元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ハチミツとクローバー」

2006-08-31 06:52:57 | 映画の感想(は行)

 美術大学を舞台に若者たちの複雑な恋愛模様を描く群像劇だが、原作が少女漫画であるせいか、どうも生々しさが足りない。だいたい色恋沙汰が多く出てくるわりには、どれひとつとしてセックスにまで行き着かないのだから呆れる。私の学生時代を思い出してみても、けっこう周囲には生臭い話がゴロゴロしていたものだが・・・・(笑)。最近の若い連中が淡白になってきているのだろうか(まさかねェ ^^;)。

 それはさておき、リアリズムを廃した寓話的なドラマだと割り切って観れば、これはなかなか肌触りの良いシャシンである。

 勝因は天才的な絵心を持つ女子学生・はぐみを、演じる蒼井優が見事に実体化させている点に尽きると思う。登場人物の中で一番浮世離れしているキャラクターをこちらに引き寄せてしまえば、あとはどうにでもなる。櫻井翔や伊勢谷友介などの他のキャストにも“普遍的な若者像を作ってやろう”という気負いはまったくない。ひたすら作者の頭の中だけで完結する“ファンタジーの世界での大学生活”を形成させることに腐心する。そのあたりは高田雅博監督の演技指導に脱帽だ。

 東京の下町の風景や、些細な小道具に至るまで作品のエクステリアにはいっさい手を抜いていない。細部を徹底して詰めれば、主題のファンタジー性がより効果的に際立つことは、すでに大林宣彦の一連の作品で実証済である。

 少女漫画の映画化としては「ラブ★コン」の突き抜けた面白さには一歩譲るものの、中途半端に原作に色目を使って(←まあ、原作は読んでないのであくまで想像だが)居心地の悪さばかりが目立った「NANA」よりは数段上だと思う。とにかく、肩の力を抜いて“適度に美化されたキャンパス・ライフの幻影(?)”を楽しみたい。
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「愛と哀しみの旅路」

2006-08-30 08:04:23 | 映画の感想(あ行)
 (原題:Come See the Paradise)90年作品。アラン・パーカー監督が本国イギリス以外で映画を撮る場合は、どうも斜に構えた視線が鼻に付き、素直に感動できないことが多い。初期の秀作「ミッドナイト・エクスプレス」にも見られた人種的偏見はアカデミー賞候補になった「ミシシッピー・バーニング」では露骨に表面化し、ずいぶんと株を下げたものだが、本作ではなんと日系アメリカ人の苦難の歴史を描くという。ひょっとするととんでもない国辱的作品になるかと思った。しかし、完成した映画は、実にちゃんとした正攻法の作品で、まさしく“感動の大河ドラマ”(皮肉な意味では決してない)になっているではないか(爆)。

 和歌山からロスに渡り、映画館を経営している日系一世のカワムラ・ヒロシ、その妻と6人の子供たちといった登場人物の性格設定は、戦前・戦後の日本人の生き方を投射していると思う。日本人街の描写、バックに流れる当時の歌謡曲など、ディテールが巧みに処理され、少しも違和感がない。さらに、日本語が達者で英語のうまくない一世から英語が日常語になっている二世、日本語のしゃべれない三世へと言語が移行していくあたりのリアリティも申し分ない。

 物語は、カワムラの娘リリー(タムリン・トミタ)と劇場の映写技師ジャック(デニス・クェイド)との出会いと結婚を中心に、第二次大戦中での日系人が味わった辛酸を丁寧に描いていく。そしてリリーの回想形式によって映画が進められることが好ましい内省的な大人の鑑賞に耐えるスタイルになっている。公開当時の映画雑誌でも指摘されていたが、室内の逆光を生かした静謐な空間と、アウトドアでのダイナミックなカメラワークの対比が映画に厚みを持たせている。

 いくぶんメロドラマ的な部分が多く、いくぶん重みに欠ける印象はあるものの、日本に関係したテーマを持つ外国映画の中で、これだけ感銘を与えてくれる作品はないだろう。ラストの処理も素敵だし、アラン・パーカーは題材に本気で取り組んだことが如実に感じられる。

 それにしても、日本ではなぜこういうテーマのすぐれた映画が作られないのだろう。80年代の初めに新藤兼人監督が「地平線」という同じ題材の映画を作ったが、これがひどい出来でお話にならなかった。過去の厳粛な事実を無視し、ひたすらチマチマとした小市民的なドラマ(まあ、それもけっこう面白いのだが ^^;)にうつつを抜かしている日本映画界はこの映画を観て少しは反省するといい。
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「ココシリ」

2006-08-29 06:52:17 | 映画の感想(か行)

 (原題:Kekexili:Mountain Patrol)海抜4千メートルを超えるチベット高原の奥地に生息する希少動物・ヒマラヤカモシカを密猟者から守る山岳パトロール隊の苦闘を描いた実録映画。

 パトロール隊とは言っても当局側から雇われているわけではなく、住民の自発的な行動でしかないのだが、完全武装している密猟団とのバトルはほとんど戦争であり、犠牲者が絶えない。しかも、敵は密猟グループだけではない。厳しい自然が容赦なく立ちふさがる。

 まるで求道者にも似た見返りのない崇高な行動に彼らを駆り立てるものは何か。死んで行った仲間のためか? それだけではないだろう。犠牲者が出たのは結果論に過ぎない。セリフのほぼ半分が現地語であることが示すように、彼らはチベット人だ。そして、彼らを取材しに北京からやってくる若手ジャーナリストもチベット人の血を引いている。

 対する密猟団は、東方から来た欲得しか頭にない典型的な“中国人”だ。こう書けば分かるとおり、中共に侵略され今でも搾取され続けているチベット人のアイデンティティが、覇権主義の権化のような中華民族を無法な密猟団になぞらえ、必死の抵抗を試みているという構図が見えてくる。神聖な土地を荒らす者は、密猟団だろうと何だろうと、許すわけにはいかないのだ。

 その純粋な心意気が観る者を圧倒し、奥深い感動を呼び起こす。

 雄大なチベットの風景はそれだけで入場料のモトは取れてしまうし、筆舌に尽くしがたい撮影スタッフの苦労は画面全体に有無をも言わさぬ説得力を充満させる。監督は「ミッシング・ガン」のルー・チューアンだが、これだけ反・漢民族的なシャシンを作って良いのだろうかと心配になってくる。とにかく、本年度を代表するアジア映画の力作であることは間違いない。
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首相の靖国参拝が「個人の自由」でいいのか?

2006-08-28 07:03:00 | 時事ネタ
 8月15日のテレビは一日中「小泉純一郎首相、靖国参拝!」で大騒ぎしていたが、正直言ってそんなに騒ぐような事件ではない。だって、7月に小泉は「(谷垣禎一財務相が靖国神社を参拝しない考えを示したことに対して)参拝は個人の自由だ!」との考えを明らかにしているじゃないか。要するに参拝は小泉にとっての「個人の自由」ってわけだから、他の連中がギャーコラ言う筋合いのものではない。

 そもそも靖国参拝みたいな「近隣諸国にとっても、憲法解釈の面からも、デリケートとされる案件」を「個人の自由」で片付けること自体、おかしなことだと思う。政治家たるもの、「個人の自由」でゴリ押し可能なネタとそうでないネタがあるのことは、知っていて当然だ。中国・韓国からの「雑音」がどんなに的外れなものであろうとも、それが少なくとも表面上は「外交問題」になっているのは事実なのだから、そこで安易に「個人の自由」を振り回すのは子供じみている。

 靖国参拝をするならするで、これが外交・内政にどうリンクし、今後どのような方針で対処していくか、それを明らかにした上で断行すべきじゃなかったのか? だいたい、首相が靖国に行ったことで、日本を取り巻く諸問題が何か進展した(あるいは、進展する兆しが見えた)のか? 靖国に参拝すると北朝鮮がテポドン発射を控えるのか? 靖国参拝でGDPは大幅シフトするのか? 靖国参拝で竹島問題も解決か? 靖国に参拝したら憲法改正が成就するのか? だいたい靖国参拝を外交カードにするほどのしたたかさぐらい、首相は持ち合わせているのか? まあ、そんなはずはないよね。何せ「個人の自由」なんだから。「個人の自由」である限り、何をどうしようと「個人」にしか収斂されないネタなんだから。要するに小泉自身の「個人の趣味」の問題。彼にとって観劇や映画鑑賞と同等のレベルだ。ちなみに靖国には執心するが、広島での「被爆者代表から要望を聞く会」は完全無視。それも「個人の自由」ってか?

 遺族会も「8月15日の首相の靖国参拝マンセー!」なんて意味のことを軽々しく言ってほしくない。「ちゃんと“公式参拝”を明言すべきだ!」とか「略式ではなく正式な参拝の手順を踏め!」とか「まずはA級戦犯を犯罪人扱いしたコメントを取り下げてから参拝しろ!」とか、そういった硬派な主張ぐらいしてみなさい。英霊への追悼を「個人の自由」で片付ける首相なんて胡散臭いとは思わないのか?

 今回の騒ぎは、どうでもいいこと(←首相の個人の自由)をマスコミが針小棒大に取り上げることに関して、前年の「郵政民営化キャンペーン」と構造としては似ていると思う。大多数の国民にとっては、靖国参拝よりも年金問題その他の案件の方が重要なはずで、自民党の新総裁候補たちがそれについてどういう見解を示しているのかをクローズアップすべきなのに、まるで靖国参拝こそが国の将来を左右するかのような大騒ぎだ。またそれに釣られて周囲やネット上に「理由はどうあれ、とにかく首相が靖国に8月15日に行ったことは一歩前進だ!」と無邪気に褒め称える者が複数出てきたことも脱力ものである。

 再度念を押しておくが、今回の首相の靖国参拝は、やれ「(保守派の溜飲を下げたから)賛成だ!」とか「(政治・外交の面で)反対だ!」とかいう世論を喚起させるべきものでは断じてない。それが小泉の「個人の自由」(≒任期満了間近のパフォーマンス)である限り、国民としてはシカトすべきネタなのだ。
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「間宮兄弟」

2006-08-27 08:36:09 | 映画の感想(ま行)

 世評は悪くないらしいが、個人的には全く受け付けない映画である。

 何よりこの兄弟、気持ちが悪いのだ。いいトシこいて兄弟二人暮らし、ひとつの部屋で一緒に寝て、会話の内容も行動も小児的でオタクっぽい。絶対に知り合いたくない連中だ。

 同じオタクでも「電車男」の主人公とは大違い。電車男は謙虚でマメで、相手のことを思いやる。ただ人並み外れて不器用なだけだ。対して間宮兄弟は自分たちのことしか考えない。人当たりは良いが、内面を相手に向けることはなく、何時の間にやら個々の世界に閉じこもってしまう。

 中盤、二人が自転車に乗って夜の東京を走る回るシーンがあるが、森田芳光監督の商業用映画デビュー作「の・ようなもの」(82年)における主人公が一晩かけて歩いて帰る場面と似ているようでいて印象が全く違うのもそのせいだ。伊藤克信扮するあの主人公が決然として夜の街を歩くのは、ホレた女と自分の天職(落語家)に対する一途な想いゆえである。対して間宮兄弟の夜の徘徊は、単なる男同士の気色悪い馴れ合いでしかない。「の・ようなもの」の頃は監督も若くて一本気だったが、今では小賢しい“くすぐり”でお茶を濁すようになってしまった。人間、トシは取りたくないものだ(爆)。

 兄弟役の佐々木蔵之介と塚地武雅は可もなく不可もなし。沢尻エリカと北川景子の姉妹もどうということはない。常盤貴子と戸田菜穂はほとんど印象に残らず。良かったのは大島ミチルの音楽ぐらいか。とっとと忘れたいシャシンである。
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更新を再開します。

2006-08-27 08:14:29 | その他
 長らく休んでしまいましたが、本日より書き込みを再開します。

 今後とも宜しくお願いします ->ALL。
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すこし休みます。

2006-08-13 07:34:08 | その他
 盆休みで留守にしますので、ブログの更新を一週間から10日ほど休みます。

 休み明けには必ず復帰しますので、どうぞよろしく。でわ。->ALL。
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「ラブ★コン」

2006-08-12 06:50:35 | 映画の感想(ら行)

 目の覚めるような快作である。背の高い女の子と、彼女より10cmも背の低い男子学生が主人公の青春コメディ。この“背の高さがどうのこうの”というのはトシ食った今では取るに足らないハナシなのだが、若い頃にはそれこそ人生の運命を左右するほどの一大事だと思い込んでしまうのだ。しかも、身長というのは努力でどうにかなるものでもない。それと上手く折り合いを付けることが“成長”なのだろうが、本作はそこに至るまでの葛藤と開き直りが実に普遍的に捉えられていて、観る者の甘酸っぱい共感を呼ぶ。

 石川北二監督は特異な映像ギミックで観客を引きずり回すタイプの演出家みたいだが、それが単なる“お座敷芸”にならず全てビシッと決まっているのは、学園ドラマのルーティンをしっかりと押さえた上で、それを効果的なスパイスとして使用しているからだ。ハデな映像処理で悲劇を喜劇に変えられると思い込んで失敗した「嫌われ松子の一生」の監督よりは数段スマートである。

 そしてキャスティングの素晴らしさ。ヒロイン役の藤澤恵麻はかつてNHKドラマ「天花」の超大根演技で世間の顰蹙を買った女優とは思えないほど魅力的。何より、鼻の穴を膨らましたまま大奮闘してもまったく下品にならないのだ(笑)。若手コメディエンヌとして注目株である。相手役の小池徹平も(天然ボケが入った)性格の良さと優しさを前面に押し出したキャラクターで成功。上映前に映画の見所を二人が語るビデオが流されるのだが、まるで映画そのまんまの漫才のようで、実に雰囲気が良い。このまま結婚してもいいのではと思うほどだ(爆)。

 ヘンな転任教師役の谷原“よろしQueen!”章介や、ズラがらみで笑わせる温水洋一、寺島進や田中要次はトンでもない役で登場するし、畑正憲に至っては・・・・(以下語らず ^^;)。とにかく、どいつもこいつも実にオイシイ仕事をさせてもらっている。

 もちろん、爆笑ポイントも数知れず。懐かしめの歌謡曲を使うセンスや、登場人物のカラフルな衣装、そしてテンポの良い関西弁の応酬が滅茶苦茶楽しい。原作は少女漫画らしいが、たぶん漫画の映画化では最も上手くいった部類のシャシンだろう。幅広い層に奨められるラブコメディで、ハッキリ言って観ないと損をする。
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CDプレーヤーを更改した。

2006-08-11 07:23:38 | プア・オーディオへの招待

 腰高でスカキンの音に我慢が出来なくなり、当初の予定より大幅に繰り上がることになるが、CDプレーヤーを買い換えてしまった(笑)。機種はオンキヨーC-1VL。最近システムのことでよく相談に乗ってくれる市内の某ディーラーから購入したが、ネット通販の相場より安く買えたので満足。もちろん、家電量販店の店頭価格よりはるかに安かった(てゆーか、○○○電器とか×××電機とかは最初からボッタクリなんだけどね ^^;)。たぶん発売されてだいぶん経つから年内にはモデルチェンジを控えているという事情もあったのだろう。

 定価8万円以上のクラスのプレーヤーはSACD対応の機種が目立つが、私は最初からそんなのは眼中になかった。普通のCDとSACDが両方鳴らせるプレーヤーなんて、絶対にどっちかの再生機能を手を抜くに決まっているからだ。そもそもSACDのように極端にディスクの数が少ない規格など、音楽ソフトとしては失格である。現時点ではCD専用機で十分だ。

 自宅でのセッティングを終えて出てきた音は、評判通りのきめ細かく澄んだサウンド。情報量は非常に大きく解像度も高いが、キンキンした妙な強調感はほとんどない。しかもノイズレベルが低減し、音場の見通しも高音の抜けも良くなった。やっぱりこの機種で正解である。

 しかも嬉しいことに、本機は「メイド・イン・ジャパン」なのだ。なるほど仕上げが丁寧で操作感も良好。ガッチリとした造りで所有満足度は高いと言える。いくら良い部品を使おうと手触りがイマイチのそこいらの中国製とはワケが違う。

 そういえば、私が二十数年前に初めて手にしたCDプレーヤーがオンキヨー製だった。同社の謳い文句である“ナチュラル・サウンド”の通りの音色だったことを思い出すが、長らくピュア・オーディオから遠ざかっていた同社が久々出したこのCD専用機のC-1VLにも、そのポリシーが受け継がれていることに感心した。長く使おうと思う。

 なお、購入する際この機種と最後まで競合したのが、TASCAMCD-01Uというプレーヤーだ。TASCAMはTEACの業務用ブランドで、その筋の関係者には高い評価を得ている。CD-01Uは安価ながら、定価4~5万円台の他社製品と比べれば情報量で完全な差を付ける。しかも、明るく健康的なサウンドで聴いていて楽しい。ディスク挿入方法が通常のトレイ式ではなくスリットイン式で、仕上げが安っぽい点に目をつぶれば、若い音楽ファンには絶対のオススメ品だ。0.1秒刻みでカウントされる液晶ディスプレイもカッコイイ。私は落ち着いた音が好きなのでC-1VLの方を選んでしまったが、音質面では価格差ほどの違いはないと思う。もしも読者諸氏諸嬢の中で安くて音の良いプレーヤーを探している人がいれば、候補に入れてほしい商品だ。
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「あの夏、いちばん静かな海。」

2006-08-10 08:37:33 | 映画の感想(あ行)

 91年製作の、北野武監督の3作目だが、同監督の映画ではこれが最も好きである。

 清掃車のウインドウ越しに海を見ている若者・茂(真木蔵人)。ある日彼はゴミ捨て場に放置されていた壊れたサーフボードを拾い、修理する。観客はいつしか一言も口をきかない茂が聾唖者であるということに気づいていく。彼といつも一緒にいる貴子(大島弘子)もまた耳が不自由である。そのことを映画は安易な説明なしに見せていく。

 浜に通いつめる茂だが、なんせサーフィンは初めてでうまく波に乗れない。彼と同じ年代のサーファーたちのグループは、茂の悪戦苦闘ぶりを笑っていたが、やがて日ごとに上達していく彼のサーフィンに一目置くようになる。そしてサーフ・ショップの店長の協力で彼はサーフィン大会に出場することになるのだが・・・・・。

 いつもの荒涼とした暴力描写が全くないことに驚く。たとえば、茂が昔所属していたサッカー・チームにいる2人組が主人公に暴行をはたらいたり、茂たちとライバル関係にあるサーフィン・グループが殴り込みをかけてきたり、といったこの監督が好きそうなシチュエーションに持っていくのかな、と思っていたら、その気配も感じられず、映画自体が実に静かである。ただ、大胆にプロセスを省略したエピソードの挿入や、コメディ・リリーフ的なキャラクターをいたるところに配置させる方法など、この監督らしいタッチは十分に見られる。今回はたけし自身が出演していない、ということもあるかもしれない。

 主人公2人は口がきけないという設定だから当然だとしても、セリフが少なく、映像のみですべてを語ろうとする姿勢は実に好ましい。監督自身“主人公たちはたまたま聾唖者だっただけで、若い恋人たちに余分な言葉はいらない。だいたい今の日本映画は説明的セリフが多すぎてイヤになる”ということを語っていたように、これは最も普遍的な恋愛映画の王道を歩んだ作品である。決して声をかけ合うこともない2人(手話も最小限度に抑えされている)。しかし、ただ心を寄り添わせる主人公たちを描くだけで、我々が忘れていた純粋な感情を、なんと鮮やかにうつし出していることか。

 柳島克己の撮影による透明な海辺の情景が美しく、久石譲の音楽がまた抜群の効果だ。主人公2人はじめキャスト全員の好演が光る。そして胸を締め付けられるようなラスト・シーン。観る者一人一人の心に“夢の記憶”とも言うべき切ない感動と思い出を残すに違いない。
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