元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「無能の人」

2008-05-31 07:04:44 | 映画の感想(ま行)

 91年作品。竹中直人の商業用映画監督デビュー作で、かつては漫画家として有名だったが、今は多摩川の河原で石を売る主人公助川助三とその家族を描く。つげ義春の同名コミックの映画化。

 竹中の演出は第一作とは思えないほど手慣れている。助川一家とそれをとりまくユニークな登場人物を、抑えたタッチで淡々と描き、題材の非日常性をキワ物一歩手前で普遍性のあるドラマとして構築している。そして絶妙のキャスティング。主役の竹中はじめ妻を演じる風吹ジュンや愛石狂会会長のマルセ太郎、その弟子の神戸浩など、派手さはないが納得のいく演技が印象的。学生時代は8ミリ作品を多数手掛けていたという竹中の手際の良さは認めてもいいと思う。

 しかし、私は映画の出来としては不満である。それは“無能”であるということの意味をつっこんで描き切れていないからだ。

 河原で石を売るという、まったく誰のためにもならない商売は、無能な人間の無用のこだわりをつきつめたような、無駄な行為だ。バカなくせにプライドだけは高い無能な人間のやりそうなことだ。竹中直人が憧れる加山雄三演じる若大将みたいな明るく健康的な生活を夢見ながら、絶対そうはなれない無能人間の屈折。頭の悪さを自覚しながらそれをどうしようも出来ないみっともない自分。誰からも相手にされない自分。そういう人間は身近なものは目に入らず、抽象的でどこか遠くに絶対的なものを追い求めるだろう。“無能”と“孤独”は近い位置にある。

 ところが、この主人公は結局は家族の愛に安らぎを求めてしまう。それ以前に彼には理解のある妻や子供に恵まれているではないか。ラスト、家族3人で去っていくシーンには孤独感はない。話のわかる家族を持つことのできた彼は全然“無能”ではない。

 無用なこだわりの果ての何か(それがいいものであろうと悪いものであろうと)を映像の中に結晶させてほしかった。実は無能ではなかった主人公を見送る観客としては、取り残されたような感想を抱くしかない。
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「丘を越えて」

2008-05-30 06:30:01 | 映画の感想(あ行)

 西田敏行の一人舞台のような映画である。大正時代から昭和初期にかけて活躍した小説家の菊池寛に扮しているのだが、一筋縄ではいかない人物だったとはいえ「父帰る」や「恩讐の彼方に」を著した作家センセイらしいところは微塵もない。情にはもろいが軽佻浮薄で厚かましく、印象はまるで「釣りバカ日誌」シリーズのハマちゃんだ。

 どうして彼を主演に据えたのか分からないが、基本的に何をやってもこういう雰囲気の人物しか表現できない俳優なので、キャスティングの段階で良くも悪くも映画の“限界”は見えていたと思う。西田のキャラクターを許せればそこそこ満足は出来るだろうが、映画全体の出来としては彼のオーバーアクトに引きずられて要領を得ない結果に終わっている。

 原作は猪瀬直樹の「こころの王国」で、私は未読ながらおそらくは菊池寛の文化人としての人物像を猪瀬なりに解釈してゆく内容であると想像するが、映画では突っ込んだ描写は見られない。わずかに主人公と猪瀬自身が演じる直木三十五との対談シーンに菊池寛の作家としてのスタンスが窺われるのみだ。もちろん文藝春秋社を立ち上げた経緯や、ギャンブルに入れあげたり映画界でも存在感を示した菊池という男の大きさにも言及することはない。

 映画は菊池の私設秘書である若い女の目を通して展開されるが、そうすることによって別に面白い趣向が用意されているわけでもない。クライマックスになるべき彼女と朝鮮人である文藝春秋社の従業員との恋愛沙汰も、さほど盛り上がらない。朝鮮が日本に併合された事実について、日本に一方的な責任があるわけではなく、容易に外国の干渉を受けるようになってしまったのは、朝鮮の特権階級であった両班(ヤンパン)の無軌道ぶりが原因だとする主張(ほとんど真実)が朝鮮人である彼の口から語られるあたりが目新しいぐらいだ。

 ただし、それでもこの映画が観る価値のあるのは、昭和5~6年の東京の風景や風俗を見事に映像化している点に尽きる。これらのモダンな意匠は戦争によって焼失し、今ではほとんど残っていない。もちろん、本作で描かれたものが時代考証面で正確かと問われれば無条件で肯定は出来ないだろう。しかし、観る者に“おそらくこの頃はこんな具合だったのだろう”と思わせる映像の求心力がある。

 特に感心したのは衣装デザインだ。朝鮮人スタッフ役の西島秀俊の着ているスーツもレトロでカッコ良いが、ヒロイン役の池脇千鶴が身につける洋服のセンスの良さには脱帽した。素晴らしくよく似合っていて、この女優の愛らしさを再確認できる。このハマりぶりは近年では「下妻物語」でロリータファッションに身を包んだ深田恭子と双璧だろう(笑)。

 高橋伴明の演出は無難な展開に終始して面白みがない。なんとラストはミュージカルになっていてなかなか楽しませるのだが、そこに至る伏線も暗示もなく、そもそもタイトル曲の「丘を越えて」自体がドラマの中で活かされるいるとは言い難く、釈然としない結果になってしまった。
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「おいしい結婚」

2008-05-29 06:37:05 | 映画の感想(あ行)
 91年東宝作品。森田芳光というのは「家族ゲーム」や「(ハル)」という傑作はあるものの、全体として“ちょっと変わった作風を持つだけの監督”に過ぎないのだが、けっこうコンスタントに仕事が舞い込んで来るというのはいったいどういうわけだ。興行に関しても森田の映画は大ヒット作はないというのに・・・・。思うに、これは彼の人脈の広さと、何となく“いま風の演出家”と思わせる自己宣伝のうまさ(つまりは世渡りのうまさ)に起因しているのではないか。もちろんその陰で才能はあるのに映画を撮らせてもらえないベテランや若手が大勢いるわけだが、こんなことが許されている日本の映画界はまったくおめでたいところである。

 さて、珍しく35ミリ・スタンダードサイズで撮られた本作は、三田佳子と斉藤由貴の母娘が“結婚”をめぐって対立(というほどのものでもないが)するドラマである。美人の未亡人と彼女にいまだ恋心を抱く亡き夫の3人の友人、嫁ぐ娘とそれを見守る母親、という構成を見て明らかなように、これは小津安二郎監督の「秋日和」(昭和35年作)から設定をそっくりいただいている。しかし、当然というべきか、人間の孤独に厳しく迫った小津作品の深みとは比べるのも恥ずかしい出来だ。

 要するにこれは、“男性結婚受難時代(実際は少し違うと思うのだが)におけるウマ味のある結婚とは何か”といった三流女性週刊誌が喜びそうなネタを“天才・森田”が東京都内のおしゃれなデート・スポットを紹介しながら軽薄にフィルムを垂れ流すトレンディ・ドラマなのである。こんなものはテレビでいくらでもやっており、カネを取って劇場でやるもんじゃない(ま、結婚を前にした若いカップルのための冠婚葬祭入門にはなるかもしれないが)。加えて三田佳子のクサイ台詞廻しと斉藤由貴のワンパターン演技。実にくだらない映画である。

 “適齢期のアナタ!おいしい結婚をするんだったらこの映画は要チェックよ”というのがこの作品の公開当時の宣伝文句だが、“別にチェックしなくてもおいしい結婚する奴はちゃんとします。少なくとも不愉快な思いはしなくてすみます”と言い替えたくなってくる(-_-;)。
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「ミスト」

2008-05-28 06:32:20 | 映画の感想(ま行)

 (原題:THE MIST)フランク・ダラボン監督の“鬼畜系”たる本性が全面開花した怪作。「ショーシャンクの空に」や「グリーンマイル」を観て、彼を“ハートウォーミングなヒューマンドラマの作り手”だと思っていた観客は目を剥いて驚くだろう。

 前述の2作と同様、原作はスティーヴン・キングの著作だが、今回のネタはキングの真骨頂であるホラーものだ。舞台はキング作品ではお馴染みのメイン州の田舎町。嵐の後に地元のスーパーマーケットに買い出しに来ていた住民らが突如現れた濃い霧の中に閉じこめられてしまう。しかも、霧の中には怪しいモンスターが潜んでおり、犠牲者が続出する。

 一部の批評では“本作で一番恐ろしいのは霧の中の怪物どもではなく、極限状態に置かれた人間たちの醜態だ”ということが指摘されているが、個人的にはそれは予想通りで意外性もなければインパクトも受けなかった。“これは世界の終末だ。神の怒りだ。生け贄が必要だ!”とわめくキリスト教の狂信者のオバサン(マーシャ・ゲイ・ハーデン)が出てくるが、キング作品では珍しくもない。切羽詰まっていつの間にやら彼女のトンデモ説に迎合してしまう者が次々と出てくるくだりも、ありがちな展開だと思った。

 それよりも本作が凄いのは、原作とも違う“究極の暗転”たるラストに繋がる脚本の持って行き方である。幼い息子を守ろうとする主人公(トーマス・ジェーン)、そして何とか現状を打破しようとする登場人物達の、その一挙手一投足がすべてマイナス方向に振られるという徹底ぶり。小さな伏線が寄り集まって大きな惨劇のトリガーになってゆくという、悪意に充ち満ちた精妙ぶりを見せるプロットはある意味圧巻だ。まるで70年代に流行ったパニック映画のルーティンを、すべて裏返してゆくようなエゲツなさがある。ローランド・エメリッヒ監督が「デイ・アフター・トゥモロー」でこれと似たようなモチーフを取り入れたことがあったが、凶悪さと開き直り加減では本作の方がはるかに上だ。

 グロ度は原作を大きく凌駕。各クリーチャーの気色悪さもこの手の映画では上位入賞間違いなしである。感動ものと見間違うようなポスターと惹句に騙されてうっかり劇場に入ってしまったカタギの観客の皆さんはお気の毒としか言いようがない(爆)。そういえば途中退場する客も目立った。

 外道なストーリーを嬉々として演出しまくるダラボンには、ぜひともキング作品の本流(ホラー系)をどんどん映画化して欲しい。ちなみに「ニードフル・シングス」あたりを手掛けたら、邪悪な秀作に仕上がるだろう(^^)。
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「三たびの海峡」

2008-05-27 06:41:36 | 映画の感想(ま行)
 95年松竹作品。韓国で実業家として成功した河時根(三國連太郎)は50年ぶりに日本の土を踏む。戦争末期に朝鮮から動員され、筑豊の炭坑で死んだ同胞の墓参りと、当時彼らを虐待した会社社長(隆大介)に会うためだ。河の脳裏に戦時中の辛い体験がよみがえる。帚木蓬生の原作を神山征二郎が映画化。当時、戦後50年を記念して作られた一本である。

 ラストシーンを観て、あっけにとられてしまった。河と当時の社長が“対決”するのであるが、この展開が唐突に過ぎ、それまでの神山らしい演出タッチはいったい何だったのだと頭を抱えてしまった。

 このラストを用意するならば、根本的にドラマを作り直さねばなるまい。たとえば、主人公・河は夜ごとの悪夢に悩まされていて、どうやらそれは自ら封じ込めた戦時中の忌まわしい記憶が歳を取って再び表に出てきたらしい・・・・というような前振りをしておいて、日常生活にまで悪夢の影響が出始めて河はたまらず日本へ渡り、真相の鍵を握る当時の社長に会おうとするが、正体不明の妨害工作に遭う。周囲に思わせぶりな人物(その筋の人間や、ナゾの美女とか)を配置することも忘れない。大仰なカメラワークと凝った編集でサスペンスを煽りたてれば、けっこう面白そうな歴史ミステリーにはなるかもしれない(おい、そりゃブライアン・デ・パルマの世界だ ^^;)。

 それはさしおいて、日本映画ってのはこの時代を描くときどうしてこう及び腰になるのだろうか。“当時はこういうこともありました。こんな苦労をしました”という事実を教科書通りに追っているだけではないか。朝鮮人への差別やら主人公と結婚したために朝鮮人から白い目で見られる日本人女性(南野陽子)の苦労やら会社社長の腹黒さやら、すべてが図式的、事実の羅列でしかない。そんな“事実”はわかっているのだ。もっと突っ込んだ“真実”や、歴史に翻弄されて血の涙を流す人間像や、アッと驚く娯楽性を見せてくれなきゃ、いったい何の映画化だ。

 これは「きけ、わだつみの声」(95年)と同じだ。つまり、どこからもクレームが付かないように問題点をそぎ落としていったら、毒にも薬にもならない教条主義的なシャシンになってしまったと、そういうことだ。だいたい舞台になる筑豊の町を“長陽市”なんて架空の地名付けてることからナサケないぞ。なぜに“直方市”という本当の地名を示さないのか。

 神山征二郎のように良くも悪くも“良心的な”映画作りしか出来ない人より、ここは底意地の悪い確信犯的人材を持ってきた方がよかった。いずれにしても、邦画大手の「戦後」に対する認識ってのはこの程度である。
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「ハンティング・パーティ」

2008-05-26 06:38:29 | 映画の感想(は行)

 (原題:THE HUNTING PARTY )チベット問題に関して反・中国のスタンスを取るなどポリティカルな姿勢で知られるリチャード・ギアらしい作品。とはいっても、かねてから映画において硬派の主張を行ってきたロバート・レッドフォードとは違い、しょせんは「アメリカン・ジゴロ」のギアなので(笑)、まずはオフビートなノリで観客を惹きつけ、徐々にハードなネタに誘導するという作戦をとっている。結果的にそれはある程度成功したといっていいだろう。

 売れっ子のテレビリポーターだった主人公(ギア)は、オンエア中に“真実の報道”を実行した結果クビになり、今ではCATVのチマチマした仕事で糊口を凌いでいる。対してかつての相棒だったカメラマン(テレンス・ハワード)はキー局専属にまでのし上がる。ひょんなことからボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で民族虐殺を行った犯人の行方を知るに及んだ・・・・と、かつてのパートナーに“特ダネ”を持ちかけた主人公は、コネ入社の若手プロデューサー(ジェシー・アイゼンバーグ)を加えた3人で、旧ユーゴの危険地帯へ突撃取材を試みる。

 反体制勢力やCIAといった胡散臭い連中を、これまた大風呂敷を広げて煙に巻きつつ“目標”に向かって突き進む3人の様子は、まさに珍道中で笑いを呼ぶ。だいたい実在の人物である主人公の手記による実録物という体裁を取っていながら、映画のモチーフとして嘘か本当かわからないネタを散りばめているのが実に臭う(爆)。

 しかし、映画のテーマはかなり重い。ここで悪役として槍玉に挙げられているラドヴァン・カラジッチなる実在の政治活動家は、500万ドルの賞金首でありながら米国もNATOも本気で追う気はなく、同じ構図はオサマ・ビン・ラディンについても当てはまる・・・・とされている。そう成らざるを得ない裏の事情が存在するらしい。

 そういった陰謀論めいたものを丸ごと信じてしまうほどこっちは脳天気ではないが、イラクへの対応に代表されるように、アメリカの求心力が陰りを見せていることは明らかな事実であり、これはこれでフィクションとしての存在感はある。最近のアメリカ映画を覆う“政治の季節”なしには考えられない作品であるのは確かだ。

 リチャード・シェパードの演出はテンポはあまり良くないが、主演3人のパフォーマンスでそれをカバーしている。ドキュメンタリー・タッチが光るデビッド・タッターサルの撮影も見事。劇中最も衝撃的だったのが、かつてのサラエボのオリンピックの競技会場が軍の練習場に使われた挙げ句に荒れ果て、今では見る影もない様子が映し出されるところだ。平和の祭典といえども、つまらぬ抗争によっていとも簡単に踏みつけられてしまう現実。今の北京オリンピックを巡る確執にオーバーラップしてしまう。
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「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」

2008-05-17 06:40:31 | 映画の感想(さ行)

 (原題:There Will Be Blood )ポール・トーマス・アンダーソン監督の成長ぶりを如実に示す一作。エンドクレジットで“ロバート・アルトマンに捧ぐ”という一節が出るが、本作はアンダーソン監督が「ブギーナイツ」や「マグノリア」といったアルトマンのエピゴーネンに過ぎないような凡作を手掛けていた頃から完全に一皮剥けて、骨太なドラマツルギーを擁した正攻法の映画作家として歩み出した一本だ。だからこの一文はアルトマンへの敬意はもちろんのこと、彼の模倣との“決別宣言”と捉えて良い。

 20世紀初頭に実在した石油王エドワード・ドヒニーなる人物をモデルにしたアプトン・シンクレアの小説「石油!」を基に描かれた映画。ダニエル・デイ=ルイス扮する主人公ダニエル・プレインビューの凄まじい生き方が画面を圧倒する。

 人生のすべてを石油採掘による金儲けに費やす男。それが“息子”だろうと“弟”だろうと、利用できるものは何でも使い、そして捨てる。一部の評に“プレインビューが本当に家族を欲しいと思っているのかどうか、上手く描けていない”とあるようだが、それは皮相的な感想だ。

 たぶん劇中で主人公が“息子”に対して愛情を示す点や、腹違いの“弟”の面倒を見るくだりが、終盤近くの阿修羅のごときプレインビューの振る舞いと矛盾すると指摘しているのだろうが、脳天気な娯楽映画でもない限り“徹頭徹尾、悪の権化”とか“心の底からの聖人君主”とかいった単純すぎるキャラクターは設定されることはないのだ。

 このプレインビューだって、生身の人間である限り一から十まで石油掘りと金儲けしか考えない亡者ではあり得ない。非情のように見えて実は家族想いであっても一向にかまわない。相反する内面の要素を併せ持つからこそ、年齢と共にどちらかの性質が肥大して一方が弱体化してしまう、そのやるせなさが迫ってくるのである。

 さらに本作は、人間らしいその複雑性を早々に捨て去ってしまった登場人物を主人公と相対する位置にセッティングするという妙技を見せる。それはポール・ダノ演じる若い神父だ。彼は信仰・・・・というよりカルトに身を置くことにより、世間一般の“公”から逸脱した人間だ。プレインビューは彼を忌み嫌っていながら、結局は彼と似たような境遇で人生の黄昏に差し掛かってしまう。

 主人公は自分の一方の内面を体現している神父と最後の“対決”を見せるのだが、その結末の苦々しいこと。以前のポール・トーマス・アンダーソンならば、自分だけを高みに置いたような鼻白む描き方でお茶を濁すところだろうが、本作での目線は登場人物と同等・・・・とは言えないまでも“ちょっと上”ぐらいまでにはシフトダウンしており、切迫度は目を見張るものがある。

 ロバート・エルスウィットのカメラによる、ざらついて奥行きのある映像は見応えがあるが、興味深いのは音楽だ。何とレディオヘッドのジョニー・グリーンウッドが担当しており、現代音楽風のアプローチで画面を盛り上げる。正直言って本物の現代音楽の作家にまかせた方がもっと良い結果になったのかもしれないが、これはこれで健闘していると言って良い。それと、ブラームスのヴァイオリン協奏曲が素晴らしい効果を上げている。

 我が国の「血と骨」に通じるところもあるが、徹底しているという意味で本映画のヴォルテージが圧倒している。ハリウッド作品に慣れた観客には辛い映画だが、見応えはあると思う。
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今野敏「リオ」

2008-05-16 06:34:12 | 読書感想文

 この前読んだ「隠蔽捜査」がなかなか面白かったので、連続して今野敏の作品に接してみた。これも主人公のキャラクターが立っていて、けっこう読ませる。

 連続殺人事件を担当する警部補・樋口顕は40代だが、舞台は95年なので、団塊世代のひとつ下の年代ということになる。彼は全共闘世代が暴れ回った後に大学に入り、ベビーブーマー達がぶっ壊した秩序をひとつひとつ立て直すという難儀な作業を若い頃にイヤというほど体験している。そのため、生活態度はストイックで控えめ。家族を何よりも愛しており、間違っても団塊世代みたいな狼藉は働かないことを信条としている。

 自己主張の強い面々ばかりの警察の現場では不似合いな人材とも言えるが、絶えず空気を読んで波風立てず、粛々と業務に励む様子は上司の信頼も厚い。「隠蔽捜査」の主人公である鼻持ちならないエリート警察官僚(でも実は有能)とは別の意味で、樋口みたいな謹厳実直な人材もどこの組織にも必要であろう。

 そんな彼が関わった事件の重要参考人として、いつも現場に居合わせる女子高生が浮かび上がる。なかなかの美少女である彼女に年甲斐もなく心を動かされる樋口だが、そこは“オレは劣情ばかりに突き動かされる団塊世代とは違うのだ!”とばかりに自らを律するあたりが微笑ましい。だが、無軌道な彼女の親は全共闘の闘士だったことが判明するに及び、ここからも世代論が浮き上がってくるところが玄妙である。樋口の僚友である刑事・氏家も同年代で、彼も団塊世代への微妙な屈託を、樋口とは別の形で体言化している。相変わらず今野は人物描写が上手い。

 この小説を読むまでもなく、団塊世代は戦後日本の鬼っ子であることは明らかで、彼らが世の中を背負う年代になってきた頃から、日本は完全におかしくなったと言って良いだろう。この状態にオトシマエを付けることなく、昨今彼らは定年を迎えて現場を去って行くのだが、その後始末にはあと何十年掛かるか分かったものではない。

 事件捜査そのものにはさほど工夫は凝らされて居らず、真犯人はすぐに判明する。そこが不満といえば不満だが、本格推理小説ではないのでそれも許されよう。なお、本作は以前NHKがドラマ化したことがあったそうで、女子高生役には当時清純派だった(爆)矢田亜希子が扮していたらしい。ちょっと見たい気もする(笑)。
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「ロマンス」

2008-05-15 06:32:47 | 映画の感想(ら行)
 96年作品。地方公務員の安西(ラサール石井)はある日大学時代の友人で不動産事業に野心を燃やす柴田(玉置浩二)と再会。久々に飲み明かす二人は行きつけのバーで霧子(水島かおり)という奔放な女と知り合う。意気投合する3人はまるでティーンエイジャーのように楽しい日々を送るが、すでに若くない彼らは次第に周囲のしがらみにからめ取られていく・・・・。監督は「ナースコール」や「誘惑者」の長崎俊一。

 青春の燃えカスを拾い集め、必死に明るく盛り上がろうとする30代の男女の面白うてやがて悲しき顛末を描くこの作品。監督(当時39歳)の心情を反映した映画であることは間違いが、どうものめりこめなかった(私自身も監督のトシまではいかないまでも、これを観たときはいちおう30代だったのだが)。

 まず第一に、こんな女は嫌いだ。歯科医の夫(内藤剛志)がいながらフラフラと他の男と遊び回り、情緒不安定でしょっちゅう行方をくらまし、行動も一貫性がなく人の都合なんて考えず周囲を混乱に陥れるエキセントリックなキャラクターは、多少顔がきれいでも絶対にお友だちになりたくない。ではなぜ映画はこうも思い入れたっぷりに彼女を追うのか。ズバリ、監督の“オレの女房ってカワイイだろ。いいだろ(水島は監督夫人である)”という下心が無意識に画面にあらわれているからだ(出たぞ、極論 ^^;)。

 第二に、この3人の関係は柴田が大金持ちだという設定がなければ成り立たないことだ。霧子のために別荘に案内し、高原の土地を買ってやり、ビルも買い占める。安西にも高そうなキャバレーで接待し、ホテトル嬢も世話してやる。こうでもしないと“友情”がつなぎ止められない、とでも言わんばかりだ。まぁ、そう思うのは個人の自由だが、こういう奴とも知り合いにはなりたくないね。

 第三に、安西のキャラクターがイマイチ不明確な点だ。石井の演技力不足もあるけど、公務員で趣味に小説書いて、気楽な一人暮らしだが、どういう生活信条を持っているのか全然わからない。単なる狂言廻しにしては画面に出ている時間も多いしね。そして何より、30歳過ぎてまでティーンエイジャーのごとく能天気に遊びたいという主人公たちにはついていけないってこと。無邪気であるより大人でありたい。少なくとも私はそう思う。

 作劇面ではドキュメンタリーのように“引いた”タッチがリアルで興味深く、玉置のアクの強い怪演が活きていたが、中盤以降になると少々飽きてきた。ラストの処理などいかにも思わせぶりだが、私はそれ以後の主人公たちの歩みを見てみたい。真に等身大でリアルな物語が展開する可能性が高いと思うからだ。
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「スルース」

2008-05-14 06:59:32 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Sleuth)これはダメだ。72年に製作されたアンソニー・シェーファーの戯曲の最初の映画化作品は観ておらず、この新作がそれとどう違っているのかは分からないが、とにかくヘタな映画である。

 世捨て人みたいな生活を送る老推理作家と、彼の豪邸にやってきた作家の妻と不倫中の売れない若手役者との虚々実々の駆け引きを3つのパートに分けて描く・・・・と書けば何やら面白そうだが、まず作家が若造俳優に提示する“ある計画”のお粗末さに脱力する。

 相手は自分に敵意を持っていることはミエミエのはずなのに、こういう提案を二つ返事で引き受ける役者のアホさ加減に辟易していると、その計画を実行中にも疑い一つ抱かずにまんまと罠にはまってゆくプロセスには失笑してしまった。第二部の、今度は若手俳優が作家をハメるくだりも、アッという間に底が割れるネタと段取りの拙さに再び失笑。しかも“あり得ないプロット”も挿入されてヴォルテージはさらに低下。さらに第三部では気色の悪い同性愛的ドラマに移行するが、これがまた必然性のまったくない猿芝居だ。ラストなんか作劇を途中で取りやめたとしか思えない醜態。

 前回の映画化で若手役者を演じたマイケル・ケインが作家に扮し、ジュード・ロウが俳優役。出演者はこの二人しかいないため、キャストの責任の重さは推して知るべしだが、逆に言えば演出側がちゃんと手綱を締めていないと、いくらでもオーバーアクトに走る可能性もあるということだ。この点、監督のケネス・ブラナーは失格。出演者に野放図に大仰な芝居をやらせている。

 ブラナーは舞台出身だが、ここでは悪い意味での“演劇臭さ”が充満。いたずらに映像空間が狭いのも気になるが、最悪なのは舞台セットだ。やたら凝ったハイテク仕立ての作家宅がこれ見よがしの仕掛けと共に紹介されるが、そのワザとらしさといったら、見ていて赤面してしまう。こんなものがスクリーン映えすると思っているのならば、作者の感覚は相当古いと言わざるを得ない。上映時間が1時間半と短いのが唯一の救いだ。

 ブラナーはシェークスピア劇の全作を映画化すると公言していなかったっけ。まだ数本しか映画にしていないし、早くしないと間に合わないと思う。こんな冗談みたいな仕事にウツツを抜かしていないで、とっとと「マクベス」や「リア王」なんかを手掛けるべきだと思う。
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