギー源を模索する人々にも展望を尋ねる。

 まず、石田の取材相手の“豪華さ”には驚かされる。被災して避難生活を余儀なくされている人々はもちろん、為政者にも果敢にアタックする。菅直人や鳩山由紀夫、細川護煕、村山富市といった首相経験者はもちろん、枝野幸男や渡部恒三といった政権の近くにいた者も含まれ、よくアポを取れたものだと感心してしまう。

 しかし、何か核心に迫るようなことが聞き出せたのかというと、それは極めて怪しい。石田はただ闇雲にインタビューする相手を求めていただけとしか思えないのだ。

 劇中、石田が原子力工学の第一人者に“被災者の方々は、こんな事故を引き起こした原発を、どうしてまた政府は海外に売り込むのだという素朴な疑問を抱いています”というようなことを述べる場面があるが、これは筋違いだ。石田はそんな質問を投げ掛ける前に、今海外に展開させようとしている原発が、果たして福島第一原発をはじめとする過去の原発と同様の構造を持っているものなのかどうか、少しは自分で調べなければならない。

 逆に言えば、取材相手は石田が“自らの無知を知っているだけの人間(イコール無知の時点で安住している者)”と見切っていたからこそ、会うことを許可したのではないか。

 前半、避難生活を強いられている人達が“今まで取材しに来た人は、自らの主義主張を第一義的に考えていたフシがあったけど、石田にはそれがない(だから、安心して話せる)”みたいなことを言う場面があるが、それもつまりは、作者の人畜無害ぶりを認めたからに他ならない。はっきり言って、カツドウ屋としてはそれではダメだろう。

 無知を知り、だからこそ精進して自分なりの対象へのアプローチを模索するべき。手当たり次第に話を聞くだけでは、自己満足にしかならない。いずれにしろ、ドキュメンタリー映画の製作には問題意識を練り上げて理論武装しなければ、総花的な結果に終わることを痛感した一作であった。
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