元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「コーリャ 愛のプラハ」

2021-04-30 06:23:17 | 映画の感想(か行)

 (原題:Kolya )96年チェコ=イギリス=フランス合作。同年のアカデミー外国語映画賞をはじめ、第9回東京国際映画祭グランプリ、97年ゴールデン・グローブ賞外国語映画賞など多くのアワードを獲得した作品だが、実際観てみると薄味でインパクトは小さい。しかしながら丁寧には作ってあり、決して駄作でも凡作でもなく、存在価値があることは確かだ。

 88年のプラハ。フランティ・ロウカは昔はチェコ・フィルの首席奏者まで務めた名チェリストだったが、女性関係で身を持ち崩し、気が付けば50歳過ぎて独身で、今では葬儀場で演奏するなどして糊口を凌いでいた。ある日、友人のブロスが彼に、チェコ人としての身分証明書が欲しいロシア女ナディズダとの偽装結婚を持ちかけた。けっこうな額の礼金にひかれ承諾したフランティだが、ナディズダは結婚式の直後に5歳の連れ子コーリャを置いたまま恋人のもとに遁走してしまう。

 金は手に入ったが、思いがけず子供の世話をするハメになったフランティは、ロシア人嫌いの母親からは邪険に扱われ、当局から呼び出しを食らうなど災難続き。それでもコーリャと一緒に暮らしていると、何となく父親らしく振る舞うようになってしまう。そんな中、ベルリンの壁が崩壊してプラハでも民主化運動が高まり、フランティの周囲は慌ただしくなる。

 監督のヤン・スベラークはじっくりと撮っているのは分かるのだが、ドラマとしては盛り上がりに欠ける。フランティはチェロを運搬するための車を欲しがっていたようだが、そこに執着しているような描写は見られない。偽装結婚に加担したのもそれが大きな要因だが、そこはもっとケレンを効かせた扱いが望ましい。

 後半、フランティはコーリャにヴァイオリンを買い与えるのだが、ここもサラリと流し過ぎだ。いくらでも感動的になりそうなモチーフながら、大きな仕掛けは見られない。終盤に至っては駆け足で撮ったという印象で、印象が希薄のままエンドマークを迎えたような感じだ。

 しかし、この時代の空気感や風俗がよく出ているのは評価して良い。長らく東側特有の暗鬱な空気に包まれたこの国が、冷戦終結によってようやく明るい兆しが出てきたのも束の間、チェコとスロヴァキアに分裂してしまうという先の見えない状況に陥る。フランティら住人たちも戸惑うが、そこはストーリーをいたずらに悲劇に向かわせないのは冷静な判断かと思う。

 主演のズディニェク・スベラークをはじめ、子役のアンドレイ・ハリモン、リブシェ・シャフラーンコバ、イリーナ・リヴァノヴァといったキャストは皆公演だ。また、往年の名指揮者ラファエル・クーベリックが本人役で出ているのも嬉しい。
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「街の上で」

2021-04-26 06:18:57 | 映画の感想(ま行)
 面白い。ロマンティック・コメディというのは、何も昨今の“壁ドン映画”のように狂騒的で軽佻浮薄なスキームを採用しただけのシャシンではないのだ。キャラクターと人間関係が上手く描けてこそ、恋愛沙汰(およびその周辺のあれこれ)に関して笑いを取ることが出来るのである。本作はそこを十分クリアしており、幅広い層にアピールするクォリティを確保している。

 世田谷区の下北沢に住む荒川青は、恋人の川瀬雪から突然“他に好きな人ができた”と別れを切り出され、失意のうちに古着屋の店番を漫然と続ける日々を送っていた。彼の行動範囲はかなり狭く、足が向くところは町内にある古本屋か行きつけの飲み屋、小さなライブハウスやカフェぐらいだ。



 ある日、古着屋にやってきた若い女から、自主映画に出ないかという申し出を受ける。彼女は芸術系の大学に通う高橋町子と名乗り、卒業制作として映画を撮るのだという。何となく出演を引き受けた青は、古本屋の店員である田辺冬子を“助手”にして、渡されたシナリオにある自分の役柄の練習に励む。撮影が始まるが、彼は緊張して上手くいかない。そんな中、青は撮影スタッフの城定イハと知り合う。

 青は優柔不断で気弱な男である。しかしながら、妙に人当たりが良い。だから、彼を取り巻く人々も構えずにリラックスして付き合えるのだと思う。だが、青の境遇としては“物足りない”のも確か。かといって相手に突っ込んだ関係を求めると、雪のように距離を置かれてしまう。この一種アンビバレントな心境の描写は、かなり上手くいっている。彼と関わる4人の女子も、青に対するアプローチの方法を図りかねている。結果として、唯一“友だちで良い”と割り切って付き合うことにしたイハが、彼と対等な関係を獲得するというのは、何とも玄妙で興味深い。

 監督の今泉力哉と大橋裕之によるシナリオは巧みで、雪の“浮気相手”の設定にこそ無理はあるが、それ以外はいい具合に観客の予想を裏切りつつ、ドラマは滑らかに進む。特に、大事なところで故意に場面を省略させ、次のシークエンスとの“落差”により観る者にその間の事情を想像させるという手法は(ヘタすれば映画がブツ切りになるのだが)鮮やかに決まっている。



 今泉の演出はリズムが性急ではないにも関わらず、作劇に冗長な箇所は見当たらない。会話のシーンの面白さも光り、とりわけ長回しで捉えられた青とイハとのやり取りは、こちらがその場に居合わせたような臨場感とウィットに富んでいて出色だ。ギャグの振り出し方も万全で、客席からは幾度となく笑いが洩れた。

 主演の若葉竜也は今回も達者なパフォーマンスを見せ、何事も及び腰な青年像を上手く表現していた。また、穂志もえかに古川琴音、萩原みのり、中田青渚と有望な若手女優4人の演技を堪能できるのも“お徳感”が高いと言える。特に中田の仕事ぶりには感心した。そして友情出演の成田凌も美味しいところをさらってゆく。岩永洋のカメラによる下北沢の街の佇まいはどこか懐かしく、観ていてホッとする。入江陽の音楽も万全だ。
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「第18回九州ハイエンドオーディオフェア」リポート(その2)

2021-04-25 06:11:56 | プア・オーディオへの招待
 スピーカーに関してもいろいろと聴いてみたが、ここでは2つのブランドに絞ってコメントしたい。一つは英国KEF社の製品だ。同社のLS50といえば、創立50周年記念モデルとしてリリースされ、私も気に入って使用していた(残念ながら、転居の際に手放している)。今回10年ぶりにモデルチェンジされたのが、LS50 Metaだ。

 見た目はあまり変わらないが、ユニットはリファインされ、筐体の剛性も増している。そして驚いたのはその音だ。前作も良いスピーカーだったが、この新作は遥かに音質がアップしている。音場は広がり(特に奥行き)、音像の捉え方も確かだ。特に中高域の伸びやかさは大したもので、ストレスなく聴き込める。実売価格は15万円程度と前モデルよりは少し高くなったが、コストパフォーマンス(←あまり好きな言葉ではないが)は相当なレベルだろう。



 もう一つ印象に残ったブランドは、イタリアのSonus faber社の製品だ。もとより同社の製品は過去にさんざん聴いており、今回も上級シリーズはさすがのパフォーマンスを示していたのだが、印象に残ったのは下位のLUMINAシリーズだ。このブランドにしては価格が抑えられており、トップモデルのフロアスタンディング型でもペア25万円、小型モデルならば定価で10万円を切る。

 実際聴いてみると、上位機種ほどのゴージャスな展開はさすがに見られないが、明るく輝かしい音はまさしくSonusのもので、価格を勘案すれば満足度は高い。特に弦楽器の音色の美しさには聴き惚れてしまう。そしてこのシリーズはイタリア本国で製造されているのも大きなポイントだ。かつて同社にはVenereシリーズという、中国製造でグローバルなマーケットを狙い、音もアキュレートさを前面に出した製品があったが、あの路線は修正されたらしい。とにかく、イタリアらしい展開に徹してくれたのは有り難いことだ。



 コロナ禍の先が見えない中での開催で、座席数を絞ったこともあり入場者の動員は例年ほどではなかったが、それでも十分に楽しませてくれたイベントだった。次回からは“いつものペース”に戻って、出品メーカー数を増やしゲストも増員して賑々しくやってもらいたいものだ。

 最後にまったく関係ないが、会場の近くに長崎県対馬市のアンテナショップがいつの間にかオープンしていたのには驚いた(笑)。対馬には何回か行ったことがあり、その際のお土産も家族には好評を博していたのだが、福岡市内でも特産品が手に入るようになったのは嬉しい。早速私も“対馬かす巻”(アンコをカステラ地で巻いたもの)を買い求め、家で食して満足した。機会があれば今度は“対馬とんちゃん”(醤油や味噌などをベースにした甘辛の焼肉ダレに漬けこんだ豚肉)も購入してみたいと思う。

(この項おわり)
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「第18回九州ハイエンドオーディオフェア」リポート(その1)

2021-04-24 06:11:37 | プア・オーディオへの招待
 去る4月16日から18日にかけて、福岡市博多区石城にある福岡国際会議場で開催された「九州ハイエンドオーディオフェア」に行ってきた。昨年(2020年)はコロナ禍のためにこのイベントは中止になったのだが、現時点でまだコロナ禍は収束していないにも関わらず、あえて実施してくれたのは本当に有り難い。主催者には謝意を伝えたいものだ。

 もっとも、入場時には体温チェックはもちろん、住所と氏名を所定の用紙に記入する必要があった。そして当然ながら場内はマスク着用が必須だ。各ブースでも“密状態”を避けるため、座席の感覚は空けてある。いかなる催し物でも同様だが、このスタイルは今後しばらくは踏襲されることになるのだろう。



 ここ数年来、デモンストレーション用の音源がネットワークプレーヤー等に格納されたデジタル音楽信号あるいはアナログレコードというケースが多かったが、今回はその傾向が顕著になり、もはや“普通のCD”などというのは完全にメインストリームから外れてしまった印象を受けた。特に元気だったのはアナログ界隈で、高級パーツの展示が目白押し。特にインパクトが大きかったのは、デジタルストリーム社のカートリッジGRAND MASTERである。

 同社はレコード針が拾った盤面の信号をLEDで感知して読み込むという光カートリッジの開発で知られているが、この新作はLEDを左右独立させると共に軽量化などを達成させ、驚くべき再現性を獲得している。とにかく、情報量の確保については舌を巻くほどのパフォーマンスだ。しかしながら、カートリッジ部分だけで120万円、専用イコライザーアンプが400万円、計520万円という超高額品で、誰でも手に入れられるシロモノではない(笑)。

 それから、いくらアナログ部門は金を制限なしで投入できるとはいっても、KRONOSだのTechDASだのといった(一般ピープルから見れば)威圧感が満載の高額プレーヤーが並べてあるのは、あまり嬉しいものではない。もうちょっと生活に溶け込むような提案をしても良いと思ったものだ(まあ、ハイエンドフェアなので仕方がないのだろうが ^^;)。



 72年設立のスコットランドのグラスゴーにあるLINN社は、他社とは違うコンセプトの製品を次々とリリースしているが、今回はSelect DSMというネットワークプレーヤーを出品してきた。これは“プレーヤー”という名称ながら、ユーザーの希望によりDACやアンプを選択して同一筐体に入れ込むというユニークな仕様を持つ。特筆すべきはその外観で、ボリュームを天板に設置し、前面は有機ELのディスプレイという、かなりスタイリッシュなもの。見た目の圧迫感は無い。

 洒落たエクステリアのアンプ類といえばフランスのDevialet社のものを思い出すが、あれよりは価格は下だし(とはいっても決して安くはないが)、マーケティングを工夫すれば幅広い層にアピールできると思われる。また、今回はLINN社以外のスピーカーを接続していたが、問題なく鳴っていた。意外と汎用性は高い製品なのかもしれない。

(この項つづく)
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「ホムンクルス」

2021-04-23 06:20:06 | 映画の感想(は行)
 これはつまらない。題材は面白そうなのだが、考察が浅くて映像も限りなく安っぽい。撮りようによっては観る者を戦慄せしめるようなダークな世界を創出できたはずだが、よくある“人気コミック(しかも長編)の無理な映画化”のパターンにはまり込み、製作側も“やっつけ仕事”に終始しているようだ。これでは評価のしようがない。

 新宿駅西口で車上生活を送る名越進は、記憶喪失に陥っていた。どうやら以前は外資系企業に勤め、羽振りの良い生活を送っていたようなのだが、ハッキリとは思い出せない。ある日彼は、伊藤学という異様な風体をした若い男に声を掛けられる。伊藤は研修医で、名越に報酬70万円を条件に頭蓋骨に穴を開けるトレパネーション手術を持ちかける。

 手術をすることによって第六感が芽生える可能性があり、伊藤はそれを研究したいのだという。やむなく手術を受けた名越は、左目だけで他人見ると、異様な形に変化していることに驚く。伊藤はその現象を深層心理の視覚化だと言い、名越が目撃するクリーチャーをホムンクルスと名付けた。原作は山本英夫による同名コミックである。

 まず、ホムンクルスの造型の拙さには脱力する。内面が薄っぺらい奴はペラペラの姿かたちで、下半身がだらしない者は文字通り腰から下がフワフワしており、何らかのトラウマを抱えた人間はそれが“そのまま”映像化される。捻りも深みも何もなく、見ていて鼻白むだけだ。監督が「呪怨」シリーズなどの清水崇なのでいくらでもショッキングなモチーフを提供できるはずだが、まるで不発である。

 名越が関わるヤクザの組長や女子高生が抱える屈託は、失笑してしまうほど扱いが軽量級だ。ついでに言えば、伊藤の内面にあるコンプレックスも全然大したことがなく、この程度でいったい何を悩んでいるのかと言いたくなる。中盤以降は名越は記憶を取り戻していくようだが、それがどういう切っ掛けで、どのようなプロセスを経ているのかまるで不明。彼が出会う謎めいた若い女との関係性も、見終わってみれば陳腐に過ぎる。

 困ったのは、本作のキャストは綾野剛に成田凌、岸井ゆきの、内野聖陽といった悪くない面子を揃えているにもかかわらず、それぞれの持ち味を出せていないことだ。特に綾野と成田にとっては、この映画が“黒歴史”になりはしないかと心配してしまった。

 それから腹が立つことに、本作の入場料は1900円均一である。前売り券を除けば、学割もシニア割も夫婦50割も劇場招待券も利用不可だ。リリース元のエイベックスや協賛のNetflixが何を考えているのか知らないが、斯様な観客を劇場から遠ざけるような所業は理解不能である。
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「ロマンティックじゃない?」

2021-04-19 06:33:31 | 映画の感想(ら行)

 (原題:ISN'T IT ROMANTIC )2019年2月よりNetflixにて配信。有り体に言えばラブコメディなのだが、ラブコメのルーティンを徹頭徹尾バカにしていながら、作品としてはしっかりとラブコメとして完結させるという、アクロバティックな筋書きが光る。まさにアイデア賞もので、面白く観ることが出来た。

 ニューヨークの建築事務所で設計士として働くナタリーは、幼い頃からロマンティックコメディの世界に憧れていたが、母親からダメ出しを食らったのを皮切りに、成長してからも厳しい現実を突き付けられて色恋沙汰を嫌うようになっていた。ある日、地下鉄構内でひったくりに襲われた彼女は、犯人と揉み合う間に頭を強打し失神してしまう。目を覚ますと、彼女は周囲の雰囲気が妙にカラフルで脳天気であることに気付く。どうやら“ラブコメの世界”みたいな場所にワープしてしまったらしい。ナタリーは何とか元の世界に戻ろうとするが、どうしたら良いか分からない。

 序盤の、ナタリーがラブコメを皮肉るところはかなりウケる。主人公は思っていることをすべて口に出すとか、放送禁止用語は発声出来ないとか、ベッドインしたらすぐに朝になるとか、クライマックスではヒロインはスローモーションで走るとか、そんなラブコメの“段取り”をコケにする。ところが自分がラブコメの“当事者”になると、その“段取り”の通りに行動してしまうという皮肉が効いている。

 ナタリーはこの“ラブコメ世界”で同僚のジョシュが好きであることに気付くのだが、あいにく彼はインド系の美女と婚約していた。何とか結婚式をブチ壊そうとするナタリーの暴走ぶりが楽しい。興味深いのが、ヒロインは好きな男とのハッピーエンドを迎えることよりも、自己肯定に目覚めることを強調していることだ。考えてみればその通りで、自分を好きにならなければ他人を大事にすることなど、出来はしない。

 トッド・ストラウス=シュルソンの演出は、嫌味にはならない程度にライトでポップだ。特にミュージカル仕立てになっているのは秀逸で、使われる楽曲も皆がよく知っている既成のナンバーであるのも納得。主演のレベル・ウィルソンはかなり太めながら、身体のキレが良く愛嬌も満点だ。リアム・ヘムズワースやアダム・ディヴァインといった男性陣も良いのだが、インド映画界のスターであるプリヤンカー・チョープラーが出ているのも嬉しい。1時間半というコンパクトな尺も申し分なく、観て損の無いシャシンと言える。
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「騙し絵の牙」

2021-04-18 06:15:06 | 映画の感想(あ行)
 深みには欠けるが、観ている間は退屈しないで楽しめる。描かれる題材は興味深いし、今風のモチーフも適度に取り入れられている。ドラマ運びのテンポは良く、キャストの仕事もおおむね的確だ。客の入りも悪くないし、全国一斉公開される邦画としては、常時この作劇レベルは保ってほしいものである。

 長い歴史を誇る大手出版社“薫風社”の創業一族の社長が急逝。社内では跡継ぎの座をめぐって権力争いが勃発したが、社長の息子が海外の子会社に追いやられた結果、実権を握ったのは元専務の東松だった。彼は社長の椅子に座ると早速リストラ策を打ち出し、伝統のある“小説薫風”誌も不採算部門として整理しようとする。



 さらに東松は名物編集長の速水を、カルチャー誌“トリニティ”を担当させるために社外から招聘。速水は新企画を連発することにより、雑誌の立て直しを図る。“小説薫風”から“トリニティ”に異動になった若手社員の高野恵は、速水の強引なやり方に閉口しながらも何とか付いていく。そんな中、速水が連載を依頼したモデル兼作家の城島咲が不祥事を起こし、“トリニティ”は存亡の危機に陥る。塩田武士による同名小説の映画化だ。

 タイトルや予告編で示されたような、観客を巧妙にだましてゆく“コンゲーム”のテイストは限りなく希薄で、展開はほぼ予想できる。その代わり、一般にはあまり知られていない(と言われているが、本当は皆薄々気付いている)出版業界の裏側が赤裸々に示されており、これがけっこう面白い。

 文芸誌なんて大して売れていないのに作っている連中はプライドが高い、文学界の主要アワードは“裏工作”で決まる、カルチャー雑誌の内容は2つか3つのネタの使い回しである、大作家センセイはすぐに増長する、そもそも出版業界自体が斜陽産業であるetc.まるでブラック企業の内部告発みたいに容赦ない(笑)。

 出版社の勢力争いなど、しょせんは“コップの中の嵐”である。だが、それでも出版に全精力を傾けている者たちも存在するわけで、映画はそれらを掬い上げる。恵の実家は街の小さな本屋だが、閉店寸前だ。恵はこの状況を何とかしたいと思っている。また、ネット配信に活路を見出す者もいる。守旧派も改革派も、書物というメディアを信じ切っている。そのあたりをポジティヴに扱っているのは、観ていて気持ちが良い。

 吉田大八の演出は職人肌で、堅実にストーリーを進める。ギャグの振り出し方も申し分ない。速水役の大泉洋と恵に扮する松岡茉優は快調で、それぞれの持ち味が良く出た好演だ。宮沢氷魚に池田エライザ、中村倫也、佐野史郎、リリー・フランキー、國村隼、小林聡美、そして佐藤浩市と、他の面子もそれぞれキャラが立っている。
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「旅立つ息子へ」

2021-04-17 06:15:55 | 映画の感想(た行)
 (原題:HERE WE ARE )第73回カンヌ国際映画祭では評判になったイスラエル映画だが、実際観てみると釈然としない部分が多い。何より、本作の主人公は題名にある“息子”ではなく“親(ここでは父親)”であることに拍子抜けし、しかもその描き方はとても共感できないものだ。最初から親が冷静に対処していれば、もっと物事はスムーズに進んだはずで、物語自体が余計なものであったという印象は拭い難い。

 テルアビブ郊外に暮らすアハロンは、かつては名の知れたグラフィックデザイナーだったが、今は仕事を辞めて息子のウリと二人暮らしだ。ウリには重度の自閉症があり、介護が無ければ日常生活が送れない(ように見える)。アハロンは息子の世話に専念するため、すべてのキャリアを捨てたのだった。



 妻のタマラは夫の頑迷な態度に愛想を尽かし、とっくの昔に家を出ている。それでもタマラは息子の将来を心配し、ウリを全寮制の特別支援施設へ入れようとする。この件はすでに行政レベルで決定しており、定職の無いアハロンには反論できない。ところが入所当日、ウリは父と別れることを嫌がりパニックを起こす。それを見たアハロンは、息子を守るのは自分しかいないと思い立ち、2人で当ての無い逃避行に出る。

 アハロンの態度はとても納得できるものではない。親は子供の世話を永遠には続けられないのだが、アハロンはそのことには思い至らない。息子のために高収入が期待される仕事を投げ出し、それが結局自分の首を絞めることも分からないようだ。

 そもそも、アハロンは付き合いにくい人物である。妻の立場を理解しようとしないし、遠方に暮らす弟にも辛く当たる。プライドが高く、世の中が自分中心に回っていると信じている。そんな者を描いて何か映画的興趣が醸し出せれば文句はないのだが、最後まで見出すことは出来なかった。子離れできないオッサンの行状を漫然と追うばかりでは、面白くなるわけがない。

 ニル・ベルグマンの演出は丁寧ではあるが、脚本とキャラクター設定に難があるので求心力を発揮できていない。ウリがいつも見ているチャップリンの「キッド」を無理に伏線にしようとしているあたりも、思わせぶりでつまらない。主役のシャイ・アビビとノアム・インベルは好演で、スマダル・ボルフマンにエフラット・ベン・ツア、アミール・フェルドマンといった脇の面子も悪くないだけに残念だ。なお、シャイ・ゴールドマンのカメラが捉えたイスラエルの風景(特にリゾート地)はキレイだ。
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“体育会系”という名の理不尽(その3)。

2021-04-16 06:21:17 | 時事ネタ
 予定通りだと、前年から延期された東京オリンピックが2021年7月23日から開催される。続くパラリンピックは8月24日からだ。さて、この大会の開催の是非について、いまだに世論は分かれている。早い話、さらなる延期を希望する層も含めて、2021年に開催すべきではないとする意見が、各種アンケート結果では全体の過半数を占めている。

 個人的には、開催すべきではないと考える。コロナ禍が収束する見通しがつかず、さらに夏期は熱中症などに医療現場は取り組む必要があるのに、この上オリンピック関係者の対応まで要求されると、リソースが枯渇するのは目に見えている。さらには新たな変異株が流入してくる可能性もあり、国民の健康と安全を考えると中止以外の選択肢はあり得ないように見える。

 ただ、そんな中にあっても開催を望む者たちは少なからず存在する。その理由としては“経済的効果が見込めるから”という意見が最も多いようだが、経済的側面は要するに“金目の話”なので、ある程度は予測できる。問題なのは“オリンピックで日本国民が元気をもらえる”とか“困難に立ち向かう精神的土台が形成される”とか、はたまた“グローバル社会融和のシンボルになる”とかいった、理想論や心情論により開催を希望している向きである。その割合についてはハッキリとした数字は分からないが、経済的効果を想定している層に次ぐパーセンテージを占めていると思われる。

 この“心情的開催希望派”とも言うべき者たちの意見が際立って特徴的なのは、何ら具体的な根拠が無いことだ。開催反対派は主にコロナ禍という“現実”を見据えているのであり、経済的効果を期待して開催に賛成している層の興味の対象はリアルな“金目の話”である。対して“心情的開催希望派”には論理も何もない。単なるセンチメンタリズムや根性論みたいな抽象的なものに突き動かされているに過ぎない。

 スポーツ、特にアマチュアのそれにはあまり関心の無い私からすれば、単なる大規模体育大会にすぎないオリンピックに“元気をもらえる”だの“精神的土台”だのと、何をそんな御大層なものを求めているのだろうかと思ってしまう。この思考パターンは、理屈が通用せず、何でも根性で乗り切ろうとする“体育会系”そのものではないか。

 そもそもIOCがオリンピズムを完全無視したような“金儲けの組織”であることが判明した現在、オリンピックを根性でやりきれば平和と連帯と元気と精神的土台が形成されるといった“体育会系”みたいなテーゼを信じること自体、ナンセンスであると思う。
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「まともじゃないのは君も一緒」

2021-04-12 06:28:56 | 映画の感想(ま行)

 とても楽しめる映画だ。タイトルにある“まとも”という、定義も許容範囲も曖昧であるにも関わらず、確固として社会的に通用してしまう概念を、ラブコメの形状を用いて考察してみる試みは実に興味深い。そして的確な筋書きと演出、さらにはキャストの目覚ましいパフォーマンスと見どころには事欠かず、これは本年度の邦画の収穫と言えるだろう。

 横浜市に住む女子高生の秋本香住は、夏期講習の担当になった若い予備校講師の大野康臣のことが気になって仕方がない。康臣は他人とのコミュニケーションが苦手で、今まで数学ひと筋で生きてきた。そんな彼に香住は“世間知らずで、普通の生き方が分からないままだったら、一生結婚できないよ”と、脅迫めいたことを言うのだった。

 そして香住は康臣に、レストランで見かけた若い女に手始めに声をかけてみることを強要する。実はその女・美奈子は、香住が心酔している青年実業家の宮本功の婚約者だった。康臣に美奈子を寝取らせることにより、自身が宮本にモーションを掛けようという、香住の“策略”が発動する。

 何とかして普通の生活を手に入れたい男と、偉そうにアドバイスはするが本当は恋愛未経験という小娘との掛け合いがケッ作だ。2人は意見の相違で幾度も衝突してしまうのだが、自身の状況を認識していないという点では一緒である。似たもの同士が相手のアラを見つけ出して糾弾するという、このままでは終わりが無いゲームを続けた挙げ句に、事態を進めるのは(当然のことながら)現実での“行動”であることが明らかになる。

 康臣は香住から無理強いされて美奈子と付き合うが、奥手な彼も実践に臨むと何となく良い感じになってしまう(笑)。香住も宮本とリアルで接すると、相手の“正体”が分かってしまう。そして、宮本も美奈子も見ようによっては“まともじゃない”ことが判明するのだ。だいたい“まとも”なる命題を追いかけること自体がナンセンスで、大事なのは他者との関係性をどう構築するかであるという“結論”を見出して、主人公2人が成長するという流れは観ていて気持ちが良い。

 高田亮のオリジナル脚本を映画化した前田弘二の演出は達者なもので、ストーリーが停滞すること無く滑らかに進む。特に会話のシーンは日本映画では珍しく優れている。主演の成田凌と清原果耶は絶好調で、ノンシャランな成田の持ち味と積極果敢な展開を見せる清原とのコンビネーションは万全だ。小泉孝太郎や泉里香、山谷花純、倉悠貴といった他の面子もイイ味を見せている。池内義浩のカメラによる、小綺麗な横浜の街の風景も魅力的だ。
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