元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「自由な女神たち」

2010-07-31 09:30:25 | 映画の感想(さ行)
 86年松竹映像作品。けっこう面白い映画である。つくづく思うのだが、本作の公開当時も今も日本映画における喜劇は存在感が薄い。そもそも観客の側がスクリーン上での“お笑い”を期待していないフシがある。映画関係のネットの書き込みで目立つのが“泣ける映画を教えてください”という質問だ。

 対して“思い切り笑える映画を教えてください”という設問は思いの外少ない。だいたいテレビのスイッチを入れるとお笑いタレントの跳梁跋扈であり、明らかに“笑いのデフレ化”が進行している。カネを取って映画館で喜劇を見せるということ自体がリスクが大きい。

 さて、この映画は才人・久世光彦監督によるコメディだ。主演は松坂慶子と桃井かおりで、これが初共演作である。場末のキャバレーで歌う徳子(松坂)は場違いなほどの美人だが、実は整形だ。整形前の徳子を演じるのが片桐はいりというのがキツいけど(爆)、そんな彼女に手紙を寄越したのがかつての親友の咲江(桃井)である。

 いい男をつかまえて今では草津で悠々自適・・・・という咲江の境遇に興味を覚えた徳子は彼女を訪ねてみるが、咲江は結構披露宴の直前に相手に逃げられ、そのときの借金で首が回らない。

 ボケの徳子とツッコミの咲江との珍道中、それに胡散臭い整形医師(平田満)も交えて、てんやわんやの騒動が巻き起こる。主演二人のコンビネーションは絶妙で、取っ組み合いのシーンもあってまさに“体当たり”の熱演。いつもの無手勝流で役に挑む桃井も良いが、表情豊かに“お笑い”の地平を切り開く松坂は敢闘賞ものだ。

 金子成人による脚本はネガティヴな面を微塵も感じさせず、登場人物全てを肯定的に捉えているのが心地良い。主演二人のキュートなファッションも要チェックだ。
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「モリエール 恋こそ喜劇」

2010-07-30 06:24:25 | 映画の感想(ま行)

 (原題:MOLIERE )映画の中身は淡泊で、少なくともアルアーヌ・ムヌーシュキン監督が78年に撮った大作「モリエール」にはとても及ばない出来映えだ。しかし凡作と片付けてしまうのは早計で、けっこう面白いモチーフも散りばめられている。その一つが、リュディヴィーヌ・サニエ扮する侯爵夫人の造型だ。

 侯爵夫人とはいっても旦那はすでに逝去しており正確には未亡人なのだが、その若さと魅力的な容姿、そして奔放な言動で社交界の人気者である。しかし、実体は自分だけを高みに置いて他人を冷笑する鼻持ちならない女だった。ただし彼女の場合、他人への論評(陰口とも言う ^^;)が辛辣かつウィットに富んでいて、そのあたりが巧みに“本性”を覆い隠していただけなのである。

 もちろん、映画では若きモリエールによってその化けの皮は剥がされるのだが、こういう女って実際にもけっこう存在する。中身はないくせに口ばかりは達者。自分にはとことん甘く、他人には容赦しない。でもいつかはその矮小なメンタリティは暴かれるものだ。劇中で本性をズバリ指摘されたときのサニエのように、虚ろな表情を浮かべて“退場”してゆくしかない。

 さて、本作で描かれるのは喜劇王として名声を手にした頃のモリエールではなく、駆け出しの売れない役者だった青年時代のエピソードである。もっとも筋書き自体は事実ではなく、彼の作品からの多くの引用を元に、独自の味付けを施したフィクションだ。しかしローラン・ティラールの演出はいささか平板で、同じような設定の「恋におちたシェイクスピア」に比べると興趣に欠けると言わざるを得ない。

 主演のロマン・デュリスは明らかなオーバーアクト。時代劇だからといって、大仰に演じれば良いというものでもないだろう。それでも、前述の公爵夫人のネタをはじめ、モリエールの身元引受人となる富豪(ラウラ・モランテ)とその奥方(ファブリス・ルキーニ)の造型はけっこう見せる。しっかりとした時代考証による豪華なセットと衣装は素晴らしい。陰影に満ちた映像を提供するジル・アンリのカメラも見所の一つだ。

 そして特筆すべきはフレデリック・タルゴーンの音楽だろう。実に流麗だが、演奏は何とフィルハーモニア管弦楽団が担当していて、音色が本当に艶っぽいのである。映画音楽の質というのは単にスコアの出来映えではなく、演奏する側の手腕も問われるということを実感した。
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「ドラムライン」

2010-07-29 06:39:07 | 映画の感想(た行)
 (原題:Drumline)2002年作品。スポーツ競技のハーフタイムに技を競い合う、大学のマーチングバンドを扱ったスポ根ドラマ。全編にリズミカルなサウンドを散りばめた熱血編という意味では、チアリーディング部を題材にした「チアーズ!」とよく似た作品だが、出来そのものは「チアーズ!」には遠く及ばない。

 ニック・キャノン扮する“実力はあるがゴーマンな性格の主人公”が次第に周囲との折り合いを付けて活躍するようになるという筋書きは“約束通り”ながら、チャールズ・ストーン3世とかいう監督の腕が凡庸で、緩急の付け方がなっておらず、各キャラクターの描き分けも不足。目新しいエピソードもなく、クライマックスに至るまでに同じような演奏シーンが何度か続くのも観ていて飽きる。そしてこのネタで2時間は長い。あと20分削ればタイトな仕上がりになったはずだ。

 とはいっても、マーチングバンド(特にリズム・セクション)という、いわば“裏方”にスポットを当てた企画自体は決して悪くない。ラスト近くの大会の場面では各チームの妙技を大いに堪能できる。

 それにしても、舞台になっている“学生のほとんどが黒人”という大学は今まであまり映画で取り上げられなかっただけに興味深い。何だかノリの良さそうな学校ではある(笑)。
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「トイ・ストーリー3」

2010-07-28 06:44:25 | 映画の感想(た行)

 (原題:Toy Story 3)前作には及ばないまでも、これはかなりクォリティの高い映画だ。このシリーズにおいて、おもちゃは人間の見ていないところでは意志を持って行動し、人間に奉仕する身近な存在でありながら、人間社会と同化することはない。彼らは持ち主を見守ることしかできない“精霊”のような存在である。この設定を考え出した者はよほど性根が優しいのだろう。

 前回までは子供だった持ち主のアンディも高校を卒業し、遠方の大学に進学するためにもうすぐ家を出なければならない。ウッディたちおもちゃは“処分”されるかもしれないと戦々恐々。アンディはおもちゃをひとまず屋根裏部屋に保管しようとするが、母親の手違いでゴミ捨て場に。ゴミ回収者が来る前に何とか脱出して近くの保育園へと避難したのも束の間、そこは強権的なクマの縫いぐるみが支配する“独裁国家”だった。悪ガキどもの相手を強いられてボロボロになる彼らに、一発逆転の秘策はあるのか。

 相変わらず各キャラは十分に立っていて、リー・アンクリッチ監督の快調な演出テンポによるジェットコースター的な展開は今回もお手のもの。アクション場面も練り上げられていて、次から次へと繰り出されるアイデア満点の活劇場面には唸らされる。トム・ハンクスやティム・アレンなどの声優陣も好調だ。

 しかし、この映画のハイライトは静かな終盤にある。おもちゃの真の居場所を見つけ出したアンディが、新たな持ち主に対しておもちゃと一緒に過ごす事がどんなに楽しいか言い聞かせる場面の、何と感動的なことか。おもちゃにとっては、屋根裏でいつ来るとも知れない“再登場の日”を待ち続けるよりも、今このときに貴重な子供時代を送っている幼い者の遊び仲間になる方が“幸せ”なのだ。

 おもちゃに愛情を注げば、必ずそれは自分に返ってくる。アンディがナイスな若者に成長したのは、おもちゃと一緒に育ち、苦楽を共にしたからであり、モノを粗末にしなかったからなのだ。そしてその心情は確実に新しい持ち主に受け継がれていく。母親がアンディとの別れを惜しむ切ないシーンも含めて、本作は人間にとって一番大切なものは何なのか、それを平易な形で教えてくれるとびきりの良作と言っていいだろう。

 映画の出来自体は、多重的なプロットが絶妙に組み合わされた前作ほどではない。しかし、完結編としては“これ以外には作れない!”といった作者の自信が漲っている。ランディ・ニューマンによる音楽も絶品。私は苦手な3D版を観るハメになってしまったのだが、その仕掛けに対して個人的な苦言を呈するのも忘れてしまった(笑)。
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「ジョゼと虎と魚たち」

2010-07-27 06:33:53 | 映画の感想(さ行)

 2003年作品。平凡な大学生(妻夫木聡)と両足の不自由な少女(池脇千鶴)との出会いと別れを描いた犬童一心監督作。田辺聖子の原作を渡辺あやが脚色している。

 健常者と障害者との恋愛といえば「ふたりだけの微笑」や「愛は静けさの中に」あたりを思い出すが、本作の秀逸な点は(冒頭のモノローグが示すように)すでに終わった恋を主人公が振り返るという設定になっていること。つまり二人が出会うプロセスよりも別れに至った顛末を回想の中でクールに捉えることにより、彼らの切ない胸の内を具体的に描出することに成功しているのだ。

 主人公がぶっきらぼうで自閉気味の彼女の心を開かせ、自然体に恋愛関係に移行してゆく過程は微笑ましいが、そんな二人でも時が経って世間のしがらみに耐えられず別離を選択せざるを得ない状況に追い込まれる。感情を声高に表現することもなく、差別だ何だといった「雑音」もすべて捨象し、淡々と別れの手順を踏んでゆく二人を作者は冷静に、そして共感を込めて見つめる。

 二人が最初で最後の旅行に出掛ける場面はこの映画のクライマックスで、別れを悟った彼らが表面的には明るく振る舞い、しかし屈託からは逃げられず、海の底を模したラブホテルの一室で想いを巡らす場面は、見ていてたまらない気持ちになる。

 それぞれが自分の道を歩き出すラストも、哀しいけど爽やかな感動をもたらす。主演の二人は好演。特に池脇の頑張りには目を見張らされた。彼女の代表作の一つである。「くるり」による音楽も要チェックだ。
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「恐怖」

2010-07-26 06:07:04 | 映画の感想(か行)

 直截的なタイトルに比べ、中身の方はちっとも怖くない。ならばストーリーラインでの興趣はあるのかというと、それも希薄。いくらかでも“恐怖”を感じさせるものは、駅での掲示を断られたポスターのみである。要するに、何のために作られたのか分からない映画だ。

 脳科学の研究者である太田悦子は、戦前の満州で行なわれた脳の人体実験のフィルムに映っていた不可思議な光を夫と共に目にする。それ以来、彼女は二人の娘との関係をも断ち、違法の脳実験を繰り返す。時は流れ、自殺未遂を企てた上の娘を偶然“実験台”として確保することが出来た彼女は、さらに過激な脳手術を試みる・・・・というのが粗筋。

 悦子の信条は“脳の改変により新しい世界を知ることが出来、それが人間の霊的な進化に繋がる”という、ほとんどデタラメなものだ。まあ、別にトンデモなモチーフを採用してはならないという決まりはないわけで、トンデモをホンモノとして昇華させる力業が作り手に備わっていれば面白い映画になることもある。ところが脚本も担当した高橋洋監督には、そんなパワーなど持ち合わせていなかったのだ。

 脳科学うんぬんといったネタは、ここでは単なる思い付きのレベルを超えるものではない。ホラー映画好きの一般観客でさえ、この題材でいくらでも戦慄すべき展開を考え出すことが出来るのではないだろうか。

 たとえば不気味な光の存在が二人の娘の出生に禍々しい影響を与えていたとか、もう一つの世界が現実を浸食し大掛かりな破局に至らしめるとか、幽体離脱した“別の人格”が跳梁跋扈して惨劇を繰り返すとか、アイデアはけっこう湧いてくると思うのだが・・・・。本作の描き方は上っ面のみで、個々の描写にも粘りが足りない。

 意地悪な見方をすれば、ネット上で知り合った同士が集団自殺を図るという箇所に社会批判が、脳の構造を取り入れたことが“脳を鍛える”ことを謳ったゲームの流行に対する追随が、それぞれ極めて低い水準で御為ごかし的に採用されているあたりは“世相におもねった”ような安易な姿勢が窺われるのだ。こんな体たらくでは映画を最後まで引っ張れないと思ったのか、終盤には脱力するようなオチが付いてくる。あまり観客をバカにしないでもらいたい。

 悦子役の片平なぎさだけは楽しそうにマッド・サイエンティストを演じているが、その他のキャストは弱体そのもの。上の娘を演じる中村ゆりは確かに熱演だが、別に彼女でなくてもいい仕事。狂言回し的な役どころである下の娘に扮する藤井美菜は“ただ可愛いだけ”といった感じだ。

 一応、この映画はジャパニーズ・ホラーの最終作という触れ込みだが、ひと頃は勢いのあったこのジャンルが斯様な幕切れを迎えてしまったことは、実に寂しいものである。
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「アララトの聖母」

2010-07-25 06:54:36 | 映画の感想(あ行)
 (原題:Ararat)2002年カナダ作品。第一次大戦中に起きたトルコによるアルメニア人虐殺の「事実」を軸に、それを題材にした映画を撮ろうとするスタッフ、そのアドバイザーになっている大学教授と家族、そして殺戮を免れてアメリカに亡命した画家アーシル・ゴーキーの生涯などのエピソードを多層的に織り交ぜて展開するアトム・エゴヤン監督作。

 評論家筋にはウケの良かった映画らしいが、私は評価しない。理由は、この映画は「歴史」に負けてしまっているからだ。

 アルメニア人虐殺事件はトルコ東部に住むアルメニア人がロシア側に寝返るのを恐れたトルコ政府が暴挙に及んだものと言われるが、トルコ政府自身はいまだに事実を認めていないし、史料自体を知らない大多数の観客にとっては埒外のネタである。ところがこの映画は、その事件が「歴史的真実」であり、誰もが「重大に考えるべき事実」であるという「前提」で全てが進められている。

 この「歴史の重み」の前では、歴史映画のフィルムだと偽って密輸の片棒を担ぐ青年や美術館の絵画にナイフで斬りつける若い娘といった「考えの足りない者」の所行も大したことではなく、笑って許されるべきもので、何より重要なのは「事実」のプロパガンダである・・・・と言ってるのがこの映画である。

 さらに、将校役で劇中映画に出演している俳優のように、少しでもトルコ寄りの歴史観を披露する者は冷や飯を食わされる。その極端な夜郎自大ぶりには呆れるばかり。もっと題材に対して謙虚になれないのだろうか。

 「スウィート・ヒアアフター」(97年)などで卓越した心理描写を見せたエゴヤン監督も、こと思い入れのある歴史ネタに接するとこうもイデオロギーべったりの醜態を見せるとは、まったく見損なった。キャスト面にも特筆すべきものがない。
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「必死剣鳥刺し」

2010-07-17 07:01:08 | 映画の感想(は行)

 もうちょっと演出テンポを速めた方が良い。監督の平山秀幸はかつてのプログラム・ピクチュアの作り手のような実直さはあるが、観客をグッと引き込む良い意味でのケレンに欠けている。ここで言うケレンとはいわゆる“作家性”のことだけではない。スピードとスリルを重んじる演出スタイルも含まれる。平易さが要求されるホームドラマ等では奇矯なテクニックは必要ないのかもしれないが、派手なチャンバラも展開する藤沢周平原作の時代劇では、あまりマッチしているとは思えない。

 映画は海坂藩の主の愛妾を中堅武士の兼見三左エ門が刺殺するシーンから始まる。それ移行、彼のその行為の背景を頻繁なフラッシュバックの形で再現し、現在の時制と併走させる。伊藤秀裕と江良至明の手によるこの脚本の構成は明らかにトリッキィだが、根が堅実な平山監督は正攻法にシナリオを追うことばかりに腐心し、面白味がまるでない。

 重要でないと思われる箇所は思い切ってサッと流し、反対に大事なところは濃い目の味付けで迫るとか、作劇にメリハリをつければ演出リズムも随分と弾んだものになったはずだ。ところが平山は何の工夫もなく説明的シークエンスを流すのみ。結果として、終盤を除いた上映時間のほとんどが平板な展開で埋められているという状況に陥ってしまった。

 有り体に言ってしまえば、この映画は小林正樹監督の快作「切腹」にどこか通じるストーリーを持っている。あの作品での小林監督の仕事ぶりはどうだったかといえば、ホラー映画と見まごうばかりのハッタリ演出の釣瓶打ちである。この手のネタはそんな具合に大風呂敷を広げないと求心力が出てこないと思うのだが、どうして今回はマジメ一徹の平山監督が起用されたのか、プロデューサーの意図がさっぱり見えない。

 さて、速攻で斬首されると思った三左エ門だが、どうしたことか軽い刑罰で済み、懲役明けには藩の重要な仕事まで任せられるようになる。通常、こうした経緯には何か裏があると勘付いて当然だが、本人も当たり前のように気付いているはず・・・・と思ったら、そうでもなかったらしい(呆)。

 ラスト近くでは主人公の憤怒が爆発して血の雨が降るのだが、実直にシナリオをこなした割にはあまり納得できる話の段取りが出来上がっていないため、カタルシスはそれほどでもない。剣戟シーン、および三左エ門の必殺技の“鳥刺し”が炸裂する場面は盛り上がるが、映画そのものの低空飛行ぶりをリカバリーするほどではなかった。

 主演の豊川悦司は好演。ヒロイン役の池脇千鶴、悪代官然とした岸部一徳の演技も良い。撮影も音楽も万全だと思う。ただし、それらが映画自体の価値を押し上げるには至っていない。もうちょっと練り上げて欲しかったというのが、正直な感想である。
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「永遠の片想い」

2010-07-16 21:13:50 | 映画の感想(あ行)
 (英題:Lovers Concerto )2003年作品。二人の女を同時に愛した5年前の美しい記憶と、ホロ苦い現実に追われる今の主人公の姿とを交互に組み合わせて描く韓国製ラヴストーリー。ちょっと気恥ずかしい映画である。

 いくらイノセントな青春時代とはいっても、プラトニックな恋愛感情を一度に複数の異性に持つなんてのは“偽善”としか思えない。主人公役には「猟奇的な彼女」のチャ・テヒョンが扮しているが、彼の朴訥な持ち味(=女に手を出せそうもない雰囲気)をいたずらに強調したような展開は作為的に過ぎる。もっとハンサムで女にもてそうな俳優を起用し、そんな主人公がプラトニックな(彼にとってはイレギュラーな)恋愛に陥るハメになった様子を、葛藤を交えて深く描き込んだ方が納得できただろう。

 これが長編映画デビューだというイ・ハンの演出は平板で、個々の描写もテレビ番組に毛の生えたようなレベル。終盤には韓国ドラマ得意の“死病ネタ”が出てくるに及んでは、観ていて脱力してしまった。

 とはいえ、相手役の女優二人の頑張りは評価できる。だいぶん映画女優らしくなったソン・イェジンの健闘ぶりもさることながら「ブラザーフッド」では出番が少なかったイ・ウンジュの大熱演はラストで観客の紅涙を誘うことは必至だ。イ・ウンジュは若くしてこの世を去ってしまったが、改めて惜しいことをしたと思う。映画「イル・ポスティーノ」のセリフを小道具として扱っている点も悪くない。
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「音のエジソン」のシステムを試聴してみる。

2010-07-15 06:43:28 | プア・オーディオへの招待
 先日電源タップを購入した福岡市のオーディオ工房「音のエジソン」のオーディオシステムを試聴したので、その感想を書いてみたい。

 ここの主宰者はCDをあまり信用していないらしく(店内にもCDプレーヤーはない)、試聴はアナログプレーヤーにておこなった。最初は売れ筋だというスピーカー「409システム」を中心とした組み合わせで、アンプはオリジナルの真空管式、レコードプレーヤーはTRIO(現KENWOOD)の古い機種(定価は7,8万円ぐらい)、カートリッジは「音のエジソン」謹製のものだ。

 まず聴いたのは60年代ジャズの代表的アルバム、ビル・エヴァンスの「ワルツ・フォー・デビー」。このディスクはショップやフェア会場などであらゆるシステムによって鳴らされており、私もSHM-CD盤を所有しているのだが、この「音のエジソン」モデルは今まで聴いたことのないテイストを持っている。端的に言ってfレンジ(周波数帯域)は狭い。しかし、限られたレンジでの情報量の大きさおよび濃厚な音像の捉え方は、強い印象を残す。音色も(国産機には珍しく)明るい。

 二枚目に聴いたのは60年代に録音されたクラシック(管弦楽曲)のレコード。これも印象は同じで、各音像が実に生々しい。サウンドは前に出てくるのだが、某国内大手のスピーカーみたいに“出っぱなし”ではなく、それぞれの楽器が距離感を伴って迫ってくるので、有機的な空間表現を可能になっている。



 そして圧巻は“モノラル音源も聴いてみましょうか”と店主が取り出した古いジャズヴォーカルのレコード。このサウンドには私も思わず“アッ!”と声を上げそうになった。音場の奥行きが実に深い。モノラル音源にだって“音場”というものが存在するのだということをハッキリと認識した次第。

 次に試聴したのは同社のハイエンド機種である「プロミネント」。繋げるアンプはやはりオリジナルだが、先ほどのモデルとは違う上級機種。プレーヤーはガラードのターンテーブルとSAECのトーンアームを、自家製の木製キャビネットに装着したものだ。

 こちらのまさに“横綱相撲”といった感じだった。「プロミネント」は見た目も音も恰幅が良く、決してレンジ感と音色は現代的ではないのだが、その出方はハイスピードである。特に古い演歌のレコードなんかを鳴らすと鮮烈極まりない展開が味わえる。

 ただし「プロミネント」は126万円という高価格であり、“この値段ならこの音も当たり前か”という評価も出来ないことはない。対して「409システム」はペア15万円強で、音はもちろんサイズや仕上げの良さを勘案すれば、かなりコストパフォーマンスは高いと思う。スピーカーの能率(アンプの出力に対してスピーカーが得られる音圧の割合)も97dBとかなり高く、小出力の真空管アンプでも朗々と鳴る。

 これらのスピーカーに使われているユニットは米国Electro Voice(EV)社のものだ。EV社の創立は1927年と古く、現在まで主に業務用スピーカーの製造を手掛けてきた。ここの工房では数十年前に作られたEV製のヴィンテージ品を採用しているらしい。ハッキリ言ってそんな昔のユニットは経年劣化でボロボロになっているのではないかと思ったのだが、店主の話だと長年の使用に耐えうる製品も存在するのだという。



 少なくとも「プロミネント」のユニットは相当な年代物だということは確認出来る。大昔のユニットでもエンクロージャー(スピーカーの箱)とネットワークを工夫すれば今でも通用するということは、スピーカーというものは本当に進歩しているのだろうかという疑問が湧いてくるが、店主はそれを見透かしたように“スピーカー自体は進化していない(場合によっては退化していることもある)”とのコメントを残してくれた。

 最後に、今年中にリリース予定だという普及価格帯のステレオカートリッジの試作品を聴かせてもらった。カートリッジ単体の音の見極めというのは難しいものだが、少なくとも手堅く安定性のある音が出てくることは保証されると思う。発売に当たっては10万円を大きく割り込む価格設定にしたいそうで、店主によれば“オルトフォンやオーディオテクニカの同価格帯の製品を大きく上回るクォリティに仕上げる”とのこと。楽しみに待ちたい。

 「音のエジソン」のサウンドポリシーは個性的だ。古い部材を活用し、レンジを欲張らない代わりに密度の高い音空間を提供するという方向性は、広帯域化と新素材開発に余念がない昨今のオーディオのトレンドとは相容れないものだ。当然のことながら、聴き手を選ぶ。しかし、一度この音が気に入れば、まさに“一生もの”になる可能性も大きい。

 有名メーカー品だけがオーディオではない。こういう濃いキャラクターを持った業者も存在するということは、斜陽のこの業界にあっては一つの“救い”になっているのかもしれない。
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