元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ア・フュー・グッドメン」

2018-09-30 07:10:00 | 映画の感想(あ行)

 (原題:A FEW GOODMEN )92年作品。良く出来た法廷劇だ。しかも、一般の裁判所ではなく軍事法廷で物語が展開するというのも、題材として目新しい。さらに、昨今マスコミなどで取り沙汰されている各界のパワハラやモラハラの事案をも想起させ、現時点で観ても得るものが大きいと思う。

 キューバにあるグアンタナモ米海軍基地で、海兵隊員サンティアゴ一等兵が就寝中に暴行されて死亡するという事件が起きる。犯人は同部隊のダウニー一等兵とドーソン兵長だった。検察官ロス大尉は、2人を殺人罪で起訴する。内部調査部のギャロウェイ少佐は被告の弁護を申し出るが、実際に任命されたのはハーバード法科を出たものの法廷経験のないキャフィー中尉だった。

 捜査を進めるうちに、サンティアゴは基地からの転籍を申し出ていたことが判明。そして、事件の背景にコードR(規律を乱す者への暴力的制裁)の存在が浮上する。コードRの実行を示唆した張本人として、最高指揮官ジェセップ大佐の名前が挙がるが、証人が自殺してしまう等の不都合な事態が生じ、具体的な決め手は見つからない。窮地に陥ったキャフィーは、一発逆転を狙う勝負に出る。

 国を守るという大義名分のもとでは、各個人の些細な屈託など押し潰して当然だと断じる(まるで体育会系のような)守旧派と、個人の権利を守ろうとするリベラル派との対決という構図はありがちだが、本作ではそこに主人公の成長物語というサブ・プロットを織り込むことにより、作劇に厚みを出している。

 キャフィーの父親は優秀な弁護士で、キャフィー自身はそのプレッシャーに喘いでいる。だからこれまで弁護を依頼された案件も、裁判に持ち込むのを避けて和解や司法取引で決着させるのが常套手段だった。そんな彼が事の重大性を痛感し、法廷で堂々と白黒をつける手段にうって出る。その筋書きは観ていて気持ちが良い。

 キャフィーに扮するのはトム・クルーズで、あまり演技面では実績を残していないと言われる彼にしてはかなり頑張っている。この頃のクルーズは、パフォーマンスの質に関して意欲的だった面もある(今とは大違いだ ^^;)。相手方のジェセップを演じるのはジャック・ニコルソンで、こちらは貫禄たっぷりの見事な仕事ぶりだ。

 ケヴィン・ベーコンやキーファー・サザーランド、J・T・ウォルシュといった脇の面子も良い。ただ、デミ・ムーア扮するギャロウェイがあまり見せ場が無かったのは残念だ。ロブ・ライナーの演出は堅実。ロバート・リチャードソンの撮影とマーク・シャイマンの音楽も申し分ない。
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「泣き虫しょったんの奇跡」

2018-09-29 06:25:27 | 映画の感想(な行)

 面白く観た。監督の豊田利晃はかつてプロ棋士を目指したこともあり、阪本順治監督の「王手」(91年)の脚本も書いている。それだけに、題材に対する理解度や臨場感は並々ならぬものがあり、単に事実をなぞっただけの実録物にはなっていない。主要キャストの頑張りも印象的だ。

 おとなしくてクラスでも全然目立っていなかった“しょったん”こと瀬川晶司少年の趣味は、将棋だった。同級生の鈴木悠野と共に切磋琢磨して棋力を上げ、街の将棋クラブでも大人を押しのけて頭角を現してゆく。やがてプロ棋士の登竜門である奨励会に入会。しかし、それから伸び悩み、26歳までに四段昇格できなければ退会しなければならないルールによって、奨励会を去ることになる。挫折を味わい、一度はサラリーマンになるが、アマチュアの大会で活躍することによって再びプロ棋士になる夢を追い始める。奨励会を退会した後に、特例によってプロ編入試験に合格し、晴れて棋士となった瀬川自身の自叙伝の映画化だ。

 とにかく、奨励会の雰囲気の描写が出色だ。瀬川は三段までスムースに上がるが、そこから四段になるには“越えられない壁”がある。年2回のリーグ戦で上位に入った極少数しかプロの座は約束されないのだ。どんなに素質があっても、メンタル面などでほんの少し後れを取ると、実績を上げられない。負けが込んでくれば、誰からも話し掛けられることも無く孤立してゆく。

 中学を卒業してすぐに奨励会に入って将棋一筋で年を重ねても、四段に上がれないまま26歳を迎えれば、裸のまま世の中に放り出されるのだ。落伍者に関するシビアな扱いの一方、見事に四段に昇段した者に対する残された連中の微妙な屈託も丹念にすくい上げられている。

 正直言って、主人公を取り巻く(将棋連盟関係者以外の)人々が皆善意であるのは、いかにも御都合主義だ。しかしそれが決して嘘っぽく見えないのは、ドラマの核となる奨励会の過酷な実情をリアルに捉えているからだ。そこを押さえてしまえば、あとはどうにでもなる。

 主演の松田龍平は好演で、熱血漢でありながら飄々として自身を客観的に見つめている主人公像を見事に表現。脇には野田洋次郎や永山絢斗、染谷将太、妻夫木聡、板尾創路、松たか子、美保純、小林薫、國村隼と豪華な面子が揃い、それぞれ持ち味を出している。

 中でも味わい深いのは将棋クラブをの席主に扮したイッセー尾形で、将棋が好きでたまらないのに、若い頃に将棋を覚える機会を逸し、プロへの道を閉ざされた初老の男を哀愁たっぷりに演じる。豊田の演出はメリハリが効いており、淡々としているようで対局シーンでは活劇映画のような盛り上がりを見せる。笠松則通による撮影、照井利幸の音楽、共に見事だ
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「ぶれない男」

2018-09-28 06:27:40 | 映画の感想(は行)

 (英題:A MAN OF INTEGRITY)アジアフォーカス福岡国際映画祭2018出品作品。全編にわたり、肌にまとわり付くような不快感と息苦しさを覚える映画だ。断っておくが、これは褒めているのである。これだけマイナスの要素が充満していながら、真っ当に娯楽映画として成り立たせているという、作者の力量には感服するしかない。

 イラン北部の田舎町で妻子と共に暮らす中年男レザは、周囲と妥協することが大嫌いな性格。今は金魚養殖の仕事をしているが、女子高の校長をしている妻の給与だけでは養殖用の土地を確保することが出来なかったため、銀行から資金を借り入れている。

 ある日、レザは養殖池に水を引き入れる小川が涸れているのを発見する。町の裏組織が銀行への口利きで返済を遅らせる見返りに謝礼金を要求したのを、レザが断ったため嫌がらせに水門を閉めたのだった。おまけに相手のボスと揉み合いになり、レザは警察に捕まって収監されてしまう。さらに裏組織はレザに対して法外な賠償金を求めるなど攻勢を強めるが、レザは頑として屈しない。やがて両者のバトルはエスカレートし、引き返すことが出来ないレベルにまで大きくなる。

 一見平和な地方都市だが、内実は闇組織が仕切っているという不気味さ。金融機関はもちろん、行政や警察、司法まで含む黒い繋がりで牛耳られている。レザが徒手空拳で立ち向かっても、次々と闇組織は罠を仕掛ける。

 ならばそれに対峙するレザが清廉潔白なのかというと、決してそうではない。本人は正義の側にいるつもりでも、対抗上、別の汚い手段に頼らざるを得なくなる。妻に至っては、当局側からの理不尽な要求を何の疑問も持たずに行使し、一人の生徒とその家族を窮地に追いやってしまう。やがてこの闇の構図は、この町だけではなくイラン全土を覆っていることが暗に示され、慄然とした気分になる。あえて言えば、この状態は中東だけに限らない。同調圧力が蔓延るグロテスクな光景は、今や世界のあちこちで見られるのだと思う。

 モハマド・ラスロフの演出は露悪的という点でオーストリアのミヒャエル・ハネケと似たところもあるが、ひたすら内に籠もるハネケに対し、ラスロフの作劇のベクトルは外部(社会一般)に向かう。いくつか未回収のモチーフはあるが、まずは質の高い仕事と言うべきだろう。

 ラストを除いて音楽を使用しないストイックな姿勢も捨てがたく、映像は冴え冴えと美しい。2017年のカンヌ国際映画祭「ある視点部門」の最優秀作品賞。見応えのある映画だ。
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「僕の帰る場所」

2018-09-24 06:55:25 | 映画の感想(は行)

 (英題:PASSAGE OF LIFE )アジアフォーカス福岡国際映画祭2018出品作品。厳しい映画だ。主人公達の立場や言動に対して、自己責任であると断じて片付けてしまうのは容易い。しかし、理屈で割り切れないまま、望まない境遇に追いやられる人間も少なからず存在するという事実は、知っておいた方が良い。

 東京の小さなアパート暮らすアイセとケインの夫婦、そして2人の幼い息子は、政情不安だったミャンマーから逃れてきた。アイセは何度も役所に難民申請をするが、受け付けてもらえない。挙句の果ては入国管理局に拘束され、何日も家を空けることもある。妻のケインは何とか1人で家族を支えていたが、ストレスが溜まって睡眠不足に陥っている。

 限界に達した彼女は、夫を置いて帰国することを宣言。2人の子供を連れてヤンゴンの空港に降り立つ。だが、息子たちはミャンマー生まれとはいえ日本で過ごした時間の方が圧倒的に多く、日本語しかしゃべれない。特に長男カウンが抱える屈託は深刻で、ある日ついに家出してしまう。

 この一家は決して“命からがら本国から脱出してきた”という境遇ではない。ヤンゴンにある実家は東京での住処に比べれば遙かに広く、親族も健在だ。また半世紀余に及んだ軍事政権は終わっている。これではアイセがいくら主張しても、難民として認められないのは当然だろう。さらに2人の息子は、両親からミャンマー語を十分教えてもらっていない。

 だから彼らが置かれている状況はある意味“自業自得”とも言えるのだが、もちろん事態はそんな簡単に割り切れるものではない。自国の将来が不透明で、生活基盤が失われると少しでも感じたのならば、日本のような平和な国に移り住みたいと思う人間は多くなることは当然だ。本作で描かれる一家のようなケースは今後どんどん増える。ならば我々はそれにどう対峙してゆくのか・・・・この映画が提示する問いはあまりにも重い。

 演技経験のないミャンマーの人々を多数起用して物語を組み立てる藤元明緒の演出は、見上げたものだ。特にたった一人で空港を目指してヤンゴンの雑踏を歩くカウンを描くパートは、サスペンス風味が利いている。2017年の東京国際映画祭アジアの未来部門で、日本人監督初となるグランプリと監督賞をダブル受賞。観る価値はある。
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「大楽師」

2018-09-23 06:56:08 | 映画の感想(た行)
 (原題:大樂師 為愛配樂)アジアフォーカス福岡国際映画祭2018出品作品。娯楽作品として面白く、しかもメッセージ性があり感銘を受ける。誰にでも奨められる、香港映画の秀作だ。

 チンピラのヨンは絶対音感を持ち、街にあふれる喧しい音に我慢が出来ない。そんな彼が精神安定剤代わりにしているのが、ネットからダウンロードした未完成の女性ヴォーカル曲だ。ある日ヨンが根城にしている海上に浮かぶイカダの家に戻ると、麻袋に詰め込まれた若い女チーモクが転がっていた。



 彼女は売れっ子歌手の恋人で、兄貴分が身代金目当てに誘拐したのだった。ヨンは監視役を命じられ、何かと反抗するチーモクに手を焼くが、彼女が実はくだんのダウンロード楽曲の作者と知って驚く。そしてチーモクも、ヨンの意外な才能と魅力に気付いてゆく。

 何より素晴らしいのは、音楽の持つ力を可視化している点だ。ヨンが音楽を聴くと、周りの風景が一変して全てが彼自身の心象風景に早変わりする。圧巻は、上納金を取り立てるヤクザ連中とヨン達との立ち回りの場面で、カーラジオからモーツァルトの曲が流れると、殺伐とした暴力場面がミュージカルになってしまうシークエンスだ。一歩間違えればベタなお笑いに終わるところだが、絶妙なタイミングと振り付け(?)により、目を見張る高揚感を味わえる。



 音楽好きのチーモクが、拘束された中にあってもあらゆる手段を使って楽曲を完成させようとするくだりも、実に健気で微笑ましい。ヨンとチーモクとのスクリューボール・コメディ的な展開の一方、誘拐事件とそれを追う警察との駆け引きはスリリングだ。

 後半の、身代金をめぐるサスペンスフルな筋書きから、解放されたチーモクが音楽コンテストに出場するまでの段取り、そして圧倒的なクライマックスとそれに続く気の利いたエピローグに至るまで、監督フォン・チーチアンの手腕が存分に発揮されて一時たりとも目が離せない。

 主演のロナルド・チェンとチェリー・ナガンはどちらも決して美男美女ではないが、見事な演技だ。そしていずれも歌が上手い。劇中でチーモクが作るナンバーがこれまた良い曲で、観た後もしばらくは耳から離れない。クリッシー・チャウやフィリップ・キョン、アーロン・チョウといった脇の面子も万全だ。ぜひとも一般公開を望みたい。
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「影の内側」

2018-09-22 06:20:07 | 映画の感想(か行)

 (原題:SMALLER AND SMALLER CIRCLES )アジアフォーカス福岡国際映画祭2018出品作品。重量感のあるサスペンス編で、見応えがある。同じカトリック教会内のスキャンダルを扱った作品といえば、アカデミー賞を獲得したアメリカ映画「スポットライト 世紀のスクープ」(2015年)を思い出す向きも多いだろうが、本作はあの映画よりも数段インパクトは上だ。

 マニラのゴミ集積場で、十代前半と思しき少年の他殺体が次々と発見される。遺体の損壊は激しく、明らかに変質者の犯行だ。NBI(国家捜査局)に依頼され死体を検分した法医学者のサエンス神父は、事件が土曜日にしか発生していないことを突き止め、若手神父のルセーロと共に捜査を開始する。

 一方、サエンス神父は以前から地域の教区にはびこる不正を糾弾しており、それを快く思わない枢機卿とその取り巻きは、2人の神父及びそれに協力するジャーナリストのジョアンナに対して何かとケチを付けてくる。フィリピンの作家による同名ミステリー小説の映画化だ。

 上映後に本作のスタッフも言っていたが、神父がこの映画のように事件の捜査や検死までやることは無い。これは純然たるフィクションである。しかし、それに大して違和感を覚えないのは、この一件が宗教に密着した重大な問題を扱っているからだ。

 事を“穏便に”収めたい当局側は別に犯人をデッチ上げるが、神父2人はその偽装を見破る。そして犯人の動機がカトリックの内部に存在する病巣に起因していることを暴いていくが、それを追求していくのが当の聖職者であることが、作劇により一層の切迫感を付与させている。主人公達の造型が、ベテランと若手という刑事ドラマの常道であることも嬉しくなる。

 ラヤ・マーティンの演出は骨太で、全編緊張の糸が途切れることが無く、最後まで観客を引きずり回す。また、暗鬱な画面とジットリと湿った映像、神経を逆撫でする音楽が抜群の効果を上げている。主役のノニー・ブエンカミーノとシド・ルセーロは好演。ヒロイン役のカーラ・ハンフリーズも魅力的だ。なお、フィリピンの大規模なゴミ捨て場と、そこに集まるスカベンジャー達の現状については過去にもいくつかの映画で描かれているが、一向に事態は好転していないようだ。
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「仕立て屋 サイゴンを生きる」

2018-09-21 06:29:58 | 映画の感想(さ行)

 (英題:THE TAILOR)アジアフォーカス福岡国際映画祭2018出品作品。パッと見た感じは他愛の無いお手軽コメディで、一応ファンタジー仕立てにしてはあるが、どうにも薄く奥行きの無い映画としか思えない。しかし、中盤以降はそれなりに盛り上がり、けっこう満足して劇場を後に出来る。やはりこの映画祭には、本当に箸にも棒にもかからないシャシンは上映されないのだ。

 1969年のサイゴン。9代続いた由緒あるアオザイ専門の仕立て屋の娘ニュイは、欧米ファッションにしか興味を示さず、伝統を継承する母親の方針に反発している。そしていつの日か、自分の代でこの店をモダンなブティックとしてリニューアルすることを夢見ている。ある時、代々伝わった生地で作られたアオザイに戯れに袖を通してみたニュイは、突然現代のホーチミン市にタイムスリップしてしまう。

 彼女が現代で真っ先に遭遇したのは、首を吊ろうとしていた年老いた自分自身だった。あんなに繁盛していた店は潰れて荒れ果て、建物も人手に渡ろうとしている。何とか店を建て直そうとするニュイは、羽振りの良いファッション会社に潜り込んでノウハウを吸収しようとするが、時代のギャップがあって上手くいかない。

 アパレル業界を舞台にしているだけあって、前半はカラフルでポップな画面が目を引くが、撮り方が腰高で軽薄だ。その中にあって、ニュイの母親の厳格さだけが浮いているように見える。だが、舞台が現代になってくると、新旧のファッションの違いと衝突が前面に出てきて次第に興味を引く展開になっていく。

 思いがけずアオザイが再評価され、ニュイは製作を依頼されるが、母親の言うことを聞かなかった“新旧のニュイ”は両方とも仕立てる方法を知らない。そこで助け舟を出すのが、昔ニュイに疎んじられていた垢抜けない娘の成長した姿で、彼女はいつかアオザイがまた脚光を浴びる日を信じてその真髄を守ってきたのだ。さらに勤務しているファッション会社にもちゃんと仁義を通す展開にしているのは、観ていて気持ちが良い。

 チャン・ビュー・ロックとグエン・ケイによる演出は重みは無いが、大きな破綻は見られない。出演者も皆良い演技をしている。それにしても、ニュース画面で映し出されるベトナム戦争前のサイゴンの風景は実に都会的で洗練されている。それだけに彼の地が味わった辛酸を思わずにはいられない。
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「寝ても覚めても」

2018-09-17 06:31:27 | 映画の感想(な行)

 主演俳優のパフォーマンスが酷すぎる。東出昌大の大根ぶりは観る前から十分承知しているので、それなりの心の準備(?)が出来ていたが、ヒロイン役の新人・唐田えりかの演技はまさに壊滅的だ。

 彼女のセリフが棒読みであることは我慢するとしても、どんなシーンでも表情が全く変わらないのには参った。しかも身体のキレは皆無に近く、ぼーっと突っ立っている場面がかなり多い。ひょっとしたら“そういう演技指導”が成されているのかとも思ったが、彼女が出ているテレビCMでも同じ調子だし、これはそもそも(今のところは)実力が無いのだと思った次第。どういう経緯で起用されたのか、さっぱり分からない。

 大阪の美術館で、朝子は同い年の風変わりな青年・麦(ばく)と出会い、恋に落ちる。しばらくは楽しい日々が続いたが、ある時彼はフラリと出掛けたきり、帰って来なくなる。3年後、東京に移り住んだ朝子は、清酒会社に勤める亮平と出会う。彼は麦と瓜二つだった。しかし亮平の性格は麦とは正反対で、優しく真面目だ。戸惑う朝子だったが、やがて彼と付き合い始める。だが、亮平との結婚を意識した朝子の前に、突然麦が現れる。柴崎友香による同名小説(私は未読)の映画化だ。

 この映画は主役2人の仕事ぶりだけではなく、筋書きも褒められたものではない。冒頭の、朝子と麦との馴れ初めは不自然極まりなく、その後も自分勝手な態度を隠さない麦と懇ろになる朝子の内面を描くプロセスは不在。いつの間にか有名人になっている麦のことや共通の友人の消息を朝子が知らないのも噴飯物ながら、彼女が亮平を誘ってボランティアに打ち込む動機も示されない。

 朝子が麦と再会してからの展開に至っては、まさに(悪い意味での)驚天動地だ。もちろん“アクロバティックな話をデッチ上げてはいけない”という決まりは無く、それを観る者に納得させるだけの作劇の力と工夫があればオッケーなのだが、これが商業映画の監督デビュー作になる濱口竜介の腕前は、とても及第点には達していない。

 脇には瀬戸康史や山下リオ、伊藤沙莉、渡辺大知、仲本工事、田中美佐子といった“ちゃんと演技が出来る面々”が揃えられているが、東出&唐田との格差が強調されるばかりで、何とも言えない気分になってくる。なお、どういうわけか第71回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門の出品作である。なぜこの映画が“日本代表”に選ばれたのか不明だ。もっとマシな作品はあったはずだが。
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「プラハ」

2018-09-16 06:28:31 | 映画の感想(は行)
 (原題:PRAGUE)91年イギリス=フランス合作。一見単純な三角関係のドラマのようだが、登場人物の掘り下げの深さと舞台背景の魅力、そして丁寧な演出により、見応えのある佳編に仕上がっている。ストーリーも各モチーフの配置が効果的であるため、一筋縄ではいかない面白さを見せる。

 イギリスから単身プラハにやってきた青年アレキサンダーの目的は、亡くなった母と祖父が映る幻のニュース・フィルムを捜すことであった。彼は現地のフィルムセンターで、若い女エレナと館長のヨセフと知り合う。エレナは館長の愛人でもあった。アレキサンダーは母から聞いていたアパートをエレナと共に訪れ、件のフィルムの由来を話す。



 ナチの占領下で収容所に連行される前日、彼の祖父と当時6歳の母は、極寒の川に入って逃れようとした。フィルムにはその様子が映っているらしい。やがてアレキサンダーはエレナと仲良くなるが、突然彼女は“あなたの子供ができたからもう会わない”と言い放ち、フィルムを彼に手渡して去ってしまう。

 殊更ドラマティックな展開があるわけではないが、観ていて引き込まれるのは、各登場人物の孤独感が的確に描出されているからだ。アレキサンダーは母を亡くしたばかりで、本国には友人も頼れる者もいないようだ。エレナにも母親はおらず、思いがけず妊娠してしまった自らの将来が心配で、誰にも相談出来ない。ヨセフは老いを待つばかりで、若いエレナがアレキサンダーに惹かれていくのを見ても、自分では強く出ることはない。

 しかしこの3人の関係は、確執が表に出ることは無い。不幸な歴史が市民生活をズタズタにした後、それでも自分に欠けているものを求め合う、疑似家族といった様相を呈する。イアン・セラーの演出は派手さは無いが堅実で、各キャラクターが抱く哀歓を丁寧にすくい上げる。ラストは予想通りだが、希望を持たせた幕切れで鑑賞後の印象は良好だ。

 アラン・カミング、サンドリーヌ・ボネール、ブルーノ・ガンツの主役3人の仕事ぶりは確かなもので、特にボネールの持つ柔らかい感触は、観ていてホッとする。ジョナサン・ダヴによる静かな音楽。そしてダリウス・コンジのカメラが捉えたプラハの風景は素晴らしく魅力的で、夜風に吹かれて滑るように走る市街電車の描写など、悩ましいほどだ。
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「アントマン&ワスプ」

2018-09-15 06:36:20 | 映画の感想(あ行)

 (原題:ANT-MAN AND THE WASP)前作を観ていないことを勘案しても、散漫でまとまりのない印象を受けるのは否めない。これはひとえに、物語の核になるモチーフがしっかりと捉えられていないことに尽きる。確固とした方向性が見えていない活劇映画など、あまり面白いとは思えない。

 1987年、先代の“ワスプ”ことジャネット・ヴァン・ダインは核戦争を阻止するため限界まで身体を縮小し、超ミクロ領域に迷い込み行方不明になってしまう。夫のハンクは“アントマン”ことスコット・ラングが量子世界から帰還した事実を踏まえ、何とかジャネットを救おうと量子トンネルの研究を続ける。

 ハンクと2代目“ワスプ”であるホープは、装置の部品を闇市のディーラーであるソニー・バーチから買い上げようとするが、逆にバーチは研究結果の横取りを画策。さらに、物質をすり抜ける怪人“ゴースト”が介入し、ハンクの研究ラボを丸ごと頂戴しようと暴れ始める。一方、「シビル・ウォー キャプテン・アメリカ」での一件により自宅軟禁中のスコットは、何とかホープ達に加勢するため、あらゆる“汚い手”を使って監視するFBIの目を潜り抜けようとする。

 主人公達が相対する“敵”は、一応バーチとその組織及び“ゴースト”ということになるのだが、前者はどう見ても単なるチンピラ集団。さらに後者は行動規範がいま一つハッキリしない。いずれにしろ、どちらも絶対的で強大な悪玉ではないことは確かだ。これにジャネットを探すハンクの“冒険譚”が加わるが、そもそもどうして核ミサイルの中で消えたジャネットを違う場所から探すことができるのか不明である。

 作者は“これら3つのパートを平行して描くことにより、映画が相乗的に盛り上がっていく”とでも踏んだのだろうが、それぞれのドラマの密度が低いので、3本まとめても作劇に芯が通らない。

 ペイトン・リードの演出力は並であり、特筆されるものは見当たらない。目立つ箇所を強いて挙げれば、前半のバーチ一味と“ワスプ”の厨房でのバトルぐらいだ。ギャグも散りばめられているが、先日観た「デッドプール2」ほどの面白さは無し。

 主役のポール・ラッドとエヴァンジェリン・リリーは“そこそこの演技”に終始。マイケル・ダグラスやミシェル・ファイファー、ローレンス・フィッシュバーンといった脇のベテランに負けている。なお、ラストには本作と「アベンジャーズ インフィニティ・ウォー」との関連性が示されるが、観ていて“おおっ、そうだったのか!”と合点が行くほどのインパクトには欠ける。
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