元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「魔法にかけられて」

2008-03-31 06:34:20 | 映画の感想(ま行)

 (原題:Enchanted )まさにアイデアの勝利と言うべきか。これはセルフ・パロディの極北とも評価したいような出来映えだ。

 御伽の国の住人が悪い魔女によって現代のニューヨークに“追放”されるというメイン・プロットからしてシニカルだが、魔法の国の描写がアニメーションで“追放先”のニューヨークの場面は実写。しかも御伽の国のシーンは昨今隆盛のCGアニメではなく往年のディズニーの傑作群と同様である手書き風のフルアニメだというのが実にイヤラしい。

 そしてアニメーション部分では(一応)美少女キャラのヒロインが、舞台がニューヨークに移ると30歳前後の平凡なルックスの女性に変貌し、二枚目であるはずの王子がただの太平楽なニイちゃんとして描かれる。ただし頭の中身はアニメのキャラクターのまんまなので、ところ構わず歌い出したりするが、当然周りからは変質者扱いされる(爆)。

 彼らを迎えるニューヨーク側の人間もけっこう生臭い。ヒロインの面倒を見る弁護士はただでさえ日常業務で離婚訴訟の泥沼ぶりを目の当たりにしているのに加え、自身はカミさんに逃げられている。懇意になっている女性と再婚しようとするものの、6歳の娘は完全には納得してくれず苦しい立場だ。この状態で異世界からワケの分からん連中に押しかけられて悩みは深まるばかり。マンハッタンやセントラル・パークなどの名所も出てくるが、下町のゴミゴミとした治安の悪そうな箇所もリアルに紹介される。

 しかし本作のエラいところは、そんな身も蓋もない描写も含みつつ、最終的にはディズニー映画伝統のハッピー・エンディングな体裁を取ることに成功していることだ。これは脚本が良く練られていることを意味している。当初は御伽の国と現代社会とのギャップを取り上げながら、徐々に魔法世界の側にニューヨークを近づけて、お約束のディズニー・ワールドを形成させる、その段取りというかタイミングが実に上手いのである(脚本担当:ビル・ケリー)。

 ケヴィン・リマの演出は実にスムーズで、コメディ部分やアクション場面など盛りだくさんな素材を手際良くこなしている。お馴染みのミュージカル・シーンは素晴らしく、セントラル・パークでの賑々しいレビューや、男所帯で汚れ放題の弁護士宅をヒロインが“お友達”を大量動員させ、歌に合わせて掃除する場面など感涙ものだ(笑)。

 ヒロイン役のエイミー・アダムスをはじめ、パトリック・デンプシー、ティモシー・スポール、そしてスーザン・サランドンと、揃った役者達は皆持ち味を発揮しての仕事ぶり。アラン・メンケン&スティーヴン・シュワルツによる楽曲も言うことなし。

 一種の自虐ネタを後ろ向きにならずに堂々たる娯楽作に仕上げた本作の前では、微温的なパロディでディズニーの向こうを張ったつもりでいた「シュレック」の製作元・ドリームワークスなんぞは完全に顔色を無くすであろう。
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ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア「愛はさだめ、さだめは死」

2008-03-30 21:35:47 | 読書感想文
 ヒューゴー賞やネビュラ賞の受賞作を含めたSF短編集。まず驚くべきはその文体だ。

 翻訳本でも十分伝わるブッ飛んだサイバーパンクな語り口は、読んでいて目眩を起こしてしまう。題材も異星生物の奇態なライフサイクルを独自の視点で描いた表題作をはじめ、多岐にわたっており飽きさせない。

 圧巻はコンピューターで他人の肉体とつながれた女の悲惨な運命を描いた「接続された女」で、壮絶な描写の連続とシニカルな結末は忘れがたい。

 彼女の小説自体はSFファンの間ではポピュラーであるが、同じSFといってもフィリップ・K・ディックなどの諸作とは違って映像化は至難の業だと思われる。もしもチャレンジする作家がいたら敬意を払いたい。

 なお、作者は名前こそ男性だが実は女性である。しかも波瀾万丈の人生を送り、悲劇的な最期も遂げている。そのへんを考え合わせると感慨深い。まさに異形の作品と言える。
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「ノーカントリー」

2008-03-22 06:47:07 | 映画の感想(な行)

 (原題:NO COUNTRY FOR OLD MEN)たぶんコーエン兄弟の代表作となるであろう。雑誌などに“終盤が肩透かしである(だからつまらん)”なんてことを書いている批評家がいるが、いったいどこを観ているのかと言いたい。あの拍子抜けに思えるラスト近くこそが、作者が最も強調したかったことなのだ。

 80年代初頭のテキサスを舞台に、大金を横取りしようとするベトナム帰還兵(ジョシュ・ブローリン)と、それを追う狂的な殺し屋と、ロートルの保安官(トミー・リー・ジョーンズ)との息をもつかせぬチェイスが展開する。とにかくハビエル・バルデム扮する殺人マシンのようなヒットマンの造型と振る舞いが凄い。

 挨拶代わりに手錠をしたまま保安官補を絞殺するシーンでは、カメラは相手が息絶えるまでの長い間その惨劇を凝視し続けるが、何より殺し屋の喜悦の表情と、その後の悶絶する犠牲者が残した床の傷および手錠が食い込んだ手首の擦り傷とを強調する御丁寧さ。それを皮切りに、コイツの行くところ死体の山となる。

 対する“金横取り男”も、しがない田舎暮らしの平凡な人間に見えて、ベトナム戦で培った抜群の危機管理能力で幾度か窮地を突破。軍隊あがりだけに射撃の腕も確かで、殺し屋にダメージを与えたりもする。

 しかし、それだけならばテンションは異様に高くても“単なるサスペンスフルな追跡劇”でしかない。本作の一筋縄ではいかないところは、真の主人公はハデな立ち回りを演じる前述の二人ではなく、一見影が薄く思える初老の保安官である点だ。正確に言うと、彼を取り巻く状況の“変化”こそがこの映画のポイントである。

 父親の跡を継いで若くして保安官になり、長年いろんな事件を扱ってきたが、最近の犯罪は理解できないとボヤく。折しも80年代に入りベトナム戦争の悪夢は払拭されたように見えて、その影響はアメリカ国民に重い澱のようにのしかかり、社会の歪みが深刻になってきた時期だ。常軌を逸した二人のやり合いは、終盤近くで当事者達があずかり知らぬ経緯で唐突に幕が下りる。

 個人的な怨恨や損得勘定を超えた不気味な“ある勢力”がドライに事件を片付けてしまうような、苦々しさが広がる。その理不尽さを見せつけられ、古い人間(←古いアメリカの象徴か)である保安官はただ立ちつくすしかない。未決着部分を残しつつも無常観漂う空間の中を去ってゆく登場人物達に、ますます不透明感を増すアメリカ社会そして国際情勢の象徴を見出すことが出来れば、本作の深さも少しは認識できよう。

 テキサスの荒涼とした風景を捉えたロジャー・ディーキンスのカメラ、必要最小限で抜群の効果をもたらすカーター・バーウェルの音楽も素晴らしい。
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アナログ・カートリッジの新製品を試聴した。

2008-03-21 06:38:27 | プア・オーディオへの招待
 先日、市内某家電量販店でメーカーのスタッフを招いてのオーディオ機器の展示会がおこなわれていたので、ちょっと覗いてみた。時間の関係でオーディオ・テクニカ社によるレクチャーしか聞けなかったが、それでもなかなか興味深かった。同社はオーディオアクセサリーの供給元としては国内最大手だが、広く家電店でも扱われているケーブル関係は私はまったく信用していない。何しろ繋げると硬くて薄っぺらい音になる。ただし、同社の製品で二つだけは評価している。それは(以前にも書いたけど)ヘッドフォン、そして展示会でデモしていたアナログ・カートリッジである。

 カートリッジというのは平たく言えばレコード針のことだ。正確には針そのものではなく、レコードから針で拾った情報を電気信号に変えてアンプに送り込む発電機のようなユニット部分をも総称する。形式には起電力の出力用に永久磁石を用いるMM型(メーカーによってVM型、MI型など呼ばれることもある)と、コイルを使用したMC型とに大別される。それぞれの使い勝手としては・・・・と、いろいろ書いてくるとキリがないので省略するが(爆)、とにかくカートリッジはオーディオシステムの“音の入り口”であり、もちろん機種ごとに音が違う。昔は一人で数種類のカートリッジを揃えてサウンドの変化を楽しんでいるオーディオファンもたくさんいたものだ。



 で、オーディオ・テクニカ社のデモは同社の新製品であるモノラル専用カートリッジAT33MONOおよび既成のステレオ用カートリッジを紹介していたが、久々に聴くアナログの音に深く感じ入った。もちろん私もアナログプレーヤーは所有しているが、実家(同じ県内)のメイン・システム用であり、月に2,3度しか聴けない。そして何より新規に発売されたカートリッジの音に触れられたのは、実に楽しいことだった。

 使われたソフトは50年代のジャズ、そしてビートルズなどのポップスだった。針音やレコードのキズによるノイズはあるが、音楽の持つ熱気というか、有機的なサウンド展開を表現するには、まだまだアナログの出番はなくなってはいないと実感した。何しろ80年代においてCDに音楽ソフトの主役の座を明け渡してから、早晩消えてしまうと思われたアナログレコードは、今でも生き残っているのだ。それだけ抗いがたい魅力があるのである。

 このブログでは(映画の感想文の合間に)購入したCDのレビューを時々書いているが、機会があれば、いずれ自前のアナログレコードの中の面白いディスクも紹介したいと思う。
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「やわらかい手」

2008-03-20 07:03:05 | 映画の感想(や行)

 (原題:IRINA PALM)実にまとまりの良い佳編である。ロンドンの下町に住む平凡な老女が難病に苦しむ孫のために、何と性風俗店で“手コキ”の職を得て、しかも売れっ子になり、その“天職”を得た本人も人生に改めて向き合うことになるという、ある意味出来過ぎの話を映像化するにあたって最も注意すべきは、余計な描写を入れないことだ。

 要するにボロの出ないうちにサッと切り上げる、それが大事である。その意味で本作の上映時間が1時間43分というのは及第点。これがアメリカ映画ならば、ヒロインの過去の回想場面とか、アクの強い脇のキャストによる“個人芸”などで2時間あまりに水増しされているところだ(笑)。

 正直言って、このドラマを観て“人生、いくつになっても自分の役割はある”と本気で思うわけにはいかない。現実は厳しく、老いたる者にとっては確実に居場所が狭くなってくる。だが、少なくとも映画を観ている間だけは希望を持たせたポジティヴな感覚を味あわせることが、カツドウ屋としての使命だろう。そのためにはキャスティングには絶対に手を抜けない。そこにいるだけで、ヒロインのような生き方を実体化させてしまうような素材が必要だ。

 その意味でマリアンヌ・フェイスフルの起用は大成功だった。一見して地味で太めで垢抜けない容貌だが、性根の座った眼差しと、目的のためならばどんなことでも厭わない不貞不貞しさ、そしてその裏に何ともいえぬ色香と愛嬌が漂う。さすが若い頃のミック・ジャガーとの浮き名をはじめ波瀾万丈の人生を送った彼女ならではの貫禄だ。

 監督のサム・ガルバルスキは適度なユーモアを挿入して人物像を広げることにも抜かりはない。店の“仕事部屋”に小物を持ち込んで所帯じみた“自分のテリトリー”にしてしまう大らかさや、テニス・エルボーならぬペ○ス・エルボーで仕事のヴォルテージが落ちたことを根性で克服するあたりは、実に微笑ましく天晴れだ。ラストも予定調和ながら気持ちが良い。クリストフ・ボーカルヌのカメラにより寒色系をメインに捉えられたロンドン・ソーホー地区の風景、ギンズのストイックな音楽が作品を盛り上げる。

 余談だが、ヒロインの友人を演じたジェニー・アガターも若い頃には可愛くセクシーだったが、すっかり年を取ってしまっているのには年月の流れを実感せずにはいられない。ただし、本作では開き直ったようなオバサンぶりを発揮しているのも、M・フェイスフルとは別の意味で感心した。
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「父の祈りを」

2008-03-19 06:34:26 | 映画の感想(た行)
 (原題:In the Name of The Father)93年作品。先のアカデミー賞で主演男優賞を獲得したダニエル・デイ=ルイスの代表作。1974年、北アイルランド。たび重なるIRAのテロに対抗して、当局側は容疑者を一方的に拘束できる法的非常措置を取った。折からの爆破事件の容疑で逮捕されたのは、街のしがないアンチャンであるジェリー(デイ=ルイス)とその仲間たち。ところが彼には全く身に覚えがない。ほとんどリンチに近い取調べの後、ヤケになった容疑者の一人は、共犯者としてジェリーはもちろん彼の父親や親戚の名前を挙げてしまう。そして裁判。物的証拠は無いに等しく、アリバイを証明する人物を見つけられないまま、状況証拠だけで有罪となる。ジェリーと父親は終身刑で同じ刑務所に投獄される。

 ジェリー・コンロンの自伝を基に、「マイ・レフトフット」(90年)でもデイ=ルイスと組んだジム・シェリダンが監督にあたっているが、骨太な社会ドラマの担い手としての彼の手腕は今回も十分発揮されている。冒頭のベルファストの暴動騒ぎをスリリングなタッチで描いたと思うと、主人公たちが逮捕されてあっという間に不利な立場に追い込まれていく過程を容赦ない筆致でたたみかけてくる。何よりも無実の人間が犯罪人としてデッチ上げられることの恐ろしさには身も凍る思いだ。それが当局側の都合によるデタラメであることが判明する後半には、怒りで目がくらむ。そして対テロリストという大義名分のもとに、罪のない者を次々摘発してしまうという、集団的ヒステリー状態に陥る人間の恐さと弱さをも糾弾する。

 しかし、この映画の良さはそんな社会的正義を前面に押し出すだけではない。父と子の愛情という、普遍的な人間ドラマが底流を成しており、それが作品に奥行きを与えている。刑務所で父親ジュゼッペと同室となるジェリーは、長年どこか打ち解けない父との関係をひとつひとつ修復していく。父親を演じるピート・ポスルスウェイトの素晴らしいこと! 頑固一徹で息子に向かってなかなか心を開かない、でも一番息子を愛している。自暴自棄になりそうな息子とは対照的に、こつこつと再審のため市民団体に手紙を書く生真面目さ。見事なアイルランド訛りと共に、理想の父親像を表現している。デイ=ルイスも相変わらず達者な演技。

 後半になって出てくるエマ・トンプソンの弁護士の存在感もなかなかだが、それから映画は“法廷もの”としてのスリリングな要素も含んで一気に盛り上がる。そしてラストシーンには目頭が熱くなった。人間の尊厳の偉大さ、それを守ろうとする主人公たちの捨て身の努力が画面を横溢し、力強く躍動する瞬間である。

 寒色系を生かしたピーター・ビジウのカメラも印象的だが、トレヴァー・ジョーンズの音楽、そしてラストに流れるシンニード・オコナーによるエンディング・テーマが美しさの限りだ。その年のベルリン国際映画祭グランプリ受賞。必見の秀作である。
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「宇能鴻一郎の濡れて打つ」

2008-03-18 06:43:44 | 映画の感想(あ行)
 84年にっかつ作品。ロマンポルノの一作として撮られた映画だが、注目すべきは監督。「DEATH NOTE」などでお馴染みの金子修介の、これがデビュー作である。

 宇野鴻一郎の小説といえば例の「あたし・・・・しちゃったんです」というようなパープーなセリフまわしに代表されるようにリアルな設定にもかかわらず内容の軽さと非現実的な展開が特長であるが、これを映画にしてしまうと、ストーリーのはっきりしないメチャクチャな物語になることが多かった(といってもそんなに観ているわけじゃないよ ^^;)。ところがこの作品ではそのへんをうまくクリアしている。なんと、現実的な設定を完全に無視しちゃってるのだ。

 舞台はある高校のテニス部。ここに所属する女子学生(山本奈津子)の「青春」を描いてるんだけど・・・・実は往年の有名コミック「エースをねらえ!」の完全なパロディなのだ。登場人物もほぼ一緒で(私は元ネタについてはよく知らないけど、そうらしい)、ストーリーもおんなじで、ただ違うのは全員エッチで何かにつけてはからみの場面が挿入されること。「スポーツ、恋、友情」といった青春ドラマのテーマを徹底的に笑い飛ばす。青春学園ドラマのくっさ~い主題歌を流したり、「夕陽に向かって誓う」というおなじみの場面を恥ずかしげもなく映したり、完全にやりたい放題ふざけまくっている。

 しかし、不思議とメチャクチャな映画にならず、全編笑わせて楽しませてくれるのはこの監督の(映画を漫画に変えてしまうという)力量だろう。ヒロインがメガネをはずしたら意外にハンサムな同級生(いかにも少女漫画のパターン!)と最後は仲良くなり、めでたしめでたしで終わるかと思ったら、突然窓からスケベなテニスのコーチが飛び込んできて、「オレも仲間にいれろぉぉぉぉ!」と襲いかかる。このオチには大爆笑だ。

 主演の山本は、間違いなく80年代を代表する名女優だったが、ロマンポルノの終焉と共に一線を引退してしまったのが実に惜しい。金子監督の近作「神の左手 悪魔の右手」に顔を出しているというが、残念ながら私は未見である。
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「バンテージ・ポイント」

2008-03-17 06:39:14 | 映画の感想(は行)

 (原題:Vantage Point )通俗的な活劇編ながら、最近のアメリカ映画らしく時事ネタもしっかりカバーしている点が好印象だ。アメリカ大統領がテロ対策条約調印のために訪れたスペインで、民衆を前にしての演説の最中に狙撃される。その後まもなく大爆発も起こり、事件を解決すべく手練れのシークレットサービスの奮戦が始まるが、注目すべきはその前段だ。

 演説会に集まった聴衆は必ずしも全員が大統領のシンパではなく、昨今のアメリカの振る舞いに批判的な連中も集まっている。しかもデモ群集のプラカードに、アメリカの対テロの軍事行動がドルの価値をキープするための単なる“経済戦略”であることを臭わせるメッセージも明記してあるようだ。さらに現場中継を担当する女性キャスターも米国側の責任を追及するコメントを(アドリブで)残すに及んで、脳天気なアクション編とは一線を画そうとする作者の気負いがありありと伝わってくる。

 映画ではこの事件をその場に居合わせた8人の視点による8編の緊張感溢れるエピソードが繰り返される。言うまでもなく黒澤明監督が「羅生門」で使った手法を採用しているが、あの映画では関係者の証言が重なるたびに事件は混迷の度を深めていったのに対し、本作はエピソードの積み重ねが一つの真実に到達するように構成されている。

 しかもそれは平易な娯楽編のルーティンを維持するためのメソッドではなく、さらなる問題の本質に迫ろうという意図をもフォローしている。それは、アメリカ大統領といえども最高権力者ではなく、ある勢力によって据えられた“飾り物”に過ぎないという、身も蓋もない事実である。

 その“勢力”とはグローバリズムに名を借りた経済的覇権システムであるのは想像できるが、それらの息が掛かった取り巻き連中が堂々と大統領を恫喝しようとするシークエンスこそが、この映画のハイライトではないかと思う。また8つのエピソードはそれに結実すべく用意された“伏線”であると言っても良い。

 サスペンス・アクションの一編ながらこういうテイストが挿入されるのは、アメリカの観客にとってそのことが“普通”になっていることの証であろう。冒頭で“時事ネタへの言及は好感が持てる”と書いたが、今や時事問題抜きには娯楽映画も語れない切迫した(≒面白い)状況がアメリカにはあるのだろう。

 ピート・トラヴィスの演出は快調で、畳み掛けるような展開でも息切れを見せない。デニス・クエイドやフォレスト・ウィッテカー、シガーニー・ウィーヴァー、ウィリアム・ハートなどキャストは多彩な顔ぶれだが、主題の大きさと精密な脚本に押されてイマイチ印象が薄いのは仕方がないか。ともあれ、観て損のない快作だ。
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「ヒーロー・ネバー・ダイ」

2008-03-16 07:36:33 | 映画の感想(は行)
 (原題:眞心英雄 A HERO NEVER DIES)98年作品。香港の暗黒街を支配する二大組織、権謀術数が得意なペイ一家の腕利きの用心棒ジャック(レオン・ライ)と、残虐なチョイが率いるファミリーに属する殺し屋チャウ(ラウ・チンワン)が主人公。

 二人は互いのボスを狙っていたが、いつの間にかそれぞれのボスは講和条約を結び、用がなくなった二人は抹殺の危機に陥る・・・・といった、ストーリー自体は手垢にまみれたものであることは否めない。当初はライバル関係にある二人が、構想の最中に互いの実力を“プロ同士”として認め合っている様子も、まあ型どおりである。

 事実、三流活劇然としたオープニングから酒場での日活アクション風のクサいやり取りまで、何かヒドイものを見せられそうな感じがしてビビッてしまった私である(笑)。

 しかし、負傷した主人公二人とそれぞれの恋人との関係が物語の中心になるあたりから俄然引き込まれる。身を張って献身的に尽くす女たちの姿を丹念に描くことによって、終盤の銃撃戦に悲愴感が加味された(特に“この夕焼けをいつまでも見ていたい”という女のセリフには泣けた)。

 痛切なクライマックスと幕切れの手際の良さに感心しつつ、それでも序盤のチープな部分との落差には妙な感じを抱いた。これがこの監督(ジョニー・トゥ)の資質なのだろうか。レオン・ライ好調。粗い手触りの映像を演出した撮影監督チェン・シュウキョンのカメラワークが光る。挿入歌「上を向いて歩こう」も効果を上げている。
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「4ヶ月、3週と2日」

2008-03-15 06:44:03 | 映画の感想(英数)

 (原題:4 luni, 3 saptamani si 2 zile )賞を取ったからといって良い映画とは限らないということを、如実に示す一作である。87年のルーマニア。望まない妊娠をしたルームメイトのために中絶手術を手配しようと奔走する女子大生(アナマリア・マリンカ)のヘヴィな一日を追うこの映画、一番の問題はヒロインの動機付けがまったく描かれていないことだ。

 いくら同室の友人のためとはいえ、恋人から借金するのをはじめ、体調がすぐれない本人の代わりにモグリの医者と折衝し、果ては代金のかわりに身体まで医者に提供してしまう彼女の、そこまでする理由がまるで見えない。しかも、ルームメイトの方はいかにも頭が悪そうでドン臭く、人当たりも良いようには思えない。そんな者のために身体を張る必要がどこにあるのか。

 まず考えられるのは二人がレズ関係だったということだが、映画にはそういう暗示も明示もない。ルーマニアには“同室の者を何としてでも助けねばならない”といった道徳律があるという話も聞いたことがないし、何か別のイデオロギーでも介在しているのかとも思ったが、そうでもないようだ。まさか“国家に対して自由を求めて団結する国民”のメタファーとして機能させようとしているんじゃないだろうな(だとすれば、底が浅すぎる)。要するに“手抜き”ってことだろう。

 その代わりと言っては何だが、技巧的には凝ったところを見せる。全編にわたってワンシーンワンカットが機能し、なおかつ手持ちカメラを多用しているため、臨場感がある。音声のとり方も細心の注意が払われ、的確な方向から音像が飛んでくるあたりは感心した。また、暗鬱なカラーを基調とした画面が登場人物の行き場のない切迫感を表現している。

 しかし、それだけではダメなのだ。技巧のための技巧に終始し、何もドラマに奥行きを与えていない。ハッキリ言ってしまえば、この映画の作者(監督・脚本は今作が長編第2作目となるクリスティアン・ムンジウ)は、映像テクニックさえあれば主題などは後から付いてくると思っているフシがある。

 昔、長回しの名手だった相米慎二監督がヒット作を連発していた頃、彼のマネをして何の知恵も知識もなく漫然とワンシーンワンカット技法を垂れ流していた輩が散見されたが、本作の演出家にはそいつらと通じるものがあるように感じる。ラストの“気取りっぷり”など、観ていて恥ずかしくなるほどだ。

 本作がカンヌ映画祭で大賞を獲得したのは、おそらく革命前夜における社会主義の末期的状況を当のルーマニアの作家が描き出したためだろう。中絶が犯罪とされ、物資は手に入らず、街には野犬がウロウロ。特にホテルのフロントのヒロインに対する高圧的な対応は、この時代の暗部の象徴かもしれない。けれども、そんな“状況説明”のみでは何ら感銘は受けないのも確か。もっとドラマツルギーを勉強しろと言いたくなった。
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