元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「名もなきアフリカの地で」

2009-01-24 06:36:59 | 映画の感想(な行)
 (原題:Nirgendwo in Afrika)2001年作品。1930年代末から40年代にかけて、迫害を逃れてドイツからケニアに渡ったユダヤ人一家を長女の視点から描く、当該年度のアカデミー外国語映画賞受賞作。監督は「ビヨンド・サイレンス」などのドイツの若手女流カロリーヌ・リンク。

 監督が女流のせいかどうかわからないが、登場人物、特に母親(ユリアーネ・ケーラー)に対する扱いが辛辣な点が興味深い。最初は文明から隔絶されたアフリカの生活に馴染めず文句を言い、弁護士の職を解かれて雇われ農場主に身をやつしている夫(メラーブ・ニニッゼ)をなじる。かと思えば、数年経ってケニアの生活に慣れてくると、今度は戦争が終わったドイツに帰ろうとする夫に猛反対。その間にも(事情があるとはいえ)イギリス人将校や夫の僚友と浮気三昧だ。

 ただし、それを作者は殊更指弾したりはしない。逆境に置かれた人間の意志薄弱さを丹念に描くことにより、よくある“反戦映画”や“ユダヤ人受難映画”のルーティンにはまり込むことを巧妙に避けている。戦争が起こったからすべての家族が一律に不幸になるのではなく、それぞれ戦時には戦時の事情を抱えて懸命に生きているのだという、いわば当たり前のことを真摯に綴っている。また、それにより一家に対するケニア人コックの醒めたようでいて実は敬愛を込めた態度がより印象付けられるのだ。

 カロリーヌ・リンクの演出は「ビヨンド・サイレンス」と比べてかなり進歩しており、起伏のあるストーリーの大河ドラマを力業で見せきっている。アフリカの風景と野趣にあふれた音楽も魅力。
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「BOY A」

2009-01-23 06:40:18 | 映画の感想(英数)

 (原題:BOY A )厳しい映画だが、平易な語り口を全編に渡って遵守しているために露悪的なケレン味は抑えられ、誰でもテーマの重要性に向き合えることが出来る良心作に仕上がっている。十代の頃に犯した重大事件のために長らく刑務所に入れられていた若い男が24歳になって出所。名前を変え、新しい街で保護司の助けを受けながら人生の再出発を図ろうとする。しかし、ひょんなことから“過去”が知れ渡ることになり、せっかく手探りで築き上げた人間関係がもろくも瓦解。彼は窮地に追いつめられてゆく。

 この設定でまず思い浮かぶ主題は“犯罪者の更生の難しさ、及び当人を取り巻く社会の壁”であろう。だが映画を観ると問題は別のところにあることが分かる。主人公は絵に描いたような好青年。シャイで口数は多くはないがマジメで人当たりが良く、周りからも信頼されるキャラクターだ。そして思わぬ人命救助で表彰されたりもする。ハッキリ言って、こういう人間が昔凶悪な犯罪に手を染めたとはとても思えないのだ。

 映画は回想シーンで彼のティーンエージャー時代に一緒につるんでいた“悪友”を登場させる。不遇な生い立ちだが、そのせいで周囲を逆恨みしていて近づく者すべてに暴力を振るう。元になった事件の“主犯”はコイツだろうと思われるが、おそらくは目撃者もおらず当事者だけのあやふやな証言だけで二人とも“同罪”にされてしまう。しかも、相方は早々に謎の死を遂げ、真相は闇の中だ。

 そしてこれが怖いところだが、舞台になったイギリスでは容疑者が未成年だろうと何だろうとすべてマスコミに公開されてしまうのである。おまけに審判もほとんど“公開裁判”。タブロイド紙により成人した後も“お尋ね者”扱いで大々的に周知される。日本では成人に達していない凶悪犯のプロフィールを開示せよとの議論があるが、それはあくまで容疑が明確になった上での話だ。特に複数犯の場合は細心の注意が必要。

 もちろん日本での過度な秘匿主義は問題だが、この映画のようなマスコミの明け透けな報道も断じて許されるものではない。本作は冤罪に近い案件が罷り通ることへの抗議、そしてマスメディアの無責任さとそれを容認する世間への糾弾こそをテーマに据えているのである。

 ジョン・クローリーの演出は実に丁寧で、脇のキャラクターに対しても十分配慮している。特に面倒見の良い保護司が、主人公と同世代の息子とはまるで心を通わせることが出来ないエピソードは、建前だけでは片付けられない人間の“業”を感じさせて出色だ。

 主演のアンドリュー・ガーフィールドは苦悩する若者像を上手く表現している。保護司役のピーター・ミュランも中年の悲哀を滲ませて出色だ。そして主人公の恋人に扮するケイティ・リオンズは、太めなのに魅力的という得な役どころである(笑)。ロブ・ハーディのカメラワークは清冽で、映像派的な画面が主体のラストの処理も違和感がない。観て決して損はない英国映画の秀作だ。
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「渚のシンドバッド」

2009-01-22 06:33:34 | 映画の感想(な行)
 近作「ぐるりのこと。」で名匠ぶりを発揮し始めた橋口亮輔監督が95年に撮った作品。17歳の高校生・伊藤(岡田義徳)は同級生の吉田(草野康太)に同性愛的感情を持つが表には出せない。吉田は最近転校してきた相原(浜崎あゆみ)に魅かれているが、彼女は前の学校でレイプ事件の被害者になっていて、人間不信に陥っている。優等生の清水(高田久美)は吉田が好きなのだが、彼は友人としか思っていない。悩みを抱えた4人のひと夏の顛末を描く。

 感想だが、無理なく4人の青春群像を追っていて好感の持てる作品だと思った。ホモ、いじめ、レイプなどセンセーショナルな要素を持ってはいても、それ自体を描くことが目的ではない。誰にも打ち明けられない悩みを持ち、心に傷を負った普遍的な若者像を提示することに腐心している。前作では空回りしたワンシーン・ワンカット技法も登場人物の心の動きをすくい取るのに大きく貢献。

 感心したのは、彼らが“大人は判ってくれない”とばかりに欝屈した心情を持っているにもかかわらず、一方で“仕方がない、自分のせいでもあるのだから”という諦念とも似た醒めた意識を持っていることを示している点だ。ゲイだレイプだと“これだけ自分はネガティヴなものを持っているのだ”という次元にとらわれて映画を作れば、単なるウケ狙いのトレンディ・ドラマにしかならない。誰でもこの年齢の頃を振り返れば、ネガティヴな要素はしょせんアイデンティティにはならず、必ず冷静で前向きな“もうひとりの自分”が成長を助けていたことを知っているはずだが、それを忘れてキワ物に走る凡百の作家とは一線を画していると思う。

 たとえば伊藤と吉田の家庭は健全とはいえないが、それ自体にこだわる描写はほとんどない。二人とも家庭が普通でないことを承知しつつ、それを受け入れて日々生きる。状況に対して何の気負いもないように見える。ただ、そうであればなおさら、ラスト近くの吉田、伊藤、相原の独白のシーンが切なく迫る。“優しいふりするな”とツッパッてはみても“誰かに判ってもらいたい”という心からの叫びがこちらにヒリヒリ伝わるようだ。

 しかしそれより印象的だったのは、中盤での清水と三枚目役の奸原(山口耕史)が校舎の屋上で会うシーンだ。両方とも片思いの相手がいて、報われないと知っている。たかが失恋と思ってはいるが、けっこうショックを受けている二人が、心をふと通わせる様子が繊細なタッチで綴られている。

孤立と諦念と優しさが交錯する若者だけの世界(大人の影は薄い)を、四方を山と海に囲まれた長崎の街の風景が象徴する。万全の出来とは言えないまでも、これはなかなかの佳作だと思う。なお、ヒロイン役の浜崎のその後の活躍は周知の通りだが、私としては彼女には歌手よりも女優の道を選んで欲しかった。そうなれば、めぼしい人材がいないこの年代(現在の20代後半から30歳前後)の中で有力な演技者となったはずだ。
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「この自由な世界で」

2009-01-21 06:30:11 | 映画の感想(か行)

 (原題:It's a Free World...)舞台はイギリスだが、派遣社員の首切りが横行する日本の状況とそれほど変わることはない。ロンドンの下町で暮らすヒロインは海外からの出稼ぎ労働者を企業などに派遣する会社に勤務していたが、いくら熱心に職務に励んでもまるで認められず、さらには上司のセクハラに嫌な顔をしたせいか突然解雇されてしまう。小学生の息子を抱えるシングルマザーでもある彼女にはゆっくりと次の仕事を探す余裕はなく、とりあえずはそれまでの知識と人脈を利用してルームメイトと二人で労働者派遣のエージェントを始める。

 しかし事務所もなく、知り合いの居酒屋の裏に食い詰めた連中を集めて工場や工事現場にピストン移送させるという、日雇い斡旋みたいなことで糊口を凌ぐ毎日だ。何とかして正規の業者として登録するための資本金を手っ取り早く稼ぐために、やがて彼女は危ない橋を渡り始める。

 この映画が面白いのは、主人公のキャラクターが徐々に変わっていくところだ。本来彼女は面倒見の良い人間なのである。派遣会社で仕事をしていたのは、経済的に不遇な外国人労働者を助けたいと思っていたからであり、自分で事業を立ち上げた後も困窮しているイラン人一家を支援したりもしている。ところが、タイトルになっている“この自由な世界”では、少しでも甘い顔を見せた者には“世の中から置いて行かれる自由”しか与えられない。

 勤めていた時には会社組織が緩衝体になり個々人にはあまり降りかからなかった“世間の荒波”というやつが、自由業に転じた彼女にはストレートに襲いかかってくる。四の五の言わずに日銭を稼ぐ必要性に迫られれば、自らが世話する派遣労働者も血の通った人間ではなく“単なる商品”として扱わざるを得ない。同じ“商品”ならば仕入値が安い方が良いに決まっている。

 彼女はやがてどんなに酷使しても文句を言わない不法入国者を斡旋するようになる。明らかな不法行為だが、見つかっても罰則が軽いので一度手を染めれば後は底なしだ。この世界には“落ちこぼれる自由”と同時に“搾取される自由(する自由)”もある・・・・というトンデモな結論に行き着いた彼女は、金儲けのためには他人を何とも思わない不遜な人間に変貌してしまう。

 監督のケン・ローチはこのあたりを興趣たっぷりに描き出すが、作者の意図はカタギの人間も銭金に汚くならざるを得ないという、不条理な社会の告発であることは言うまでもない。父親のように実直に働いて定年を迎えるような生き方を“面白みのない人生”だと言う彼女だが、本当は多くの者が大過なく定年まで働けるような社会が正常なのだ。不安定な生き方や人を押しのける生き方も“自由”という大義名分の元に認められるのならば、それは本当の“自由”ではない。

 本作を含めたローチ監督の作品を観ていると、80年代のサッチャー政権時の経済政策(サッチャリズム)が英国の社会基盤を破壊したことが如実に理解できる。すべて民間の自由な経済活動に丸投げすれば上手くいくはずだ・・・・という新自由主義はスローガンとしては聞こえが良いが、実体は大手資本による収奪やマネーゲームを認めただけの弱肉強食奨励主義でしかなかった。現在はそのツケが世界的な規模で回っていて各国はリカバリーに必死だが、後遺症はあまりにも深く大きい。

 ローチ作品では無名および新人の俳優を起用してドキュメンタリー・タッチを強調する手法がよく採用されるが、この映画でも顔を知っている俳優は一人も出てこない。しかし、主演のキルストン・ウェアリングやパートナー役のジュリエット・エリスをはじめ皆良い演技をしている。特に父親に扮したコリン・コフリンの存在感が印象的だ。ともあれ我々の住む社会の実相を再確認する意味でも、観る価値は大いにある。
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「女の園」

2009-01-20 06:34:48 | 映画の感想(あ行)
 1954年度製作の木下恵介監督作品。阿部知二の小説「人工庭園」を原作に、閉鎖的な京都の女子大を舞台として悩める学生群像を描く。

 感想だが、ラスト10分間を除いてあまり感心出来ない。当時の風潮から考えても、この全寮制の女子大の有様は時代錯誤的だ。高校ならともかく、こんなむちゃくちゃな管理体制で学生を抑圧している大学など存在しないはず。“横暴な体制側VS自由を求める学生”という手垢にまみれた図式を無理矢理に構築しようとする態度は作為的と言うしかない。

 しかも、抑圧のシンボルのような女教員(高峰三枝子)を一方に配し、学生側にも被害者の代表みたいなメソメソした女(高峰秀子)や左派運動にかぶれた者(久我美子)、単なるハネッ返り(岸恵子)等、いかにも定型的なキャラクターばかりを並ばせているのには脱力した。

 ところが終盤にさしかかると様相が一変。女学生の一人の自殺騒ぎにより、登場人物全員による“糾弾合戦”が勃発。自分の不甲斐なさを棚に上げての果てしない“他人への非難・中傷大会”を畳みかけるように描く木下演出恐るべし。“どうせ人間なんてこんなものだ!”という諦観と絶望が確信犯的に画面を覆い、実に壮観だ。それまでのチンタラした展開はこのクライマックスを引き立てるためなのかと思いたくなる。

 “その後の学生運動を予見した”との評もあったらしいが、圧倒的な作者の情念はそんな小賢しい見方をも踏みつぶしてしまう。観て楽しい映画ではないものの、その年のキネ旬ベストテン2位という評価はダテではない力作だ。
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「ファニーゲーム U.S.A.」

2009-01-19 06:35:45 | 映画の感想(は行)

 (原題:FUNNY GAMES U.S.)まるで観客に対してケンカを売っているような映画だ。監督のミヒャエル・ハネケが本国オーストリアで撮った97年製作の“元ネタ”はチェックしていないが、舞台をアメリカに移してのリメイクである本作だけを観てもその屈折ぶりが十二分に窺われる。湖畔の別荘地でバカンスを楽しもうとしていた一家が、突如侵入してきた頭のおかしい若造二人組によって徹底的に蹂躙されるという筋書きの本作、特筆すべきは通常のサスペンス映画のルーティンを一つ一つ丹念にひっくり返して行く極悪なプロットの積み上げだ。

 よくある“こうやれば主人公達は助かるはずだ”とか“やがてストーリーに光明が射すはずだ”とかいった、娯楽映画に付きもののモチーフは一切無し。それどころか、逆転のきっかけになるかと思われた小ネタをすべて不発に終わらせるという徹底ぶりだ。脇目もふらずに、お先真っ暗のバッドエンドに向けて突っ走って行く潔さに呆れつつも感心してしまう。

 残虐描写も堂に入ったもので、直接的な捉え方を廃している代わりに、サウンドと“その後の惨状”だけをクローズアップすることによって、暴力の激しさを暗示させるというイヤらしい手法を採用。前作「隠された記憶」でも開示されたこの監督の外道な資質が全面展開している。

 ただし、これは単に観る者を不愉快にさせることに腐心したゲテモノ映画ではない。ある面“暴力行為の本質”を描出している一種高尚なシャシンとも言える。早い話が、暴力を振るう側には憎悪とか義憤とか銭金の勘定とかいろいろと事情はあるが、暴力を振るわれる側にとってはどれも同じだということだ。さらに、暴力衝動を内に持つ者にとって、相手側の些細な非礼が絶好の暴力行使の口実になることも容赦なく示される。観客は若造二人の狼藉に気分を害しながらも、一方で“こういう悪党が反対に暴力を振るわれる場面”を想像してワクワクしているのも事実なのだ。

 そして本作がアメリカで再映画化されたのにも意義がある。言うまでもなく暴力描写を正義のオブラートに包んで正当化するハリウッドのエンタテインメント業界、自衛のためと称して平然と暴力の道具(銃)を所有する市民、さらには正義の御旗を振りかざして戦争を仕掛けるアメリカ政府などに対する皮肉だ。また昨今は明確な理由のない凶悪な事件が横行している日本の状況にも照らし合わせることは可能である。

 ナオミ・ワッツ、ティム・ロス、敵役にはマイケル・ピットとブラディ・コーベット等、キャスティングは申し分ない。ダリウス・コンジのカメラによる清涼な映像は格調の高さを感じる。悪意に満ちた快作として評価したい。ただケチを付けるとしたら、登場人物が観客の方を向いて話しかけたり、終盤近くの“リモコン操作”のくだりなど、策を弄しすぎた感があるのは残念。また被害者一家の振る舞いが間抜けすぎるのも減点だろう。それらが改善されればもっと点数は上がったはずだ。
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「ゼブラーマン」

2009-01-18 07:19:06 | 映画の感想(さ行)
 2003年作品。偶然にも憧れのテレビ番組のヒーローになってしまったダメ教師が、宇宙人との戦いを通し本物のヒーローとなるまでを描いたSFコメディ。監督は三池崇史だが、これはどう見ても脚本担当の宮藤官九郎の映画だろう。「ドラッグストア・ガール」や「アイデン&ティティ」などを観てもわかるのだが、宮藤官九郎という脚本家は「面白いキャラクターの創造」に関して卓越したものを見せる反面、肝心の「物語の辻褄を合わせること」についてはまるでダメである。この作品も同様だ。



 確かに哀川翔扮するダメ小学校教師の造型は面白い。うだつの上がらぬ日常から逃避するかのように「ゼブラーマン」のコスプレに没頭するあたりは涙を誘う(笑)。渡部篤郎のウサン臭い自衛隊員や大杉蓮の怪しげな教頭先生なんかも存在感たっぷりだし、鈴木京香に至っては「ゼブラナース」に変身するという大サービスぶり(爆)。

 しかし、作劇面が全然なっていない。そもそも「一般人が衣装を着ただけ」であったゼブラーマンが、どうしていつの間にかスーパーパワーを身につけ、果ては空まで飛んでしまう「本物のヒーロー」になるのか、その理由が完全にスッポ抜けている。エイリアンのデザインはいいとして、その行動規範も弱点もまるで不明。ギャグも数多く挿入されているが、物語自体に緊張感あふれる部分がないため、全然笑いが弾けない。ラストのバトルシーンも弛緩しきっている。主人公が本当に「変身」する必要はなく、コスプレのまんまで事件を解決すべきだった。

 ついでに言えば宇宙人も不要。柄本明演じる「変態カニ男」との追っかけっこを全編にわたってやってもらった方が数段楽しい映画になったはずだ。オフビートさが身上の三池の演出は、テンポとコンパクトさが要求されるこの手の映画には不向き。ダラダラしているところを切ればあと20分は短くできたはず。「冴えない中年男がコスプレして大活躍する映画」なら、小松隆志監督の「ご存知!ふんどし頭巾」の方がずっと面白いと思う。
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「チェ 28歳の革命」

2009-01-17 06:30:45 | 映画の感想(た行)

 (原題:Che Part One)対象が描き切れていない感じだ。革命家エルネスト・チェ・ゲバラのキューバ時代を描く伝記映画だが、史実を時系列に添って並べていないことから、革命のプロセスを追うことをせずにゲバラ自身の人物像に迫ろうとしていることは分かる。しかし、それがどうも不十分なのだ。

 映画は64年にゲバラが国連総会で演説する場面、およびインタビューのシーンなどをドキュメンタリー・タッチで綴り、これが全編の基調となってあとはカストロと共にキューバに上陸し、首都ハバナに至る道程を描いている。だが、ゲバラの国連総会での言動がどうして物議を醸したのか、その背景がキューバでの戦いの部分ではまったく説明されていない。

 それに戦闘の最前線では沈着冷静に振る舞っている彼と、国連本部における不用意な発言で顰蹙を買うゲバラの姿とが全然オーヴァーラップしないのだ。革命を成し遂げてから何かが彼の中で変わったのだとは思わせるが、それについて何の明示も暗示もない。明らかにアプローチの違う二つのパートが、互いに何ら関係性を持たせられないままに平行線をたどっているような印象を受ける。これは作劇の不手際と言わざるを得ないだろう。

 クセ者である監督のスティーヴン・ソダーバーグに平易なドラマツルギーなど期待する方がおかしいのだろうが、それでも革命が起こる背景やアメリカとの確執、ソ連など東側との距離感など、舞台設定に関する十分な言及がないのは愉快になれない。策を弄した挙げ句、ゲバラの内面がまったく浮き彫りにされていないのは、失敗作と評されても仕方がない。

 本作を観る前にゲバラの青春時代を題材にした「モーターサイクル・ダイアリーズ」をもチェックした方が良いかもしれない。それだけ本作は独立した作品としての完成度に欠ける。ソダーバーグ作品としても中南米をネタにした「トラフィック」には遠く及ばない出来だ。

 主演のベニチオ・デル・トロは好演だが、予想の範疇を出るものではない。脇のキャスティングにも特筆すべき部分はない。戦闘場面を軽く流したのは意図的なものであることは分かるが、気勢が上がらないのもまた事実。展開にうまくメリハリを付けられていない。後日公開される第二部の「チェ 39歳別れの手紙」に対する鑑賞意欲も減退してきた。
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「レジェンド・オブ・フォール 果てしなき想い」

2009-01-16 06:35:39 | 映画の感想(ら行)
 (原題:Legend of the Fall)95年作品。20世紀初頭のモンタナ州。退役軍人のラドロー(アンソニー・ホプキンス)は牧場を経営しながら3人の息子を育てていた。堅実な長男アルフレッド(アイダン・クィン)、野生児の次男トリスタン(ブラッド・ピット)、理想主義者の三男サミュエル(ヘンリー・トーマス)。母は家出していたが、自然に囲まれたそれなりに幸せな生活は、サミュエルが東部の大学から連れてきた婚約者(ジュリア・オーモンド)の出現により、兄弟の間に微妙な確執を生むこととなる。やがて第一次大戦への参戦、禁酒法時代、大恐慌など、時代の流れは一家を翻弄させていく。ジム・ハリスンのベストセラーをエドワード・ズウィック監督が映画化。2時間を超える大作に仕上げた。

 さて、一見して堂々たる大河ドラマである。しかしそれは“大河ドラマのための大河ドラマ”であって、そうしなければならない必然性など少しもないのだ。はっきり言って、これは「エデンの東」と「リバー・ランズ・スルー・イット」を合わせたような映画で、題材に新しいものは何もない。

 頑固な父親と性格の異なる兄弟のキャラクター設定は、完全なステレオタイプだ。観客の誰もが次男のトリスタンに感情移入するように仕向ける手口も予想通りだ。反社会的でエゴが強い次男の性格を“反骨精神旺盛なとんがったキャラクター”と言ってはいけない。こういうヒーローは今までのアメリカ映画では腐るほどいた。伝統的ではあるが少しも革新的ではないのだ。ブラッド・ピットはモンゴメリー・クリフトあたりに端を発した“内向的で破滅型”の青春スターの末裔であろう。それ以上でもそれ以下でもない。同じく彼が主演した「リバー・ランズ・・・」のキャラクターとほとんど一緒であり、途中から映画を切り替えてもわからないのではないか?

 私など、序盤のドラマティックな展開はともかく、終盤近くの、トリスタンが世界中を放浪して傷心を表わす場面になってくると、ワザとらしさに失笑してしまった。なるほど舞台は幅広くなり、大河ドラマ的材料には事欠かなくなってくるが、求心力は確実に低下していく。映画を大作に見せよう見せようという強迫観念が、ドラマにすきま風を吹かせることになる。

 こういうのはテレビのミニ・シリーズでやればちょうどいいと思う。それとブラッド・ピットのファンや、映画をたまにしか観ない層にもそれなりの手ごたえは与えるだろう。だが、どうしようもなく古い題材と型通りの展開により、感銘の持続力は弱いと思う。少々破綻してもいいから、プラスアルファの現代にも通じるテーマをドラマの中に盛り込んでほしかった。

 キャスト面ではオーモンドの清楚な美しさが光った。ジェームズ・ホーナーの音楽は見事。ただ、アカデミー撮影賞を取ったジョン・トールのカメラはそれほどでもない。
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「ミラーズ」

2009-01-15 06:26:14 | 映画の感想(ま行)

 (原題:Mirrors )物足りない。鏡をモチーフにしたホラー篇ならばいくらでも恐い映像が撮れそうなものだが、凡庸な展開に終始。観賞後には当分は鏡を覗くのが恐くなるように観客に仕向けるほどの尖ったホラー描写は、最後まで出てこない。

 思うに、これは作者(監督と脚本はアレクサンドル・アジャ)のイマジネーションの貧困ぶりが如実に現れているのだろう。昔から鏡をネタにした怪異譚は少なくない。それは、単に鏡の前にある画像を映し出すという物理的なものだけではなく、左右が逆になる等、現実とは似て非なる“もう一つの世界”を喚起させる小道具としての存在感ゆえである。たとえば、もしも鏡に映った自分の姿が実際の自分とは違う行動を取ったとしたら・・・・と考えるだけでも肌に粟立つような気分になる。

 でも、この映画にはそんな日常の中に現出する恐怖の陥穽といった思い切った仕掛けが全然見当たらず、描写自体は過去のホラー映画でよく見かけたようなパターンばかり。事件の発端となった火災現場後の大きな鏡は典型的ゴシック風味だし、惨劇シーンは恐怖よりもグロ度を強調しているようで、観ていて盛り下がるばかり。大きな音を立てて驚かすという芸のない方法も脱力する。

 よく考えてみたら全体の流れは「リング」の二番煎じとも言えるし、子供が犠牲になりそうになるあたりは「ポルターガイスト」シリーズとも似ている。ラストのオチなんかジョン・カーペンター監督の「パラダイム」(87年)と似てないこともない。オリジナリティの面からも難があると言えよう。

 そもそも、誤って同僚を射殺してしまった元警官である主人公の“心の闇”の表現を通り一遍に済ませてしまったのが痛い。彼には元々怪異現象を呼び込む素地があった・・・・という筋書きにすると、もうちょっとドラマに厚みが出てきたかもしれない。

 主演のキーファー・サザーランドは頑張っているが、エキセントリックな度合では(今のところ)父親のドナルドにはとても及ばない。もっと精進が必要だろう。対して妻を演じるポーラ・パットンは「デジャヴ」でも見せた美しさが今回も活きている。最近のアメリカの女性芸能人って黒人の方に美人が目立つね(^^)。
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